Ungreenhorn can't bleed

針で突けば即座に割れる風船。
それが、この緊張の空気を形容する選択肢の一つだった。
悲しき時計の針と、風船を有していた者。
彼等は対峙し、ただ空間を沈黙に保っていた。
その安定を突き裂いたのは、低い声。
「――遺言はあるか?」
答えは分かっている。
「無いよ」
残せるような意志は、「それ」にはない。
ヴァレンタイン。
「慈悲なき啓示」の落し子であり、目的のために感情を削ぎ落とされた人形。
例え消滅しようとも、源を断たなければ何人も、あるいは何万も何億も出現する可能性のある危険因子。
その危険をなるべく減らすために、レイヴンはバックヤードを練り歩いていた。
実際に見つけたのは、歩き始めてから体感的に何百日も経った今この時である。
ようやく成果が実ったという充実、やっと現れたかという呆れ、主の行いを妨げるという怒りは一切、ない。
胸に存在するのは、日常という苦行を耐えるための虚無だけだ。
渇いた喉が続きを発する。
「『慈悲なき啓示』はどこにいる?」
「お母さんのこと?」
「そうだ」
「知らない。
あなたは、お母さんの邪魔をする人?」
「そうだ」
「んー、そうか。ならあなたは障害だ。ならヴァレンタインが排除しないと。
でも今は駄目だ。体が形成されていない。どうしよう。んー、んー、んー」
右手の人差し指を唇に当てて、ヴァレンタインが首を傾げる。
彼女は形成途中だった。具体的に言えば、まだ体の半分がバックヤードで存在の是非にかけられている。恐らく、今まさに腹部から下の存在の非の可能性を「慈悲なき啓示」が悉く破棄しているのだろう。そしてこれも恐らくだが、それは徒労に終わるのだろう。
――器と魂の形成を同時進行しているのか……、随分と急いでいるな。
思い浮かんだ感想を、報告の間にでも申して主からの意見を乞おうと判断し、レイヴンは枯れ枝の指に装着された細長い針をヴァレンタインに向ける。
すると、彼女は今まで傾げていた首を反対方向に傾げ、奇妙な事を発言した。
「変だな。
私が裸なのに、あなたの鼻から血が出ない」
「……は?」
ぴくり、と全身が不審に震える。針も共に震え、その針先が示す無表情な顔が再び動く。
「『じょうしきてきにかんがえてどばどばでる』のに、何であなたは違うんだろう?」
――まあ、確かに、彼女は裸ではある。
腹部から下が欠けていたり、頭から触覚が生えているという点を加味しなければ、まったく健常な女性の裸体だ。
整えられた顔。赤茶色の髪と合わせのような瞳。柔そうで温かな肌。繊細に創られた首筋と肩。豊かな曲線を描く胸部。
そんな彼女を見て、今日び鼻血を噴くような者はいないだろうが、紅顔する程度の男性は多くいるだろう。
が、あいにくレイヴンには耐性がついている。好んでついた訳ではない。――あの痴女が恥も外聞もなく晒け出すのは、今でも正直止めてもらいたい。「あの御方」に有害過ぎる。
大方の男性諸君には羨ましいビジョンが脳裏によぎる。彼は精神を蝕む病の如き「それ」に対して渋面を作った。
このまま頭を抱えたいが、実体のない精神的害悪よりも目の前の敵をまず先に始末しなくてはいけない。
指が猛禽類の足指と同じ型をとる。銀色の爪は殺意と同質の輝きを照る。
一瞬の静寂。
それを破ったのは、無慈悲にも可愛らしい声だった。
「あなたは何で『おれのよめ』って言わないの?」

今度こそ、レイヴンは頭を抱えた。