90.5+82.5

カップリング要素あり
「似ている」。
それは、自分との共通点を発見する事。――その対象に、自分と同位である「何か」が含まれる事。
思えば、自分に「似ている」と思った人などいなかった。
生来から自分は誰よりも優れ、誰よりも高位な存在であると自負していて、現在でもそう思っている。
例え、「あの御方」のようにとても興味深いことをする人物であろうと、結局腹の底では世界の誰よりも高みに自分がいると思っていた。
傲慢だ、などとは思わない。
当然だからだ。
好きな時に時を超え、全てを観察者として笑える立場に、何一つ欠点などない。
欠点なんて、あるわけないじゃない。



「イノ」
不快な人物が、自分の高名を呼ぶ時ほど怖気が走ることはない。
負の感情をありのまま表現した顔で、イノは発声源であるレイヴンと差し向かう。
疎ましいという感情を仮面越しでも伝える気色が、一層自分の不快の色を濃くしていった。
「『あの御方』から、質問を預かっている。――何故、『背徳の炎』を消そうとした?」
答えの分かりきった質問に、彼女は「当然」といった態度で返答する。
「そのほうが、楽しそうだろ?」
「……貴様は『あの御方』の計画より、卑俗な感情を優先するのか?」
漂う怒気を隠そうともしないレイヴンを嘲り、イノは胸を張って言った。
「『あの御方』だって理解してる。アイツより、アタシのほうがずっと有能だって」
「…………」
呆れて物も言えないレイヴンを、イノは反論の術なき沈黙と受け取ったようだ。尚もまくし立てる。
「いつだってアタシはアイツを殺せるし、アイツは時を超えることもできねえ。
どっちがイイか、っていわれるまでもねえだろ。アイツが消えても、代わりなんていくらでも調達できるんだし……。アイツが消えたら、色々と面白そうじゃねえか。連王の坊やとか、そのガキとかよ。
それに――アタシは、『あの御方』から最も愛されてる女だ。少しくらいのイジワルくらい、許してもらえるだろ?」
「……お前は、」
レイヴンは口を開きかけたが、何かを思ってそれを閉じた。
これまでの怒気や呆れは霧散し、代わりの感情を含んで彼は退く。
それがどういった感情かは、彼女はまだ分かっていなかった。



その件を記憶の隅に追いやってから数日後、イノは任務を受けて現世へ降り立った。
無事に現世に到着した後は、ターゲットを探すために人の多い昼の街の通りで訊きこみを続けていた。しかし地道な作業に飽きが生じてきた彼女は軽薄そうな男の誘いに乗り、今は近くにあった喫茶店でコーヒーの中身を戯れにスプーンで掻き混ぜている。
別に何の意味もない手持ち無沙汰だが、男は少しの話題でも膨らまして彼女の気を「その気」にさせようと話しかけてきた。
「コーヒー、冷ましているのかい?」
「ええ。少し猫舌だから。
でも、熱くて甘いものは食べたいわ。二人っきりで、夜にね……」
「へえ……。んじゃ、今日にでも……食べる?」
「がっついちゃダメよ。女はゆっくり料理しないと」
自分の機嫌を良くしようと懸命になる男を見て、イノは内心でせせら笑う。
――人間風情が、アタシと「ヤれる」とでも思ってんのか?
男はあくまで「食い物」で、宿を手配されても彼女は直前で逃げ去る腹積もりだった。
そんな心情も露知らず、男は話題探しにちろちろと目を動かしていた時、彼は目を丸くして彼女に囁いた。
「なあ、アンタ……、もしかしてカレシとか、いたりする?」
「いないわよ。どうかしたの?」
「こっちを睨んでる男がいるんだよ」
告げて男が指さす先に、
レイヴンがいた。
公衆の面前なので、流石に頭の棘は抜いてきている。服装は「あの男」から借りたのか、上から下までボタンを留めた白衣。その上からは翼を模したいつものマントを羽織っている。
喫茶店において不適当なその姿は、明らかに目立っていた。自分たちのテーブルにケーキを運んできたウェイトレスは、こちらに目を向けずにレイヴンへ視線を注いでいた。
目の前に置かれた水に手もつけず、猫背になってこちらをじーっと見つめるマントと白衣の青ざめた男の姿というのは、とても不気味なものがある。
眉をひくつかせながらも、イノは平常を保って男に向き直り、答える。
「赤の他人よ」
きっぱりと放ったその言葉に安心できない男は、ちらちらレイヴンを見ながら自分の紅茶を啜っていた。
「でもさ、明らかになんか関係ありそうだし。そんでもって、オレ、アイツに心当たりないし」
「アタシの魅力に惚れこんで勝手にストーカーしてるヤツじゃない?」
……シャーッ……。
名前の癖に蛇っぽい威嚇音が、レイヴンの方角から聞こえてくる。
イノの推測で合点がいったのか、男は曇らせた顔を幾分か明るくして話題を切り換えた。
「それで、今度どこ行く?」
「そうね。ショッピングでもしたい気分だわ」
表面上は楽しげな二人をよそに、
「――すみません……、ご注文は……?」
レイヴンのテーブルでは、勇気あるウェイトレスが注文を取っていた。
レイヴンはイノから視線を外さぬまま、敵意のこもった声調で注文する。
「コーヒー。火傷できる程の熱さで。ジョッキでもいいから多めで頼む」
「は、はい。かしこまりました」
妙な注文にウェイトレスがどもる。それを無視し、イノは更に会話を続けた。
「でね、まずはブティックに行って、それからちょっと楽器屋に寄るの。あとは適当にぶらついて、そのあと夕食でなにか美味しいものを食べるの。それで――」
「お、おいおい。ちょっと多すぎねえか? オレの財布事情とかあるし」
「フフ。女を誘ったからには覚悟してると思うけど?
そ・れ・に。夕食の後にはもちろん――ご希望どおりの展開よ」
「そ、それなら! な、今から、ブティックでも……」
「あら、がっついちゃダメよ、ってさっきも言ったじゃない」
「それはそうだけどよ――」
議論する二人だが、その話は遮られた。
――バシャアッ!
男の背中から浴びせかけられたのは、湯気立つコーヒー。
「うぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
悲鳴を上げ、男は床をごろごろと転げ回る。
そこに、レイヴンが足で踏みつける。動きの止まった男を見下げ、凍える程に冷めた言葉を吐いた。
「若造、貢ぐ相手は選べ。
この汚れた狐女を肥やしても、何の見返りもないぞ」
靴のヒール部分に重心をかけ、男が苦悶の声を上げる。
レイヴンが足を離すと、男は仕返しもせず尻尾を巻いて逃げていった。恐らく「敵わない相手」だと判断したのだろう。
去りゆく背中を横目に見やり、レイヴンはため息を吐くとイノと対峙する。
「どういう事だ? よもや、あいつが今回のターゲットだと思ってはいないだろうな?」
「ただのお遊びだよ」
彼女もまたため息を吐き、レイヴンの目の前でぼやいた。
「あーあ。なんだよ、せっかくいい獲物がかかったと思ったのにな。
にしても、てっきりこっちにかけて来んのかと思えば、まさかアイツだけとはな。テメェも、年取ってやっと丸くなったってか?」
「ただの個人的な感情だ」
「あぁら? もしかして、アタシを気づかってくれたの?」
「冗談でも虫酸が走る言葉は止めろ。――ああいう向こう見ずな若造は、苦い過去を思い出させる。とても嫌いだ」
「テメェにも、そんな過去あったのか?」
イノの発言で、レイヴンは墓穴を掘った事に気づく。
それを払拭するため、別の方向へ話題を逸らした。
「……とにかく、早く任務を終わらせてくれ。無駄な時間を食うのは避けるべきだ」
「分かってる。ったく、口うるせぇな……」
面倒臭そうに後頭部を掻き、イノは席を立って店の扉に手をかけ――。
「あの……お客さん」
「なんだよ?」
カウンターのウェイトレスが、営業スマイルを保ったまま言った。
「代金、払って下さい」



「――普通、男のほうが払うべきだろ」
「悪いな。貴様のように遊びほうけるための金など、私は持ち合わせていない」
「ただ単に金も稼げねえんだろ、このヒモ男」
「誰がだ」
「テメェ」
口を休ませる暇もなく、二人は道を歩きながら罵詈雑言を交換していた。
イノが喫茶店で三人分の代金を支払った後、未だ見つからないターゲットを探すために街のあちこちをぶらつき情報収集を行っていた。
が、どうにも落ち着かない。自然に振る舞ってはいるが、訊きこみの際に捕まえた人はひきつった表情をし、まれにそそくさと立ち去っていく。
それによくよく考えれば、周囲から奇異の視線が送られている――。
「なあ、レイヴン」
「どうした?」
と、真っ青な肌をしたマントと白衣の男が返事をする。
「テメェ、その格好どうにかなんねえか?」
「……これの、どこが悪い?」
自覚症状のない言葉に、イノは苛立って強引にレイヴンの手を取る。
「な、何だ?」
「ついて来い! テメェのそのフザけた姿を、アタシが少しでもマシにしてやる!」
「何だと? 『あの御方』は朗らかに笑いながら『問題ない』と仰しゃったが」
「……いいから! 黙って従っとけ、このボンクラがッ!」
とにかく強引に手近な服屋に飛びこみ、やはり店員にも奇異な視線を送られながらイノは手早く服を選んで会計を済ました。
その後、レイヴンを購入した服と共に試着室へブチこみ、着替えるように指示をする。
しばらくしてから、イノはカーテン越しのレイヴンに呼びかけた。
「もういいか?」
「まだだ」
「遅ぇ。ムダな時間食うなとか、言ってたのは誰だろうな?」
「そもそもこの行為自体が無駄な気がするな」
「テメェのその不審な格好じゃ、街中でウワサになってターゲットが離れるかもしれねぇだろ?」
「……頭の中に隠語と罵倒しか入ってないかと思えば、意外とそういう事も考えられるとはな。雀の涙ほどは見直したぞ」
「さっさと着替えろ」
「もう着替えた」
「ならカーテンを開けろ」
イノの指示に従い、レイヴンはカーテンを開けた。
白いシャツに、黒基調のアウター、焦茶色のズボンを革のベルトで締めた、先程よりも随分常識的な格好である。
丈を詰めるような時間もなかったためにズボンの袖が余っているが、手や足を隠すほど長くもないため「こういうファッション」としては通じる程度。
着慣れない感覚に眉をしかめる彼の顔を、イノはいきなり取り出したパフで叩いた。
「いっ、いきなり何だ!」
思わず顔を引くレイヴンに、イノは迫って再び叩く。
「テメェの肌を隠すためだよ! じっとしてな!」
「第一、どこから出したっ?」
「女なら化粧道具くらい持ち歩くモンだ」
言いつつ彼女は粉をレイヴンの顔に塗りたくり、彼はじっとそれに耐えていた。
「……終わったか?」
「まだだ。手ェ出せ」
言われるがまま手をイノに差し出し、レイヴンは未知の儀式を見るように彼女の行為を眺めている。
両手が終わり、やっと解放されると思った彼だが、今度取り出した瓶を見てまだ続くのかと落胆した。
「臭ぇからな。香水で誤魔化しゃいいだろ」
訊いてもいない理由を述べつつ、彼女は瓶に入った液体をレイヴンにかけ、適当に液を広げて馴染ませる。
濃い林檎の匂いで死臭を隠し、ようやく彼女は納得したようにうなずいた。
「これでいいだろ」
「……やっとか」
心底疲れたようにレイヴンがため息を吐き、イノが血色を偽装した左手を再び取った。
「んじゃ、ちょっと寄るところがあるから付き合えよ」
「どこに寄るつもりだ?」
「マレーネの弦がこないだ切れちまったんだ」
そう言ってイノは、レイヴンの目線に合わせるようにマレーネを掲げる。
その内一本の弦が、見事にぷっつりと切れていた。


楽器屋へ行く道すがら、訊きこみを続けた。
レイヴンの格好が大分改善した事で、人から避けられたり会話を拒絶されたりする事がなくなり能率が格段と良くなったが、ターゲットの情報は見つからない。
しかし、見つかったとしてもマレーネは使えず、ターゲットを倒す事に苦労するだろうからかえって好都合だとイノが思う。
実を結ばない作業を続けている間に、目的の楽器屋に到着した。
ショーウィンドウにはギターが並び、それを物珍しそうに眺めて立ち止まるレイヴンを押してドアをくぐる。
ドアがベルを鳴らし、店内に来客があったことを知らせた。
それを迎えたのは店員からの温かな歓迎の声――ではない。
迎えたのは耳をつんざくギターとベースとドラムの三重奏。それに病的なまでに嗄れた重低音のシャウト。
レイヴンが思わず耳を塞ごうとするが、左手はイノのせいで自由になれず、左耳だけ刺激をじかに受けることになった。
苦悶の表情を浮かべる彼に目もくれず、慣れているイノは目的の場所へとすいすい進む。
「さて、多分ここらにあるはずなんだけどよ」
そうつぶやくイノがドラムセットの角から顔を出すと、見覚えのある黒いコートが見えた。
さらに見覚えのある束ねた金髪。鍔広の帽子。そして木刀――。
彼女はそれらを知覚した瞬間、進もうとしたレイヴンを押し止め、ドラムセットの角に慌てて隠れた。
「一体、どうした?」
苦悶に怪訝を混ぜた表情でレイヴンが問い、イノはやかましいBGMの中聞こえるか聞こえないかの微妙な小声でささやく。
「……前にアタシとゴタゴタのあったヤツがいたんだよっ。
穏便に済ますようにって、アタシが『あの御方』から言われてるのは知ってるだろ?」
「まあ……そう聞いたな」
「だから、ここはアイツと認識のないテメェが行け!」
言ってイノがレイヴンの背を無理矢理押し、彼は納得のいかない顔で歩み出す。
「あの棚の一番左だからな!」
イノの命令に逡巡した後、とりあえずイノとゴタゴタがあったという人物を観察する。
目的の棚に男がいる。奇抜な形状のギターを眺め、時には手に取り確認している。どういった人物かは知らないが、とりあえず関るのは避けた方が良い。
なるべく自然に棚へと歩み寄り、その人物から一定の距離を保ってすれ違った。それから棚の一番左に行き、様々な弦があるのを見て迷う。
選んだ弦がイノのギターと合わなければ、わずかながら無駄足を踏む。しかし知識のない自分には判断がつかない――。あごをさすり思考を巡らすレイヴンに、いつの間にか隣に移動した男が横槍を入れた。
「なにを困ってる? できればそこをどいて欲しいんだがな……」
渋い声がBGMの中でも際立ち、レイヴンの耳に届く。
レイヴンは男を睨んだ後、とりあえず男から離れるために適当な弦を手にする。
そして立ち去ろうとした時、物陰から少女が飛び出した。
「――ジョオオオォォォォォォニイイイイイイイイイイイイィィィィィィィィィィィッ!」
「なっ――」
黄色い声とともに少女がレイヴンへ突進をかます。
かわそうとして身をひねるが、脇腹に体がほんの少し触れた。
ほんの少し。しかしそれでもかなりの力がレイヴンにかかり、吹っ飛び、勢いよく倒れこむ。
横になって嬌声を必死に抑えるレイヴンをよそに、少女は男の胸に飛びこんで楽しそうな声を上げる。
「きゃははははっ! ジョニー、ずいぶん探したよー? 勝手にボクからはなれちゃって、迷子にならなかった?」
「迷子は、どっちかっていうとそっちだと思うが……。
それより、そこのボーイに謝ったほうがいいんじゃないか? 見たところ、かなり痛そうにしてるぜ」
「あ、そうだね……。んじゃ、ごめんなさいっ!」
可愛げにぺこりっ、と頭を下げる少女。
レイヴンはそれに頷き、快楽に耐えてなんでもないように振る舞い、イノのもとへ戻った。


幸いにもレイヴンの選んだ弦はマレーネと合ったようだった。
しばらく建物の陰で弦の調整を行った後、再び訊きこみに戻る。
地道な作業に嫌気が差すイノだが、彼女に比べて根気強いレイヴンがフォローをし、今では逆に彼がイノの手を取って訊きこみをしている。
「――そこの男」
「え……俺ですか?」
何十人にもかけたその声に、茶髪の男が振り向いた。
レイヴンは紙を突き出し、紙に描かれたターゲットの絵を指さす。
「こういった姿をした者を見なかったか?」
「えーっと、見たことがあるような気がします」
「それは、どこで見かけた?」
「うーん、あまり覚えてないです。
俺、突然意識不明になったり、体が勝手に動いたりする病気を患ってまして……その人と会う前、意識がない間に勝手に動いていたので、どこに行ってその人と会ったかはよく分かりません」
「そうか」
落胆はせず、当たり前のように受け流してレイヴンが背を向ける。
その背に、男が声をかけ返した。
「あ。そうだ、こちらからも質問いいですか?」
「……何だ?」
「あの、ファウスト先生を知りませんか?
紙袋を頭にかぶった、とても背の高い人らしいんです」
「それは……確か、会った事がある」
「ど、どこで会いましたか!?」
餌に食いつく魚のように、男はレイヴンに縋りつく。彼はその勢いに少しばかり身を退いた。
「……地図には載っていないが、ドラッグド・タウンという所だった。
ロンドンの近くにある。地理に詳しい輩に訊けば、恐らく辿り着けるだろう。が――」
「そうですか、ありがとうございます!」
言うが早いか、男は脱兎のごとくレイヴンから遠ざかり、すぐさまその影は雑踏に紛れた。
「――もう無いのだが、な」
男の性急さに呆れ顔でいるレイヴンの気を惹くため、イノは指で肩を刺す。
レイヴンはそのわずかな接触でも顔を大いにしかめ、彼女に向き直った。
「なあ……この任務、テメェだけでいいだろ?」
「良くない。貴様がまた遊びに行くだろうからな」
「チッ、なんだよ。どっちがヤったって、同じ結果じゃねぇか」
「……とにかく、この任務は貴様が完遂しなければならないんだっ」
自分勝手なことはともかく、正しくはあるイノの言葉にレイヴンは苦い顔を彼女から背ける。
そして、背けた顔が向いた先には人だかりがあった。
レイヴンはそちらを見ながら、イノに命令する。
「あちらで訊きこみをするぞ。貴様もやれ」
「ああ、分かったよ」
イノは唾を道に吐き捨て、二人はその人だかりに近づく。
人々の歓声や拍手の声に紛れ、レイヴンの耳に届いたのは聞き覚えのある声だった。
「――さあさ、これから皆様にお見せするのは、華麗な扇の演舞に御座い!
ジャパニーズの扇を存ぜぬという御方々は、これを契機にその美を知り得て頂きたく候!」
朗々と辺りに響く口上に、イノが気づくと人だかりを踏み越えた。
ギターを構え、空中に足場を成し、人だかりの中心地に殴りこむ。
そこにいるのは、ジャパニーズ風の衣装を纏った、露出度の多い男――。
――ギャッ!
イノはその姿を捉えた刹那、パワーコードを乱暴に弾き、生じた法力で道路の一部を虚無に還した。
男の近くでそれが起こったにも関わらず、当の男は扇で顔を仰いで口笛を吹く。
「おっと、いつぞやの楽師さんじゃねえか。元気してたか?」
「うっせえ! この脳味噌筋肉!
あの時、アタシを凍結させやがって……ッ! テメェをミンチにして焼いて、カラスに食わせてやるよ!」
「それは願い下げだな」
人ごみを掻き分け、現れたレイヴンが反対する。
イノと比べれば随分と静かだが、レイヴンにも彼女と違う事情でその男を恨んでいた。
「『あの御方』の下に仕えるという栄誉を蹴り、安穏と各地を行脚するとは、随分と良い身分だな……御津闇慈」
「おっ、まだ名前覚えてくれてたのか? いやー嬉しいかぎりで」
はっはっはっ、と笑いつつ、閉じた扇で頭を叩くひょうきんな仕草をとる闇慈だが、場の雰囲気は悪くなっていく。
争いの気配が色濃くなる中で、子供連れはそそくさと立ち去り、野次馬に徹する人々は被害に遭わない距離まで後退した。
一触即発。
その空気に割って入ったのは、桃色の髪をした女だった。
「おい、闇慈。説明しやがれ」
と、飄々とした態度を崩さない闇慈に、初めて脅えた表情が浮かんだ。
「あ、姐さん……」
「聞いてたぜ。テメェ、『あの男』とつるんでやがったのか?」
「いや、姐さん! ちょっと落ち着こうか!
って、いつの間にか刀抜いてる!? 俺、斬られる!?」
「四の五の言わずに吐け。俺はな、嘘をつく男と、しゃっきりしねぇ男が嫌いだ。
つまり、今のテメェが大嫌いだ」
殺意を漂わせ、女が闇慈に近づく。
闇慈はどうしたものかと頭を巡らせていたが、頭をぐしゃりと掻いた後、腹をくくって扇を開いた。
「姐さん! 御免!」
「あぁ?」
女が反応するより前に、闇慈が扇を巨大化させ、自分たちを周囲の視線から隠し――。
消えた。
「待ちやがれっ!」
イノが叫ぶが、声はもう二人には届かない。
彼女は不機嫌そうに地面を蹴り、周囲を見やる。
予想通り――あるいは期待通りの結果にはならず、野次馬になっていた人々は散り散りに去っていった。
レイヴンは不機嫌な表情をなんとか殺し、イノの手を引きつぶやいた。
「任務に戻るぞ。――あのジャパニーズを仕留めるのは後だ」



そして夕方。
ターゲットの姿はおろか目撃情報もつかめないまま、空きっ腹を抱えたイノはレイヴンに提案した。
「なあ……。
今度、あの店で訊ねたらどうだ? もしかしたら、店ン中に知ってるヤツがいるかもしれねえし」
真面目な体裁は保っている発言に、レイヴンはうなずく。
「そうだな」
二人は件の店の扉を開き、店員の歓迎の声を浴びた。
「いらっしゃいませー! 二名様ですね――あーっ!」
いきなり甲高い声に射貫かれて硬直する二人に、店員はイノに近づき輝く瞳を向けて言った。
「紅い楽師のお姉さんですね! もしかして、ウチといっしょに芸人になりにきたんですか!?」
「ええ!? いや……そういうつもりじゃなくって……」
「――コラーッ! ブリジット、お客サンをちゃんと案内するアルヨ!」
戸惑うイノを救うように、店の奥から店員――ブリジットに対する怒声が聞こえる。
「あっ、ごめんなさいジャムさん! ……えと、一名様と美形さん入りまーす!」
「は?」
ブリジットから発せられた言葉の内容に困惑するレイヴン。
「美形アルカーッ!?」
しかし、店の奥から飛び出してきた女が、更に彼を困惑の渦に落としこむ。
女は彼を舐め回すように眺め、渋い顔をした後メモ帳のような物を取り出し中に字を書き独り呟く。
「カイ様より……ランクは随分下アルガ……ギリギリ及第点……アル……」
「……私が言うのもなんだが、客に対して失礼じゃあないか? その発言は」
「盗み聞きはよくないアルヨー」
「いや、普通にしていても聞ける音量だったぞ」
「ねえ、ブリジットちゃん。生龍焼っていうの、一つちょうだい」
「『ちゃん』はつけないで下さいよー。お姉さんがウチと芸人になってくれたら一割引にしてあげますよ?」
「そういうのは聞かないコトにするのが礼儀アル」
「そんな自分勝手な礼儀など聞いた事がない。ここの従業員は仕事に私情を割りこませるのか?」
「あら、意外とセコいわね。無料とか、そういう気前のいいトコ見せてくれないとねえ」
「私情じゃないアルヨ。全てはお店のため、美形のボーイ登用で女性の客足伸びるネ。コレビジネスヨ」
「だったら、ウチの給料返上して無料です! これで相方になってくれますよね?」
「随分と悪どいビジネスだな」
「じゃ、お金払うからポテトラーメン一つ。相方になるほど、アタシには時間がないのよ」
「悪どくないネ。ちゃんと給料払ってるアルヨ」
「むー……。はい、分かりました。ポテトラーメンですね」
「そういう問題じゃあない……」
「しかも時給1030圓アル!」
「だから――、もういいっ。イノ、こんな違法まがいの所だとろくな情報は得られないだろう。他を当たるぞ」
「アァ?」
イノの方を見ると、席に着いてすっかり食事の時間に浸っている。
彼女はしかめっ面でレイヴンを睨み、イスに深く腰かけてから言った。
「まだポテトラーメン来てねえぞ」
「……貴様っ」
「ま、いいじゃねえか。腹減ったんだし、腹減っても死なねぇ不死者のテメェは一人で訊きこみでもしてろよ。アタシはここでゆっくり食事をとってるしさ」
「はい、ポテトラーメンですー」
「あら。思ったより早いのね」
「早く・安く・旨くがモットーですから」
怒り顔のレイヴンをよそにポテトラーメンを頬張るイノに見切りをつけ、とりあえず手近な紗夢に向き直り訊きこみを開始する。
「訊きたい事があるが、いいか?」
「ン? なにアルカ?」
「金髪で、背丈が178cmくらいの聖騎士団員姿の人物を見た事があるか? その人物から金属音が聞こえたり、煙を吐き出したりしていれば、特に教えて欲しい」
「ソレ、アッチにいるやつネ」
「……馬鹿を言え。散々探したやつがそう簡単にいる訳がない」
レイヴンが頭を振り、紗夢から更に聞き出そうとしたその時。
「――化学えねるぎーカラ電気えねるぎーニ変換完了! へらくれすえんじん全開! 今ノワシナラ、アノ芋面ニモ勝テル! ……ハズ!」
不審な声が、店内から聞こえた。
発声源に目を向けると、そこには金髪で背丈が178cmくらいの聖騎士団員姿の人物。
ギギギ、と金属音を立てながら、ブシュー、と煙を吐きながら、口らしき部品につまようじを当てている。
「貴様はっ!」
レイヴンの声に驚いたそれ――ロボカイは、「ゲゲッ!?」と声を出して周囲を見る。
「ナニー!? イツノ間ニヤラ、危険度Sらんく判定ヲ受ケタヤツガ二人モイルデハナイカ!
コレハイカン! 轍鮒ノ急トハマサニコノコトダ!」
言って、ロボカイは身を翻すと、窓に飛びこみガラスを砕きながら逃げ出した。
「待てっ!」「逃がすかっ!」
イノとレイヴンはすぐさま後を追い、ロボカイが割った窓から追跡する。
「ああっ! 代金、まだ払ってないアルヨー!」
窓から紗夢が嘆きの声を上げるが、その肩を叩いたブリジットが慰めた。
「大丈夫です。ウチの給料から天引きして下さい」
「……いいアルカ?」
「はい。その代わり、あのお姉さんは、ぜーったい、ウチの相方にするんですから」


目尻から入る景色は、街を彩る賑やかな色から森の味気ない色へと変わっていく。
店から出てだいぶ走ったものの、追う者と追われる者、二つの影の走りに陰りは見えなかった。
ロボカイが行く手を阻む茂みを封雷剣の模造品で切り拓きながら背後を見ると、駆けるイノが相変わらずそこにいる。
「マダ追ッカケルカ。マルデ芋面ヲ追ウ駄目おりじなるノヨウ」
「へんっ、ほざいてろっ! もうすぐテメェをスクラップにしてやる!」
必死の形相でイノがロボカイを猛追する。
「ソレニシテモ、ナゼワシガ追ワレナケレバナランノダ? ワシハ善良ナ一般市ろぼ、悪イコトナンテシテナイゾ。信ジテ先生!」
「誰だっ。それに、身に覚えがあるだろうがっ!
テメェが数日前、アタシが消滅させる前のブラックテックを解析してただろうがッ!」
「ナヌッ!? アノがらくたハソンナ大層ナモノダッタノカ!?」
「とにかく、運が悪かったな! 鉄クズは鉄クズらしく、サビて埋もれろ!」
ギターを構えつつ、イノが脅迫する。
しかし、ロボカイはその脅迫にも関わらず、場違いな余裕を見せていた。
「フッフッフッ。ダガ、ワシニハ最終兵器ガアル」
「何ぃ?」
不敵に笑うロボカイに警戒し、イノが一瞬足を緩める。
その隙を突き、ロボカイは頭から奇妙な部品を出すと、その部品が開いて三枚の羽になり、ヘリコプターのように回り始めた。
「コレガ科学ノ力ダ!」
ギコギコとペダルを漕いでロボカイは宙に舞い、イノの手が届かない高度まで上がると高笑いをし、悦に浸った。
「ヌハハハハハハ! 人間風情ハココマデ来レマイ!
オニサンコチラー! 手ノナルホウヘー!」
「――ならばその言葉に甘えて、来てやろう」
「ヌ?」
上空から聞こえた声に向くと、そこには空間転移で先回りをしていたレイヴンがいた。
「食らえッ!」
踵を捻りながらロボカイの頭頂を蹴りつけ、
「クルヌギァー!」
と悲鳴を上げながらロボカイが墜落する。
見事に不時着するロボカイの上にレイヴンが降り、踏みつけたまま冷たく告げた。
「さて、哀れなる木偶人形よ。言い残す事はあるか?」
「ウ、ウグゥ……。ソノ前ニ、足ヲドケロ……」
「そうか。それが遺言か」
レイヴンが冷酷に吐き捨て、金属すら破壊する超高圧の大気を集わせる。が――。
「――ギギィー!」
離れた茂みから、量産型のロボカイが出てきた。
「……何だ。人形が一体増えようと、あまり関係がないな」
つまらなそうに鼻を鳴らすレイヴン。だが、イノは冷静に分析した。
「レイヴン、違ぇぞ。次々にこっちにきてる音がする」
「何?」
警戒を強める二人の様子を見て、ロボカイは高らかに解説を始める。
「クハハハハーッ!
遅イ、遅イワァッ! ワシガ一体デモぴんちニ陥ルト、近クノ仲間ニ助ケヲ呼ブ信号ガ自動的ニ発セラレルノダ!
ワシノ計測器ニヨレバ、オヨソ五十体! イクラSらんくトイエドモ、コレダケノ相手ヲスルノハ容易デハナイダロウ!」
「容易だな」「容易だろ」
「……エッ?」
意外とあっさりとした反応に、ロボカイはきょとんと立ちつくす。
そうしている間にも、茂みから量産型ロボカイが飛び出してくる。
それに、イノはギターの弦に指をかけ、レイヴンは手刀の構えをし、二人は互いの背を預け、周囲を取り囲む量産型ロボカイと激突する!


その激突は、わずか数分で終わった。
周囲には量産型ロボカイの残骸。
音譜の形をした空洞を胸に残すもの。胴を鋭く両断されたもの。様々なものがあるが、どれも再起不能なまでに破壊されたことは素人目にも分かる。
そして、死屍累々ならぬ機器累々の光景の中、
「ゴメンナサイ」
土下座するロボカイがいた。
仁王立ちになっている二人の足元の近くまで頭を下げ、何度も体を上下させて謝罪の意を示す。
「ホント、スンマセンデシタ。調子コキマシタスミマセン。ダカラ、トリアエズコノ場カラ離脱サセテ下サイ」
「断る」
イノの冷酷な拒否。
「反省ハシテイルガ、後悔モシテイル。早ク家ニ帰ラセテ下サイ。家ニハ母サンガ……母サンガこたつデ寝コンデイルンデス!」
「断る」
レイヴンの冷淡な否定。
その二人の反応を聞くと、ロボカイは地に伏して滂沱する。
「ウワーン! 幼気ナワシニ同情モシテクレナイトハ……貴様ラ、血モ涙モおいるモナイノカッ!」
「ねぇな」
「ウウ……ワシノ命運モココデツキルノカ……」
目からオイルを垂らし、ロボカイは起き上がり――。
『状況分析中。Sランクと接触中。勝率算出中。勝率3パーセント。逃亡不可。
――情報漏洩防止のため、緊急自爆プログラム作動します』
「エ?」
ロボカイが首をかしげ、自分の中から発せられる無慈悲な情報を処理しようとし、フリーズする。
「自爆?」
イノが思いっきり嫌そうな顔をし、レイヴンと顔を合わせる。
彼もまた彼女と同じような顔をして、イノの手を握った。
「――逃げるぞ」
手を思いっきり握り返して答える。
「言われなくても、分かってるよ!」
そう言って駆け出そうとする二人。
しかし、その足にロボカイがひっしと縋りついた。
「ワシヲ一人ニシナイデー!」
「うっせえ! テメェのせいだろうが!」
イノがロボカイの頭をげしげしと蹴りつける。が、固い感触がブーツの裏に反射するだけだ。
「早くそいつを振り解け、イノ! 出来なければ私の手を離せ!」
「テメェも手伝えよ! 男なら女を助けてナンボだろうが!」
「死ナバモロトモー!」
そうする間にも、スピーカーから発せられる声はカウントダウンを開始する。
『5……4……3……2……1……』
「ちょっ、助けっ――」
誰かがそう呟き――、
『0』



――いつもは静かな郊外の森に、爆音が響き渡った。



現世からバックヤードへの移行は、問題なく完了した。
「苦労をかけたね、二人とも」
「あの男」からかけられるねぎらいの言葉にすぐさまレイヴンが反応し、膝を着き、頭を垂れて返答する。
「御心遣い、感謝致します。
あのような用事であれば、いつでも私めを御呼び下さい」
「ああ、分かった」
満足そうに「あの男」がうなずき、叩頭する彼から目を離してイノと向き合った。
「イノも、――真面目に任務をこなしてくれたのか?」
「ええ、勿論です」
満面の笑みで返す彼女に、「あの男」は少し戸惑った挙動を見せつつも平静を努める。
「そう、か。それは、良かった」
舌の回らない返事をした後、逡巡の間を取ってから「あの男」が話す。
「ご苦労様。じゃあ、僕はこれから取りかかりたいことがあるから、二人は自分の部屋へ戻ってもいいよ」
『承知致しました』
二人は意図せず言葉を合わせ、それに気づいて互いを睨み合った。
「あの男」が静止の声をかけようとするも、睨み合いながら早足で退出する。
そうして視界から消え去った直後、廊下を響かせて耳に入ったのは、相変わらずの口論だった。
『――テメェ! アタシの足蹴るんじゃねえ!』
『――貴様が私の前に立つからだろうが!』
いつもなら頭痛の種であろうそれに、
「……まあ、このままでもいいだろうね」
「あの男」は、幸せそうに顔を和らげた。


















目蓋は躊躇もなく開け放たれた。
体に残る疲労感から鑑みるに、まだ充分な睡眠時間を摂っていない。
しかし、意識は覚醒していた。ベッド上で寝返りを打ってもしっくりと来ず、ますます睡魔の誘いが遠ざかる。
「……あー、クソッ」
髪をぐしゃりとひん曲げ、イノはベッドから勢いよく起き上がった。
バックヤード内のどこかにある建物。
そこは「あの男」の生活空間であり、「計画」に対する研究施設であり、「慈悲なき啓示」に関する観測施設であり、ギアたちの収容施設であり、――多くの目的を包括する建物だ。
そしてその目的の中には、側近を傍に仕えさせるための空間提供の場でもある。
建物内にあるイノの部屋。
彼女はその部屋から抜け出し、暗い廊下に法力の光を灯す。
眠気を呼び戻すために、適当にぶらつこうか――。そう思った矢先、少し開けられたドアから、光が漏れ出していた。
「あの男」の部屋だ。
そう記憶を呼び起こすと、イノは「あの男」を誘惑して暇を潰そうと目論み、ドアに手をかけた。
「――イノ、か」
姿を現す前から声をかけられ、彼女が思わずぴくりと震える。
が、続く会話に、どうやら自分を呼びかけたのではないと察せられた。
「彼女は、確かに素晴らしい特技を持っている。それに頼らざるを得ない時もある。
だが、彼女は暴走してしまう時がある両刃の剣だ。……ヴァレンタインも発生するこの時期は、あまり危険な事はしたくない」
「左様で」
仮面のせいでくぐもっている短い言葉は、レイヴンの声で紡がれていた。
イノは自分が話題に上がっている事に眉をひそめ、そのままドアの近くで会話を盗聴する。
「イノはどうにも僕の思惑から離れたがる。彼女の行動は、流石に僕でも理解し切れていない。
これ以上自分勝手にするようなら、凍結をしようと。今回の任務は、そう思って下した」
一体、何の事だ? 疑問がイノの胸に広がり、ドアにかかる手が思わず力む。
そして「あの男」が発した言葉は、彼女に精神的な衝撃を与えた。
「任務の成果自体は、どうでもいいんだ。
ただ、彼女が僕にどれだけ忠実に動いてくれるかの『テスト』。これを失敗したならば、凍結を行おうと思った」
――忠実に動いてくれるかの、『テスト』。
イノはその言葉を聞き、ざっと血の気が引いた。
自分は任務に真剣に取り組まず、レイヴンに任せてばかりいた。自分の働きといえば、せいぜい量産型ロボカイを破壊した程度だ。
手が震え始めた。聞きたくない、と思っても、体が鉛のように重い。
「彼女は、任務自体は成功した。けれど、それは果たして彼女の成果なのか?
……レイヴン。これについて、君の報告が聞きたい」
――ギィッ。
イノがドアにかけた力は、わずかにドアをきしませて。
その音は彼女の心臓を大きく跳ねさせた。
「あ……」
その音に気づいた「あの男」とレイヴンは、ドアへと――凍結か否かの話題にしていたイノへと顔を向ける。


ドアから覗く彼女の顔は、叱られる直前の子供のように怯えていた。


「……ッ!」
イノはすぐさまドアから手を離し、廊下にブーツの響きを満たしながら遠ざかる。
それを見たレイヴンの体が動く。が、動いただけだった。
身じろぎのような震えが走り、追いかけようとする体を留め、意志を「あの男」に繋ぎ止める。
「続けてくれ」
その言葉に従い、レイヴンが口を開く。
「任務は、」
一瞬の躊躇が挿入される。
「任務は、イノの成果ではありません」――。
それが事実だった。そう言おうとした。
しかし、彼女の去り際の顔が思い浮かび、何かがレイヴンの口を固まらせる。
主はその様子を、ただじっと見ている。
言うべきだ。早く。と急かす頭の声に後押しされ、レイヴンは口を無意識に動かした。
「イノの成果です」
自分で言った言葉に、自分自身が驚いた。
唖然とするレイヴンを、ただひたすらじっと見る「あの男」。
もしかしたら嘘を見透かされたのかもしれないと思い、慌てて言い繕うとしたその時、「あの男」は笑い始めた。
最初はくつくつと、その後は段階的に声を高く、長く響かせ、ついには大笑いにまで至った。
だいぶ時間が経った後、「あの男」は笑い涙を拭いてから、目を丸くするレイヴンに話しかけた。
「ああ、分かった、分かった。
『そういう事にしておこう』。さあ、下がっていいよ」
「あの男」から許しを下され、レイヴンは戸惑ったように一礼した後、急いで去って行った。
足は、イノが逃げて行った方向に向いていた。


どれくらい走ったのだろうか。息が荒く、足は震える。全身が疲労を訴えている。
廊下の角を曲がったところで、足が崩れて倒れこんだ。
痛みに顔をしかめ、立ち上がろうとする。腕を床に垂直に伸ばすが、肘が折れて再び倒れた。
何度もそれを繰り返し、涙を溜めこんだ目蓋から雫がしたたる。
立ち上がる気力すら消え、そのまま床に伏せていた。
……「あの御方」は、アタシを愛していなかったのか……?
自分は美貌を誇っていた。その美貌に誘われた男を食った数は底知れない。
そんな自分を「あの御方」が愛さない訳がないと驕っていた。
しかし、その驕りは最早崩された。
自分と、他の側近の最たる違いのはずだった。それを鼻にかけて、奴等を見下していた――。
「イノ」
いつの間にか追いついたレイヴンが、彼女の名前を呼んだ。
彼女はびくりと怯え、首を回して彼を見る。
それから彼女が吐いたのは、平常驕っていた彼女にとっては滅多に聞けない自嘲だった。
「……アタシは……バカだ。
『あの御方』に愛されてもいないのにそう言い張って……『あの御方』に嫌われているのに寄り添って……、それを分かってるテメェに、その勘違いを自慢した、バカだ。
テメェのその仮面の下で、アタシのコト笑ってんだろ……? 笑えよ……いっそ笑え。そのほうが道化にはお似合いだよ」
それだけを言うと、彼女は首を正面に向け、ひたすらに泣きじゃくる。
レイヴンは笑わなかった。ただ、脆弱な彼女を見つめ、かける言葉に迷っていた。
そして、ようやく言葉が見つかる。
「お前に指図される謂れはない。
私は笑わん。お前の思う通りの振る舞いをする事は、不快だ。
そして、私はお前が嫌いだ。私が嫌いなお前が嫌う事は、私にとって喜ばしい事だ」
そう言いつつ、レイヴンが彼女に近づく。
イノは彼の言葉から推測し、暴力を振るわれると思い体を縮こませる。
頭を抱え、足を折り畳む。みじめな体勢を取り、イノは彼の行動を待った。
殴られるか、蹴られるか、踏まれるか斬られるか。いくつもの想像が頭の中で渦巻き、恐れを抱く。
時間が長く感じる。彼がイノの身に触れた。イノは一際大きく震え、目蓋を固く閉ざした。
そして、イノの体が床から離れる。
その現象はイノの思い描いていたいくつもの想像の何にも該当せず、訝しんで目蓋を開ける。
間近に彼の仮面があった。
「なっ……?」
驚き声を上げ、状況が把握できず混乱する。情報を得るために目を巡らすと、自分がレイヴンに抱きかかえられているのだと知れた。
訳が分からない。目を再び仮面に戻すと、彼は苦々しげに囁く。
「お前は、私に触れられる事が嫌いだ。それに、私に借りを作るのも嫌いだ。
私はお前が嫌がる事なら、自ら進んでやってやる。――それが、私にとっても嫌な事でもな」
言い訳がましい説明をし、レイヴンが歩き始める。振動が揺り籠のように心地良くイノを揺らす。
彼女は少し微笑んで、彼の腕に自分の腕を絡ませた。
「……やめろ」
本当に嫌そうにレイヴンが抵抗し、イノは更に微笑みを強めて言う。
「アタシも、テメェと同じだ。
テメェが嫌がるコトだったら、アタシが嫌でもヤってやる。
どうだ、嫌だろ? テメェが地面に頭こすりつけてオネガイすればやめてもいいけどな」
「……このっ」
絡まれたレイヴンの腕が、ぴくりと動く。殴ろうとしていたのだろうが、あいにく両腕はイノの体を支えることで一杯だ。
小さく悪態を吐き、彼はそのまま進んで行く。
彼女は彼の腕の中で、ゆっくりと眠りに落ちていった。