生きている芋虫

過去捏造描写あり
レイヴンはその日も変わらず、自虐によって喘いでいた。

痛み。
肉を断ち切る痛み。
骨が潰れる痛み。
喉が塞がれる痛み。
致命的な、痛み。

おびただしい血と狂喜的な嬌声が流れる中、レイヴンは更なる痛みを求めて手を伸ばす。

刃物から鈍器、果ては断頭台(リヒトブロック)まで。

その全てを、己の欲望を満たす為に使い、只只管に高まり続ける。

他者から見れば、己で己を傷つける滑稽な姿に、目と口を覆う事だろう。

だが、その事に気を回せない程に、レイヴンは必死に快楽を享受し続けた。


「狂っている」と、言われるだろう。
しかし、何百と時を踏み潰した「人間」が、狂わずにいられるだろうか。


人間の精神構造はどこまで行っても人間である。

例えば人間の精神を鼠に移し替えたとして、果たして数年の命を充分に満喫できるだろうか。

鼠そのものであれば、数年で終えられる運命を、本能で知っている。
しかし、人間は数十年と生きられる。
どれだけ忙しなく動こうとも、短命の運命を受け入れ難いだろう。

変わって、精神を壊れ得ぬ機械人形(アンドロイド)に移し替えたとしたら。
不老不死のその身に、多くの人間は仮初の歓喜を得る事となる。

そこで、ここに一握の小説があるとしよう。
それは多くの人間により絶賛されたものであり、事実、初めて見た時は雷に撃たれたようだった。

これが、千冊あったとしよう。
通常の人間ならば、一生の中で読める本としては充分過ぎる量であろう。

それが、千年の時を経ても存在する機械人形(アンドロイド)が読むとしよう。
その享楽は、機械人形(アンドロイド)の一生を満たすに充分なものだろうか?

……己の感覚を満たす事ができない既存物に対する感情を、人間は「飽きる」と称した。
では、何かに飽きたその先に、人間は何を求めるだろうか?

それで満たされなければ、他の何かで満たすしかない。
それが、人間の正常な心理作用である。


ならば、五感全てに飽きたその先に――痛覚に救いを求めたと理解すれば、
彼を差して、ただ単に「狂っている」という感覚を抱くだろうか。
全てに絶望した先の、脆い糸に縋りついて、何がおかしいと言うのだろうか。


享楽の果て。
凄惨な血と肉の部屋の中。

ある朝、レイヴンがなにか気がかりな夢から目を醒ますと、自分が痛みを感じずにいるのを発見した。

恐る恐る、常に針が刺さっている頭に触れた。
生物には不適な、金属の感触。

それが明らかに頭部を貫通しているというのに、レイヴンの頭はずきりとも痛まなかった。

最初に、それを現実であるか疑った。
これはまだ夢ではないかと、そうであって欲しいと願った。

次に、誰にも向けられない憤怒を抱いた。
何故、突然に痛覚は絶たれたのか。唯一の救いすら奪われた事に対して呪詛を叫んだ。

最後に、ゆるやかに絶望へと堕ちていった。
心臓の底が奈落へ抜けたように、全身の血の気が引くのを感じた。

レイヴンの心が黒い霧に染まりつつある中、
彼は、閉じられたカーテンから光が漏れ出ているのを見た。

その隙間から覗く空は、彼の不幸を祝福していた。

レイヴンは呆、とした様子で、しばらくそのままそこに居た。
だが、何の刺激もない己の身が何より歯痒く、彼は渋々歩き出す。

己の身を隠していた建造物から、外へ。
幽鬼と化した彼は、自分の立場すらも忘我してひたすら歩く。

ざし、ざしと。
足が落ち葉を踏む感覚。
さん、さんと。
日が身を温もらす感覚。
だが、こんな感覚は何百年と経験している。

彼がひたすら歩き続けていく中で、新鮮味のない外に一切の気を払わず、思考は過去へと逆行した。



この不死の牢獄に囚われたのは、いつだっただろうか。

それは、人類史で言う所の中世だったはずだ。

かつて若い頃は、己の不老不死を受け入れていた。
何しろ、誰しもが抱く死への畏怖を拭い去ってくれたからだ。

最大の恐怖をものともしない若人が、そこにあった。

彼は意気揚々と様々な事に手を染めた。
今のレイヴンから見れば、首輪なき獣のようで愚かしい行為であった。

暴食にかまける。
賭博に興じる。
酒と共に夜を明かす。
女を抱く。
財産を肥やす。
眠り果てる。

その時に求めた事をそのままに、青二才はただこの世を謳歌していた。
しかし、その行為への喜びは、重ねる毎に摩耗していき、ついには何も感じられないようになった。

そうなると、彼はまだ見ぬ感覚を求め、かつて何の興味も抱いてなかった分野にすら手を伸ばす。
善行も悪行も芸術も音楽も景観も運動も創作も稼業も学問も哲学も、矢継ぎ早に彼を満たしては、十年もすれば飽きを抱いた。

何も自分を永遠に満たしてはくれない。
自分は永遠の存在であるというのに。

レイヴンが感じ得る愉悦がこの世から無くなっていくと、彼の不死への優越は次第に憂慮へと変貌していった。

そうなると、彼は新しい「何か」を求めるようになった。
だがいつだろうか。長命の彼に提供されるものは、どれも過去の類似品だと気づいてしまった。

歴史は繰り返される。
人間はたかが数十年の命であり、そして人間はそれほど逸脱しない。
今目の前にいる若者が流行りのチェスに興じる光景に、数十年前の既視感を覚えるようになっていた。

退屈が精神を蝕む中、彼は、死を考える。

どことも知れない森の中。
初めて自ら首に縄を巻いた時は、全身が怯えていた。
それでもなお、生き続けるという拷問から逃れる為に地を離れた時、息のできない苦しみと強烈な後悔が彼を襲った。

嫌だ。
死ねないのは嫌だ。
しかし、こんなにも苦しいのは、嫌だ。
誰か、助けてくれ。

喉は子鴉の鳴き声しか出さない。
全身は生命の危機を訴え、彼の不本意な生存本能に鞭を打った。

吊られた男はばたばたと足掻くと、狩りをしていた老人により、縄を切られて救われた。
不死者(イモータル)の自分よりずっと年下の老人に、まだ若いのに、人生は短いのだからと、無自覚な皮肉を叱咤された。
つまり、初めての試みは失敗に終わった。

自殺に懲りたレイヴンは、またこの世界にある残り少ない楽しみを、一つ一つ消費していった。
それでもやはり、死ななければと考えては、不死の身故に失敗し、その度に道楽へと逃げ帰っていった。

しかし、何度目かの事だった。

この世の全てに絶望を抱いていたレイヴンは、川の中へと沈んだ。
そして、数多く顔を合わせた苦痛に対し、真正面から考えた。

痛みとは何か?
それは、嫌悪するものか?

生物が生存本能を抱く以上、死の暗喩である痛みは忌避するものである。
それが常人の共通見解であり、まだ正常であったレイヴンの考えだった。

そして死ぬならば、痛いのは当然である。
死を求めていながら、何故痛みは求めない?
――嫌だからに決まっている。

苦痛が彼を責める中、やがて彼は狂い始めた。

果たして、苦痛という感覚は、求めるに値しないものなのだろうか?

ひたすら体を責める苦痛が、彼の既存の考えを次第に洗い流し奪い去っていく。

苦痛。それを受けた時、常人は逃れようとしか思えない。
しかし、何度も死ぬような苦痛を経験したレイヴンは、初めて逃れようとしなかった。

40億年前から生命が抱いていた偏見を捨てて、彼は苦痛を純粋な感覚で受け止める。

苦痛。
昔から存在していたはずのその感覚は、しかし今の彼にとっては新鮮な感覚だった。

旨い物も香る花も艶な絵も弾く琴も純な女も、かつての彼は夥しく摂取していた。

だが、痛みを自ら求めた事はなかった。
この感覚に、レイヴンは初めて気づいた。

苦痛――。

この痛みを、真っ白な心象に写した時、彼の世界観はぐるりと一変した。

痛みが、怖くなくなった。
こんなにも痛いというのに、自分は死なない。生きている。

いや、むしろ、自分の体が痛む毎に、その訴える脈動が、痙攣し蠢く肉体が、自分が生きているという事を鮮明に浮き彫りにした。

痛みが全身を何度も駆ける内、彼の頭で感覚がはじけた。

これは何だ?
これは今までにない感覚だ。言葉にできない。
いや、言葉にするのもおこがましいかもしれない。
全身を貫くような、この感覚は何だ?
苦痛だ。いや、それもそうだ。しかし、この感覚を、もし、語彙で表すとしたら、それは――、



気持ち良い。



それに感づいた瞬間、彼は水を掻いて川から上がると、肺から水を吐き戻し、一心不乱に苦痛を取り除いた。

違う。俺は違う。俺は変態(マゾヒスト)じゃない!

まだ常識を備えていたレイヴンは、己が確かに感じたその感覚を、ただ必死に否定した。
狂っていないという矜持を保つ為、彼はそれから自殺を絶とうとした。

それからしばらくは、正常を振る舞い、日常を耐え抜いた。

だが、不意に落としたナイフが腿を撫でた時、不覚から脚がもつれ腕を掠った時、破落戸(ごろつき)に絡まれ胸を刺された時、
その度にレイヴンを襲う苦痛は、快楽と共に彼を貫いた。

自分は違うと何度も抵抗し、劣等感を抱き、逃避し、それでも無縁になれない苦痛が彼を追い回した。

やがて、この世の全ての享楽を舐めたレイヴンは、
何の快楽ももたらさない矜持に気づき、それを奈落に投げ捨てて、
ある朝に首を吊り、ようやく己の変態性(マゾヒズム)を認める事になったのだ。



そして、五感も世界も道楽も矜持も全てを捨てて、痛みに縋った結果が、
痛みを無くし、自分自身の在り方を喪失した今へと繋がる。

過去への遡りを止め、意識を今へ移してみる。
考えている間に、かなりの距離を歩いたようだ。

人がまばらに歩く街道へ、足を踏み入れていた。

茫然自失として、頭の針で風を切り、生気を感じられないレイヴンを見て、道行く人々は自然と彼を避けて歩いていく。
揶揄する声も、ぼやきの声も、疑惑の声も、彼の歩みを止める事はなかった。

一人行軍はしばらくすると、ようやく呼び止める声によって、その歩みを止めた。

「――薬漬けの街(ドラッグド・タウン)の――!」

記憶に薄っすらと刻まれていた、その声色と単語に振り向いた。
紙袋を被った白衣の長身が、レイヴンを指さしていた。

体が反射的に臨戦態勢を取る。
しかし内心では、何の殺意も浮かばなかった。

自分の手刀は白衣を狙っているが、相手は武器を構えなかった。

白衣はレイヴンの胸中を察したように、敵意のない口振りで彼に話しかける。

「……ああ、貴方も患者(クランケ)なのですね」

白衣は、空間を歪ませて扉を開いた。
そこへレイヴンの手を強引に引いた。

レイヴンは何の抵抗もなく扉をくぐり、診察室のような部屋で椅子に腰かけられ、白衣が対面して座る。

「貴方とは会った事がある。しかし、こう名乗る事は初めてでしょう。
私はファウスト。お察しの通り、医者です」

何の反応も示さないレイヴンを見て、ふむ、と呼吸を詰まらせる。
ファウストはカルテと羽ペンを取り、紙に容態を滑らせる。

「貴方の名前は?」

羽ペンと紙の接触の音だけが響いた。

「以前、ある方から聞きましたが……レイヴンさん、でよろしいでしょうかね?」

まるで、人形を相手にしているようだった。

「以前の事については、今回は流しておきましょう」

何も反応を示さない。

問診不能と判断し、ファウストはカルテを置くとレイヴンに寄った。

彼の手を取る。
体温こそ死体のように冷たいものの、その奥底にある脈は確かにある。

別に、精巧に造られた木偶という訳ではない。
しかし、この生気のなさは異常だ。
そこいらの玩具の方が、まだ情緒がある。

生きているだけの空洞を前に、ファウストは深く考えこんだ。

身体的には、頭部の針こそあれ健常である。
初見の通り、これは心因性のものであろう。

「体の病気であれば、口が利けずとも解明の方法はいくらでもあるんですがね……」

いかんせん、心を病んだ場合であれば、その原因は中々に探れない。
ましてや、相手は口を開く気力すらない。
これは非常に骨が折れる。

ファウストはやむを得ず注射器を取り出すと、レイヴンの手首に針を刺した。

「向精神薬です。……良い針を切らしてまして、痛いと思いますが、それでは失礼」

太い針がレイヴンの手首の皮膚にあてがわれ、ゆっくりと力をこめて、針は皮膚を突き破った。
大人であっても、顔をしかめる程度の痛みであるはずだ。
だが、痛みを感じないレイヴンは、何の身じろぎもせず、ただそこにいた。

それに、ファウストが気づいた。

「――痛く、ないのですか?」

この痛みに対する反射運動も、我慢から生じる筋肉の緊張すらない。

ファウストの光る眼は彼の現状を的確に捉え、彼の脳裏に病名が浮かぶ。


無痛症。


治療例のないその病名に、ファウストは紙袋の下で歯を噛んだ。

だが不幸な事に、レイヴンが内に抱える狂気とその経緯を、ファウストは把握していない。
その病気こそが現在のレイヴンを形成している原因である事を知れず、現状解決後の課題として胸に留めた。

注射を終え、ファウストは脱脂綿を当てながら針を抜いた。
それからレイヴンを立たせ、院内の個室に案内する。

彼をベッドに寝かせ、部屋の灯りを消した後、ファウストは空間の扉を生み出した。

「すみませんが、そろそろ他の方の訪問診療の時間です。
その様子では、しばらくは無気力状態が続くでしょうが……また改めてお会いできれば、お話しできればと思います。
それでは、失敬」

ファウストが扉の奥へ消えると、扉は元の虚空へと還った。

残ったのは、残骸の如きレイヴンである。

何も痛まない手首をだらりと垂らし、彼の意識はやはり内へと潜っていく。

向精神薬を打たれた。しかし、彼の精神はちっとも快方には向かわない。
それどころか、彼はこの部屋の暗闇の中、より深い深層の暗闇へと沈んでいった。



病院の個室。
この感覚の暗闇の中。

彼は、旧時代の遺物(ブラック・テック)が蔓延っていたかつての世界を思い出していた。
それは「あの御方」が、二人の友人と共に観たという映画を譲られた時の話である。

曰く、「とても暗い映画で、アリアは終盤で見るに耐えず退席したくらいだ」と。

確かに、それは暗かった。
そして、それは今日のレイヴンの胸に残っていた。

それは病院を舞台とした話だった。
だから、思い出した。

……かつて人間だった男の話。
戦いの中で、伝達の手段であった手足と口が吹き飛ばされ、感覚がもがれた男の話。
男はそれでも生きていた。周囲の人間の都合によって生かされ、死んだように生きて、そして最後に死を求めた。
「助けてくれ」と、周囲に誰一人としていない中でも、男は救いを――死を求め続けた。


そして、今。
レイヴンの精神は、遥か昔のその男の体に押しこまれた。


彼はついに頭を抱え、目蓋が裂けるほどに目を見開き、頬をかきむしり、顎関節を外して口を大きく開くと、発狂した声を叫び上げた。
聞いた人間の正気にすら揺さぶりをかける、破滅的な絶叫。

それは狂乱の意識から漏出した莫大な法力と手を組み、全てを虚無へと還す法術の引き金となった。
空間が丸ごと削除され、その歪みから鳴る轟音は、正気を無くした彼の耳には最早届かないものであった。


虚無へ還る体と共に意識が喪失してから数時間。
レイヴンが億劫に目を醒ますと、頭部に新鮮な感覚を覚えた。

痛み。
頭が貫かれたかのようで、実際にそうである痛み。

これまで当たり前のように存在して、しかし先程までは得られなかった、何にも替え難い貴い感覚。
ほんの数時間ぶりの感覚に、レイヴンは歓喜してそれを迎え入れた。

しかし、と。
底抜けに喜色を示す感情の奥底で、くすぶるものは確かにあった。

これは一過性のものだろうか。
それとも、いずれはこうなるのだという、宣告が如き前兆だろうか。

しかし、と。
精神を潰しそうなその不安を、彼は痛覚で塗り潰す。
必死に己を傷つけて、今はただ快楽に溺れる事に頭を満たす。

「狂っている」と、言われるだろう。
そして、それは正しいだろう。
そうでもしなければ、彼はいけないのだから。