外套と短剣

彼はキューケースを足元に置き、露天のコーヒー・ハウスで一杯をウェイトレスに注文した。
椅子に深く座り、彼は浅く息を吐く。

今、目の前に展開されている日常が薄氷であるなど、一体どれだけの人間が知っているだろうか。
自明の疑問を浮かべた後、彼はゆっくりと日常を装った。

全く、昼の最中に人を殺すなど、どうかしている。

彼は先程、仕事を終えたばかりである。
目撃者はいないはずだ。
完璧な仕事であった。

人間一人がいなくなった日常の中で、彼は深呼吸して動悸を元に戻す。

彼にとっての日常が暗殺稼業であっても、人殺しに慣れる事は決してできない。
血と涙が幾度流れようとも、彼の心は罪悪を無視する術に長ける事はなかった。

そんな中、ウェイトレスがコーヒーのカップを彼の目の前に置く。
カップの中には、彼の胸中よりもずっと明るい暗闇が覗いていた。

気分を落ち着かせる為に、ほんの少しだけ口をつける。
熱い液体がさらりと喉を通り、冷えた彼の臓腑を温めた。
身体と精神、形而下と形而上の密接な絡まりから、物質的な温もりが感情に伝播する。

そこで、ようやく嘆息をつけた。
己を省みる余裕ができ、そこで彼は背に重みを感じる。

実体がないくせに、やけにある重量をもって責め立てるもの。
組織の長としての責任である。

彼に預けられたその玉座(ポスト)は、願わくば主のものであって欲しかった。
そうであれば自分は、かしずく事で至上の充足を得られた。

だが、今は自分の感情を優先すべきではない。
組織の者たちからもそう望まれ、主からもこの席と責を譲られたのだ。

全うせねばなるまい。
例えこの心身がかつて犬だったのだとしても、下を率いる獅子とならねば。

固められた意志を確認し、現実に意識を戻す。
自ずと必要以上の力を持ってにぎった右手に気づいた。
手に持ったままであったカップをソーサーに戻す。

カップから目を離し、時計台の時針と分針の具合を見やる。
昼時だった。

食欲はないが、体の調子を保つ為にランチ・ティーにするか。

そう決めて、彼はウェイトレスに顔を向け、ほんの少し手を挙げる。
駆け寄ってきたウェイトレスに、サンドイッチと紅茶を注文し、再び彼は一人の時間にふけようとした。

しかし。

コーヒーで少しずつ喉を潤していると、入店客の一人に警戒が向いた。

男である。
新月の天蓋を剥いだような外套の、長身痩躯の白髪だ。

当然の事ではあるが、生理学的観点からすれば、通常の人間と同じである。
一目見ただけで分かるような目立った外傷も、何もない。

身体的に矛盾も不都合もないからこそ、こうして白昼堂々街中を歩けるのだ。
全ての全てに問題がない。

そんな人物に見覚えなど無いというのに、「何かが足りない」とその人物の頭部をまじまじと見る。

額にも後頭部にも、何もない。
常人にとってそれが平常であるが、その人物にとってそれが異常である、と第六感が囁いた。

と――。
その男は異常を探る視線に気づいたのか、こちらに目を合わせている。

針のような、鋭い目。

無思慮に眺めていた己の失態に気づき、視線を逸らす。
だが、とうに遅いようだった。

男は空席を勧めるウェイトレスをあしらい、注文の一言を与えて自分の元へと近づいていく。

逃げるか、と怯弱な声が胸中で漏れるが、逃げれば目立つ、と別の怯懦の声が上がる。
あくまでも日常に溶けこもうとした彼は、男から視線を外さぬままコーヒーを飲み干した。
カップとソーサーの音が、警戒にそばだてた耳に障る。

足元のキューケースが邪魔だからどかした、といった動作に偽装して、彼は刹那もあれば武器を取れるように準備する。

男は対面の椅子に座ると、彼の様子を見透かしたように瞳を揺らした。
底意地悪くオッド・アイが笑い、その口の端がわずかに吊り上がる。

「安心しろ。日の光を浴びられない同胞(はらから)だ」

それを聞いて、何を安心しろというのか。
同じ住民であるとの告白を受け、それに親近感を覚えるのは全うな人間だけだ。

日光が、露天に晒された夜の手を苛む。
彼は不機嫌を隠す事なく相対した。

「何用だ」

「ひとまずは、礼を言おう。『あれ』には少々手を焼いていた」

「……10時42分。その時の事か」

「私がお前の仕事ぶりを見たのは、その10分後だったが」

キューケースが揺れた気がしたが、実際には自分が揺れただけだった。

予想はした。
それで心構えはできても、不快が和らぐ事はない。

目撃者がいて、かつ自分を特定した。
完璧と思っていた仕事は、この男が目の前に存在しているという事実に否定された。

空気を鋭く変質させ、彼は男を警戒する。
だが男はふてぶてしく弛緩し、なおも続けた。

「何、以前の私に与えられた(めい)で取り逃がした魚の事だ。
その魚は青く、口にした者の病を一時的に追い払う。
多大な副作用はあるが、老い先短い富豪がその噂を耳に入れたらしいな。
生憎、病を癒やす前にその行いが祟ったようだが」

「私はただ単に、依頼を受けてそれを遂行したまでだ。そこまで関知はしていない」

「ああ、そうだろう。偶然の一致だ」

そこで会話が途切れたのは、男の注文の品が届いたからだ。
男の前に置かれたのは、自分が頼んだものと同じ、ホット・コーヒー。

少しずつ口にしなければ火傷しそうなほど熱いコーヒーを、男は一気に喉に通す。
それは味を楽しむというより、むしろ熱傷を望んでいるかのような、常識上不可解な行為であった。

その熱の痛みに笑みを浮かべ、男は未だ湯気立つ空のカップをソーサーに置いた。

「レイヴンだ」

「何?」

「私の名だ。
まずは名乗らなければ、名を問う事はできまい」

渡鴉(Raven)……偽名か?
仮にも私と同族ならば、そう易々と名を明かすものか」

「いや、私はその名で通っている。
名を明かしたのは、お前がこの私の名を広めたりはしないという確信だ」

「早すぎる信頼だな。警戒すべきだ」

「別にお前を信頼しての事じゃぁない」

「ならば、何故だ?」

「私の名を言いふらせば、背徳の炎――ソル・バッドガイが締め上げに来るだろうな」

成程。
名を口にした理由に納得はする。
口は災いの元であるとは言うが、その災いは具体的な形を伴い、抑止力となっている。

しかし、その納得と共に、彼はより一層の警戒を払った。

ソル・バッドガイ。
その男の事の全てを知っている訳ではないが、何度かの接触で知り得た情報はある。
そしてその男は、「あの男」への復讐を望み――「あの男」の情報を嗅ぎまわっている。

そして。
眼前を占拠するこの男の名を撒けば、ソル・バッドガイが来るという。

となれば。あるいは。
目の前の男は、「あの男(GEAR MAKER)」の配下である可能性を有している。
かつて全世界を恐怖に陥れたGEAR、ジャスティスの創造主の関係者である確率。

改めて、自分は日常という薄氷に立っているのだと思い知らされる。
そんな危険人物が目の前で嗤っているとして、安穏とする人間は豪胆というより愚鈍であろう。

現況の主導権を握られている事に歯噛む。
彼は諦めて、己の名をレイヴンに渡した。

「ヴェノムだ。家名は無い」

(Venom)。私のようにけったいな名前じゃぁないか」

「だが、所詮は名だ。そのような名を持てど、この身が非情の毒に染まり切った事はない」

非情となれれば、どれほど楽か。
己の手に未だ残る殺人の感触をなだめかせ、ヴェノムが吐き捨てる。

この不快な会話は終わりにしたかったが、しかしレイヴンは続きを紡いだ。

「しかしその毒は、人間に永遠の眠りをもたらしてはいるようだな」

「……それが、私の仕事だ」

「さて、そんな仕事をするような人間など、およそ合法的な者では処刑人しか頭にないが。
お前は一体どのような人間なのだろうな……?」

「悪いが、その話をこんなところでするというのか?」

露天のごく一般的なコーヒー・ハウスで、ヴェノムがブレーキをかける。
今のところ聞き耳を立てている者はいないようだが、露天である以上外部からの目がある。

それに、この店には当然、ウェイトレスがいる。

「失礼いたします」

現に、ウェイトレスが一礼し、割りこんでくる。
ヴェノムが注文したサンドイッチと紅茶を盆に載せ、そのウェイトレスはテーブルの横に着いた。

だというのに。
レイヴンは面白そうに、周囲に聞こえる自然な声量で発言した。

暗殺者(アサシン)じゃぁないか?」

己の正体。
それを暴かれ、ヴェノムの背に殺気が走る。

即座に立ち上がる。
同時に足元のキューケースの留め金を蹴り上げた。
蹴り上げたその衝撃で留め金を強引に外され、開かれたケースは宙を舞う。
空中で運動するケースに狙いを定め、純白のキューを手にした。

ボールは生成しない。既に間合いの中だ。

ヴェノムは研ぎ澄まされた最低限のモーションを描き、殺人の意志を宿したマッセをレイヴンの喉に放った。
手と目に伝わる血染めの感触に、怖気が溢れる。

白昼堂々、それもウェイトレスを目の前にしての殺人だ。
ヴェノムとしても不本意ではある。
しかし、周囲を顧みない危険分子とこれ以上接触するのは、組織自身が表舞台に出てしまう危機に瀕する。
この場は血に染まるが、やむなしだ。

完全に気管と大動脈を貫通せしめたキューを抜き、ヴェノムはこの場から踵を返そうとする。
だが、それを制止するように、ウェイトレスの声が上がった。

「こちら、サンドイッチとダージリンでございます」

それは、恐らく何十回と口にした言葉だろう。
立て板に水を流したようなその言葉に、ヴェノムが驚愕する。

目の前で殺人が起こった。
だが、それに悲鳴も上げず、卒倒もせず、ウェイトレスは常と同じであるかのようにテーブルに注文の品を置く。
そして「ごゆっくり」と一礼し、ごく普通に去っていった。

呆然と、テーブルに置かれたチーズとトマトのサンドイッチと、ティーバッグの沈んだ薄血色のカップを見つめる。

しかし、経時的に驚愕は理解にすり替わってゆく。
今死体となった男は、この場の認識を法術によってハッキングしたのだろう。

ここで何が起ころうとも、「日常である」と錯覚させる。

気の抜けたヴェノムは重力に任せて椅子に座り、きしむ音を大きく立てた。
キューの血をクロスで拭い、キューケースに再び納め、レイヴンに向き直る。

「――この場を動くつもりはないようだな」

わざわざ、あんな法術までこしらえたのだ。
そして、その法術が今も継続している。

喉を貫かれ、健常な人間であれば死体になって当然な状態であるというのに。
ヴェノムの確信的な予感で、死んだはずのレイヴンに呼びかける。

自然法則を無視して、答えが返ってくる。

「誰も我々を認識できない状態にすれば、場所を変える必要もない」

再生した声帯を震わせ、レイヴンが生き返った。

人間として有り得べからざる出来事。
その驚異的というよりも執念的な再生能力に、ある夫妻がヴェノムの脳裏を横切った。

「吸血鬼――いや、牙はない。不死(Immortal)か?」

その言葉に、レイヴンがわずかに震えた。
反論もせず、開きかけた口を閉じる。

その様に、彼自身が彼を明かすに先んじて、ヴェノムが正体を捉えた事を知る。

ヴェノムは己の言説を補強する為、捉えるに至った理由を述べた。

「私の知り合いに、不死の婦人がいる。
幾ら牙を立てられようと、幾ら血を失おうとも、無から有を生むように再生する。
仔細には知らないが、その不死性はまさにそれだろう」

的確なヴェノムの指摘に口の出しようもなく、レイヴンは首肯する。

ヴェノムはやっとこの怪人を捉えてみせた事に安堵を覚えた。
鵺じみたこの男を、ようやく自分の知っている世界に引きずりこめたのだ。

しばし満ちる沈黙に、ヴェノムは虚勢のように笑みを浮かべる。
前髪で隠されたその笑みを、恐らく相手は見れないだろうが。

ともかく自分の立場をつかんだヴェノムは、前髪の一部を耳にかけてカップに手を伸ばした。
沈んだティーバッグをスプーンですくい、晒された唇にカップの口と合わせる。

茶の温もりが移ったカップを傾け、慣れた味が口内に注がれる。
廉価なりの味だが、これが口にした事もない高級な茶であれば、日常を感ぜられずにこうも落ち着ける事はなかっただろう。

心臓は、収まった。
首を振って前髪を戻し、カップもまたソーサーに帰す。

「すまないな。冷めては味が落ちる」

遅い断りを入れて、「さて」とヴェノムが余裕を手にする。

「君のその不死の由来は何か。
差し支えなければ、訊かせてもらおうか」

人間の命に携わるものとして、そして単なる好奇心として、それを訊いてみる。
だが、その言葉を吐いた途端、レイヴンの顔から一切の色が失せた事に気づいた。

しばらく待っていると、レイヴンの顔に段々と色が戻ってくる。
これまで何千何万と口にしてきたというのに、この目の前の無知にまたも口にせねばならない。
「億劫」という灰色の倦怠感だ。

レイヴンはのろのろと口蓋を上げると、その奥が言葉を紡ぐために蠢いた。

「この身の不死の呪いなど、求めて得たものじゃぁない」

ヴェノムはその言葉を受け止め、生じた疑問をそのまま返す。

「呪い? 君は不死というものを、そう感じているのか?」

「そうだ。死のなき生など、生きていない事と同値だ」

死ななければ、生きられない。
生死の境目に常に立つヴェノムだったが、その哲学への理解は及ばなかった。

「ならば、私は今死んでいないが、これは生きていないという事か?」

挑発ではない。純粋な疑問だ。

レイヴンは前回の同類の質問から回答を流用したかのように、すぐさま答えた。

「お前が死ぬのは約束されている。生きる事ができる。
だが、私の死はどこにもない。私はまだ生きていない」

それでも、ヴェノムの眉は曲がったまま頭を振る。

「……悪いが、君の感覚には同意しかねる。まるで別の世界の論理だ」

「別の世界――ああ、そうだ。そうだろうな。貴様とは別の世界からの言霊だ」

レイヴンは嘲笑を上げる。
だが、ヴェノムがそれを不快だと思わなかった。
その嘲笑の対象が自分ではなく、彼自身に向けていた嘲りだったからだろう。

レイヴンは腕を広げ、大げさな身振りと口振りでヴェノムへと伝える。

「ならば、私の世界を知ってもらうとしよう。
死のない世界。千年を超えた世界だ。
千年の内に何もかもに飽き、何もかもに諦めを抱いたその世界に、快楽はない。
お前の紅茶とサンドイッチを、仮に私が口に運んだとしても、それは有機物が私の胃袋に移動したまでだ。
そんな、味気ない世界にただ存在する事を、生きる事だとお前は思うか?」

その反語表現で、ヴェノムはようやく朧げに理解した。

何もかもに飽きた世界。
その世界が終わる事なく存続していくとすれば、そこで生きようとする事はあまりにも過酷だろう。

ヴェノムはサンドイッチを噛み、チーズの脂とトマトの酸を紅茶で流しこむ。
この僅かな日常の感覚にすら何も感じないと考えると、ヴェノムは漠然と憐憫を覚えた。

「君の哲学は分かった。不死がそういうものとはな」

「貴様の知人の不死者にも是非伝えてやれ」

「生憎、あの夫婦仲に水を差す機会も気概もない」

レイヴンの悪意ある提案を躱し、ヴェノムは時計をちらりと見た。
時間としては良い頃合いだ。
そろそろ切り上げるかと、ヴェノムは眼差しを研いでレイヴンに向ける。

「別に、礼をするのも名を訊ねるのも、そして君の不幸をひけらかすのも本筋ではないだろう。
一体、君は何故私の目の前にいる」

障害となる為に消すつもりなのか。
組織を動かす為に脅迫するのか。

様々な想定が浮かんでは消えていく。

告げられた内容は想定外であったが、驚くべき内容ではなかった。

「私を殺せ」

その言葉に、躊躇はない。

「私のこの世界に、最早快はない。
生きるという牢獄で、ただ人間らしい心を消耗させていくだけだ。
このまま()けば、行き着く先はただの生きる肉塊だ。
そのような物体に成り果てる前に、私は私のまま死にたいのだ」

ヴェノムは紅茶と共に、彼の事情を嚥下する。

先程までここにいた怪物は、この世にふてぶてしく居座って嘲笑する傍観者のようだった。
だが、今目の前で言葉を吐く男は、存在すら曖昧な弱弱しい人間として目に映る。

それほど、呪われた日々は彼の精神を虐げてきたのだろう。
憔悴したその様子が何より、レイヴンという人間の脆さを語っていた。

ヴェノムは彼に一定の理解を抱いた。
だが、理解したからこそ、困難もまた理解する。

「……悪いが、到底その依頼を達成できるとは思えんな」

喉を貫かれてもなお生きる、先程の再生能力。

あの再生能力を超えるほどのダメージを一瞬で与えたとしても、恐らくは世界の理を超越して蘇るであろう。
でなければ、この男が今日まで死ねなかったはずがない。

レイヴンは肺を絞るように囁いた。

「私が考えつく限りの手段を、ありとあらゆる手で試してきた。
それでも私はここにいる。
その足元のキューのように、単なる遊具を武器に転じるような発想が、あるいは必要なのかもしれない」

「それで、私か」

ヴェノムは足先でキューケースをなぞり、顔を伏せた。
この男の呪われた命を絶てるものなのか。

そう思案した時、それはそびえ立つ壁のようなものに思えた。

苦い顔をするヴェノムを察し、彼の背を少しでも押してやろうとレイヴンが革袋を手にする。
レイヴンはもう片方の手でその革袋に突っこむと、ぞんざいにその中身を取り出した。

「金なら積める」

束ねられた札束に、陽光を照り返す金貨。
溢れんばかりの価値がテーブルに広げられる。
その金額は一目しただけで大金だと分かる量であり、これで三人は殺せるだろうというようなものだった。

だが。
この依頼は到底受け入れられそうになかった。

果たす事のできない依頼という事もある。
しかし、脳裏によぎる影が、それだけの事ではないのだとヴェノムに考えさせられた。
その影は、何よりも尊い方の手繰る影の色をしていた。

「……だがそれで、君は満足するのか?」

ヴェノムの諭す声に、レイヴンは不愉快そうに返す。

「生の充足は死がなければ不完全だ。
先に言うが、私を止めるつもりならば、もう遅い。
今の私にとって、全ては遅過ぎる。もう終わっていて出来る事は無い。
説得も説教も説法も、何もか不要だ。
今や死こそが私の唯一の救いだというのに、それを貴様もまた否定するというのか?」

自分の事情を、明かしたというのに。
自分の絶望を鳥渡(ちっと)も理解していない第三者のように引き留めるのか。

レイヴンが目を窄ませ、ヴェノムに対して威嚇を示す。
しかしヴェノムは、その威嚇に怯む事なく続けた。

「ならば君の中の犬に問おう。
君がいなくなったとして、君の(あるじ)に支障はないというのか?」

レイヴンが大きく身を震わせた。

「……何故、それを?」

己に主がいるとは告げていないはずだ。
レイヴンが疑問を呈すると、ヴェノムはすんなりとその答えを明かす。

「先程言っていただろう。『私に与えられた(めい)』と。
つまり君には務めを与えるような主がいる。
それが、そう――『あの男(GEAR MAKER)』であろうと、その人物は君の(あるじ)に相違ないはずだ」

「…………」

その沈黙を肯定と受け取り、ヴェノムは続ける。
同じ「主に仕える犬」として、同じはずの思考を渡した。

「主の為ならば、命は惜しくない。
しかし、己の為に命を絶つ事は、主の為に生きる事と、天秤をかけた事があるか?」

レイヴンは、それにしばし沈黙した。

己の為に死ぬ事。
主の為に生きる事。

「……私は、」

その言葉の先を、未だ得る事は叶わなかった。
ただそれだけを口にするしかできないレイヴンの惑いを心に写し、ヴェノムはただ己の考えを吐き出す。

「私はその結果を考えようとしなかった。
私もまた、考えられなかった

『あの方』を失った時。私は初めて考えた。
果たして、あの方の為に死ぬべきなのか、あるいは生きるべきなのか」

ヴェノムに、レイヴンのような自殺願望はない。
しかし、「あの方」が死んだその時、考えた事がある。

主の死に殉じるべきか。
主の座を引き継ぐべきか。

その葛藤は、恐らく彼に預けた葛藤と同質ではないだろうが、同類のものなのであろう。

生きるべきか、死ぬべきか(To be, or not to be)
どちらが正しいのか、あるいはどちらも間違っているのか、その正否など知り得ない事だ。
しかし選び取ったのはどちらなのか、それは今の自分が証明している。

「私は今ここにいる。
『あの方』の為に、生きる事を選んだ」

「あの方」の生きた証である、組織の存続。
指針となる「あの方」の不在の中、組織を纏め上げる事の艱難辛苦に、過去も今も苛まれている。
しかし、今もその重荷を背負い生きてきたからこそ、黄泉帰った「あの方」に顔を向けられたのだ。

己の道程を振り返り、ふっと我に返る。
自分と同じ種類の人間は目の前にいるが、だからといって同じ考えを抱く事はない。

ヴェノムは頭を横に振り、取り繕うように補足する。

「……いや、君にそう強いるつもりはない。
単に、君とはそれなりに同胞――いや同種であった。その感傷に浸っただけだ」

それに、レイヴンは首をゆっくりと震わせた。

「……ああ」

縦にも横にも振っていない。肯定も否定も表していない相槌だった。

ヴェノムの結論を、そのまま自分の結論にしようとは思っていない。

生きるか、死ぬか。
己を揺るがすその結論は、日常の昼のひとときに出せるものだろうか。
その結論は、退屈な一手一手を幾千幾万と重ねた先にようやく描き出される棋譜のようなものだろう。

レイヴンは初めて悪意なく微笑を浮かべた。

「――ならば、今はその答えを留めておくとしよう。
考える時間ならば、それこそ腐るほどあるからな」

時計台を一瞥し、これまでに過ぎた時間に思いを馳せる。
時間を超えた遥か遠くを見る彼の瞳は、どれほどの時を重ねて研磨されたのだろうか。
パンドラの箱のように、闇深くもわずかに光るその瞳は、時計台からヴェノムに移る。

戻ってきた視線を受け止め、ヴェノムは口を動かした。

「忠告をするならば、君の(あるじ)と君の時間が、同じ長さではないとだけ言っておく」

例え百年同じ時を過ごしたとしても。
自分と「あの御方」の年月を比べるまでもなく、レイヴンはその差を受け入れる。

「熟知している」

「しかし、同じ犬として願っておくとしよう。
何らかの事情で立ち寄った墓地にでも、君の名が刻まれている事を」

死を願うその言辞にはなむけの意をこめ、ヴェノムはその祈りを彼に贈る。
それを聞いたレイヴンは笑い声を漏らした後、何度もうなずき受容した。

「私の墓に何を供えられるのか。楽しみにしてやろう」

レイヴンは立ち上がると、テーブルの上に広げたままの依頼金を革袋に戻し始めた。
その内から、自分の頼んだホット・コーヒーの代金を選り分け、テーブルに置く。

「今日の所は、これで暇をいただこう」

「それでいいのか?」

「ああ。これでいい。少しばかり、楽しめそうな事を見つけられた」

そう、愉快そうにレイヴンが笑う。

「生死に関わる苦悩がか」

「その苦しみの果てにどうなるか、この私でさえも見当がつかない」

未だ知り得ない己の底を省みて、そう答えた。
呆れたような、あるいは羨ましそうな溜息を吐き、ヴェノムが彼を見やる。

レイヴンは立ち去る間際、ふと思い出したように向き直ると、再度革袋に手を入れた。

「今日の礼だ」

手にした金貨は、指で弾かれ宙を舞う。

ヴェノムは自然、その軌跡を目で追った。
その金貨に注意を向け、放物線は目の前のテーブルの上で終着を迎えた。

そのわずかな一瞬の後、すぐに顔を上げる。

そこでは、鴉の羽根が散るだけで、誰も何もいなくなっていた。

「……全く、今日はとんだ日となってしまった」

苦笑しながら、ヴェノムは金貨を拾い上げ、それを太陽の光にかざしてみる。

それは、現在流通している通貨ではなかった。
近世の量産主義に毒されない、純金でできた金貨である。
金メッキという訳でもない。重さと、無数につけられた傷からして、中身まで紛いなく金でできている。

その古びた金貨は、レイヴンの左目のように輝いていた。