レイヴンさまはへんたいさん その2

オリジナルキャラクターメイン
痛めの描写あり
私は、猫が好きです。

ある昼下がり、道の真ん中で日に当たる猫を見て、私はすぐさまその猫に近づきました。

その猫はどうやら日常的に人と接しているようで、近づいて撫でてみても、警戒心なく喉を鳴らします。
しかし、その猫に首輪はなく、また雑種のようで、特定の個人で飼われているような様子もありません。

現にこうして私が猫を触っていて、通行人や周囲の住人の視線の中、
「その猫は私の猫だ」と名乗る人も、「あの家の猫だ」と告げる人もいません。
ただ、微笑みの中に猫はいました。

「あなたに家がないのなら、私の家に来ませんか?」

それは、その猫へ向けた言葉というより、今ここにいる人たちへの確認でした。
拒む人は、いませんでした。
私の確認が、受け入れられたと言っていいでしょう。

私は猫を抱きかかえると、その顎を指で掻きました。
弛緩した様子の猫は心地良さげに目をすぼめると、ゆっくりと眠り出します。

「……可哀想に」

誰かに飼われていれば、きっとこんな事にはならなかった。
そんな意味を言葉に隠して、私は猫と共に家路につきました。


久々に満ち足りた感覚を腹部に覚え、私は安堵の溜息をつきました。
量こそ少ないものの、数日ぶりの食事は非常にありがたいものです。

私は空になった皿を持ち、キッチンへと足を運びます。

調理後に掃除はしたものの、まだ血生臭さが残り香になっています。
少々ばかり顔をしかめますが、仕方のない事です。

「……私は、生きたいのです」

そして生きる為に、私は他者の死すらも選びます。

私は皿を洗った後、キッチンの隅から砥石を取り出しました。
それから、洗い籠の中から一振りの包丁を抜き取ります。

それは、職人によって作られた、とても丈夫な包丁でした。

私がこれまで飢えていた原因であり、そしてレイヴン様への捧げ物です。
今回、その切れ味を試す為にも使用しましたが、その性能は折り紙付きのものであると、素人の私でもはっきりと分かりました。

歯こぼれは見受けられないものの、万が一を考えて包丁を砥石で研ぎ出します。

シャッ、シャッ、と。
威嚇音のように包丁が鳴く様を聞きながら、私は今夜の事を考えます。

今夜が、レイヴン様とお会いできる日です。
今日に、この包丁をレイヴン様に捧げます。

この鋭い刃物を、一体どのように使うのか。

そう思いを馳せてしまうと、私は恐れに震えてしまうのです。


刃よりずっと冷たく鋭い笑みを浮かべながら、レイヴン様は私の包丁を検分されます。

「一夜を超すには充分だろう」

刃に指を滑らせて、零れる血を舐めながら、レイヴン様はそう判断を下されました。

「あえて求めるならば、硬度に強化をかけた物がより良かったが……お前の財力と法術では、到底無理だろうな」

睨みと嘲りを効かせてレイヴン様は謗られ、私は著しい息苦しさを感じました。
私はすぐさま床に手と頭をつけて、深く謝罪の意を示します。

私が口を開くより早く、レイヴン様は鬱陶しげに制止されました。

「ただの要望だ。お前にこれ以上は望まない」

――だから、私はお前に期待など抱きはしない。

レイヴン様の御心の声が聞こえるような、含みを持たせたそのご返答。
それは凡人の私にとって当然の事実でしたが、それを当たり前に受容するほど厚顔無恥ではありません。

「……失礼、いたしました」

己の至らなさに唇を噛み、私は面を上げました。

レイヴン様は既に私から目を離しており、意識をただ刃の切っ先に向けられております。
何度も指を滑らせたその銀色の刃は、既に赤黒い色で大部分が染まっていました。

レイヴン様はしばらく包丁をじっと見つめられておりました。
そして、おもむろに仰せ付けられました。

「金鎚を取って来い」

その御用命に至ったお考えは推し量れないものの、私はその令に従い首肯しました。

「承知いたしました」

私は部屋から出て、地下室への錠を解き、法術で指先に炎を灯し、明かりを頼りに降りました。
地下室には、箒から拷問具まで数多くの道具があります。

その道具の大群から金鎚を選び取り、地下室から部屋へ戻りますと、
レイヴン様の足元には指から溢れた血の泉ができておりました。

レイヴン様は私と金鎚を視界に認めると、口を大きく開けて、両の口端に刃を当て、包丁を咥えました。
その姿のまま「近寄れ」という手振りをして、私は金鎚を抱えたままレイヴン様へ近づきます。

「いかが、いたしましょうか?」

レイヴン様は口を開かず、
その枯木のような指で金鎚を指すと、
次いで、包丁をその指でなぞりました。

――叩け。

私はその意味を知ると、そこから連想される惨事を思い躊躇しました。

しかし、レイヴン様はその惨事こそ望んでいらっしゃるのです。
私の俗なる感性など、そのお望みの障害でしかありません。

私は自分を殺し、金鎚を震える手でしっかりと握ると、包丁の峰目がけて力一杯に叩きこみました。

金属と金属が衝突した、甲高く耳障りな音。

硬く鋭い異物が、生きている人間の肉に食いこむ感覚。
その総毛立つ感覚が、金鎚を伝って手に届きます。

私は口を食い縛り、情けない悲鳴を押し殺します。
レイヴン様は、ただその欲望のままに叫ばれました。

「ンひヲッ、ヂィイいいいいィッ!」

「気持ち良い」と、私とは全く真逆の感覚に酔いしれ、レイヴン様の吐息で包丁が曇ります。
レイヴン様の口端は刃によって断裂し、その肉を露呈していました。
包丁の切っ先が引っかかったのか、舌根も一部の皮が剥かれていて、滲む血が泡となっては弾けていきます。

その光景の痛みへの共感から私は口を塞ぎ、何一つ傷のない頬を我知らずさすりました。

しばらく痙攣されたままのレイヴン様でしたが、その震えが次第に治まっていくと、私に鋭い視線を投げました。

催促。

私はその意を汲み取ると、とにかく慌てて行動を起こします。
私は金鎚を床に捨てると、レイヴン様に近づいて、その包丁を口から抜こうと手を伸ばしました。

ですが、その包丁の取っ手には、レイヴン様の血と涎で濡れていたのです。
私は少しばかりの躊躇をしましたが、意を決して力強くその包丁を握りました。

頬に食いこむ包丁を、恐る恐ると抜こうとします。
ですが、血と涎でぬめる取っ手は、私の意に反したのです。

レイヴン様の口から、わずかに包丁が離れた時、
私の手からも、包丁が離れたのです。

重力に引きずられた包丁は、レイヴン様の喉奥に落ちました。

「!? ッガ、はァぁぁっ!」

不意の苦痛に驚きを、次いで喜びを。
レイヴン様は感情の遷移を声にされました。

「も、申し訳ございません!」

私は一刻も早く失敗を取り繕うと、再度包丁をつかもうとします。
ですが、急いた腕は精密さを欠き、私の手は取っ手をつかみ損ねました。
その手は、包丁を押しこむ形で、取っ手を叩きこんだのです。

より奥深くに穿たれた包丁は、レイヴン様の口の中にずるりと引きずりこまれます。

「――ッ!」

レイヴン様は、口を絶叫の形につくりました。
先程包丁で裂かれた頬が、大きく口を開いたせいで、その傷跡からぶちぶちと筋繊維が切れる音がするような。
そんなに口を開いても、声帯に傷を負われたのか、ただ荒々しい息が肺から押し出されるような音しかしません。

食道までその刃が届いたのか、咽頭反射でレイヴン様の喉が蠢きます。
口からわずかに覗く包丁の取っ手は、えずく度に上下してしました。

私は今度こそ失敗しないようにと、服の袖を破いて手に巻きつけ、不敬にもレイヴン様の口に手を突っこみました。

ぬめる取っ手に苦闘して、何度も包丁を前後させ、その度にレイヴン様の喉に刃が入る感触がしました。
私は片手だけでは足りないと、ついには両手で取っ手をつかんで、ゆっくりと包丁を抜きます。

今度こそ手が滑らないようにと、手に力と注意を注ぎこんで、ようやく包丁は私の手に戻りました。

私は緊張で、レイヴン様は苦痛で息を荒くし、しばらく事態は硬直します。
レイヴン様が下を向き、喉に溜まった大量の血を吐き出すと、元に戻った声帯を震わせました。

「……意識の死角を突いた喜びだ」

レイヴン様は、そう私の失敗を評しました。
ですが、私の失敗は失敗であり、かつレイヴン様の口に両の手を入れるという無礼をしたのです。
私は深く頭を下げ、その罪に身を強張らせました。

「大変、申し訳ございませんでした……」

レイヴン様は皮肉げに笑われると、私に視線を滑らせます。

「不意の挙動が歓喜を生むなら、目でも潰して包丁を握らせるか」

その提案に、不随意な声が私の口から漏れました。

失明の恐怖。
暗闇の恐怖。

無論、私は文句を言える身分ではありません。
しかし、二度とレイヴン様を拝謁する事ができなくなるという、私の根幹を揺るがす苦痛を考えてしまったのです。

私は必死にレイヴン様のお姿を今の内に記憶しようと、青ざめた顔で揺れる瞳にレイヴン様を映し続けました。
目蓋を閉じてなどいられません。私はただレイヴン様を一秒でも視界に収める事に全力を注ぎます。

ですが、レイヴン様はこの私の愚行に気づいたようで、更に嘲りを強くして笑われたのです。

「冗談だ」

前言を撤回するお言葉に、光を無くすという恐れが消え、私は眼に目蓋を下ろしました。
ですが、それとは別の恐れが浮かび上がったのです。

レイヴン様は、私の意図した苦痛よりも、過誤による苦痛を好まれたのです。
成功ではなく、失敗を。
それは私の正気から生み出される行為を否定されたようでした。

私は、狂わなければなりません。
レイヴン様は、狂気を期待しているのです。

私はうつむき、己の不甲斐なさに切歯しました。

私は何をするべきなのか。
そう考えを巡らせていると、レイヴン様は言葉をかけられました。

「私はより鮮烈な苦痛を求める。
しかし無痛というのは、鈍らの痛みよりも劣るものじゃぁないのか?」

私ははっとして顔を上げました。
そうです。
自分が悩む時間よりも、レイヴン様に退屈な時間を抱かせる事の方が、何よりの損失です。

私は己の矮小な悩みを消し飛ばし、しかし何の指針も立てられない私は伺いを立てました。

「……どのようにいたしましょうか?」

レイヴン様は、嘆息の後に一時をかけると、ご着想を得られたようです。
平和的でない微笑みをつくり、私に問いかけられました。

笹掻(ささがき)は得意か?」

笹搔。
人参などの表面を薄く削ぎ取るような切り方です。

私は料理人ではありませんので、得意かと言えばそうではないのですが、

「できるかと存じます」

不確実な記憶ではありますが、多分知識はありますから。
そのように答えると、レイヴン様は右腕を伸ばして命じました。

「私の腕をそうしろ」

予想はしていても、感情が受け止め切れないご指示です。
私は微動する腕を抑え、決意を固めるように包丁を強く握りました。

「……承知いたしました」

私は左手をレイヴン様の右手に絡め、その右腕の内側を上にします。
千年を経ても汚れ一つない肌が、その美しさを露わにしています。
そんな畏れ多いものに手をかける罪悪感が、私の背を走りました。

私は心を決めて、包丁を肘関節のあたりに置くと、力をこめて引き下ろします。
レイヴン様の白い皮膚が浮き上がり、その下から血が滲み出てきました。

「嗚呼……!」

人の腕を笹搔にするのは、困難でした。
それは、手が震えて力が入らない事もそうでしたが、
根菜とは違い、肉という柔らかいものの表面を切る事が難しいのです。

少し刃が上を向けば、すぐにぷつりと肉が途切れ、
ゆっくり静かに力をかけなければ、切り口の皮がたゆんで切れなくなります。

私は静かに、人間の肉を薄く切る事に集中しました。
でないと、自分が人間の肉を薄く切る事を自覚してしまうからです。

私は包丁を手首まで下ろすと、包丁をぐるりと回して肉を切り離しました。
薄く削がれた肉は、体から分離すると重力に引かれて床に落ちます。

皮膚が剥がれて充血した腕は、その痛々しさを私の目に焼き入れます。
ですが手を止めてはいられません。
私はレイヴン様の従者なのです。命ぜられた事は為さねばならないのです。

再度肘関節に刃を入れ、必死に腕の塊の肉を一枚の長細いハムにしていきます。

私はなるべく考えないように包丁を下ろしていると、引っかかりを感じて私は手を止めました。
包丁は何かに阻まれて、その先に進めないようになっています。

このエラーに対処すべく、包丁を抜いてその引っかかりの原因を調べます。
分離途中の肉をめくると、鋭い輝きが私を貫きました。

針です。
針が、レイヴン様の腕の中にあったのです。

「ひっ!」

滑稽な悲鳴を上げて、私は思わず包丁を落としました。
その包丁が床と接触し、その鳴り響く音は私を笑って部屋を駆け巡ります。

『お前はそんな奴に仕えているのだ。
普通では考えられない方法で、自分で自分を傷つける奴の下にいるんだ』

そんな意味はないのでしょう。
しかし、私にとってはそんな意味でした。

金属音から幻聴を抜き出してしまう。
そんな自分を確認すると、異常下に置かれた自分の精神が異常に傾きつつある事もまた自覚しました。

これでは、いけない。
私は私の役目を果たそうと、頬を叩いて問題解決にあたります。

レイヴン様の腕に深く埋まった針の、その頭の部分を私はつまみました。

私はしっかりと力を入れて抜こうとしましたが、血のせいでその針はとてもよく滑ります。
何度も何度も試してはみましたが、傷に指が押し当てられる痛みでレイヴン様が喘がれるばかりです。

私は上手く行かない事象に苛立ち、床から包丁を拾い上げました。
包丁の先をその針の埋まる肉に立てると、その切っ先で針を穿つ穴をえぐります。

「イイ゛ッ……! もっと……もっと深くぅ゛ッ!」

肉を開かれ、摩擦面が著しく少なくなった状態の針は、あっさりと私の手に落ちました。
邪魔にならないように針を捨て、私は再度包丁をレイヴン様の裂傷にあてがいます。

何枚もの薄切り肉が折り重なり、そこに血のソースがかけられて、地獄の皿のような床は見たくもありません。

私は混乱にぶれる瞳をなんとかレイヴン様の腕に固定するように努力して、
包丁を入れるごとに浮かび上がる鶏肉のような白さの人肉が、一瞬で湧き上がる血で赤く染まる様を何度も何度も何度も眺めます。

ついには、包丁にがりりと硬い感触がしました。
それは黄ばんだ白をしていました。
私はその光景に、遠い遠い過去に埋没した教科書のページを重ね合わせます。
見事な腕の断面図でした。

私はしばらくぼうとしていましたが、レイヴン様はくるりと右腕を回し、まだ笹搔になっていない反対側を見せつけました。
私は、再度肉を削る面倒な作業に取り掛かったのです。

何度も行ってきた処理がどれだけ未知で残虐な行為でも、人間は慣れる生物なのだと思いました。
そう考えられる余地ができるほど、私はこの行為に慣れてしまいました。
言い換えれば、麻痺したのです。

あれ程怯えた、生きた人間の肉を削ぐ感触は、冷蔵庫から出したてのチーズに包丁を入れるような感触に感じます。
一瞬だけ見える白い肉が赤く染まっていく様は、白い砂浜に打ち寄せる夕方のさざ波です。
床に溜まった血肉の混合物は、もしかしたらディナー前のホテルの調理場にあっても違和感がないのかもしれません。

心理の抵抗が麻痺して、早くなっていく私の手は、またしてもがりりと硬い感触を捉えます。
諦めてしまえば全ては矢のようで、もうレイヴン様の右腕は、肘から手首までは骨でしか繋がっていません。

私は手を止めて、骨の腕からレイヴン様の御顔に視線の先を移します。

そのレイヴン様は、羞恥もあられもなく破顔し、よだれを垂らし、愉悦に潤んだ瞳でどこでもないどこかを映していました。

それで役目がひとまず終わったと感じ、レイヴン様の汗ばんだ右手から、私の左手を離しました。
しばらく立ち尽くし、ただ私はレイヴン様のご容態を見守るしかありません。

ただ痙攣し、血を垂れ流すだけであったレイヴン様の右腕の断面が、その時脈動しました。
蔦が樹に纏わりつくように、露出した骨に筋繊維の一本一本が重なり合って再生します。
それは耳を澄ませば、みみずが這うような音がしたかもしれません。

そして、あっという間に腕は再生しました。
白く完璧な腕が出来上がると、レイヴン様は大きく息を吐きました。
落胆の息です。

私はその音色を聞き、戦慄しました。

また、レイヴン様のご機嫌を損ねる訳にはいきません、

私は停滞した思考を掻き混ぜて、その潮流から狂気を掬い上げようとしました。
ですが、私の思いつく全てはどれも逸脱のない発想で、何一つレイヴン様の為になるようなものはありません。

それでも、レイヴン様に無味乾燥とした時間を過ごさせてはなりません。
絶対に、ならないのです。

私は包丁の切っ先をレイヴン様に向けます。
私の様子を見て、それに気づいたレイヴン様は扇動的な身振りと口振りで問いかけられました。

「それで……私を、どうするつもりだ?」

「首を斬るか?」喉を指でなぞりながら、

「皮を剥ぐか?」腕を手刀で撫でるように、

「心臓を刺すか?」胸を指して、

「さあ……どうする?」

レイヴン様はベッドに腰かけ、私の狂気を値踏みしました。
緊張と恐怖で乾いた喉に唾を通し、答えます。

「腹を……捌かせて、いただきます」

レイヴン様はそれを聞いて、気構えを変えずに嘲笑(わら)われました。

「陳腐な発想だ」

私という人間は、どこまでも普通の人間でした。
それでも私はレイヴン様へ急ぎ近づいて、怯懦の性分を隠して、力一杯にその腹へ、心臓の下辺りに包丁を突き立てました。

「ガアッ!」

しかし、最初に突き立てた場所へ力を入れても、硬い感触が返ってきます。肋骨に当たったようでした。
私は包丁を抜くと、今度は今度こそ深く貫く為、腹の真ん中に包丁を振り下ろします。

「ァアッ……!」

包丁の切っ先の半分が埋まり、鮮血が溢れて刃を伝って、私の手を濡らしました。
動脈から噴出する鮮紅色の血が止まる事なく流れて、包丁の柄を滑らせます。
私は決して離さないよう、しっかりとその柄を握って、腹に包丁が埋まったまま、体全体の筋肉を使って刃を動かします。

ノコギリを挽くように包丁を前後に動かし、腹を縦に割るように、包丁はゆっくりと身を割きながら進みます。

「あッ! ……あぁアっ! ……ァア゛ッ!」

人間の皮と肉を切るおぞましい行為を、自分の手で犯していく。
擦り切れそうな正気を必死に保ちながら、私は貴い方の腹を完全に開いてしまいました。

レイヴン様は口から血と喘ぎ声を出し、開腹の快感に身悶えているようでした。
その満たされていらっしゃる様を見て、恐れを上回る喜びを感じます。

ですが。

――ただの要望だ。お前にこれ以上は望まない。
――陳腐な発想だ。

私は、ここで踏み止まってはいけないのではないかと、レイヴン様の事を考えました。
それでもこれ以上をやれば、私の精神が壊れてしまうのではないかとも、私の事を考えました。

ですが。

私などのような矮小な凡俗の心が一生壊れたままになる事と、
レイヴン様の悠久の時に刹那でも歓喜を与える事と、
天秤にかければどちらが傾くか。

そんな事。
分かり切った事じゃぁないですか。

私は(なずき)が生む突拍子のない加虐的思考に従い、床に捨てた金鎚を音もなく拾います。
そして、包丁は左手に持ち替え、右手に金鎚を持ち、人間としての理性を放逐します。

ここにいるのは、レイヴン様を満たすだけの道具。
そう考えれば、ぐるりと思想が回転します。

これで終わりだと思いこみ、ベッドに横たわるレイヴン様に、私は迫りました。

「どうした――?」

余裕のある様子で、レイヴン様が問いかけます。
その問いに、私は言語ではなく行動で応えました。

私は包丁の刃先を、まだ開かれていない胸にあてがい、
右手に持った金鎚を、その峰に振り下ろします。

衝撃。

「ギィッ!?」

胸骨がまだ包丁を受け入れる事を阻んでいます。
これを壊さなければ、胸も割く事ができません。

私は渾身の力をこめ、金鎚を再び振るいました。

「ギぁアっ! ァあアッ! がっ、ガアアッ!」

頑丈な胸骨は一つや二つの衝撃にも耐えていましたが、
いくら幼子だろうと、力と執念を籠めて繰り返される破壊の衝撃は確実に胸骨に亀裂を与えます。

そして、何十回という打ちつけの果てに、胸骨を破壊した確かな感触と共に包丁は深く胸の奥まで沈みました。

「ィい、ァッ!」

レイヴン様は大きく口を開けました。
気管が傷ついたのか、その口から垂涎のように血が顎を伝います。

構わず、私は黒い衝動のままにレイヴン様を切り開いていきます。
肋骨も金鎚と包丁で叩き切り割り、胸の肉も開いていきます。
そして、心臓に刃を入れました。

「あ゛ア゛あぁ゛アァぁァァ゛ああアア゛アアああぁア゛アァ゛ァアぁァ゛ぁぁあアあ゛あアア゛ァアァ゛ァあああぁ゛ぁあアぁ゛あアアア゛ァぁ゛ァ゛ああ゛アあァ゛あアああ゛っッ!」

その声は、私の理性の断末魔でした。
レイヴン様は、心臓を裂かれて盛大に嬌声を上げます。

心臓に入った直線的な傷口から、脈動の律動に合わせて血が噴出しています。
血は、私がこれまで見た事のない色をしていました。
手足等の末端の擦過傷から流れる、老廃物を含み黒く淀んだ静脈の血ではなく、
腎臓によって濾過された、通常生命の維持に必要で重要な、純粋無垢な真紅の血です。

心臓は全身に張り巡らされた血管にその動脈血を行き渡らせる為に、力強く脈動します。
その脈動から漏れ出た血は勢いよく私にかかり、私の服を真っ赤に汚濁させました。

私はその煩わしい血を止める為に、心臓に包丁を突き立てます。

「ぎゃガッ……!」

心臓の周囲に纏わりつく血管を剥がす為、私は心臓の周りに刃をぐるりと入れます。
今まで繋がっていた肉から分断された心臓を鷲掴み、ぞんざいに放り投げました。

「あハアッ! はあ、ああああ、ンァあア゛ッ!」

耳を障る叫びを吐く度に、呼吸器官である肺は艶めかしく膨縮を繰り返します。
そんな肺の様が、狂った私の目には縮こまって丸くなる猫に見えました。

私はその肺を体から斬り離そうとします。
肺と接続している血管と気管を、包丁で切断しました。

「! ッ!」

発声の元となる器官を奪われ、レイヴン様の口からは血以外の何も出る事はありません。
私はレイヴン様の体から孤立した肺を腕に抱き、引き離します。

血を含んで重みのある肺を横に放置し、レイヴン様の胴の上半分が空いた様を見て、妙な達成感を覚えました。

ですが、まだ私の思惑は半分です。
まだ、下半分があるのです。

大きく在す肝臓を、最初私は持ち上げようとしました。
しかし、どこか分からない所で体と繋がっているらしく、強い抵抗を感じます。
私は仕方なく包丁で肝臓を端から切り崩し、少しずつその体積を減らし、そして完全に外へと運び出しました。

次に醜い大蛇のような腸を掻き出しました。
ねじくれ、複雑に絡まった腸は、こうして広げなければ収拾がつきません。
広げた腸の最下部に根本を見つけ、包丁でそこをちょん切ります。

それからすぐに異臭のする腸を捨て、食道と地続きの胃もその境目らしきところで切断します。
消化器官も捨て去り、そうしてようやく一息つきます。

レイヴン様の胴体の中身は、完全に空洞になりました。

生命の必須構成となる要素のほとんどが除かれても、やはりレイヴン様は生きていました。
肺が無い為に声こそ上げられないものの、著しく歪んだ恍惚の表情は、異常な痙攣で蠢いています。

そこで、私は膝から崩れ落ちました。

人体の中身がぶちまけられた、血溜まりのベッドの上で、私は構わず倒れこみます。
すぐ近くに空っぽのレイヴン様がいて、ただじっとその様を見るしかありませんでした。

ひたすらに、ただじっとレイヴン様を見つめていました。

レイヴン様はその腹の中とは裏腹に非常に満たされた表情をしており、
熱のこもった瞳が、私の視線と交わると、


レイヴン様は、凄絶に嘲笑(わら)いました。


その惨烈な表情に中てられ、私は戦慄し、強張って動く事もできませんでした。

レイヴン様は私の腕を取ると、関節が外れそうなほどの強い膂力で引き寄せました。

「レイヴン様ッ――!」

同意もなしにあのような事をして、不興を買った。
表情こそ満足げな演技をして、実の所はちっとも気持ち良くなかった。
用済みになり邪魔者となった私の、最後の一日だった。

そんな理由から、私は罰を受ける。

恐ろしい臆測に私はがちがちと震え、涙が零れ、レイヴン様がこれから行う「何か」に従うしかありませんでした。

レイヴン様は、その空洞の胴体を近づけると、
私の体を、その中に引きこみました。

血と肉に囲まれた私は思わず自由を求めて手足を伸ばそうとしましたが、レイヴン様の腕がそれを押しとどめ、無理矢理にこの空洞の胴体に抑えこまれます。

私の体は小さく、そしてレイヴン様の体は大きいものでした。
体を縮こませる必要はあるものの、私の体の大部分はレイヴン様の胴の中に何とか収まる大きさです。

やがてレイヴン様の腹部周囲の皮膚が、私の体に沿う形で再生を始めました。
そして、畳んだ足の隙間を縫って腸がうねり、閉じた腕の間から心臓が創出し、レイヴン様の肉で次第に圧迫される私は、死の恐怖を感じました。
このまま、レイヴン様の体の中に閉じこめられれば、血肉に口を塞がれ窒息死する事でしょう。

私はなんとか顔を出そうとしましたが、レイヴン様は私の額を押さえつけ、ただその瞳を煌々と輝かせて私が肉に埋もれていく様を眺めていらっしゃいました。
そして、肺が出来上がると、発声機能を獲得したレイヴン様は大きく息を吸い、仰りました。

「お前の狂気を感じたぞ……」

その声は、レイヴン様の体の中にいる私には、とても良く聞こえました。

「だが、足りない……結局お前は、枠に収まった狂気しか知らない……。
それでも――お前が私の腹を捌いたお陰で、私はこうして、新たな『方法』を考えついた」

レイヴン様の胴体が完全に再生し、私は血が流れこまないよう口を閉じて息を止めました。

「さあ――私の中で足掻き、藻掻くがいい。
肉を掻いて、血を啜り、皮を蹴り、内臓を押し潰せ。
私としては、お前の命を取るつもりはないが……嗚呼、気持ちが良くて、解放するのを躊躇ってしまうかもしれないなァ……?」

「…………!」

レイヴン様の中で命を終える。
その光栄さたるや、身が怯える程に貴いものです。

しかし、私の未熟な精神は、まだ生きたい、まだレイヴン様に仕えたいと、馬鹿げた感情を先行してしまいます。
苦しみ悶える体は愚かな生存本能に従い、脱しようと蹴破ろうと、レイヴン様の皮膚を足蹴にしてしまいました。

「アアッ……! 良イッ……!」

そんな私の不敬に、レイヴン様が愉悦に声を揺らしました。

段々と脳が酸素の欠乏に締め上げられます。
窮鼠の状態にあった私は、生命への執着をこめた力で一蹴しました。

すると、私の脚は、レイヴン様の皮膚を突き破ってしまいました。

「――ンァアアアアッ! 気゛ッ――持ッヂ良イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!」

雄叫びは私の鼓膜を突き破るように大きく、何より荒ぶる感情を持って空気を震わせました。
外気に触れた私の右脚をレイヴン様は撫でられ、そして爪を立てました。

「……ッ!」

「ああ……さあ……元に、戻せ……! もう一度、私という殻を破ってみせろ!」

レイヴン様は私の右脚を体内に掻きこみ、
窒息に耐え切れない私は、レイヴン様のお望みを叶えて解放されようと、すぐさま左脚を蹴り出します。
そして、人間の皮膚を破る感覚を、覚えこみました。

「ガアッ! ハアァッ……! 良いなぁ……! 素敵な刺激だぁ……!」

レイヴン様の悦びの声に、私の体は希望を持ちました。
これで、私は外に出られるかもしれない。
あわよくば、お褒めのお言葉を拝受する事ができるかもしれない――。

しかしレイヴン様は、私の左脚もまた体内に収めると、粘滑(ねばらか)に言ったのです。

「だが、ああ……まだ満たされない。まだ足りんのだ……。
まだ死ぬような時間じゃぁない……さあ、じっくりと私を楽しませてみろ……」

「! ――ッ!」

脳が割れそうな窒息の苦痛の中で、その言葉は頭を叩き潰しました。
理性は最早崩壊し、野性が剥き出しになって暴れます。

私はレイヴン様の中を無我夢中で掻き回しました。
腸を脚で捏ね繰り回し、肝臓を締め上げ、背骨を殴り、心臓を握り潰し、腹を幾度も空けました。
レイヴン様はこの私の不敬に、随分と充足していました。

「そうだッ! 生き足掻いてみせろッ!
お前が、生きようとする度にッ! アアッ! 私は――生きる実感をッ! 覚えられる!」

その声を出す為に震える肺を顔に受け、生存本能のままに私は肺に歯を立てました。
どうだっていい。なんだっていい。
私は息をしたい。生きたい。その為に息絶えたりしたくない。

その為に、
私は、レイヴン様の空気を奪います。

生命の全ての力をかけて、自分でも信じられない膂力をもって、私は肺を引きちぎりました。
目は、見えません。しかし、肺全てを気管から剥がしてやれば、耳にごぼりごぼりという空気の音がしました。

私はその音に近づき、口を開き、
レイヴン様の気管を、含みました。

「……ッ!」

レイヴン様の動揺が、口の中まで伝わります。

裂けた気管から、血が口に流れこみます。
しかしそれ以上に必要なものを、空気を酸素を、わずかながらも必死に吸いこみます。

口をぴったりと気管に沿わせなければ、空気が漏れ、隙間から血肉が妨害をする事でしょう。
だから私は貪るようにレイヴン様の気管に吸いつきました。

意識はようやく回復していき、私は狂々(ぐるぐる)とした感覚を覚えました。
がりがりと無意識に掻く四肢に、びくりびくりと周囲の肉が反応を返します。
生命の危機を脱した私は、ようやく余裕を持ってこの状況を受け入れました。

血と肉と臓物と骨の抱擁の中。
全身を包む、何よりも豊かな存在。

レイヴン様の、中にいる。

その事実を振り向き再確認してみると、
私の心身は、大きく痙攣しました。

それは、先程まで感じていた死への恐怖ではありません。


何よりも満ち足りた、生の実感でした。


――狂っている、と私のどこかが囁きました。

しかし。
それが私の望んだ幸せなのです。
私が選んだ幸せなのです。

私はレイヴン様に関われるのであれば、何だっていいのです。
従者でも慰物でも道具でも使捨でも食料でも。
例え狂い歪んでいると揶揄されても、私はそれでいいのです。

私は嬰児のように身を丸くすると、
レイヴン様の胎の中で、外に産まれ出てしまうその時に脅えながらこの甘美を享受しました。


その甘い時間は、数時間の事だったのでしょうか。
ですが、私には刹那に感じました。

レイヴン様は自らの御腹を開かれて、私を体内から引きずり出しました。
血と肉片と分泌液で飾られた私の姿を見て、レイヴン様はほんの数瞬だけ表情を変えます。
ですが、すぐに無表情を努められ、私にお声がけくださいました。

「……お前は、狂っているな」

私は「ありがとうございます」とつぶやいたつもりでしたが、口が開閉するだけでした。

「私に脅えながら、何故私に尽くすのか」

御恩の為にございます。

「私がお前を殺しても、お前は私に従うのか?」

躊躇はあるかもしれませんが、御命とあれば。

言葉にならない鳴き声だけが口から洩れますが、私はこくこくと首肯してレイヴン様に返答します。
私のその様に、レイヴン様は口を曲げて見下げられました。

「全く、不可解な幼子だ」

いえ。私にとっては当然の事です。
私はレイヴン様に仕える事こそが至上の喜びなのです。
何故、と聞かれても、私にはそれだけが真実です。

何故そうなるに至ったかなど、昨日も一昨日も一昨昨日も記憶できない私にとっては、覚えていない遠い過去です。

ですが。
私の中に息づく確信は、間違いなくレイヴン様に向いているのです。
私にとって、誰よりも何よりも、三千世界の全てをくべても、レイヴン様を讃えます。
恐らく、顔も忘れた父母よりも。

「わたしは、レイヴンさまのしもべですから」

ようやく、言葉にできました。
何にも代えられない立場を誇り、私は安らかに微笑みました。

レイヴン様は私のその言葉を聞くと、目を伏せて困惑なされました。

「……私もまた、狂っている」

そう仰られるに至った背景など、私のようなものには推し量れないものでしたが、
そのお言葉を耳にして、私は頷くのをためらいました。

しかし、心の中で同意します。
常人にとって、痛みとはとても嫌なもので、
それはレイヴン様に仕える私にとっても、嫌なものです。

それをレイヴン様は、とても喜ばれて受け入れているのです。

私にとって、レイヴン様が正気であろうと狂気であろうと、変わらずお仕えする所存です。
しかし、どうにも今私の目の前に在すレイヴン様は、狂っている事を負い目に感じられているようで、
私の言葉で肯定も否定も口にする事ははばかられました。

と――。

私の腹が、狂々(ぐるぐる)と音を立ててしまいました。
私は慌てて腹を抱えます。

腹に収めたはずの糧は、数日分の飢えに耐えられなかったようなのです。

しかし、その獣の唸り声のような飢えた音は、レイヴン様のお耳を汚したようでした。
レイヴン様の視線が、私の腹に注がれています。

恥辱に顔を赤らめて、私はすぐに身を床に投げました。

「お聞き苦しい音をお聞かせしてしまい、誠に申し訳ございません!」

私が全身で謝罪を表すと、しばらくレイヴン様は黙されていらっしゃいました。
ですが、くつくつと笑われる声が、次第に哄笑へと、狂笑へと変じていきます。

レイヴン様はその狂笑を急に止めると、その右脚の爪先で私の顎をくいと上げ、その瞳を合わされました。

その御顔には、狂われたような笑みが貼りついていらっしゃいました。

「……私とお前の、この狂った隷属に相応しい褒美をやろう」

レイヴン様は包丁を手に取ると、私に見せつけるようにその輝きに舌を這わせました。

私は、顔を伏せる事も動かす事もできません。
まるで釘のようにレイヴン様の爪先が、私の顎を固定しているのです。
だから、この後の光景をじっくりと見てしまうのです。

レイヴン様は、私に触れている右脚に力を入れ、包丁を掲げてこう仰ったのです。

「包丁はやはり、食材を切る為に使うものだ」


悪夢を見たようで、私が起きた時には、寝間着が汗を吸っていました。
私はぐるぐると回る頭を何とか抑えて、新しい今日をまた始めるのです。

腹に手を当てると、こちらもぐるぐると空腹を訴えているのでした。
この分ですと、恐らく何日もまともに食事をしていないのでしょう。

でしたら、きっと食材も何もない状態かもしれません。
私は諦め半分でベッドから降り、キッチンで法力式の冷蔵庫を開きました、

そして、私は驚きました。

そこには、皮が剥がされた塊の肉があったのです。
しかし、塊の肉しかなかったのです。

何故かそこには、値の張る肉だけがあって、安い野菜はどこにもなかったのです。

「……昨日の私は、イノシシでも捌いたのでしょうか?」

まさか。
素人の私には、小動物程度しか捌けません。

疑問は湧きますが、目の前にある肉を食べない道理はありません。

私は肉を手元に寄せると、その肉をまな板の上に載せました。
全体像を見るに、どうやら動物の後ろ脚を切り落とした肉のようです。

太めの骨の断面が覗いていて、良い出汁の出そうな骨髄がたらりと垂れています。
また、肉部分の脂身は少なく、赤身がかなり多いです。運動量の多い、小さな馬の脚でしょうか。

私は骨と肉を包丁で分け、かつ肉を一食分のものに切り分けます。流石に、この量の肉を一回で食べきれるものではありません。
そして、今回食べる分以外の肉を冷蔵庫に再び戻し、私は鍋に水を張り、火にかけます。

私は骨を最初包丁で切ろうかとも思いましたが、非力な私には到底無理そうでした。
なので、私は金鎚と釘を取り出すと、釘を火で炙って消毒した後、骨に釘を打ちつけ、少しずつ骨を分けていきます。
そうして分けた骨を鍋に入れ、塩胡椒を入れて煮立たせます。

それから、私は肉の調理に取りかかりました。
塩胡椒は既に骨のスープに使っているので、他の味付けにしたい所です。

そこで、私はキッチンの奥底を探ると、いつ買ったかは分からないカレー粉の缶が出てきました。
開封して匂いを嗅ぎましたが、腐ってはいないようです。

少し舐めて、カレー粉の味加減を見てみます。少々薄味です。
これならばと、私はカレー粉をまんべんなく肉にまぶしていきます。
更に、ついでに出てきた小麦粉も肉につけ、肉汁が外に出ないようにします。

私はフライパンを取り出し、充分に熱した後、オリーブオイルを行き渡らせます。
そこにカレー味の肉を載せると、非常に香しい匂いと、食欲そそる音が鳴り響きました。

私の腹は、ここで一番大きく鳴きました。

中火で、ちゃんと中まで火を通して数分。
頃合いと思い肉を皿に盛りつけ、骨のスープを器に注ぎ、私は両手に皿を持っていそいそとテーブルに移ります。

フォークもナイフもスプーンも持ち、椅子に座って十字を切ります。
誰よりも偉いという傲慢な神に祈るというより、単なる癖のようなものです。

ともかく、食前の行為を行った後、私は最初にスプーンを手に取りました。

少々黄色に色づいたスープは、飢えた胃袋にとても染みました。
塩胡椒と骨の旨味だけで、ここまでできるのかと思い知りました。

私はがめつく一気にスープを飲み干すと、いよいよナイフとフォークを手に取りました。

肉はナイフを入れるだけで切れる程柔らかくはありませんでしたが、前後に動かすだけで難なく切れました。
ほんのわずかに肉汁が溢れ、私は唾を飲みこみ、肉を口に入れました。

その肉の、何とも美味な事でしょう。

空腹は最高の調味料ではありますが、しかし、こんな贅沢な肉を口にしたのは、生まれて初めてかもしれません、
カレーのスパイスが肉の旨味を引き立てて、嚥下するごとにもったいないと思ってしまいました。

そうして、全部を胃に収めて、私は幸福の一時にひたりました。

そこで、急に口についたのです。

「レイヴン様……」

叶いはしませんが。
もし、このテーブルの向こうにレイヴン様がいらっしゃったら。

この一時は、人類が歩んできた歴史上で最も貴重な一時になり得たでしょう。

私は、空想上の虚像を、テーブルの向こう側に投影いたしました。
そして、


レイヴン様は、凄絶に嘲笑(わら)いました。