空の飛び方

Would you give up your hands to fly?(お前には、空を飛ぶために両手を諦める覚悟があるか?)
That is what the birds have done.(鳥はこの交換を承知したのだ。)

The One Thousand Questions




空を飛ぶ事に一回も憧れない人間は、一体どれほどいるというのだろうか。

異国の草原で寝転ぶ、この若者であっても例外ではない。

双頭の鷲の旗を差し、
異国を本国のものにせんと、
使命を負って郷遠き地に身を投じていた。

しかし今、彼の属する部隊は剣を置いている。

今日は、安息日だという。
戦争下では通例無視されるこの日だが、
敬虔あるいは怠惰な兵士が、部隊長に今日が何の日であるかを進言したのだ。

それが受け入れられたのは、連日の進軍と戦火に疲弊したが故でもあり、
兵糧が乏しく、また補給の目途が立っていない現況がもたらした、一種の現実逃避だった。

とかく、今は束の間の休息を享受していた。
若者は晴れた草原に横になり、ただ一人で空を仰いでいた。

別に孤独を愛する訳でも仲間外れだという訳でもないが、
無辜の村を襲おうという、収奪の打算の輪に入るのは、あまり良い気分ではない。

晴れやかな空に暗雲たる思いを照らし出し、嘆きの息が風に溶けた。

その風を受けて、一匹の鳥が空へ浮かび上がる様を見た。
ありふれた光景に、若者はふとつぶやいた。

「……空を、飛べたら」

無意識下から、その仮定を持ち出した。

人が空を飛べたなら。
鳥のように、空を飛べたなら。

別に、鳥でなくとも、蜚蠊(ごきかぶり)であっても空は飛べるだろうが、
しかしやはり、空を飛ぶのは鳥のようでなくてはならない。
そう、思った。

では何故、人は空を飛べないのか?
当然、翼がない為である。

ではどのようにすれば、人は翼を得る事が叶うのだろうか?

子供なら、黒い外套を羽織ってばたつかせ、「があ、があ」と鳴いて鴉の真似をした。
遠くの風の噂では、愚者が翼状の大きな木版で屋根から飛び上がった。

しかしそのどちらも、結末は親に怒られるか骨を折るかであったはずだ。

一体、人が飛ぶ翼はどんな翼であろうか?

そこで、若者の脳裡に寓話がよぎる。
東のローマから来た者の口承である。

塔に幽閉された二人の父子は、蝋でもって翼を作り、空を飛翔し逃亡した。
しかし子は、その翼によって風を切る感覚に溺れ、空高く飛び上がる。
そして太陽は子の翼の蝋を熔かし、翼を失った子は海中に没した。

その寓話では終に墜落したものの、空を飛ぶ翼のその大きさとはどんなものだったのだろうか。

空想の中で、身の丈はある翼を以て飛ぶ姿を思い浮かべる。
思い浮かべて、微笑した。

きっと、底抜けに爽快な気分だろう。

風を切る感覚は覚えている。
号令により、馬を全力で駆けさせた思い出がある。
その速度の快たるや、もう一度味わってみたいものだった。

もしその速度で、この身で空を翔けられるならば。
蝋の翼であっても太陽に近づこうとした子の胸中を、深く理解できる。

――翼が欲しい。

数多の先人も欲した、その願望を抱く。
願望のままに、手を伸ばした。

空に向かって、まっすぐに手を伸ばす。
勿論、それで何をも掴めない。
それでも憧れを表明する。

手を伸ばし、鳥の影と己の手とを重ね合わせ、視覚上で鳥を握る。
しかし鳥はするりと手から逃れ、若者の手は単に突き上げられて拳をつくったまでの事だ。

若者は、届かない鳥にその願を掛け、躍る瞳を目蓋で閉ざした。


フランスの空に、人工物が浮かんでいる。

それは、人類がついに空に触れる事を叶えた技術。
醜く膨らんだ、気球というものだ。

その気球が都会の空に二、三個ゆっくりと浮かんでは、ゆっくりと落ちていく。
緩慢な動作をするその様は、彼の平坦な感情に波を立てた。

「人間が空を飛べる」という噂を聞いた彼は、それに期待をこめて足を向けた。

無辜の民と違い、不死の枷に囚われた彼は、あらゆるものに飽きを感じていた。
その飽きを満たす為には、未知なる快楽を求めなければならない。

だが、あれは果たして「飛ぶ」と言えるものだろうか。

彼は、若い頃に思い描いた空想を引っ張り出した。
背に翼を授かり、風を切って自由に飛ぶ様を。

そして、気球というものはどうだろうか。
単に空中を浮かぶだけで、動くには気流というものに頼らなくてはいけない。

その怠惰な浮遊を「飛ぶ」と言うのは、客寄せの過剰広告に汚れている。
彼にとって、それは「浮く」としか言いようがないものだった。

まだ、人は飛べないのか。

落胆を抱きながらも、彼は気球を乗ろうとする群衆の列の中に紛れていた。

「散々扱き下ろした物体に、金を払ってまで乗りこむのか」と、背後で架空の声がする。
彼はそれに、独りで頭を振った。

せめて、空から見下ろす景色というものは見たいのだ。
空を飛べずとも、浮けるというのならば、その未知の景色は見れるだろう。

「待つ」という、退屈の極致にある行為に耐え忍び、ようやく彼の順番が巡ってきた。

彼の前に興行師が塞がった。
この気球商売が盛んである事を、気球のように膨らんだ腹が主張している。
商売用の笑みを浮かべ、興行師は手を伸ばした。

何度も札束を握ってきた厚い手の平だ。
その手の平に触れないよう、わずかに数インチほどの高さから金貨を落とした。

興行師は軽い頭を下げ、彼を気球の傍へ促した。

近くで見れば、小さく見えた気球が実体の大きさを伝えてくる。

何しろ、人間の二、三人を飛ばす為のものである。
その重量を大地から離す為の風船部分は、威圧するように頭上で膨張していた。

風船の下には、人間が乗る為の籠がある。
何らかの植物で編まれ、染色されたその籠は、煤で黒ずんでいた。
乗り降りしやすいよう、その籠には簡易な扉がついている。
籠の中には、気球を飛ばす為にいるのであろう、これまた黒ずんだ興行師の従者がいた。

気球の直下には大きなランプらしきものがある。
そのランプを焚くからこそ、従者は煤で黒ずんでいるのだと知った。

彼は籠の扉を開き、中に入る。
客である彼が籠に収まった事を確認し、従者は籠の入り口を閉めてランプに火をつけた。

油の燃える臭いを撒き散らしながら、温められた空気は風船部分に溜まっていく。

しばらくの時間を消費して――、
足下で感じていた、地面の確かな感覚がふわりと掻き消えた。
ぎしぎしと頼りなく揺れる籠に不安を覚えながらも、彼は地面から離れていく。

従者は何も声をかけない。ただランプを焚いている。

彼は気球で起こる事柄に興味を無くし、気球以外に視線を向けた。
そして眼下の景色が縮小していくのを見て、ああ、とため息を吐く。

震えない。

彼の予想が裏切られなかった事に、諦めながら落胆した。
結局、この空を浮く感覚は、既知の感覚を集めて縫い合わせたツギハギ(パッチワーク)なのだ。

眼下の景色も、肌をよぎる風も、その一つ一つが過去の感覚でしかない。
時計台から見下ろした景色も、馬を走らせて切る風も、彼の過去にあった出来事だ。

この狭苦しい籠の中に二人いるというのに、彼は空で孤独を味わった。

気球の傍を横切る鳥が、狂おしく羨ましい。

せめて、
せめて、自らの意志で空を飛びたい。

このようなものじゃぁない。
他のものに頼って動くようなものじゃぁなく、自分によって動きたい。

この己が身ですら、己の望むままに死に絶えはしないのだ。
せめて、高空を、風を切って、自由がままに飛んでみせたい。

彼は焦がれた未知の感覚ではなく、
何度も味わった苦渋だけを携えて、
数分間の浮遊は呆気なく終わった。

従者がランプを絞り、墜落しないよう、ゆっくりと下降していく。
地面から離陸した時の光景が逆再生されていく模様は、二度目だというのにとうに飽きていた。

足元に地面の感覚が戻ると、ぞんざいに籠から追い出された。

当然だ。
列を成すほどに俗物が集まっているのだ。
興行師は回転率を上げるため、用無しとなった彼ではなく、これから金を払う客に向けて笑みを配っていた。

何も得られなかった彼を残して、気球体験をした者の口から語られる興奮の声が耳をつんざく。
彼は耳を揉みながら、烏合の衆から早急に離れた。


離陸する際に耳菅を満たしたエンジン音は、最早背景のように思えた。
五月蠅いばかりの音であろうとも、常時鳴り響けばそれは静寂に等しい。
彼は空を浮く鉄の中で、窓の外をじっと睨んだ。

今まで己の立っていた街はすぐミニチュアとなっていき、遥か遠くにあったはずの雲へと迫っていく。
手を伸ばしても叶わなかった雲上の世界が、今、彼の目の前に展開された。

雲をあっさりと突き抜け、飛行機は雲海の飛魚となって海上を駆ける。

空を飛んでいる。
肉の翼ではなく、鉄の翼をもって、人間は空を飛ぶ術を身につけたのだ。

それを実感して、彼の胸中に浮かぶ思いは古びた落胆だった。
かつて偉業と思えた事が、こうも矮小なものだったのか。

いや、これは人間にとって全く矮小なものではないのだろう。
己という錆びついた存在が、この偉業にすら驚嘆しない感情になったという事でしかない。

最早、自分を救い得る発見も発明も、何もないのか。

鉄の翼に冷たい視線を送っていると、彼の心を揺るがす景色が飛びこんできた。

太陽に照らし出された、黄金の雲海か。
あるいは夜の帳に散りばめられた、鮮明に光り輝く星々の宝石か。
ともすれば、雲上に舞い上がる、力強い鳥の羽ばたきか。

そのようなものではなかった。

高揚する彼と同じ景色を見た他の乗客は悲鳴を上げる。

「エンジンが! 外れていった!」

翼の下にあった丸く太いエンジンがもげ、取り返しなく雲海に沈んでいく。

悲鳴は他の乗客に伝わり、すぐさま機内がざわめき出す。
客室乗務員はコックピットに繋がる電話を取り、話し合った後に機内放送を始めた。

「皆様、エンジンが外れたとの件についてでございますが、飛行機の設計上、エンジン一基が外れても墜落はしないようになっております。
申し訳ございませんが、万一の事を考え、付近の着陸可能な航空と連絡を取っております。
こちらの便では目的地であるケネディ空港には着陸しませんので、何卒ご理解・ご容赦のほどお願い申し上げます」

恐怖にどよめく乗客と別に、彼の目は爛々と輝いていた。

墜落。
一体その体験とはどのようなものであったのだろうか。

鉄道や船舶、自動車での事故は度々聞いている。
しかし、以前に起こった墜落の事故というのは、彼の興味を惹くようなものであった。

何しろ、本来人が存在する事のない空を、科学で無理矢理飛ばせてやるのが飛行機である。
その飛行機が機能を停止すれば、身を支える海も陸もない空で、どのような事が起こるのか。

曰く、地面への激突で、肉と鉄の境目も分からないほどに潰れた。
曰く、一人分の遺体かと思えば、人間と人間がぶつかり合ったせいで二人分の遺体であった。
曰く、周囲にはジェット燃料と金属と肉塊が混在して焼け焦げた臭いが立ちこめ、地獄のようであった。

その無残、当事者の痛みとしてはいかようなものであろうか。

エンジンのない翼をうっとりと見つめて、彼は最悪の事態に思いを馳せた。

普段であれば眉をひそめ、忌避するような周囲の喧騒は、
今この時は、これから来る悲劇の惨憺を引き立てる供物として歓迎できた。

あちこちで騒ぐ乗客をなだめる客室乗務員の内、一人がコックピットの扉を開いた。
その時耳をそばだてれば、コックピットから機長の大声が聞こえてくる。

「――パン・パン! パン・パン! パン・パン!」

故障(Panne)
そして三回続けての準緊急事態(Pan-pan)

飛行機は空に溺れる鉄屑になりつつあるという宣言が、聖句のように感情を洗い出す。
死の果てへと降下せんばかりの森羅万象が、鮮明に色づいた。

澄み渡る空を駆ける飛行機は、再度雲に身を沈め、大気の中で溺れていく。
雲の群れを抜ければ、眼下に広がる色とりどりの街並みが待ち構えていた。

段々と高度を下げていく様が乗客は青ざめ、祈る者や、中には過呼吸から気を失い者もいた。

秒針が音を立てるごとに大地との距離が縮まっていった。
飛行機は旋回を繰り返し、着陸予定の空港へともがく。

眼下に滑走路がちらりと見えると、彼は息を呑んだ。

「衝撃に備えてください!」

マイクも取らずに、客室乗務員が叫んだ。取る暇も惜しいのだろう。
その叫び声に従い、乗客は一か八かと背を丸めた。

彼もまた祈りながら背を丸めたその瞬間、下から突き上げるような衝撃が機内全員を襲った。
衝撃に女の悲鳴が聞こえる。
だが、悲鳴を上げられる口と、悲鳴を聞ける耳が無事なのだ。

彼の祈りは何者にも届かず、何者にも望まれないまま、孤独の闇に落ちる。
金属がアスファルトと擦れる甲高い音は、祈りの断末魔に等しい。

やがて、飛行機の失速は緩やかに停止へと移ろい、不安と安堵の混じった囁きが聞こえる中――、

「皆様! 当機は空港に着陸いたしました!
焦らず、近くの乗務員の誘導の下、機外へ速やかな避難をお願いいたします!」

機内放送に歓喜の声が上がる。

乗客は立ち上がり、誘導に従って避難を始めた。
彼はしばらく虚空を見つめていたが、機内の乗客の半分が出た頃、ようやく腰を上げて避難を始める。

わずかな期待をもって乗ったはずの飛行機から、大いなる落胆をもって機外に出た。
鉄製の梯子のステップを踏み、レスキュー隊の群れに囲まれながら、彼は唇を噛む。

――結局、そうなのだ。

自分はもう、痛みにしか救いを求めていない。
空を飛ぶ快楽すら、自分を満たしはしないのだ。

現に、空を飛んでいた時はどうだった?

つまらないと、窓を眺めていた。
しかし、墜落するという示唆を得て、その時の高揚はどうだった?

自己嫌悪が、彼の心を食んだ。

――私は空を飛ぶ事よりも、空から落ちる事を望んだのだ。
かつて憧れた空ではなく、今の自分を満たす痛みを求めていた。

安堵にむせび泣く声が、なおの事彼を傷つける。
その声は、「お前は人間の願望からかけ離れた化け物なのだ」となじる声だった。


「君は、風のようだね」

それは比喩ではなく、指摘。

これまでの当然であった自然法則を外れ、不自然に渦巻く緑風が、彼の手指に生じている。
手解きを受け、初めてうまくいった法術だ。

人類がこれまでに求め、そしてついに手にした無限のエネルギーのリソースである、法力。
その結実となる妙技に撫でられ、彼は手指をじっと眺めている。

そんな彼に、少年が続けて話した。

「法力は、五大元素で体系化されている。
火、雷、水、風、気……。
人は基本的に、その内の一つは習得できる。
そして君は、その五つの中から今、風を手にした。
この分なら、そうだな……その身一つで、空を飛ぶ事も可能だろう」

「空を、飛ぶ?」

無感動に、彼が復唱した。

「そう。鳥のように、自分の体だけで空を飛べる。
グライダーも飛行機も必要がない。風を切って飛ぶ気分が味わえるよ」

その気分を思い描いたようで、少年はその口元に微笑を作った。

「……左様で」

楽しげな少年の様子に水を差せず、彼は感情を隠して虚ろを吐いた。


レイヴンは空を駆けていた。

無論、その身を衆人の者々に晒すような真似はしない。
自らを渡る風の虚ろと化し、目的地へと向かっていた。

澄み渡る空。
気流に逆行し、重力のくびきを切って疾駆する。
風がレイヴンの頬を、首を、肩を背を腰を滑る。

空を飛ぶ実感が、レイヴンの五感に覚える。
だが、感じはしない。

今更、感慨などあるはずもない。

過去に憧れた「空を飛ぶ」この行為は、ほんの少しの慰めももたらさない。
そもそも、その憧れていた感情が本当にあったのかすら、忘れかけていた。

時流は彼の感情だけではなく、かつての己すらも啄ばんでいく。

初めて空に手を伸ばした記憶。
初めて眼下に街を認めた記録。
初めて雲上を眺められた記刻。

全てを体験したのだという確信がないほどに、己が薄らんでいる。
そして恐らく、今の己もまた、未来に朧となって忘却する。

ぞくりとした。
体温よりもずっと低い気体に触れ続け、震えて、
常人よりもずっと永く時間に犯されて、震える。

生命の温度から離れていく孤独から目を逸らした。
彷徨う視線は、何者も存在しない死の空から、緑溢れる地上へと向けられる。

草原がスクロールしていく。
その緑の中、一点だけ肌色が存在していた。

レイヴンは一瞬でその点の上を通り過ぎ、その姿を脳裏に再生する。

刹那だけ再生されたその若者は、空の鳥を掴もうと手を伸ばしていた。
彼は過去の己を何故か思い出して、そしてすぐに忘れた。