世界はそれでも

ゴミ箱のタブロイド紙を鴉が持ち去ったとして、誰が気にするだろうか。
それを見たとしても、巣材にするのだろうと思うだけだ。
その塵紙が何者かの手に渡るなど、誰も推察しない。

「おお、娘達……」

レイヴンが召喚した鴉達(シュヴァルツ・ヴォルケン)は、街のあちこちから情報を掻き集めていた。
落ちていた新聞、あるいは人々の歓談、街道工事から、城の庭園の警備まで。
そこに鴉がいても別段の警戒を払わない場所を中心に、情報網を構築する。

警備の厳重な王室、また秘められたオペラハウスなどに、この鴉の目と嘴は行き届かない。
しかし重大な物事というのは、全て密室で片付けられるものではない。
公開情報の諜報(OSINT)により、情報と情報の間に糸を見出し、繋ぎ合わせる。
そうして浮き彫りにならざるを得ないほど、秘密というものは脆弱性を抱えている。

だが、膨大な情報の海の中、単なる漂流物にしか見えない事件事物の数多き事。
遍く全てを総当たりで結びつけるなど、指数的爆発を起こす作業量で溺れる事となる。
故に、情報は目を通し、精査しなければならない。

人目から離れた森深くで、レイヴンは溜息を吐いた。
彼の傍らには、鴉達が集めた情報が山となって積載している。

正午を回らない内にこの量である。
この山に果たして砂金を見つけられるのか。

これまで何十回と掘り起こしては、大概空振りで終わるこの作業。
必要性は理解していても、これは気持ち良くなれない苦痛である。

レイヴンは苦い顔をし、下世話な文章の躍る記事を流し読む。
連王の動向、権力者の突然死、料理店の広告、鉄屑(がらくた)への苦情……。
全く興味を抱けないまま「使える」か「使えない」かを選り分ける。
単純作業を継続していき、黙々と粛々と山が削られる。

その最中、レイヴンの手が止まった。
同時に、記事の単語に目が留まった。

自殺(Suicide)

自分が幾度も試みたその単語に、自然意識が向けられる。
レイヴンはその記事に注視すると、事件の概要が浮かび上がった。

曰く。
某月某日。ある二十代男性が自殺した。
男性は女性と別れた直後であり、周囲の人間に絶望と失望の程を明かした。
そして、自宅で首を吊った。

世間という観点からすれば、これは非常にありふれた日常だ。
別に「慈悲なき啓示」に繋がる訳でも、何ら重大なものでもない。

しかしレイヴンは、その単語がありふれている日常に苛立ちを覚えた。
苦々しく歯を噛んで、あえて記事を破り捨てる。

とかく、今なすべき事はこの山を超える事だけだ。
レイヴンはすぐに平常を努め、記事を淡々と分けていく。


鴉達をバックヤードへ還し、レイヴンは肺の底から息を押し出した。

今回も相変わらず、収穫はなかった。
中には未来の情報と照合すれば有益となりえる情報もあったかもしれない。
とにかく今日の時点では、収穫はない。

レイヴンは集めた記事類を燃焼させ、この場に留まった証跡がないか確認する。
一つうなずくと、彼は街に背を向け歩みを進めた。

獣すら通らぬ地を踏み、森の更なる深奥へ。
緑葉と桑茶の天然色だけの世界の中、人間の色が遠くに見え始めた。

レイヴンは怪訝な顔をして、空間迷彩の法術をかける。
周囲の自然に偽装しながら、その色に迫り正体を見極めた。

その色は、男の姿をしていた。

寝起きのままのような、ぼさついた髪。
他者の目を諦めた、こけた頬と隈のある目。
森には場違いな、普段着のシャツとジーンズ。

そして手にしているのは、長い荒縄。

それを見ただけで、レイヴンは男の企てをはっきりと推測できた。
レイヴンは不快の念をはっきりと覚え、口の端を大いに下げた。

空間に溶けている存在に目もくれず、その男は周囲を見回す。
自分の身長よりやや高く、自分が下がっても折れない枝。
吟味する視線が周囲を舐めるも、彼はレイヴンの存在に気づかずにいた。

レイヴンはじりじりと、男に近寄る。
虚ろな独り言が聞こえ始め、その内容に辟易した。

『生きている意味が何もない』

要約すれば、それだった。
レイヴンは堪らず、静かに怒声を吐き出した。

「……何故、お前たちは死を求める?」

誰もいないと思っている場所で話しかけられ、男は驚いたようだった。
周囲から人の姿を認めようとするものの、法術に長けぬ男の視界には誰もいない。

「お前たちは求めずとも、死がもたらされるはずだ……」

自分が手に入れられないものを要求できる妬み。
自分が手放してしまったものを無碍にする怒り。

レイヴンに渦巻く不快の捌け口にされた男は、魚のように口を開閉した。
ついに幻聴が聞こえ始めたと嘆き、レイヴンの声を必死に無視する。

それでもレイヴンは、追い立てるように続ける。

「私が幾万の時を重ねても、刹那の死に届かないというのに」

八つ当たりだというのは分かっている。
だが、どうせ相手は死にゆく生者だ。
その背景に同情できる惨状があろうとも、己にとっては死を浅ましく求める愚者に過ぎない。

「私は、人間だった。

最初こそ、私は人間としての感情を抱いていた。
陽光の温もりも、荒ぶ風の感覚も、かつてはしかと感じていた。

この私に死があれば、人間の心を持ったまま、人間の矜持を持ったまま、人間として死んでいた。

だが、私は死ぬ事すら許されなかった……。

歳月は私の心を腐らせ、私の矜持を潰し、私の死を弄んだ。

感覚も感情も擦り切れた今の私には、苦痛を得る事でしか救いを得られなくなった。
他者から異常だと揶揄され、それでも私が震えるには、それしか無かった。

お前はどうだ?
口にした全て、手に持った全て、鼻をくすぐる全て、目に映る全て、耳に入った全て、
何もかもが、心に何ら作用しなくなった事があるか……?

――五感の全てから受容する何もかもが朽ち果てて、喜びを渇望する心を殺して時を耐えるだけの日々に、貴様は身を置いた事があるか!」

千をも超えた月日の謗りを受け、男は耳を塞いで逃げ出した。

レイヴンは男の姿が消えた後、空間迷彩を解いた。
その顔に滲んだ絶望の色が、外気に晒される。

誰もいない森の中、レイヴンは虚ろに独言する。

「……私は決して、生きる事そのものを否定しない」

――ならば、何故死を求めるのか。
己の論理を開く度、そう問われてきた事を想起した。

その問いに、彼がつぶやく。

「私は生きたいのだ。
だがそれは、人間として生きたいという事だ。

果たして、この先に幾千幾万の時が待ち受けていたとして、
私はそれでも、人間として生きる事は可能なのか?

世界全ての生命が死に絶えた地で。
何も起こらない日常の中で。
昼と夜が堂々巡りとなる。
何もない此岸で生きる事が永久に続いていく。

やがて私は発狂するだろう。
そして、発狂してもどうにもならないと思い知らされ知り尽くしてしまい、
感情の糸が切れて、動かなくなる。
私は何も動かなくなる。
思考すらも放棄して、ただ地に倒れるだけの肉人形だ。

――その私は『生きている』か?」

自問にあえて自答せず、レイヴンは飢えた瞳で地の果てを見据えた。

「私は最期まで、人間として生き足掻いてみせる。
人間として死んで、そこでようやく私は人間のまま生きた事になる。

例え、雑言を尽くして揶揄されようとも。
永遠に私は抗い続ける」

レイヴンは、己の遺志を世界に叩きつけた。
生と死の隙間に存在する曖昧な己の、確固たる意志。

それを煙に巻くように、風が吹いた。
揺らめく深緑の世界が、その美麗たるやを見せつける。

幾重の葉の間隙を抜け、苔生した地を滑る陽光の煌き。
樹木により浄化された、清涼な薫りの立つ軽風の感触。

それでも、何も感じない。
千年に渡るありふれた感覚に、何の享受も浮かばない。

日常という牢獄の中。
永劫の罰がもたらされた己の罪を未だ知れぬまま、彼は虚空に掻き消えた。


今日も、鴉が空を飛ぶ。
森の緑の塔の上で、レイヴンは今日も情報を漁っていた。

昨日も一昨日も一昨昨日もそうだった。
明日も明後日も明明後日もそうだろう。

つまりは、日常を送っていた。
必死に日常を凌いでいた。

レイヴンが流れるように記事に目を通していると、ある単語が目に映った。

自殺(Suicide)

しかし、レイヴンは心を動かされぬまま、ただその記事を「使えない」と選り分けた。