レイヴンさまはへんたいさん その3

オリジナルキャラクターメイン
恋愛描写あり
SM描写あり
嘔吐描写あり
私の記憶は、起きてから寝るまでの一日しか持ちません。

ですが、私がこうして言葉として物事を考えられる通り、ある程度の記憶は持っているのです。

空を飛ぶ黒い鳥の名前は「鴉」である事。
私の名前が「」である事。
重要な事は、左腕にメモを残す事。
私の記憶が一日限りである事。

それら言葉や知識については、問題ないようです。

しかし思い出や記憶については、斑にしか覚えていないのです。

生きるべきか、死ぬべきか(To be, or not to be」の一塊が、シェークスピアの作品の一部であると知っています。
その一端に初めて接した媒体が、演劇か小説か伝聞かは覚えていません。

誕生日にはパーティを開くものだと知っています。
実感したのが誰かの誕生日か、あるいは自分の誕生日なのか。それは分かりません。

自分を産み出した男女一組が、両親というものだと知っています。
私の両親の顔も声も姿も、何一つとして頭に残っていません。

そして、レイヴン様が私の主であり、他の何者も誰よりも、神すらも超えて崇めるべき御方であると、全ての記憶よりも深く強く知っています。
しかし、何故そうなったのか。その重要な経緯を、私は喪失してしまっているのです。

私は多分、これまで何百回と、レイヴン様の御前に私がいた最初の記憶を掘り起こそうとしたでしょう。
ですが、私がこれまでに書いたメモの全てをひっくり返しても、その重大な出来事の一片も追憶できなかったのです。

それでも。
この胸に息づく確かな熱は、紛れもなくレイヴン様に向けられたものです。
それこそが何よりも証跡であり、人間が息をするのと同じくらいに自然なものです。

それが、私です。


窓から差す光を浴びて、私は目が覚めました。

「ん……」

ベッドの上で、私は何とはなしにつぶやきます。

懐中時計は、午前6時8分を差しています。

左腕には、何も書かれていません。
仕事があればメモを置こうと決めているテーブルにも、何もありません。

「今日は……何もない日」

つまり、レイヴン様に会えない日です。

複数の日に渡って記憶を持ち越す事ができない私ですが、
そういった日が一番多く、そして一番嫌いである事を、何とはなしに理解しています。

倦怠感のままベッドを転がり、ただ身の安息に浸ります。
自分の体で温まった、ベッドと毛布は心地の良いものではありました。

時間をそうやって過ごして、やっと午前7時を回ります。

私はようやく起き上がりました。

ごくごく短い廊下を通り、居間を過ぎ、キッチンへ足を向けました。
冷蔵庫を開き、野菜と魚を取り出して、ざっくばらんに切って炒めて味付けて、一食を作って平らげます。

それからメモの多いカレンダーを見つめ、今日が日曜日だと知りました。
日曜日は求職所も休みだと、カレンダーの下の私の注意書きも知りました。

仕事はない。求める事もできない。急を要する事もない。何もない。

全く、平和で退屈な日でした。

普通の人のように毎日を過ごせる機能を持っていれば、恐らく今日のような日を享受できたのでしょうが、
今日の私は、今日だけしか生きられないのです。

私は口を洗って普段着に着替えると、家を見回しました。

家は借家で、私一人しか住んでいない事になっているはずです。
しかし見回してみると、小さな鈴付の首輪や、乾燥したキャットニップ、ペット用と思しき器をちらほらと見つけました。

今はいないようですが、かつての私は猫を飼っていたのかもしれません。

過去の私の残滓を見つめ、私は一つ柏手を打ちました。

「ペットとかは、どうでしょうか」

何かを飼えば、こういった日を無為に過ごさなくても良いかもしれません。
それに、何かがあった時の――いえ、何もなかった時の備えにもなります。

私は外に出る支度をすると、地図で家から保健所の経路を辿り、
迷子にならないよう覚えこんでから外に出ました。



ペットといえば、ペットショップで注文をしたり、ブリーダーから譲り受ける方法もありますが、
何しろお金がかかります。お金は非常に大事です。

私はペットの血統書には頓着しない性分でもありますので、
こうして、保健所に足を運んだ次第です。

数十分をかけて来た保健所の様子を探ります。
どうやら、日曜日は保健所も休みのようです。

予想はできていましたので、とりあえず保健所の付近にあるであろう檻などを探してみます。
すると、すぐに目に飛びこんできました。

保健所の裏にある、鉄格子。
「立ち入り禁止」のロープのギリギリまで近づくと、その中に犬がいる事を見つけます。

今この場で持ち去る事はしませんが、目星をつけて損はないでしょう。

「小さい犬がいいですね……」

大きい犬は、散歩の時に大変そうですし、何より餌代がかかります。

「赤犬がいいと、噂では耳にしていますが……」

ならば、小さく、そして毛並みの赤い犬。

少し遠くから吟味する私は、ただ夢中になって犬を見つめていました。
その為、その人が私の肩を叩くまで、一人だと思っていたのです。

「おい、嬢ちゃん!」

「ひゃいっ!?」

不意をつかれ、私は変な声を出しながら振り向きます。
そこには、ツナギを着た男の人がいました。

どうやら、保健所の職員の方のようです。
職員の方は朗らかに笑顔を浮かべると、私に向けて親指を上げてきました。

「犬、好きなのか?」

「あ、はい。犬も好きです」

「へーぇ。それでわざわざ保健所まで?」

「そうですね。休みでなかったら保護しようかと思って来たんですが、休みだったのでどの犬をもらおうか検討していたところです」

「あー……、そうかい……」

すると職員の方は、目を泳がせて言いよどみました。

「まあ、そいつら……明日から、別んトコに行くからよ……検討しても、明日明後日にゃあいなくなる」

『殺処分する』という事を、暗喩に包んで幼子に伝える事に苦労したようで。
職員の方の気遣いに、私は偽笑で返しました。

「そうですか。それは失礼しました」

その偽笑はただの微笑を受け取られたようで、職員の方は裏のないはにかみを見せました。

「いや、むしろこっちのが礼をしたいもんさ。
わざわざ、こいつらに会いに来てくれて――おっと、そうだ」

「立ち入り禁止」のロープを巻き取り、職員の方は犬の檻の前に私を招きます。

「良かったら、最後に――最期に、挨拶でもしてくれ」

私はその招きを受け、檻に近づき中を覗きます。

すると、中にいた犬たちは、私に気づいたようです。

人懐っこく吠え、尻尾を振る首輪つきの中型犬。
威嚇の大声を出す、耳にタグをつけた大型犬。
檻の隅で震える、背や脇腹に酷い傷がある小型犬。

その犬たちがここに来るまでの背景が、それを見るだけで朧げに分かりました。
そして、その背景にある人の影も。

「……あなたたちは、自分をそうした人たちを覚えている」

私と違って。
そう心の中で付け足して、今日の私よりも長生きする犬たちに言葉をかけます。

私はしばらく犬たちを眺めてから、職員の方に向き直りました。
「ありがとうございます。それでは失礼しました」と、収穫のないこの時間を打ち切ろうとします。

ですが、それよりも前に、職員の方は私の頭をぐりぐりと撫でたのです。

「――何、でしょう?」

「嬢ちゃん、馬に興味あるか?」

「馬、ですか?」

「ああ。この保健所には、三年前から迷い馬を飼っててな。
餌でもやっていってくれ」

どうやら、存外時間を潰しそうです。
とはいえ、今日は何もない日なのです。
馬はそれほど嫌いじゃぁないので、私はその提案に乗りました。

私は移動する職員の方の背についていき、野腹を通って大分離れの木造の小屋につきました。

職員の方は小屋の裏に行った後、人参を盛ったバケツを持って戻ってきます。

バケツをどかんと足元に置くと、その内の三本を私に手渡しました。

「コレ、小屋の中にいるから、やっといてくれ。
オレはちぃっと準備したいから、よろしく頼む」

「はい。分かりました」

快諾し、小屋の中を見ると、確かにその馬はいました。

馬は藁の敷かれた床に座りこみ、目をつぶって寝息を立てています。
寝ているのを起こしてはいけないと、私はしばらく馬を眺めていました。

栗毛の、少し痩せた馬です。
たてがみには白い毛も混じっていて、その馬は老いた馬なのだと知れました。
その馬の空気には、私が見知った色が混じっています。

死の気配。

飼いならされた馬とて、元は野性の草食動物です。
弱っている所を見せれば獣に襲われるからこそ、自身の病や怪我の素振りは隠そうとします。
それでも、その内に秘められた死の香りが、なんとはなしに漂っていました。

私がしばらくじっと見ていると、馬は耳を立てて顔を上げます。
そして私と目が合うと、よろよろと立ち上がりました。

私は手にした人参を馬の口元に運びます。
馬は、人参を検分するように鼻を押しつけましたが、「良し(グート)」と判断して、人参を口にしました。

ぼりぼり、というくぐもった音が何度か反復し、音が消え去ると――つまり嚥下すると、馬は鼻息を荒くして次を催促します。
私は二本目の人参を馬に渡した後、足音に気づいてそちらに体の向きを合わせました。

「おう、仲良くやってるな」

職員の方は、鞍や鐙などの馬具を小脇に抱えてやってきました。
私はそれも気になりましたが、何よりも先んじて抱いた疑問を解消します。

「この馬、もしかしてそろそろ寿命なのではないでしょうか?」

「……よくわかったな。
そうさな。こないだ獣医に見せてやったら、もう年だそうだ」

「そうですか」

このような馬もまた、死を得る事ができる。
そう考えた時、ふと目蓋に浮かんだのはレイヴン様の憂い顔でした。

その悲しげな美しさに目を遠くに配すと、ほうと溜息を吐きます。
それを、馬への憐憫と思わせてしまったようで、私の頭にぽんと手が置かれました。

「まあ、そう悲しまんでくれ。
これが普通で、日常だ。何かしらが死んで、だが何かしらが生まれてくる」

職員の方はわしわしと私の髪を乱すと、人懐っこそうな笑顔を浮かべて言いました。

「なあ、嬢ちゃん。乗ってみるか?
嬢ちゃんなら、軽いし、きっとコイツにそう負担はないだろう」

今日は、有り余るほどに時間があります。
断る道理はありませんし、少しばかり興味がありました。

首肯すると、職員の方は手で招いて馬の傍に寄らせます。

促されるまま鞍にまたがり、手綱を握ると、職員の方は馬を起こして手綱の端を牽きました。
すると、馬は牽かれた方向にゆったりと進み、その揺れに落ちそうになる身を慌てて固定しました。

「大丈夫か?」

「は、はい――」

大丈夫です、と続けようとしました。
ですがそう続けられなかったのは、大丈夫じゃぁなくなったからです。

馬は突然いななくと、職員の方の手を振りほどくように駆け出していきました。

「うわあっ!」

「ああっ! 待てっ! どうどうっ!」

なんとか追いつこうとしますが、人間と馬の足の速さは歴然です。

馬は私を乗せて走っていきます。
私は必死に手綱を握り、足を踏ん張り、振り落とされまいと体を強張らせました。

私はそのあまりの速度と振動に恐れ、歯を食いしばって馬に縋りつきます。
その内、速度に慣れてきた目が、再度恐れに曇りました。

「このままだと、街道に出ます……」

こんな暴走馬を道で走らせては、要らぬ騒ぎを起こしてしまいます。
そうなってしまえば、従者である私を伝ってレイヴン様にご迷惑をおかけしてしまうかもしれません。

私は馬の首を叩き、叫びました。

「止まってください! どう、どう!」

それでも、正に馬耳東風といった様子でした。
人気はありませんが、街道に入ってもなお速度を緩めません。

この聞き分けのない馬をどうやって止めるというのでしょうか。
私が、忍ばせたナイフを指でなぞったその時でした。

馬は目の前に人混みがあると察知すると、ようやくその足を止めたのです。
ほっと胸を撫で下ろしていると、人混みの中から声を聞きました。

「第一連王様だ!」

その言葉に顔を上げます。

第一連王様。
名前は覚えていませんが、非常に位の高い御方だという事は覚えています。

私は、馬のお陰で高くなった視線を生かし、遠くにその姿を捉えました。
そして、息を飲みました。

「……きれい」

殿方に抱く感想としては、女々しかったかもしれません。
ですが、その金糸の髪と鮮やかな碧眼は、遠くからでもはっきりと綺麗だったのです。

その方も同じく、馬に乗っていました。
とはいえ、私のように最低限の馬具を備えただけの老馬ではなく、一目で王家のものと分かる、上品な金や青で彩られた白馬です。

その白馬に乗った連王様は、それはとても魅力的でした。

王というのは、威厳ある印象が先行しますが、
しかし、その人は険しさと程遠い柔和な様子で、取り囲む人々に笑顔を振りまいていました。

白馬の王子様。
童話でのみ語られる存在は、その内の一字を欠いてそこにいたのです。

私は、じっと見惚れていました。

そして、連王様がこちらの方向に目を向けた時。
私は、その時愚かしくも、「私を見ている」と錯覚したのです。

自分でも分かるほどにぼうと上気して、一瞬で心臓が締め上げられてばくばくと脈打ちます。
私は連王様が後ろを向いても構わずに、ただじっと連王様を見つめていました。

時が止まれば。
一日しか生きられない私は、恐らく過去にも何度も思った事でしょう。
ですが、今日ほど強く想った事は、恐らく過去にはなかったでしょう。

私は懐中時計を強く握り、このまま壊せば時が止まるような気がして、ただ強く強く握りました。
懐中時計が軋む音を立てたその時。
遥か遠くで、ぼん、と爆発音が聞こえました。

最初は、連王様の来訪を祝う花火かと思いました。
しかし、爆発音を耳に入れた人々のざわめきと、音の立った方向からもうもうと立つ黒煙が、それは不穏なものであるとの推測に至ります。

この事態に不安に揺れる人々でしたが、しかし、連王様の顔に浮かんだ表情はどうにも違いました。

引きつった笑顔。

通常であれば、顔を曇らせたり苦い顔をしたりするものでしょうが、
どうにも連王様は、この黒煙の方角に対して、そんな表情を浮かべていました。

連王様は慌てた様子で手近な兵士に指示すると、その指示で得たと思しきマイクを手にして呼びかけられます。

『……えー、皆様。申し訳ございません。
先程の爆発ですが、今回の式典で使われるはずの花火が暴発してしまったようです。
お騒がせいたしまして、重ねてお詫びいたします』

その言葉に、人ごみから安堵の声と笑い声が上がります。
私は、その申し訳なさそうな声がどうにもおかしく、周囲につられて笑んでしまいました。

連王様は兵を黒煙の方向に向かわせると、人々に手を振ってどこかへと去っていきます。
私はその背が見えなくなるまで、ずっとずっとそこにいました。

多分、恋というのは、こんな事なのだろうと実感しました。


私がようやく我に返ったのは、昼ご飯の頃に腹の音が鳴った時でした。

私はまだ馬に乗っている事を自覚すると、慌てて踵を返します。
馬を帰さなければなりません。

慣れないながらも、手綱を手繰って馬を進ませ、ゆっくりゆっくりと歩かせます。

どうやら、先刻の疾走で、走る事については満足したようです。
息の薄い様子でしたが、生憎馬の降り方を心得ていない私は、心配しながらも馬を歩かせるしかありませんでした。

やがて、本来いるべき馬小屋を視界に収めると、遠くから手を振る人影が見えました。
その人影は私と馬を見ると、駆け寄ってきて、その人影が予想通り職員の方だと分かります。

「良かった。どうなったかと思ったぞ」

「然程、大きな騒ぎにはなりませんでした」

「良かった。それは、良かった」

そう何度も言って、職員の方は馬から私を降ろしてくださいました。
足を止めてもぜいぜいと息の荒い馬を見て、職員の方は目を窄めます。

「これは、ダメかな」

そう言って、馬小屋まで牽かずに、野原の真ん中に馬を寝かせ、馬の頭を撫でました。
私も、そのたてがみにそっと触れます。

わずかに温かいだけで、震えるその体からは生気が段々と失われていくようでした。

しゃがみこんだ職員の方は、私に話しかけます。

「嬢ちゃん」

「何ですか?」

「こいつと見た景色はどうだった?」

私は、連王様の姿を思い浮かべました。
それだけで私は胸が熱く、苦しくなり、深くうなずいて答えます。

「きれいでした」

「良かった。それは、良かった」

先程の言葉を繰り返し、深くそう刻みこむように何度も首肯し、馬に語りかけました。

「最期に、キレイな景色を、嬢ちゃんと見れて良かったな」

その言葉に、馬は深く息を吐いて――、
そして、馬はそれきり息をしなくなりました。

しばらく馬の皮膚に手を当てていました。
生きていた熱はしばらくありましたが、それは野原の草が段々と奪っていき、ついには冷たくなっていきます。

職員の方はしばらく黙っていましたが、おもむろに立ち上がって言いました。

「嬢ちゃん、サンドイッチでもどうだ?」

「え?」

「サンドイッチ。さっき買った」

「それはその……悪いです」

「いや、悪いのはこっちの方だな」

そう言って私の髪をくしゃくしゃにすると、深く頭を下げました。

「あんな事やるヤツじゃないと思って乗せたんだが、巻きこんじまったな」

「ですが、そのお陰でとても思い出になる事ができました。
こちらの方が、悪いです」

私がそう跳ね除けると、職員の方は顎をさすり考えこみます。

「それじゃあ……じゃあ、嬢ちゃん。
こいつの鞍とか手綱とか鞭、諸々引き取ってくれないか?」

「え……?」

「コイツしか、ここで飼っている馬がいなかったんだ。
このままだと、馬具は腐っちまうだけだ。
そうなるなら、嬢ちゃんのその思い出を残す為に、引き取ってくれないか?」

「なら――」

なら、貴方が持って帰れば――。
そう反論しようとしましたが、先んじて職員の方がそっと口にしました。

「オレの女房が、もうこれ以上物増やすなって、遺品預り所じゃねぇんだぞって五月蠅いんだ。
いや、もし嬢ちゃんがイヤだってんなら、こっちで何とかしてやるさ。気に病まなくてもいい」

そう聞いて、私は一人暮らしには広い借家を思い浮かべました。
そして、私はこくりとうなずいたのです。


「ただいま、戻りました!」

誰もいない空間に、そう言いました。
私は腕一杯に抱えた馬具を、家の奥にある物置にしまい、半分を過ぎたばかりの今日を振り返ります。

「今日は、とても良い事がありました!」

時間が経つごとに、思い出は美化されるものと聞きました。
それを実感したのは、恐らく初めてでしょう。

私は寝室に入りそのままベッドに飛びこむと、ごろごろと転がりました。
窓から照らされる顔をだらしなくほころばせると、ぽつりとこぼします。

「連王様……」

まさか、この地の王様が、あのように綺麗な人だなんて!

そう思うといてもたってもいられず、ごろごろごろごろと何度もベッドの上を往復します。
明日もこの想いを続けたくて、ペンを取ったりもしました。
ですが、どうにも字に著す事が気恥ずかしく、紙を前に一字も書けずに悶えたりしました。

だから、私はベッドの上で自意識過剰な芋虫になるしかなかったのです。

もし。
もし、連王様の奥様になれたら。

それは絶対に私ではないでしょう。
ですが、そう思ってしまうのです。

そう思うだけで、私の血という血が血管をくすぐり、ばたばたと意味もなく足を蹴り出したくなります。

私はベッドの中で、もし、もしと続けていき。その度に悶えては静まり返り、考えこみ――。



そんな事を繰り返していると、図らずもベッドの上で昼寝をしてしまったようでした。
いえ。寝室が見通せないほど真っ暗です。
昼寝どころか、もう夜になってしまったのでしょうか。

「本当に、真っ暗です……」

私は手探りでランプを見つけると、そこに明かりを灯しました。
古ぼけた明かりは、部屋全体を照らすほどのものではありません。

私は懐中時計を取り出すと、今の時刻が目に飛びこんできます。

「4時26分……?」

夕方です。
まだ光があってもおかしくないのに、窓に面したこの部屋の中は真っ暗でした。

私は怪訝な顔をして周りを見回すと、ランプを片手にベッドの窓に近寄ります。

「あれ、いつの間にカーテンを閉めていたのでしょうか?」

家のどの窓もカーテンを閉め切っていて、夜同然の暗さになっていても当たり前です。
私は外の様子を見ようと、カーテンに手をかけました。

その時。

横から突然現れた手は、カーテンを開こうとした私の右腕を引っ張り、窓から私を遠ざけようとしました。
私は、瞬時に判断しました。

侵入者です。
恐らく、カーテンが閉められたのもそのせいでしょう。

私は服の下に忍ばせたナイフを左手で取ると、背後に覆い被さる人影に突き立てました。

左手の、ナイフの柄に伝う血の生温かさ。
それに冷ややかな戦慄を覚えながら、私はその声を聞きました。

「――ン気゛持ヂ良いぃイイッ!」

そのお声を聞いて、私は息が止まりました。
血の気の引いた体は硬直し、右手のランプは床を転げます。

侵入者ではありませんでした。
私は不敬にも勘違いをしていたのです。

ナイフをすぐさま引き抜き、私は振り返り際に頭を深く下げました。

「ご、ご無礼、大変申し訳ございません!」

私は、ただ顔を上げる事ができず、床を眺めるしかありません。
転がるランプが照らし出した床には、血溜まりと、泡立った唾液が落ちていきます。

頭上から、恍惚とした声が降りました。

「立派な殺意だぁ……!」

それは、私に向けてというより、苦痛に対しての感想のようです。
ご気分を害された様子ではないものの、私は先走った行動を恥じ入ります。

垂れ流し続け、なおも広がる血と涎でランプの火が侵されると、部屋には再度暗闇が満ちました。
暗闇の中、液体の落ちる音が聞こえなくなると、もう充分堪能したという深いため息と共に、法力の光が上がります。

「――いつまで頭を下げている?」

呆れたようなその口調に促され、私は顔を上げました。
私がその御姿を視界に捉えると、思わず声を荒げて貴名を呼んだのです。

「レイヴン様! その傷は一体……!」

一体も何も、傷はお前がつけたものだろうと揶揄する声があるかもしれません。
ですが、私の目に映ったのは、ナイフ長と同じくらい深く抉られた首元の傷が霞むようなものでした。

左半身のほとんどが、黒く変色されていたのです。
その黒い御体に注視すると、それはぶすぶすと煙を上げ、炭化した表面のひび割れからは、再生途中のような赤身がマグマのように覗いていました。

炭を鱗のように纏ったレイヴン様を知覚すると、惰眠で機能を一時停止していた嗅覚が、さっと醒めて叩き起こされます。
肉が醜悪に焼かれた悪臭が感覚を貫きました。

「――ッ!」

視覚と嗅覚は私の消化器官を揺り動かし、食道を刺すようにこみあげるものを無理矢理呑みこむ事を強いられました。
思わず口を覆い、レイヴン様の御前で醜態を晒すまいと耐えます。

そんな私の様子に一切の心も配らず、レイヴン様は口を開きました。

「本来ならばお前とは会わない予定だったが、この近辺で活動をする必要があった。

その途中、『背徳の炎』と遭遇した。
私としては隠密に行動したかったものだが、妨害を受けた末にこの様だ。

これでは快楽に気が散り、空間転移などできない……しばらく身を隠そうと、そこで思い当たったのがここだった」

レイヴン様は炭化した左腕を上げて見せながら、その経緯を説明しました。
その脆くなった左腕は自重に耐え切れず、ぼろりと肘の先からもげます。
床に落ちたそれは人体だったはずであるのに、不出来なチョークのように粉々になりました。

倫理に逆らったようなその様が、引鉄になったようです。

私は無礼にもレイヴン様に背を向け、廊下を抜けて洗面台に駆けこみました。
そこで胃を空にしている最中、寝室の方から何かを削ぐ音が聞こえます。
じょりじょりとぞりぞりと、「まるで炭を撫で斬りにしているような」と形容するまでもなく、目にしない事を幸いと思えるような事をされているのでしょう。
目にしてしまえば、胃袋だけではなく小腸まで蠕動しそうです。

私の口から汚い物と音が出なくなると、口内の不浄を水ですすぎます。
全部を綺麗に片づけた後、手を洗って部屋に戻りました。

そこには、まだ少しばかり筋肉組織が露出しているものの、先程よりずっと人間の肌色を取り戻したレイヴン様がいらっしゃいました。
未だ死臭と焦げ臭さは部屋に充満していますが、私にはもう吐くものもありません。

レイヴン様は戻ってきた私の姿を見ると、安全を確保する為に問いかけられました。

「お前は逮捕された事はあるか? あるいはマークされた事は?」
「この周囲に警察は頻繁に来るか? 不審者が出るか?」
「この家の防音性はどうだ? 以前に隣人が苦情を言いに来た事は?」

私はそれらのご質問に、すぐには答えられませんでした。
何故なら、昨日より以前の過去を遡らなければ分からない事だからです。

私はその都度、メモや日記や新聞や借家の契約書をひっくり返し、そして「恐らくは」と弱気な枕詞を置いて「問題ございません」と全てに答えました。
レイヴン様は少しばかり逡巡したご様子でしたが、

「まあ、いい」

妥協されたようでした。

私が過去の記録と格闘している間に充分な時間が経ったのか、レイヴン様は街を歩いても問題のない体を取り戻しました。頭部の針を除けば、きっとそうです。
レイヴン様は名残惜しそうに左半身を見ていらっしゃいました。

ですが、やがて思いついたように顔を上げると、レイヴン様はベッドに腰かけこう仰います。

「ほとぼりが冷めるまでここにいる」

レイヴン様が、私のような下賤の人間のあばら家をご所望なのです。
そのお言葉で、私の空っぽの胃に熱湯が満たされたような感覚が沸きました。
その身を熱くする光栄と、そして火傷のような恐怖といったらありません。

光栄はともかく、恐怖。
何しろ、今日はレイヴン様を迎えようと思って家にいた訳じゃぁありません。

レイヴン様の腰かけていらっしゃるベッドだって、外から帰って私が寝転がった汚らしいベッドです。
床もいつ掃いたものか分かりません。昨日以前の私に詰問する事もできません。
そもそも、こんな安い借家なんて、レイヴン様に相応しくないにも程があります。

それでも、レイヴン様はここでしばらく時間を過ごされるのです。
私は少しでも場を整えなければと思い立ちました。

「あの! それでしたら、掃除して参ります!」

そして寝室から失礼し、私はカーテンの閉め切った居間に明かりを灯しました。
小さな物置から箒を取り出し、床を掃いていきます。
また、雑巾を絞って床を拭き、少しでもぴかぴかにしようと地面を這いつくばります。
しかし、その最中で気づきました。

「首輪も器も、ありません……」

朝確認した時には、ペット用と思しきそれらの物品があったはずです。
不意にそんなものがレイヴン様のお目に留まったら末代までの恥となりましょう。
テーブルや椅子の下や窓の近くやキッチンをくまなく探しましたが、どこにも何もありません。

それらを見て、私はペットを飼う事を決めて外に出たのです。
決して、それらは幻覚ではないはずでした。

私が必死に部屋を右往左往していると、背後からお声がかかりました。

「これを探しているのか?」

もしかすれば、レイヴン様は心を読める法術をお持ちなのかもしれません。
私が慌てて振り返ると、レイヴン様の手には首輪やリード、器があったのです。

「何故、それをお持ちなのですか!?」

ただ驚愕し、その理由を求めました。
レイヴン様は距離を詰め、その不用品を手渡ししてくださいました。

「お前が目が覚める前、この家に罠がないか調べていたら見つけた。それだけだ」

全く全うな理由です。
しかし、ならば何故持っていらっしゃるのでしょうか?

その疑問を口にする前に、レイヴン様は笑われました。
「動物を飼っていたのか? 愛嬌のある幼子だな」といったような平和的な笑みではありません。

「良いものを持ってるじゃぁないか」

そう、意味深に仰られました。
その口の形は、氷にヒビが入ったような、不穏な笑みの形です。

私の背を、ぞっと悪寒が走りました。
この安物を指して「良いもの」と称され、額面通りに受け取る事はできません。

「良いもの」とは、歪んだ認識にとっての「良いもの」なのです。

レイヴン様は硬直する私を見下げ、問いかけました。

「お前は、私の事を何だと思っている?」

質問の真意は分かりませんが、私は答えます。

「他の何者も誰よりも、神すらも超えて崇めるべき御方でございます」

淀みなく私の考えを口に出すと、レイヴン様は押し殺した笑い声を、歯の隙間から漏らします。
笑いをつと止めて、レイヴン様は大仰に腕を開くと、残酷にもこう命じられたのです。

「その認識を捨てろ」

ご命令は、私の心を引き裂くようなものでした。
レイヴン様は、私に敬わせる事すらも拒絶したのです。

私にとって、レイヴン様に付き従う事こそが望みです。
その望みが絶たれるとは、つまり文字通りの絶望でした。

しかしレイヴン様は、当然私の様子などに構いません。
声に熱を忍ばせて、

「下等な存在だと、」

次第に高揚して、

「下卑た獣畜だと、」

己の自虐にすら興奮するようで、

「卑しい四つ足だと、」

開かれた口から唾液が垂れ、

「私を見下げろ。私を罵倒しろ、踏みつけ、ぞんざいに扱え……私を、犬のように扱え……!」

そう、命じられたのです。

私はその昏い熱気に押され「ひっ」とたじろぎました。
強張る手から首輪がこぼれ落ち、首輪の鈴がちりんと鳴ります。

レイヴン様はその音を聞くと、より一層笑みを濃くしました。
そして、レイヴン様の背が丸まり、膝をつき、床に手を当て、四つん這いとなり、肘を曲げ、その口を床に落ちた首輪に近づけ――、

「い、いけません! そのような汚いものを――!」

レイヴン様の口が首輪に触れないよう、首輪との間を遮るように手を伸ばします。
首輪をつかみ、それを拾い上げようとしました。

ですが、

「痛っ!」

レイヴン様は言葉でそれを叱責せず、私の手を首輪ごと噛んでこの行為を咎めました。
それは……玩具を取り上げられようとした不躾な犬のようです。

私は痛みから首輪を落とし、手をひっこめると、レイヴン様は私の手から口を離しました。
それからレイヴン様は当初の目論見通りに、床に転がった首輪を咥えます。

手に残った歯形は、わずかな唾液でぬらりと光ります。
私は、レイヴン様を茫然と見るしかありませんでした。

四つ足となり、私よりもずっと視線の低くなったレイヴン様は、口に首輪を咥えたまま顔を上げます。
そして私に首を伸ばして首輪の鈴を意識的に鳴らしました。

ちりん、ちりんと。
私をなじるように鳴り渡り、私は理解したくない概念を把握してしまいました。

首輪は、首につけるものなのです。
人間用の首輪ならば、装飾としての色が強いのですが、今レイヴン様が口にしているものは動物用の首輪です。
それを、人間がつければどうなるのでしょう。

屈辱という「苦痛」が味わえるでしょう。

「……レイヴン、様」

私は、淀んだ希望でぎらぎらと輝く瞳を見下げました。

諦めるしかありませんでした。
レイヴン様は、今この時は、敬うべき存在ではないのだと。

私はレイヴン様の口から首輪を受け取りました。
涎で濡れた首輪の留め具を外し、レイヴン様の首に回します。

白く美しいその首に、薄汚れた首輪がかけられました。
レイヴン様が恍惚と息を吐くと、喉の震えでちりちりと鈴が小さく鳴きます。

その姿を見た時、レイヴン様に抱く憧憬(Sehnsucht)の幾つかを手放しました。

レイヴン様はしばらく期待に満ちた表情で私を見上げます。
しかし当の私は、困惑と失望とで何も行動を起こせずにいました。
何も起こらない事にレイヴン様はそっぽを向け、四本足のまま床を走りました。

「あっ……」

私はレイヴン様を追います。

レイヴン様はキッチンに向かいました。
走るレイヴン様は、冷蔵庫を見かけるとその目の前で止まります。
何をするのか、私は少し離れた所で見守りました。

すると、レイヴン様は、その手でがりがりと冷蔵庫の扉を引っ掻きます。
その動作は扉を開けようとする意図は分かりました。
「取っ手を引けば扉が開く」と理解しているというのに、「犬」という役割に陶酔するレイヴン様は、その「前足」を動かします。

私が呆気に取られて見ていると、レイヴン様の指が不意に引っかかった扉が、大きく開かれました。
レイヴン様は開け放たれた冷蔵庫に顔を突っこみ、その中を掻き出し始めました。

冷蔵庫の中には、当然食料があります。
金欠気味の私にとって、食料が無駄になる事は、数少ない貯蓄を削る事になります。

その二つが、私をようやく行動に移しました。

野菜を散乱させるレイヴン様に、口を開きます。

「お、お止めくださいませ!」

駆け寄り、レイヴン様に何度もそう呼びかけました。
ですが、「犬」のレイヴン様は人間の言葉に耳を傾けず、掻き出された胡瓜を踏み潰し、キャベツに引っかき傷を残し、トマトを飛ばして床に散らします。

言う事を聞かないようにしているレイヴン様に、私が取れる行動は一つしかありませんでした。

恐らく、レイヴン様の思惑通りなのでしょう。
私が腕を上げた瞬間、レイヴン様は私を見上げ、爛々と瞳を輝かせました。

痛む心を押さえつけます。
一気に動悸が激しくなる、これから自分が実行する事に恐怖しました。

私は振り上げた手で、レイヴン様の頬を叩きました。

柏手に似た音が、部屋を反響します。

主に向かって暴力を振るったという行為に、私の心臓に針を打たれたような、血の凍る感触が全身を襲いました。
冷や汗が噴き出て、心臓が激しい鼓動に痛みます。

そんな私とは正反対に、実際に暴力を振るわれたレイヴン様は、望んだ苦痛を得られた事に喜色を示していました。

肉体的には、単に頬を打たれた程度の苦痛でしょう。
ですが、本来自分よりずっと「下」である幼子の私の足元で四つん這いになり、その上知能のない動物を躾けるように頬を叩かれたのです。
その精神的苦痛に、レイヴン様は恍惚としたご様子を晒しました。

犬のようにぜいぜいとわざとらしく息を荒げ、
弛緩した口からだらりと舌が垂れ、
粘った唾液が糸を引き、
叩かれた頬を愛おしげに床にこすりつけました。

本当に犬であれば、その尻尾は機嫌良く振られていた事でしょう。

しかし、たった一回きりの苦痛です。
レイヴン様はそれ以上を求めて、私に期待の眼差しを注ぎながらも、手は冷蔵庫に伸ばされました。

――そら、「犬」がまた悪さをするぞ?

レイヴン様の心理を理解した私は、求められた役割に徹しようと声を上げました。

「――あああああッ!」

怒鳴り声を出そうとしましたが、それは私の感情を如実に表した悲鳴でした。

私はレイヴン様の頬を再度叩きます。
二度目の衝撃でした。それは一度目よりも躊躇はなく、より強く、それでも精神を揺さぶる衝撃です。

そして、レイヴン様の首輪をつかみ、冷蔵庫から引きずり離しました。

冷蔵庫の扉を閉め、私はレイヴン様に向き直ります。
これから起こる事を待ち望み、レイヴン様は私の足元で背を低くしていました。
口元を緩ませ、腰をがくがくと痙攣させています。

私は、再度手を上げました。
それを振り下ろしてしまえば、きっとレイヴン様の欲望に応える事ができるでしょう。

ですが。
私の中には、悲観や絶望の他に、認めたくない怒りを抱いていました。

私がなけなしの小銭で買った食料が無碍にされた事。
買った時、市場のお爺さんが笑いながらおまけしてくれたイチゴが赤い何かになった事。
それと、過去の私から送りつけられたような、理由も知れない憤怒。

その怒りと、レイヴン様の期待以上を求める浅ましい心が、背中を押しました。

足元でわだかまるレイヴン様の顎を、蹴り上げます。

「――ア゛ぁっガッ!?」

醜い悲鳴を上げて、レイヴン様が転がります。

そのまま暴力にかまけようとする暗い熱を抑え、私の役割を刻みこみます。
私は、レイヴン様の「飼い主」にならなければならないのです。
ただの暴力ではなく、レイヴン様を「犬」たらしめる因子にならなければなりません。

「いけ、ません……! 荒らさないで、ください……!」

自分の悪行に吐きそうになりながら、精一杯に叱りつけました。

レイヴン様は、その言葉に耳を傾けました。
更なる屈辱を求めるレイヴン様の意図を汲み取り、私は無理矢理続けます。

「……お腹が、減っているんですか……?」

その問いに、レイヴン様はうなずきました。

「なら……床を、綺麗にしましょうか」

虚勢を努めて、私はそう命じました。

掃いてもいない床です。そこに散乱した野菜は、どれだけ綺麗に洗ったとしても「汚れている」と感じるものでしょう。
そんなものを口にしろと、私は命じたのです。

レイヴン様はその命令を受け、喜々として一吠えしました。
すぐさま口を床に近づけ、へばりついたトマトを舐めとります。

「ハゥッ、ハッ……」

獣の息遣いを装って、レイヴン様が「犬」になります。
その両手を床に付け、腰を上げ、大きく開けた口に潰れた野菜を口にしていきます。

それが洗ってもいない泥だらけのものだろうと、そして新聞紙に包まれたものだろうと、
衛生観念を理解しない「犬」は、洗い流しも手で剥がしもせずに床を舐め回しました。

私はその様を、暗澹たる心持ちで見下げていました。

床一面に広がっていた惨状は、唾液を擦りつけるような食事で、ぺろりと平らげられます。
自分で命じた事の経緯と結果を見せつけられ、私は諦念の奈落に堕ちました。

今のレイヴン様は、尊敬に値しない「犬」です。
そう自分を洗脳して、「飼い主」の私はレイヴン様の傍に寄りました。

「飼い主」は、命令を果たした「犬」を褒めるものです。

「……良い子、ですね」

それは、褒め言葉の形をした格下げの言葉。
幼い子供に「犬」として扱われているという実感。

私は、目を輝かせて見上げるレイヴン様の頭に、手を置きました。
存外柔らかな白髪に指を埋め、その頭を撫でます。
畏れ多いはずの接触は、獣臭いものでした。

私は一撫でしただけで手を引いて、レイヴン様になおも問いかけます。

「まだ、お腹は減っていますか?」

私は、それを否定していただきたかったです。
せめて、主であるレイヴン様の拒否があれば、責め苦に動く私の心身を止める事ができました。
それが叶わぬ事なのは、何よりも分かっています。

レイヴン様が吠えました。
私の期待に沿わず、思惑のまま、レイヴン様は悦びをその声色に乗せます。
結局、止まる事はありませんでした。

「待っていて下さい」

レイヴン様は、腰を床に付け、曲げた足と真っ直ぐに立てた腕を作り、「待て」の姿勢を保ちました。
私はそんな「犬」に背を向け、ふらふらと物置に向かいます。

私は猫を飼っていました。
ならば、それはあるはずでした。
そして、実際にそれはありました。

目的の袋と皿を抱えてレイヴン様の元に戻ると、未だ「待て」のレイヴン様の前に皿を置きます。

その皿は、ペット用の皿です。

私は抱えていた袋の中身を皿に出しました。
乾いた餌がざらりと皿に空けられます。

途端、餌の臭いが周囲に広がりました。
およそ人間が口にするものではない臭いです。
見た目も、茶けた固形物としか言いようがなく、臭いと共に食欲が減退しそうなものです。

それでも、レイヴン様は口を開きました。
人の食べ物ではない、畜生の餌を前にして、だらりと舌を垂らします。
ハッ、ハッ、と息を荒くし、舌の先から唾液を垂らし――恐らく「人間以下の犬としての仕打ちを受けている自分」に対して興奮し、紅潮していました。

こうして四つ足をつき、
幼子に「犬」として弄ばれ、
与えられる食物は餌であり、
餌の盛られる皿は、テーブルではなく汚らしい床に置かれている。

「アァッ、アッ……!」

人語でなくとも、その声に恍惚が潜んでいる事が分かりました。
開かれた口から唾液が落ち、乾いた餌をじっとりと濡らし、レイヴン様は餌に顔を近づかせます。

四肢は折り曲げられ、体は床に限りなく近く、頭は床に着くほど低く、その様は屈服の姿勢のようでした。人間の尊厳を踏みにじる恰好です。

私は、その様子をただじっと見ていた訳ではありませんでした。
レイヴン様の為にならば、より私は自分の狂気を引き出さなければなりません。
より貶める為にすべき事を。

私は、今まさに餌をかぶりつこうとせんレイヴン様に対して、笑いかけました。

「まだ、『良い』とは言ってません」

嗤いを含めて、呼びかけます。
ぴたりとレイヴン様の動きが止まり、口を閉じて私を仰ぎ見ます。

レイヴン様に向けて、狂人を装い冷笑を偽りました。

「おすわり」

私自身、それは変貌と言っていい変わりようでした。
実際、様子の変わった私を感知したレイヴン様は、発した命令ではなく、変化に惑った様子です。

間隙を見つけた私は、足を上げました。
上げられた足は、床についているレイヴン様の手の甲に振り下ろします。

「ガァあッ――!?」

足を圧しつけながら、踵に体重を集中させ、抉るように回転させます。
指の骨のゴリゴリとした感覚が靴の裏に伝わりましたが、遠慮は必要ありません。

私は「飼い主」であり、不出来な「犬」を躾けるのが責務なのです。

その立場に立っているのだという事がすとんと胸に落ち、私の理性と正気を手放せば、簡単でした。
まるで、手慣れたように狂人になります。

「早く、おすわり」

その言葉で、レイヴン様の皮膚に鳥肌が立つ場面を目の当たりにしました。

自分は今、この矮小な「飼い主」に躾けられている。
小娘に服従し、醜態を晒している。

「アァ、ッハアァ……!」

手を踏み躙られているというのに、レイヴン様は愉悦に喉を鳴らしました。
口の端から垂涎し、今の屈辱に陶酔します。

レイヴン様は姿勢を正しました。
ただし、人間としての姿勢ではありません。
足を曲げ、腕を伸ばし、手と足裏を床にぴったりとつけ、私を見上げて動向を伺う。
「おすわり」の姿勢でした。

私は、餌皿から一粒の餌を拾うと、レイヴン様に言いつけます。

「口を開けてください」

「ァア……!」

唇を離し、舌を露呈し、口蓋を晒します。
その口の中に、私は指を突っこみました。

「――ッ!」

レイヴン様の舌の上に餌を置き、指を引っこめると、すぐさま口を閉じ、咀嚼を始めました。
ポリポリという音がしてから、レイヴン様の喉が嚥下に蠢きます。

「そんなに欲しかったのですか? この餌を」

この餌を。決して人間のものではない餌を。
そんな餌を、自分は浅ましく求め、そして呑みこんだ。

レイヴン様はしきりに頷きます。餌を求める自分という像に、快楽を覚えているようでした。

「……ふふ」

素直な愛玩動物を目の当たりにしたように、私の頬が緩みます。
そしてより「犬」の忠実さを見たいと思い、私は取り出したハンカチを縛って丸くしました。

それを部屋の向こうに投げて指差し、

「取ってきてください」

その言葉が言い終わらない内に、レイヴン様は四つ足で動きました。
膝をついた状態では、それほど早く歩けません。

それでも、より早く命令を成そうとして、レイヴン様は膝を何度も床に打ちつけて走り寄りました。
地面を受けるよう作られていない膝には血が滲み、床には血の足跡がわずかに残ります。

ようやくレイヴン様が投げたハンカチに辿り着くと、当然のように手を使わず、頭を下げます。
床に唇までつけて、転がるハンカチを口に咥え、私の足元へと戻りました。

私はレイヴン様の口からハンカチを受け取ります。唾液を含んだそれが手の平に乗り、若干の嫌悪感を覚えました。
それでも、「犬」が持ってきてくれたという事に感謝の念を抱き、私はレイヴン様の頭を撫でて許しを口にします。

「良し」

たった、二文字。
レイヴン様は足元の餌皿に顔を突っ込み、固形の餌を食べ始めました。

私は勿論、その餌を食べた事はありません。
ですが、姿勢を低くし、餌の悪臭を鼻腔に受け、動物の食すものと同じものを口にする、それは尊厳の凌辱でしょう。
餌にがっつくレイヴン様は、時折歓喜に震え、口を止めて身を揺すり、喘ぎ声を上げます。

「ハア、ハァアッ……!」

口から垂れる唾液が餌皿に落ち、その唾液と共に餌を嚥下していきます。
無我夢中で獣畜の食事にいそしむレイヴン様をよそに、私はハンカチの端をつまんで次の事を考えていました。

レイヴン様が皿の底に残った最後の一粒まで、浅ましく舌で追って口の中に収めた時、ようやく私は次の事に取り掛かれました。
つまんでいたハンカチをレイヴン様の鼻先に当て、用意していた言葉を出します。

「ちゃんとした玩具(おもちゃ)は無いのですが、これでも遊ぶ事はできるでしょう?」

するとレイヴン様は、喜び勇んでハンカチに噛みつきました。
そして理性無く私の手からひったくると、ハンカチの端を前足で押さえ、口に含んだり、引っ張ったり、何度も噛んだりと「犬」らしく遊びました。

自分の涎の臭いが染みついたハンカチです。
しかも、そのハンカチを咥える前に、あのペット用の餌を口に入れています。
しきりにハンカチを嗅いでは自分の悪臭に耽溺し、更に噛んだり引っ張ったりとマーキングを繰り返しました。

「ハァアッ。ハハァッ……!」

床に自分の体を擦りつけるように、レイヴン様は身をよじらせました。
それは快感に耐え切れずに体が蠢くのか、あるいはそうする事で自分が這いつくばる存在であると自虐しているのか、あるいは両方なのか、分かりません。
その遊びの中に割って入る事はできませんでした。

近くの椅子を引き寄せて座ります。
私にできる事は、レイヴン様の一人遊びを眺めるのみです。

人間の容をした「犬」をただ見つめます。

レイヴン様を満たす役目から離れ、思考回路に空きが生じました。

その間隙に、溶岩のような感情が押し寄せます。
そう。レイヴン様を嬲るごとに、その感情は私を侵蝕するのです。
肺の底から滲み出る、昏く熱を孕んだ感情。

由来も分からない感情を、私は戯れに解体しようとしました。
何故レイヴン様を責めれば、その感情は這い出てくるのか。

床の埃を拭うように、咥えたハンカチを擦りつけるレイヴン様。
それを視界に映していると、その痴態を通じて幻視が始まりました。

――空っぽの玄関。
幻の中で、私はその玄関に立っていました。

記憶を失った私には、そこがここではない家である事しか分かりません。
それでも、玄関に通じる廊下が、その廊下の先にある扉が、情景として浮かび上がると。

「――ァ――」

汗が噴き出しました。
幻の中の玄関の情景が、私の感情を恐怖に灼きました。

これ以上、その廊下を進んではいけない。
そうなれば、自分の存在意義を殺さなければいけない。

深層意識の警告が、心理を貫き、身体までを揺さぶりました。

「あァぁ――」

醜く唸り、目の前の色が急速に失われました。
レイヴン様の瞳の色も、自分の毛並みを整えているその舌も、床に散乱する血の跡も。

鼓膜を震わせる音も、まるで舐ぶりの水音を拒絶するかのように、全ての音が遠く離れていきました。
体のあちこちがまばらに重くなっていき、右半身だけに血が寄っているような錯覚が襲います。

「――――!」

平行感覚が取れず、私の体は右に傾きます。
座っていた椅子を道連れにし、私の体はくぐもった音を立てて床に衝突しました。

一人でハンカチを相手に「犬」となっていたレイヴン様は、べとべとのハンカチを放り、新しく発生した状況に近寄ります。
そして「飼い主」を気遣うように、クゥと鳴いて私の頬を舐めました。

餌の悪臭を伴うその気付けに、私は手を振っていさめます。

「……申し訳、ございません……体調が優れず、もう……」

続く言葉も繋げられませんでした。

私は上半身だけを起こして、四つ足のレイヴン様の首に手を伸ばします。
レイヴン様は「縊りでもするのか」と期待した目で私の手を見つめました。

しかし、私は限界でした。
レイヴン様の喉を縛る首輪に手指をかけ、その結合部品を解きます。

レイヴン様を「犬」たらしめる要素を外し、私は無色の溜息をつきました。
手の平の上に移った首輪を見かけ、レイヴン様は失望した眼差しを私に注ぎます。

「……フン」

不満げに鼻を鳴らし、「犬」でなくなったレイヴン様は餌皿を口ではなく手で持ちました。
そして餌皿をしまう為に物置へと向かうレイヴン様の背を見送り、私はうずくまります。

空漠にたゆたう中、「飼い主」になっていた自分を振り返りました。
「飼い主」になるのは記憶上初めての事でした。
それでも、記憶に無いだけで何度もそうしていたのか、あるいはそうなるだけの素質があるのか、その時の私は「飼い主」として振る舞えました。

ですが、今はそうであった自分を否定し、逃げたいほどに恥じ入ります。

――何故、自分はここにいるのでしょう?

それは、自分がこの地理座標にいる事の疑問ではなく、この状況に存在している事への疑問です。
レイヴン様に仕えているのは何故でしょうか。

私が過去を忘却する事は、私にとって正常な生理現象であり、起きてからこの時までその事を不便と思った事はありません。
つまり今、自分の病を枷のように感じました。

記憶を手繰り寄せようとしても、ぼろ切れのような記憶の糸は、昨日という境目で断絶されているのです。
私の手元にあるのは、残された意図の分からない記憶の幾つかと、私の感情と勘定の中心に(ましま)すレイヴン様しかいらっしゃいません。

――ならば、何故レイヴン様なのでしょうか?
仮に、そう――今日の連王様では代わりとはならないのでしょうか?

後に思い返せば、何たる不敬でしょうか。
それでも、私は身を起こし、空間に連王様の虚像を浮かべます。

女神が縒る運命の糸のような金糸の髪。
窯から出たばかりの陶磁器すら霞む肌。
麗しく整えられたご容貌――。

その残影を投影するだけで、今日の昼の高鳴りが、胸を叩きます。
愚かしく連王様の虚像に陶酔していると、その虚像に重なるようにレイヴン様が戻られました。

「ぅわあぁっ――!」

奇妙な一致に驚嘆の声を上げようとする口を抑えます。

「……何故声を上げた?」

不思議そうにレイヴン様が首を傾げられました。
私は空間に浮かべていた虚像と、自分の根幹を探る事を掻き消して頭を下げます。

そう。
連王様ではなく、レイヴン様でなくてはならないのです。
私の思考回路の根本が、レイヴン様を目にした瞬間からそう屈服しました。

「……失礼いたしました。ただ、ようやく落ち着いてきたようです。ご迷惑をおかけいたしました」

答えた通り、ここに来てようやく余裕を得られました。
レイヴン様が私から離れていたのは幸いです。自分の気性を宥められる事ができました。

「まあ、いい」

一拍を入れ、レイヴン様は私の眼前に立ちます。

私の前に姿を現したレイヴン様は、後ろ手に何かを隠しているようです。
ただ、こちらからはレイヴン様の御体で隠されて、それが何かも分かりません。

しかし、待てどレイヴン様からそれが何かを明かすご様子もなく、この場では私から問うのが作法のようでした。

「……レイヴン様、何を携えられていらっしゃるのでしょうか?」

求めていた反応を得られた事で、レイヴン様は口を開きます。
同時に口端を上げて、

「良いものを持ってるじゃぁないか」

そう、レイヴン様は笑みかけました。
先の首輪を見つけた時と同質の、氷のヒビの嗤い。

ゆっくりと焦らすように、レイヴン様は右手につかんでいたものを見せつけました。
それを見て、私は息を呑みます。

「鞍……」

昼に私が跨っていた、馬の鞍です。
そう、昼間。私を連王様に引き合わせてくれた、今は亡き老馬の、鞍。

それを見ただけで、老馬と共に見た連王様の記憶が掘り起こされました。
あの時の輝きも高鳴りも、恋と思しき感情の沸騰も、何もかもが蘇ります。

その証明が、レイヴン様の右手に収まっていました。

「あ、ああ……」

ひび割れたレイヴン様の笑みは、私の脊椎を凍てつかせるように惨たらしく映ります。
私は一瞬、連王様の思い出と共に、レイヴン様から離反する事すら考えてしまいました。

ですが、私の足裏はぴったりと床に貼りつき、レイヴン様の笑みが私の心臓を握りしめています。

逃げる事など、できやしない。
逃げたとしても、帰る場所はレイヴン様の下しかない。

私はただ、レイヴン様の動向に引きずられるしかありませんでした。

レイヴン様は、馬の鞍をじっとりと見つめます。

「このような道具があるならば、『馬』に堕ちるのも悪くはない。
『犬』は『飼い主』に服従するだけだが、『馬』なら、そう――より屈辱的な事を味わえる」

「馬」として地を這い、上に乗られる屈辱。
そう考えを巡らせて、レイヴン様の呼吸に熱が籠ります。

「だが、それだけじゃぁない」

レイヴン様が、左手にまだ隠していたものを掲げます。

「それは……縄、ですか」

荷物をまとめる為の荷縄でした。
麻製で、直径0.5インチ程度の、いつ買ったかもわからないものです。

「これはどう使うべきか、分かるか?」

「縛る、ものです」

「どこを縛るべきだ? どのように、縛るべきか?」

問い詰めながら、レイヴン様は興奮を高めていきます。
その縄でどうするのか。レイヴン様の理想に近づくごとに、その期待が膨らんでいくようでした。

しかし、私にはレイヴン様の理想が分かりませんでした。
縛るにしても、レイヴン様の何を縛るというのでしょうか?
凡百の私には、首を縛る程度の貧弱な発想しかありません。

首を振ると、舌なめずりをしてレイヴン様がその理想を説明します。

「これで、私の四肢を縛れ。私を低く陥れろ。
 ただ縛るんじゃぁない。肘と膝で床に立つように、四つ足になるように縛るのだ」

その説明で、朧げに理解しました。
レイヴン様は私に近寄り、荷縄を渡します。

それから鞍を置き、仰向けになり、高揚に震える手を私に伸ばしました。

「さあ……私を、畜生に堕とせ……!」

舌をだらしなく垂らしながら、レイヴン様がそう命じます。
私はレイヴン様の傍に近寄ると、伸ばされた右腕に手をかけました。

まず、私はレイヴン様の肘を曲げさせました。
手の平で肩に触れられるまで曲げさせてから、私は荷縄を伸ばします。

レイヴン様は抵抗する事なく、私の所作を待ち望むように見つめています。

私はレイヴン様の脇を開かせ、噛ませるように荷縄を通しました。
そして荷縄を手首で交差させ、解けないよう固く結びます。

「……アァ……!」

熱のこもった吐息が漏れ出ました。
レイヴン様の手首と脇が縛り上げられ、肘を曲げた状態のまま固定されます。
縛り終えた荷縄の端を切り、次に左腕も同じように縛り上げます。

本当に固く縛ったせいか、両腕とも縛り終えた頃には、右腕の手首が鬱血し、青黒くなりつつありました。
その苦痛と、拘束されているという状況が、レイヴン様をより昂ぶらせているようでした。

脚も同じく、縛らねばなりません。
痙攣する右脚を押さえ、足首と太腿の裏を密着させます。
荷縄をぐるぐると巻き上げて、腕よりも一層強く縛ります。
仰向けにされてなされるがままのレイヴン様を縛っていく内に――レイヴン様の喉が跳ねました。

「ウッあァっ、ア゛ァあ……!」

天を突く肘がぴんと立ち、背を反り返し、腰を上げ、大きく痙攣します。

「ひっ!」

突然の動作に驚き、私が荷縄から手を離しました。
幸いな事に、既に左脚は縛った直後です。荷縄が解かれる事はありません。
レイヴン様はしばらく余震のように細かく震えた後、急に脱力し、反っていた背を床につけました。

しばらくレイヴン様の様子を窺っていましたが、荒く息を繰り返すだけで、これ以上の変化はないようです。
私が恐る恐るレイヴン様の御顔を覗くと、レイヴン様は私に視線を合わせて仰りました。

「私を……立たせろ……」

そう言われて気づきました。
レイヴン様の両腕も両脚も、縛られて自由に動けません。
私がレイヴン様を起こさなければ、歩く事もままならない状態です。

「……失礼いたします」

私はレイヴン様に近寄り、まず仰向けのレイヴン様を横に倒しました。
それからレイヴン様の胴を抱え、力一杯にレイヴン様を持ち上げます。

肘と膝がゆっくりと直立していき、私が手を離せば、ようやくレイヴン様は立てました。
――四つ足をついた状態で。

「嗚呼……!」

レイヴン様は自分の視線の低さに恍惚し、自分の体の状態を確認すると、なお興奮したようでした。
折り曲げられた両肘と両膝で床を突いているその様は、先よりも獣に近いものです。
四肢を拘束され、二足で立つ事もできない状態。
自分の体をうっとりと見つめてから、レイヴン様は私を見上げました。

言語は不要でした。
もうこれからは、言葉を交わす事は禁忌となります。

私は再度「飼い主」となり、
レイヴン様は今度「馬」となるのです。

私は、床に置かれた鞍をレイヴン様の背に乗せます。
馬に使われる本物の鞍です。人に合うものではなく、鞍の上に手を乗せれば少々ぐらぐらと不安定です。

その不安定さを少しでも拭う為、よりレイヴン様を「馬」らしくする為。
私は、荷縄を再度、二本切りました。

その内一本。腕ほどの長さに切った荷縄の真中を、レイヴン様の口元に寄せます。
閉じたレイヴン様の唇に指を突っ込み、無理矢理に口を開かせました。

「がァ……!」

まだ餌の臭いを含んだ口臭に辟易しながらも、私はレイヴン様に荷縄を噛ませます。
荷縄の両端を持てば、手綱の代わりになります。

道具を扱う腕は縛られ、言葉を司る口は塞がれ、人間としてあるまじき姿に堕される。
荷縄を噛む口の端から唾液が溢れ、くぐもった嬌声がこの仕打ちに恍惚としているようでした。

私は決心がつかず、レイヴン様の鞍を撫でました。

昼の刻。
私があの馬に乗り、連王様と邂逅したあの時。
過去を忘れてきた私が、忘れたくないと思える一時。

それを思い出させるこの鞍が、今やひどく黒ずんで汚れきったようでした。

今この鞍に乗ってしまえば、馬上で拝んだあの情景も、汚穢に染まる。
確信が私の足を床に縫いつけます。

しかし、その確信に従ってしまえば。

私のせいで、レイヴン様が不満を抱いてしまいます。

呼び起される最悪の事態。それを想像しただけで、脳が凍るように停止しました。
そしてすぐ、熱湯をかけたように脳が回ります。

それだけは、避けなければ。

ただそれだけを考えて、覚悟も何もなく衝動だけで、
私は、勢いよくレイヴン様に跨りました。

「ッ――ォッ……!」

小さいとはいえ、私の全体重がいきなり落下したのです。
私が「馬」に乗ると、重みを支える両肘と両膝に、一瞬の負荷がかかりました。
ギッ、と床板が擦れた悲鳴を上げます。

その悲鳴は苦痛の指標になると共に、連王様の記憶の断末魔となりました。

「ああ」

嘆きと諦めを交わせて、私の喉が擦れます。

鞍の感触は、昼のそれと全く同じでした。
ですが、目に広がる景色は、全く違います。

昼のきらびやかな陽光の中、人だかりの中でもなおその威光の埋もれない連王様の姿。
転じ。この暗く淀んだ闇の中、狭い部屋の中で見る低い壁の様。

過去の景色が現在の景色で塗りつぶされ、侵されて、私は忘却に沈む事を決めました。
私には、今のこの状況しか残されていないのです。

「ン……んン゛っ……!」

荷縄を噛むレイヴン様が、体を揺すって催促しました。
私は、未練がましい望みを絶ち、目の前の手綱を握ります。
それを思い切り引き、私は踵で「馬」の腿を蹴りました。

「行け、行くんだ」

敬語すら、紡ぐ事もできません。
いえ、その時の私は、また湧いて出た溶岩の如き感情に焼かれ、「飼い主」である事を過剰に振る舞っていました。
焼却された連王様の記憶が、感情にまで焼きついてきたのです。

本に、この私は、「馬」をただの畜生と貶める事に何ら疑問を浮かべない、「飼い主」の鑑となりました。
レイヴン様の理想となるべく、主たるレイヴン様の口調を真似て。

とはいえ、狭い部屋の中で走らせる事はできません。
私はレイヴン様の脇腹を蹴りつけ、部屋の中を回らせます。

レイヴン様の肘や膝が床に着く度に、くぐもった嬌声が聞こえました。
関節の役割とは、四肢を曲げる事であり身体を支える機能を持ちません。床には、皮膚が破れ滲んだ血の跡が点々と残ります。
しかし、それ以上に喘ぐ理由は分かります。

今、小さな「飼い主」を乗せ、「馬」として歩いている。

私は重しとしては軽いものでしょう。しかし屈辱は一層重く苛みます。
このような少女に乗られ、命令に従う「馬」。
「犬」と種類の異なる責苦が、より深くレイヴン様の心を抉りました。

より、屈辱の限りを。

露わになった私の思考と、レイヴン様の嗜好が合致します。
私は手綱から右手を離し、もう一本の荷縄を手に持ちました。

荷縄というからには、振れば揺れる柔軟性とそれなりの長さがあります。
私はその荷縄を高く掲げ、レイヴン様の腰に向けて振り下ろしました。

張りのある材質ではなく麻です。恐らく革製のものであれば、随分と良い音が鳴った事でしょう。
ですが、私の奈落で横たわる感情が、速度となってその荷縄にこもりました。

それが勢いよくレイヴン様の腰に打ちつけられると、レイヴン様は頭を反らしてびくん、と震動します。

「――ぁッ、イ゛ィ……!」

鞭で打たれる。
理性なき畜生への躾が、この身を襲っている。

レイヴン様の咥える手綱に悦楽の形骸がつう、と伝い、私の左手にまで到達します。
私は左手を見下し、なおもレイヴン様を鞭打ちします。

(さえず)るな。(いなな)くな。私は『行け』と言っている」

「――ッ!」

私のその言葉を聞き、レイヴン様の首筋が痙攣します。
その時、明確に、自分自身もその言葉の含意が分かりました。

敵意。

今この私は、レイヴン様に害を成す為に存在していました。
殺意にちかしいその意志が、レイヴン様の欲求に流れこみます。

レイヴン様が喜々として行進しました。
肘も膝も血に染めながら、意味もなく部屋を巡回します。

表に出る事は決してできません。
しかしその意味のなさが、逆に一種の責めでありました。

歩行速度は遅々と、腹立たしいほどに遅いものでした。
当然でしょう。これは「馬」ではありますが、四足歩行に不自由な生き物なのです。

速度を求める利点もなく、私は更に指図しました。

「走れ」

それを聞き入れたレイヴン様は、より息を荒くし速度を増します。

ただでさえ血の悲鳴を上げる肘膝は、走る事で接地の衝撃が激しくなりました。
露出した肘は空気に触れた血塊と新たな血流でぐずぐずになり、膝の皿をくるむ穿物は血で濡れ床を離れる瞬間に水音をやかましく立てます。

走る度、ごりごりと関節の軟骨の喚き声が聞こえました。
手綱に伝わる喘ぎ声はそれと連動して震えます。私は、その声が聞きたくなく、手綱を強く引いて口を圧迫させます。

ついには右肘がより一層大きな音を立てました。
それは、鳥の骨を奥歯で潰したような、そんな音です。

音の発生源に耐え切れず、その耳障りな嘶きが発生します。

「ン゛ィイッ、ィッ良゛ア゛ッアア゛ッ!」

「飼い主」に不快を与えた「馬」に対し、私は正当に躾ける事にしました。

私は何度も踵で脇腹を蹴りつけ、この暴力の理由を告げます。

「私が何と言ったか忘れたのか」

「何も鳴くな」という言いつけを破った事で、私もまたレイヴン様の脇腹を蹴り破るように強く踵を叩きつけます。
今度のそれは、肋骨で守られた脇腹ではなく、比較的柔らかな腹部に突き刺さったようでした。

「――ッ、ッ!」

レイヴン様の体がびくんっ、と一際大きく痙攣します。
最初、それは快楽による震えだと私は解釈しました。

その実何であったのか、それは胃の中身と共に明かされました。

レイヴン様が口に咥えていた手綱を吐き出すと、二度ほど頭を震わせて、
まるで普通の人間のように、レイヴン様は嘔吐を始めました。

滴る胃液とふやけた餌の混合物が、びちゃびちゃと床に吐かれていきます。
汚物の水溜まりが広がっていき、気化した胃酸と餌の臭気がつんと鼻を刺しました。

全く、全く躾のなっていない「馬」でした。

私は粗暴に舌打ちし、レイヴン様の後頭部から生えた針をひっ掴みます。

「頭を下げろ」

言いながら、掴んだ針で頭を床に押しつけ、レイヴン様は前腕を床につけて前屈みになりました。
自分の吐瀉物を目の前に突きつけられ、汚物に触れないよう顔を背けます。

そんな抵抗を振り払いました。

「避けるな、小賢しい。それはお前の汚したものじゃぁないか」

片脚を上げると、その足をレイヴン様の首に押しつけました。
レイヴン様の顔を吐瀉物に近づけ、私はヒビ割れた笑みを浮かべます。

「汚したからには、綺麗に片づけろ」

綺麗に?

手は縛られています。
足で拭う器用さも無く、自由な指はありません。

そんな疑問を浮かべたようで、レイヴン様は首だけ振り向き、私の表情を窺います。

私は、レイヴン様に対して――記憶が無いので、「恐らく」という推測ではありますが――初めて「可愛い」という感情を抱きました。
「可愛い」をより解体して表すならば、「自分よりも弱い動物が怯える様に対して、自分は手を差し伸べる事ができるのだという優越感」です。

私はレイヴン様に笑いかけ、その言葉の一つも漏らさないよう、ゆっくりと耳へ注ぎました。

「綺麗に片づけてくださいね。その口で

優しく。
知能の低い動物に言い聞かせるように、見下した優しさでそう諭しました。

そう諭した瞬間、レイヴン様の表情は凍ります。
きっと、私もレイヴン様から突拍子もない命令を受けたらそういう表情を浮かべるのだろうと、そう思ってくすりと嗤いました。

レイヴン様はぎこちなく首を元に戻すと、床に広がる吐瀉物に硬直します。
それは、腹の中にあったものです。それを再度腹に収めるのは、形而下では単に位置が移って元に戻っただけでしょう。

ですが、心理的抵抗は大きいものです。
眼下には、胃酸に冒され、半液状化した家畜の餌。
畜生であろうと避けて通るような汚物です。

最早、生物としての扱いではありません。
その状況に追いやられ、レイヴン様はがくがくと脚を震わせ、熱く溜息を吐きました。

再び、レイヴン様が私に振り返ります。
懇願に瞳を震わせ、哀れましく振る舞っていました。
「飼い主」の横暴に怯える「家畜」の演技としては、心に迫るものです。

ならば私も、横暴な「飼い主」として返すのが筋でしょう。

私はその顔に足を押しつけ、レイヴン様の顔を汚物溜まりに接触させました。
汚らしい湖面に波音が立ち、純白の毛並みが侵されます。

私の鼻よりも距離が近いのです。その悪臭はより強いものでしょう。
レイヴン様は「飼い主」の命令に諦めたふりをして、吐き戻したそれらを口にします。

私は、吐瀉物を舐め始めた事に満足し、足を戻しました。
そして鞍の上から、舌を以て床を掃く作業を監視します。

ぺちゃぺちゃと、水音がしばらく響きました。

今、レイヴン様の態勢は腹部よりも頭部が下の状態です。
つまりは、胃袋から消化物が流れやすい状態にあります。

その上、今自分が口にしているのは吐瀉物です。
反芻動物でない限り、吐いたものは口にしません。

その矛盾が、嘔気を殊尚更刺激しました。

レイヴン様は少しだけ頭を上げると、苦し気なうめき声を出します。
しばらくは堪え、口を閉じて逆流を堰き止めていましたが、それも限界に達して堰を切りました。

理性と道理を無視して何とか腹に戻したものが、再度床に広がります。

その不始末に顔を歪ませ、私は手にした荷縄の鞭を振るいました。
狭苦しい部屋に、乾いた屈辱の音が響きます。

鞭打ちがなおさら嘔吐を誘ったようで、どろどろの餌から、先頃食べて消化しかけた野菜まで、胃の中身を吐き切ります。
なおも嘔吐は止まらず、透明に泡立つ胃酸が口から垂れ、更には黄色い胆汁から、緑に変色した体液までも。
縊り殺されているような声と共に、口から断続的に排出されていきます。

私はわざとらしく溜息を吐き、鞭を振るいました。
嘔吐さえも許されずに臀を叩かれ、「馬」の嘶きは悲痛なまでです。

「早く、この汚らしい芝を食い収めろ、私の部屋を反吐でマーキングするつもりか?」

その嘲りで、発破をかけます。
しかし、レイヴン様の体は小刻みに震え、息を荒くし、懼れに竦んだように動きません。

頑として動かないレイヴン様に、この状況の前提を再掲します。

「『馬』ならば、『飼い主』に従うものだろう? 理性のない、『馬』ならば」
 ――それとも、自分は『人間』だと言い張るつもりか?」

私の中に潜む何者かから発せられた嘲笑が、私の脳を通さずに口を通ります。
私の言葉でありながら、そうとしか言えませんでした。

「『人外』が」

その罵りに、レイヴン様は一際大きく反応しました。
レイヴン様は目を見開き、私を見上げて唇を裂きました。

「……わ……たしは……」

「馬」が、人語を話します。
それは、歪んだ状況を正常に瓦解させるタブーでした。

この状況を望んでいたはずのレイヴン様は、なおも続けて嘶きます。

「私は――『人間』だ」

それははっきりと、抗議の意味を添えて発音された、言語です。

私は、連王様の記憶を焼き捨ててでもこの状況に身を委ねたのです。
この場に来て状況を覆そうとする「馬」に憤怒を覚えました。

即座に鞍から降りました。

部屋の暖炉に近寄ります。
傍に置かれた薪を投げ入れ、
火種たるマッチを擦り、それも投げ入れ、
玄関から火掻き棒を持ってきては、それも投げ入れます。

一連の私の作業を、レイヴン様は呆と見ていました。
私はレイヴン様の元に戻り、四つ足で見上げるそれを見下ろします。

「お前が何者かを教えてやろう」

私はレイヴン様の白髪をひっ掴むと、廊下を通り、倉庫の方に向かいました。
レイヴン様は、引きずられるように伴います。

倉庫の前まで来て、私は四つ足のレイヴン様を立たせたまま、倉庫の扉を開いて漁りました。

そこには、鞍以外の馬具が収められています。
偽物の荷縄の鞭を捨て、私はそこから本物の鞭を取り出しました。

厚い毛皮と皮膚に覆われた、本物の馬に使われるような鞭です。
毛もなく皮膚も薄い人間に使うべきではない、動物扱いをする為の鞭です。

威嚇するように鞭を大きくしならせて、私はレイヴン様の前に立ちました。
「飼い主」を前に怖気づく畜生を演じ、レイヴン様が体と瞳を震わせて私を見上げます。

私は予備動作もなく、レイヴン様の首を鞭で打ちつけました。

「ガァッ!」

先程よりも人間らしくない囀りに、ほんの少し溜飲が下がります。
それでも、これで全てを許すつもりはありません。

「『馬』になった時と、同じようになれ」

命令を下して五秒だけ待ちます。
その五秒の間、命令を理解できずに立ちつくす事に時間を消耗したレイヴン様に、再度鞭を振り下ろしました。

「ギィッ、アァッ!」

先程打った箇所に重ねるように鞭打てば、傷も苦痛もより深く穿たれました。
レイヴン様が震え悶え、腹を見せるように横に倒れこみます。

床に頬を擦りつける体勢となっても構わず、レイヴン様はぜいぜいと動悸を荒げます。
その腹に鞭を入れ、命令をより分かりやすく説明しました。

「私がお前の四肢を縛った時のように、仰向けにして肘膝を見せろ」

レイヴン様はようやく理解したようで、四肢を封じられた状態でぎこちなく倒れこみました。
その際、背に乗っけられただけの鞍は、ころりと床に転がります。

内臓の詰まった腹部を晒す事は、動物が行う服従のポーズです。
ですが、私がそうさせたのは服従の証を見る為ではありません。

私は、倉庫から目的のものを取り出しました。
それらを見た時、レイヴン様の表情が掻き乱されます。
苦痛への希望と、堕落への絶望で綯交ぜになった表情で、私の手を見つめました。

金鎚。
鉄釘。
そして蹄鉄。

金鎚と鉄くぎは、家の補修用のものです。
ですが、それに蹄鉄を伴えば、そんな意味など違えて受け取れるでしょう。

四つの蹄鉄と何十本かの鉄釘を床に置き、私は金鎚を構えました。

処刑人を前にした囚人のように、レイヴン様は願いをこめて抗います。

「私は……『人間』だ」

私は、常のレイヴン様を装い、首を傾げました。

「どうかなぁ?」

蹄鉄と鉄釘を拾い上げ、レイヴン様に迫ります。

「来る、な……」

弱弱しく抗議するその態度の中を見透かしました。
その気になれば、レイヴン様は今にでも縄を解き、私を殺す事ができるでしょう。

しかし、レイヴン様の唯一の救いである苦痛を目の前に下げられて、それに抗う事などできはしないでしょう。
私の脳の回路がレイヴン様と同一のものとなった今、その推測は確信と同一です。

私はレイヴン様に迫り、蹄鉄の底面を右肘に合わせました。

「――ッ!」

最後の抵抗として四肢を暴れさせ、「馬」になる事を拒みます。
私は肘を押さえつけ、一瞬を突いて右肘の蹄鉄に釘を打ちつけました。

「ア゛ッ、ガッァあ゛アっハぁあ゛ッアァッ!」

人語の次にレイヴン様の口を衝いて出たのは、甲高い咆哮でした。
およそ理知的とは程遠い表情に切り替わり、口が裂けんばかりに開かれます。

この一釘で抵抗を失い、激痛に引き攣る肉体を晒します。
私はレイヴン様の理性が戻る前に、救われる事のない欲望を刺激させました。

まだ釘を打ちこむ穴の残る右肘の蹄鉄に、釘を添えて金鎚を下ろします。

「アあッ、い゛ッイ、良゛ィイっ!」

「人間」であると主張していたレイヴン様の姿が、欲望に呑みこまれていきました。
人間らしい表情を急速に失くしていき、苦痛を快楽と受け取る浅ましい表情に堕ちていきます。

釘が関節の軟骨を破壊し、肉に穿たれ、「馬」の証である蹄鉄が固定されます。
そうしていく内に、抵抗の為に暴れていた四肢は、自分から肘膝を捧げるように従順になりました。

「そう、それでいい」

レイヴン様の欲望の写し鏡となった私が代弁します。

「『人間』である事など、この場においてはどうでもいい。
 今や私を救い得るものは、この生を実感できる苦痛しかないのだ」

肘膝へ装蹄する間に、血が湧き出してはレイヴン様の身を染めました。
私がレイヴン様に四つの蹄鉄をあしらった時には、床は赤い湖面に変わります。

最後の釘が左膝を穿った時、レイヴン様が絶頂し、その背を弓なりに反らせました。
絶頂の余韻に浸るレイヴン様をよそに、私は役目を失った金鎚から、御する為の鞭へと持ち替えます。

四つ足で起き上がる事のできないレイヴン様を何とか立たせると、蹄鉄を固定する釘が自重で抉られ、耳をつんざく嘶きが辺りに喚き散りました。
転がっていた鞍を背に乗せ、レイヴン様の後ろに回り、血で濡れそぼった腰を鞭で鳴らします。

「前だ、前へ行け」

号令を受けたレイヴン様は、廊下を歩きます。
その歩行速度は馬というよりは亀でした。

「ぁア……ハぁあ……イッ……あァ……!」

何しろ、蹄鉄が床を鳴らす都度、四肢を刺す釘の凌辱が鮮烈に脳を焼くのです。
口は意味のないよがり声の為に開かれ、喜悦から分泌される唾液がだらだらと垂れています。

ただ歩くだけでその様です。
ほんの数メートルの廊下を踏破するだけでも、五分はかかったと思います。

部屋に戻ったレイヴン様は、それで号令を果たしたと思いこんだようでした。
歩みを止めて、早鐘の動悸を鎮めるべくぜいぜいと呼吸を繰り返します。

しかし、前へ進めという号令の目的は部屋に着く事ではありません。

私はレイヴン様の腰に鞭を振り下ろし、皮膚が破裂するような音が部屋中に反響しました。

「ヒッ、イィいンッ!」

馬に似せて鳴き喚き、レイヴン様はそのまま直進しようとします。

それも私の目的と違いました。
私はレイヴン様の髪を引き、進むべき方向へとレイヴン様の向きを修正します。ぶちぶちと、何本か髪が千切れました。

進路を変えさせたレイヴン様の先にあるのは、先程火を焚かれた暖炉です。

私の心境は、囚人を処刑台へ誘導するそれでした。
暖炉の前まで歩かせると、前進し過ぎたレイヴン様の肘が暖炉の中に入ろうとしていました。

炙られる快楽への期待に、鞭を打って「否定」を示します。

「あッ――!」

私が想定するのは、レイヴン様の身を焦がす単調な火葬ではありません。

暖炉の前で止まったレイヴン様は、先端が炙られている火掻き棒をぼんやりと見つめていました。
私はそれが何を意味するのか分かります。

何しろ私はこの時のために、わざわざ暖炉に火を灯し、この火かき棒を突っこんだのです。

予想だにしない期待に目が眩むレイヴン様は、まるで獣のような醜態を見せていました。
それはお預けを食らっている家畜の目です。

「汚らわしい」と、私は思いっきり見下しました。
それすらも期待を高ぶらせている様子で、首の下には垂涎の溜池ができていました。

私は 火かき棒を手にすると、レイヴン様の後ろに回りました。
レイヴン様の腰に手をかけると、そこにあった穿物の布を破ります。

そこは頻繁に鞭打たれたところですから、脆くなったその箇所は簡単に破けました。
露わになったレイヴン様のその腰は、白く滑らかな肌を覗かせ、
しかし鞭打たれ、青く淀んだ痣のあるその腰に、
私は火かき棒を突っ込みました。

「い゛ッ――ヒぃイ゛ッ、い゛ィィインッ!」

耳を塞ぎたくなる嘶き声を上げます。
人間が口にするには獣性の強いそれでした。

何しろ数十分前から暖炉の中に置かれた火かき棒です。
毛皮に覆われていない人間の肌に当ててしまえば、チーズのように溶けてしまいます。

ジュウ、と言う肉の焼ける音と、食用ではない屑肉の焼ける臭いが、煙と共に上がりました。
その臭いを嗅いで、私は顔をしかめます。

「アあ゛ぁっ……! ィんッ、んンッ……!」

レイヴン様は、身に余る快楽から逃れようと、火掻き棒から腰を引かせました。
そんな事を許してはなりません。追尾するように火掻き棒を押し当てます。

「イ゛イ゛ッ――!」

四つ足で、腰を熱鉄で焼かれるその醜態の意味。
ただ焼かれるではこうも行かない、嬌声の正体。

烙印です。牛馬の証です。

頭を振るい、背を震い、レイヴン様はその恥辱に喉を反らせます。
なおも私は火掻き棒をぐいぐいと当て、更にはまだ焼いていない皮膚をなぞり当てます。
白と青の綺麗な肌の上に、火傷の隆起がのたうち回りました。

私が一回火掻き棒を離すと、荒げた息を整えようとレイヴン様は呼吸に励みます。

しかしそれは終わりの合図ではありません。
私は再度火掻き棒を暖炉に突っこみました。
まだ焼き終わっていない部分があるからです。

火掻き棒が熱を孕むまでの間、私はレイヴン様の背中に腰かけます。
「馬」というよりは椅子のように扱いました。

その間も、辱めに震えるレイヴン様は、足の下で更に息を荒げます。

やがて熱した火掻き棒ができあがると、私はレイヴン様から降りました。
レイヴン様の腰をより多く露出させ、背に至るまでが外気に触れます。

私は先の続きを焼き続け、レイヴン様は喘ぎ続けました。

「イ゛ッ……! ヒィッ……!」

一方的に与えられる悦楽に、文字通り身を焦がし、人間の言葉で快楽に猛る事を必死に我慢し、舌を噛んで血を吐きます。

そして今度こそ焼き終えると、私は火掻き棒を床に落としました。
床と金属が奏でる晩鐘の響きが、終わりを告げます。

レイヴン様は四つ足すらも維持できず、体も顔も床につけ、陵辱の余韻に沈みます。
私は部屋の片隅を指差し、耽溺するレイヴン様を引きずり揚げました。

「あれを見ろ」

床に頬擦りしている中、レイヴン様は首を回してそこを見ました。
そこに、鏡があります。

私はレイヴン様の耳元に口を寄せ、

「焼いた痕を、お前のその目で見るんだ」

「飼い主」としての命令を囁きました。

レイヴン様はよろよろと立ち上がり、四つん這いで進みます。
肘膝には蹄鉄を打ち、腰には鞭と火傷を負い、歩く事すら困難なほどでした。

ただでさえ嘲り笑えるその姿に、屈辱の追撃がありました。
レイヴン様は鏡の前に立ち、そっと腰を鏡面に映すと、

「――ぁア」

と、諦めたように納得した声が漏れ出ました。

そも烙印とは、何者の所有物かという証明。
人権を剥奪された家畜の証明。️

そこには、️「」と私の名前が刻まれていました。

「……ハッ、ハハッ――」

レイヴン様は嗤いました。
空虚な、人間の欠落した、千年の虚無を濾した暗闇の嗤い。

それがレイヴン様です。

「そう、お前は人間じゃぁない」

レイヴン様の横に立つ私もまた、人間ではない笑みを浮かべていました。
今の私はレイヴン様を絶望に落とす、役に徹する人形です。

「人間ならば、こんな仕打ちをされて喜ぶものじゃぁない。
 お前のこの姿は、お前が望んだものだ。

 お前は自分を『犬』や『馬』のようにしろと言っていたが、それは思い上がりだろう?
 お前は元々、人でなしのケダモノだ」

その一言一言を噛みこんでは、角砂糖のように飲み下します。
そこに「人間だ」と主張した弱い人間はいません。

快楽に欲望を露出させる動物です。

人間ではなくなった「馬」は顔を綻ばせました。
自分の心を蹂躙する、屈服の暴力。
考える事なくそれに心身を委ねる事は、全てを諦めた沼の安寧です。

思考停止し、「馬」は鏡に近寄ると自分の惨めな姿をじっとりと眺めました。
特に烙印を押された腰の辺りなど、そこが映った鏡面を美味しげに舐め回します。

やがて「馬」は壁に立てかけられた鏡を前脚で床に落としました。
床に落とした衝突で鏡の一部が割れましたが、構わず「馬」は鏡の上に乗ります。
映し出らされた自分の姿に興奮し、鏡を相手にマウンティングをし始めました。

「ハッ、はァッ、ァアっ……!」

わざとらしく動悸を荒げ、自分で自分の聴覚を犯します。
興奮した姿すら鏡に映り、それを目の当たりにして醜悪な己を自覚し、途切れる事なく腰を振り続けました。

割れた鏡が皮膚を破ろうとも、なお止まる素振りも見せません。

「アぁあっ、ウあ、ァんッ……!」

自己嫌悪を材料に自ら精神を痛めつけ、次第に腰の振りが激しくなっていきます。
何度も何度も虚空を突き、周期を短く詰めて高まっていく様子が見てとれます。

不自由な後ろ足で床に立ち、背骨を折らんばかりに体全体を振り動かし、
ついには絶頂まで登り詰め、奈落に深く口を開け広げました。

()ゥわ゛ァッアんぃ()゛あ゛ァガあ゜っ゛イ゛ぅ()()ンッグウゥうぁア゛ア゜っハァア()あッっ゜ッ!」

戦慄せんほどに言語中枢が破綻した絶嬌(ぜっきょう)です。
噴出した本能の奔流を出し終えた時には、「馬」は顔を床に向けて舌と唾液を垂れ、四つ足のまま硬直しました。

乗るには都合の良い体勢でした。
頃合いと見た私は、「馬」に跨ると鞭を下ろします。

「ぃ゛ッひィ゛っ!」

鞭は、露出した烙印を叩きます。
直に皮膚を打つその痛みは、火傷で殊更増幅され、それだけで唾液を撒き散らす程でした。

「お前は何だ?
 人間に飼い馴らされ、何百年とかけて従順になった結果、最早野生種は絶滅し人間に従属する他なくなったお前は何の獣だ?」

それで、「馬」は理解しました。
人語で答えるのではなく、行動を以て応えます。

「馬」は走る為の獣です。

「馬」は吐瀉物の広がる床だろうと走ります。
それが汚物であるという理解もせず、走り出しました。

「ヒィイん、いイィンッ!」

走る都度、蹄鉄の釘が肉を抉ります。
嘶きに似せて喘ぎ、苦痛と虐待に尚更喘ぎ、呼吸困難となるまでに喘ぎました。

理性の隙もなく「馬」になった獣を相手に、私の精神の異常な昂ぶりが鎮まっていきました。
思えば、私はレイヴン様を満たす為に、その千年の精神を自分でずっと演じていたのです。
倦怠感が体に満ち、ともすれば意識が途切れるまでに疲れています。

しかし、私一人だけが疲れている訳ではありません。
幾ら壮健を保つ身を持とうとも、これまでの凌辱を受け続けた「馬」は、「飼い主」を乗せての疾走という過負荷に耐え切れなかったようです。

吐瀉物の泥濘に蹄を取られた「馬」は、前傾姿勢のまま転び、顎を床に打ちました。
転倒を想定しなかった速度で衝突し、床には断ち切れた舌が青ざめ、噛み鳴らし損ねた犬歯が口から零れます。

「馬」に乗っていた私は、遠くの床に振り落とされました。
乾きかけた吐瀉物に服を汚され、私は落胆の溜息を吐いてそれを振り払います。

私はすぐに立ち上がり、「馬」の様子を窺います。
また走る事を予想していましたが、「馬」は倒れたままとろとろと数分を消費しました。

「走れないのですか?」

私は「馬」に歩み寄り、その頬を撫でました。

四肢も、腹も、胸も、頭も、目の行方も全てが揺れ惑い、全身が無言の音を上げています。
自分が散らした血と吐瀉物で体を塗り、口からは乾いた呼吸音しか聞こえません。

もう走れないと知った私は この空間の終焉を予期しました。
幕引きを行うのも、空間を支配する「飼い主」の役目なのでしょう。「馬」が望む終着を用意しなければなりません。

私は「馬」の耳に囁きました。

「もう、用済みですね」

「用済み」という不穏な言葉に、「馬」はびくりと反応しました。
しかし抵抗はありません。それを用済みにする事への肯定と見なしました。

もう立つ事も逃げる事もままならない「馬」から一旦離れ、放置していた荷縄を再度手に取りました。
私は「馬」の胴や肩に荷縄を巻きつけ始めます。

経験はありませんが、知識だけはあります。
家畜を屠殺する際には、それを縛り上げて吊るす事が必要なのです。

縄を縛る心得はありません。
ただ幼稚な縛り方で、「馬」を縛り上げました。

抵抗をさせないよう、四肢を胴に密着させるように縛ります。
縛る事は容易でした。最早「馬」は縛られる事に抵抗する力もないほど疲労しているようです。

一重結びだらけの「馬」の縄の一本をつかむと、寝室に向かって引きずりました。

「……ィ……ゥ……」

引きずる間、「馬」は喘ぎ疲れて乾いた喉で譫言をつぶやきます。
成人男性ほどの重さの「馬」を、数分かけてやっと寝室の前まで引きずりこみました。

しかし寝室に連れこむのではありません。
私の目的は扉でした。

私は荷縄の束から、「馬」の身長ほどの長さで荷縄を切ります。
そして扉を開くと、天井すれすれの扉の上部分にその縄を通します。

扉の前後に縄が垂れるようにして、縄の一端と「馬」の縛り縄を固く結びました。
これで、もう一端の方を下に引けば、「馬」が縄に引かれて吊るようになります。

しかし一本の縄では切れるでしょう。
私は何本も扉の上に通しては、「馬」の縄と繋ぎ合わせて補強していきます。

「ゥァ……ァ……!」

そうしている間に、「馬」の疲労はわずかに回復しているようでした。
しかし身動ぎするだけで、何の抵抗にもなりません。
着々と屠殺の準備が進んでいくのを、ただ見つめるしかありませんでした。

やがて十数本の縄が扉の上から垂れました。
「馬」と反対の縄に向かい、わずかに引いてみましたが、切れる様子はありません。

安心した私は、倉庫から空のバケツ一杯と、台所から包丁を一本取ってきました。

「……!」

私が台所から戻ってきた時、手に持った包丁の照りに「馬」が戦慄した様子でした。
私はバケツを「馬」の頭の近くに置き、包丁の背で髪を撫でました。
金属の愛撫に死を感じた「馬」は、首に鳥肌を立たせて、目はがくがくと震えます。

「走れなくなった駄馬は、血抜きして肉にするんですよ」

馬耳にそう囁いて、私は「馬」の喉に包丁の刃を当てました。
喉仏のあたりに刃を当て、私は刃を押しこみます。

「ァ……!」

声帯が断たれる前に、そのわずかな悲鳴を上げます。
それきり、何も発声しませんでした。

喋る事のできなくなった「馬」に、私は構わず首に刃を押しました。

「――――!」

声ではなく、身動ぎで悲痛を示します。

「馬」は、さして動きません。
ですが、荷縄がギチギチと張る音が、その体が暴れようとしている事を伝えました。

首の半ばまで刃を肉に埋めた時、不意に流血が噴血となりました。

いわゆる頸動脈というものを切ったのかもしれません。
擦過傷程度では見られないような、鮮やかな赤い動脈血です。
「馬」ではない普通の馬ならば、失血死させるには充分でしょう。

「馬」の表情を覗いてみました。

「……ッッ!」

首から伝う血が、目蓋にまで伝っています。
それは涙の軌跡のようで、しかし顔は凶喜にひん曲がっていました。

開け広げられた口は何事かを開閉し、二酸化炭素の代わりに鮮血を吐き出しています。
実に狂った悦楽ぶりでした。

私は、首を反らせる為に「馬」の額に縄を当て、脇の下に縄を通して括りつけました。
後頭部の針が肩甲骨の間を突くような位置になります。
すると、喉仏を切られた首の断面がより開かれて、血がより流れやすくなります。

「……!」

首の骨を曲げられ、断面が空気に触れた激痛。
「馬」は体そのものが心臓になったように大きく脈打ちます。

私はバケツを扉の近くに置きました。
そして私は扉の裏へ行き、「馬」に繋がれた縄を引きます。

「馬」はずるりと体が持ち上がります。
「馬」は後ろ脚を上にして、逆さ吊りの状態になりました。

胴よりも下になった首から、重力に従う血が流れ出ています。
血の滝は、バケツによって受け止められました。

重い「馬」を吊り上げるのは大変な労力でした。
それでも上に上がれば上がる程、扉を支点とした梃の原理で、次第に自分の力で容易に上がるようになっていきました。

数分して、自分の腕に縄を巻いて座ります。
それだけで吊られた状態を維持できる程、「馬」は支点に近くなっていました。

滴る血が、バケツの湖面に波紋を立てる音が大きく聞こえます。
それは眠気を誘う音でした。

「馬」と扉一枚隔てただけですが、隔離された感覚に微睡みが包まれていきます。

これで、もう「おしまい」でいいでしょう。
そう考えて、感情の一段落がつきました。

安堵した私の脳が、私の思考が不明瞭になっていきます。

走馬燈のようでも、夢見る前の無秩序な混沌のようでもあります。

バラバラと今日の出来事がフラッシュバックしていきます。

「馬」の血。
烙印の痕。
歩き回る「馬」。
餌を食う「犬」。
首輪をかけられた「犬」。
そもそもは、レイヴン様。
その前に、連王様。
連王さま――。
そう、れんおうさまが――。

私は、
重い目蓋と眠気に抗えずに、気を絶ちました。











不意に目が覚めました。
きっかけは分かりません。悪夢かもしれませんし、血の滴る音が途絶えたからかもしれません。

縄に縛られて青くなっていた腕には、もう重みの感覚がありませんでした。
適切な睡眠ではない気絶であるからか、疲労の感覚は色濃いものです。
扉の後ろに首を回すのも、這ってようやくといった体でした。

そこに「馬」も、レイヴン様もいませんでした。
血を一杯に湛えたバケツしかありません。

恐らく、レイヴン様の時間が来てしまったのでしょう。
私は時間を計る為、懐中時計をのろのろと取り出しました。

文字盤を見て、目を見張ります。
5時に針が差し掛かっていました。

夕方の5時という意味ではないでしょう。
それは「今日の私」の時間もあとわずかなのだという宣告でした。

私は途方に暮れます。

居間の床は吐瀉物と血が混濁した汚泥が撒かれ、あちこちに縄や馬具が散乱しています。
どこから手をつけるかと考える暇もありません。

混乱した私の目に、あの鞍が目に飛びこみました。
連王様と出会えた象徴である、あの鞍です。

しかし今やレイヴン様の血汗を吸い、思い出と共に汚染された鞍です。
それでも、その思い出だけは何とか残したいと思いました。

疲れ切った私は息も絶え絶えになりながら、四つん這いで寝室に向かいます。
寝室には日記がありました。

そこに私の、わずかな憧れの一端でも残したいのです。
あの鞍に跨り、私は連王様を見たのです。
今日の私が抱いた感情を、明日より後にも残したいのです。

その思いに縋り、やっとの事で這い寄ります。
私の姿が、寝室の窓に反射しました。

それは四つ足の、「犬」とも「馬」ともつかない醜い姿です。
自分が他者を「犬」や「馬」として追い詰めながら、自分の感情は優先しようとする姿です。

自分自身の姿に、精神が射抜かれました。
私はレイヴン様に人間ではないと言いました。
しかし、今この時の私もまた人間ではないように思え、私の手足が止まります。

四肢が床に固着したように動けません。
懐中時計の時を刻む音が、精神を刻みました。

やがて、私が眠る時間が来ます。
今日の私が、死ぬ時間です。

「あ……あ……!」

私は日記に手を伸ばし、そこで意識が沈みます。


「ん……」

起きる時、体に痛みが走りました。
私は何故か、床に寝ていたのです。

昨日の私は何をやっていたのでしょう?
それに起きてすぐさま、異臭が鼻を突きました。

私は痛む体を動かして、気が進まないながらも寝室の扉を開けました。

「う――わぁっ!?」

そこでひっくり返ります。
赤黒い液体を波々と湛えたバケツがあるのです。
こんな事が日常に組みこまれるのは、屠殺場くらいでしょう。

しかし、異臭の大本はそこから発生しているようではありませんでした。
私は恐る恐る居間に行きました。

「――――」

絶句します。

床には渇きかけた野菜屑とふやけた何かと血の塊が広がり、酸っぱさと鉄臭さが合わさった悪臭が漂っています。
私はすぐさま窓を開けて換気します。

本に、一体昨日の私は何をしていたのでしょうか。

いえ、人間一人を潰して出したようなあのバケツの血を見た時から、推測は立てていました。
レイヴン様が、昨日に私の家へと来訪されたのでしょう。

昨日の私というものがどこまでも羨ましいものです。
こんな汚物の処理まで、今日の私に押し付けて!

「……はぁ」

過ぎ去った事に腹を立てても仕方ありません。
あちこちに散乱する異物を捨てるべく、物置から袋を取ってきました。

これでレイヴン様を打っていたのであろう鞭や、縛っていたのだろう荷縄を袋に入れていきます。
何の気兼ねもなく、袋の中に入れていきます。

最後に、寝室の扉の近くにあった立派な鞍を手にしました。

「…………」

私はじっとその鞍を見つめます。
それは、くたくたに使い古され、血を吸い黒ずんだ馬の鞍です。

「随分と、本格的にやっていたようですね」

やれやれと呆れ、何の未練もなくその鞍を袋に捨てました。
その感想だけです。