入りの新月

――自分は、何故生きているのか?

始終彼の頭を悩ませていたその哲学は、今この時はその色を変えていた。

その意味は「何の為に生きているのか」というものではない。
言葉の通り、「何故生きているのか」という事だ。

彼自身、自分が今もなお生きている事に疑問を抱いていた。

昨夜の事だ。

敵国の村を略奪し、彼の部隊は憩いを得た。
しかし、それは罠だった。深夜に敵の奇襲を受け、彼の部隊は全滅する。

それは彼も例外ではなく、敵の矢と剣をこの身に受け、心臓が止まって死に絶えた――はずだった。

だが、奇妙な夢か、はたまた走馬燈か。
白い空間で苦痛の限りを味わった後、朝に起きれば生きていた。

何故だ?
あの時、この身を貫いた刃の冷たさは、今も覚えている。

彼は優秀な兵士である。人間の体のどこを斬り、どこを刺せば殺せるのかを知っている。
その彼の知識は、彼の現実に背いた結論を導き出す。

自分は、死んだ。
ならば、自分は、何故生きているのか?

こうして、冒頭の逡巡に至る。



彼は今、敵国の森の中にいた。

生死に逡巡しながらも、青年は道を歩いている。
道の先は分からない。しかし、何もしないよりは精神衛生的にマシだった。

警戒は怠ってはいない。
何しろ、先に述べた通り、ここは敵の腹の中だ。
あの傍の藪から、この木の裏から、兵士が出てくるかも分からない。

耳をそばだてる青年は、故にその存在を知覚できた。

「…………」

自分の進行方向、曲がった道の先。

目には見えないが、歩く音が聞こえた。
遠くから聞こえる音だ。一人や二人という数ではない。少なくとも十人はいる。

青年は手近な木の後ろに隠れた。
腰に帯びた剣の柄に手を置き、いかなる時にも抜剣できるよう構える。

足音は、こちらへと向かっていた。
息を殺し、わずかに目を出し、その正体を窺う。

やがて、姿を現した。

先頭にいたのは、騎士だった。

鎧を着こみ、馬に跨り、手綱の握り方にさえ作法が行き届き、貴族の出と知れる。
外套には十字架が描かれ、青年と同じ軍である事が分かった。
その後ろから徒歩(かち)の兵士たちが続き、それが足音を増幅していた原因だと知れる。

少なくとも、敵の軍隊ではない。
ひとまず胸を撫で下ろし、剣の柄から手を離した。

味方の軍であれば、合流を図ろう。
木から道に出て、己の姿を現した。

「――何者だっ!」

兵士が声を上げ、前に出た。

騎士の後ろから軽装に槍や剣、弓を持っただけの兵士がぞろと出てきて、およそ数十人に取り囲まれる。
兵士は手に手に武器を構え、青年の反逆に備えた。

敵かもしれない青年を前に、騎士はやたら軽く呼びかける。

「やぁ、やぁ、やぁ」

青年を前に、騎士は馬上から誰何(すいか)する。

「キミは、何者だ?」

騎士の怒りを買ってはいけないと、青年は礼を示した。

腕を広げ、今は武器を手にしていない事を明らかにする。
そして左脚を前に片膝立ちし、姿勢を下げて無防備を晒した。

相手に己の命運を差し出して、青年が答える。

「従士、。十字軍に参じた一兵卒です」

それを聞き、騎士は値踏みするように青年を睨めつける。

「我らが皇帝に、忠誠を誓ったか?」

「はい」

形式上のものではあったが、確かに彼は従軍の際に忠誠を宣言した。
それを聞き、騎士はなおも表情を固める。

「その発言に嘘はないと、神に誓えるか?」

それに、ぴくりと青年は反応する。

神をそれほど信じていない。
しかし、そんな事をわざわざ口にするつもりは無い。

青年は空っぽの信仰を抱き、恭しく頭を下げた。

「誓って、嘘はございません」

敵意のない、青年の素振り。
その様を馬上から見下げ、ようやく騎士は認めた。

良し(Gut)

周囲の兵士は構えを解き、騎士の後ろに下がっていく。

騎士は未だ馬から降りぬまま、青年に笑みを注いだ。

「いやはや、まあ同じ言葉を喋る以上は兄弟だと思うがねぇ。そうじゃぁない時もあるかと思ったのだ」

飄々とした騎士の口ぶりに、青年は堅苦しく返した。

「……いえ、当然かと、存じます」

敬語こそ使ってはいるものの、そこに敬意は存在しない。
あるのは、騎士の機嫌を損なわない為。保身の為のおためごかしだ。

何者かに頭を下げるのは、いつだってそうだった。

皇帝に、神に、そして今に。
己が頭を垂れるのは必要に駆られたからであり、自ら敬意を示すべき相手と邂逅した事がない。

他の皆が信じる、神ですらそうなのだ。
ともすれば、生涯に自分が敬愛を抱くものは、何者もいないのかもしれない。

青年は充分に時間を取ってから頭を上げると、騎士と目を合わせる。

殺されないと分かれば、少しばかり交渉をしたい。
何しろ、今の自分は寄る辺のない(はぐ)れた一人だ。

腹も空くし、寝床も欲しい。現に、口も乾いていた。
青年は騎士に寄ると、思案に灯った願いを紡ぐ。

「一つ、よろしいでしょうか」

「何だ」

「貴方の部隊に……入れて貰って、構いませんか」

平民の敬語を繋ぎ合わせ、青年がそう懇願した。

この騎士の態度にやや不満はあるものの、目を瞑れば利益を享受できる。

部隊に入れば、補給にありつける。
交代で番はするだろうが、獣にも敵にも怯えずに寝る事もできるだろう。

その打算を表に出さず、騎士の気を引かせる為、困窮したような素振りを見せてやる。

「自分の部隊は、もう無くなってしまいました。
 どうか、従士として仕えさせていただければ」

なるたけ哀れましく振る舞った。

正直に言えば反吐が出る。
だが仕方のない事だと尊厳を宥め、青年は騎士を仰いだ。

「剣はあります。敵を殺す心得も、前線へ切りこんだ経験もあります」

そう縋る青年に、騎士の纏う空気が一変する。
いや、変わったというより、帰ったというべきか。

青年と相対した時の、警戒の空気。

騎士は冷たくなった顔の内、閉されていた唇を割った。

「何故、キミ以外に他の兵士がいないのだ?」

その疑問を受け、青年はぽつりぽつりと過去を述べる。

「夜に、敵の奇襲を……受けたのです。それで、味方が死んでいって――」

青年の経緯の説明を遮り、騎士は問いを詰めた。

「敵は殺したか?」

「…………」

厳しくなった騎士の態度に、青年は黙して様子を窺う。
ここで「敵を殺した」と嘘をつこうかと考えた。

だが、騎士の目は鷹だった。
貴族間の嫌味と悪意をすり抜けた、いやに鋭いものだった。

その目を見て、答える事もできない。

沈黙を破り、騎士が突如怒声を上げた。

「パンを分けた兄弟が死んだというのに!
 キミには、兄弟の為に死す覚悟も無かったのだ!」

大仰に指摘し、青年は弾けたように否定する。

「違う! オレは――」

そこで、喉が止まる。

違う。
そう否定した所で、一体誰が信じるというのだろうか?

青年はあの時、死なずに場を切り抜けられなかった。
彼は死んだ。味方と共に死んだのだ。

深夜に奇襲をかけられ、馬に乗って逃げ、矢をかけられ、落馬し、腹と背を貫く刃を受け――間違いなく絶命した。

だが、彼はここにいる。

その理屈が、当の本人ですら分からず、混乱のまま口を開く。

「オレ、は……」

言い淀む青年の様子は、まるで今言い訳を紡ごうとしているようだった。
彼の惑いに嘲笑を上げ、騎士は憎たらしく揶揄する。

「キミは死体か? 私は今、死体と話しているというのか?」

騎士の皮肉に、背後の兵士から笑いが起こる。

「…………」

唇を噛む事しかできず、それでも青年は必死に脳を回す。

時は、残酷に過ぎていく。
沈黙が続くほどに信頼は失われ、ついに騎士は見放した。

「もういいだろう。キミが何なのかは、もう、分かった」

手をひらりと返し、騎士は馬から降りた。
そして騎士は青年に歩み寄り、肩を叩く。

それは、裁判所の木槌と同じ意味を持っていた。

騎士は兵士に向き直ると、腕を広げて説き始める。

「さあ、我が兄弟よ! 見たまえ!
 この若人の顔は、己の兄弟を捨て、自分だけが生き延びた者の顔だ!」

それを聞き、青年は瞠目して周りを見回す。
兵士から投げかけられる目線には、不信の色がありありと見てとれた。

明らかな不穏に、青年が狼狽し、後退る。
わずか広がった距離を詰め、騎士が威嚇した。

「この者は謂わば、我らが国の、我らが皇帝の、我らが神に背いた者である!
 故に、この背信者を――『槍の小道(Spießrutenlaufen)』と処す!」

その宣告を受け、兵士たちは処刑の準備を始めた。

青年は青ざめ、抗議に口を開けた。

「違う! オレは――オレは、何も、誰も裏切ってないっ!」

騎士はつまらなそうに目を窄め、腰の剣を抜いた。

「――ッ!」

青年も合わせて抜剣し、騎士の斬撃に備えようとする。

だが、騎士の決断は早かった。

鎧姿とは思えぬ速さで、青年へと肉薄する。

「クッ!」

慌てて青年が剣を振るった。
充分な狙いをつけない斬撃は、騎士の鎧に弾かれて終わる。

その隙を突き、騎士の剣が青年の刃を切り払った。

青年の剣が、手から離れる。

唯一の武器を失った青年の鳩尾に、すかさず騎士が拳を入れた。

「ィッ――!」

ガントレットで覆われた殴打。
青年はその苦痛に絶句し、堪らず膝を地面に落とす。

転がり落ちた剣を、騎士が足で除ける。
青年が剣を手にする事は最早叶わず、無力化を認めた騎士が号令をかけた。

「列せよ!」

「…………!」

青年は動く事もできず、ただその準備を眺めるしかなかった。

兵士たちは無言で二つの列を成していき、互いに向き合う形で直立する。

騎士は馬の荷から縄を取り出すと、青年の腕に縄をかける。

「……っ!」

これから起きるであろう虐待を予見し、青年は逃げようと体を引いた。

「逃げるな!」

騎士の一喝と共に、近くの兵士が動く。
兵士は青年の後ろに回ると、その首に剣の刃を当てる。

「――!」

逃げれば、殺す。
その意思表示を見せつけられ、青年はただ立ち尽くした。

騎士は青年の両腕を前に出させ、手首を揃えて縄を巻く。
手の拘束を終えた騎士は、青年の首に剣を突きつけていた兵士を下げさせた。

兵士は「槍の小道」の列に戻る。
騎士は青年の腕を引き、二つの列の間に立たせた。

そして騎士は後ろに回り、剣で青年の背を突いた。

「――ッ!」

「進め!」

背中にわずかな刃傷を受け、青年は有無も言えずに一歩を踏む。
兵士の列に入った瞬間、横にいた兵士から蹴りつけられた。

「ぅあっ!」

蹴りつけた兵士の向かいの兵士からも脛を蹴られ、更には抜いた剣で腿に擦過傷が刻まれた。

「いっ……!」

口を噛み、悲鳴を飲みこみ、苦痛に耐えるべく足を強張らせる。
足を止めた青年に対し、騎士は再度剣で背中を突いた。

「止まるな! 進め!」

そして、青年は理解した。

これは、そういう「調教」なのだ。

抵抗もできない弱者を取り囲み、罰という大義名分で、兵士たちの嗜虐心を収める。
同時に、国を背いた末路を見せつけ、騎士に従わなければと知らしめる。

部隊の統制をより強固にする為の、「調教」だ。

自分は、騎士の思惑に合致した道具でしかない。
意思も尊厳も無視された、便利な存在だ。

惨めで、それでも抗えず、青年が更に一歩を刻む。

剣で肉を撫でられた。
唾が吐きかけられた。
背を叩かれてうずくまり、後頭部に足が押しつけられた。
聞くに堪えない罵声を浴びた。
傷跡に矢尻をねじこまれた。
腹を殴られ、地面に吐瀉した。

青年はほんの5フィートの間で、その暴力を心身に受けた。
青あざと血と土に汚れた青年に、容赦も加減も憐憫もなく兵士たちが手を伸ばす。

兵士たちは笑っていた。
青年の姿を嘲り、苦痛に上げる声に冷笑し、地面に転べば全く可笑しいものだった。

嘲笑と武器の狭い世界の中で、ただ一匹のおかしな(けだもの)
数分の、数フィートの出来事だというのに、こんな仕打ちを受ける自分というものが人間だったのか、自己認識さえも揺れ動くような暴力。

いつまでも自分を嗤う声がつきまとう。
獣を追い立てる、背後の騎士ですら(わら)っていた。

いっそ自我を手放せば、潰される精神もないだろう。
それでも、この仕打ちに痛む心を抱えて歩く。

何度も刺し傷を開けられる脚を引きずり、打たれた頬の血を吐いて、脱臼した肩から腕をぶら下げて、列の最果てに目を開く。

必死に歩く青年の姿が尚更滑稽で、笑い声は始終絶えずに楽しげだ。

そう、彼らは知っている。
列の最果てに、希望など無いのだ。

それでもそこに辿り着けば終わるはずと期待する、その青年を見て、残虐に嗤い転げた。

「はァっ、ああッ……!」

肺から絞る声に安堵を滲ませ、青年はあと一歩を消費する。
横にいた兵士から強い殴打を受け、青年の口から歯が弾ける。

「ぅっ、あッ……!」

伸ばした腕を逆に曲げ、関節の割れる嫌な音が響いた。

「がああっ!」

そして、ようやく届いた。

列を抜けた青年は、そこで全ての力を使い果たし、糸の切れた操り人形としてだらりと地面に倒れ伏した。
その姿すらも大きく笑い、その渦の中から騎士が歩み寄る。

乾いた拍手と共に青年の傍に立つと、騎士はうつぶせの彼を蹴り転がした。

「痛っ、あぁ……!」

それに抵抗もできず、青年は転がり仰向けになる。
胸の上に縛られたままの両手を乗せ、青年のひゅうひゅうというか細い呼吸で上下する。

騎士は青年を見下げると、測るように訊ねた。

「キミは、一体どれだけの敵を殺した?」

その問いを受け、息も切れ切れに答える。

「……オレは……覚えて、いない……十は、越している……」

返答に、騎士は大仰に驚いてみせた。

「十、十もかねキミは! たった一人で、十人を殺した!
 ああ、それは随分な戦果だ。称賛に値するよ」

拍手はより大きくなり、兵士からの笑い声も大きくなる。
だが、その拍手の動作が突如空中で止まると、笑い声は消散した。

騎士は皮肉の笑みを浮かべ、青年を見下ろした。

「だがねぇ、青二才。
 裏切りは、百の味方を殺すんだ」

騎士の感情が切り替わる。

弱者を嬲る嗜虐心ではない。
人間一人の命運を断ち切る事への愉悦。

青年は目を見開き、傷だらけの背筋に鞭を打つ。
上体を起こして逃げようとするが、彼の胸に騎士の足が振り下ろされた。

「がアッ!」

「さあ諸君! 寄りたまえ!」

列状に固まった兵士が散らばり、獲物を狙う禿鷹のように青年を取り囲む。
騎士は剣を高々と掲げ、陽光を刃の照りで散らした。

「この剣に誓い――この哀れな者に、裁きを!」

『裁きを!』

兵士が復唱し、地面が唸る。

青年は、掻き消されない叫びを猛った。

「やめろっ、――やめろ!」

両腕を上げる。
だが、束縛された両腕は剣を取る事もできず、ただ胸の上で哀れに躍るのみ。

さらばだ( Auf Wiedersehen)!」

青年の目が見開かれる。
陽光で神々しく輝く剣が、自分の首へと吸いこまれる。

「ア――」

何を言おうとしたのか、分からない。
首の肉に、冷たい金属が差しこまれ、

それで、意識が飛んだ。


先のない喉元から、血が噴出する。

首と共に、命もまた過たず絶たれただろう。
青年の頭部は目を見開いたまま時が止まり、胴体は気絶したようにぴくりとも動かない。

兵士たちはその死体を取り囲み、醜い残滓をただ見下げていた。
しばらくすれば、人間の生死に飽きた者から離れていき、やがて全ては忘れ去られる。

そのはずだった。

死体であるはずのその肉塊が、びくりと痙攣した。

まるで、今まで止まっていたのは、あまりの激痛から気絶してしまっただけだったように。

その痙攣を見て、動揺が兵士の間に広がった。
だが、彼等を束ねる騎士は、恐慌を食い止めるべく声を上げる。

「落ち着け!
 死体の胸には、まだ空気がある! それが漏れ出ただけだ!」

騎士の毅然とした声色に、兵士は納得しようとした。
それでも、死体が動くという有り得ざる事象を前に、従士たちは恐れを滲ませる。

その恐れを体現するように、死体は劇的に動き始める。

激しく死体が左右に揺れ震え、拘束された両腕は何かを求めて蠢いた。
有るべきものを欠いた首。そこから生まれる激痛に、死体は悶えて苦しんでいる。

明らかに、この死体は動いている。
それも、偶然や自然法則によるものではなく、青年の意志を以て動いている。

「い――ぎゃああああぁぁぁぁぁっ!」

恐怖は悲鳴の閾値を超え、兵士の一人が金切声を上げる。
金切声を呼び水に、恐怖が兵士の間を伝播する。

「ば、化け物! バケモノだアッ!」「ひぃぃぃぃっ!」「こっ、殺されるっ!」

口々に悲鳴を上げ、或いは逃げ惑い、或いは腰を抜かして尻餅を着く。

この事態に収拾をつけるべく、騎士は剣を抜いて前へと出た。

騎士とて、この異様な光景に怯んでいる。
だが、平民である兵士を屈服させ、命令を聞かせていた長である。
その長が尻尾を巻けば、兵士に不信を持たれるだろう。

騎士は何とか己を奮い立たせ、動く死体の前に立つ。

「し――死ねぇっ!」

裏返る声と共に、死体の胸に剣を突き立てる。

その瞬間、死体は更に大きく痙攣し――、
新たな激痛の元を絶つべく、その腕を剣の束に伸ばした。

「うア――あああああああああああぁぁぁぁぁぁッ!」

最早、騎士の威厳も長の責務も投げ出して、ただの凡人として絶叫した。
死体の腕から逃れるべく、剣も放って騎士が後退る。

死体は、剣の束を握ると、刃を引き上げて己の身から剣を抜く。
そして、完全に剣を抜いた後、心臓から噴き出る血が地面を濡らした。

「わああああああああッ! あァっ、ぎゃああああああああああっ!」

その血の勢いは、騎士の頬にまで飛ぶまでだった。
まるで猛毒でも身に降りかかったように狼狽し、騎士はへたりこむ。

死体は、なおも動いている。
地面を這い、斬り飛ばされた首へとじりじりと近づいていく。
そして、その腕が首を掴むと、それを己の喉に引き寄せた。

首の断面と喉の断面を合わせ、そこでようやく死体の動きが収まる。
瞳孔が開いたままの首は、ただ斬られた直後の表情に固まっていた。

だが、首から溢れていた血の勢いが収まっていくと、その表情に色が戻る。
固まった表情が溶け、苦痛から解放された安堵の色へと染まっていく。

死体から、生者へ。
不可逆であるはずの変身を前に、兵士たちは息を呑んで注視した。

「ア……ア……」

まるで、声が出る事を試しているような、くぐもった声。
自分が生きている事を確認して、蘇った青年は周囲を見回す。

それは、自分が斬られたという敵意を持ったものではない。
単に、状況確認の為のものだった。

死から生へと転じた碧の瞳は、兵士たちを狂乱の渦に叩きこんだ。

「ああああああああああああああああっ! 化け物っ、ばっ、化け物ォっ! うわああああああああああああああああああああっ!」

そう叫びながら、兵士は、騎士すらも、青年から逃げていった。

自分から放射状に散っていく兵士たちを前に、茫然と青年がその背を目で追う。

彼の頭には、復讐という単語は浮かばなかった。

「化け物」

ただその単語だけが彼の頭に反響し、精神が肉体から剥離するような恐怖を覚えた。

自分と同じ国に生まれ、自分と同じ兵となった人間から、「化け物」と宣告されたのだ。

だが、それは当然だ。
首を斬られて、なお生きている。
それのどこを「化け物」でないと主張できるというのだろうか?

彼はここにきて、はっきりと自分というものがどのような存在なのかを自覚した。
それと同時に、自分という存在がひどく曖昧模糊とした霧になる感覚に襲われる。

今、こうして自分が不安がるような事も、「化け物」だと怯えるような感情も、全て人間としての感情ではないのか?

そう考えてしまえば、世界の総てが自分を責め立てているようにざわめいた。

人々の間では、「動物には霊魂がない」と知られている。
では自分はどうだ? 人間ではない、「化け物」の自分はどうだというのだろうか?

信心はない。
しかし、天国も地獄も存在しないという確信もない。

自分が真に死んだとすれば、自分の魂はどこへ行くというのだろうか?
いや、そもそも自分の魂すら無かったとすれば? 地獄に行く事さえ叶わないとすれば?

世界の法則から突き放され、吐き気すら伴う怖気が臓腑から這い上がる。
どうにかする事もできない状態に追いやられ、彼は地面にうずくまった。

体が震える。地面に突いた両腕に、鳥肌が立つのが分かる。

恐れる思考は、必死に希望を掻き集める。
そうだ。ここまで夢ではないのか? ここまで長い夢なのではないのか?

彼はそう考えると、自分の細い腕に目が吸い寄せられた。
縄で拘束されたままの腕だ。

青年は取り落としたままの自分の剣に近寄り、その刃で縄を切り離す。
自由になった腕で、剣を腰に戻した。

そして息の上がる喉を抑え、腕を上げ、口元に寄せる。

夢ならば覚めるはずだと、わずかな期待を抱き、彼は自分の腕に噛みついた。

「――ッ!」

痛い。皮膚が避け、肉が圧迫される痛みだ。
それは思わず腕を引こうと思う痛みだったが、まだだ、まだ足りないのだと、夢に縋って歯を立てる。
血の味がする。何度も噛んだせいで、赤い歯型が鼠の千鳥足のように刻まれていく。

そして、地面を多量の唾液と血液で濡らした時、そこに涙液が混じり始めた。
犬のように腕を噛み、青年は背を丸めて声もなく泣き始める。

夢ではない。
心の底では分かっていた事実を確かにして、彼は腫れた腕から口を離した。

腕から唾液の糸を引き、口が閉じる。

「う、うぅ……」

赤く、痛みを訴える腕を見つめる。
血はやがて止まるだろうが、数日で痕が残るだろう。

そう勘定して、それは崩された。

腕はすぐさま再生し始めた。
皮膚は粘菌を思わせる動きで蠢き、赤い腕は見る間に白くなっていく。

生命を逸脱した己の有様を見て、青年は理性で抑えていた衝動の手綱を絶った。

「ああ――アぁっ、あああぁあッアアぁぁァあっ!」

心臓を裂く悲鳴。
体全体に戦慄が走り、この場に留まっていられない情動が噴き出した。

自分の体を脱ぎ捨てて、全ての光が届かない暗闇で横たわりたい。
叶う事のない願望のままに、彼の足が逃げ出した。

道から離れ、藪を踏み、木に衝突しながらも、手足がばらばらに動いて逃げ惑う。

しかしどこまで逃げようとも、自分の体はどこまでもついて回る。

喉が痛い。水を飲んでいない。逃走で息を荒くし、喉の湿潤が尚更乾く。

やがて自分で無くなる事を諦めて、草葉の上に我が身を放り出す。
舌すら口外に放り出し、ぜいぜいと呼吸を乱れさせる。

数分、痛む喉と脚を休ませる。
脚はしばらくすれば疲労が取り除かれていくが、水を失った喉は呼吸する度に苦痛が走った。

水が欲しい。

しかし、ここは見知った故郷の地ではない。
どこに川があるかも分からなかった。

いっそ、水を飲まずにいれば、この身が乾いて死ねるのだろうか?

そんな思いが、青年の脳裡によぎる。

「――ワアッ!」

その声が、遠くから聞こえた。

少女の声だ。
聞き馴染みのない言語でキーアキーアと悲鳴を上げながら、草木の奥へとフェードアウトしていく。

そちらに目をやると、小さな背が緑に紛れていく所を見送れた。
ここは道ではない。何か目的があって移動しているのであれば、歩きにくく非常に不適だ。

恐らく、森の中を探検でもして自分を見つけたのだろう。

自分の国の言語ではない為、悲鳴の内容は分からない。
それでも、分かる事がある。

「村が、近いのか……」

一人ごちて、水の足りない頭が思考する。

少女が逃げた方向へ行けば、村がある。

しかし、敵の村だ。
言語も通じない。それに村にとって、自分とは排除すべき外敵だ。

いや、あの少女も敵と見なしたのかもしれない。
もしかすれば、少女が村人を呼び出して、自分を殺しに来るのかも――。

「――!」

思わず、自分の首を指で撫でる。
既に何の違和感もない首だ。

先程まで、騎士に斬られていたとは思えない。

「…………」

青年は、黙りこんだ。

首を断ち切られる苦痛。暴言と共に暴力を浴びる苦痛。人でなくなる苦痛――。

それをまざまざと思い出し、彼の脳に牙が覗く。

――もう一度、殺されたいか?

「嫌、だ……」

擦れる声で、そう抗う。
倒れた体を起こし、腰に帯びた剣を手でなぞる。

相手が武装した敵兵ならば負けるだろう。
だが――何の装備もない村人ならば、何人だろうと斬り殺せる。

彼は以前そうしたからだ。

補給の途絶えた彼の部隊は、無辜の村を襲い、食料を奪う盗賊と化した。
対した武器のない村人は、幾らいようが剣に伏せる。

喉が痛い。心臓と直結したように、頭が揺れた。

生きている事は酷く惨たらしいが、殺される事は恐ろしく苦痛だ。

青年はふらふらとした足取りで、剣を抜いて村へと向かった。


――自分は、何故生きているのだろう。

その意味は「何の為に生きているのか」というものではない。
言葉の通り、「何故生きているのか」という事でも無かった。

「何故……オレが、生きてるんだ……」

血に汚れた体を抱えて、そうして自分を酷く責める為の刃だった。