琥珀の雫

百年に渡る聖戦は、各地に貧困という病を振りまいた。
十数年の歳月をかけ、イリュリアを始めとする都市部は復興を遂げる。

だが、末端の地は違った。

盗賊が村々を略奪し、孤児が路傍でお情けを乞い、言葉ではなく暴力が意志の媒体となる。
それは時が経つにつれ大陸の片隅へと追いやられていくものの、密度を増した闇はより色濃く欲望を抽出した。

「――おらっ! 死ねっ! 死ねッ!」

とある村。
潰れた酒場。

聖戦前はささやかながらも穏やかな土地だったのだろう、
この地を描いた絵画には、寄り添う家々と行き交う人々の温かな雰囲気が収められていた。

しかし、名も価値もないその絵画は、埃を被って放置されていた。
その絵画の対となる壁には、観賞用の猟銃が盗まれたようで、固定用のフックはただただ空だった。
客を迎え入れる机や椅子は、ごっちゃになって隅に追いやられている。

その酒場の真ん中に、二種類の人間が存在していた。

一方は、立って見下ろす複数の若者たちである。

彼らは下卑た笑みを浮かべて、弱者をいたぶる愉悦に酔っていた。
男が多いが、女もいる。年の頃は二十ほどの者が多いが、中には酒蔵からちょろまかした酒瓶を片手に持つ未成年もいた。
若者の無軌道さと無思慮さだけが肥大化したような、そんな烏合の衆である。

対するもう一方は、若者たちに囲まれた、一人の男である。

白髪には、頭部を殴打された際に流れた血があちこちについていた。
整えられた顔には、打撲による青痰と、煙草を押し付けられた火傷が刻まれている。
言葉を紡ぐべき口は猿轡を咬ませられ、叫び声はただのくぐもった鳴き声にしか聞こえない。
手首と手首は縄で縛られ、一般人であれば逃げ出す事などできはしない状態だった。

無力に横たわるその男に、一人の若者が楽しげに蹴りを入れている。

「ははっ! 芋虫ヤロー! 金もなくここらをほっつき歩くとなァ、こうなるんだよッ!」

革靴で補強された硬い爪先が、男の腹に突き刺さる。

「――ッ!」

男は髪を振り乱し、その衝撃に悶えていた。
目を覆わんばかりのその光景を、若者たちは爛々と目を輝かせて見下ろしている。

床を転がる彼に向けて、若者たちは侮蔑の言葉を浴びせかけた。

「もっと暴れてみろよ! せいぜいオレたちを楽しませてくれよなー!」
「にーちゃんよぉ、もっと頑張ってみろよ! ホラホラ逃げてみろよ! 殺すけどなー!」
「ねー見て? アレもしかして蹴られてボッキしてない? やだー!」

嘲笑と虐待の満ちる空間で、己の残虐性を曝け出す。
力の上下関係に酔う中で、一人の女が声を上げた。

「ソイツさぁ、カネ持ってなくてもさぁ、臓器売ればカネになんじゃね? キャッハハ!」

その言葉に、弾かれたように若者が面を見合わせる。

「アーっ、それ天才じゃね?」
「いーじゃん! 確かジンゾーとか、カンゾーとか高く売れるんだよな!」
「やろやろ! ちょい飽きてきたし、そのほーがユーエキじゃん?」

軽薄な言葉で、残虐な会話を広げ始めた。
その熱が若者たちの間で伝播していき、ついには一人の女が床の男に進み出る。

折り畳み式ナイフを握り、手首のスナップで刃を出した。
わざとらしく舌なめずりをし、高らかに宣言する。

「んじゃ、アタシ()っちゃいまーす!」

その宣言で、若者たちが快哉の声をわめいた。

『殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!』

拳を振り上げ、活発な狂気の中、ナイフの尖端が男の腹にかかる。
男は目を見開き、血走らせ、そのナイフに視線を注いだ。

「じゃ! ナイフ入刀ー!」

女はナイフを男の腹に刺し、茶化すように生命を侵す。

汚れたランプの明度でも分かった。
絵の具よりも純度の濃い赤色が、白い腹から流れ出る。

「ン゛――! ンン゛ッ――! ン゛ッン゛ンッ!」

喘ぐ声は家畜の鳴き声のようで、それがなお滑稽でおかしかった。

「ねー? おにーさんナニ言ってんのー? アタシ豚語わかんないんだけどー?」
「そーれ、屠殺だ、トサツだーッ!」

腹をすぐさま捌くほど手口は鮮やかではなく、苦痛の時間が引き伸ばされる。
ナイフは肉を切るほどの鋭さはなく、無理矢理傷口を折り広げるくらしか能がない。

その不慣れさと鈍さが、男の苦痛を長引かせる。

「ン゛ッ……! ン゛ン゛ッ――!」

首を反らし、男が絶叫した。
その言動の一つ一つが若者たちの嘲りの対象となり、嗤い声は絶える事がない。

客観的にはほんの数分であったが、体感的には何時間にも感じられた。

そんな時間をかけて、ようやく胸骨の下から臍の上まで、男の腹は切り開かれた。
女はナイフを抜き取り、血で汚れた自分の手を見て嫌悪を囁く。

「ヤダーっ」

そう言って男の髪で血を拭き取り、女はナイフをポケットにしまった。
泡を吹き始める男を見下ろし、若者たちが思い思いに話し始める。

「うわー、これが内臓かよ……グロいしキッショ……」
「コレ取り分決めよーぜ! オレさ、なんか高そうだしカンゾーな!」
「つーかさー、コイツに内臓切らせようぜ? 手が汚れんのヤだしよー」

そう盛り上がる雰囲気に、冷静になったある若者が水を差した。

「てかさ、どうやったカネにすんだろ?」

当然の疑問であった。

無鉄砲である彼らとコネクションを取ろうとする臓器ブローカーも何もない。
ただ「内臓は売れる」という噂と、ほんの思いつきだけで腹を開いたのである。
男の命は、虫でも潰すような手軽な命だ。

若者たちにその疑問を解消する手立てはなく、身勝手な落胆と嘆きに明け暮れた。
それでも、またもやある若者が提案する。

「なぁ、コイツさぁ、カメラ持ってたじゃん?
 確かさぁ、スナッフフィルムっていう人殺しの映像って高く売れるんだけどさぁ、写真でももしかしたらいけんじゃね?」

提案は、再度若者たちを湧かせた。

臓器を売るアテはなくとも、写真なら売りさばけるかもしれない。
軽い発想に、「アッタマいー!」「マジすげぇ!」と称賛が出力される。

自分の所持品が凌辱に使われると知るや、男は過敏に反応した。

「ン゛ッ、ン゛ン゛ッ――!」

首の骨が折れそうなほどに頭部を後ろに倒し、びくびくと痙攣し、大きく震える。
その様子に顔をしかめたある若者が、彼の顔面を踏みつけた。

「うっせ、死ね!」

「ッ――!」

ビクン、と体が波打つ。
苦痛に蠢く男を抑えるべく、両隣の若い男二人が彼の肩を固めた。
開かれた腹を大勢に見せつけるように、男の上半身を起こさせる。

「おー、どけどけー!」

カメラを手にした若い男が正面に立った。
外気に晒された内臓と共に、男の顔を収める。

そして、シャッターを切った。
カシャ、という小さな音だったが、それは確かに男の姿を捉えた証拠だった。

「いいねいいねー! ホラホラ、チーズチーズ!」

「ン゛ゥッ、ン゛ーッ――!」

何度も、執拗にシャッター音が響く中、歩き出てきたのはハイヒールの女だった。

「楽しそーじゃん! わたしも記念撮影ー!」
「イエー! ちゃん、イケてるー!」

黄色い歓声と共に、その女は男の腹にハイヒールを突っこんだ。
内臓を剥き出しにした、その腹の中に。

「――! ン゛ン゛ン゛ッ――!」

全体重をかけたヒールが、内臓を突き抜けて背骨を砕かんばかりに圧力をかける。
女は苦痛から紅顔する男を見下げ、ケタケタと嗤った。

「うっわー! マジきっしょ! 生温かいし、マジ吐きそうだし――」

好き勝手にのたまい、更なる罵倒を吐きかけようとしたその時。

「――止まれ(Freeze)!」

酒場の扉を蹴破り、屈強な男たちがこの場に展開された。

「なっ、いきなりなんだよ!」

「我々は国際警察機構の者である! 抵抗せず、速やかに投降せよ!」

「ゲッ、ポリ公がっ! ここまで来たかよ、クソッ!」

すると若者たちは蜘蛛の子を散らすように、悲鳴を上げて逃げ惑う。

しかし相手は「鼠」を何匹も捕まえてきた練達である。無計画な若者たちの逃走経路など、全てが全て封じられていた。
裏口を通ろうとした男は、待ち構えていた警察官に縛り上げられ、
窓から逃げようとした女は、それよりも前に後ろ手を掴まれ、
若者たちは一人残らず捕らえられ、また一つの闇が檻に入れられる事となった。


「…………」

無言のまま、空間をずるりと抜ける。
捕り物騒動の中、彼は空間転移によって路地裏に離れていた。

腹は既に再生している。何とも忌むべき不死である。

彼は自らの腹を切り裂いた。
腹腔に丸々取り残されたハイヒールを外に出し、壁にもたれかかる。

消化不良だった。
まさか、国家の犬があれほど鼻が利くとは思いもしなかった。

ああして若者たちに襲われるのは、ある意味計画通りではあった。

自傷の苦痛というのは、あくまでも自分によって行われる、予測可能な苦痛だ。
だが、それが他人の手であるならば、それは不意を突く歓喜がある。
その上、あのような青二才どもによって転がされる事は、非常に甘い屈辱であった。

そしてそれは、正義によって踏み潰された。

「ああ……」

落胆が口から漏れる。

荒んだ路地裏には、闇が凝固していた。
彼の隣には、死した浮浪者が横たわり、何も告げずにそこにいた。

その浮浪者を見やり、感情が湧き上がる。
憐憫や追悼という聖者の感情ではない。

「死の苦痛には、未だ至らない……」

彼は、たかが死体に嫉妬していた。
安く死を得られた浮浪者をじっと凝視した後、彼は自分の手を腹の裂け目に入れた。

「ん、ンッ……」

足りなかった。
あれっぽっちの苦痛では、まだ足りなかった。

レイヴンは自分の腹の中をまさぐる。
腸を扱き、肝臓を掻き、胃袋を潰す。

「あっ、あぁアッ……!」

息が荒くなる。
血はとめどなく流れるというのに、頬には紅が差し、快楽が押し寄せていく。

冷たい路地裏で、露天の下、死体の隣で自らを慰める。
惨めで、尚更興奮する。

腸をずるりと引き出し、自分で自分の腸を噛む。
血まみれのそれを舐め回し、己が生きている脈動を舌触りで確かめた。

人間の息づく村の裏で、人並外れた狂気がそこにある。

その狂気の中で、レイヴンは喘ぎ声を上げ、今まさに絶頂を手にしようとしていた。

「ア゛ァ゛ッ――!」

だが。

『――ヴンッ、レイヴンッ、聞こえてるかい?』

その声に、快楽に蕩けた頭が一気に醒めた。
レイヴンは己の腸から唇を離し、血まみれの口で通信に応答する。

「……何用で、ございましょうか」

先程までの狂態を悟られないよう、息を鎮めてそう答えた。
すると、「あの男」は予想外の用件を伝えた。

『お茶会を開きたいんだけど、どうかな』

「……お茶会、ですか?」

腸を腹に引きこみながら、レイヴンはオウム返しにそう言った。
「あの男」は「そうだよ」と肯定し、呆気にとられる彼に向かってこう締める。

『何か用があるのなら、それが終わってからでいいよ。
 手が離せない別の用事があるなら、断ってもいいし。それじゃ』

そして、通信が切れる。

「…………」

レイヴンはしばらく止まっていた。

「あの御方」直々の招待である。無碍にする訳にはいかない。
しかし、二度も寸止めされた昂りはどこにも発散されず、悶々と彼の中に溜まっていた。

だからといって、自分の欲望を晴らす間に「あの御方」を待たせる訳にはいかない。

理性が決断の木槌を叩き、レイヴンは血まみれの自分の姿を正していった。
顔の痣と煙草の火傷、そして腹の裂傷が再生されるのを待つ。
待つ間に、自分の髪や服に付いた血を拭い、不浄を法術で除去していく。

恰好を整えたレイヴンは、「あの男」が待つ「バックヤード」へと空間転移する。
路地裏の風景が、真っ白な空間に置き換わっていった。


情報密度は致死的なまでで、生命の自我など無機質に圧潰する。
そんな「バックヤード」の中で、そこだけは人が存在するに値する場所だった。

そうなるように整えられたその場所に、甘い匂いが漂ってくる。

「やあ、早かったね」

そこで、白衣姿の「あの男」がレイヴンを迎えた。

白い空間の中、彼の傍には白くない物品が並んでいる。
黒檀のテーブルに、向かい合う二つの椅子。
その傍らにはワゴンがあり、皿に盛られたクッキーと、ティーセットが一揃い置いてある。

「あの男」は椅子に座り、向かいの椅子を手の平で指した。

「さあ、座って」

レイヴンが指された席に向かい、「あの男」は話の種を撒いた。

「いつもよりもちょっと遅れたみたいだけど、用があったのかい?」

「……いえ、私用により、少々」

「もしかして、何かの途中だった?」

正にその通りだった。
しかし、「自慰の途中であった」などと主の耳を汚す訳にはいかない。
平常を装い、レイヴンは首を振った。

「滅相もありません。些末な事です」

「そうか、それならいいけど……」

「あの男」は苦笑しながら、ティーセットに手を伸ばした。
見るに、ティーカップもティーポットも中身が空である。
紅茶の準備はこれからであるらしい。

レイヴンは座ったばかりの椅子から立ち上がり、「あの男」の行動に先んずる。

「よろしければ、私が」

「いいのか?」

「はい。貴方様の手を煩わせるには及びません」

「あの男」は数秒ばかり逡巡したが、すぐに微笑みと共に、

「じゃあ、頼む」

そうして、「あの男」は椅子に座った。
レイヴンはティーセットの傍に寄る。

ポットの蓋を開け、茶漉しを中に嵌めてから、ポットをカップの近くに置く。
そこで水と火の法術を唱える。水に熱を加え、沸騰寸前の熱湯が虚空に浮かんだ。
その熱湯の塊をポットとカップに注ぎこみ、冷たい陶器を温める。

ほんの数秒程度で、ポットの湯を捨てる。捨てられた湯は、ジュッという音を立てて空中に霧散した。
紅茶を容器から匙で取り出し、ポットの中に三匙を落とす。
ポットの温もりが冷めない内に、再度ポットに熱湯を注いだ。

ポットを保温する為にポットカバーをつけ、数分蒸らす。

その間、「あの男」は楽し気にレイヴンの様子を見つめている。
その視線がどうにも面映ゆく、彼は居心地が悪そうにその数分を耐えた。

とかく、数分が経つ。
カップの中の湯を捨て、ソーサ―の上に載せた。
ポットカバーを外し、ポットから出がらしの紅茶を茶漉しごと持ち上げ、空の皿に置く。

そしてようやく出来上がった紅茶を二杯のカップに淹れ、「あの男」に訊いた。

「砂糖と、ミルクは」

「ブラック・ティーで」

「承知いたしました」

シュガーポットに伸ばしかけた手を引っこめ、純粋な紅茶を湛えるカップを「あの男」の前に慎重に置いた。
自分の分は――そう考えた所で、レイヴンは停止する。

味など、どうでも良かった。

味覚はとうに飽きている。
紅茶にどれだけ砂糖や牛乳が入っていようが、それはレイヴンにとって、発酵した茶葉を煎じた液体に糖分と脂肪分がどの程度溶解しているかに過ぎない。

どう味を変えようとも、無意味だった。
その無意味な選択肢を前に、時が止まる。

レイヴンの所作の違いを、「あの男」は見抜いてみせた。
彼の惑いを理解して、そっと提案する。

「僕と同じにしてみないか?」

主から、助け船を出された事に気づく。
それにいたたまれなさを感ずるも、無碍にはできずに受け入れた。

レイヴンは「あの男」に頷き、純な紅茶のカップを自分の席に置く。
そして彼が再度席についた所で、「あの男」はカップを軽く掲げた。

「じゃあ、いただくよ」

熱く仕上がった紅茶を、ほんの一口含んだ。
レイヴンが温めたカップ。それに唇をつけ、熱が咥内に広がる。

レイヴンは、自分の淹れた紅茶に間違いがないかと、恐る恐る「あの男」に訊いた。

「……加減は、いかがでしょうか」

「あの男」が、カップから唇を離した。
些か悪戯じみた笑みを浮かべ、怖々とした問いに、試すような問いを重ね合わせる。

「逆に、君はどうだい?」

「え……?」

「君がどう思うかを、先に聞きたい」

他ならぬ「あの御方」の要望である。逆らう道理など万に一つもない。
しかしその要望に、後ろめたい困惑はある。

レイヴンは自分の淹れた紅茶を見下ろした。

紅茶の色は、時を矯めこんだ紅琥珀(チェリーアンバー)のように、澄んだ赤褐色。
塵芥が入っている様子もなく、見た目では何の不備もないように思える。

それでも、もしかすれば「あの御方」の口に合わず、自分にその味を確かめさせて戒めとするつもりなのかもしれない。
失態の可能性に口元を固める。

レイヴンは一思いに紅茶を口に入れた。

熱い溶液を、ぐるりと舌で掻き回す。
味蕾に紅茶が染み渡り、舌触りを確認する。

味はある。不純物もない。

大きな不備がない事に、いくばくか安堵し、嚥下した。
それは、紅茶を愛飲する精神とは離れた、毒見の一口。

レイヴンの喉仏が動くのを見て、「あの男」は再び訊く。

「どうだい?」

「私にとっては、普通の紅茶と存じますが……何か、御口に適いませんでしたか?」

硬直したレイヴンの態度に、可笑しげに「あの男」が返した。

「別に、君を咎めようとした訳じゃないんだ。
 味は? どう思う、どう感じた?」

それに対して、レイヴンはようやく悟った。
単に、「あの男」は感想を求めていたのだ。

しかし、レイヴンはなおさら口をこわばらせる。

何も、感じなかった。

いや、味はした。紅茶の熱も、さらりとした水の感触も分かる。
だが、それは感情を動かさない。そういった意味の「感じない」である。

これはレイヴンにとって、何ら特別なものではない。
忌み嫌う、退屈の一つであった。

目に映るもの、耳にするもの、鼻で嗅ぐもの、味わうもの。
全てはとうの昔に飽きた感覚であり、今更その感動など何も得られなかった。

それでも、「美味しい」などという常人の感情を偽装する事はできなかった。
「あの御方」の前で一時凌ぎの嘘をつく事は、この場の興を削ぐ以上に無礼である。

レイヴンは、おずおずと自分の感性を晒した。

「……何も、ありません。感動し得る何物も、これにはありませんでした」

「そうか」

「あの男」はその思いは想定内のようで、何の驚きも見せずにレイヴンを受け入れる。
そして、「あの男」は再度カップを口につけ、レイヴンの紅茶を喉に通した。

苦く、笑う。

「ちょっと、茶葉を入れすぎたみたいだね。渋めなお茶だ」

その言葉を耳に入れ、レイヴンは足下に奈落が空いたような喪失を味わう。

大きな不備がないと思っていたが、それは錯覚であった。
自分の感性が欠落しているばかりに、「あの御方」に不快を与えてしまったのだ。

脊髄反射に謝罪しようとするレイヴンだったが、それを制するように「あの男」はすぐ言葉を繋いだ。

「でもね、良い味だと、僕は思うよ」

カップをソーサーに置く。
白く黙する空間の中で、陶磁器の奏でが凛と響いた。

「君は、どういう味が良いかも分からない。
 それでも、僕の為に、わざわざ手間をかけて美味しい紅茶を淹れようとしてくれた。
 でも、どう加減すればいいのかも分からない。

 ……そんな君が、この味に溶けているんだ。
 口を曲げるような味でもないし、それにこの渋さは、きっと僕のバタークッキーには合うだろう。うんと甘くしちゃったしね」

そう称えられるも、レイヴンの顔は晴れない。
自分の失敗を、「あの御方」の寛大さで許されたような心持ちだった。

レイヴンは恐縮して首を振る。

「それは……私のような下郎には身に余る御言葉にございます」

「レイヴン、それは――」

萎縮するレイヴンの否定に、温かな否定を重ねようと「あの男」が身を乗り出す。

それが、原因だった。

「――熱ッ!」

「あの男」が声を上げる。

身を乗り出し際、カップの持ち手には右手の指がかかったままだった。
カップは転倒し、「あの男」の白衣を紅茶が侵した。
それは白衣のみならず「あの男」の肌にすら到達し、淹れて間もない熱湯が彼の神経を苛む。

「お待ちくださいっ、直ちに冷やし――!」

レイヴンは瞬時に反応し、「あの男」の傍に向かおうとする。
だが、その時レイヴンの視界は、「あの男」の姿が歪んで映ってしまった。

白衣に染みた、赤褐色の紅茶。

それは無垢を汚す血のように鮮やかだ。
白と赤のコントラストは、肌と血のそれに似ている。

それは、苦痛の象徴である傷跡。

苦痛。痛苦。激痛。快楽。
傷跡に喚起され、レイヴンの隠していた欲望がフラッシュバックする。

「バックヤード」に帰還し、この茶会に参ずる前。
暴力と侮蔑の満ちた、背徳のあの酒場。

苦痛。屈辱。己を昂らせ、何よりも生を謳う感覚。
快感に昂ぶる感覚が、この相応しくない場に顕現した。

「ア――」

何しろ、警察機構に、この茶会の招待に、二度も絶頂の「お預け」を食らったのだ。
欲望が再起し、鋭敏になった感覚に息を絶やし、肉体は快楽を求めて震え始める。

それも、「あの御方」が疑似的に傷跡を負われた、その姿を見て心臓が滾った。
下劣な不敬行為を犯している自分自身を、忸怩たる思いで責め鎮める。

今すぐ、「あの御方」の苦痛を取り除かなければ。
理性が体を叩いても、「あの男」が朱色に汚れた姿に目が釘付けになる。

レイヴンが己の(さが)に縛られる間に、「あの男」は白衣の汚れに手をかざした。
その手を一振りするだけで、汚れはあっさりと消え去る。

「ぁ……」

思わず、レイヴンの口から声が漏れた。
「血のように染まった「あの御方」の姿を失い残念だ」というようなその声色に、彼は胸中で自らを非難する。

何をしている。「あの御方」の御姿を通して己の快楽に繋げていたなど、万死に値する。

自分が何を考えていたかを、決して明かす事はできない。
それでも、レイヴンは自己嫌悪のままに頭を下げた。

「も、申し開きもありません……」

「あの男」の視点から立てば、レイヴンに何の落ち度もない。
その不可解な謝罪を受け、「あの男」は手を振った。

「謝る必要なんてないよ。これは僕がやった事だ」

紅茶をこぼし、倒れたままのカップを立て、「あの男」はポットを自分に寄せた。
ポットカバーを外し、紅茶を再度淹れる。
そしてワゴンから、クッキーを載せた皿をテーブルの中央に置いた。

「さて、仕切り直そうか」

言って、クッキーを一枚齧る。
その直後に紅茶を口に含み、菓子の甘味と茶葉の渋味を混ぜ合わせ、飲みこんだ。

「ああ、やっぱり。君の淹れた紅茶に、僕の焼いたクッキーが合うな」

「あの男」がレイヴンに笑いかける。
それでも、レイヴンの顔は晴れない。

レイヴンの脳裏には、忘れていたあの酒場の責苦がくすぶっていた。
それと同時に、苦痛への渇望が呼び覚まされている。

自分のそれが治まるよう、じっと耐えている中で、「あの男」はレイヴンに促した。

「さあ、どうか君も、食べて欲しいんだ」

卓の中央に据えられたクッキーを見て、レイヴンは申し訳なさそうに縮こまる。

「……私のような者が口にするには、恐れ多いものです」

まして、主の汚れた姿を見て、興奮を覚えるような下賤な者になど。

「それに――私は先に申し上げた通り、味わう快を得られぬ存在なのです。
 それならば、私などが口にするよりも、貴方様が召し上がる方が、ずっと良いかと……」

レイヴンは、「あの男」の目を見れず、俯いてしまう。
そんな彼に、「あの男」は明かした。

「本当はね、このお茶会は、君を思って開いたものなんだ」

その言葉に、レイヴンがなお頭を下げる。

「……その、恐縮に過ぎます」

「これは、僕の単なるお節介だと思って欲しいんだ。これから言う、いくつかの事も」

そう前置きして、「あの男」が話し始めた。

「君は、苦痛を気持ち良いと感じている」

その発言に、レイヴンは深い罪悪感に墜ちる。

この茶会の際にも、自分は浅ましく苦痛を求めた。
猶も今も、この身は痛苦に(かつ)えている。

もしや、「あの御方」は、先の自分の情動を既に見透かしていて、それを咎めようとしているのではないか。
その可能性に憂い、レイヴンは身を固くした。

「でも、僕はそれを非難するつもりはないよ」

すぐに可能性は崩された。
「あの男」はどこまでも柔和に、受け入れるように続けていく。

「むしろ、君がこれまで辿ってきた道程を思えば、そうなるのも不自然じゃない。

 けど、君は苦痛を得る為に、自分自身を傷つけている。
 それは、君自身が嫌っている「不死」を――「人間ではない」と思い知ってしまう行為だ。

 それを続けていけば、いつか君は、「人間ではない」事に順応するかもしれない」

不死の身に任せ、苦痛を貪る行為。
これまで、己のその行為を見た人間は、何の考えもしない、受け売りの倫理で批判してきた。

それを、「あの御方」は受け止めた。
しかし、全面的に賛同する事はなく、ただ彼を思って述べていく。

「これは単なる杞憂だ。
 でも僕は、君が「人間ではない」と受け入れてしまう事が……怖いんだ。

 君は、五感に飽きている。
 それでも、かつてはそれを感じていた――そんな過去を苦痛で塗りつぶして、忘れていく事が、怖い」

柔和な態度に、隠せない感情が差しこむ。

レイヴンは動揺した。
何時なる時も平穏を保つ「あの御方」が、よもや自分の事でそうも顔を揺らすのか。

「人間の感覚を忘れて、苦痛だけを糧としていけば、
 いつか君の精神構造すら「不死の化物」にすり替わって、人間でなくなってしまうんじゃないのか?
 ……そうなってしまえば、僕が理解できない所にまで、君が離れて行ってしまう」

「あの男」が顔を沈める。
しかし、レイヴンの茫然とした表情を視界に入れ、慌てて手を振った。

「いや、これはお節介とかじゃなくて、僕のわがままだったね」

照れたように顔を払拭するも、続ける話にすぐさま面差しを冷ました。

「ただでさえ、僕は君に千年の隔絶を覚えてるんだ。
 僕にとっての昔は、君にとっての最近だ。
 僕にとっての一日は、君にとって苦痛の時間の塊だろう。
 それは当然なんだ。年経た以上、その差は当然だと分かってる。

 でも、本当に君が離れてしまえば――、
 僕が君にどれだけ話しかけても、理解できない領域同士で言語を交わすだけになる。
 どれだけ同じ空間と時間を過ごしても、絶対に触れられなくなる。

 ……だから、君が人間だっていう事を、まだ五感はあるっていう事を、覚えていて欲しかった」

「あの男」は、紅茶のカップを包むように、手を添えた。
陶磁器越しに、紅茶の熱が手の平に伝わる。

「それは、苦痛よりつまらない感覚だろうね。

 君は、僕が何語を話しているか分かる。
 僕が今、紅茶を手にしている事も分かる。
 つまりは、君は五感を認識できはしている。それが、普通の人間並みに感動できなくなってしまった。

 それでも、それをわずかでも「感じて」欲しい。
 そう思って、君をお茶会に誘ったんだ。

 会話という聴覚、紅茶の味、香り、温かさ。
 それに、同じ感想を抱けとは言わない。
 ただ、感じていて欲しい。

 まだ君は――いや、ずっと君は人間なんだ」

沈黙。
語り終えた「あの男」は言葉を終える。

レイヴンはただ、黙って顔を伏せたままだ。
彼は「あの男」に目を合わせられなくなっていた。

先程まで抱いていた罪悪感ではなく、その気恥ずかしさから。

自分が、「あの御方」に注ぐ敬意は、見返りを期待しない一方通行であった。
それで良かった。自己満足ですらあった。

それが、まさか、「あの御方」から、こうも返されるとは思っていなかった。

「……レイヴン、」

顔を伏せるレイヴン。
「あの男」は、それが自分の独り善がりで傷つけてしまったかと思い、不安に覗きこむ。
だが、彼の顔に感情の傷はなく、ただの羞恥から紅が差していた。

「……あぁ」

安堵する。
自分の思いは押し付けではなかったのだ。

「あの男」は、クッキー一つを人差し指と中指で挟む。
オーブンから出して十数分のもので、まだ温かかった。

その温もりを分ける為、「あの男」は立ち上がる。
俯くレイヴンの傍に近づき、彼の名を呼ぶ。

「レイヴン」

「――――」

呼びかけられ、顔を上げる。

「――ッ!?」

その瞬間、唇に熱が灯った。
クッキーの熱だった。

「あの男」は下唇上唇の合間にクッキーを挟む。
レイヴンはしばし硬直し、「あの男」を見上げていた。

「……ッ」

口に差された温いもの。
歯に当たったそれは少量唾液に混じり、飽いた味覚を揺さぶった。

「――ッ」

レイヴンは、畏れに閉じた歯を緩める。

「……ふふっ」

「あの男」はクッキーをレイヴンの口腔内に押していく。
二つの指ではなく、人差し指一つをクッキーの背に当てて押しこんでいく。

レイヴンの唇を割り、時間を楽しむようにゆっくりと入っていく。

そして、丸々一枚が口の中に入った。
クッキーを押しこんでいた「あの男」の人差し指が、一瞬レイヴンの唇と触れ合う。

「あの男」は人差し指を引っこめて、レイヴンの様子を見つめていた。

「――――」

呆気に取られているレイヴンの様子が、やたら頬笑ましく思える。
噛もうともせず一個の石像となっている彼に、促すように「あの男」が訊ねる。

「どう?」

石化したレイヴンは、その問いに答えるべく生き返る。

「――ッ」

整形されたクッキーを、歯で柔く突き崩す。
答えようと急くも、「あの御方」から与えられた聖餅を早くに消費する事は無粋だと咎める。

バターと麦粉、卵と砂糖から成るその甘味が、舌の上で溶けている。

それは主の寵愛の証であった。

味蕾をくすぐる感覚を受け止め、感じ取り、覚えこむ。
幼子のように、ただ必死に甘味を貪った。

自分の作った菓子を食べる様を、「あの男」はただ見守る。

その視線が面映いという理性も浮かばないくらい、ただその甘さを感じ尽くす。
そして唾液と完全に混ざったクッキーの溶液を喉に送り、レイヴンは口を開いた。

口にするりと入る空気が、甘味の残滓を刺激する。
胸に灯った言葉は、感想ではない。

「……ありがとうございます」

口からついて出てきたのは、感謝だった。

味の言及ではない。
しかし「あの男」はレイヴンのその言葉を否定せずに受け入れた。

「楽しめた?」

「……はい」

「でもね、君が淹れてくれた紅茶は、まるで僕の焼いたそれにあつらえたようにぴったりなんだ。
 一緒にして、口にしてみて」

そして、「あの男」はクッキーの皿をレイヴンに寄せる。
彼はその中から一枚を手にして、半月を齧った。
すぐさまカップの持ち手に指を通し、主の味に自分を注ぐ。

その調和に、心臓が膨らんだ。

全くぴったりに、甘さと渋みが抱き合った。
それは常人ならば美味と思うような味だった。

だが違う。これは違う。
味など、何世紀も前から同じだった。

自分が感じたものは、全く違う。
いや、もしかすれば、味を感じないが故に、この感情は生じたのかもしれない。

その感覚は、尊かった。
主が己の為に焼いたクッキーが、己が主の為に淹れた紅茶が、何より喜ばしかった。

レイヴンはその感情を、それらと共に飲みこんで、熱く息を吐く。
そこに、苦痛を渇望していた己はいなかった。

レイヴンが纏う雰囲気が変わる様を見て、「あの男」が囁く。

「僕から、離れはしないか?」

それに、恐れはなかった。

レイヴンは席を立つ。

「あの男」の席の横で片膝を立て、
慶びを胸に頭を下げ、
何よりも尊ぶべき主の手を取り、両手で覆う。

確かな決意を目にこめて、聖約を契った。

「常に、お傍に仕えましょう」