禁忌の果樹園

過去捏造描写あり
痛めの描写あり
その男は、くすんだ銀の男だった。

白髪はぼやけて、あちこちに落ち葉や土を絡めている。
青白い肌に血色は見れず、摂取する栄養に難がある事を示していた。
身に纏うのは衣服とは呼べない。寝そべって潰れた植物の汁や、湿った黒土や、洗わずに生えた黴で斑になった汚い布だった。

人目を構う事のないその出で立ちは、一目で世捨て人と知れる記号である。

身なりを整えれば、二十の半ばと判断できよう。
しかし今のこの男は、ともすればそれ以上に年寄りと思える汚れようだった。

とはいえ、彼の本来の年齢よりは、どうあっても若く見られるだろうが。

彼は、遁世を選んだ人間である。

彼の生涯に、失意と失望と絶望と絶念を思い知らせた、人間たちとの関わりを絶つ為だ。
山と平地の分かれ目で、死者と生者の境目となって放浪し続けていた。

こうして山麓で日々を耐えていると、人間の肉というものはどうにも不便に出来ている。

日に一度は水浴みをしなければ、苦痛にも至らない掻痒感に苛立ちを覚える。
食事を何日か抜いた程度で手が震え、満足に首吊り縄も結べない。

そして精神というものは、どうしたものか。自分は他の人間を捨てたというのに、自分が人間である事を捨てるという事を強く拒むようだった。
仕方なしに雑草や猪の生肉を口にしたり、誰一人として接する事なく夜を超えるたび、心臓を百足が伝うような不快さが、尊厳への傷として表れる。

どうせ自分は人間ではないのだ、と嘯きながら、自分は人間だという傲慢を捨てきれない。

そんな己にすら嫌悪しながら、彼は食事を求めていた。
雑草や生肉は、彼の尊厳が拒むようで、幾ら口にしても嘔吐してしまう始末だった。
故に求めるのは、食物ではなく、食事である。

時期は、冬にほど近い秋だった。
以前までは山の木々にぶら下がっていた果実は、その多くが地面に落ちて腐っている。
中には実どころか葉の多くを落とす裸の木も見受けられ、冬に備えている様を見せた。

笑うような風が吹き、ちりちりに乾かされた肺から、空っぽの咳が吐き戻される。
力のない足取りで山の境目を辿っていると、狩れ茶色でも苔の緑色でもない、赤紫色がぽつりと茶緑の視界を突いた。

その色は、枯草の平原で、木から吊られた丸い色だった。
物色すべく、男は足の向きをそちらに向ける。

距離を縮めるごとに、その実情が鮮明になる。

確かに、確かに、それは木に生った果実だった。
それは木から垂れた雫のような、イチジクだった。

その存在を確認し、十数フィートの距離で足が止まる。

これは、何者かの所有物ではないのか?

周囲を見回す。イチジクの木は、あちこちに数本ある。
しかし人の手によって植えられるには、生産性を高めるべくより多く植えるはずだ。間隔が開きすぎている。

ならばこれは、自然に木が生え、実が生ったものではなかろうか。

彼は近寄り、イチジクの実に手を伸ばす。
そしてイチジクの起毛が指を撫ぜた時、

「きゃあ!」

と声が上がる。
イチジクから声が上がったのかと錯覚するような瞬間だったが、そうではない事は当然として理解している。

その声の主を辿ると、枯草の背からひょっこりと立ち上がった。

かくれんぼでもしていたかのように、少女は枯草に埋もれて見えなかったようだ。
それが今、彼女は立ち上がり、己を丸い目で見つめている。

「ぁ――」

水も飲まず、掠れた声が口から出る。
己の判断が間違っていた。これはきっと、少女のものであったのだろう。

抗弁の言葉を探す。

「父さま! 男のひとがいます!」

男の言葉を制するように、少女が背に向けて大声を上げる。
「不審な男がいる」というような非難ではなく、「助力が欲しい」というような要請の声だ。

逃げるか、と判断するより前に、少女が彼に駆け寄る。
そして、男が触れたイチジクの実をもぎ、引いていく彼の手を取って実を渡した。

「月のように顔色がわるいです。何日もたべていないのですか?」

その口ぶりの丁寧さといい、わずかに漂う香水といい、麻糸の上質な衣服といい、名家の娘に相違ない。
そっと渡されたイチジクの実を見つめ、男はしばし逡巡の後、その娘の期待通りに口を開けた。

今逃げようとも、失調で震える脚で娘の健脚には敵わないだろう。

イチジクの皮を剥き、口に含み、その芳香と味に、沈黙した。
やはり、と、数年前に味わった失望が再度広がる。

何も感じない。

あるのは、ただ人間としてあるべき食事を成したまでだ。
だが、それでいい。それで目的は果たした。

実一つを平らげた頃に、娘の父親がようやく彼の傍まで駆け寄った。

父親は男の容貌を上から下まで眺めた後、「ふむ」と顎鬚をさする。
父親も、名家らしく整った出で立ちだった。髪油で黒髪を撫でつけ、首にタイを巻いている。

ぼろ切れの己の隣に立たれるだけで、自分が酷く惨めになるようだ。
不躾に目を窄めるが、それに意を関さぬように父親が話しかける。

「あなたのその恰好は……随分とみすぼらしい。きっと、生活に難儀してここまで辿り着いたのでしょう」

訳知りように言ってくれる、と心の中でだけ毒づく。

「あなたに服を着せましょう。あなたに食事を用意しましょう。
 それに対価を要求する事はありません。どうか、我々の家に招かれては貰えませんでしょうか」

随分な甘言だ。
そうやって言葉巧みに近づいて、搾取されていく。
それは彼の数百年の歳月に渡って続けられた事だった。

警戒する彼の様子を見て、父親は手を振った。

「……あなたがそうなるのも無理はない。そう解してしまうのも、仕方はないでしょう。
 ただ、考えていて欲しい。私は、あなたの手を取りたい」

そう言って、父親が握手の為に手を少し上げる。
男は頑として握ろうとはしない。

冷めた眼を父親に向け、虚ろな壁を作る。

「それは蔑みだ」

拒絶を以て、意志を表す。

「無償の施しというのは、己には富があり、相手は対価すら持ち合わせていないという驕りだ」

皮肉を過ぎた中傷に、少女の顔が曇った。
父親はそれを受けてもなお、柔和な笑顔を向けている。

「ならばあなたからは、時間をいただきましょう」

そう言って、父親は彼方に指を伸ばした。

「あちらに、私が所有している庵があります。
 そこで住まうその対価に、私や家族にあなたの時間をいただきます」

時間など、感性が腐るほど余っている。

「だが、時間をどう渡すつもりだ」

「いえ、単にあなたと話すだけですよ」

それで対価となるものか。
しかし、底意地の悪い蛇が、胸中で蜷局(とぐろ)を巻く。

「話すだけだな」

謀りを隠さぬ笑みを浮かべ、男は父親の握手に応えた。


目蓋越しに朝日を確認し、男は上半身を起こした。
低いテーブルに毛布と薄布を載せたような、簡素なベッドの上。

窓は、木造の壁に四角い空白があるだけで、風を防ぐガラスも閉じ板もない。

こぼれ落ちる朝日に、手をかざす。
露出した肌に、垢の一片も見当たらない。

昨日、庵に送られた男に与えられたのは、食事だけではなかった。

桶一杯に湛えられた、石鹸を溶いた湯。それにタオルと、身を覆う一枚布とそれを結ぶ麻紐である。
庵の外で石鹸湯を浴むたび、地面に黒茶の染みができたものだった。

こうして朝日に照らしてみれば、よくもまあ綺麗になったものである。

生来の白い肌が光を照り返し、白髪も硝子糸のように澄みきっていた。
あるべき純白を取り戻し、しかし男に感謝は生まれない。

信用とは、間隙である。

あの父親には警戒を払わねばならない。
人の好い笑顔に隠されているのは、恐らくは打算なのだろう。
でなければ、親切を振り撒く事はない。

故に、昨晩から今に至るまで、目蓋を閉じるのみで一睡すらもしていない。
寝入る合間に己を襲い、人売りに渡す事も、あるいは肉売りに渡す事もあり得るやもしれない。

こうして存在する以上、そういった事は起こらなかった。
だが次の夜は。一週を経た夜は。一月、一年。安堵という餌を与えられ迎えた夜こそ、起こり得る。

緊張を以て夜を越える事に快はない。しばらくしたら抜け出すとしよう。
それまでは――この私にどう反応するのか、期待してやろう。

男が襲撃に備えて自らの体の具合を確かめていた時分に、あの一家に仕えているらしい女の使用人がやってきた。
こぶし大の黒パンと、ぬるいシチューと、あの庭のイチジクが一個。
その食事を置いて、無言のまま使用人は去った。

人間らしい住処に、人間らしい食事。
尊厳は回復している。精神状態にささくれはない。
あるとすれば、あの善人ぶった父親にどう見返してやろうという屈折だ。

食事を終えると、食器類を外に置く。使用人が後に回収する決まりだという。
それからしばらくは庵の窓の外を見て、あの父親のものだという庭を検分してやった。

父親や娘、使用人の服といい、そしてこの庭といい、どれもこれも「質素」という感想だった。

富のある者の庭とするならば、華美な石造や柵もなく、また希少であったり鑑賞に堪えるような草花もない。
しかしそれは貧した者を表さない。よく見れば、芝は同じ高さに刈り取られているし、植わっている木は剪定され、見苦しさが全くない。

つまるところ、それが父親の趣味なのであろう。

白の太陽が、天蓋の頂点に至ろうとする頃合いに、鍵のない扉にノックが走った。

男は窓からそちらに意識を切り替え、椅子に座って許可を一声する。

「いい」

木の軋む声を伴い、あの父親がやってきた。

「時間を、いただきに来ました」

昨日と同じ柔和な表情を浮かべながら、父親は彼と相対するように椅子に腰かける。

「どうですか。不便は、ありませんか」

「ない」

「なら、良かった」

冷たい男と対照的に、朗らかに笑む。

「では、あなたのお話をお聞かせくださいませ」

「ならば、あるジョークを」

一息。

「旅をしている愚者が、とある村の賢者に会った。
 愚者が悩む。『私はどうしようもない存在だ。生き続けて希望というものを失い、何者にも治せない病に罹っている』
 賢者が答える。『それは丁度良かった。間もなくこの村に訪れるという大賢者を尋ねると良い。彼ならば、あなたの病も癒やせるでしょう』
 それに愚者が返した。『私がその大賢者です』と」

道化のジョーク。
男はくつくつと嗤い、父親の笑い声を待った。

笑ってやれば、「愚者は私だ。お前は私を笑ったのだ」と詰めようと思っていた。

「それが、あなたなのですね」

しかし。
種を明かすより前に、父親はそれを見抜いてみせた。
相も変わらぬ柔和な笑みに、静かに哀しみが差す。

「その病は、今もなお癒えないのですか」

「……癒えると思うか?」

これで「生きていれば希望はある」とでも言えば、「生きているからこそ希望がないのだ」と詰る事はできた。
父親は薄氷を歩く術を知るかのように、答える。

「いえ。あなたがあらゆる人を訪ねてなお癒えないが故に、世を捨てたのでしょう」

手を伸ばし、父親は彼の手を取った。
厚い皮の下から、脈動が通じる。

男の良心が、ここにきてぐらついた。

本に、この父親に裏などないのでは?
こうも理解を示す珍しい人間だ。拒絶するのは愚かしいのではないか?

だが、男は警戒を保ったまま、黙って父親を監視していた。

「――父さま! これはなんですか!」

そこに、娘が闖入した。
娘は茶色い瘤をつけた木の枝を掲げて、初めて見た物体に目を爛々とさせていた。

父親は興奮する娘をなだめ、椅子から立ち上がった。

「いやはや、申し訳ないですが、話の腰を追ってしまいましたな。
 さて、それは。家に昆虫記がありますから、帰って調べましょう」

娘の背を押して退室しようとするその時、男は独り言のように囁きかける。

「カマキリの卵鞘だな。この時期なら珍しくないだろう」

「らんしょう?」

「卵が幾つも寄り集まった塊だ。冬を超えれば孵化して、複数の幼虫が出てくる」

「へぇえー」

娘は感心し、何度もうなずく。

冷淡であった男がわずかに見せた顔に、父親はまばたき、それから円い表情を見せた。


「今年は、たくさんイチジクがとれました!」

娘が、庵にいる自分にそう報告してくる。

自分であれば、年に一回の出来事に、こうも一喜しない。
こうして感情を動かすのは、娘の生涯にとって珍しい一大事だからであろう。

娘の眩しい表情が視線を伝い、男の頬に小さく移る。

「それは良かったな。来年もとれるだろう」

「今年より、ずっと?」

「どうかなぁ」

そう言いながら、男は書物をめくっていた。
今日は父親の古い友人が来るのだという。
客人に話を合わすべく、こうして情報を収集するのも彼の仕事だった。

「じゃあ、ここにおくから、食べてください!」

「ああ――」

娘はテーブルに丸々としたイチジクを二個と、それを木から切り離す為に使ったのであろうハサミを転がし、庵から離れていく。

「――待て、鋏を忘れているぞ」

あわてんぼうの背を視線で追うも、既にその背は扉の向こうへと去っていた。

やれやれ、と首を振る。
男の胸には、「生の充足」らしきものが満ちていた。

あの娘に会った時には、今よりも背が低かったはずだ。
何時、何年、何世紀経とうとも変わらぬ己とは違い、時の尺度が娘に投影されていた。

いつか、娘は立派な淑女になるだろう。名家であるこの家族であるからして、家名を継ぐべく婿を迎える事であろう。そして、いつか新たな子がやってくる。血筋は紡がれ、後世に続いていく要石となっていく。

そして、己はその血筋に寄り添う存在となる。
そう考えれば、悪い事ではない。頬が綻び、ともすれば、この家族、その血脈こそが、「生きた証」足り得るのかもしれない。

窓から、黄金の太陽の糸が差しこんだ。

充実と共に書物の文章の中へと心を注いでいると、扉からノックが響いてくる。
男は書物をテーブルに置き、扉の方へ向き直った。

「いいぞ」

許可が聞こえたか聞こえないか。
間髪も入れず、どやどやと入ってくるのは小太りの人影だった。

「これは、随分と古めかしく造りましたなぁ」

広げた手にはごてごてとした指輪。指の合間には葉巻を挟み、きつい香水を振りまいている。

小太りの仕草に眉を顰める男だったが、その後ろから父親がやってきて、状況を察する。

「ああ、この人がお客さんですよ」

服装、動作、声質、言葉遣い。どれをとっても気に障るような客人であった。

男はその客人に幾何か気分を害しながらも、その気分を面には出さない。
そんな彼の内情も知らずに、客人はずけずけと彼に近寄る。

「珍しいですねぇ。こうも若い人間とは」

客人の視線は、人格を持つ存在を見るような目ではない。
骨董の硝子細工を検分する、肉を透かす目であった。

「隠者であれば、もっと年の寄った男なら『それらしい』でしょうに、ねぇ」

値札に対して安いというような客人の物言いに、男は心底から不快を沸き立たせた。
男は客人に手を上げようかとも思ったが、父親の面子を思って自らを諌めた。

きっと、父親の方が客人を諌めるだろう。

「いやあ、これはこれで味がある物ですよ」

それは、父親の声だった。

諌めるのではなく、客人に物の見方を教えるように。

彼を物のように、そう(わら)った。

男の声帯が乾き、透明な残響を返す。

「……物、だと?」

その唖然とした声に、父親が答える。

「んん、そうだね……あなたは言うなれば、私の庭に住まう隠者、という事を装った、まあ――『インテリア』みたいな、といえば、そうですがね」

物。
自分は、物。
所有物。装飾品。

この父親は、自分と幾度も会話を繰り返した。
自分は当然、父親を人間だと思って接していた。

だが、もう一方は、自分を物だと、それを当然として思って接していたのだ。

体が、震え始める。
最初は単なる朧気な衝動から。それは一秒一秒経るごとに、怒りと、悲しみと、虚しさと、絶望。染まっていく情動と共に震えあがっていく。

がたん、と後方で音がした。
椅子から立ち上がった男は、客人と父親と対峙する。

「何だね?」

訝しむ二人を前に、男はイチジクの転がるテーブルの上から、ハサミを取った。

「……私は、人間だ」

男の宣言に、客人が苦笑で応対する。

「それが、何だというんだね? まさか、キミが鳥や蝶に見えるとでも?」

客人の差した水も意に関さず、男はハサミの柄を、両手で持った。

自分の心臓は、どす黒く沈んでいた。
感情は末端まで泥に染まっている。

そうだ。取り除かなければならない。
このような不快な感情を、違うもので塗り潰さなければならない。
自分は正気だ。正気でなければならない。でなければ人間でなくなる。正気を保たねば、ならない。

頬が曲がる。缶詰の切り口として、ぎこぎこと口端が吊り上がっていく。

正気?
真に正気であるならば、食事も睡眠も絵画も音楽も賭博も娯楽も物語も何をも飽いてなお正気である方が狂気ではないか。
そう。狂わなければならない。自分は狂わなければ、ここまで自分を保てなかったのだ。狂わなければならなかったのだ。狂わずにはいられず、狂って、狂い果ててこうして死に損なってきたのだ。

ここで、正常な人間の生活をなぞったとて、結局は狂っていたのだ。

男は、両腕で力一杯に刃先を開いたハサミを、自らの首に食いつかせた。

「あ――」

呆気にとられたような声が、父親と客人の両方から洩れた。

様を見ろ。
心理の底で渦巻いていた蛇が、そう啼いた。

男の首から、瞬時に血が飛び出る。

「あっ、嗚ぁ呼っ! わああぁっ、あっ、ひいぃっ! あぁぁぁあああああああっ!」

突如の自傷行為に思考を抜かれた父親と客人が、尻餅をつく。
そして男から距離を離すべく、手足をてんでばらばらに、しかし性急な速さで、庵の床を後退った。

「――――」

男は何も言わず、声帯が刻まれ、肺には血が回り、何も言う事ができない。
自分は死ぬ事ができない。だから自分は生きる事ができない。自分が人間として生きる事など、できないのだ。
だからこうして狂った。痛みに快楽を。痛みに悦楽を。痛みに極楽を得る存在でなければ、ここまで這い忍ぶ事ができなかったのだ。

痛い。傷口を露呈し、空気が刺すような喉の痛みもさる事ながら、肺にどんどんと血が注がれていく事が、窒息して手足が麻痺し苦しみ悶える事もまた鮮烈な快感だった。

暴力的な快楽が感情を押し流す。真っ白になる。

何も考えられなくなる。脳に血液が回ってこない。脳細胞が壊死していく事すら非常に気持ちが良い。
腕が快楽を求め、ハサミをより抉る。
それとハサミを横に倒し、喉の肉をじゃきじゃきと斬り始める。川から引き揚げた束の羊皮紙を斬っているような感覚だった。
その感覚を繰り返すごと、激痛が増していく。

血の足りない脚が、深酔いのようにふらふらとステップを踏む。
水たまりの音が聞こえる。あの忌々しい二人の悲鳴はもう聞こえない。ここにもう自分しかいない。

ああ。自分はここで、「死ぬ」。
あの日、飢えから山を離れ、この庭のイチジクを取った自分が遠い。
この家に、この場所に、自分の生きた証を見出し、希望していた自分は、今こうして死ぬのだ。

彼は自分の喉を、半円状に斬ってみせた。
首の骨を蝶番のようにして、その頭は真後ろに倒れこんだ。
逆しまの庵の景色を見ながら、彼は何百回目の死を迎えた。


遠く。遠く。少しでも、遠く。

意識を取り戻した彼は、あの庵も庭も放逐し、山奥へと向かっていた。
山奥に行く事は肝要ではない。全ては、元の遁世へと戻る為だった。

彼の手にはハサミはない。
あるのは、娘から貰ったイチジクが二個。それだけだ。

呻き声が漏れる。自分自身がどうしようもなく、情けなかった。



イチジクの皮を剥き、口に含み、その芳香と味に、沈黙した。
やはり、と、数年前に味わった失望が再度広がる。

何も感じない。