forAnswer

過去捏造描写あり
「GUILTY GEAR BEGIN」の一部ネタバレあり
一つ疑問がある。斬首された私は新しい私だろうか。

今こうして思考できるのは、常識として――このおぞましい身で常識を語るのは片腹痛いが――脳という器官の、神経細胞の繋がりによるものだ。
その脳が首ごと切り離され、こうして頭部が再生したならば、ここに転がる首は古い私であろうか。

断たれた首を両掌で挟み、自らの残滓と視線を合わせる。
全く、見られた顔でない。不健康な肌、粘着質な緑の瞳、ひしゃげた鼻、にやけた口。部位としては最低限あるべき箇所にあるというのに、その無価値な印象といったら顔に穴が空いているようなものだ。

鏡など必要ないな、と独り言ち、嗤う。

さて、こうして相対している元「私」は、果たして私だったのだろうか。
この中に記憶があるだろう。0と1しか記憶できない機械はデイジー・デイジーを謡える。記憶は思考の礎だ。

では、この物言わぬ脳髄の中に、私の意識は果たして存在しているのか?
存在しているとするならば、考えておくべき事がある。

私がこれまで断ってきた首の全てが、死を遂げられたという事だ。

この眼前の首も同じだ。私の知能を、記憶を、思考を、それを紡いだ脳があるというのならば、過たず私であると結論づけても突飛じゃぁない。
その元「私」は、胴体から切り離された。血は通わず、目は瞬かず、ただでさえ低い体温すら、今や鉛に等しい。

元「私」は、死んだ。
不確実な死ではなく、確実な苦痛を期待したまま、私の生涯の望みである死を快楽と共に得た。

同時に自己を揺るがす事実がある。世界が五分前に始まっていたのだと疑うと同様。
今の私は、五分前の頭部の再生から始まってはいやしないのか。

断たれた首の記憶を引き継いだだけの、五分前に誕生した存在なのではないのか。

千年。私が生きてきた時間。
それが「今の私」が歩んできたものではない可能性。

氷の千年に悶着こそあれ愛着はない。だがその全てが虚ろだと突きつけられれば、ここまで死に損なった己の一代(一世)が無価値と下されるものだ。
そうとなれば、幾ら固着した感情であろうと、せめて一余(一夜)でも価値はあると執着したくなる。

右の親指の爪の切っ先が、私だったモノの頬に食いこんだ。
脈拍を亡くした肉から、未練のように血が滲む。

「――あー、ミスタ・ナルキッソス」

痩せこけた声が、意識をこじ開けて現実に引きずり落とす。
手から首を離せば、金属の床に皮越しの頭蓋骨が衝突する鈍い音。

今、私が存在しているのは、ある機関の実験室であった。

強化ガラスで隔てた先にいるのは、にやにやと嘲笑する黒髪の男。

「水面を眺め続けて死ぬ事をご所望かね?」

抗議に口を開こうとも思ったが、時化た水面へ石を投げる無益に思えて、諦める。
ただ、暗喩の程度の低さを咎める視線を刺す。その黒髪は肩をすくめてみせただけだった。

「一応は丁重に扱ってくれよ。まあ、何度でも生産する事はできるだろうけど」

事前に言われた通り、断った首を鉄の盆に載せる。
盆を持ち、扉を開ける。消毒液の臭いが首の継ぎ目に染みる。

「ご苦労。戻ろう」

扉の隣にいる職員に盆を渡し、代わりに職員から首から提げる名札を渡される。

己が機関の人間である事の証明であり、またどのようなセキュリティ・クリアランスを持っているかの証明である。
しかし、名札と言うからには、必ず名前が記載されている。

私という例外を除いて。

「さあ行こうか、ナルキッソス」

こりずに私を呼称する黒髪。
先導するそいつの後ろにつき、実験室を抜ける。

無論、私はそのような名じゃぁない。
では何か、と問われれば、生憎答える事もできない。

私の名前欄には、空白が記されていた。

自己を脅かす要素はここにもある。私は私の名を忘れてしまっていた。
未開の地であろうとも、人間には名前を得る権利がある。
その権利を脳から零し、まるで頭に穴でも空いたような空白感を覚える。

無論、偽名を名乗る事もする。
だがいずれも、仮初の名に過ぎない。いずれもすぐに私の記憶から抜け落ち、自分という存在を定義するものになりやしない。

廊下を行き交う人間は、知らない顔をして名前を持ち、名札を提げて堂々と歩む。
視界に入るだけで私を苛むそれらを避けて、物知り顔で黒髪がのたまう。

「慣れたようだねぇ」

それは「飽きた」に類いする。

当初、この機関に連れられてきたのは、強制的に搬送された病院で首を吊った事から起因する。
不死性に目をつけたらしいこの機関で行われる実験と試験体提供は、感覚を満たすにそれなりであった。

あわよくば、私がようやく風の下で憩う事ができるのであれば。
しかし、憩う事の叶わない千年は私の希望を裏切り、私の絶望を実証した。

こうして飽きてしまえば、ここは単なる檻に過ぎない。
いつにここは廃れるだろうか。廊下の床にから回る脚を繰り返す。

倦み弛む日常の平坦の流れと淀み。
沈殿する汚泥を掻き分け、非日常の予兆が遠くからやって来る。

シークレット・サービスめいた黒服の群れが、白い廊下の中央を行進する。

「おお、怖い」

おどけながら、黒髪は廊下の壁に貼りつく。
私もまた廊下の壁に背をつけて、護衛の塊を検分した。

目を窄める。
黒の木立の合間に、白い毛並みが覗いてきた。

白髪(はくはつ)だ。しかし年若い。
中性的な顔立ちであるが、はっきりと男だと分かる。
背は低い。体躯に恵まれた護衛に囲まれては、尚更強調するようだった。

しかし、護衛というのは、単にその男への周囲から危害を排除しているだけではない。
――たった先に、人間を殺めて戻ってきたような、剣呑な瞳――。
その男から周囲への危害を排除する為のものにも思えた。

息長く観察する間はない。その瞳を記憶した程度で、行進はすぐに横を通り過ぎる。

「随分な要人のようだな」

新しく再生された古い声帯。乾燥して掠れた声は、統率の取れた足音に擦れて消える。
そのまま消え失せても問題ない感想を、黒髪は拾い上げる。

「ああ、『あの男』か」

映画のサスペンス・シーンを眺める目で、件の男の背景を引き出す。

「あの大先生はすごいぞぉ。
 法力学のエキスパートで、生命情報学のスペシャリストで、GEAR細胞のプロフィシェントだ。
 デタラメに才能があるビックリ人間。いいねェ、若い時分から万能なヤツは」

褒め讃えつつ、そのにやけた目に笑みはない。
妬みと憎しみのぎらつき。中途に地位を得て、半端に身の程を知った者のパターン反応。

見飽きたものを見せつけられ、私はすぐに興味が削がれる。

「そういった手合いは、才能から謀殺されるか、才能で圧潰するかだ」

「そりゃいい。できれば、遺産を残して退散して欲しいね」

良識で隠す事なく、黒髪が本音を明かす。
周囲には少なからず人員はいる。それでも周囲が平然としているのは、それがこの男の当然だと受容されている証跡か。

足を運ぶ。もうすでに目的地は目の前だ。
白い扉を前に、黒髪は懐から鍵を取り出し、錠を解く。

「さあ、ゆっくり休むといい」

自分で出る事のできない自室に押され、扉が閉まる。鍵が回る音がしてから、沈黙。

変わり映えのしない自室は、いつもの通りに固定されている。
机もなにもない部屋に、ベッドは四つ。どれも同じ造りであり、マットの横に拘束用のベルトがある以外はいたって簡素なものだ。

私が常に使用するのは、扉から一番遠い対偶のもの。
別にそれでなければならないというこだわりがある訳ではない。肉のある倦怠感がやってくる出入口から離れたいだけだ。

ベッドに倒れ、石鹸の臭いが鼻につく。髪の毛先が頬を掻き、指で払いのける。
眠くはない。休む事もしない。ただ、床に立つのも腰かけるのも億劫なだけだ。

日常の中でも最も忌むべき時間が到来する。
ベッドしかない空間で、一体どのように時間を消費すればいいというのか。

今よりずっと労働が日の大半を占めた若い頃は、このような時間こそ求めていたものだが、もう充分過ぎるほどに休息は持て余している。
天井から注ぐ光をじっと見やり、大きく息を吐く。

かつては、それが蝋燭だった。
いつしかそれは洋灯になり、ガス灯になり、そして電球へと行き着く。

技術の歩みは私に感情を灯してきた。飽きるほどに。
新たなる発見や発明というものは、目の当たりにする事こそ溢れてきてしまった。

人に翼がない時代に飛行機が出たように、今の最新技術たる法術すらもそう感じていた。
絵空事であった現象が現実に落としこまれた程度では、最早感情を動かされる事はなくなる。

これからどのような事が起こったとしても、もう私を満たすものはない。

悲嘆を描き、足掻きたい感情がわずかに立ち、どうしようもない事を知り尽くしている脳が意欲を寝かせ、肉が横たわる。

同様の繰り返し。
過去の焼き直し。

経験の再確認。
単調の一辺倒。

歴史の模倣。
既存の延長。

退屈。
閑暇。

(いとま)
(いとま)


自意識すら鬱陶しく感じ、睡魔の到来を乞いている頃に、再び非日常が扉を叩いた。

ベッドから起き上がる事もしない。目だけをそちらにやり、開いた先にあるのは、あの護衛の群れの一端だった。
「失礼」の一言を不要として、ただ要件の一言。

「新人の博士だ」

そう言って護衛が連れてきたのは、およそ博士という役割よりずっと下回った姿だった。
上半身の可動部を考慮せず縛り上げる白い布。その上から締めつけるのは白いベルト。それは、私も経験のある衣類だった。

拘束衣。原始的な無力化手段。
身を縛られた男は、今日に見たあの白髪だった。

白髪を部屋に押しこんで、護衛は扉を閉め切った。

白髪が制限されているのは、あくまで上半身だけだ。足を動かし、扉から手近なベッドに――私とは斜向こうに腰かける。

私の存在については、刹那目を向けた程度で認識を終えた。
邂逅の時と同じ殺意の光はないが、全てに信頼を置かない敵意は拭えない。

故に、私も信頼しない。白髪はベッドに寝転がり無力を晒す真似はせず、姿勢をそのまま静止させる。

私は視線だけでその白髪を(まさぐ)り、ふと首からだらりと提げた名札に目を留めた。

名前がない。奇遇にも、私のものと同じだった。

この部屋に、私以外の人間が入ってきた事は数回ある。しかし、どの人間も、しっかりと名前を持ってこの部屋に来ていたのだ。
いずれの人間も、私というつまらない男と同室である事に気分を害し、数日で部屋を出ていったが。

とまれ、白髪への奇妙な共通点を見出し、眇々たる好奇が感情の穴から這って出る。

「お前は誰だ?」

口の穴から湧いた問いに、白髪は唇だけを動かし斬り返す。

無名(John Doe)。君は?」

問いを無意味にする回答に応じて、私は字名に身を隠す。

無銘(Richard Roe)。お前と同じだ」

会話を広げる様子も当然なく、それで話題は終端に達する。
とはいえ、私としては暇を潰す手段はこの男くらいしかいない。

「ジョン、名札に名が無いという事は、本当に名前が存在しないのか?」

「リチャード、ゲストの札だよ」

「では来客という事か」

「暫定のものだ。その内、正式なものが支給されるらしい」

少しばかり興が削がれる。結局はこの白髪も、名前のある人間なのか。

「ジョン、何の博士だ?」

「リチャード、大した事はない。説明するまでもないよ」

「法力学のエキスパートで、生命情報学のスペシャリストで、GEAR細胞のプロフィシェントと聞いたが」

「なら、それで充分だろう?」

突き放す言い方に、いっそ心地よさすらある。

「ジョン、寝るつもりはないのか?」

「リチャード、君が寝たら寝るつもりだ」

「私は不眠症だ。寝る事に飽きているからな」

「それなら、僕は寝るつもりはない」

起きている私に、睡眠状態という無力の極致を晒さないという表明だった。
ならばいっそ、ずっと起きてさえいようかとも思ったが、下りた沈黙を上げる事もせずにいると、睡魔は馬に乗ってやってくる。

目蓋が幕を下ろす(きわ)でも、白髪は微動だにせずベッドの上の存在になっていた。


時計はない。時間を計る権利さえ、私にはない。
しかし感覚は朧気に物事の間隔を計っている。

惰性の眠りを払拭して、私が起き上がると同時に扉が開く。

「おや、ジャストタイミング」

口笛なぞ吹き、そう言って私の精神を逆立ててくる。
全く、嫌な日常だった。

一つ違和があるとすれば、この部屋に第三の存在がいる程度。

斜向かいには、昨夜と全く同じ体勢の白髪がいる。
眠っていない。その目蓋は鎖す事なく、意識と警戒をこちらに向けている。そしてなお声をかけようとはしない。

「仕上げが待っている、ナルキッソス」

「その名前はやめろ。仕上げとは何だ?」

「来れば分かるさ」

全容も知らせず、インフォームド・コンセントを踏み躙って黒髪が私を引きずる。

扉をくぐり、廊下を数分歩き、連れ出されたのは「Cクラス以下職員・立ち入り禁止」と書かれた物々しい部屋の前だった。
黒髪は誇らしげにBクラスの名札を見せ、それを電子錠にかざす。

感知の音の後、二度繰り返す認証成功の音。
名札から手を離し、黒髪は扉を開けて入室する。

私も続いて扉を過ぎ、そこにあったのは――。

「キミだ」

私だ。

目の前にいたのは、巨大魚でも飼うように水槽に沈められた肉。

脚は、昨月に切り離した記憶がある。移植の為だと聞いていた。
腕は、半月前に切除した記録がある。実験の為だと聞いていた。
胴は、一週間前に切った記載がある。観察の為だと聞いていた。

そして昨日、切断したばかりの頭がある。左頬に、私が刻んだ爪の痕があった。
バラバラの肉を繋ぎ合わせ、一つの人間の形に縫い合わせてある。

だが、不完全は二つある。一つはその腹が切り開かれ、あるべき中身がない事。もう一つは、私である事だ。

「驚いただろう?」

ああ。その悪趣味さに驚いた。

黒髪は人間の継ぎ接ぎに物怖じせず、その水槽の中に手を突っこむ。
開いたままの腹腔の内面を撫でつつ、言外にいけ図々しく催促した。

「内臓は足が早いんだ。新鮮な方がいい」

私は敵意を露わにし、反抗を臭わせる。

「私は聞いていない」

ただでさえ忌々しいこの体が二つになる。
まさしく、自分の身体を分けて作られた「分身」だ。

耐え難い吐き気を覚える。
恐らく、事が終われば、私は嘔吐する。

威嚇する私に、いつもの様子で黒髪が肩を竦めた。

「キミの同意書は僕が書いたからね」

(Scheiße)ッ。

率直な感想が(はらわた)からこみ上げてくる。
その衝動を携え、私の腕が上がった。

「うおっ! ととっ、危ないじゃぁないか」

身を伏せた黒髪の上を、殴ろうとした腕が空振る。

「警備員でも呼んで、こんな危険人物を放逐した方がいいだろう」

蹴りもまた黒髪に当たらず、その背後にある水槽に突き刺さる。
だが、強化ガラスで頑丈に作られた水槽にヒビも入らず、ただ爪先に痛みを返すだけに(とど)まった。

「こんなにいい実験動物を手放せって? ゴメンだねぇ!」

動物。言ってくれる。私を人間扱いしていないと!
怒りがこみ上げる。これまでも適切な扱いを受けた記憶はないが、そうと明言されれば、今まで動物として接してきたのだという侮蔑を受けたも同然だ。

「ギっ!」

手が、その喧しい喉を捕らえた。
握力を発揮する。私の腕こそ細いものの、かつての従軍時代から老いる事のない腕だ。

「ぃイッ……!」

掌に、薄い脈拍と窒息に喘ぐ震えが伝わる。
黒髪の足掻く手が、私の腕を掻く。

「無駄だ。後で、あの水槽の肉塊も無駄にする」

――結果論ではあるが、その足掻く手を振り払えば良かった。
黒髪の手には、握り隠していた小さな注射器があった。

「……ッ!」

乱暴に刺された注射針の痛みが、腕に走る。
神経でもやられたのか、それと共に痺れが響く。

力が入らず、黒髪の喉を取りこぼした。
激しい咳きこみの後に、黒髪が勝ち誇ったように説明する。

「……特別に作った、即効性の麻酔だ。致死量だけど、キミだからいいだろう?」

良い訳がない、そう反論しようにも、病的に即効だった。
口が回らない。漏れるのは言葉に成り損なった吐息だけだ。

そして体すら自律できず、意志に反して倒れ伏す。

「まあキミの体の事だ。すぐに麻酔という毒も消えるだろうけど――」

白衣を脱ぎ、簡易な第二手錠として私の手足を拘束する。

「こうすれば、もう動けない」

言いつつ、手錠にした白衣から数本のメスを抜き取った。
体の自由は効かないが、意識だけははっきりと鮮明だった。

黒髪はメスを持ち、慣れた手つきで服を裂き、皮膚を、筋肉を、開く。
現れた腹膜を、傷つけないように周囲の脂肪から切り離される様をじっと見るしかなく、私の脳が思考した。

私は何だ?
名前もない。故郷もない。約束された終末も、終焉もない。

そして、自分は確かに自分であるという事も、今無くなろうとしている。
私は、二つの存在になろうとしている。

横隔膜が反応する。嘔気だけが先行した。

ああ、自分という存在が一つだけだという驕りが、まだ私の中に存在しているのか。
唯一と言っていい自尊心に嗤い、ただただ黒髪の作業を見る。

驚嘆するほど鮮やかな手口だった。内臓はすぐさま水槽の中に移植され、あちらの「私」は見る見る内に腹が縫われていく。
機関の研究者ではなく、医者としてなら大成したのやもしれない。憶測の靄が思考にかかる。

「さて」

黒髪が、部屋の中から電極を引っ張り出す。
「私」の胸や背骨に取りつけて、すぐに退避した。

果たして、「私」は生まれるのか。

私は畏怖を、黒髪は期待を持って水槽に視線を注ぎ、その只中で目映く電光が走った。
黒髪が、すぐさま水槽に駆け寄る。

しかし眼前で、「私」が自ら動く事はなかった。

「ちぃっ、ちっ、ちぃっ!」

水槽を蹴り、失望を露わにする黒髪。
不死の身が麻酔という毒を取り除き、自由を取り戻した私は乾いた笑い声を上げてやる。

「あと21gほど足りないんじゃぁないか?」

「まあ、仕方ない。後で天才にでも聞いてみるさ」

ふん、と鼻息を鳴らしてから、野生動物でも払うかのように手を振った。

「材料は揃ってる。もうキミは帰っていい」

黒髪から離れられる権利を得て、すぐさま私は起き上がる。
血溜まりが跳ねる音がした。そこでようやく、私の認識が更新される。

腹を開かれた。当然、私の衣服は血に濡れそぼち、異常を発する姿になっている。

「服の替えは」

「ないよ。取ってくれば?」

質問を遮る回答に、血混じりの唾を吐き、私はよろめき立ち上がる。

扉を開く。
廊下を歩いていた人間は一様に目を見開き、そして私から目を背けた。

麻酔の抜けた体の疲労感は(おり)の様。久しく忘れていた睡眠欲から、自室のベッドで横たわる事を脳が要求する。
しかし腹の底で溜まる嫌悪の行き場を求め、私は少しだけ自室への進路を変える。

好奇と怯懦の視線を集める中、廊下の果てに何の色もない存在を目に捉えた。

あの白髪の男だった。
拘束衣はまだ解かれていない。白髪が目の前にしているのは、手洗い場の扉。

付き人もいない様子を見て、「ああ」と納得の声が漏れる。

あの男もまた、不当な扱いを――拘束されている時点で分かるものだが――受けているのか。
つまり、白髪を疎む何者かは、あれが「お願いします(Please)」と周囲に頼る事を、「己が無力である」と周囲の人間に晒す事を望んでいるのか。

少々情けをかけてやろうか、と好奇心が鎌首をもたげる。

白髪に近寄り、私という存在を男の認識に介入させる。
すると白髪は血染めの私を見て、僅か眉根を寄せただけで無言の感想を終えた。

気にかける価値すらない、という明確な意思表示に快楽すら湧く。
ますます干渉してやろうという天邪鬼を起こし、声をかけた。

「ジョン、私が開けてやろうか?」

白髪は数刻、その仮名に不可解そうな表情を浮かべていたが、

「ああ、君はリチャードか」

忘却の海からようやく引き揚げたように、偽物の名前を読み上げた。
私は黒髪のように底意地悪い態度を装い、白髪に提案する。

「『お願いします(Please)』と言ったなら、開けてやらんでもない」

白髪は気分を害した様子もなく、提案を鳥のように躱した。

「その必要はないよ」

コミュニケーションを絶やし、白髪は真性異言(Xenoglossia)を思わせる何事かを囁く。

囁きを終えた瞬間、かちり、と金属の音がする。
扉の開く音だった。

法術。
そのちょっとした応用を目の前にして、やはり驚きは何もない。

扉を閉めようと法術の囁きが聞こえた時、それを中断させるように私もまた扉をくぐる。
すると、感情を無に努めていた白髪は、少々意外そうな顔をした。

「君も使うのか?」

「悪いか」

皮肉気に笑いかけ、白髪はまた感情を無くすようにして、個室に入る。
白髪の目線を失ってすぐ、洗面台に駆け寄った。

「があっ」

「分身」と顔を合わせて以来、ずっと抱えていた嘔気の(たが)を外した。
内臓は取られた。作られたばかりの消化器の中身は伽藍堂(がらんどう)だ。吐くのは黄色い胃液。それが無くなれば緑の胆液。
舌がえぐい胃酸味とアルカリ性の苦味で侵される。咥内が少量溶かされ、軽い火傷のように疼く。

私は誰だ?
あの分身は誰になる?

分身の脳は、紛う事なく私のものだった。
私が記憶する全て、感受した総て、思考する凡て、経験した全てを、あの分身は持っている。

その分身が、今日に生き始めたらどうなる?
私はどうなる?

この世に、私が二人いる事になるというのか?
名前のない黒ずんだ透明の怪物が二つある事になるのか?

本当に私は私なのか? 新旧で考えれば、こちらは新しく再生された頭を持っている。
あちらの方が、昔から存在している。ならば、本に「私」と言えるのは、分身の方なのではないか?

自己が曖昧模糊になる。更に吐き気がする。口を開けば、空気と唾液しか出なかった。

鼓膜は自分の心臓の音だけを聞いていた。
自分というものに意識が行っていたようで、振り返れば個室の鍵は全て青くなっていた。

口を漱ぐ。全てを洗い流す。思考すら。
顔を上げ、鏡に映った醜い者と対面する。

「お前は誰だ?」

返るのは、狭い室内で起こる反響音。

矢鱈に足音を響かせて、手洗い場から廊下に出る。
あれから時間はそれなりに経っているが、離れた所に白髪がいた。
別に私の事を待っていた訳ではない。あの男に、黒髪が絡んでいるようだった。

丁度、自室に戻る進路の途中に存在していた。
私がその傍を通過する際、二人の会話を盗み聞く。

「もし完璧な人間の肉体があるのに、それが動かなかったら、キミは何が足りないと思う?」

苛立ち混じりの黒髪の質問に、白髪が切り捨てる。

「21g足りないのだろう」



自室に戻ると、追うように白髪が帰ってきた。
実態は私を追ってきた訳じゃぁなく、あの黒髪を撒いた後なのだろう。

帰ってきた白髪は、今まで通り無言で扉近くのベッドに腰かける。
私が手洗い場で吐いた事については、薄い個室の壁を隔てた白髪も分かっている。
しかしそれについての言及はしなかった。する必要がないからだろう。

沈黙。無音。静寂。

扉を叩く音で、それが終結する。

食事が来た。ワゴンには盆が二つ置かれている。食べ終わったら廊下に出す形式だ。
白髪の分も取ろうとしたが、法術で取られる。
他人に借りを作らないという、強い意志。

テーブルもなく、ベッドの上で食事をとる。特筆する味もなく事を済ませる。
白髪も、法術で巧みにスプーンを操っていた。

「手を拘束する必要がないな」

機関の人間へ嘲笑すると、白髪はじろりと自分へ睨むだけだった。
常に張り詰めた白髪。敵陣にいるかのように、いや、敵陣にいるものとして振る舞っている。

だが、しばらく黙っていると、白髪がつぶやいた。

「リチャード、君のクローンを見た」

「クローン? クローンは、採取したDNAを元として生命を作り出す技術だろう。あれは違う」

「どういう訳だ?」

「あれは私の体を分けて作られたものだ。
 頭を切り、腕を切り、脚を切り、胴を切り、それらを継ぎ接ぎして作ったものだ」

「頭を切られて生きている人間はいない」

私の事実を、冗談だと思ったようだ。
興味を失い、仰向けに寝転ぶ。

昨日よりもずっと隙のある姿だった。

「そんな体勢を晒していいのか? 私が襲ったらどうするつもりだ」

白髪は時折見せる、遠くの何者かを見る目をした。
そして答える。

「僕は二人殺した事になる」


「ハロー、ネームレス。仕事の時間だ」

私はどうにも、この黒髪に厭に縁があるようだ。
いや、もしかすれば、この男が私の担当者というものなのかもしれない。
だとすればぞっとしないものだ。あまり考えたくないものだが。

「何の仕事だ」

「いつも通りだよ」

「今度は何が足りない? 髄液か、血液か、肝臓か、心臓か?」

捲し立てる私に、黒髪は口角だけを上げる。

「刺激、かな?」

笑う感情など昔に置いてきたものだが、この男の冗談というのは殊更笑えないものだった。
私は何も発さず服を替え、使い捨ての布靴を履き、自然浮かぶ疑問を呈する。

「『あの男』はどこだ?」

扉近くのあのベッドは既に(もぬけ)の殻であり、そこにいたはずの白髪はいない。

「先に行っちゃったねぇ」

気楽に嘯き、黒髪は扉を開けて私を待ち構える。
私は嫌々といった足取りでそちらに向かい、黒髪に連れられ実験室へと入った。

中には、確かにあの白髪がいた。その他に研究員はいるものの、今日はどうやら護衛はいない。
拘束衣はつけたままだ。その上に羽織る白衣だけが昨日との相違点であり、それ以外の要素――周囲への油断なき敵意についても――昨日の延長線に過ぎない。

「さて、これで揃った」

実験室は、二つの高度に分けられていた。

一つは私たちのいる足場。廊下とは地繋ぎであり、白く整えられた床は文明を覚える。
一方は、それよりもずっと低い所に誂えられていた。床は打ちっぱなしのコンクリートであり、点々と赤黒い飛沫の痕が見えた。

それを見下ろす形で立ち、「コロッセウム」といった単語が頭をよぎる。
眼下にいたのは、動物のあらゆる特徴を糊付けした、モザイク細工だった。

獅子の頭、馬の脚、鳥の翼、魚の尾。
合理的な設計というより、どれだけの要素を継ぎ接ぎできるかの確認といった様相だ。

「神話で言うところの、キマイラさ」

この不自然の塊で一番の不自然と言えば、翼に該当する器官が鎖で縛られている事か。
とはいえ、翼の機能に思索を巡らせばすぐに分かる事だ。飛んでこちらに来る事がないように縛られているのだろう。

「餌は生きた人間とでも言うつもりか?」

仕事の展望が見えてきたと思ったが、黒髪はやれやれと首を否定に振る。

「アレはもう充分満腹さ。腹が膨れていても、ちゃんと『機能』するかどうか確かめないとね」

ここでようやく、白髪が口を開けた。

「開始してくれ」

周囲の研究員が頷き、その内の一人が、手にあるリモートコントローラーのボタンを押す。
がしゃん、と広い空間に機械音が響き、天井からキマイラの付近に向かって物体が降りてきた。

服を着せられ、肌色に塗られた、木製の人型だ。

獅子の脳では動かした事がないであろうに、キマイラは蹄で高く音を立て、馬の脚が速やかに標的へと直進する。
咆哮し、開いた口をそのままに、人型へ牙を立てる。

胴の太さの木は幹に等しい。しかしその硬度をものともせず、キマイラは人型をウッドチップに替えた。

標的が破壊された事を検知し、また別の場所から人型が吊り下げられる。
キマイラはまたそちらへ蹄高く走り行き、床には木の死体がバラバラに散らばっていく。

「――いや、しかし。このような木型では、本物の人間を目の当たりにしても、そこいらの街路樹にじゃれついてしまうかもしれないなぁ」

観察して浮かんだ怪訝ではなく、予め準備されたように流れる黒髪の文章。

「実例が欲しいと? 死刑囚でも取り寄せようか?」

白髪の苛立った応答に、黒髪が肩を竦める。

「必要ないよ。死刑囚は消耗品じゃぁないだろう?」

嗚呼、と隠した合点を打つ。
自分が立っている理由を推し測り、私は倦怠感に目を伏せた。

「ここにあるさ、耐久品が」

脱力した体は、肩を押すだけで柵を超える。
悲鳴は誰一人として上げず、投げやりな笑い声だけが私から奏でられる。

着地は頭から。水風船の破裂音が、潰れた耳から伝わった。
辺りに広がる血の臭いに、キマイラが鼻をひくつかせる。

木型を相手にするよりも俊敏に、距離を詰める時間は瞬時に。
キマイラは口を開き、血まみれの肉に喰らいついた。

「――!」

絶叫(絶嬌)も全て、怪物の咥内で潰える。
自分の肉と骨の境界が混濁していく音の中で、有機質な声を拾い上げた。

「さあ、どうだい?」

演劇の出来を尋ねる声色。
黒髪と共に冷笑を上げる研究員の声が聞こえる。

しかし、それは後悔に変わる。
下らない芝居を斬り捨てる、零度の声が空間を漬す。

「僕はだね、
 かつて友だった人間だろうと、利用価値が無くなれば、興味が無くなるに(とど)まらず、憎悪が湧くような人間なんだ。
 もう試すのは止めにしないかい? あのサージとかいう男に唆されているのかもしれないが、僕の顔を見てくれないか?」

見えない。
しかし、カルテが床に落ちて残響するのは理解した。
そして、無色の研究員の小さな悲鳴は把握した。

瞬間、爆発音と共に落下感を覚える。
再生して掻く手が、地面の硬質さを認識した。

床に落ちたのは、恐らくはキマイラの頭ごと。
身を起こして、目蓋が裂けた剥き出しの眼球で光景を捉える。

首は歪んだ輪郭の切り取り跡を晒す。
キマイラは、その胴体から黒煙を上げていた。

上にある展望台から、縄梯子が下りてくる。
私が痩身を引き揚げた先で、黒髪がちらりとこちらを見て、

「GEAR細胞に、あれの不死性を取り込んでみては?」

話題に取り上げられ、白髪もまた私を刹那()んだ。

「兵器は、使わなくなってからの処理も考えてこそ兵器だろう? また地雷でも埋めたいかい?」

私としても信じられない事だが、私は一応人間である。
しかし、その白髪の冷酷な打算は、その人間を目の前にしても動かなかった。

それは取りも直さず、白髪の人間性の証明である。

「――ハハハハハッ! 流石は天才」

黒髪は音のない拍手をして、白髪を舌だけで讃えた。

「キミとは仲良くなれそうだ。これはご明察の通り、疑い深いサージの提案だ。
 キミが本当に、ご友人を裏切るような人間かを測った訳だが――そんなセリフが吐けるなら、そう、信頼に値する」

裏切った人間を信頼する宣言。
黒髪が指を鳴らし、他の研究員に命じる。

「名札を外せ。拘束衣も解け。
 明日、名札はBクラスの正式なものになる。部屋も個室に割り当てられるだろう。
 今日のところは、そこのあれと過ごすが、まあ辛抱してくれ」

私がようやく同じ床の上に立つと、すぐに黒髪が歩き出す。

「今日はもうこれで終いだ。ゆっくりと、飽きるくらい休むといい」


白い扉が閉まる。

白い部屋の中でベッドは四つ。人影は二つ。
昨日と違うのは、白髪に拘束衣と名札がない事か。

各々ベッドに辿り着く。
白髪はこの空間において、初めて自ら口を開いた。

「驚いた」

あの時には驚愕の色を見せなかったというのに、そこでようやく白髪が敵意でない感情を表した。
仮面でも捨てたようだった。青さ相応の若さで、若干の興奮と綯い交ぜになっている。

「リチャード、君もGEARなのか?」

「も」とは何か。キマイラに掛かっているかと思ったが、その発言の抑揚は、それがまた別の人間に掛かっているように思えた。

「違う。だがあの通りだ。私は死なない」

機関の中での常識を、白髪に伝達する。
白髪はしばらく考えこむと、私の目を数メートル先から覗きこむ。

「だろうね。GEARであっても、あの再生力は現時点の技術では――たった一人しか、いない」

言葉を切り、白髪が思考を別の場所へ飛ばしていた。
既に傍にいないものに思いを馳せてから、白髪が再度私に意識を向ける。



「死なないとは、どれくらいの事を意味しているんだ?」

「文字通り。首を刎ねられようと、心臓が抜かれようと、年を経ようと――私はずっと私のままだ」

「……そう、か。いやすまない、昨日の君の言葉は本当だったのか」

軽く謝罪を一つ。顎を擦り、白髪が思案する。
沈黙は数分。その間に、白髪の変貌をしみじみと見る。

最初こそ、誰が触れようとも拒む雰囲気。
それは崩れ、誰であろうとも受容するような存在に置き換わった。

推し量るに、本来の白髪の人格が浮き彫りになる。
白髪は張り巡らせた思考を打ち切り、顔を上げた。

「僕は飛鳥。飛鳥=R=クロイツ。
 教えて欲しい、君はどんな名前だい?」

その質問の度、私は馴染みの劣等感と顔を合わせる。

人間の基本要素である。自分というものを表す名。それを失った存在である事を、自覚させられる。
私はもう覚えていない。私がいつ生まれたのか、私がどのような人間だったのか――私の名はどのように綴るのか。

「……覚えていない」

そう告げて、私は白髪――飛鳥の様子を窺う。
名前を持っていて当然、と人間たちは名の無い私を揶揄してきた。

――冗談だろう?
 ――冗談の訳がない。
――自分の名前を忘れるのか?
 ――ああそうだ。それほど私は私を見ないようにしてきた。

私が頬を噛んでいると、飛鳥はその告白を、

「そうか」

名前がない事を、受け入れた。
いや、受け入れるだけではなく、

「なら、君が名を探せばどうだろうか」

そんな事すら提案してきた。

「探す? 名付ける、ではなくか?」

「そうだね……君は、ヘンペルのカラスを知ってるかい?」

「……論理学を皮肉る為の戯言だ。
 鴉以外のものが黒くないと確かめる事で、鴉自体を見ずに鴉が黒いと結論づける」

「そう。でも、自分という要素を探すのに、自分以外のものにその答えを見る事もある。そういった風にもとれないかい? 鏡を見る事でしか、自分の目の色は分からないだろう?」

そこで、私の胸には失望が広がった。
要は、自分探しの旅に出ろと。そういう事か。

「――私が、どれだけ生き、どこまで行き、そしてここまで逝く事が叶わなかった事を分かっているのか?」

そうだ。

「私はあらゆるものを見てきた。飽きるほどの物を、飽きるほどの時をかけて見てきた」

だというのに、

「それでなお、この古めかしい世界に、私がまた何かを見出す事があるか?」

ベッドから立ち、飛鳥に近寄る。
結局は、こいつも同じなのか。

最初の目覚ましい殺意も、殺された私にかける怜悧な眼差しも、
仮面を捨てた感情も、私への慈悲からもたらした提案も。

結局は凡人の域にしかない。ちっとも、私の絶望を理解し得ない。

しかし、飛鳥は私を見上げると、貧者を前にした聖人のように微笑んだ。

「……まだ、君が見ていないものがある」

「何がだ」

歯を剥き、飛鳥に向けて敵意を晒す。

「本当ならば、君の同意を得てからお願いしようとしたけど、
 多分、こうした方がずっといい」

飛鳥は、すっ、と指先をメスにして空間を切り裂く。

本来ならば、単に「腕を上から下へと振り下ろした」と描写するものだろう。
「切り裂く」と形容したのは、それが相応の動作だったからだ。

「なっ――」

咄嗟の声も、吸いこまれる。

今、私の目の前には――見た事もないものが覗いていた。

空間の空漠が左右に裂かれて見えるのは、傷跡のように真っ赤な景色。
周囲の大気は、存在ごとそちらへ吸いこまれている。

「あちら側は、『バックヤード』。僕も行った事のない、未知の世界」

目を奪われ、言葉を失う私の背を、猫でも撫でるような力で押してやる。

「どういった所か、不死身の君が見てきて欲しい」

未知に惑い、不安定な足を動かすには、それで充分だった。


赤い、紅い、朱い、緋い、丹い。
容赦なく、秩序なく、隙間なく、その空間は紛れもなく赤過ぎた。
交配の果ての薔薇より赤く、血の流れより赤く、死ぬ間際の太陽より赤く、凝り固まったゼラチンより赤く、数日溜めた劣情より赤く、殺意より赤く、赤子より、頬より、ブザーより、液体より、何より、痛い。

痛い。痛い、痛い。
頭が軋む。頭を万力で潰す、外部からの圧力の軋みでは――ない。

ない。
わからない。
私はこれを理解していない。
私はそれを体感していない。

未知の痛み。知らない痛み。阿呆の痛み。
脳が情報を貪飲し、鴨の肝臓の真似事に肥大し、内側から外側へ押しのけて破裂せんとする軋み。
脳に痛覚はない。痛覚神経が差す間隙もない中枢神経の塊だ。だというのに、脳が痛い。信じられないほど侵食外来種の痛み。

腕の手の指の爪の半月に至るまで、感じた事のない痛みで独占される。
周囲の存在感が自分という空白を圧し潰す為に殺到する。訳の分からない単語が腕を通り過ぎる。

「――君は今、世界を構成する、情報の海の中にいるんだ」

異国の言葉を心臓で濾過した。それだけで、発音も概念も理解して、すぐに他の単語が乗っ取り、忘れる。
珪素生物の言語が骨を伝う。彼らは宇宙空間でも話す為に頭を突き合わせて振動させて話す。一瞬で別の星の花が咲くメカニズムと切り替わり、そんな話術は奔流の向こうへ渡る。

「それだけ情報があるなら、君の名前も見つかるかもしれない」

複眼の蟲の視界が見えた。花粉を運ぶ様が視界にびっしりと埋め尽くされる。
微生物の触覚に触れた。鞭毛が外敵を撫で、痛みもなく食われる。

無秩序。整理もしていない図書館。無限に打鍵する猿のテクスト。
砂漠に落ちた塵を探す造作が何回もできても、この空間から望む情報を拾い上げるのは難解に過ぎる。

「いや、君は名前を見つけなければならない。そうでなければ、この空間から抜け出す事は叶わない」

その声と被るように、未知の未来の言葉が通り過ぎる。

『――目を見張れ! 歯を食い縛れ! 自分の名前を思い出せ!』

思い出せ? 無いものを思い出せはしない。
粗野そうな男の言葉を唾棄し、自分の意思を確認する。

ここで何を見る?
鴉であるとはどういう事か?

ここで万物を把握して、鴉が黒いという事を証明しなければならない。

私の目から抜け出そうとしていた、私がここに持ちこんだ記憶を手で縋り掴む。
全てを知るには、自分が何を知らないかを知らなければならない。

全身で知識を検索する。不要な情報は身体から追い出し、必要な情報を精査し絞り落とす。
他の星など知るものか。私は人間だ。蟲の見方を知った所でどうなるものか。

舌を噛み千切り、知古である断裂痛に正気を取り戻す。

私は誰だ?

情報が集中する。情報に集中する。

私の名は何だ?

――ヘンペルのカラス。

私は各地を渡った。素晴らしい羽根を誇った。賢者と呼ばれた。しかし黒く染められた。
鴉。鴉でいい。それでいい。

その中から、私は無理矢理に自分の名前を掴み取る。
そこで、痛みすら無くなった。


意識も無くしていた。
気がつけば、私は血のように液状化した情報に濡れた状態で、扉近くのベッドの上に横たわっていた。

首に、他人の体温がする。脈を計っていたようだ。

「おかえり。丁度戻ってきたのが、僕のベッドの上だったんだ」

ずっと観察していたのか、間近に迫っていた飛鳥の顔がささめく。
私の首に当てていた手を引きこめ、安堵したように息を吐いた。

「その様子だと、僕の予想通りだったみたいだね」

平然と、人を致死的な空間に送りこんだ男が言う。

「『バックヤード』。世界全ての情報を格納した、誰も見切れない司書なき図書館。
 その中でも、情報密度の高い深部――人間が放りこまれれば、一体どうなるのか。
 仮説ならいくらでも挙げられるけど、実例が必要だったんだ」

私は未知を知った。
それは私に言いようのない、掛け替えのない――感情の激動を呼び起こした。

あれは何だ? あれが私が知らなかったのは何故だ?
そんな事は分かってる! あれが、この男の知っているものなのか? これは一体、どういう存在なのか?

興味は続々と這って出てくる。墓地から伸びる死者の手のように、私の心臓を捉えて離さない。
掻き乱される内面をよそに、飛鳥が声をかける。

「それで、どうだったかな、リチャード」

「リチャード?」

そう問うてから、嗚呼、と自分で笑う。
そうだ、そういえば、彼は私の名前を知らない。

「私の名前は、リチャードじゃぁない」

そう。
私は今日から、私の名前を手にして生き始める。

不敵に笑う私を見て、飛鳥が笑む。

「名前を見つけられたのか。ああ、でも――」

友人に冗談めかす為の笑みを向け、そこで初めて飛鳥の素顔が表れた。

九郎(Crow)はやめて欲しいな。僕はあの黒髪の博士が、とても嫌なんだ」