Capriccionzert

過去捏造描写あり
窓から零れていた灯りも全て落ちる頃合い、石畳の道を月光が行き交う。

昼行性の人間が微睡む中で、目覚めさせようと喉を張る。

「助けて!」

美女だった。
豊かな乳房を手で隠し、衣服は剥がれかけていた。
それが望んだ状態でない事は、脱衣の為のボタンが外れておらず、胸の布地が切り裂かれている事で悟る。

ではそうした者は誰だというのか。
誰何を饒舌に表すのは、彼女の背後から鳴り響く靴の音。

「売女風情が、待ちやがれ!」

追う男の手には肉厚なナイフ。
暴漢の露わな殺意だった。

数分前、明らかな害意を察した彼女は「商売」から逃げだした。

「誰か、助けて!」

右肩から血滴。切れ込み程度に入れられた傷跡が、誇大に痛みを訴える。
血の臭いを振り撒き、美女は路地裏に逃げこんだ。

街の裏を知る彼女は、危ない客の撒き方も分かっている。
行方を左右に揺さぶり、時には壁を乗り越え、空き家を通過する。

しかし、相手は逃げた獲物を追う術に長けていた。
わずかな血の痕も、足跡も、音響も察知し、的確に美女の後を辿る。

息が上がる。一夜中腰を使う事は慣れているが、脚については専門ではない。
暴漢との距離は運命の糸の長さと等しい。
振り向きもしないのに、糸を絶つナイフが近づいているのが分かる。

「あ――」

建物の壁に突き当たり、角を左に曲がって、そこで文字通り致命的な失敗をした事に気づく。

この角を左に曲がれば、壁に突き当たる。
表通りに繋がる右に曲がるのが正解だった。

後頭部から血がずるずると下っていく感覚に陥る。
脚に疲労感の津波が寄せ、膝を折る。
恐怖と酸欠に肺が空回った。

暴漢が追いつく。
立つ事もままならず、四つ足の状態で震える美女。
彼女を見下ろし、暴漢がナイフを逆手に持ち直す。

「わ、わたしの……わたしがなんで、殺されるの!?」

この理不尽に意味を求めて、美女が叫ぶ。

「お前は情報を漏らした」

「わ、わたし、ただの花売りじゃない! 知らない! なにも!」

「三日前、商人を相手にした。
 商人は一番貧相なズダ袋に、一番高価な胡椒を入れていた。その知恵をお前に自慢した。
 盗人が入ったとき、盗もうとも思わないズダ袋だけが盗まれていた。
 盗人はすでに土の下だろう。後は、ズダ袋に胡椒があると知り得た人間が残る」

「違う、違う! わたしは、なにも!」

手を合わせる。懇願する。神様、と祈る。

「悪いが仕事なんでな、死んでもらおう」

暴漢が腕を上げる。
ナイフの刃が、月光を照り返す。
一秒あれば、一個の命が終わる。決定的な時間の狭間。

そこに差しこまれた第三者の時間が、運命を分かつ。

「――一晩限りの女性に言うなら、他の人間にも言っていたのではないかね?」

暴漢の腕に、掌が食いこむ。

「なっ」

暴漢が振り返ると、振り返りの小さな風圧で紫煙が揺れる。

茶髪の男だ。
黒い燕尾服に、十字を模した赤いネクタイ。木製のパイプを口に咥え、煙草を優雅に燻らせている。
髭はなく、若々しい。見かけの年齢だけを勘案するのならば、二十代半ばと言った所だ。

だが、彼を青二才と断言できない要素は一つ。
煙と共に漂わせている空気が、老成した匂いを含ませていた。

暴漢は歯を剥くと、殺意を美女から男に向ける。

「テメェに何が分かる!」

「しがない流れ者だが、それだけの証拠でレディが落命するのはしのびない。そう思っただけだがね」

「このっ!」

暴漢の腕を拘束していた、男の掌を振り払う。
同時に、ナイフを男に向かって振り下ろした。

狙いは心臓。何度も貫いた事のある臓器だ。

だが、暴漢の手が何度も味わった貫通の感覚はなかった。
あるのは、刃の両脇を両手で挟まれた感覚。

真剣白刃取り。

「なっ!?」

初めて目にした、動体視力と反射神経がなせる技。
生まれた躊躇を呑みこむ前に、男の腕が瞬時に伸びる。

左腕はナイフの腹を、右腕が暴漢の腹を別々に殴りつけた。

「ガアぁあッ!?」

男の体はそれなりに筋肉がついていた。だが、殴った瞬間に暴漢が十フィートほど飛んだ理由にしては、説明不足で理解不能だった。人間というより鬼の膂力に近い。
それだけの威力を腹に受けた暴漢は、たまらず意識を手放した。
壁にブチ当たり、肺から漏れた空気が「キュウ」と声帯を揺する。それきり動かない。

「し……死んだ……?」

未だ生死に震える美女の肩は、男の手に包まれた。
優しく撫でられ、美女が男に顔を合わせる。

彼は犬歯を見せた。
いや、笑みを形作った際、うっかりと牙を見せた。

「単に伸びただけだ。死んではおらんよ」

その言葉に、美女が深く息を吐いた。
安堵のため息。

それから、その瞳に輝きを乗せる。

「あ、あの……貴方様は……!」

内心で、男は口笛を吹いていた。

上物だ。これほど美しい女性の心を射止めてみせた。
これならば、対価に血を求めても叶えてくれるだろう。
あわよくば、ベッドの上で、今宵の月を共に味わってくれるだろう。

今はとにかく、美女の感謝を耳にするだけである。

「流れ者、と仰ってましたよね……!
 名前は聞いています……! 各地を旅し、困っている人を助けているという……!」

おお、何という事だろうか。
各地で狼藉をこてんぱんにし、その対価に血を頂いてきたこの自分が、よもやこの美女の耳に名前が届く存在になっていたとは。

思いがけない名誉に胸を躍らせ、美女が自分の名前を呼ぶのを心待ちにする。

「ああ、そのような大それた者ではない」

謙遜するも、美女はとんでもないと首を振る。
両手を合わせ、祈るように上目遣いで、

「『渡り鳥の賢者』様ですね!」

だが、その名前は彼の名前ではなかった。
聞き覚えのない名前に、彼の表情にぽかんと穴が空く。

「……『渡り鳥の賢者』?」

「はい! 村々を渡り歩き、病や怪我を癒やす、賢く清い殿方だと、そう聞き及んでおります!
 ああ、まさか、憧れの方とお目見えできるなんて!」

困惑する自分をよそに美女が盛り上がる中、おずおずと水を差す。

「…………あー。すまんが、それは私とは違う男だ。病や怪我を癒やす事はしていない」

「……え゛?」

それを聞いて、美女の目から輝きが消える。
人間は突然の出来事への反応にこそ、本物の感情が見える。

口角と眉を下げ、目は窄み、手はだらりと脱力する。
美女は、明らかに落胆した。

しかしそれは一瞬である。「残念だけど、折角救ってくれたんだし」というような義理で感情を覆い、苦みに近い笑みを浮かべた。

「え、ええ、ええ。そうですね! わたしったら、てっきり……その、ありがとうございます。とても、助かりました。それではおやすみなさい」

水飲み鳥を思わせるお辞儀を何度も繰り返し、美女が足早に去っていく。

「…………」

後に残ったのは、血を吸い損ねた吸血鬼だけだった。


両親が自分を抱きしめるたび、自分がこんなにも愛されているという事と、そしてこんな風になってしまった理不尽を怒った。

平穏だった家の中で、転がる水瓶を踏み砕いた悪漢を見上げる。

「そこのガキを渡せ!」

「い、い、い、いや、いやです!」

三人家族は恐怖で脚を砕かれ、床にへたりこんでいる。
怯懦の中でも、両親は愛息を挟んで互いに抱きしめ合った。せめて、息子の盾になろうとしていた。

「な、な、なぜ……なぜ、息子なんですか!」

「そ、そうです! わ、私が……私でもいい!」

両親の言葉に、涙が溢れる。こんな事ならば、普段のやんちゃなどせず、父の鍬を振るい、母の水汲みを代われば良かった。
後悔を潰すように、悪漢が汚く冷笑する。

「こないだこの街に来た商人に盗みが入った。そのネズミがそこのガキだ」

「な……なんの話だよ?」

丸っきり記憶にない犯罪に、少年が思わず声を上げる。

「現場にテメェがいたっていう情報が上がってんだ! 文句はねぇよな?」

「あ……あるに決まってるだろ! おれやってねぇ! そんなのウソか誤解だ!」

「じゃあ、家の裏手にあった、このズダ袋は何だ?」

そう言って、悪漢は小汚い袋を掲げた。
それについても記憶にない。見た覚えがあれば、例え忘れていてもはっきりと思い出すはずだ。

「このズダ袋には大層高価なコショウがある。テメェらのような貧乏野郎どもの一生を養えるほどのシロモノだ」

本当の犯人は、盗んでからその換金先のツテがない事に気づいた。
だが既に大事になっていた為に、誰にも知られない内に元に戻すという選択肢が無くなった。
そこで、この少年になすりつけるべく、家の裏手にズダ袋を置き、聞きこみをしていた悪漢に嘘の証言をした。

未熟な偽証だったが、この限られた状況の中で少年が握る反証はない。
ただ、

「違う! おれは、絶対に違う!」

主張するだけしかない。
最後の足掻き、と嘲笑う悪漢は、ナイフを振り上げた。

「テメェの命で償うんだな!」

羊の三人は惨劇に目を瞑る。
神様、と誰かの喉が鳴いた。

果たして――ナイフが振り下ろされる事はなかった。

「っ!?」

数秒の空白。
怪訝に思った三人が目を開け、恐る恐ると様子を窺う。

ナイフは振り下ろすよりも前。早々に肉を捕らえていた。
鋭利な刃を握る赤い手は、悪漢の背後から生えていた。

白髪の男だ。
悪漢を見下ろす形で立っている。
長身痩躯のその体に、白髪と同化しそうなほど白い肌。
痩せているように見えて、油断なく筋肉を備えている。

白髪は笑みを浮かべていた。
苦痛を快楽と捉えている――訳ではなく、脂汗を浮かべ、余裕があると見せる為に表情筋を繕っていた。

「誰だっ、テメェッ!」

誰何の声に、白髪が唸る。

「お前に名乗る名前はない!」

若干芝居がかった声を上げ、男がそのままナイフを奪い去る。
ナイフを遠くに放り投げ、無力化したと思った白髪は一瞬、安堵に息を吐いた。

しかし、その息にすぐさま血が混じる。

「ガアッ!」

「にいちゃん!」

少年の悲鳴が響く。

「はっは!」

悪漢が快哉を叫ぶ。
その手には、先程放り投げられたナイフとは違う、胸ポケットにしまえるほど小さな暗殺用のナイフ。

鋼の煌きは、男の胸に深く沈んでいる。
悪漢の手つきは、単なる素人ではない。
胸骨や肋骨を避け、過たず白髪の肺を、心臓を捕らえていた。

最早、白髪の命はあと数十秒。失血死か心停止かの二択。
激痛で意識を鎖してもおかしくないというのに、白髪はまるで慣れたように食いしばり、意志の碇を現実に絡ませる。

「なっ、なんでまだ意識があるんだ!?」

悪漢に、驚愕という間隙が生まれる。
白髪は拳を握り、悪漢のこめかみ目がけて殴りつけた。

「ぎぃっ!?」

大剣をも振るった経験のある腕である。
勢いをつけた拳は脳震盪を容易く引き起こし、悪漢は落ちた先の床へ、熱く長い抱擁を続けた。

「あ……」

「に、にいちゃん! 大丈夫か!?」

呆気にとられる両親の腕の隙間を抜け、一足早く少年が駆け寄った。

流れる血に阻まれ二、三度手を滑らせたが、白髪はようやく自分を穿ったナイフを抜いた。
滝となって落ちる血は致命的だ。それでも、彼は苦笑してみせる。

「大丈夫、だ……オレは、死なない……」

「死なないって、そんなのウソだろ!」

生死に多く立ち会った事のない少年でも、白髪がまず死ぬであろう予感を抱いていた。
青ざめた肌。震える体。血染めの床。それら全てに死が漂っていた。

しかし、数秒。
白髪の体が一際大きく揺れると、信じられない光景を目の当たりにした。

「ぐっ!」

己の体の脈動には未だ慣れず、白髪が啼く。
見る間に胸の傷が塞がり、血の滝が堰き止められる。
青ざめた月と見紛う肌色は、たちまち血色を巡らせ、鉛と同じ摂氏の体温は正常値に戻り、体の震えが忽然と止まった。

生から死への不可逆な流れの否定。有り得ざるエントロピーの減少。

人外と言うべきその姿を見て――少年はしばし茫然とした。

「にいちゃん……まさか……」

白髪の胸中では、懸念が渦巻いていた。

それに続くのは何であろう。罵倒か、嫌悪か。
いや、それでも自分は、この選ばれた力を以て人々を救う事を望むのだ。

まだ青い彼は自己犠牲に少々酔い、目を閉じて少年の言葉を受ける事を待ち構えた。

「不死身の体で、あちこちの人を助けてきたっていう……!」

罵倒でも嫌悪でもなく、声から零れてくるのは憧憬の思い。

白髪は、図らず頬を綻ばせた。
嗚呼、この身を捧げて人々を救ってきた道程は、かのような幼子の耳にも届いていたというのか。

白髪は待ち構えるのでなく、少年の言葉を待ち望む姿勢に変える。

少年は思わず拳を握り、爛々とした目を白髪に晒した。

「『正義の吸血鬼』だよな!」

しかし、明らかに自分の事ではないであろうフレーズに、思わず脚を崩す。

「……きゅ、吸血鬼?」

「そうだよ!
 夜にしか姿を現さない、弱きを助けて悪を挫く! ……くーっ! カッコいい!」

吟遊詩人から何度も聞いたキャッチコピーに痺れ、少年が一人で悶える。

「ま、まさか……!」

「この人が……!?」

両親も、度々少年から聞かされてきた人物を目前として目を開く。

全く身に覚えのない白髪は困惑し、頬を掻きながら手を振った。

「……いや、オレは吸血鬼じゃぁない」

「……え゛?」

それを聞いて、少年の目から輝きが消える。
人間は突然の出来事への反応にこそ、本物の感情が見える。

口角と眉を下げ、目は窄み、手はだらりと脱力する。
少年は、明らかに落胆した。

しかし、それは一瞬であった。少年の落胆を読み取った母親は、命の恩人である白髪の機嫌を損ねまいとすぐに少年の腕を引いた。

「ふふ、うふふふ!
 あの。ごめんなさいね、その、この子、早とちりしちゃったみたいで!」

「……そういえば、確かに牙もないな……じゃあニセモノのまがいモンガッ!?」

「で、でも助けて頂いて、本当に助かりました!」

少年の失言未遂を拳骨で黙らせ、水飲み鳥もかくやと母親が何度も頭を下げる。

「……はあ」

釈然としないものを抱えながらも、白髪はその感謝を一応受け止める事にした。


夜は深海。
紺青の空間に月白のカーテンが差し、圧で濾された清廉な空気が冷たく沈む。
深層水のように清い空気を、紫煙と併せて飲み下すと、煙草の味が泡のように浮き上がる。

だが、こうして口の暇を潰しても、空腹の気配は紛れない。
昨日の美女が、自分を「渡り鳥の賢者」だと勘違いしなければ、あるいは昨日も血で満たされたのかもしれない。

血は一昨日に吸っただけだ。
昨日のように美女を救い、その褒美として頂いた。

彼はかように生きていた。

むろん彼の力量であれば、人間の一人や二人の血を、思うままに貪る事はできよう。
しかし、それは強引に過ぎる。
いずれ自分が「化け物」として首に金をかけられ、騎士団が討伐に押しかける未来に絞られるやり口だ。
それより何より、美学に反する。

それと、男の血でも生命活動を維持はできるが、彼は美学と共に美食を尊んでいた。
女の血は熟れたワインと比べて遜色ない。芳醇な匂いと深みある味をもたらしてくれる。

美学と美食を満たす為、彼は夜の娼婦街を歩いていく。
警邏兵の目の少ない夜。人の欲望が渦巻く娼婦街は、時として欲望が刃に変ずる事がある。

ここを徘徊すれば、いずれは人を救い、そして己の口を美女の血で濡らす事ができよう。

しかし、と彼は顎をさする。
そろそろ、この方法以外にも模索した方がいい。

常に夜が騒乱を欲している訳ではない。
いずれ、自分一人がこうして行脚するだけでトラブルが転がりこみ、血を頂ける事もなくなっていくのやもしれぬ。
より効率的かつ定期的に、自分の美学に反さず、人間社会を維持して、吸血を行う方法――。

人外の身には過ぎた夢、絵空事だろう。すぐに思考を切り替え、耳を澄ます。
彼の能力は、何も膂力だけではない。獣のように鋭い聴覚は、鼠の足音すら聞き分ける事ができるだろう。

煙の火を消し、鼓膜を張る。
瞑想にも似た精神集中が、遥か遠くの悲鳴をも捉えてみせた。

二時の方向。すぐさま彼が駆け出した。
速度は矢のようでありながら、足音も立てず、滑るように走っていく。

発生源への道は血管のように数多枝分かれしているが、ここしばらくの滞在でその多数を把握している。
迷う事なく脚を回し、足の速度と耳の精度により、数分も経たない内に惨劇の種を見つける事ができた。

右腕に酒瓶を持った暴漢と、その左腕の中に捕らえられ、逃げる事のできない女。

「いや! 離して!」

「へへへ、もう逃げられねえぞ!」

一つの激情は劇的だが、複数回目にした劇場は全く陳腐なものである。
決まって揃いの台詞を交わすその間に、茶髪が割って入ろうとした。

「待て」

ありきたりな制止を第一声とする機械仕掛けの神(Deus ex machina)を演じようとしたところ、その神は台本を奪って茶髪とは反対の方向からやってきた。
年若く見える、白髪の男だった。

「誰だ、テメェは!」

闖入に心を荒げた暴漢が、声に心を現した。

白髪は、劇看板の「二枚目」といった演技である。
彼は大仰に手を振り、皮肉を演じた。

「少なくとも、吸血鬼じゃぁない」

「吸血鬼」というピンポイントな単語に、茶髪が微動する。
その微動で、ようやく茶髪を意識に捉えたとばかりに、白髪が苦く笑った。

茶髪に制止の手を挙げて、ちっちと気障に舌を打つ。

「言っておくが、これから起こる事は見世物としては刺激が強い」

言外に「去れ」を含ませた物言いに、茶髪の男が牙を見せ笑い返す。

「それはいい。少し退屈していた所だ」

白髪が、茶髪からの不敵な笑みに訝しんでいると、いつの間にか蚊帳の外になっていた暴漢が割って入る。

「おい! テメェら、とっとと帰れ! 俺はこの女と話がしてーんだ!」

白髪が軽快に答える。

「その話で死体が出ないなら、そうしてやろう」

暴漢の頭から血管と痺れが切れる音が響いた。

「死ねえぇっ!」

暴漢は持っていた酒瓶を振り上げ、白髪に振り下ろした。
だが、白髪はすぐに両腕を交差させて掲げ、酒瓶の衝撃を、クロスさせた腕の根本で緩衝させる。

「このッ!」

暴漢は女と酒瓶から手を離し、「きゃっ!」という悲鳴と、ゴトリという酒瓶と石畳が衝突する音が広がる。酒瓶は割れないほど丈夫だった。
突然解放され、よろける女に茶髪が近寄り、この騒動に巻きこまれないよう抱き寄せた。

暴漢の目には、白髪への殺意しか浮かんでいない。よその二人を気に留めず、白髪の交差する腕につかみかかる。
白髪は暴漢の腕をあしらい、同時に長い脚が暴漢のアキレス腱を鋭く叩く。

「痛ぇエ!」

足元への衝撃にバランスを崩し、暴漢は石畳に倒れる。
その手元に落とした酒瓶が触れ、暴漢はつかんで立ち上がった。

再度振り上がる酒瓶。白髪は二度目の未来に備え、またも両腕を交差した。

「――ッ!」

しかし、白髪の予測が外れる。

暴漢は、立ち上がりぎわ、自分の頭の角度を斜めにした。
その先には、腕を上げてがら空きになった鳩尾がある。

勢いをつけた頭突きが入り、今度は白髪の身が石畳に投げられた。

「があああッ!」

暴漢の恨みの叫びと共に、振り上げたままの酒瓶が白髪の頭に下ろされた。

「いやあっ!」

酒瓶は頭の中に陥没した。白髪が血の赤と脳の白で汚れていく。
悲鳴と共に、女が目を覆った。茶髪が聞こえない程度に舌打ちする。
いくら自分が人並み外れているとはいえ、女を抱えてあの無謀な白髪をも救える訳がない。

白髪の四肢が石畳に放り投げられ、仰向けのままぴくりともしない。
思考を司る頭部を破壊されたのだ。当然である。

「へへっ、死体、出ちまったな」

数分前の白髪の意趣返しを吐き捨て、暴漢が血の滴る酒瓶を持ち直す。
そして茶髪と女の二人に視線を向け、興奮の泡を吹き、叫んだ。

「おら! さっさとその女をよこせ!」

「渡してそこの青二才と同じようにするのかね?」

「そいつの態度によるなぁ!」

「ひっ!」

暴漢の睨みに女が当てられる。
茶髪は女を抱きしめていた腕を解き、暴漢に立ち塞がった。

「テメェもアレと同じにしてやるよォ!」

酒瓶に殺意を乗せ、暴漢は横からの殴殺を試みる。

「――ッ」

細く静かな呼気と共に、茶髪は拳を握りしめて体を反らす。
それは攻撃をかわすと同時に、弓を引き絞るような反撃の準備。

「――マッパハンチ!」

声が喉から吐く。拳が顎へと突く。

「っぃガッ!?」

ただ一箇所への衝撃。だというのに、暴漢の体が数フィート空に上がる。
暴漢の全体重を浮かすほどの力が、顎伝いに脳へとショックを与えた。

石畳に暴漢が落下すると、転がったまま起き上がる気配もない。完全に伸びている。
熱くなった拳を振り、茶髪は女に向き直った。

「お見苦しいところをお見せしてすまなかった、レディ。よろしければ、その手に口づけてもよろしいかね?」

茶髪がかしずき、見上げて牙を見せる。

「えっ……?」

女は困惑していた。

――いや、無理からぬ話だろう。
――暴力の場面に次々と遭遇したのだ。
――か弱いレディには、少々刺激が強すぎる。

彼女が冷静さを取り戻すまで待とうとしていたが、女は口を押さえて、それでも抑えられない悲鳴を上げた。

「いやーッ!」

すぐに女がその場を逃げ去る。

「ど、どうしたのだね? レディ!」

別に、自分は怯えさせるような態度をしてはいないはずだ。
では何故……? と首を傾げているところに、視界の端でびくりと蠢くものがいた。

白髪だった。

「……?」

頭部が破壊されれば、間違いなく人は死ぬ。
死体となった彼が自律的に動く事はないはずだ。だというのに――。

「――ククッ」

白髪が、笑う。
不敵な笑みを浮かべ、仰向けの顔は天を向いたまま。

「貴様の悪行は、やはりここまでだな」

……彼の中では、まだ暴漢との闘いが続いていた。
いや、仕方がないのだ。何しろ、白髪が脳を損傷して以降の話は、聞こう見ようにもできなかったからだ。

故に、白髪のタイムラインは自分が殴られた時と現在とが地続きになっている。
茶髪が暴漢を倒した事など、知るよしもない。
白髪の足元に暴漢が転がっているが、彼の目は月しか見えていない。

血で染まった髪を振り、白髪が勢いよく起き上がり、朗々と口上を立てた。

「オレは不死の身を以て人々を救う『渡り鳥』だ! 貴様の殺意がどれだけ研がれようとも、このオレを殺――す、には……至らない、が……」

途中で気づく。
起き上がって、自分のすぐ近く。意識を失った暴漢が倒れている。
そして辺りを見渡せば、どう行動すべきか悩み、どうしようもなく頬を掻く茶髪の男が一人。

「…………」

気取った口上が空ぶった事に、白髪は頭を抱えた。
茶髪は少々呆れたような口ぶりで、

「まあ、泣くような事でもあるまい」

「泣いてなどいない」

ただひたすらに落ちこんでいるだけだ。
気まずい無言が空間を占める中、茶髪がパイプを取り出しがてら、そろそろと口を開く。

「その、君は……あー、『渡り鳥』と言っていたが、『渡り鳥の賢者』かね?」

「……そうだ」

茶髪がパイプを咥える瞬間に、その鋭い牙を見る。
白髪はよもやと浮かんだ疑問を口に出した。

「お前が、『正義の吸血鬼』か?」

「恐らくは」

互いに互い、未知の単語を既知に置換する。

茶髪は空いた腹をさすり、白髪をちらと見やる。
――結果的にこの白髪は、自分が甘血を得る切欠を再度潰した。

一方の白髪が視線に気づき、鍔迫り合わすように拒絶する目を交わす。
――結果的にこの茶髪は、自分が栄誉を受く機会を双度壊した。

互いに互い、「好けない」といった感想が浮かび、渦を巻く。

茶髪のパイプの紫煙は感想の渦を表しているようで、その禍は白髪の顔にまとわりついた。
煙を火種にしたように、白髪が撃鉄を起こすように口を開く。

「……オレは、昨日もお前に阻まれた。
『正義の吸血鬼』様に勘違いされて、助けた人間から感謝の言葉を聞けなかった」

茶髪は、明らかに自分を非難する声色を感じ取った。

「それは私も同じようなものだ」

「そんな事は、オレの知った事じゃぁない」

「私も同じ状態だがね」

火種はささやかなものでも、くべる燃料があれば炎となる。
互いにわずかな不快を交換し合うと、後ろ向きの相乗効果が発生した。

静かに燃え上がるのは、相互に矢印を向ける敵対心。
「我ながらまだ青いものだ」と自覚と自嘲を携えながらも、茶髪は決して穏当ではない台詞を隠せなかった。

「私は血を頂く為にこういった事を続けている。
 これは私の生命活動の一部だが、君の独善は、ただの自己満足だろう?」

己の善意の、人間の感情を持っている事の証明。
悪性の表現に証明を切り捨てられ、白髪は目を窄めた。

「人間を食って生きている化け物とは違う。お前の行為は利己的だ。
 オレは真に、人の為になっている」

どちらも、手を引くつもりはない。

「『人の為になっている』かどうかを、それをしている人間が決めるのはおこがましいとは思わないかね?」

「証人でも立てろと? あるいは最後の審判が来るまで待つか?」

「そんな事は、人の口が証明してくれる」

二人の善行は、吟遊詩人が「正義の吸血鬼」と、「渡り鳥の賢者」と謳われている事で証明される。

「……なら、オレがお前よりも先に、この街の歌に上がるようになれば、オレの方が正しい」

敵対的な比較は、「競争」を唆した。

「では私の方が正しいのであれば、君は早々にどこか別の所に渡って欲しい」

「ならば、オレが正しいと貴様が出て行く事になるな」

目が交差した所から、火花が散る。

こうして――やや傍迷惑な「狂騒」が始まった。


翌朝から、白髪は行動を開始した。

相手は吸血鬼。太陽の下での活動は鈍るはずだ。
であれば、日中を行動時間とする人々を相手にすれば、同じパイを奪い合う事はない。
それに、人間は昼行性の生き物が多い。
それは、自分の知名度を振り撒く対象が多いという事でもある。

そう考えれば、むしろあの吸血鬼が可哀想にも思えてくる。
含み笑いを抑えきれず、白髪の笑みを見た患者が不安げに問いかけてきた。

「あの……本当に、大丈夫なんですかね?」

今、白髪はとある家で寝こんでいた猫背の男と対面していた。
彼の家族が、白髪を「渡り鳥の賢者」と見こんで連れてきたのだ。

白髪は含み笑いを変転させ、見る者を安堵させる為の笑みを被る。

「大丈夫だ。この症状は前にも見た事がある」

患者の病状を索引に、過去の書庫から知識を引き出す。

「これは北の方で発症が多い。だからその分、そちらの方の知恵が発達している。
 その知恵を借りるとして、曰く原因は『神と離れたが故』だ」

「神と……!?」

偉大なる聖名(みな)を唱えられ、猫背の男が縮こまる。
怖々と震える男をなだめるよう、白髪が淡々と説く。

「あくまで比喩だ。実際のところは、太陽と魚から離れた事による病だ。
 ベッドは窓辺に寄せて日の光が当たるように。魚は内臓ごと食べればいい」

「魚は……高い。手が出せない」

「なら茸、特に干したものがいい。それと山羊のチーズかバターが効く。
 いずれにせよ、治る病だ。症状が軽くなれば外を歩くといい。二年ほどで完治する」

「おお……!」

希望の光を見出し、猫背の男が拝むように手を合わせた。

「ありがたい……医者に高い金を払って見てもらっても、首をひねるだけで終わってしまったんだ……。
 それが……『渡り鳥の賢者』様に見ていただいて、本当に助かった……!」

「ああ」

空返事をしながら、内心で皮肉が浮かぶ。
――こうして他人の病を治しても、己の不死の病は治せないのだな。

用の済んだ白髪は、きびすを返して部屋の扉を開きくぐる。
続く居間には、祈るように手を組んでいた家族がいた。

「あ、あの、父は……」

「心配はない。治る」

白髪の無骨な返事とは正反対に、家族は感涙して深く腰を折った。

「ありがとうございます……!」

血の通う人間からの感謝を受けて、白髪は内面で密かな充足が湧くのを感じた。
その熱こそが自らが生きているという証だ、と思いこんで、白髪は対価を慎ましく受け入れる。

「礼には及ばない。オレが知っている事を知らせたまでだ」

それで会話を切り上げて、同時に足上げ家から出ようとした。
家族は白髪の様子を見て、その背中に声を投げる。

「恐れ入りますが、食事程度は用意してもよろしいでしょうか?」

提案と同時に、間の悪い腹が音を立てた。
頬を掻き、ばつが悪い白髪が足を返す。

「……なら、招きに与ろう」


未だ排煙も蛍光灯も知らない夜空であるが、都市部を離れれば一層の輝きを見せている。
さんざめく星光の下、山麓の崖下で無粋な男たちが宴を催していた。

「――それでは、今宵の酒を供していただいた商人様に、」

『乾杯!』

木製のカップがかち合う音があちこちで鳴った。

粗野な男たちは下品な笑い声を上げ、口上に掲げられた当の商人は輪から外れた場所で震えていた。
崖を背もたれにして、痣と血痕にまみれ、腕と肢には荒縄がかけられている。

つまりは、男の集団は盗賊であり、商人は羊であった。

逃げようとは思えない。逃げればすぐに暴力の雨が降る。
それでも、決して安全と言えないこの場への恐怖から震えは止まらない。

「おうおう、楽しんでないみたいじゃねぇか、なぁ?」

「ひっ!」

ビアを片手に、男が商人に近づく。

「そう怯えるんじゃねぇよ! これから長い付き合いになるんだぜ?
 アンタが生き永らえる代わりに、稼いだら稼いだだけ貢いでくれる契約なんだぜ! 全くいい契約だぁ!」

「そ、そんな……」

「飲んでねぇだろセンセェ? ホラ、おれの酒をおごってやるよ!」

男は手にしたビアのカップを、商人の頭上で逆さにする。
重力に引かれた生温いビアは、商人の服を更に汚していった。

「はっはははははっ!」

弱者をいたぶる快楽に酔う男が、笑い声を上げる。

「はははは――ぐげぇっ!?」

「いっ!?」

突然、自分の横で昏倒した男に、思わず商人が悲鳴を漏らす。
異常を察知した二人の男たちが、倒れた仲間と商人を見比べた。

「おい! おれたちの兄弟に何しやがんだ!」

「ち、違う! わたしはやっていない!」

「あぁ? ここにはもうテメェを守る護衛もいねぇんだぞ! テメェしかねぇだろうが!」

詰め寄る二人。これから起こる惨劇に身をよじる商人。

「ぃぎゃっ!?」

そしてまた、突如として一人の男が倒れた。

商人は縛られたままだ。何かをしかけるはずがない。
その証拠を目の前にして、ようやく商人の無罪を飲みこみ、もう一人の男が周囲を見回した。

「だ、誰だっ!?」

「――私だ」

大声を上げた訳ではない。しかしその声の存在感は、饗宴を静やかにさせるほど大きかった。

皆が皆、崖を見上げた。
そこには、月光を背にした茶髪がいる。

手慰みに、拳大の石を投げてはキャッチを繰り返し、それが男を昏倒させた原因だと知れた。

「あまり紳士的な手段とは言えないが――。
 君たちほど数がいると、流石に手は考えなければならない」

茶髪を外敵と認めた盗賊の首領が、鉈を振り回した。

「ええい、降りやがれ!」

無料(ただ)で地の利を手放す訳にはいかんよ。金品をそこの商人に返して、足を洗うという契約なら、契っても構わんよ」

「あぁ? 何バカ言ってやが――ぎゃがっ!」

首領の額に投石が当たり、気絶する。
一瞬の沈黙。すぐに怒声が湧き上がった。

「図に乗るんじゃねぇ!」「生意気だ!」「殺してやるぅ!」

湧き上がる男たちに構わず、あくまで冷静に茶髪が投石を続ける。
掻き集めた石は、足下に山となって重なっている。
その山から石が減るたび、立っている男も少なくなっていく。

「行くぞぉ!」

だが、黙って的になっているほど盗賊は殊勝ではない。
切り立った崖はそのまま登る事はできず、回りこんで坂を行軍する。

「ぎぃあぁっ!」

それでも、茶髪の投石が止まる事はない。距離が離れているというのに、何と恐ろしい命中精度と速度であるか。
倒れる仲間を踏み越えて、男たちはようやく茶髪と相対した。

崖上には、針葉樹がぽつぽつと生えている。その間に挟まれるように、茶髪はいた。
既に不要となった石の山を足で崩し、茶髪は不敵にパイプを揺らす。

「これが最後なのだが、投降はしないのかね?」

「へっ、その言葉、そっくりそのまま返してやるぜ!」

多くが倒れたとはいえ、少なくない数の盗賊が群れている。
相手の地の有利を潰し、数の有利を実感する盗賊たちは、余裕ぶって振る舞った。

やれやれ、と茶髪は肩を竦めた。

茶髪の足は石の山から、針葉樹の根本へと素早く移った。
鈍い衝突音と共に針葉樹の根本が抉れ、傾く幹を茶髪の両腕が抱き抱える。

「ふんっ」

筋肉に押し出された肺の呼気と共に、針葉樹の根本と幹が折れ分かれた。
尋常でない膂力によって針葉樹を持ち上げた茶髪を見て、盗賊が冷や汗を垂れながら、

「……その、交渉しませんか?」

「すまないが、期限切れだ」

返事と共に、茶髪は針葉樹を振り回した。


「――それで、本当に凄かったのですよ! あの『正義の吸血鬼』は!」

「はぁ」

ため息交じりの相槌を打ちながら、白髪は商人の話を聞き流す。
未だ自分の感情を偽るに熟達できず、微笑を務めようとしても口端が痙攣する。

どうにも憎らしい。
人が好むのは、地味な癒術よりも派手な英雄譚である。

事実、白髪の癒術を待つ人の列ですらも、「吸血鬼?」「知らないのか? 盗賊団を潰した事で有名だぜ」と口々に噂する。
このままでは、知名度対決は吸血鬼に軍配が上がるだろう。

いや、しかし、と頭を振る。自分は神を代行すべく生きているのだ。あんな勝負など二の次である。
だが、しかし、と心が逆む。正直イラつく。あの煙管が揺れ笑う様を思うに、畜生と吐く渦がある。

憎しみをこめて薬草を潰し、苦い芳香が立ちこめた。
草汁を商人の傷に当てつつ、何とはなしに訊いてやる。

「癒えるのは一週間ほどか。ここにはどれほど滞在する?」

「ん? ああいや、一日二日で退散するつもりですよ。
 何しろここは物騒ですから。ええ、商品を仕入れたらすぐにでも」

「物騒?」

確かに、都市部なら人が多い分、人間同士が擦れ合う故に軋轢はある。
だが、その作用の範疇ではあるはずだ。計算外なまでに事故・事件が溢れている訳ではない。

眉根をひそめる白髪を見かねたように、声量を絞って商人が囁いた。

「あなたが『いい人』だから言いますがね、ここには暗殺組織があるんですよ。
 最近だと、二人の貴族サマの権力争いが激化していると専らの噂でしてね。どっちが、誰が殺されるか分かったもんじゃありませんよ」

商人の傷に洗った綿を当て、その上から布きれでぐるぐるに巻く。

「話は分かった。ありがたい。
 これで治療は充分だ」

「へえ。こちらこそありがたいもんですわ。他の医者ならもっと高い金を払うもんでして」

これはほんの礼、とばかりに、白髪の手に銀貨を握らせる。
そして商人はそそくさと扉の奥に消えていった。

「……次」

白髪の言葉に、腕の曲がった女がその扉から入ってきた。

白髪が今いるのは、とある宿屋の二階、その一室である。
寝泊まりするのもここであるが、昼間はこうして病人や怪我人を相手する、簡易な診療室になっていた。

宿の主人に迷惑をかける、と懸念していたが、それは単なる杞憂に過ぎた。
階下では、回復祝いの祝杯がぶつかり合う音が上がっており、商売繁盛といった所である。

数多の傷病を見て、それらに適切な処置を施す。
それだけで、机の上に展開された懐中日時計の影が伸びていく。

「…………次」

その声を扉の空白に投げかけて、誰も来ない事に気づく。
誰も聞いていない空ぶりの声だが、繕うように咳で払う。

机の上に広げていた薬草や、清水の入った深皿を片づけ、最後に懐中日時計のリングをくるりと回してしまいこむ。

窓から差しこむのは橙色と藍色が組み合う外光。
眩しそうに目を細めて、白髪は扉をくぐった。

階下へ続く階段を降り、疲労した体を喧噪が包む。
引き返して自室のベッドに転がりたい願望を檻に押しこみ、酒場のカウンターに近づいた。

宿屋にして酒場の主人は、白髪を見るとすぐに駆け寄り、何も言わない内からジョッキにビールを注ぎこんだ。

「お陰様でこの盛況ぶりでさぁ。これも賢者どのの腕に感謝しなきゃいけやせんねぇ」

「ああ」

あちらでテーブルを囲う男衆も、主人に釣られて「賢者どの、万歳!」と乾杯の口実にする。
酒臭さに鼻を擦り、注がれた善意を一気に飲み干した。

二杯目を注ごうとする主人を手で制し、自分の中での本題を持ち出した。

「この街で有名な貴族が二人いるらしいな」

「ん? あ、ああ。いりやすねぇ。政治を耳にしないあっしにゃ名前は知りやせんが。
 北の『隻眼男爵』と、南の『鷲飼男爵』がいますんが、ちょっくらそこらの事情が物騒でしてね」

「どちらがどうか、という事は分かるか?」

「んま、まあ、ほんの針先ほど知ってる事ぁありやして。
 最近じゃ、北のが有利で南のが不利だってさぁ。ちょっと大きな声で言えやせんが、北が色々手を回した、らしいそうで」

その情報を握り、白髪がカウンターから離れる。
白髪が外套を羽織り、店の外へと歩み始める。

「礼を言う。それだけ分かれば充分だ」

「賢者どの、どちらに行かれるので?」

「酒気を醒ます」

白髪は、嘘を言い残して去っていく。


日ごとに痩せていく月を眺めながら、隻眼の男が銀杯を揺らす。

「月が満ちれば、後は欠けるまでだ。
 (さく)になるのもそう長くはない。あの鷲飼の名誉も、それまでだ」

ワインと水が混じった薄紅色を口に運び、飲み干すと体を脱力させた。

「これで、私が南もいただく」

喉で笑い、隻眼は窓から遠く南を見つめる。

あの鷲飼は、最早爵位すらも維持する事ができないであろう。
元より、あれは汚らしい男なのだ。当然に帰るだけだ。

身を落とす鷲飼の姿を想像して、いっそ爽快な気分にすらなってくる。

「さて……」

本棚から気に入りの詩集を取り、上等なベッドに腰かける。

刹那。

「ッ!?」

ベッドが変形する。
いや、そうではない。ベッドのマットは人間の形にくり抜かれていた。
そして、そこに暗殺者がいた。

首に、ぞっとするほど冷たい金属の感触。
暗殺者は、隻眼の耳に命令をねじこむ。

「――動くな」

隻眼は目を見開き、背後の存在を推測した。

「鷲飼の子飼いか!」

「否。鷲飼と我々は単なる客と商売人の関係だ」

「……まさか暗殺組織が、噂ではなく本当にいるとはな」

隻眼の冷や汗が頬を伝い、首を伝い、刃を伝う。

「私は国王陛下に鷲飼の醜態を伝えただけだ。潔白のこの身を斬れば、貴様の魂は地獄に落ちる」

「我々は元から地獄にいる。場所が変わるだけで何となる」

「神は私も貴様も見ている!」

「見ているだけだ。孤児であった、唾棄されていた、我々を救おうとすらしない!」

単なる仕事への意志だけではない。強者への妬みを乗せて刃が食いこむ。
薄く開かれた傷から血が零れる。しかし興奮からか、隻眼は痛みを感じなかった。

「神よ! この者に裁きを!」

「神などクソ食らえだ! そのクソったれごと死に絶えろ!」

叫びと共に、短剣の刃が一瞬離れる。
速度をつける為の助走。その離した距離は、ある瞬間を境に縮小へと転ずる。

「神よ――!」

祈りは果たして、窓から願いが滑りこむ。

「ぎぃっ!?」

月色の髪と肌をした男が、部屋に乗りこみ暗殺者の腕を蹴り上げた。
腕の先にある短剣は指から離れ、隻眼の足を掠って絨毯に刺さる。

「ぅわっ!」

一インチずれていれば、足の肉を抉っていた。隻眼は悲鳴を隠し切れない。

「……酔っていなければ、そんな所に落とさせたりはしなかったが」

白髪が舌打ちし、短剣の柄を踏む。
短剣の刃は完全に床板の中に埋没し、手で引き抜くには困難を極める。

一つの凶器を無力化され、暗殺者はすぐに第二の短剣を取り出した。

「死ねぇっ!」

切っ先は隻眼ではなく、妨害者である白髪へと向いた。
白髪は――指を切り落とされるという躊躇もなく、右手で刃を握り、痛みに震えながら嘲笑する。

「……オレが死ぬ事など、できるものか!」

白髪は暗殺者の脛を蹴りつけた。

「ぐげぇッ!」

急所を的確に打たれ、暗殺者が昏倒する。
白髪は暗殺者をうつ伏せに、手を後ろに回させた。

「シーツを取れ。縛る」

「あ、ああ!」

隻眼がベッドからシーツを剥ぎ、暗殺者を言うがままに縛り上げた。
布が軋むほどにきつく締め、無力化を確信して息を吐く。

安堵により、隻眼は生存から好奇へと優先事項がすり替わる。

「君は、誰だ? 何故、ここにいる?」

白髪はシーツの端を引き千切り――怪我を止めるというより隠すように――右手を縛る。
それから隻眼の質問に優先権を移し、ここへの経緯を口述した。

「南が劣勢ならば、静観していても北が勝つ。手を下すまでもない。
 博打を打つのは、いつであろうと劣勢の側だ。今夜より張りこもうとしたが……その今夜の内に尻尾を出すとは」

「張りこみ? 何だ? 君は一体何者なんだ?」

未だ混乱の中にいる隻眼に、彼の祈りを引用してふっと苦笑した。

「あるいは神かもしれない」


釣鐘を鳴らし、宣伝手が声を張り上げる。

「南の鷲飼が! 暗殺者を北の隻眼に送りこんだ! 隠匿されし鷲飼の尾を見たり! その尾羽の黒い事か!」

明朗に響き渡る声で、目が覚める。
それを聞く人々のざわめきすら、彼の耳に聞こえた。

誰も寄り付かない廃屋で太陽をやり過ごしていたのだが、聴覚から睡眠を妨害されてしまった。
埃臭いベッドから起き上がり、頭を振る。

美女の血もこのところ吸っていない。そんな不健康の中で、更なる不機嫌が上乗せされた。

「――隻眼を凶手より守りしは、かの『渡り鳥の賢者』殿である!」

人々の賛美の声が聞こえ、茶髪が握るシーツがぐしゃりと皺になる。

盗賊団を壊滅させた事実を流布するのは一般人である。
それは単なる噂に過ぎない。だが、それを公正な宣伝手が口にすればどうなる?

確実な手柄を人々に知らしめたのはあの白髪の野郎である。思わずFの字をつぶやきそうになり、寛大な紳士的精神で抑えこむ。

ああ、青い。我ながら未だ青い。
頬に自嘲を、額に青筋を浮かべ、茶髪が立ち上がる。

血液不足に日中活動が重なる。
だが居ても立ってもいられぬのだ。

廃屋から日光の下へ身を動かす。
足音を立てて道を行く中、酒場から出てきた、夫婦らしい二人組が目を引いた。

顔の青い夫を、妻が杖となって支えている。
妻は涙を流して夫を見つめて、「絶望」というものをその顔に刻んでいた。

茶髪はすぐにその二人へ駆け寄り、妻に声をかける。

「どうなさった、ミセス」

訊かれた妻は、しゃくり上げつつも事情を開けた。

「夫が……酒に、毒を、入れ、飲まされて……『賢者』様に、行って、言ってみても……こ、今夜を、越えられないだろう、と……」

つまりは、あの白髪が匙を投げた患者であった。
茶髪の目が光る。これだ。

彼は妻の両手を取り、沈痛な面持ちで目を伏せた。

「それは労しい……しかし、それを嘘にするとしたら、どうだろうか」

「な、何がですか?」

茶髪は懐から革袋を取り出すと、中の物体をカラコロと鳴らし、

「これは、私の知人――いえ、狐印の丸薬でね。
『バックヤード』――いや、東洋の奇跡が詰まったもので、あらゆる病と毒を払う……と、いう触れこみだ」

「は、はあ……」

半信半疑、というより七割ほど「疑」に天秤が傾いている様子である。
しかし、藁にも縋る思いで、妻が夫を揺り動かした。

「あなた、少し、口を開いて」

それを同意と見なし、茶髪が革袋から真っ黒な丸薬を取り出した。

「う、ううん……」

口を開く事すら難儀する夫の口に、丸薬を放り投げる。
夫の喉がごくりと鳴った瞬間。

「――う!? うげえっ!」

夫は、胸を叩いて苦し気に暴れ出した。

「あなた!」

夫の異常行動に、妻が悲鳴を上げる。
妻は恐る恐る茶髪に目を向けると、疑いの眼差しを形作った。

「まさか……あなたは、夫に、とどめを刺そうと……!?」

茶髪は慌てて手を振り、必死に否定を伝える。

「いや! そんなつもりでは無いのだが……!」

まさか悪戯の品でも押しつけられたのか、と後悔する茶髪。
その後悔を払拭するように、夫が続いて叫んだ。

「不味い! 苦い! 辛い! 酸っぱい! とにかく不味い! 不味すぎる!」

口にするのは、苦しみというより、丸薬への苦情だった。
その夫の様子を見て、妻の表情が茫然とする。

「あなた! さっきまで口が回らないくらいだったのに……!」

「ん? ……あ、ああ! そういえば!」

見れば、真っ青だった顔色も赤くなり、生気に溢れている。
「賢者」にすら見捨てられ、絶望の淵に立っていた夫だったが、今や妻に支えられずとも二本足で直立できるほど元気を取り戻していた。

「おおおおっ! 生き返ったッ!」

歓喜の声と共に、夫は確かめるように足を踏み鳴らす。
その音の力強さといったら、周囲の注目を集めるに足りる。

図らずも茶髪の広告台になった夫は、周知するような大声で彼を讃えた。

「ああ、何と素晴らしい! これは『賢者』を上回る、『大賢者』と言っても良いのではないでしょうか!」

冗談と賛美を同時に謳われ、茶髪が苦笑で受け取る。
どちらかといえば「知人」の功績が過半であるが、まあ、それはそっと置いておく。

「貴方の名は一生忘れません……! ところで、貴方の名前は?」

「いや、名乗る程の者ではない。強いて言うならば、『吸血鬼』とでも名乗ろうかな」

「『吸血鬼』! ああ、あの『正義の吸血鬼』で!」

更にヒートアップする夫は、肩を叩く妻にも気づかず茶髪の手を握った。

「まさかこうしてお会いするとは! ……昼なのですが、その、日光は大丈夫なのですか?」

「ちょっと痛い程度だ。気にする事はない」

「おお、それは良かった! いやはや、私ただの一警邏なのですが、やはりこう、正義の為にある存在というものには憧れが――」

「あなた!」

夫の袖を強く引き、妻が水をかける。

「ご迷惑ですよ。そろそろ行きましょう?
 ――ああ、『吸血鬼』の方、ありがとうございました! 今度甘いケーキを焼いてきますので」

まだ言い足りないと口を噛む夫を引きずり、妻は帰り道を歩き出す。
夫婦二人を見送り、残った茶髪は睡眠不足の頭を抱えて帰り始めた。


夜、暗闇の中で灯る蝋燭を囲む。
彼らは複数人であり、いずれも同じ黒装束を着こんでいた。

肌を見せず、顔を見せず、夜闇に溶ける衣装を揃え、彼らはただじっと蝋燭を見つめる。
蝋燭に殊更の装飾がある訳ではないし、それを見ている事が有益な事でもない。

「……それで、失敗が続いたのね」

首領である女性の目を見る事が、何より恐ろしいからであった。
放棄された地下墓地(カタコンベ)の湿気もさる事ながら、その雰囲気を重々しくしているのは、言葉にするには酷な「失敗」の報告である。

「売女も、少年も、隻眼も警邏も、誰一人として暗殺できなかった、と」

胡椒泥棒の濡れ衣を着せられた売女は、茶髪によって守られた。
同じく、冤罪を被せられた少年もまた、白髪によって救われた。
「隻眼男爵」の暗殺の刃は白髪によって奪われてしまい、
致死性の毒を盛った警邏は茶髪によって解かれてしまう。

唇に差した紅が火にゆらめき、女の豊満な胸が揺れる。
蠱惑的ですらある景色に、しかし彼らは怯えた。

「一体いつから、わたしたちは暗殺組織からガキの遣いになったのかしら?」

言いながら、最後の報告をした組織員を一瞥した。
そして靴音すらなく、蛇より静かに近寄る。

眼前にまで顔を近づけ、目を合わせる。
彼女の髪が蛇でなくとも、体がたちまち石になる。

その肉が砕かれないよう、慌てて保身を口走った。

「それら全てに、かの『渡り鳥の賢者』と『正義の吸血鬼』が絡んでおります」

「『賢者』? 『吸血鬼』?」

鸚鵡返しに反復した後、頓狂な御伽噺でも聞いたと言うように、首領が笑う。
だが、目は一切笑っていない。未だゴルゴンのように研がれている。

「そうね、まるで子供騙しな、素敵な英雄のようじゃない」

首領は目を細め、逆に口は裂くように吊り上げた。

「そんな英雄さんの晩節を汚さないようにお手伝いしましょうか」


日時計の影なる針が薄く伸び、窓の下では夜に備えて提灯を持つ夜警がせせこましく歩いている。
患者の列も途絶え、白髪は日時計を畳んで懐に入れた。

当初こそ、以前から病んでいた人間たちが殺到していたが、このところは落ち着いている。
一抹の寂寥を浮かせながら、夕餉の為に階下へ降りる。

白髪の姿を見つけ、元患者たちは静かに歓声を上げた。
同時に、白髪は溜息を吹く。

自分の善行は、最早「存在する事が自然」となったのだろう。
それに諸手を上げて讃える事はない。

いつしか、「自然」は「当然」に変わるのだろう。
そうとなれば、その当然の存在が去る事になれば、背に受けるのは激励ではなく罵倒になるだろうか。

「いつか」のように。

悲観的な予感を抱くも、彼が酒場のカウンターに着いた途端にグラスが置かれる。

「患者さんから差し入れでさぁ」

グラスには白い液体が湛えられている。透かして向こうを見る事もできない程に濃い白をしていた。

「何だ、これは」

獣乳のようであるが、水面の揺れ具合からして、それよりは粘性のある何かである事には違いない。
「賢者」の目からしても知れない液体に、カウンター奥の主人が肩をすくめた。

「あっしも知りやせんでしたが、山羊乳の乳酒と言ってやした」

「乳酒?」

「あっしの親父も、親父の親父も酒場やってますがね、果物だ蜂蜜だ麦だ何だの酒は見た事ありやすが、乳の酒は見た事ないですねぇ」

「それなら、東のものかもしれないな」

そういなしながら、一滴を咥えて検分するように舌を回す。
確かに、乳成分の甘味が先行するが、酒の苦味と発酵による酸味が感じられる。

別段、悪くはない。が、驚くほどのものもない。

昼の休憩ぶりの水分として、グラスを一気に傾ける。

飲み干した際、口に異物を感じた。
吐き出すと、くしゃくしゃの玉になった小さな黒布。

「……何だ?」

広げれば、それは蝙蝠の形に切り抜かれていた。
この状況で蝙蝠。否が応にも、あの茶髪の影が浮かぶ。

だが、こんな事をするのか?
あの茶髪のものなのか?

「まさかな」

頭を振り、自問に否定を自答する。
空にしたグラスを主人に返し、問いを添える。

「これを渡したのはどのような人間だった?」

「はぁ。まあ、結構な別嬪さんでございやした」

時流の糸に垂れ下がった記憶を、引き寄せる。

女の美醜というものの感性は敏くなくなっていたが、それでも別嬪と称されるような患者に心当たりがない。
不健康な女というのは大体が老女であった。あとは顔に疔がある女であったり、殊更痩せていたり太っていたりしたものだった。

考えを切り替えるに、美女というようなものは、突き詰めれば特徴的な欠陥のない人間という事だ。
故に記憶に残っていないのかもしれない、と、些事にそう結論づけ、白髪は席から立ち上がった。

白髪が二階に上がる。
階段を踏む足が、妙に重い。

酔いからか、足元がおぼつかない。

……いや、乳酒の味に強いアルコールは感じなかった。
となれば、この千鳥足は何だ?

「……!?」

階段の踊り場に吐血する。
木の板の継ぎ目に赤が差し、液体が固体にしきりに落ちる音が響いた。

その響きを察知した主人が姿を見せ、白髪の様子を目の当たりにし青ざめる。

「け、賢者どの! 大丈夫ですかい!?」

「……大丈夫だ」

「自分は死なない」と音もなく独り言つ。
眼前に広がる朱色の原因を推測するに、一つ。

毒を盛られた。あの乳酒に。
酒の苦味の中には、もしかすれば毒の味も混じっていたのやもしれない。

「私は『賢者』だ。この対処法も把握している」

放っておけば治る。この不死の身だ。

危機の欠片もない苦笑で主人をなだめ、廊下を抜けて部屋の扉を開ける。
部屋に入る間際、主人が不安半分の表情で雑巾を持ち出していた。

誰が、毒を盛ったのか?

主人は美女が酒を持ってきたと言っていた。
だが持ってきただけであり、盛っているかは不確かだ。
あるいは足役であるだけであるかもしれないし、自らを恨む他の医者や鷲飼の残党という事もある。

どの道、今の材料から確実な一つを導く事はできない。

「…………」

白髪の脳裏には、布の蝙蝠が飛んでいた。


赤。

赤い絨毯、赤い飾り布、赤いドレス、赤い唇。
広間に点在する晩餐の卓には、ワインのふりをした種々の血が、グラスに入って並べられていた。

熱のある血の蒸気の中で、人影は二人しかいない。

赤い美女と茶髪の男。

茶髪は、霧がかった思考を巡らす。
現在に至った経緯も記憶もない。ならばこれは夢であろう。

ここ数日、美女の血にありついていない。
血のグラスも、目の前の美女も、深層意識で欲しているのか。

明晰夢の中で、しかしそれをわざわざふいにする必要もない。
目の前の美女に近づき、手を取り、熱を抱く。

陶磁器の白い肌を撫で、ビードロの脆い首に唇を寄せた。
牙を立て、肉に刺すナイフのように深々と牙が埋まる。

美女の熱が、口に零れる。
口から、肺に、胃に熱が落ちる。

やがて全身に赤が回る。
骨、臓腑、いや髪の先から爪の先まで、熱にうなされる。

熱い。
いや――暑い。

身体を包むこの暑さは、肉体よりも熱気に連なる。
己に回された(かいな)は、その白さと熱さからして、高温に達した金属の発色に等しい。

「――!」

危機的気温に目が醒めた。

周囲を見渡す。映るのは赤。寝床であった廃屋の壁も天井も、今や壊滅的な火で彩られている。

その火の中で――渡鴉が映る。
弱弱しく翼を動かし、背中には松明と思しき木の棒を背負っていた。何者かにくくりつけられ、ここへ放たれたに違いない。

額から流れ落ちた汗を拭えば、周囲の高熱ですぐに気化する。
微睡みのままでいれば、骨になるまで眠っていた所だった。

背筋を以て文字通りに跳ね起き、弾丸もかくやと廃屋を駆ける。
炭化した壁を突き破り、数時間ぶりの外気の涼しさが体を受け止めた。

「ああ! あんた、大丈夫か!?」

廃屋の火事は既に周知のようで、火を囲む野次馬の一人が茶髪に声をかける。

「いや、大丈夫だ。この程度で死にはせんよ」

口笛を吹いてみせ、茶髪は無事を表す。

とはいえ、心情は平常とは言えない。
寝込みを襲われた。放火犯を押さえるまで、安眠を得る事はできない。

「……おい、なんかついてるぜ?」

先程声をかけたのと同じ男が、背中を差して指摘する。
彼の通りに背に手を払うと、軽い感触が手に返してくる。

それをつまんで眼前に戻せば、松明を背負ったの渡鴉のものであろう、黒い羽根が手に乗っていた。

「……渡り、鳥。か」

くしゃりと羽軸を折り、脳裏で鴉が舞い去った。


朔の夜。
一際深い闇のカーテンの中、古城の隠し階段を降りる女が一人。

地下墓地に戻った首領を、組織員が頭を垂れて迎え入れる。
首領は彼等を一瞥するだけで対応を終え、地下墓地の奥に置かれた人皮の椅子に深く身を預けた。

「事は、終わりましたか?」

恐々と問う一人に石の視線を寄せ、首領は気怠く目を細める。

「終わったけど、終わってはない」

「……それは、どのような意味で?」

意識的な嘆息を鳴らし、首領が人皮を手慰みに撫でつつ、

「わたしは『賢者』に毒を盛り、『吸血鬼』に火を放った。普通ならこれで死ぬでしょうね。それでわたしの仕事は終わり」

「では、『終わってはない』というのは?」

「死ぬワケないでしょ、あんなの」

さらりと、自分の仕事の不備を吐く。
その宣言で組織員がささめき合い、不満を抱く者の中には明らかな首領への侮蔑の言葉が交換される。

首領の耳にその全てが飛びこんでいるものの、目くじらも立てずに己の行動を説く。

「『賢者』なら、毒に対する薬を持っている可能性もあるし、不死だなんてふざけた噂もある。
 『吸血鬼』なら、名の通りの怪物でしょ? 火に巻かれたくらいで死ぬほどヤワじゃないって事を考えておくわ」

「なら、結局無駄な事だったのでは?」

侮蔑を囁いていた組織員が、隠してもいない嫌味を飛ばす。
首領は、その嫌味に感情も体勢も変えない。

そのまま、隠しナイフをその組織員の腕に投げつけた。

予備動作のない不意の投擲に、虚を突かれた組織員は一拍の間を空けてから悲鳴を上げ始めた。
その悲鳴をよそに、小声であっても存在感のある声色が空間を支配する。

「そんなヤツらをマトモに殺そうとするなんてゴメンだわ。あんなオカルトを相手にしたくないし、聖書だの十字架だの銀だのニンニクだのを用意しろっていうの?
 コストはかかるし、一人や二人どころじゃない犠牲を払う事になるでしょ。現に、郊外の盗賊団はたった一匹の『吸血鬼』に殲滅されたのは確か。

 だから、二匹が同士討ちするように仕向ける。
『賢者』には『吸血鬼』の残滓を、『吸血鬼』には『賢者』の残影を臭わせる。
 そうして、『自分を殺そうとしているのはあいつだ』と思わせればいいのよ」

「しかし、それだけでそう思うものでしょうか?」

木の(まと)でも狙っているかのように、首領は投げナイフの切っ先の照準を頸動脈に定める。

「だから『終わってない』のよ」

風を断つ音と共に、悲鳴が絶える。

「今度はアンタたちがやるの。
 最初こそ、疑惑だけで終わるでしょ。でもね、『あいつが殺そうとしている』暗喩が続けば、その疑惑は積もりに積もって誤解になる。
 真正面から斬り合って勝つのは英雄さんお得意のものでしょうけど、わたしたちはこっそりこそこそとやるのがお得意どころか生業なの。それなら殺れるでしょう?」

ささめきを納得に変えさせ、首領がそれと共に話題を変える。

「いったわね」

「は。左様で」

組織員全員が、首と腕とにナイフが生えた屍に意識を向けた。
だが、首領は地下墓地の入口に注視し、組織員に問いかける。

「一人、どこかに行ってるみたいだけど、どこに行ったかご存知かしら?
 それとも今夜、仕事なんて入ってたと思う?」

沈黙。
いや、轟音。

静寂を突き破り、地下墓地を反響するが故に、それはより大きな音に聞こえた。
しかし、実際の所はそれほど大きくない。

木の扉を蹴破る、局所的な音なだけだ。

全ての頭がそちらへ向く。
見えたのは、まず縛り上げられ、宙に掲げられた組織員が一人。
その後ろには、それを吊り上げている茶髪の男と、横に佇む白髪の男。

「貴様ら、どうやってここまで!?」

色めき立つ組織員の異口同音に、二人が喉を揺する。

「オレを殺そうとしている奴がいた」

「ああ、それは私もだ。だがそのような手を使うのは、我々の内のどちらでもない」

「だから、別の何者かだ。周りの人間に訊き回って、『あいつが知っているかもしれない』と、この吊られた男に行き着いた」

「行き着いたのは私と同時だったがね。会った瞬間に逃げたものだから、つい追いかけてしまったよ」

「そして、口を割った。だからここにいる」

暗殺組織は隠匿され、同時に畏怖される存在である。
並大抵であればその痕跡すら掴む事ができない。

それでも、彼らには積み上げてきた善行による人望があった。
その人望でもって人々の口を開き、組織の尻尾を掴んだのだ。

動揺する組織員たちの中で、唯一身動ぎすらしない首領が発破をかける。

「所詮、飛んで火に入る夏の虫よ! アンタたちがやりなさい!」

一瞬だけ二の足を踏む組織員であったが、前門の虎、後門の狼とあれば、結局は前進するだけマシだと判断したようだった。

「うわああぁぁぁぁ!」

先頭の組織員数人が、悲鳴のような掛け声を上げ、ナイフを手に攻めかかる。
茶髪は吊り上げていた男を放り投げ、白髪と共に迎撃の構えを取った。

茶髪は寸打を放ち、組織員を地面に転がす。
白髪は頭部を殴り、組織員を気絶に招いた。

「――ッ!」

その数秒後、彼等の肢に、肩に、ナイフが刺さる。
首領が投擲した鈍色に赤が加わり、彼女は朗々と優勢を宣言した。

「迎撃しても、防御姿勢くらいは取れる時間だったと思うけど?」

それにも関わらず、ナイフを避けも打ち払いもできなかった。
その上、双方共に流血が止まらない。

「すぐに再生もできないんじゃ、結局は人間の集団が対処可能な範疇のオカルトってワケね」

首領の分析は、独り言の体をした焚きつけであった。
組織員に理解が浸透し、目の前にいる怪物が単なる異物であるという事実が恐怖を拭い去る。

果敢になった組織員の足取りに、二人がじり、と足を退げる。

二人が平常ならば、そんな事はなかった。

ナイフの傷跡程度、すぐにでも再生が始まってもおかしくはない。
しかし双方共、己の知名度を上げる「善行」の為に身を削っていた。

体力が低下している。
白髪は睡眠も取らずに夜にも活動を続け、茶髪は血を何日も吸っていない。

息が上がる。その間にも、機を伺う組織員はじりじりと近づいていく。

二人は互いの死角を補完すべく、自然と背を合わせる。
背越しに一方の心臓の鼓動が伝わり、脈の弱弱しさがどちらも同じ窮地にある事をも分からせた。

首領の白い肌に喉を鳴らし、茶髪が嘆く。

「美女がいるのに血は遠い。実に歯痒い事だな」

嘆息が血の浅い耳に届いて、白髪が問う。

「好き嫌いを言っている場合か?」

白髪の問いと共に、彼の思考が伝わる。
茶髪が口端から牙を覗かせ、勝機に笑った。

「ああ、確かに」

二人の纏う空気が、劣勢から変わりつつある事を察した首領が、慌てて号令をかけた。

「早くしろ! さっさとかかりな!」

未だ優勢を味わっていた組織員が、ようやく動き出す。
が、遅い。

組織員が飛びかかろうとする寸前、白髪は服の袖をまくり上げ、露わになった腕を茶髪の眼前に差し出した。

その意味を瞬時に理解し得たのは、組織員の中で誰一人としていなかった。
何かの罠か、とたたらを踏んだ組織員に、焦る首領が声を上げる。

「バカが――!」

罵倒に次ぐ命令の前に、茶髪の口が大きく開いた。

言語を紡ぐ為の挙動ではない。

捕食の為の挙動だ

茶髪の牙は、刃を振り下ろす速度と等速。
白髪の肌に深く穿たれ、一気に肌が白から青へと変色する。

「――ッ!」

顔色すらも、急速に悪化していく。
白髪の痩身はなお細り、木の枝のようになっていく。

対して。

茶髪の身に纏ったオーラは直ちに生気を取り戻し、全身の筋肉すら膨張する。
首領のナイフから零れていた血は、今や「噴き出す」と言っていい程に血流が活性化していた。

「早く仕留めな!」

余裕のない首領の声に、組織員が一斉に襲いかかる。

茶髪の背に、腹に、ナイフが刺しこまれていく。

「――ひぃっ!?」

組織員の一人が、悲鳴を上げた。
自分の手の感覚がおかしかった。ナイフを突き立てたというのに、それが独りでに茶髪の肉から逃げようと反発している。

いや、違う。
茶髪の膨張する筋肉、激流となった血流に刃が押されているのだ。

茶髪の足元に、萎れた白髪が倒れこむ。

「ああ、不味い」

不敵に、笑う。

「病気の葡萄を混ぜこんだ、年だけ重ねたワインのようだ」

足元に転がっていた白髪も、同じ顔で笑っていた。

ついに首領は立ち上がり、己もナイフを握って咆哮する。

「やれ!」

周囲の組織員が茶髪に取りつく。
だが、最早茶髪の敵ではなかった。

「ふんっ!」

腕を払う。それだけだ。
己に取りついた全ての組織員は、放物線というよりも直線に近い弧を描き、地下墓地の壁へと衝突した。

「ひぃぃっ! うわぁっ!」

膂力を目の当たりにした組織員は、首領の(めい)より(いのち)そのものを優先した。
蜘蛛の子となって散り逃げて、しかし鎖されているが故に、その逃走先は石壁の冷たさでしかない。

意識の有る者も無い者も、壁の醜い花となっている中、ただ一人首領だけが立ち尽くしていた。

「わたしの……わたしの組織が……」

「いやぁ、残念だったね、レディ」

懐から煙管を取り出し、一切(ひときり)の一服を一口。

「暗殺組織、という発想は中々私も参考にはしたいものだが、しかし練度は足りなかったようだ」

革靴が踏みこみ、差を縮め、首領は地面にへたりこんで泣き始めた。

「お願い! お金なら出すから……命だけは、命だけは!」

そう言ってすがりつく首領に、茶髪が頬を掻いて苦笑する。

「いやぁ、泣いている美女を殴る趣味は私にはない」

告げた言葉に、首領が泣き顔の裏で嗤いを作る。

――吸血鬼は銀が弱点だ。
自分の手には、銀貨がある。隙を見てナイフで切りつけ、銀貨をねじ込んでやれば、あるいは……。

企てる首領に、茶髪が続ける。

「だが、そこの紳士が同じ趣味ではないようだ」

「え?」

ようやく血液を再生した白髪が首領の背後に立ち、その首に手刀を振り下ろす。
音もなく首領が気絶し、白髪が嘆息を放った。

「殴る趣味はオレもないが、殴られて黙る趣味もない」


地下墓地から這い出ると、警邏の掲げる灯りが、遠方からこちらへと近づいてくる様子だった。

「君が呼んだのかね?」

茶髪が煙管の葉を詰め替えつつ、白髪に視線を向ける。

「いや。ただ、オレたちの様子を察して来たんだろう」

白髪は新しい血液を巡らすべく、体を猫のように伸ばす。

「どちらにせよ、後片付けには丁度いい」

「それで、これからどうする?」

二人。期せずして黙し、白髪が口を破る。

「争いはこりごりだな」

「同じく」

茶髪が紳士的に笑声を上げ、つられて白髪がぎこちなく口端を上げた。

「いやぁ、私は勝ち負けよりも喧嘩が好きなタチでね。もう充分だ」

紫煙が夜風に乗る。
その紫煙をはたき落として、白髪が警邏とは反対方向に歩き出した。

「どこに行くのかね?」

白髪が足を止め、背を向けたまま答える。

「街から出る」

「おお、そうか。では、さよならという訳だな」

「ああ。また会わない事を願う」

歩みを再開する。
古城の庭園。手入れのされていない草を踏む音が久々にすら感じた。

街で過ごす事で慣れてしまった、他人が舗装した石畳ではない。
緑に青く、天を突く雑草が奏でる、未踏の感触。

その感触を数百メートルほど味わったところで、白髪は振り返った。

「…………早い再会だな」

目を窄め、思いっきり不快を表す。

「やぁ」

背後に感じていた気配は、ほんの数メートルの距離で手を挙げた。

「『さよならという訳』じゃぁなかったのか?」

「『君とさよならする』とは言っていなかったのでね。
『私もこの街とさよならする』という訳だ」

「……青二才どころか餓鬼臭い屁理屈を」

「嘘は言っておらんよ」

後ろから湧き立つ煙草の臭いに、大げさに肩を下げて落胆をひけらかす。

「どういう訳でついてくる」

「この街から離れて、どちらが吟遊詩人に先に謳われるかと思ってな」

「オレがいなくても、お前がどこかに行って待てば分かる事だ」

「それだと観測地点に差異が出てしまうではないか」

「勝ち負けはどうでも良い、という口ぶりだったが」

「喧嘩ほど好きではないというだけだ」

朔の夜。
一際深い闇のカーテンの中、街から外れて道なき草原を往く男が二人。

永遠の二人は、短い道だけ共にする。
彼らの名は永く謳われる事となったが、彼らの生ほど永く謳われる事はなかった。