人間の寿命は、精々が百年前後である。
つまり、精神の耐用年数もその前提を元に設計されている。
もし、その想定を遥かに超えて稼働した場合、どのような不具合が起こるのか。
その業を、ラムレザルは知った。
それはある夜の事である。
エルフェルトの行方が、未だ杳として知れない中。
ソルとシン、そしてラムレザルの三人は、旅をしていた。
森の中で日没を迎え、今日中に宿を取れないと悟ったソルは、二人に野宿の旨を告げた。
シンはぼやきながらも一番始めにいびきをかき、取り残されたラムレザルは膝を抱える。
「……眠れない」
そうつぶやく。
ソルは木の根にもたれかかり、彼女のつぶやきに反応する。
「目をつぶって、何も考えていなけりゃいい。その内眠る」
「そうしたけど、眠れない」
「なら、羊でも数えていろ」
「分かった。
この近くに、牧場はある?」
「……実物じゃねぇ。
頭ン中で、柵を越える羊をひたすら思い浮かべてろ。
羊が一匹、羊が二匹ってな。
そうしてりゃ、数えるのに疲れて眠くなる」
「どれくらい数えればいい?」
「眠るまでだ。
まあ、それでも眠れないなら、その辺を歩いて気を紛らわせた方が良いだろうがな」
「そう。ありがとう」
ソルの助言を受け、ラムレザルは素直にうなずいた。
目を閉じる。
脳内に草原を用意し、白塗りの柵を立て、そこに羊が湧いては跳ぶ。
羊が一匹。羊が二匹。羊が三匹……。
羊が柵を越えるシミュレート。
意味の見いだせない反復作業だが、ラムレザルはただ総数を加算していく。
……羊が十匹。羊が十一匹。羊が十二匹……。
繰り返されるインクリメント。
単純ではあるが、継続する計算。
その精神的疲労は澱のように蓄積していき、彼女はようやくうとうととしてくる。
……羊が、五十匹。羊が……五十……一匹……羊……が……ごじゅう――。
そこで、彼女はこくりと夢に落ちた。
懸命に羊をイメージしていたからか、その夢も羊に関連したものだった。
まどろみの中で彼女は牧場に佇んでいる。
あたり一面、羊の海。
まるで雲海だ。
ラムレザルは夢の中で歩き出した。
意味なんて無い。無意識から来る行動である。
彼女が歩いても歩いても、夢はどこまでも草原と羊だった。
緑と白の広がりだったが、次第に色を失い始める。
レム睡眠から、ノンレム睡眠へ。
より深い意識の停止へ。
思考が微睡み、睡眠の深海へ向かい始める。
そんな彼女の耳に、犬の鳴き声が届いた。
それはもしかしたら、現実の狼の遠吠えなのかもしれない。
とかく、夢の中で彼女は犬の鳴き声を聞いた。
意識が睡魔に溶け、輪郭を失い始める夢の景色の中で、彼女はその鳴き声の主を探す。
周囲の羊がぐねぐねとした塊になっていく。
草原がただの緑の概念になっていく。
しかしそれは、はっきりと彼女の認識に映りこんだのだ。
ヤブ犬の、死体。
「――!」
白と緑のマーブルの中で、それだけは確かな輪郭を以て彼女に突きつけられた。
突如として浮かび上がった、過去の悲しみの象徴。
それに感情を揺り動かされ、彼女は夢から追い立てられた。
「ああ――!」
覚醒する。
首襟を恐怖の手に捕まれ、夢の深海から引きずり揚げられていく。
「あ……」
彼女は起きた。
そこに、緑の平原も白の羊も、そしてヤブ犬の姿もない。
森の黒々とした様の中で、大木の幹に身を預けるソルとシンがいる。
架空の死体を見た心臓は、どくどくと鼓動の早い事を主張していた。
……眠れない。あんなものを見てしまっては。
悪夢を見た心細さから、ラムレザルはソルに声をかけようとした。
「ねえ――」
声を、止める。
既にソルは静かに寝息を立てていた。
起こしてしまうのは忍びなく、彼女の声は行き先もなく消えていく。
「…………」
だが、心細い。
一人きりの闇の中で、何もできずにじっとしていた。
次第に心臓の鼓動が、平常のペースに戻っていく。
大丈夫だ。あれは夢だ。
そう落ち着かせてはみるものの、眠気は雲散霧消してしまった。
過去を体現した悪夢を見たのだ。眠れる気がしない。
自分の乏しい知識や経験では、どう対処するのか分からない。
覚醒した意識を一人抱えたラムレザルは、ふとソルの助言を思い出す。
――まあ、それでも眠れないなら、その辺を歩いて気を紛らわせた方が良いだろうがな。
ソルの声が脳内に響く。
彼女はその声に従うべく、その辺を歩くべく立ち上がった。
そうだ。こんな不快な気分にもなっている事だ。
気分を、紛らわすしかない。
ラムレザルは、夢の中にいるソルとシンの二人を起こさないよう、法術でふわりと浮いてこの場を離れた。
そうして、間違いを犯してしまった。
望月は賜杯のように天蓋に掲げられ、その威光は地上にまで届いていた。
幸い、地面にある程度の光は落ちている。
闇に慣れた目にとって、行動に不十分しない光量だ。
夜風に撫でられ、寒さを覚える。
ラムレザルは自らの体を抱き、後悔をつぶやいた。
「……ルシフェロ、連れていけば良かった」
そうすれば、夜の散歩の話し相手にはなったかもしれない。
彼女は歩きながら、森を見回す。
木々の陰は、自分を取り囲む影絵の劇場のようにそびえ立っている。
時折見える渡鴉は、身を寄せ合って眠っている。
狼は吼え、星は煌き、太陽は夜に隠されている。
周囲に人の温もりがない景色。
自分以外に誰もいない光景。
彼女は、孤独を理解した。
もしかしたら今、世界は自分たった一人になったのかもしれない。
そんな馬鹿げた考えに、ともすれば頷きそうになる。
気分はまだ優れない。
それどころか、自分が孤独である事を浮き彫りにし、出所の分からない不安まで鎌首をもたげていた。
人と会いたい。会ってみたい。
落ち着かない脚は森の奥へ奥へと誘われ、ラムレザルはふと立ち止まる。
「……戻れるよね?」
振り返る。
そこに、ソルとシン、二人の姿はなく、既に木立の背後に隠れていた。
来た道を覚えてはいない。
元の道を辿る事は、できないだろう。
だが、彼女は法術の何たるかを、そして二人の生体法紋を覚えている。
その生体法紋の位置へと進めば、二人の下へと帰れるはずだ。
周囲の様子を探る法術を紡ぐ。
「これでいなかったらどうしよう」と恐れていたが、法術ははっきりと二人の存在を示していた。
大丈夫。これなら、帰る事ができる。
安心した彼女は、それで法術を解こうとした。
「あれ」
しかし。
どうやら二人以外の、何者かの存在も検知したようだ。
その存在の感覚を、ラムレザルは知っていた。
だがそれが誰の感覚であったか、忘れてしまっていた。
「…………」
この感覚は、確かに会った覚えがある。
誰なのだろうか?
彼女は数瞬、考えこんだ。
恐らくは会った事のある人物。
だが何者か分からない人物に、会うのか。会わないのか。
二択を迫られる。
立ち止まる彼女に、煽るような風が吹いた。
ここは寒い。
寂しさを覚えた彼女の足は、ソルとシンの下から離れていった。
「この、先……」
より奥へ。もっと深く。
彼女が歩みを進めると、ついに彼女は彼を視界に認めた。
吊られた男。
木の枝からぶら下がった荒縄。
末端の輪にかけられ、鬱血から青黒くなった首。
責め立てる快楽に痙攣する体。
垂れ流された体液によって、濡れた地面。
恍惚を浮かべるその顔に、ラムレザルは見覚えがあった。
そう、自分は確かにこの人物と会っている。
しかし、全面の好意を以て迎える相手では無かった。
彼女は軽蔑の意を添えて、彼の名を呼ぶ。
「レイヴン」
快楽に没頭していたレイヴンは、その呼びかけでようやく彼女の存在を知ったようだった。
虚空を彷徨っていた視線がラムレザルに注視すると、少しばかり残念そうな表情を浮かべる。
彼は手刀で荒縄を切り、自慰を打ち切りとした。
彼は淡泊に彼女の名を呼ぶ。
「ラムレザル=ヴァレンタイン」
互いの間に、冷たい空気が流れこんだ。
ラムレザルは戦いの構えを取り、レイヴンは無防備に対峙した。
「ジャック・オーを見つけて、私たちと離れたお前が、どうしてここにいる」
威嚇のように問う。
「理由を話す理由がない」
突き放して答える。
「私たちを、監視していたの?」
嫌悪を示す。
「どうかなぁ?」
敵意を煽る。
「気にくわない。消えろ」
「ならば――消してみろ」
レイヴンの挑発に、ラムレザルが応えた。
雷の法術。
漆黒の迅雷。
シンから教えて貰った、力。
それは不可避の速度でもってレイヴンを捕らえると、彼の喉を震えさせる。
「気持ち良い!」
快楽を讃える声に虫唾が走った。
彼女は次いで炎を呼び出す。
ソルの炎だ。
紅い炎は、翼を広げる竜のように膨れ上がる。
レイヴンの姿を、まばゆい閃光と溶解する灼熱の中へと埋めた。
これで充分だと、注いでいた法力を断つ。
火焔は炎となり、炎は火となり、そうして勢いが失っていく。
やがて火の粉一つも消え去ると、そこには灰しか残っていない。
しかし彼女は、一切の警戒を解かなかった。
ラムレザルがその灰を睨んでいると、突如として天を衝く腕が生えてきた。
腕は地面へと勢いよく振り下ろされ、指が地面に突き立てられる。
杭なる指を支えとし、奈落から這い上がるように、レイヴンは姿を現した。
頭を、首を、肩を腕を胸を胴を腰を腿を足を。
灰の湖面から、彼の体が這い出ていく。
完全な五体を再び手にした彼は、残念そうに嗤った。
「――やはり、死ねない」
倒れた三日月のように口を模り、レイヴンがそう哂う。
見る者の不快を故意に掻き立てる、作り物の顔だ。
彼の思惑通り、ラムレザルは大いに不快の念を表した。
歯を剥いて口角を下げる彼女に、レイヴンが嘲りの声を上げる。
「連れの法術の再現とは面白いが、やはり模倣では無理がある。
さあ……貴様の狂気を見せてみろ。私を震えさせてみろ」
垂涎し、レイヴンが彼女に期待を寄せる。
ラムレザルは、彼に背中を見せないままじりじりと後ろへ退いていた。
何であれば、敵意のままに彼に刃を突き立てたい。
だが、生まれて間もない彼女であっても、彼の態度が刃を誘う挑発である事を知っている。
「どうせ私が戦っても意味なんてないよ。お前を喜ばせるだけだ」
彼が苦痛を享受する事を知っている。掌に踊らされはしない。
彼女の指摘に、レイヴンは確かに同意した。
「そう……どうせ眠れぬなら、せめて歓喜の時を!」
彼の言葉に、ラムレザルがぴくりと眉を動かす。
「……眠れない?」
同じく、眠れずに森を彷徨っていた彼女は、不意を突かれて鸚鵡返しにそう訊いた。
「ああ、そうだ。眠れない……目を閉ざしてはみたが、悪夢を見て醒めてしまった」
レイヴンは何でもないように返す。
悪夢を見て、眠れない。
相手もまた、自分と同じ状況下にある。
奇妙な共感を覚えた彼女は、戦闘の構えをふと緩ませた。
「お前も、悪夢を見るのか?」
「そうだ。それが、どうした?」
「……見るんだ」
ぼそりと、呟く。
黒雷に、灼炎に、灰となってなお蘇る不死の存在。
それすらも、自分と同じ悪夢を見るという事実に、どういう訳か安堵を覚えた。
「どうした……? もっと殺意を磨げ……」
敵意の劣化を敏感に感じ取ったレイヴンは、舌舐めずりをして敵意を煽る。
「その気はないよ。私も、眠れない」
そう伝えられると、レイヴンは口をつぐんだ。
煽っても、彼女の返答に棘の欠片もない。
一方が刃を下ろしたこの場において、最早敵意は無粋だと突きつけられたものだ。
快楽を得られず、不平ながらもレイヴンは諦める。
一方のラムレザルは手近な木の根に座りこむと、彼を話し相手の対象とした。
「私も最初眠ろうとした。
けど、夢でヤブ犬の……死体を、見た。
それで起きてから、眠れない」
「……そうか」
彼女の経緯を知ったレイヴンもまた、地面に腰を下ろす。
「私の悪夢は、未来だ。
遥か先、私だけが生きている未来。
誰も何もなく、ただ時だけが過ぎていく。
――その中で、絶望すらも朽ち果てて、感情を喪失した私がただ存在する。
そんな、実現し得る悪夢だ」
彼の吐露に、ラムレザルもつられた。
「……なら、私の悪夢は過去だった。
私の――大事だった『仲間』が死んでしまったの。
それを、また見てしまった悪夢」
過去に潰えてしまった命。
未来も潰える事のない命。
その恐れの起源は何もかも違っていたが、それでも互いに互いの共感を覚える事ができた。
先程まで固着していた緊張は、夜に攫われ溶けてしまった。
「……ん」
冷えた風に少しだけ身震いしていると、ラムレザルの近くで火が灯った。
ほんの焚き火程度の火だが、温もりを感じる。
「……ありがとう」
聞こえるか、聞こえないかの声量で、彼女が感謝を囁いた。
レイヴンはその声から逃れるように、そっぽを向く。
そのまま、彼は言葉を漏らす。
「――感情というものは、理解できてきたか?」
独り言のような問いかけに、ラムレザルはこくりと首肯した。
「前の私とは、違う。
今の私は、感情を殺す必要がない。でも、まだ少し慣れない」
「だが、それは時間が解決する」
「そう。いつか未来には、ちゃんと笑えるようになりたい」
ラムレザルの言葉に、レイヴンが自嘲する。
「……そうだな。お前は日を経るごとに、感情を取り戻す事ができる。
そして、私は日を経るごとに、感情を手放していく」
対比。
時間と感情の比例と反比例。
それが、二人の違い。
「時とは、やすりのように人間に作用する。
それは常人の心を磨き上げるが、度が過ぎれば削れていく。
そうして、時は私の感情を啄んでいった。
この世で感じ得る刺激を、永きに渡って受け続け、ついには何も感じなくなる」
彼にとっては既知の事実だったが、彼女にとっては未知の危機だった。
驚きを表情と声色に出し、ラムレザルが問いかける。
「――それは、とても悲しい事じゃないの?」
「そう考えて恐れる事すら、今や薄くなりつつある」
「悲しい事も、悲しいと思えなくなる……」
そう考えて、ラムレザルは彼の恐れを抱いた。
自分が、喜怒哀楽の全てを知っている訳ではない。
それでも分かる。喜怒哀楽、感情の全てが、感じ得なくなってしまう事への恐怖。
その一端を、彼女はつかむ事ができた。
誰かを愛おしいとして、その思いが過去にしか存在しなくなったら。
そして、その感情が漸次的に失いつつある最中の、喪失への恐怖の大きさと言ったら。
きっと、それは耐え切れない。
その末路に考えが及んだ時、絶望はどれほど大きかったのだろうか。
そこまで想像して、目の前の人間の感情に思いを馳せた。
レイヴンという存在。
今もなお眼前に息づく人間でありながら、その命は千年以上も前に存在していた。
きっと、子供の頃があっただろう。
見果てぬ未来に心を躍らせ、瞳が輝いた時があっただろう。
父母と共の屋根の下、その温もりに感謝を抱いたときがあっただろう。
時折覗かせる人らしい表情には、彼が本来、そうしたただの人間であった事を証明している。
それが。
幾年が経とうも、皺一つとして変わらないその身。
限りない日常が連続し、それに消耗するしかない毎日。
仮に何者かの傍らにいたとしても、共に生き続ける事ができない諦念。
ただの人間が、苦痛に喘ぎ死を求める化生に変わってしまう。
千年という年月は、彼の何もかもを奪ってしまった。
瓦解せざるを得なかったその成れの果てが、ラムレザルの目と心を捕らえた。
「お前は――いや、」
言葉を、ふと変える。
「貴方は、今苦しいの?」
少女の物案じの問い。
それを受けた彼は、苦悩を拭えぬ答えを返す。
「そうだ。
人間ではなくなっていくこの苦しみ。
やがてこの苦しみにすら飽きて、人型をした肉塊に変ずる事への苦しみ。
人間として生きる事が叶わなくなるというのなら、
私は、まだ人間である内に、死を迎え入れたいのだ」
死を欲する人間の心理に触れ、だがそこまでの共感に行き着けない。
彼女は素直に、その感想を述べる。
「……私は、死ぬ事を怖いと思っている」
怯える彼女を見て、宥めるように続けた。
「私も、かつてはそうだった。
だが、感情すら亡くして生き続ける。その絶望は、死をも超えて恐ろしい」
レイヴンは、そう己の内をさらけ出す。
剥き出しの思いのその深さが、途方もないものと感じ取れた。
己の存在だけで埋められるほど、彼の絶望は浅くないだろう。
しかし、そうと知ってやり過ごすほど、彼女は無情な存在ではない。
ラムレザルは腰を上げると、レイヴンに近寄り、その傍らに再び腰を下ろす。
「……何だ?」
訝しむ彼の様子を落ち着かせるように、彼女はつぶやいた。
「意味なんてないよ」
何もできないというもどかしさをそうして紛らわせ、彼女は深く息を吐いた。
「そうしようと思ったから、そうしただけ」
「同情か?」
「分からない。この感情は、今まで抱いた事がない」
そう聞いて、レイヴンは自嘲じみた顔を作る。
「ならば教えてやろう。
同情とは、自分より矮小な人間が惨めな状態にあると、そう知った時に起こる感情だ」
「否定するよ」
ラムレザルが、すぐに彼の仮面を取り払う。
「貴方は矮小なんかじゃない。
私の震えに、気づいてくれた。
私の為に、火を灯した。
そんなに苦しく生きていても、誰かの為に手を差し伸べる事ができる。
それを、矮小だなんて思わない。否定する」
静かに燃える火の迸りだけが、その場に響き渡る。
二人の沈黙。
その間中、二人の視線は互いの目に注がれている。
自分ではない者。
自分にはない物。
瞳を通じてそれを探り、あらゆる「違い」を理解していく。
そうして、互いの中に、互いの存在が構築されていった。
それを感じ取ったレイヴンは、顔を曇らせた。
――これ以上は、ならない。
「……レイヴン?」
その曇った顔を察知して、彼女は怪訝そうに問いかける。
「……ヴァレンタイン」
個体としての名ではなく、種としての名を呼ばれる。
返事をしようと思ったが、先んじてレイヴンが続けた。
「私は、お前の『姉』を知っている」
「……『姉』?」
「始まりのヴァレンタイン。お前も、知ってはいるだろう。
バプテスマ13事件を引き起こした、張本人――『一人目』のヴァレンタインだ」
「うん。ルシフェロから聞いてる。
『前任者』。その――『姉さん』が、どうしたの?」
レイヴンが、できうる限り冷酷を務めて、告げる。
「私にとって、ヴァレンタインという存在は敵対者に他ならなかった」
自分の種そのものを敵視したという宣言。
ラムレザルは息を呑む。
恐る恐ると歩み寄った人間が、一気に遠退いてしまったようだった。
レイヴンは、喉を絞って言葉を紡ぐ。
「私は『一人目』を知っている。
何故なら、私の敵だったからだ。
あの事件の、その時に。
イリュリアの襲撃に際して、私はその地で『一人目』と相対した。
ヴァレンタインにとっても、私という存在は敵対者だった」
彼は振り返る。
あの時、自身は間違いなく、ヴァレンタインそのものへの嫌悪を持っていた。
世界の理から外れた、感情の無い肉傀儡。
当然の死すら得れず、感情を失う肉細工。
自己嫌悪する己の一部の写し鏡のように思えて、その存在が何よりも腹立たしかった。
「私は、『一人目』を妨害した。それが私の役目だった。
『一人目』による連王の殺害を阻み、追い払い、
配下となるサーヴァントの所有権を書き換え、元の所有者に牙を剥かせ、
私は暗がりから『一人目』を監視し、その行動の全てに睨みを利かせた。
仮に『一人目』が感情を抱いたとしたら、私の事は『嫌い』だっただろう。
そしてそれは、私もそうだった」
さらけ出したレイヴンの嫌悪。
それを聞くラムレザルは、目を伏せながらもその言葉の一つ一つを受け止めた。
だが。
「それ故に、『二人目』が現出した時、私はその存在を憎悪した」
ついには。
自分を嫌っていたという事実を突きつけられ、ラムレザルは硬直した。
そんな彼女の様子に、レイヴンは感づいている。
己の言葉が、彼女の心を抉っていると。
それでも、言わなければならない。
彼女から、離れなければならない。
彼女から、自分という存在を忌み嫌わせなければならない。
そうでなければ、自分という毒が彼女に残ってしまう。
「私はお前を監視した。
その行動の全てが、人類を殲滅する悪意ある行動として見ていた。
最初にお前を確認してから、今も、そう――今日もまた、『背徳の炎』と合わせて、監視していた。
それが、私の役目だ」
今日、己がここにいる理由も、洗いざらい吐いた。
ラムレザルは、しばらく何も動けず、何も話せなかった。
それで良い。
これで良い。
――私のような呪われた存在に、この娘を踏み入れさせてはいけない。
レイヴンは冷笑を顔に貼りつけた。
跳ねるように崛起し、マントを広げて威嚇する。
「さあ――私を嫌うがいい!
より目映い拒絶を! 私を、否定しろ!」
私から離れろ。
私から逃れろ。
――この私の存在で、この娘の未来に爪痕を残してはならない。
その思いをこめ、レイヴンはそう振る舞った。
ラムレザルはそのレイヴンの態度に、疑惑を投げかける。
「……貴方は、私が嫌い?」
「ああ。そうだ。私はお前が嫌いだった」
嘘ではない事実を絞り出す。
そう。
レイヴンはラムレザルが、嫌い『だった』。
この返答で、彼女の心から己が消え去る事を、レイヴンは期待した。
しかしラムレザルは、彼の嫌悪から逃げる事なく踏みとどまる。
彼の瞳を見据えて、確かめた。
「『過去』じゃなくて、『今』が知りたい。
ねえ、今の貴方は――私が、『嫌い』?」
刃物のように、真っ直ぐな質問。
それを己の偽悪に突き立てられ、彼は口をつぐむしかなかった。
嫌われる為の虚勢は張れても、虚言で彼女を濁らせたくはない。
押し黙る彼の様子を見て、ラムレザルが語りかける。
「私も、貴方が嫌い『だった』。
今は違う。少なくとも、嫌いじゃない。
でも、貴方はどう?
今のこの私は――嫌い、なの?」
違うはずだ。
嫌いなら、自分に己をさらけ出したりしない。
嫌いなら、今こうして傍らに自分がいる事を許したりしない。
しかし、不安ではあった。
本当に自分が嫌いだとしたら。
何故だろうか。そう思うだけで、苦しみが胸の奥で脈を打つ。
「答えてみて。
もし、言葉で答えられないなら。
私から、逃げてみて」
ラムレザルは、立ち上がって彼と向き合った。
そして、右手を伸ばす。
二人の距離は、ほんの数十センチの距離だ。
だが、躊躇と不安が、その右手の接近速度を鈍らせる。
彼女の右手は、迷いながらレイヴンに触れようとする。
手の角度をゆっくりと上げ、足で二、三歩小さく詰め、近づいていく。
レイヴンは、その右手の行方を、揺れる瞳で注視している。
「逃げろ」と、遠くで理性が囁いた。
同時に「しかし」と、感情が訴える。
――この場で逃げたら、この娘はどうなるというのだろうか?
いや。心配は無用だ。
自分などいなくとも、この娘はソルという庇護の下にあり、シンという親しい存在があり、エルフェルトという――今は何処かに囚われてはいるが――繋がりある姉妹がいる。
それでも「しかし」と、感情が啼く。
――ならば私は、どうなるというのだろうか?
いや。自分などどうでも良い。
例え自分の感情が震えようとも、他者の未来を供犠にするまで堕ちてはいない。
ましてや、無垢な存在の未来を奪うなど。
疑念と否定を繰り返し、なおも彼の体は動かない。
彼の感情は青い未練で抵抗し、「かくあるべき」を錆びつかせ、むしろ彼女との接触を望んでいた。
ラムレザルの右手が、顔に伸びる。
レイヴンの理性は、わずかに顔をひねっただけで終わった。
彼女の温かな右手の平は、
彼の冷たい頬に熱を分ける。
ラムレザルは、その感触に胸を撫で下ろしたようだった。
「良かった」
逃げなかった。
彼は今の自分の事を、嫌ってなどいないのだ。
その事実を確かめて、ラムレザルは手の感触を意識する。
冷たい。
だが、それは風や雨や、鉄や水の冷たさとは違う。
己の熱を奪う、無機質な冷たさとは違う。
人の冷たさ。
彼女は初めて、冷たい事を心地好いと思えた。
ずっとこの手を、頬の一部にしようかと考えた。
しかし、時が経つほど現実を認識していくと、この状態に面映ゆさを覚えた。
手を引いて、彼から離れる。
ラムレザルは、感触の残る右手を大切そうに胸に抱いた。
「……これも、『違う』」
感触と感情を噛みしめるラムレザル。
その彼女の様子を見て、レイヴンの口は空洞のように開く。
「いずれ、今を悔やむ」
ラムレザルが返す。
「でも、それは不確定な世界の可能性の一つ」
そして、否定とその否定を繰り返す。
「私と関わる価値など無い」
「貴方と話ができて良かったと思う」
「お前に傷がつく」
「私もさっき、貴方を傷つけた。おあいこだ」
「私の傷など、苦痛を視覚化した赤い符牒に過ぎん」
「傷には違いないよ」
「私の傷とお前の傷は、違う」
「違わない。
今、貴方が傷ついたとしたら、それは私の傷のように苦しい。
同じだよ」
「……違う。私は傷から得る苦痛に快楽を得る。
お前は傷ついても、それは単なる苦痛だと思うだろう」
「それはそう。
でも、貴方の傷は、私の傷になる」
「だが、私の快楽が、お前の快楽になりはしない」
「そう。なりはしない。
私は痛い事が嫌いで、貴方は痛い事が好きだ」
ここに来て、彼の否定を肯定する。
ラムレザルは、その上で否定を紡いだ。
「――それが理解できない。
私と貴方では、傷ついた時の感情が違う。
だから、貴方が傷つく事が、なおの事苦しいと思う」
「……何故だ?」
「その時だけ、貴方の心が私から離れる」
人間は、分かり合う事で親密になる。
分かり合えないからこそ争いになり、戦いになり、戦争になる。
関心を寄せる人物に、その理解が及ばない領域があるとすれば、
それの領域に踏み入れた時、「理解できない」事への悲しみが滲む。
「ねえ」
ラムレザルが、レイヴンに指を差し出した。
「私は、理解をしてみたい。
だから、私を傷つけてみて」
柔らかな褐色の、細やかな指。
それはまるきり敵意がないというのに、喉元に突きつけられた切っ先と同等の意味を持っている。
感情にかぶせられた仮面を割る、円やかな刃だ。
己を求めて近づくその指に、困惑と悲哀を載せてレイヴンが拒む。
「……私を理解するな」
「それは、貴方と同じ所に私を連れていきたくないから?」
「ッ……何故、それを……」
「貴方を見てたら、そういう事だと考えられたの」
レイヴンの言動とその裏を知ったラムレザルが、彼の本性を洗い出す。
そうして現れたのは、冷酷と異常を纏った化物ではなく、存外にも他者への情を持ったヒトだった。
だからなのかと、ラムレザルが胸中でつぶやく。
これまで彼女が関わってきた人間は、大概が感情を偽る事なく接してきた。
ぶっきらぼうで、自分のやる事とやり方を通していくソル。
自分を思いやり、気にかけ、そして笑顔を向けてきたエルフェルト。
考える事なくただ直球に、感情をそのまま伝えてくるシン――。
彼女が接してきた皆とは違い、彼は己を隠して邂逅した。
これまでとは違うヒト。
その違いがラムレザルの関心を惹き、もっと、もっと深くと囁いた。
指先は、自然彼の口元へと吸い寄せられ、彼女はレイヴンに接近する。
「待――」
レイヴンは口を開き、制止の声を上げようとする。
だが、ラムレザルの指は勢い余ってその口に入りこんでしまう。
続いて言葉を発しようとしたレイヴンの歯が、彼女の指を強く噛んだ。
「あっ――」
ラムレザルが、その痛みに目を見開き、指を引っこめる。
彼女はしばらく唖然として指をさすっていた。
その痛みが、過去を呼び覚ました。
指先の痛みは、
かつて腕に抱いた事のある、小さな命から与えられた痛み。
ヤブ犬の痛みだ。
痛みを通して、過去にしか存在しない命を想起する。
すると、彼女の目元から、その命の温もりを知る滴りが零れた。
「ああ――」
不意に蘇った亡き命への想いに堪えられず、彼女は指を抱えてうずくまる。
尋常でないラムレザルの反応に、レイヴンは慌てて声をかける。
「指を見せろっ。骨まで達したか?」
「違う……違う……」
涙混じりに、ラムレザルは彼の心配を拭おうとする。
「きっと、この感情は、貴方の痛みとは違う……。
けど、この痛みは――この痛みは、嫌いじゃない。嫌いに、なれない……」
痛みを通じて、彼女の奥から言葉が生じる。
この痛みは、ヤブ犬が残してくれた痛み。
散ってしまった、命の傷痕。
何よりも強く眩い、生命の証跡。
「この痛みが、『生きた証』」
その発言が、レイヴンの心身を大きく揺らす。
彼女が、痛みと証を欲する自分の深層をも理解したのだと錯覚した。
愕然とする彼に、ラムレザルは続ける。
「私はこの痛みを、決して忘れない。
かつての命の証を。
そして、これからの貴方の命の証を」
ラムレザルにとって、その文脈はただの発見とその反芻に過ぎない。
だがレイヴンにとって、その告白は己の芯を貫き抉る棘だった。
それはこれまで経験した事のない、えも言えぬ感情。
それは希望と絶望を抱かせる、アンビバレンスな言の葉の針。
ただ言える事は。
この娘に己の戻り得ぬ過ちを残したという業の、確かな事。
彼が己の内で罪を自覚したその刹那。
ラムレザルは抱えていた指を離し、その先端を掲げた。
朱色が、褐色に線を引く。
紛れもなく傷ついた指先を、彼女は己の口へ引き寄せた。
「何をする?」
レイヴンの疑問が、その動きを中断させる。
ラムレザルは当然、といったような素振りで、その疑問を跳ね除けた。
「『舐めときゃ治る』。シンから教えて貰った。
それが間違いなら、何が問題?」
「何が問題だと?
その指は、私が噛んだ傷だぞ」
その指摘でも、彼女は何も気づかない。
「……その指を、お前が口に含むというのか?」
その反語でも、彼女は何も悟れない。
気づいていないのではない。
知っていないのだ。
人間が口にした何物かに、特別な意味が付与されている事を。
それを彼女が舐めれば、その……間接的に口と口とが触れた事になる事を。
ラムレザルは不思議そうに指とレイヴンを見比べると、
それでも何も見極められず、最終的に彼を見つめた。
「私が、この指を舐めると不都合なの?」
レイヴンは頭をしばらく押さえた後、暫定で答える。
「不都合は、あるだろう」
ラムレザルは彼の様子をしばしじっと検分した。
そこに嘘を見出せず、彼の返答を受け入れる。
「じゃあ、貴方は?」
指を再度レイヴンに向けて、彼女はずいと彼に迫った。
「もし貴方がこの指を舐めたら、不都合じゃないの?」
レイヴンは驚き、思わず固まった。
口元に近づく、わずかに赤い指。
彼が拒絶を選択するよりも早く、その指がレイヴンの唇に触れた。
血で、濡れる。
熱を含んだ生命の潮流が、傷から溢れて染み渡る。
その感触で口を塞がれ、彼は拒絶を紡ぐ事ができなかった。
いや。
塞ぐだけではなかった。
指は唇をこじ開け、上下の歯の隙間を通って咥内に入りゆく。
唇で挟まれた指の鼓動が、感じる事のない触覚をどくどくと叩いた。
ついにはレイヴンの舌先に、ラムレザルの熱が零れた。
味覚に飽きを抱いていたはずの舌は、血の成分上有り得べからざる感想を抱く。
甘い。
口に溜まる唾と共に血を嚥下し、彼女の存在が彼の中に取りこまれる。
その存在はほんのわずかであるにも関わらず、血の滴はニトロとなって爆発的な熱をレイヴンにもたらした。
思考すらままらないような熱である。
舌は無意識にラムレザルの指先をなぞる。
蠢動する舌の感覚を受け、彼女はくすぐったく身動ぎした。
「……んっ……」
思わず、ラムレザルから吐息が漏れる。
その吐息が鼓膜をくすぐり、レイヴンは正気を取り戻した。
「――ッ!」
彼女の手首を掴む。
そのまま手首を引かせてやれば、咥内から指がするりと抜けた。
口と指の間に、唾液と血液の糸が引く。
手を離し、いつの間にやら早くなっていた動悸を落ち着かせ、レイヴンはラムレザルの目を見つめた。
純に澄んだ瞳に悪意も敵意もなく、ただその心を映している。
純粋な疑問と好奇心だけで、あの蠱惑的な行動を取ったのだ。
自分の指を見つめ、大事そうに手の平で包む少女は、あくまでも無邪気に振る舞っている。
そして、不意を突く言葉すらも呟いてみせた。
「……気持ち……良かった」
ヒトの体温を指先に感じながら、柔らかな舌平に包まれる感覚。
非日常的でありながら安心感を覚えさせる、矛盾した心地。
その感覚に少しばかり酔い、そうラムレザルがつぶやく。
未だ余韻に浸るラムレザルは、指に注いでいた視線を彼に向けた。
注視されたレイヴンは思わず後退るも、逃げようという気が湧かなかった。
自分のような存在から離れさせるべきだと主張する理性、
感情を、世界を理解しようともがく彼女を拒めない情動。
情動はゆっくりと理性に覆い被さり、柔らかな麻痺が精神を侵す。
ようやく口にできたのは、
「……何故、私なんだ」
ただ、困惑。
それこそ、ソルであれシンであれ、誰であれ自分よりも彼女に相応しい存在などいくらでもいる。
なのに何故、十数分前まで嫌っていた自分にこうまで興味を示してくるのか。
いっそ拒んでくれた方が分かりやすかった。
拒み、牙を立て、この身を引き裂かれてしまえば、このような事態にはならなかった。
この事態を望む感情など起こらずに、この事態を引き起こしてしまった事への罪悪感を覚えずに、ただの退屈な日常に帰れたというのに。
レイヴンの内なる葛藤を知らず、ラムレザルが口を開いた。
「貴方を、理解したいと思ったから」
「…………」
答えられない。
応えられない。
曇天の陽のように無価値なこの己を、求められて何を返せるというのか。
他者を殺す猟犬でも他者を探る蝙蝠でも無く、他者と関わろうとしなかった臆病な自分自身として欲されて、どう返せるのか。
分からなかった。
そんな事など、ともすれば数百年ぶりの事で、久々が過ぎる。
初めての、経験していない未知の事のように思えた。
久遠の智見すらも超越して、幾許の年月の少女が彼に近寄る。
「ねぇ――」
ラムレザルが、レイヴンの右手を両手で覆う。
少女の熱が己の手に伝わり、得も言えぬ感覚の熱波が腕を伝った。
彼女の見上げた先にあるのは、自分と共にこの状況を感ずる一人の人間。
彼の目の奥に映る再起した感情が、自分の事を受け入れている事を確かめる。
ラムレザルの右手がレイヴンの手から離れ、再度彼の口に至った。
人差し指を唇に当てながら、感覚を覚えた彼女は純心なまま乞う。
「――もう一回、して欲しい」
倒錯への自覚もない、少女の欲求。
その祈りを拒めるほど、彼の悪意は頑強ではなかった。
「……ッ」
怖々と口を開ける。
ラムレザルの小さな人差し指はするりと彼の口へと入りこみ、舌体の表面を指の腹で撫でた。
柔らかな舌は彼女の指を受け入れ、無味の甘美を感じ取る。
しばらく何も動かないでいたが、ラムレザルの無言の期待を裏切る事もできず、舌を動かす。
「……ぁっ」
彼女から、堪えるような声が上がる。
指を舐め上げ、指先を吸い、その度にラムレザルが身をよじった。
己の行為によって、少女が喜びを得ている。
レイヴンがそう自覚すると、罪悪感と共に、呪われた身にとって不相応な充足を覚える。
自分が求められる事――いや、自分が価値ある存在だと認められる事が、喜ばしかった。
「やめろ」と叫ぶ理性の声はどこまでも遠い。
彼もまた、彼女の価値を認め始める。
彼女こそ、己にとって、あるいは――。
希望の萌芽を内にするレイヴンとは別に、ラムレザルが動き出す。
彼女は左手でレイヴンの右手首を握ると、それを顔に近づけさせた。
自分の顔ほどに大きな手をさすりながら、彼女が囁く。
「……私ばっかりじゃ、ずるい……」
与えられてばかりでは、不平等である。
彼女の善意がそう行動し、彼の中指を、ラムレザル自身の口で抱きしめる。
「……ッ」
声は上げられない。彼女の指で口は塞がっている。
ラムレザルの柔い頬肉が彼の中指を包み、滑らかな舌の抱擁は精神を耽溺させる。
反射的に中指を引き抜こうとしても、彼女の唇が指を伝う感覚に心を奪われ、この状況から逃げる事ができない。
「ぁ……う、ん……」
引き抜かれかけた中指を、ラムレザルが再度口に咥え直す。
「ィッ……!」
離れかけた快楽が再度押し寄せ、声が漏れる。
同時に、ラムレザルの指が彼の歯を、つつ、と撫で、滅多にない感覚が神経を弄んだ。
その感覚を分け与えてやろうと、レイヴンもまた彼女の歯をなぞり、歯肉を指で押し撫でる。
「……っ、ふぁっ……」
互いに違いの指を舐め合うという歪曲した交流の中、二人は無言の内で逸楽を探り合う。
頬肉を爪の背で愛撫し、口蓋をさすり、舌で指を巻き取り、指を軽く噛み転がす。
「ゃ、あ……」
常人ですら知らない事を、ラムレザルは知っていく。
その都度、彼の指を咥えながら嬌声を上げた。
それだけで満ち足りる彼女とは対称的に、レイヴンにとってこの感覚は歯痒いものだった。
彼の感情を底から揺さぶるものは、苦痛である。
この状況もまた倒錯した安らぎを得られるが、彼女の熱に中てられた渇きが、安直な痛みを欲した。
この期に及んで、彼女ではなく苦痛を求める己の浅ましさに怒りすら覚える。
だが、誤魔化しようのない衝動が、彼の指先を動かした。
「クッ……!」
堪え切れず、レイヴンはラムレザルの犬歯に中指を当て、痛みを求めて引き擦る。
「んっ――」
彼女の犬歯が中指の肉に食いこみ、皮膚を裂く。
レイヴンの指先の傷跡は、小さく、しかし確かな痛みを伴い始めた。
「んんッ……!」
ラムレザルの咥内に、血の味が広がる。
何百年と彼の体を巡ってきた古き血だ。
生まれて間も無い彼女にその血を注いだ事に対して、彼は奇異な支配感を覚える。
「ん……ちゅっ……」
ラムレザルは、味蕾を犯す血を舐め取り、吸い上げる。
乳呑み児のようにあどけない素振りが、妖艶にすら思えた。
傷跡を前後する舌平の柔さが、なおのこと苦痛を浮き彫りにする。
「……んっ……」
ラムレザルはレイヴンの血を感じ、その脈動を直に受ける。
紛れもなく己と同じ血の味であり、彼が「生きている」という証拠を確かめ、安堵した。
しかし、彼が自ら血を出した事の意味を知っている。
彼女にとっては充分な快楽だが、結局は苦痛を求めたのだ。
それを思えば、やはり彼の感覚の全てを共有できない事への寂しさを覚える。
せめて、その願いに添いたい。
ラムレザルはレイヴンの指を軽く噛み、その傷跡を弄ぶ。
小さくも刺激の増した痛みに、レイヴンの体がびくりと痙攣した。
更に歯で指を挟みながら、その傷跡に舌を伸ばす。
「……ッ!」
レイヴンの震動を指と舌で感じながら、ラムレザルは彼に近づく。
苦痛を喜ぶという感覚が遠い。
ならば、この現実の距離だけでも近くなりたい。
指を咥えながら、指を咥えられながら、一歩二歩と距離を詰める。
「――――」
彼からの拒否はない。
受け入れられた事の証左を得て、ラムレザルの心が高鳴る。
彼女がついにレイヴンの懐にまで迫り、その胸先に頭を預けられるほどに近くなった。
体温を感じる。
熱った体には、彼の体の冷たさが快い。
そのまま体の全てを預ける。
すると、レイヴンは空いた左腕で己の外套を掴み、北風から守るようにラムレザルを包む。
「あっ――」
思いがけない彼の行動に、頬を紅潮させる。
ここまで近づいて、外套と腕に抱き抱えられ、レイヴンの匂いをはっきりと知覚した。
古く安らいだ匂いだ。
永くその枝葉を伸ばし、生命に休息の木陰を与える巨木のような匂いだ。
目を閉じる。
きっと、親に抱えられた子とは、このような気分になるのだろう。
落ち着く自分を認識する。
「…………」
しかし、それと同時に、自分の奥底に熱が湧き上がっている事に気づいた。
このままでいたいという幼い自分。
これ以上が欲しいという知らない自分。
その二つがせめぎ合う。
ラムレザルは、温まった彼の指から口を離した。
「――――」
ラムレザルに合わせて、レイヴンもまた彼女の指を咥えるのを止める。
彼女を見つめていると、潤んだ目で見上げるラムが呼ぶ。
「レイヴン――」
自分の名を睦言のように呼ばれ、レイヴンは継ぐ言葉を、彼女を待った。
ラムレザルは彼の胸に手を置き、くしゃりとレイヴンの服を握る。
「分からない……」
これ以上が欲しかった。
だが、それが何であるかを分からない。
無自覚ながらも肉体は本能に濡れ、病原なき熱病に悩まされる。
「ラムレザル――」
レイヴンが囁く。
彼は分かっている。
彼女が何を求めようとしているのか。
彼女が、肉欲を自覚しつつあるのが。
しかし、それに応える事は禁忌に等しい。
彼は心臓に寂寥を沈殿させ、ラムレザルを抱き抱えていた腕を離す。
「ッ!」
二人の間に、切るような風が、彼女に離別を差し出した。
レイヴンは一歩、二歩とラムから距離を取り、ゆっくりと空間に溶けていく。
空間転移――。
それを見たラムは、兎のように跳び寄った。
「いや――!」
悲痛な声を上げて、彼の腕をつかもうと手を伸ばす。
その手は、半透明の腕に触って、通り過ぎる。
先まで自分の感情を与えていた存在の喪失。
自分の感情すらも摘出されたような感覚に、茫然と立ち尽くした。
風が冷たい。
自分を包んでいた、彼の外套が無くなった事に気づく。
ふと見やれば、レイヴンが灯した火は既に息絶えていた。
昏い木立の中で、一人きりの孤独が押し寄せる。
ならば、ソルとシン――あの二人の下へ帰るか?
熱は未だ燻ぶっていた。
この熱が何かは分からないが、二人に打ち明けるのは忌避感がある。
胸に手を当てる。
早鐘の心臓が存在を訴え、消沈の滓を巡らせた。
気力を失くした体は地に膝を突き、ラムレザルはへたりこむ。
腰が地面に落ちる。
布越しに陰部が地面と触れると、小さく声を上げた。
「あっ――」
地面の石や草苔のわずかな隆起のささやかな刺激。
それでも、女の体に無知な少女には確かな快感だった。
だが。
一人で自分の熱を抑えこもうとするのは、何よりも心淋しい。
「ああっ、んっ……!」
腰を揺らし、求める感覚を得ようと無我に高める。
この場に、欲しい人もいない。
訳のわからない欲求を止める方法も分からない。
しかし、朧にも理解し始める。
汚いと、恥ずかしいと忌避しても、止まる事ができない。
ラムレザルは「そこ」に布の上から指で触れ、掌を押しつける。
「やっ……!」
目を瞑る。潤んだ瞳から涙が絞られた。
それは快楽に耐える為でも、己の痴態から意識を逸らす為でもある。
感覚の波に体を強張らせ、ラムレザルは地面に座ったまま事を続ける。
目蓋の裏に、自然と黒い影が浮かんでくる。
「あっ……ああっ……」
誰も見えない空間に切ない声が吸いこまれる。
分からない。
こんな事も分からない。
これが正しいかも分からない。
いや、間違っているのだろうという漠然とした確信が彼女に浮かぶ。
自分に知らない事を教えてくれる人はもういない。
去来する空漠を埋めるように虚ろな熱が増していく。
「うぅっ、んっ……!」
この夜が訪れるまでは、何も知らなかった指が、悦楽に飢えて艶めかしく動く。
その度に、自分がこんな事をしているという事に酷く傷ついていく。
地面に横たえ、火照った身を土で冷ましても、なお欲求から逃れる事ができない。
右頬を土で汚しながら、太腿で己の右手を挟み、無我夢中に弄る。
惨めで、孤独で、泣きそうだった。
煽情的でありながら、見つめる事のできない状況に、一陣の風が差しこまれる。
その匂いを、彼女は知っている。
「――ッ!」
風が巻き上がると、暗闇と混ざり合って凝固し、一個の影となる。
その影の頭に頂くのは、銀の光。
レイヴンが再度顕現すると、ラムレザルは慌てて身を起こした。
去ったはずの彼が、何故?
再来した充足の存在と相対し、喜びよりも先に羞恥心に駆られる。
何しろ、もしかすれば、先程の狂いようすら見られていたのかもしれないのだ。
一瞬にして紅潮するラムレザルの顔を見れず、レイヴンが目を逸らしつつも答える。
「……本当ならば、お前が帰る事を確認してから去るつもりだったのだが」
ラムレザルの傷ましい自慰を目の当たりにして、耐え切れずにその姿を表したのだ。
自分の与えた影響は、彼女に自慰行為へと走らせるほど大きかった。
それは何より、レイヴンに罪悪を知らしめた。
彼女がそれほどまでに自分を欲しているのだという事をも。
彼女が、己に欲情している。
その事実に高揚する心を汚らわしく思いつつも、レイヴンは彼女と相対する。
ラムレザルは、恥ずかしさに、泣き出しそうにも、逃げ出しそうにもなりながら、それをも上回る感情に動く。
紛れもない、刹那的な愛情。
「――ッ!」
今度こそ、消えない彼に手を伸ばす。
確かな腕がラムレザルを迎え、千年の匂いに溺れる。
ラムレザルの腕がレイヴンの背に回され、力一杯に抱きしめられた。
「……ッ」
抱擁される感覚に戸惑いながらも、レイヴンもまたぎこちなく抱きしめ返す。
しかし、これで自分の行いが許された訳ではない。
いや、これからも許されない。
永劫の内に忘れ去ったはずの、生命としての感覚が急速に燃えたつのが分かる。
それは、彼女と同じ欲望の色をしていた。
堕落の蛇が囁きかける。
熱を得た果実を放置して腐り落ちるより、己が貪れば共に僥倖だろうと。
理性で言葉を組み立てながら、彼女の意向を確かめる。
「……お前は、戻れなくなってもいいのか?」
腕に抱えられた存在は、その言葉で彼を見上げた。
ラムレザルが、その声色に気づく。
それは最終通告だ。
後悔したとしても、取り返しのつかない事象の警告だ。
だが、それこそ自分の求めたものだった。
「――私から癒える事のない苦痛を得ても、『その先』が欲しいというのか?」
レイヴンからの確認に、
ラムレザルは、微笑を携え、はっきりと答える。
「――その痛みも、私の生きた証になる」
凛とし、揺るぎのない声。
彼女の覚悟に、抗いの否定を与えるのは不義理だと知っている。
「無駄だ」「どうせこいつも離れていく」「自分の欲望で彼女を傷物にするのか」――
無数に湧き立つ正論を抑えこみ、レイヴンが告げる。
「お前が、この世界に降りてどこまで知識を得たかは知らないが――」
ラムレザルの瞳を見据える。
「私がやろうとしている事は……恋仲にある人間のやる事だ」
その言葉を受けて、ラムレザルが確かめる。
「……恋? つまり……恋人?」
言葉になった事実を差し出され、レイヴンは重くうなずいた。
「……ああ、そうだ」
肯定を受けて、ラムレザルの顔に喜色が咲く。
花が開く様を早回ししたように、手指の動作の末端まで笑みが広がっていく。
「いいよ」
ラムレザルが、その意味を甘受した。
「エルからよく話される。あたたかいものだって。
貴方なら、恋人でいい」
その言葉に、レイヴンの善意が怯える。
例え、言い難い契りで結ばれたとしても、
「……一夜きりで別れるだろう」
己は結局、「あの御方」に仕える身なのだ。
彼女の傍に常にいられるような存在ではない。
ラムレザルは彼の葛藤を見通して、それごと包む寛容を備えて受け入れる。
「それでも、貴方を好きになったから」
「――――」
初めて、かもしれない。
これほどまでに、打算のない、綺麗な好意は。
正面からそれを受けたレイヴンは、考えるよりも先に、ラムレザルを抱きしめながら後ろへと倒れた。
「あっ……」
驚きの声を上げるも、彼女は抵抗せずに共に倒れる。
レイヴンの背は地面につき、ラムレザルは彼の身体の上に伏せた。
レイヴンは彼女の背中を撫で、そっと耳元に提言を預ける。
「動きたければ、そうすればいい」
そう言って、レイヴンは右脚を彼女の両脚の間に差しこんだ。
そして、右脚を立てて、ラムレザルの股座に近づける。
レイヴンが、ラムレザルの背に回した腕に力をこめる。
「……っ!」
ラムレザルもまた、強く抱きしめる。
それは縋る意味合いも含んでいた。
覚悟はした。受け入れもする。
それでも未知のものに対する不安がある。
しかし、それでも「欲しい」と思った。
それはこの熱を冷ます方法か、彼自身の感情か、あるいは――。
「――ッ!」
思考が一瞬、停止する。
レイヴンの右脚は、ラムレザルの体を突きあげるように股座を擦り上げた。
布地の上からの刺激だ。
だが、自分の意思によらない不意の刺激に、彼女は思わず目を見開いた。
ラムレザルの表情を窺うレイヴンは、彼女の不意の驚きに対する謝罪のように、彼女の髪を撫でる。
「んん……」
ラムレザルの緊張が解れるのを確認して、今度はゆっくりと右脚を動かす。
上下に震動させ、緩い刺激が伝わってくる。
「ぁっ……んっ……」
連動して、互いに体が揺れ合った。
それは揺り籠のように安らぐ一定の周期のものであり、されど心臓の鼓動はゆっくりと上がっていく。
髪の合間に溶けるような、レイヴンの細やかな指。
象牙の櫛のように心地好く、ラムレザルが瞼を閉じる。
体は昂っているというのに、心は安らいでいく。
「んっ……」
より体重を預けてきたラムレザルに、レイヴンもまた安らぎを得ていた。
これまで、自分の生というのは自他ともに拒絶の道だった。
他者への不信から関わりを拒み、他者から畏怖され繋がりを絶たされていた。
しかし、ラムレザルの純真が己を許し、こうして自分の体にもたれかかっている。
その事実は、永く得られぬ感情をもたらしてくれる。
「んっ、ああっ……!」
なおも、右脚の震動は休める事はない。
ラムレザルに刺激を与え続け、彼女の口から洩れる嬌声は熱を増していく。
「はあっ、ッあ、ぁう……!」
レイヴンの右脚に、やがてじっとりとしたものを感じられる。
運動から来る己の汗もあるだろう。動悸の荒い彼女の汗もあるだろう。だが、恐らくはそれ以外も――汗ではない、「何か」もあるのだろう。
「充分」と判断したレイヴンは、左腕でラムレザルを抱えながら、上半身を起こす。
レイヴンと共に身を起こす形となったラムレザルは、ぱちりと瞬きをして彼を見つめた。
相手は何をも分からぬ少女である。
いきなり本番という訳にはいかない。段階は経なければならない。
レイヴンは徐に右手の手袋を外した。
それをじっと見つめるラムレザルの視線を振り払うように、露わになった中指をすぐさま自分の口に含む。
そして、己の指を舐め始めるレイヴンに、ラムレザルが声をかけた。
「何をしているの?」
知識がなければ唐突な行為でしかないが、挿入の前段階として、彼女に慣れさせなければならない。
しかし、ここまできても羞恥心が先に立つ。口で「それ」を懇切丁寧説明するには面映ゆく、
「濡らす為だ」
言って、唾液を中指に絡ませる。
「……そう。じゃあ――」
ラムレザルが、口を寄せる。
「私も、手伝う」
「ッ――」
別にいい、の声を上げる間もなく、ラムレザルの唇が中指に触れる。
いや、それどころか、勢い余ってその唇は、中指越しに彼の口にまで達した。
柔い。熱い。無垢の味。
そして、ラムレザルの舌がちろちろと指の腹を舐めていき、互いの津液が混じり合う。
指を隔てた口づけに、互いの脳が火照りに囚われた。
しばし時間が過ぎる事を甘受していたレイヴン。
だが、チチチと夜を鳴く虫に急かされたように、口を離した。
「まだ……して、いなかったな」
一夜とはいえ、恋仲という事を認めてから、口づけをしたのは初めてだ。
その言葉の意味を彼女は知らないと思っていたが、ラムレザルは存外にそれに反応した。
「誓いの、キス?」
エルフェルトから教わった、婚約の知識から引用し、それは彼に動揺をもたらした。
「……知っていたのか」
ならば、口と口を重ねる意味を知ってなお、ラムレザルは自分に口を重ねたのか。
思わず、彼は左手で顔を隠す。赤くなる感情が表情に出てしまいそうだった。
ラムレザルは彼の腕を取り、なおも中指を舐め続ける。
「……んっ」
唾液で照る指を見て、レイヴンはラムレザルの肩に手を置く。
「もういい。これで、充分だ」
レイヴンの宣言を受け、ラムレザルが口を離した。
口づけの残滓は銀色の軌跡を描き、やがて切れる。
準備は、まだ続けなければならない。
レイヴンは手袋をつけたままの左手で、ラムレザルのホットパンツのウエストに触れ、
「……ッ!」
防衛反応から、反射的にラムレザルが身をよじる。
「嫌か」
問うレイヴンに、ラムレザルが首を振った。
「ううん……突然で、びっくりした」
そう言って、彼女は宛てのない腕で、自分の胸を撫でる。
「これからする事は、なに?」
ラムレザルに質され、レイヴンはしばらく沈黙した。
性的な事柄を口に出す事に羞恥はある。
だが、これからそれを体で行う事だ。言葉にする事が何だというのだ。
面映ゆさをそう納得させ、少々首を捻って答える。
「この指を、お前の中に入れる」
「なか?」
ラムレザルは合点のいかないようで、首を横に曲げた。
レイヴンは意を決し、ずいと迫ると、濡れた中指を彼女の陰部に、布越しに宛ててみせる。
「――ッ!」
突発的な快感の波が、彼女の脊髄を伝う。
「ここに入れる」
彼の宣言に、ラムレザルが顔を伏せ、恥ずかしげに赤くなる。
「……入るの?」
その部位がそのような器官だとは知らず、その目は大きく丸くなっていた。
レイヴンは、口にせずに首肯する。
そして、先程拒絶された左手で、再度ホットパンツのウエストに指をかける。
ラムレザルは不随意に体を硬くするものの、その指を拒まずに行く末をじっと見つめる。
レイヴンは大きく息を吸い、左手をゆっくり、息と共に降ろした。
「やあっ、ぁあ」
彼女から、一際大きな声が上がる。
今まで、誰にも晒した事のない秘所である。
それを明かされ、羞恥心に身が焼かれる。
これまでの責め苦に焦らされた彼女の陰部から、熱ある愛液が、冷たい夜闇に蒸気を立てた。
その熱気がレイヴンの左手を撫で、ぞくりとする獣の感覚が沸き上がる。
その感覚を宥めつつ、彼は右の中指の先を、ラムレザルの陰部に置いた。
少しばかり、周囲をなぞる。
「んゃっ、ひゃぁっ……!」
普段の澄んだ彼女から遠い、羞恥と高揚と陶酔の表情。
その口から紡がれるのは、雄の情を揺さぶる艶やかなものに仕上がっていた。
レイヴンの指先には、唾液以外のもので濡れそぼった陰部の感覚が返ってくる。
指の一本ならば、容易に入るだろう。
彼は左腕をラムレザルの肩甲骨に添え、右手の中指は膣口に宛て、彼女に行為を確かめる。
「入れるぞ」
ひとしきり、静かな吐息と荒い呼吸が空白を埋めた後、彼女は間違いなく首を縦に振った。
「うん」
決死の決断を下すように、レイヴンはしばし目蓋を下ろす。
彼の目蓋が上がると共に、中指を彼女の中へと入れていく。
「んぁあっ、あッ……!」
充分に濡れていた為か、その声に苦痛は潜んでいない。
そも、本来は赤子の頭すら通る器官だ。指の一本ならば、初な乙女であろうと入るものだ。
とはいえ、一夜の想い人には苦痛を与えたくはなかった。
ラムレザルが痛がっていない事に、レイヴンは表には出さずに胸を撫で下ろし、彼女の表情に目を向けた。
彼の視線に気づき、ラムレザルは上目遣いに見上げる。
「なんだか、変な感じ」
感覚のこそばゆさからか、彼女の頬はおかしげな笑みを形作る。
「慣らしていく。これに慣れたら、食指も入れる」
胸の内にある段取りを開き、ラムレザルの不安を拭う。
「動かすぞ」
その宣言に、
「うん」
信頼をもって受け入れる。
中に入ったままの中指を、回していく。
温めた牛乳に、砂糖を溶かし混ぜるように。
「ん、んっ……」
快楽というより、こそばゆさが先に立った。
膣口を開く為に上下左右へと蠢く中指は、膣壁から離れる際、時折淫らな水音を鳴らす。
「ゃっ……」
その音が聴覚を揺する都度、ラムレザルは羞恥に身を揺すった。
レイヴンは彼女の容態を見て、その頬が苦痛に固く締まっていない事を確認する。
しかし、まだ快楽にはいたらないようだった。
レイヴンは数瞬、思案した後、既にラムレザルで包まれた中指ではなく、外界に出ている親指で陰核を撫でる。
「ああっ!」
認識の隙を突く感覚に、ラムレザルが大きく声を上げた。
想定以上の反応に、レイヴンの指が止まる。
「痛いか」
「う……ん、ぃ、いや……よく、わからない……」
そうは言うものの、身体ははっきりと理解していた。
中指を濡らす愛液は、陰核に触れた瞬間に湧き出ていた。
少女ではなく、女として目覚めつつある。
熱っぽく見上げるラムを左腕だけで抱きしめながら、レイヴンが囁いた。
「また、やるぞ」
「……うん、うん」
ラムレザルはぎゅっと瞼をつぶり、先程神経を貫いた衝撃に備える。
レイヴンは中指の動きは止めぬまま、親指でほんのすこし、陰核の先に触れた。
「んんっ……!」
押し殺してもなお口端から洩れる声には、機微を惑わす色が湛えている。
快楽に耐える、健気で蠱惑な反応。
彼女に中てられ、レイヴンは知らず嚥下した。
親指は陰核に触れたまま、しばらく待ち、徐にそっと押しこんだ。
「あっ、ん……ふゎっ……!」
ラムレザルの動悸はより度数を上げ、吐息は熱を増していく。
快楽を覚えていく身体は、やがて膣にも伝播する。
地面が濡れる。それほどに。
「はあッ、はぁあ……!」
抽送する際の水音に合わせて、彼女の息が乱れる。
「まだくすぐったいか?」
「んっ! はあ、今っ、違う――なんだか、ぞくって、ぁあッ……!」
レイヴンの左腕はラムレザルの背を支えているだけだというのに、その背からじっとりとした汗が出てきた。
体温は灯篭の様。只でさえ温い彼女の膣内は、今や竈のように彼の指を茹だてている。
「食指も入れるぞ、いいか」
「ん、ふぁ、ああっ、ん……!」
口からは淫らな啼声を上げるだけで、言葉がままならない。
だが、こくこくと何度も首肯し、より深い進展を望みたいと示した。
それを受けて、彼は人差し指を膣口に当て、中指と共に押し挿れる。
「ひゃあっ……!」
より刺激を増した肉の感覚に、堪らずラムレザルが喘いだ。
「ん、んん……!」
より辺りに響くようになった水音が、既に真っ赤な羞恥心を膨れ上がらせる。
それでも、止まらない。昂っていく体は、否応にも快楽を飲みこんでいく。
膣口を拡張する為、中指と人差し指を膣壁に押し当て広げる。
広げられていく動きに伴って、彼女の背中はびくりびくりと、過敏に反応を返した。
荒い呼吸の中で、それでも彼女は言葉を紡ぐ。
「ああっ、はぁっ、んぁ、れ、レイ、ヴン……」
つと自分の名を呼ばれ、平坦になりつつあった感情が跳ね上がる。
レイヴンは動揺を抑えて、ラムレザルの瞳と合わせた。
「――なんだ?」
未だ送りこまれる快感の波を押さえて、彼女が訊く。
「この、いつもとは……『違う』感覚が……『気持ち、良い』……なの……?」
「恐らくは、そうだろうな」
「なら――」
ラムレザルが、右手で彼の頬を覆う。
「貴方の、『気持ち良い』と、同じ……?」
不意の確認に、レイヴンは静止する。
――自分の「それ」とは、違うだろう。
彼は、痛みを以て「生きている」という事を確かめる。
苦痛に因って、己の肉体を怯えさせる事で、まだその部分は正常なのだと確かめる。
「気持ち良い」という事。
同じ言葉であっても、ラムレザルをその域に引きずりこむ事はできない。
彼女を、苦痛に狂う存在には、できない。
レイヴンは静かに首を振る。
それを見て、彼女は小さくつぶやいた。
「違うの……」
悦楽に濡れた瞳に、悲哀が一粒だけ混じる。
しかし、その一粒を掻き消すように、レイヴンの二指が膣を抉った。
「ああっ! んっ……!」
寂しい。
こんなにも近くなったのに、彼と同じ快楽を得る事ができない。
その寂しさを埋める為、ラムレザルの口が、彼を求める。
求めた結果、口唇がレイヴンの首に辿り着く。
「ッ!」
レイヴンは一瞬、眉を跳ね上げた。
ラムレザルは彼の首筋を噛み、犬歯を皮下へ抉りこむ。
苦痛。
彼にとっての、快楽。
レイヴンの口が動く。
「何故」と問われる前に、ラムレザルが答えた。
「――違う感覚でも、いい。
一緒に、気持ち良く、なりたい」
健気な奉仕に、レイヴンがびくりと反応する。
「気持ち、いい?」
数十秒の時間をかけて、レイヴンが頷く。
彼の首肯を得て、ラムレザルは瞳を閉じた。
視覚を遮断し、触覚と味覚が鋭く尖る。
首筋から溢れる血を、舌で拭う。
傷口を溶かす唾液が、熔鉄のように熱く、彼を苛んだ。
「あァッ……!」
今度は、彼こそが喘ぐ。
「ッ……」
ラムレザルの口は、彼の首で埋まっている。
それでも、肉体から押し寄せる快感に耐え切れず、声にならない喘ぎを生み出す。
互いに、互いを高め合う。
快感の種類は違う。だが、思い合うのは同じ事だ。
血を通貨に、二人は意思を重ね合わせる。
個が溶け合う。
「……んッ……!」
ラムレザルは、血の代替のように愛液を零していた。
既に三本の人差し指、中指、薬指を全て受け入れるまでになり、その全てに淫靡な照りが生まれている。
もう、拡張は充分だろう。
右手が彼女に包まれる感覚は名残惜しいが、レイヴンは左手を自分のズボンのベルトに置いた。
それに疑問を抱いたラムレザルは、彼の首から口を離して、一旦制止する。
「なに……?」
少しだけ、罪深さを再確認されて息を飲んだ。
それでも止まる事はできない。レイヴンは、彼女に知らせる。
「私が今、お前に指を入れている」
「うん……」
「だが、それは本来の『行為』の前段階に過ぎない。
…………男というものは、女の中に入れる為の、生殖器がある」
己の下腹部を、わざと彼女の足に押しつけた。
「っ!」
布を隔ててもなお、その怒張したものにラムレザルが驚く。
男女の違いというものは、単に体格や声質の違いだけではない。
彼女は、それを実感した。
実感すると同時に、喉から熱い息が立ち上がり、欲望が羞恥心を上回る。
おおきい。
指よりも、ずっと。
そんなものを、自分の体に入れてしまったら、どうなってしまうというのだろうか。
知りたい。
いや――感じたい。
ラムレザルは両腕を下ろし、自ら陰部に手を伸ばす。レイヴンは、彼女の手の気配を察し、自らの手を彼女から引かせた。
恥ずかしい。だが、彼もやった事だ。
彼女は指で入口を引き広げ、レイヴンを酷く誘惑した。
「……入れて。
私……それ……やってないのに、すごく『きもちいい』って、理解している」
異性を全面的に受け入れるという言動。
男を惑わせるには恐ろしいほどに覿面だ。
「ッ!」
許可も、同意もなく、レイヴンは衝動的にラムレザルをきつく抱きしめた。
荒い息を彼女に押しつけるように頬を摺り寄せ、右手が己のベルトにかかる。
ズボンを下ろし、ラムレザルを地面に転がす。
彼女は両脚を軽く開き、彼の到来を待ちわびた。
そして、レイヴンは両の手指を彼女のそれと絡ませて、ゆっくりと腰を下ろした。
「あぁっ!」
入る。
まずは、ほんの先端のみ。
だが、それでも過敏にラムレザルが反応する。
「ッ……!」
レイヴンもまた、情けない喘ぎ声を出すまいと歯を噛んだ。
一番敏感なのは「頭」である。彼女の熱に包み焼かれ、性感を突かれる。
しかし、苦痛ほどではない。むしろその微弱な手応えを楽しむように、しばらく腰が止まった。
レイヴンにとっては、灼熱のような抱擁だった。
ラムレザルにとっては、水のような侵入だった。
「ん、んん……!」
入口だけの刺激は歯痒く、ラムレザルが自らレイヴンを飲みこんだ。
腰を寄せ、脚に力を入れ、ずず、とより深く接触する。
「あぁッ!」
自分から動いたというのに、慮外な感覚が神経を刺し貫く。
性感帯への刺激が想像以上で、ラムレザルもまた止まってしまう。
二人、静止する。
見下げるレイヴンの眼に、見上げるラムレザルの瞳に、片一方の瞳眼が浮かぶ。
見つめ合ったまま、どちらからという始まりもなく、唇に引力が生じた。
「ん……」
彼女は、瞳を閉じた。
間近に、愛しい気配がする。
こんなにも興奮するというのに、安心してしまう。
ラムレザルの体が弛緩する。
だが彼は、違った。
「っ!」
一気に腰を押しつけ、ラムレザルの体を貫く。
最深部に到達しては、急速に引いて、再度寄せた。
「ゃっ! あっ、んぁッ、やあっ!」
彼の唇から離れ、ラムレザルが喘ぎ出す。
彼女の蠢く唇を舐めながら、レイヴンが彼女の体に沈む。
刺激を。
より眩い快楽を。
己は苦痛を至上としている。
あの痛烈な感情の先鋭化を思えば、性的快楽など足元に横たわる。
首には、彼女が残してくれた傷痕がある。
それを種火に、己の昂ぶりを持続させ、彼女を満たさねばならない。
女の体というのは、幾度も経験がある。
その過去を引き出して、彼女の体を貶める。
「ゃっ、あぁッ!」
声に苦痛の色はなく、悦びの一色に染まっている。
だが、ラムレザルは、レイヴンの背に腕を回すと、己の首を起こして彼の耳に言葉を置く。
「だめっ……!」
明確な、否定の意志。
レイヴンは止まり、同時に心が凍る。
自分の行いが彼女を尚更傷つけたのか、その恐れに。
ラムレザルは、彼の瞳を真っ直ぐに見つめると、彼の不安を払拭するように首を振る。
「だって……貴方が、『きもちよく』ない……!」
ラムレザルは、背に回した手を鳥趾の形にし、彼の広い背に爪を立てる。
「あまり、痛くは……『きもちよく』は、ないかもしれないけど……」
彼の鎖骨に牙を立て、骨を軋ませる。
「でも……私は、貴方と一緒がいい。そう言ったの」
「……!」
自らの手で、自らの体を傷つけるのではなく、
彼女の手で、自らの体を傷つけられる。
それも、憎悪や嫌悪によってではない。
愛を向けながら、傷が生まれる。
確かに、この痛みはどこまでも小さい。
それでも、愛し、愛される存在からの贈与の証明。
感度の大きさではない、感情の大きさだ。
二つの傷を得たレイヴンは、興奮を保ったまま、再度動く。
「んんっ……!」
今度こそ。
互いに満たされながら、静かに、しかし情動は激しく、互いの体を沁み込ませる。
「あっ! やっ、ぁんッ……!」
ラムレザルが、膣の奥深くを突かれる度に甘い声を出す。
「っ……!」
レイヴンが、背に傷を一筋刻まれる度に震える。
彼女の中を掻き乱す都度、彼女から苦痛のフィードバックが返ってくる。
その繰り返しに、脳が錯覚を引き起こす。
苦痛ではなく、ラムレザルの体こそが、「きもちいい」と。
「はぁっ……!」
彼の口から、声が漏れる。
彼は、己の経験を元に、彼女に悦楽を教えこんでやろうとしていた。
だが、違った。
むしろ彼女の素振りこそ、彼に苦痛を餌とする、主の振る舞い。
生命としての、人間としての快感に鳴らすよう調教しているようだった。
性感に呼応して苦痛を与え、それが「きもちいいこと」だと身体に再認識させる、パブロフの犬。
何が要因として自分の身が歓喜しているのかすら、分からなくなる。
感覚の混線が頭に火花を散らし、これまでにないものが沸き上がる。
「やっ! だめっ! なにか、……くる!」
ラムレザルも同じだった。
味わった事のない絶頂の到来に、不安と期待を綯交ぜにする。
腰を一際大きく引くレイヴン。
ラムレザルはその一撞を察知し、彼の腰に脚を巻きつかせ、彼女から彼を受け入れる。
「ぁあッ!」
どちらから出た声なのか、あるいは両者からなのか、分からなかった。
後ろに脚を回され、奥深くまで彼女を穿ったレイヴンは、
彼女の深層に、自己を溶かした。
「ひゃ……!」
これまでの感覚とは違う、固体ではないモノの存在を知覚し、ラムレザルが驚きの声を上げた。
同時に、心身が幸福に満たされる。
ああ。
きっと、これが、私の、貴方の、「きもちいい」。
充足を脳に刻み、しばらく二人が抱き合っていた。
「……………」
沈黙が快く過ぎていく。
相手の吐息の音が、耳を撫ぜる。
ラムレザルの絡む脚が弛緩すると、レイヴンが彼女から離れた。
「んっ……」
離れる間際に、くちゅっ、と互いの性器が鳴り合った。
ラムレザルは恥ずかしげに頬をこすり、それからレイヴンのものを改めて見る。
「それが……入ってたの?」
見つめられたレイヴンは、若干の居心地の悪さを覚えるも、隠す事なく返す。
「そうだ」
「へえ……」
妙な感慨が湧き、じっと見やる。
実際に入れる際には、触覚でその存在を知っただけで、視覚として捉えたのはこの時点からだ。
ラムレザルは、好奇心から手を伸ばした。
「……何をする気だ」
レイヴンが疑問を呈する。
「だめ?」
首を傾げるラムレザルに、口ごもるレイヴン。
黙する間にも、彼女の手が触れる。
「ッ……」
ほんの少しの刺激でも、体全体が痙攣する。
射精したばかりで、感覚が鋭敏になっている。
縮小し、軟質化したそれを、ラムレザルは可笑し気に触った。
生物として秘匿すべき、男性器の敏感さを考慮しない、無邪気な愛撫。
「っ!」
ビクビクと引き攣るレイヴンに、ラムレザルが歯を見せた。
「これも、『きもちいい』?」
常であれば取るに足らない感覚だったが、性感と痛覚を攪拌されたレイヴンにとって、それは彼女の指摘通りのものだった。
射精したばかりであっても、精巣からぞくぞくと爛れた気配が昇ってくる。
「……ふふ」
ラムレザルはすっかり彼の感情を透視しているようで、レイヴンがこの状況が嫌ではないと理解していた。
精神的苦痛――少女に弄ばれているという状態――も加味して、レイヴンが再度高まっていく。
「わ……」
手の感触が、より輪郭のはっきりとした主張をしてきた。
それと呼応するように、ラムレザルの体の奥がまた疼く。
接合の熱の再来に、今度は彼女からレイヴンの上に跨った。
「……大丈夫か?」
レイヴンの心配に、ラムレザルが僅か笑む。
「多分。私は分かった、と、思う」
彼女自身のものと、彼のもので、膣は既に濡れている。
初めてのときよりもずっとスムーズに、受け入れる事ができた。
「んん……」
ラムレザルが腰を下ろしていく。
「はあっ……」
正常位では互いの顔を見ているだけだったが、騎乗位の体勢では、下腹部の様子がはっきりと見える。
レイヴンは自分のものが彼女の中に沈んでいく場面を見て、被支配の悦楽を味わった。
「……私の事は、気にしなくていい。今度は、お前の好きなように動け」
「うん。レイヴン、ありがとう」
彼の名を囁いて、彼女は本能に従って動き始めた。
「あっ……」
分かる。
理解、した。
彼から手解きを受けた事で、自分の欲望の方向を理解できた。
レイヴンが離れ、一人残された時とは違う。どうすれば、己の熱を冷ます事ができるのかを、知っている。
足に力を入れ、静かに腰を浮かし、重力に任せ、腰を下ろす。
「あっ、んっ、はぁっ、んんっ」
繰り返す。
自分から、自分の好きな所を。
「……っ」
無我夢中になるラムレザルを見つめ、レイヴンの指が地面を掻く。
こんなにも、彼女は己を貪っている。
愛欲の証左を目の当たりにして、高ぶると共に罪深さを痛感する。
ラムレザルにこんな事を教え込んだのは自分だ。
姦淫の罪。この世界に自分たちしか知らない、林檎の味。
背徳感が脊髄を駆け上がり、高揚の火の薪とくべられる。
罪深いほど、深く溺れる。
「っ、あ、ん、いいっ」
ラムレザルの行き場のない腕は、彼女自体の体を抱きしめる。
体が上下する毎、彼女の褐色の胸が震え、伝う汗が飴になる。
柔らかく膨らんだ胸が、鼓動に前後する。
女だ。
彼の眼前に広がる光景が、全てそう訴えていた。
「――はあっ」
ラムレザルが下腹部を圧迫し、そこから空気が押し出されたように、レイヴンの口から息が漏れた。
千年。
その千年の間に、彼女ほど自分を必要と者はいるのだろうか。
この身は、「あの御方」に捧げたものだと信じていた。
「あの御方」は、確かに自分を必要とはしているだろう。己を礎と、柱と、砌
彼女はそうではない。
己を欲情の、情愛の、愛恋の――一人の人間として、私を愛している。
――私は、
――私は、どうだろうか。
愛するという事を、何年か何十年か何百年か前に、諦めたつもりだ。
人間の感情に欠陥を抱き、それでも存続する惨めな有機体だと自己嫌悪していた。
それがどうだ。
己の胸に溜まる、この灯火は何だというのだ。
千年。他人から言及されるに、「永い」と断じられた事がある。
自分もまた、この千年は感情の石臼として引き潰してきた、長きにわたる退屈であった。
この瞬間。
自分が千年を生き続けて、この灯火は、千年辿ってきた生涯の何にも一致しなかった。
過去が一瞬に脳裏を巡って、ともすれば、ラムレザルという存在との邂逅が、この千年の回答とすら錯覚した。
――いや、錯覚だ。
自虐的に笑い、期待を下げ、そうして来るべき失望の落差に備える。
そのレイヴンの機微すら察して、ラムレザルは手を伸ばした。
「――私は、貴方を愛している」
真っ直ぐに、正面から。
その言葉を投げるより、受け止める方が恥ずかしくなる直球だった。
「だから、貴方は、私を愛して」
「…………」
命令を受けたのは、何度だってある。
遥か昔、母国の戦争で殺せと言われた時もある。あるいは主の下、ヴィタエ回収の命を受け、そこでも殺した事がある。
その命令の、何と甘美な事だろうか。
彼女は、自分が他人を愛する機能を持つ人間として扱い、そう言っているのだ。
レイヴンはラムレザルの伸ばした手を取り、指を絡ませた。
「ああ」
レイヴンと意思を通わせ、ラムレザルが再度動き始めた。
愛している。
愛されている。
その実感が、より湿潤に欲求を募らせる。
目と膣を濡らし、ラムレザルの腰が蠢く。
それにレイヴンの律動も加わり、両者がもう一方を慈しむように貪る。
結合部から溢れる、二者の体液が地面に広がる。
腰が動く毎に淫猥な水音が立つが、それに恥じ入る事すらない。
最早互いに互いを求めることだけに意識が注がれ、聴覚には片翼の吐息、視覚には片目の面差。
「きゃっ! んんっ、ゃっ!」
「くっ……ッ……はぁっ……!」
共に、絶頂の再来を察する。
ラムレザルはしなやかに背を前方へと倒し、腹部が、胸が、そして唇すら、彼と重なる。
「んっ……!」
熱を交換する抱擁。
夜の冷気にあっても、決して収まる事のない熱。
「ああぅ! くる――来ちゃう!」
脳に火花が散り、ラムレザルの膣が収縮する。
レイヴンは腕を彼女の背に回し、花園の終焉、その到来を待つ。
「ああっ! レイヴンッ! 私は――貴方を――」
唇が、虚を描く。
弧を描く。
呼を――。
知覚はしなかった。
それよりも鮮烈な、肉体と精神の融け合いに、意識が同一化する頂点に達した。
空白。
何よりも至福な、余熱の持続。
今はもう両者共に平常の服と態度を装い、しかし互いに見つめ合うと、羞恥心もなく魅了され合う。
「……惜しいな」
ぽつりと、空白を裂く。
「お前は、『あの御方』の下につかないだろう?」
諦念、残念、だが、殊更な無念はない。
それもまた一興と、レイヴンが柔く笑んだ。
「――うん。……今の所。
貴方の事は、随分……すごく、嫌いじゃなくなった。
でも、『あの男』の事は、分からない。だから、私はまだ、あそこにいる」
自分が抜け出してきた方面に目を向けて、ラムレザルが答える。
「だから、すごく、離れたくないけど……きっと、これで、またお別れだ」
「ああ」
レイヴンの同意が、耳を撫でる。
彼は今、私を抱きしめてはいない。
だが、こんなにも安堵する。
一緒にいるだけで、温もりすら感じ取れる。
レイヴンが指を鳴らすと、消えていた焚火は再度灯った。
「朝日は近い。だが、狼が来ては困る」
ラムレザルが、ここに来て目蓋が重い事に気づいた。
そうだ。自分は、眠れないからここまで来た。
安堵による睡魔の到来が、抗えないほど近寄ってくる。
レイヴンが、目を閉じる彼女の睫毛を撫でつけた。
「私も、お前を――」
「――レザルッ、ラムレザル!」
己の名を呼ばれると共に、頬を叩かれる。
夢の世界への未練ある目を開き、ぽかんとして目の前の人物を呼称した。
「……ソル。おはよう」
「『おはよう』、じゃねぇ……どうして俺たちから離れて、こんな所で眠ってた?」
それは、咎めると同時に、自分を心配してここまで探してきたのだろうという声色を含んでいた。
ラムレザルは申し訳なく思い、しゅんと頭を下げた。
「ごめんなさい……眠れなくて、でも歩いていたら、急に眠くなってきちゃって……」
そういえば、自分から初めて嘘をついたかもしれない。
初めてにしては上出来な嘘を、ソルが受け止めて舌打ちした。
「……確かに、そこらへん歩いて来いとは言ったが……まあ、眠るなら集まって眠っておけ。狼や野盗に絡まれたら、厄介な事になる」
「うん。ごめん。今度からは、ちゃんと一緒に寝る」
その謝罪に、ソルは怒気を収めて、ラムレザルの体を起こさせる。
「なら、そろそろ行くぞ。
今日こそは次の街に着く。でなけりゃ、シンの泣き言を延々聞くハメになる」
ぼやきと共に、風が鳴る。
二人はそちらに注意を向けた。
朝の陽ざしと共に、鴉が舞う。