贋銀と黄金

過去捏造描写あり
「そういえば、あと一年後くらいでアンタの誕生日だったよな?」

イノがせせら笑いながら、レイヴンに話しかける。

「風船のような問いかけだな」

「風船?」

「何でもない。だが、確かに日は近い」

3月28日。
絶えぬ年月を耐える彼にとって、その日は他よりも微小に差異のある日。

彼女の話で、ようやくその事を思い出す程度の日である。
大して期待もせず、今度はレイヴンから問いかけた。

「何をするつもりだ?」

「別に。ただ、それだけ覚えてるってのがおかしいと思ってな」

イノが黒髪を指で巻きながら、先の質問の意図をどうでもよさげに説明する。

「生まれた年は覚えてないんだろ? それなのに誕生日だけは覚えてるって、中々珍奇なモンだと思うだろ」

「そうかもしれないな」

言われて、レイヴンが緩く同意する。
彼は時を隔てた遠くを見つめ、その由縁を説いた。

「誕生日には、毎年親が甘いパンを作った。蜂蜜漬けにした林檎をくるんで揚げたもので、当時一番の贅沢だった。
 それがただ、私の頭に残っている。古い人間の拙い懐古、それだけの理由だ」

それを聞いて、イノが内心で驚く。
レイヴンにも親はいる。当たり前の事ではあるが、目の前の男に幼い時代があった事など、思い至る事がなかった。
目の前の存在は、この世に発生した時から頭に針のある男である。そんな感覚が裏切られる。

「まあ、そうだよな……コイツにも毛も生えてない時もあったんだな」

「……当人を前にして、やけに大きな独り言を言うな」

怒り、というより呆れ。レイヴンがイノを切り捨てる。
彼女と話す事の生産性を低く見積もったレイヴンは、言葉もなく彼女の視界から去っていく。

その背を見つめながら、イノの好奇心が首をもたげる。

自分に親はいない。生まれた時からこの状態だった。
ならば、あの野郎は生まれてから数年経った時、どのような状態だったのか?

彼女が時間跳躍という超高度な技術を揮うのは、それだけの衝動で充分だった。


その地に降りた時、まず彼女を受け入れたのは腐葉土の柔らかさだった。
山頂の冷たさと麓の温かさが交じるくすぐったい温度の中、彼女は透明な息を吐く。

正確な年は分からない。
レイヴンの生地(しょうち)を求めての時間跳躍は、これまでに六回ほど行っている。
その六回は何かと言えば、既にレイヴンが不死となった後の時代であったり、あるいは生まれてすらいない時代であったり、という試行の回数である。
それを繰り返している内に、飛び先の時代が何年であったかという情報が脳から押し出された。

「テメェの年ぐらい覚えてろよ、気がきかねぇな」

理不尽な愚痴を吐き、レイヴンの生体法紋を探る。
これで見つからなかったら帰るつもりだ。帰って一番にあの鳥頭を殴る事で気を晴らす。

と、探知の法術に、見飽きた反応が返ってきた。
イノは反応のあった北北東に足を向け、反応が強まっていくと同時に村が見えてくる。

村の共同窯からは煙が上がり、灰のヴェールが朝日にかかる。
この村にレイヴンがいるのは間違いないだろう。法術を終了させ、村の外周を囲う畑に近づいた。

畑には、農作業をしていた男が一人。その男が農作物を持ち上げようと面を上げた瞬間、自身と目が合った。
男は外部者に向ける警戒を露わにするが、対してイノは偽物の笑顔を披露する。

「こんにちは。わたくし、旅の楽師ですの」

悪辣なまでに丁寧な物言いで、ただでさえ短いスカートの裾をつまんで上げるイノ。
色香を前にした男は、不審を上回る下心で彼女を迎え入れた。

「そ、そ、その旅の方が、どのような用件で?」

「オオカミが怖くって、夜通し歩いてへとへとですの」

疲労を示すように男に倒れこみ、胸の温柔を押しつける。

「ですから、どうかこの村でしばらく宿をお願いしたいんです。よろしいですか?」

「え、ええ! ええ! オイの家は一人ですんで、屋根を貸すくらいどうにでもなりやすよ!」

たじたじになる男をよそに、イノの目が虹色に光る。
七色の中に、銀髪の少年の姿を捉えた。

イノは家に引きこもうとする男の腕を払い、なだめる為にウインクする。

「ごめんなさい。あちらの誰かが呼んでるみたいですの」

未練がましい男の手を振り切り、イノはずかずかと少年の元へと近づいた。
一歩踏み出す都度、少年の容姿を値踏みする。プラチナブロンドの麗しい少年だ。
年は十歳前後か。切れ長の目に、豊かな睫毛。農作が主な労働であるこの時代において珍しく、透き通るような白い肌をしている。

銀髪はイノに気づくと、待ち構えるように立ちつくす。
言葉を問題なく交わせる距離まで短くなると、先制して銀髪が声をかけた。

「……なに?」

敵意と共に睨め上げる様が、全くそっくりだった。
イノの唇が少しひくつくが、「現代」への不満を踏みつけて対応する。

「アナタ、なんてお名前かしら?」

「言わない」

つっけんどんな態度に、ヒールの下の土が静かに潰れる。

「なんでかしら?」

「妖精に名前を教えると、子供をさらって食うんだ。
『知らない人は全員妖精だと思え』って、母さんから言われてる」

「へーぇ」

いかにも昔の人間らしい迷信だ。
否定するのも疑いを増すだけだと思い、イノは適当に肯定する。

「確かに、アナタの銀髪なんか、この村で一番キレイそうだものね。攫っちゃいたいくらい」

「そりゃ一番だろう。だって、この村でオレしか銀髪がいないんだ」

褒められて悪い気はしないようで、銀髪の胸が膨らんだ。

確かに、他を見回しても、いるのは黒髪や赤紙、くすんだ金髪くらいしかいないようだ。
だとすると、やはり、という確信がイノの中で生まれてくる。

イノはしゃがんで銀髪と目線を合わせると、警戒心をほぐす為に名を渡す。

「アタシはイノ。旅の楽士よ」

「このへんじゃ聞かない名前だな」

「ここからずっと遠い所から来たからね。それで、坊やの名前は?」

「それは……」

母の教えを守るべきか、それとも、少しだけ信頼し始めたこの女の言う事を聞くか。
銀髪がせめぎ合いを表情にしている最中、背後の家から出てきた女性が金切り声を上げた。

「そこの女! ウチの子を盗るつもり!?」

その女は豹のように距離を詰めて、イノに向かって拳を上げた。
だが、剣よりものろい拳だ。イノは振り下ろす動作と共に後ろへ足を動かし、余裕の表情でたしなめる。

「奥様、そう怒らないでくださいまし」

「何を言ってるの! よくもあたしの子を――!」

「待って、母さん!」

銀髪は、母の体にしがみつき、蛮行を止めさせる。

「この人は、さらって食うようなことはしない。だから、殴るのはやめて欲しいんだ!」

実の息子からそう言われ、母はようやく怒りを冷やした。
しかし怪訝そうな目はイノに向け、形だけの謝罪をする。

「それは、まあ、先走って、ごめんなさいね。
 貴女、このへんじゃ見ないもんで。妖精か人食いかとでも思ったわ」

「いいですわ。それだけ、息子さんを愛しているって事じゃありませんか」

心にもない甘言を舐めさせるだけで、母の態度は軟化した。

「あらあら。でもそう、こんなに良くできた息子ですのよ」

そう言って母は銀髪の頭を撫でる。
銀髪は居心地が悪そうに顔を下げ、赤くなった頬を地面にだけ見せる。

その様子が「現代」のそれに似つかわしくなく、イノはくすぐったく笑った。

「お母様にお似合いですわ」

少し褒めるだけでチョロイのが、と内心追記する。
イノの内心を知れない親子二人は、言葉だけで懐柔されたようだ。

「いやぁ、本当に、ご無礼を申し訳ございません。
 何と謝っていいものか……ああ、よければ、上がってもらえませんでしょうか? 朝食がまだでしたら、ぜひご同席を」

渡りに船の申し出に、イノが手を合わせて快諾した。

「あら、ありがとうございます。でしたら、ご相伴に与らせてもらいますね」


「――それで、ったら本当に良い子ですの。
 早いころから本も読めるし、字も書けるんです。あたしたちには本当にもったいない子で――」

口の回る母親の言葉を、表情筋の固着した笑顔で受け流す。

イノが口に運ぶのは、辛いだけの塩漬け肉。それと大量の硬いパンに、薄いワイン。
肉を手づかみするのは抵抗があったが、この時代の庶民にフォークなどは存在しない。

郷に入っては郷に従うしかなく、イノは不快さをおくびにも出さず食事を進める。

テーブルを囲むのは、彼女を除けば三人。
母親と父親と銀髪。三人家庭である。

母親はご覧の通り、お喋りで感情的であり、「女」の枠に入れて抜いたような人柄である。
一方の父親は寡黙そうで、食事中に一言も発していない。
銀髪は少し程度に棘のある、だが結局は少年の域から脱していない子供だった。

その銀髪を一瞥する。べた褒めする母の言葉を耳に入れ、再度顔を赤くしていた。
――「今」でもこんななら、もっとからかい甲斐はあっただろうに。

「お宿は、ございますか?」

そこで初めて、父親の口が開いた。
声の低さは、確かにレイヴンと通じるものはある。

「いいえ、生憎」

首を振るイノに、母親は、手を合わせて「良い事を思いついた」と目を光らせた。

「でしたら、今晩泊まりませんか? 何でしたら、一週間ほど滞在いただいても」

警戒心の強い村での、宿の確約。
食事以外は願ってもない提案に、イノが頷く。

「本当にありがとうございます。では、甘えさせてもらいますわ」

イノは噛み切れないパンをテーブルの上に置く。
そのまま席から立ち、母親がイノの起立を目で追った。

「あら、お腹一杯ですか?」

「はい。翌朝、またいただきますね」

また明日に不味いものを口にしなければいけないのが、げんなりと来るが。
しかし、母親は厳しい顔をして否定した。

「それはいけませんわ。時間を置くと、食べ物が悪いものになってしまうかもしれませんから。
 、お客様のお残しを、裏口に捨ててちょうだい」

「はい、母さん」

食事の終わった銀髪が椅子から離れ、イノの残飯を持ってどこかへと駆ける。

「本当に、羨ましいくらい出来た息子さんで」

「ええ。あたしたちの自慢の一人息子です」

母親が、父親に目配せする。父親は少し気乗りしないように首肯した。

「そう。まぁ、普通より少しは、いいんじゃぁないか」

残飯を捨てて戻ってきた銀髪は、自分の話題がまた広げられているのを聞いて、意を決して話の転換点を作る。

「恥ずかしいから、やめてくれないか?
 それより、ライ麦が切れてるよ。コボルドが逃げてしまう」

「それは困るわ。隣からまた一束ライ麦を貰わないと」

「コボルド?」

イノが首を傾げると、銀髪が説明する。

「お姉さん知らないの?
 家に住む、小さい妖精だよ。牛乳や麦をやると、代わりに家の世話をしてくれるんだ。
 ただ食事をやらないと、畑を不作にしたり、銀を腐らせたりするんだよ」

「ああ、また妖精ね」

ファンタジー創作の犬っぽいモンスターという認識を改め、イノは小さくうんざりする。
現代で否定される迷信が真実と通るこの時代において、この感覚の擦れ違いは快適とは言えない。

母親がライ麦を貰いに外へ出て行き、今度は父親が銀髪に命令する。

「イノさんを空き部屋に通してあげなさい」

自分からは動かない父親に対して、不満の色を小さく示す。
それでも銀髪はイノに近づき、進行方向を指さした。

「こっちだ」

銀髪の後ろをついて行き、木の扉の前に着く。

「前に……使ってた部屋で。今はもう誰もいない」

そう説明しながら、銀髪が扉を開いた。

扉の先は、控えめに表現すれば「物置」だった。
土のついた木の棒きれ、収穫用の丸い小鎌、共同窯の灰を掻き出す火掻き棒や、麻紐を結って作られた馬の鞭。

「この部屋で寝ろってコトかしら?」

あえて満面の笑みでイノが問いかけ、銀髪が慌てて言い繕う。

「ご、ごめん! こんな荒れてるとは思ってなくって……。
 あ、今片づける! 片づけるから、ちょっと待ってて!」

わざわざ自分の為に、憎んでいる相手が働いている。
冗談のような状況に、イノはくすりと感情を漏らす。

結局、その部屋が片付く頃には、日が赤くなっていた。


「はぁ……」

藁の臭いを嗅ぎながら、天井を見る。
ベッドは、ホテルのように白いベッドではない。枯草色だった。

藁を集めて、その上から布をかぶせる。そこに寝転がり、薄い織物を体にかける。
それがこの時代の夜の過ごし方だ。

窓は存在するが、ガラスは存在しない。部屋の壁の一部には穴が空き、麻のカーテンで外と区切る。
曖昧な区切りは、夜風に煽られて月明かりの侵入を許していた。もしこれが真冬だったらと思うと、震えてくる。

「もうこのまま、帰っちまおうかな」

思い立って、すぐにでも法術を唱え始めるイノであったが、夜の景色から声が流れてきた。

「おい」

「……あん?」

ベッドから起き上がり、スプリングの代わりに枯草の乾いた音が鳴る。
窓に近寄ると、麻のカーテンで隠されていた人影がはらりと見えた。

白髪。
銀髪ではない。その髪の色は豊かに輝かず、あの少年よりもずっと色褪せた印象を抱かせる。

少年と青年の間に立つ人間の雄が、緑色の目でイノを睨んだ。

「そこはオレの場所だった」

不審な白髪を前に、イノが不敵に構える。

「だが、今はアタシの場所だ」

縄張りの誇示に、しかしあっさりと白髪が引き下がる。

「そうか」

それだけを言い残し、大した敵意もなく白髪が夜の中に溶け消えた。

「……何だよ」

不快なベッドに戻り、一息つく。

「アイツの目のが、そのまんまじゃねぇか」


「おはようございます」

体から藁を払いながら、起床したイノが挨拶する。

父親と銀髪の二人は、既にテーブルについていた。
母親は朝食の支度に忙しなく動いている。

イノは席に座り、向かい合わせの父親に照準を合わせた。

「少し、質問いいかしら?」

「何でしょう」

くん、一人っ子なのよね?」

問いに、一瞬だけ止まる。
止まったのは、問いかけられた父親だけではない。銀髪と母親の二人もまた、その動きを止めた。

一瞬だけだ。次には、動く。

「――ええ、そうです。それで、何か問題が?」

答えではなく、家族の反応に満足して、イノは首を振った。

「いいえ、何も」

がたん、と銀髪が席を立つ。
そしてそそくさと外へ出て、水桶を持って銀髪が戻ってきた。

「ごめん、母さん。水汲み忘れた。
 お姉さん、水汲み手伝ってくれる?」

「こら、お客さんに手伝いをさせるなんて――」

母親の叱責を抑えて、イノが誘いに乗る。

「いえ、いいですわ。朝の散歩に行きたい気分ですし」

銀髪と共に家を後にする。
村を抜け、川へと向かうであろう道すがら、イノが切り出した。

「で、何か用?」

あの状況で、後回しできる用事をネタに自分を連れ出した。
銀髪の幼稚な意図を察したイノは、彼の言葉を待つ。

吹く風が緑を鳴らし、梢が静まる頃に、銀髪がイノの目と相対する。

「お姉さん、なんでさっき父さんに『一人っ子か』なんて、きいたんだ?」

質問ではなく、確認。
目の前の女が家族の嘘を見破ったという事を確かめると、イノの返事を待たずに否定する。

「違うよ。オレ、兄貴がいるんだ」

目を伏せて、言い直す。

「いたんだ」

銀髪は水桶の底を上にして地面に置き、即席の椅子に腰かけた。
長丁場になると悟り、イノもまた手近な草を手で均して座る。

「兄貴は、母さんと父さんからよく無視されてたんだ。
 オレ、昔は兄貴に少しだけ話しかけたりしたんだ。それを……母さんが、兄貴に話しかけた瞬間にこっち睨んでるって気づいて、それからオレも兄貴を無視するようになってしまった」

話す銀髪の顔も声も、その話題に合わせるように暗くなる。

「三ヶ月前のある日、兄貴がいなくなったんだ。
 さすがにその時、母さんに『兄貴がいない』って言ったんだ。
 そうしたら、『あなたにお兄さんなんていないでしょう』って言われて……すごく、当然のことのように言ったんだ。
 オレのほうが間違ってるんじゃないか、頭がおかしくなってるんじゃないかって思いこむくらいに……それで今日まで、疑わないように生きてきたんだ」

拳を握り、己の無力と怯懦に怒る。

「兄貴、妖精に攫われたんじゃないかって思ってる。
 だから、最初お姉さんと会ったとき、あんなこと言ったんだ。本当にごめん」

頭を下げる銀髪に、イノが粗雑に首を振る。

「いや、別にいい」

「?」

丁寧語のない返答を繕い、言い直す。

「い、いえ――別にいいわ。アナタも辛かったでしょうね」

口だけのフォローに、銀髪がついと目を逸らす。

「きっと兄貴のほうが辛いよ」

そりゃ、家の中でぬくぬくと育っているヤツと比べれば、そうだろう。
同情も何もない感想を掃いて捨て、イノが銀髪の背をさすった。

「さあ、家に帰りましょう。
 川の近くでお喋りが過ぎると、妖精が馬に乗ってきて攫ってしまうわ」

自分でも嘘と分かる言い聞かせに、真実のように銀髪が震え上がった。


夜闇。
灯すランプはなく、電子の明りも法力の光りも存在しない。

故に、妨げるもののない星の光が急速に落下し、暗がりを薄暗がりに変えている。
目蓋を閉じても、カーテンから星の光がちらちらと映り、古ぼけた天象儀を思わせた。

目蓋の天蓋に、星ならざる光が混じった時、イノが身を起こした。

「アンタのことはもう聞いてる、おにいちゃん

窓から覗く緑の光が窄む。

「その言い方はやめろ」

相も変わらぬ物言いに、イノが肩をすくめる。

「じゃあ、なんて呼べばいいんだ?」

「好きに呼べ」

突き放す言い方に、悪戯じみてイノが名を呼ぶ。

「レイヴン」

渡鴉(Raven)
呼び慣れたその名を呟くと、いずれ呼び慣れる者が眉を跳ねる。

「……何故、その名を?」

「好きに呼んだだけだ」

レイヴンの言葉を引用し、意趣返しをした。
イノは窓に寄り、誘惑するように体をくねらせる。

「それで、アタシのトコに来てどうするつもり? 一緒におねんねでもしたい年頃か?」

漂う色香を跳ね除けて、レイヴンは吐き捨てる。

「未練があるだけだ。

 元々、両親はそれなりにオレを育てていた。
 幼い頃には子守唄を聞かされた。一人で歩けるようになったら鍬の持ち方を教えられた。豊作の次の年の誕生日には、木苺を甘く煮詰めたジャムが出されたりした。
 それに恩義はある」

一呼吸の沈黙を置き、次に不穏を混ぜ合わせる。

「恩義以外も、ある。

 弟はオレより優れていた。弟と比較しては、両親はオレの不出来さに気づいた。

 両親はよくオレを『取り替え子』だと言った。オレは妖精の子で、本物の赤ん坊と取り替えてしまったんだ、と。
『妖精を追い出す』という名目で、火掻き棒を押しつけられた事も、馬用の鞭で打たれた事もある。

 次第にオレは蔑ろにされていき、弟が物心つく頃には、この家にオレの居場所はなくなっていた。

 三ヶ月前から、オレは家を出た。今は、裏の山で過ごすばかりだ。
 だが、オレはこうして毎夜、家に戻る。理由は未練、それと――」

レイヴンは、手に持ったものを、見えるように掲げた。
それは、歯型のついた塩漬け肉と、ぼろぼろに小さくなった硬いパン。

残飯を口にして、皮肉気に笑う。

「それと結局、家にしか生きる方法がない」


朝起きて、テーブルを確認する。

少し起きるのが遅かったのか、銀髪と父親は既に食事が終ろうとしている頃だった。

「お母様は、どちらかしら?」

「裏口に行ってるよ。残飯を捨てに」

銀髪の指さす先に、扉を開けて作業をする後ろ姿を認める。
イノは母親に歩み寄り、声をかけた。

「お母様?」

「なんでしょうか? なにか、ご用が?」

振り返りぎわ、手に持っていた食べかけの肉とパンが見えた。
イノがそれを見て見ぬふりをし、母親を試す。

「そうですね。お母様がどのようなご用で、裏口に行っているかと思いまして。
 何か、わたくしにもできるお手伝いはないかと」

母親はいえいえと首を横に振った。

「大した事はありませんよ。
 最近、鴉が来ているみたいで、フンでもしていたら掃除しようかと」

三ヶ月前から?」

具体的な日付を出すと、母親が同意する。

「はい。その頃から、残飯を裏口に捨てるようにしているんです」

「大変ですわね」

心にもなく同意していると、水桶を持った銀髪から声が上がる。

「お姉さん」

その声に続く事柄を読み取り、イノが会話を切り上げた。

「朝の散歩に行って参りますわ」

「ええ。お気をつけて、行ってらっしゃいませ」

先日と同じように道を辿り、先日とは違う疑問を銀髪に投げる。

「残飯は、誰が出すようにしてるんだ?」

丁寧語のないイノのため口に、少し驚く銀髪。
しかしその質問を受け流さず、正しく返した。

「みんなだよ。
 毎日、誰かしらご飯を残すんだ。今日のは、父さんの分」

すんなりとは理解できない事象だった。
家にいる時は散々蔑ろにしてきたというのに、いざ家からいなくなると、陰膳のように食料を用意する。

イノは、実感のない感情の名称を思い浮かべる。

「罪悪感からか?」

「かもね。でも、それだけじゃないと思う」

銀髪は、僅かに晴れやかな顔をして、イノと向き合った。

「結局は、きっと家族だと思ってるからだと思うよ」


「違うな」

朝に言われた事を、夜が否定する。

「単に、支配する対象という玩具が欲しいだけだ」

レイヴンを窓から引きこみ、部屋の片隅にあった椅子に座らせる。
彼は乾燥した肉を噛み千切り、咀嚼しながら怨嗟を口から排出した。

「『あいつは自分がいないと生きていけない動物なんだ、自分はそれを生かしてやれる尊い人間なんだ』って思っていたいから、そうしてるだけだろう」

舌に満ちる塩と油の味に、苦々しくレイヴンが表明した。
藁のベッドに腰かけるイノは、茶化すように言い放つ。

「達観してるな。アンタ、もう千歳くらい生きてるんじゃねぇか?」

「現代」への皮肉を含めたそれに、レイヴンは馬鹿にした様子でイノを冷笑する。

「人間、精々五十しか生きられないだろう」

年齢への言及に触発されたのか、レイヴンは指を五本立て、語り始める。

「オレは十五歳だ。誕生日は、もう親から祝われた事がないから、分からん。
 だが、年だけは覚えてる。弟が生まれた時から、『お前は五つ上の兄なのに』とよく詰められた。それが、十年前だ」

レイヴンの語りに、イノに驚きが生まれる。

「生まれた年を覚えてて、誕生日を覚えてないのかよ? 真逆じゃねぇか」

「何が真逆だ?」

イノが訝しむ。

現代のレイヴンは、口から出た通りそれとは「真逆」のはずだ。
生まれた年は覚えておらず、誕生日は覚えている。

新たに生まれた疑問の為に、イノが小さく確認した。

「……3月28日って、何の日だ?」

すると、白髪はすんなりと情報を引き出す。

「それは弟の誕生日だぞ。少なくとも、オレの誕生日はそれとは違ったはずだ」

直感の矛盾。
事実の背反。

目の前の男の目は、紛れもなくあの緑色をしていた。
しかし、「今」の彼が言う事と、「現代」の彼が言う事から組み立てれば、弟の銀髪がレイヴンになるはずだ。

では、今自分が会話し、皮肉に笑い、嘲るように物事を捉える。
この鴉じみた男は、誰だ?

「…………」

硬直するイノをよそに、白髪が窓から流れる風に当たる。

「――風が温くなってきてる。明日が、件の3月28日のはずだ」

そして、白髪は風船のように冗談を放った。

「オレの誕生日は、あと一年後ぐらいと言ったところか」


3月28日。
朝食を並べる母親を前に、イノは深くお辞儀をした。

「そろそろ、旅に戻らないといけませんわ」

その言葉に、四つ目のパンをテーブルに置こうとした母親が目を丸くした。

「まぁ。今夜はこの子の誕生日ですのに。
 一緒にご馳走をと思っていましたのですが……夜まで、待てませんでしょうか」

「いえ。居心地よくって、長居してしまいました。
 本当なら、昨日出るつもりでしたが……どうにも言い出せず、申し訳ございません」

「いいです、いいです。
 ご滞在いただき、良い思い出になりました。、ほら、ご挨拶しなさい」

言われて、銀髪がイノに駆け寄った。

「お姉さん、また来る?」

「どうかしら」

肩をすくめておどけると、銀髪は目を滲ませた。

「その、色々、話させてくれてありがとう。
 また、会えるといいけど……会えなかったら、これをあげる」

そう言って、銀髪はイノの手に硬質な物を握らせる。
手触りで言えば、金属だった。

「これは、兄――いや、」

家の奥にいる両親を考慮して、言い直す。

「何故か、あの空き部屋を掃除してたら、見つけたヤツなんだ。
 遠い国から来た商人が落としていった、銀の硬貨。ここらじゃ使えないし、多分……そう、コボルドがしまってたヤツだ」

そう言い訳して、銀髪がイノから手を離す。
視線を手の平に落とすと、確かに銀色に輝く円が収まっている。

イノは硬貨をしまうと、改めて銀髪に目を合わせる。

緑色の目。だが、未だ純粋を灯す目。
最後に確認する為に、イノが銀髪に問う。

「アナタ、どれくらい生き続けたい?」

脈絡もない質問に、銀髪が首を傾げながら、答えた。

「そうだね。
 ずっとこの先も。できれば、永遠に」

そんな事はあり得ないと分かりながら、銀髪が願望を渡した。
イノは銀髪の頭に手を乗せて、撫でながら二度と会う事のない別れを告げる。

さようなら(Auf Wiedersehen)


裏の山を歩きながら、イノがマレーネの弦を爪弾く。
思い描くメロディは童謡。エレキギターには不似合いな、稚気じみた歌。

――昔々、ある所に、貧しい一家が住んでいた。大層美しい娘がいた。
或る日、一家の元に王様がやってきた。母親は見栄を張り、「娘は藁を黄金に変える」と言い張った。
すると真に受けた王様は、そんな娘ならばと城へと連れていった。そして娘に荷車一杯の藁を与え、「一夜で黄金に変えろ。さもなくば首を刎ねる」と告げる。
娘はどうにもならず、一人で泣き始めた。すると妖精がやってきて、娘の願い通りに、藁を黄金に変えてみせた。
だが、妖精は娘に対価を求めた。お前を嫁によこせと。娘は拒否し、ならばと妖精が条件を出す。
「俺の名前は、一体何だ? 当ててみせたら、お前は自由だ」――

「アイツは、誰だ?」

イノの胸に湧いた言葉を、そのまま法術の起動に繋げる。
探知法術。レイヴンの生体法紋を探り、それは未だに裏の山をあちこちに動いている事を知る。

「クソッ」

先程探知した時には、丁度今の場所にいるはずであったのに。
探知法術はそのままに、イノが空間を走り白髪の後を追う。

時刻は既に夕方だった。

生体法紋は、山から村へと下りていた。
まだ夜には早い。だというのに、何故わざわざ姿の見える夕方に?

イノの胸がざわつく。

空間を跳び、探知し、そちらへと更に跳ぶ。
その工程を何度も繰り返し、ついに生体法紋がある一箇所で止まった。

そこでイノが大跳躍を行い、虚空から白髪の元へと一気に辿り着く。

白髪は、あの家にいた。
だが、家の中にはいない。家の外、外壁に背を預けて、座りこんでいた。

裏口のすぐ横の壁である。
虚空から急に現れたイノだったが、当の白髪は目線を地面に向けていた為に、空間転移の妙技を目にしていなかったらしい。
ともあれ、気配だけは察したようで、白髪はイノが来た瞬間にはぴくりと動いた。

イノは白髪の横に座り、マレーネを立てかける。

「どうしたんだよ」

「どうかしているんだ」

白髪が、頭を掻き毟る。

「昨日はあんなに余裕ぶっていたのに、今日になって心臓が百足(ムカデ)になっている」

「弟の誕生日のせいか?」

イノの問いに、こくりと頷く。

「見たくもないものを見たいと思ってる。天国(地獄)を見るだけだと知っているくせに」

見ても、繰り広げられているのはさぞ幸せな弟の姿だろう。
対して、自分は何も与えられていない。何も祝われていない。何もかも存在しない。

その空虚さを自覚するだけだというのに、自分が手にしたかもしれない幸福がそこにあると知って、こうしてうずくまっている。

イノが、白髪の惰弱さを見透かして、舌打ちする。

「見ればいいだろ。
『この家は地獄だ』って目に見えれば、残飯食って生きているコトがバカらしくなるだろ」

イノの示唆に、白髪が反抗する。

「窓から顔でも出すつもりか? 深淵を覗けば、深淵が見返してくるぞ」

その声に、今度はイノの方が掻き毟った。
もどかしい。何であれば、その背中を押し蹴ってやる。

「アンタが深淵になるんだよ」

言って、イノが法術を唱える。

性に合わないが、「アレ」が傍で使っているのを良く見ていた。
だから、こうして自分も唱えられるほど、良く分かっている。

対象を指定し、空間自体を一定の方向にずらす。
隠密の為の法術。

「これで、アタシもアンタも、誰も認識できなくなる」

「本気で言っているのか?」

白髪が、イノの正気を量るように疑問する。
イノにとっては、わざわざ法術の何たるかをこんこんと説明する義理も時間もない。

「妖精の魔術だからな」

やけくそに言い放ち、イノが裏口を開いた。

「待てっ――」

白髪が止めようと手を伸ばすが、イノが床を歩き、それでも誰もこちらに目を向けない事を証明してみせる。

「ほら、なんともない」

「…………」

白髪はしばし目を見開くが、これが現実であると知ると、彼女に倣って家の中に侵入した。
中に踏み入れた瞬間、温かな空気が身を包む。

白髪は、凍えたように身体を震わせる。

「ここは、本当にオレの家なのか?」

「何だよ、記憶障害か? 頭に針でも食いこんだか?」

「いや、何でもない」

甘ったるい匂いの満ちた家の中で、吐き気がこみ上げる。
記憶の差異に酔っていた。いや、立場の差異か。

自分にとって知っている場所というものは、疎まれた兄としての立ち位置だ。
今立っているのは、弟だけのものとなった場所。弟が受けてきた、祝福の(うてな)

白髪は、食卓のある居間へと向かって、一歩を踏み出した。

「――母さん、それはなに?」

銀髪の声に、硬直する。

イノと白髪の姿は、三人のすぐ眼前にある。
それでも、その内の一人も気づかない。

そこまで近づいているからこそ、この場の空気が何よりも沁みる。
疎外も除外も存在しない、祝いの座。

「クラップフェンよ。
 蜂蜜漬けにしたリンゴをくるんだ揚げパンでね、今日の為に奮発したわ」

母親が微笑んだ。
そんな表情など、自分に向けられた事はなかった。

「そんな、すごい!」

銀髪が驚嘆する。
そんな声色など、自分が上げる資格すらなかった。

「今年からは、特別だ」

父親が宣言する。
そんな事象など、自分に起こるはずもなかった。

「毎年、貴方に食べさせてあげる。
 貴方が生まれてきたこの記念日を、ずっとずっと覚えておくように」

3月28日。

自分が生まれなかった日。
自分でない者が生まれた日。

弟が生まれた時は、あまり釈然とはしなかった。
それでもその翌日に弟の鳴き声を聞いた時には、自分が兄なのだろうとぼんやりと思い浮かんだ。
更に次の日に、兄なんだからもっとちゃんとしないとと、気を張った記憶がある。
生まれてから一年の間、母は弟につきっきりだった。
兄なんだからと、我慢した。母の分まで仕事が来た時も、母が頑張っているからと自分も頑張った。
一年を過ぎて、自分も弟の世話をするようにした。弟は自分が何をするにもイヤイヤと拒絶した。母親が来るとそれは止まった。
二年を過ぎて、今の自分でも読めない本を読めるようになっていた。父親は神童だと褒めた。確かに、自分でもできない事ができるから凄いだろうと思った。悔しがった。
三年を過ぎて、顔立ちの良さが目に見えてきた。母親は事あるごとに集まりに弟を連れて行った。自分は家を守っていた。帰ってくると弟の手には一杯の菓子と玩具があった。
四年、弟は文字を書けるようになった。父親も弟の世話を焼くようになった。自分が一つ失敗をするだけでも酷く怒鳴られた。余りに怒鳴られて失神してからは無視されるようになった。五年、弟の食事にだけ果物がついていた。自分にはなかった。その頃から存在を無視されて、自分の誕生日が無くなった。六年、弟が自分に物を投げてきて殴った。火掻き棒を押し当てられた。部屋に物が捨てられるようになった。七年、同じテーブルにつく事を許されなくなった。立ったまま物を食べなければならなかった。八年、弟に跡継ぎするには厄介がいると父親に睨まれた。農作業を一日休んだら一週間何も口にできなかった。蛙を食べて吐いた。九年、声を上げるだけで睨まれた。物置のような部屋で一日中過ごす事になった。

十年。

十一年。


十二年。



十三年。




――――。
――――――――。


何かを叫んでいた。その声が自分だと気づいたのは、息が苦しくなってからだった。

「何だ!?」

父親が声を上げた。それは自分の声のせいだと思ったが、自分の足がテーブルを蹴り上げたせいだと分かった。
テーブルの上にあった、濃い赤色の、水で薄めていないワイン。
塩まみれでない、柔らかい肉。
煙の立ち上がる、揚げたての甘いパン。

全部、宙に浮いては床に叩きつけられた。
ワインは木目に染み、肉は埃まみれになり、パンがボールのように壁に当たって跳ね返る。

一切が、自分の手に入らないもの。
それが台無しになったとしても、決して自分の手には入らないもの。

「ああああああああっ!」

ようやく、鼓膜が自分の声を認識した。
叫ぶと共に、振る舞われた事すらないクラップフェンをつかむ。

傍から見れば、それは小麦の塊が宙に浮いているように見えたのだろう。

「妖精ッ!」

何よりもそれを恐れている母親が、そう悲鳴を上げた。

走り出す。裏口を抜けて、村を抜けて、山へと駆け出す。
不思議な事に、ゆうに千フィートは全力で走っているというのに、疲れの一切を知らずに足が動いていた。

止まったのは、地面から突き出した石につまずいたせいだった。そこでようやく、自分を顧みる。

すぐに、気配が生まれた。単なる空気だった空間が、一気に凝縮して女の姿になる。

汗一つないイノが、問いかける。

「それで、どうするつもりだ」

これから、どうするつもりか。
手にした物で、どうするつもりか。

問いに、無言のまま口を開けた。
クラップフェンを頬張り、自分が得た事のないものを、嚥下する。

味は分からない。何も分からない。
ただ、今までここまで突き動かしてきた衝動がぷつりと切れて、白髪が地面に倒れた。

「……おい?」

イノが、足で白髪の体を揺らす。

どうやら、気を失ったらしい。
そうもなるだろう。自分でも行動が分からなくなるほどの激情に駆られた上に、全力で走り酸欠になったのだ。

「……結局、『今』のコイツも、救われねえ存在か」

言って、イノが弦を鳴らした。

レイヴンは、不死に狂った。
痛みに快楽を見出し、「あの御方」を信じ、それでも最後に望むのは、ただ有り得ざる「死」一点。

それでも、過去を語っていたあの時の表情には、このような絶望を想起しているような様子すら無かった。

「一体何だっていうんだ。アタシが介入したせいで、何か改変でも起こったのか?」

それにしては、過去改変特有の、空気が変わるような違和感が存在しない。

悩むイノに、解答の一人が起き上がる。

「……思ったよりも早いお目覚めだな」

白髪が落ち葉を払い、イノの姿を認めた。

「ああ……今、起きた」

意識を失っている間に動悸が落ち着いたようで、冷静な動作で立ち上がった。

「頭がすっと軽くなった。夜だというのに、眠気もない」

「それは良かったな。それで、これからはどうするつもりだ?」

「これからは、そうだな……家から離れて、軍に行く。
 徴兵が始まっている。稼ぐ為にも、生きる為にも、そこに行くしかないだろう」

先までの様子とは打って変わって、前向きになったようだ。

「少しくらいは、救いはあったか」

「何の話だ?」

「いや、何も」

胸が少しだけ軽くなり、イノが白髪と並び立つ。

「ともあれ、『(いま)』のアンタの踏ん切りがついたんだろ?
 これで、心置きなく『現代(いま)』のアイツをいびれるワケだ。流石に、あんな暗い状態のままじゃ、後味悪いしな」

言って、イノが白髪に背を向ける。

「行くのか?」

「ああ。もうアンタに興味はない。
 会うのはまた数千年後だ。じゃあな、レイヴン」

そう言って、時間跳躍の法術を展開する。

だが、白髪は、イノの呼称に怪訝な顔をする。

「レイヴン? 誰だ、それは?」

「――――」

イノの口が止まる。
彼に目を向ける。その顔は、心底不思議そうな顔をしていた。

「オレの名前はだ。
 渡鴉(Raven)なんて呼ばれた事は、一度もない」

「――――」

イノは、唇を噛んだ。

直感の矛盾。
事実の背反。

それらが解れた。
解れた結果散らばったのは、グロテスクな結末だった。

イノは白髪に一瞥もせず、現代へと跳躍した。


「バックヤード」。
その一角に、彼女たちの居場所の一つはある。

「…………」

無言で、寝静まる「現代」のレイヴンを見下ろした。
ここにおいても、カレンダーは3月28日。ただし、時刻は午前を指している。

藁ではない、純白のベッド。
かつてよりずっと恵まれた場所であり、だがそれは彼の心を埋めるに値しない。

跳躍前に買った「モノ」であれ、そうだ。
昨日、評判だというパン屋に訪れ、気まぐれに彼が会話で挙げたクラップフェンが、「バックヤード」のテーブルの上にある。

だが、今となっては、それは過去のレイヴンを侮辱するものでしかない。
イノはテーブルの上から、その紙袋を拾い上げた。

「バックヤード」は「あの男」及び側近の生活拠点でもある。
イノは「あの男」の菓子作りに使うキッチンへ寄ると、手に持った紙袋を、生ゴミの箱へと静かに入れた。