過去を覗く窓

筒状に続く暗闇を、手に灯した法術の光で焼き払う。
レイヴンはイリュリア城下街の地下、下水道にいた。

とはいえ、汚水とゴキブリで満ちた現役の下水道ではない。老朽化し、破棄された下水道である。
街全域を網羅しているほどではないが、広域を蜘蛛の巣状に張り巡らされている。

彼はその旧下水道を通り、イリュリア城の真下に向かっていた。
イリュリア城本体に対する警護は、法術と衛兵による堅牢なものである。
しかし、地下はその警護も手薄であろう。

その推測を試すべく、彼はここにいるのだった。
もし手薄であれば、監視の目をここに置くのもいいかもしれない。連王、及びその周辺の動向を手にする事ができれば、今後動きやすいものだ。

ガサッ……。

「――ッ」

針を構え、音の方向へ体を向ける。
光を掲げると、痩せたネズミが目をくらませ、キキッと悲鳴を上げて逃げ出した。

自分の警戒が空振りになり、一瞬の油断が彼を弛ませた。

「――マグナムウェディング!」

その声が聞こえる頃には、
音速よりも素早い銃弾が、レイヴンの後頭部を打ち抜いた。


気を失っていた。
いや、正気を失っていた。

「――はっ!」

いの一番に知覚したのは、今まさに口を(まじ)わそうとせん己の身と、目を閉じて口を尖らせるエルフェルトの顔。

「…………」

状況整理を一瞬で済ませ、レイヴンは考えるよりも先に手を動かした。
右手の指をまっすぐに揃え、頭上に振り上げ、主犯の脳天にチョップが刺さる。

「アイーッ!?」

もし自分に理性の邪魔がなければ、チョップではなく人体切断せしめる手刀が、エルフェルトの頭部(ケーキ)へ入刀する所だった。
頭部の痛みを散らすべく、床を転がる彼女を冷ややかに見降ろしてから、周辺情報を手札に追加していく。

二人がいるのは馬車の中。
木板で造られた普通の馬車であり、外界と隔てているのは落下防止の簡素な柵のみ。
景色は草原。のどかな日差しが真昼を表しており、流れる情景は今なお馬車が走行中であるという事を示している。
座標的に、城下街から離れていっているようだ。
街道を走っている。このまま走れば、別の街へと辿り着くだろう。

そこまで把握した所で、ようやく痛みの治まったエルフェルトが立ち上がる。

「随分と過激な愛の形ですね!」

「愛と害の区別もつかない状態でよく現代社会を渡り歩けたな」

「自分が喜ぶ事を人に行う事は愛。
 レイヴンさんが喜ぶ事をわたしにしたので、やっぱり愛なのかな、と」

「なら私が一番喜ぶ爪の剥ぎ方を実践しよう」

「いいえ、わたしは遠慮しておきます」

レイヴンの殺意をかわし、エルフェルトが懐からズルッと婚姻届を引き抜いた。
婚約届を広げてみれば、そこには彼の署名と拇印。

「ともあれ、こうして誓い合った仲ではありませんか」

「判断能力が低下している状況で成した契約は無効だ」

「何を言っているんですか!
 あんなに『愛している』とか、『共に住むなら小さな家がいい』とか、『毎朝お前の作った硫酸が飲みたい』とか言っていたでは――」

ストッ。
エルフェルトの足下に、十センチほどの長い針が刺さった。

「――言っていたわけでは、なかったかもしれません!」

「そういう事にしろ」

そういう事にしたい。自分自身も。
前後不覚の自分が何をのたまっていたかなど忘却の海に沈め、レイヴンは馬車の柵に足を乗せる。

「何をするんですか?」

「貴様の戯言と戯事に付き合うつもりはない。すぐにでも元の場所に戻らせてもらう」

脳裏に空間転移の法術を描く。数秒もあれば、あの暗くてじめじめした下水道の中だ。

「あ、あの、レイヴンさん――」

「さらばだ」

言うと共に、馬車の外へと(おど)り出す。
呪文を囁く。今にも暗闇へと戻るであろう。

「あの、馬車に乗る前にブライダルの人に、レイヴンさんの服をタキシードにしてもらったんですけど。
 そのタキシード、わたしが指向性バインドを入れたので、危険だったり大規模な法術は使えないです」

「は?」

感覚、間隙。

レイヴンの体はあるべき所に帰らず、受け身を取る余裕もなく地面に激突。
馬車の速度が乗った体はそのまま車輪のように地面を転がり、皮膚に砂利が突き刺さる。

「ンギモヂィイイィィッ!」

「レイヴンさーん!
 ――あ、あの御者さん! 新郎が馬車の外に行って、いや馬車の外でイッてるんで、ちょっと止めてもらえますか?」

「はぁーい」

間の伸びた声が御者台から聞こえ、馬車の速度が下がっていく。
エルフェルトは馬車から降りると、十数メートル後方のレイヴンの元へと駆け寄った。

「大丈夫ですかレイヴンさん!」

「……私の身は不死だ。傷つこうとも、新鮮な痛みが得られるに過ぎない」

「レイヴンさんのタキシード、レンタル代結構高いんですけど、大丈夫でしょうか」

「破くぞ」

レイヴンの犬歯が鋭くなる。

自分の服装を確かめてみれば、確かにタキシードであった。しかも法術コントロールできる。
これでは空間転移という大がかりな法術はできないし、かといってエルフェルトを針串刺しの刑に処すような事もできない。

「『初代』率いるヴィズエル軍もバインドを使用していたが、腐ってもヴァレンタインという事か」

独り()つレイヴンの腕を取り、エルフェルトが馬車を指す。

「さあ、早く戻りましょう! ここで転がってたら、一時間後の式に間に合わなくなってしまいます!」

「貴様の葬式に間に合わせてやろうか」

「冠婚葬祭の内二つを一度にやりたいなんて欲張りさんですね!
 そうと決まれば式場に行きましょう! レイヴンさんの服も先にそちらへ送られているので、ささ、どうぞ馬車へ」

「…………」

エルフェルトの誘導に、心の天邪鬼が反発する。

だが、下水道の調査など、後日に回せるほど優先度の低い事柄である。
ここで妙に反発しても、単に心労になるだけだ。ならばさっさと服を回収して退散しよう。

レイヴンは、深く、深くため息を吐いて、己の尊厳を燃やして、重々しく首を縦に振った。

「私のものを取り戻すだけだ。式など絶対に参加せん」

「大丈夫です! もう無理にとは言いません!
 これ以上レイヴンさんの機嫌を損ねたら、ちょっと私の命の期限も損ねそうなので!」

エルフェルトの賢明な判断。
彼女に手を引かれて馬車へと戻り、再度草原の景色が動き出す。

「ここから、何分かかる?」

レイヴンの質問に、エルフェルトではなく御者が答えた。

「一時間くらいですねぇ。丁度式に間に合うくらいになりやす」

「一時間か……」

反復する。
別に、一時間という時間の幅に不都合や好都合が生じるという訳ではない。

ただ、馬車に揺られて一時間の退屈を過ごさなければならないのか。
どうせなら、この衝突事故のような事態から、有意義な成果でも上げてみようか。

「お前の母親は、どのようなものだ?」

「慈悲なき啓示」の事を探る。
それは形而下、あるいは形而上の存在なのか。それに感情、著しくは悪意があるのか。

レイヴンの質問に、エルフェルトが過剰に反応した。

「お母さんですか!?
 そ、そうですね……ちょっと厳しい感じの人です。
 でも、よその人には体面が良いですね。仮面被ったみたいな……言っちゃ悪いですけど、猫を被っているような感じで……」

「啓示」の気性か。思考から行動を推測する材料として無価値ではないが、それほど有意なものではない。
情報を飲みこむレイヴンに、エルフェルトから異物を混ぜこまれる。

「好きなタイプは、ソルさんみたいなタイプだと思います」

「…………」

「それとモンブランとか、スイーツが好きです!
 お母さんの気持ちを引くなら、お菓子をお土産にするといいでしょう! レイヴンさんの故郷を匂わせる為にバウムクーヘンとかいいかもしれないです!」

「……何だ、その情報は」

「ええっ!?
 結婚のご挨拶に行くために、お母さんのコトを訊いたんじゃないんですか!?」

「違うっ!」

レイヴンが強く否定すると、エルフェルトは表情を沈める。

「……それでしたら、お母さんについて詳しく話す事ができないです」

目線をレイヴンから自分の膝上に向け、スカートの上の手の平がぎゅっと縮む。

「わたし、まだお母さんと繋がってるので……もし口を開こうとしたら、わたしがいなくなるか、レイヴンさんをいなくしようとするでしょう」

そう悲し気にこぼすエルフェルトに、若干の罪悪感を覚える。
レイヴンはそっぽを向くと、先程の否定よりトーンを落とした。

「――まあ、酷な事を要求した件については謝る」

「いえ、むしろ謝るのはこっちの方ですよ。勝手に勘違いしてしまって……」

明るい景色をよそに、馬車の空気は冷たく落ちる。

「…………」

口の中が沈黙で乾く。
エルフェルトは唾を飲みこみ、喉を湿らせてから唇を開く。

「じゃあ、今度はわたしから、質問いいですか?」

レイヴンは彼女に目線を戻してから、揺れるように頷く。

「ああ」

「あの、レイヴンさんの着替えは、ブライダルの人に任せて貰ってたんですけど。
 その人から、服の中に紛れていたって言われて、預かったものがあります」

言いつつ、エルフェルトが懐を探る。
探り当てた物品をつまみ、それをレイヴンに見せた。

「これって、何ですか?」

手のひら大の、一枚の写真。
黒茶に露出した土から、腰ほどの高さの小さな木が生えている。

青々とした新緑を身に纏う、天を突く樹木の子。
それが主題であるという意志は計れるが、何故それを主題としたか意図が計れない。

「レイヴンさんの持っていたカメラも、私が預かってます。
 そのカメラで撮ったというなら、これは単に店で売られていた観光写真じゃなくて、ちゃんとレイヴンさんが撮ろうとして撮影した写真ですよね?

 この木、何の木、気になる木じゃないですか」

故に、知りたい。
エルフェルトの好奇心に応じ、レイヴンが説明する。

「林檎の木だ」

「林檎の木?
 実も生っていないのに、葉ぶりを見ただけで答えられるなんて……まるで樹木博士ですね!」

「樹木博士じゃぁない。
 単に、それが林檎の種の時から知っているだけだ」

傾聴の姿勢になるエルフェルトの手から写真を取り、レイヴンは平面の木の幹を指でなぞる。
御者に聞かれないほどの小さな声で、彼は写真の由縁を語った。

「百年前。正確な年は忘れた。
『聖戦』の最中、破棄されていた果樹園から林檎を拝借した。その後の戦中に食う為だ」

「……レイヴンさんも、『聖戦』に加わっていたんですか?」

「『どちら』に加わっていたかについては、言及を避けるが。
 そして腹積もりの通りに、戦の渦中で一段落がついてから口にした。
 その後、痕跡を残さない為に埋めた」

「それで、また来たんですね」

「別に、芽吹きを見に来た訳ではなかった。

 埋めてから数年後、またこの地に用があった。
 焦土に成り果てた黒色の景色で、唯一の緑を見つけた。

 それを見た瞬間、ここで林檎を食した事を思い出し、その緑がそれなのだと確信した」

「その時に撮ったんですか?」

「ああ。若干なりとも、感情が動いた。

 戦の渦中の、ありふれた地獄。
 それでも足掻く二種の生命。
 闘争の狭間で、舌を濡らす酸味と甘味。

 そして、それらを想起する緑。
 いずれ消える小さな記憶だが、記録程度には値した」

写真を見る目が、遠くなる。
平面を抜けて、その時の空間が頭の中で再演された。

表情を揺らすレイヴンの横顔を見て、エルフェルトが問う。

「それって、良い思い出――いえ、良いかどうかは分からないですけど……でも、残しておくべきものだと思います。
 その思い出の木、ずっとずっと大きくなって、きっと今は子供の林檎をつけてるといいですね!」

エルフェルトの言葉に、また違う表情に震える。

「……そうだな。今なら、また新しい果実を下げている頃合いだろう」

果樹園という親から離れ、戦地であった土に根を張った大木。
生命の営みを遂げている様を思い、レイヴンがつぶやく。

「ここの近くだ」

「え?」

「この写真の木は、この近くにある。
 あそこから見える草原が、元は焦土だった。
 ……捧げられた数多の血肉が、草の栄養になっただろう」

最後に皮肉を寄せて、レイヴン。
エルフェルトは彼の右手を両手で包み、輝く両目で針を見上げた。

「良ければ、行きませんか?」

「……何故」

「わたしも、ちょっと見たくなりました。
 ――あ、でも、レイヴンさんは一刻も早く式場に行きたいですかね? それだったら、場所を訊いても――」

「いや、いい。
 どうせ、ただ過ぎるだけの一日だ。ほんの足労程度、あった所で支障ない」

興の乗ったレイヴンが、馬車の柵から腕を出し、人差し指を草原の果てに伸ばす。

「あそこだ。座標は知っている」

「分かりました。――あの、御者さん!」

「はぁーい」

「あの草原の所、行けますか?」

「あぁー、それは駄目ですねぇ。
 時間通りに行かんと、後に予約してるお客さん、つかえてしまうんで」

「そうでしたか……。
 では、申し訳ないんですが、ちょっと止まってもらえますか?」

「はぁ」

「先に行ってていいです。わたしたち、木のところに行きたいので。
 式の人には中止の言伝もしたいのですけど、それも――」

「まぁー、いいですよー」

馬車が徐行を経て停止する。
二度目の停止に、今度は二人が土を踏む。

「ありがとうございました!」

エルフェルトが手を振り、それを見送り馬車が去る。

馬車が豆ほど小さくなった時、レイヴンの脚が草原に踏み入った。
エルフェルトは彼の長細い背を追い、柔らかな草を超えていく。

「ここが、その……戦場、だったんですね」

「今や見る影もないが、確かにあった事だ」

「きっと、壮絶なものだったんでしょう……」

自分が過ごしている世界が、闘争の果てに人間が勝ち取ったものであると実感し、エルフェルトの面持ちが真っ直ぐになる。
レイヴンの顔は見れないが、恐らくは同質の表情を形作っているだろう。

慣れた無言の中、進行は続く。
未だ見えぬ木の姿に、エルフェルトは腓腹の疲労を感じ始めた。

「あと何分ですか?」

「いや、一分もしない内に着くはずだ。
 それでもなお見えないとすれば――」

と。
等速で動いていたレイヴンは急停止し、彼のすぐ後ろにいたエルフェルトはたたらを踏んでそれに倣う。

「ど、どうしたんですか?」

「……見えないとすれば、もう存在しなくなったという事だ」

言いつつ、レイヴンは横に身をよける。
エルフェルトは、彼の視線が足元にある事を知ると、その線を辿ってそれに気づく。

木が、折られていた。

直径は数十センチ。椅子の座面ほどの大きさまで育ち、そして止まった。
断面はギザギザで、起伏が激しい。真っ直ぐな刃物で斬られたというよりは、怪物が力に任せてへし折ったという様相で、事実そうなのだろう。

「…………」

木の残滓を確認してから、彼女は心配してレイヴンに目を向けた。
だが、彼の表情から、心情を察する事はできない。
別段の動揺も悲嘆もなく、事実をそのまま呑みこんでいる顔だ。

むしろ、レイヴンは彼女から受けた同情の視線を読み取り、それを鬱陶しいと振り払うように告げる。

「このような事など、私にはありふれている」

彼もまた疲労を感じていたのか、踝ほどの背丈の木の幹の近くに座りこんだ。

「遍く全ては摩耗する。結末は万物に宿っている。それが表出したまでだ」

エルフェルトは、彼から少し離れて、それでも彼と同じく木の幹に背を触れるようにし、腰を下ろした。

「……そう、ですね」

気分を落ちこませたエルフェルトは、切り替えるべく話題を作る。

「他に写真はありますか?」

レイヴンは皮肉気に、しかし冷たくもなく返した。

「……空間法術が使えればな」

「あ、あう……ごめんなさい」

口を開閉させるエルフェルトをよそに、レイヴンは手を伸ばす。
手を伸ばした先は虚空。その虚ろが液のように揺らぎ、手が空間に沈んだ。

「全身を空間転移するようなものでなければいけるようだな」

手のみを空間転移させ、次元の狭間に保存された物品をつかんで引き揚げる。

「これだ」

「ありがとうございます!」

エルフェルトは、レイヴンから渡された写真を腕一杯に受け止めた。

「この、白くて大きいペンギンみたいなものは?」

「ブラックテックの時代だな。それは飛行機だ。
 魔法もない、金持ちでもない人間でも空を飛べた。鉄と油の怪鳥だ」

「へえ……!
 じゃあ、この緑の丘はなんですか? 写真……なのに、現実じゃないくらい、すごい色がはっきりしてます」

「ブドウ畑だ。そこの風景写真は、多くの人間が使う道具に埋めこまれた事がある。
 恐らく、何処とは知らずに最も目に晒された場所だ。その逸話に興味が惹かれて、その丘まで足を運んだ」

「そうなんですか……!」

一枚一枚に感嘆の声を上げて、エルフェルトが写真を見ていく。
それらを見ていく間に、エルフェルトの中に純粋な疑問が積もる。

「――レイヴンさん」

「何だ」

「なんで、全部の写真の中に、レイヴンさんがいないんでしょうか」

エルフェルトから目を逸らし、苦々しくレイヴンが吐く。

「……必要ないからだ」

その言葉を受けて、エルフェルトが更に疑問を重ねた。

「ではレイヴンさん、何故、写真を残していらっしゃるんですか?」

「私が生きてきた証跡、それを残す為だ」

レイヴンの答えに、エルフェルトが主張する。

「なら、尚更、その時のレイヴンさんを残すのはいいと思います」

本人が生きた証を残すなら、その当人がいなければならない。
ニュアンスを含んだ彼女の物言いに、レイヴンが過去の主張を繰り返した。

「私など、何一つ変わりはしない」

不死の病。
課せられた業にして罰。

その有様をまざまざと見せつけられ、何の救いとなるのか。

「いっそ老いたのであれば、私の悲嘆は削られたかもしれない。
 だが、この身は忌々しく固定されている。褪せた髪色も、耳障りな声色も、老化も退化もせずあるだけだ。

 見飽きた醜いものより価値ある何物かがあれば、そちらを優先するが道理だ」

持論を開くレイヴンをよそに、エルフェルトが彼のカメラが構えた。
そんな彼女を見つめ、今度はレイヴンから疑問が湧く。

「――何を、」

「でも、残しておきましょう」

相手の言葉を切って、エルフェルトがカメラのファインダーを覗く。

「だって、レイヴンさんって、タキシード着た事ありますか?」

彼女の提言に、唖然とする。
確かに、タキシードなど着た事がない。

いや、着る機会がなかった。

婚礼はともかく、正装をして会に参加する事も招かれる事もなかった。
そういう意味では、稀有な証ではある。
景色や他者のみを写していたなら、自身が何を着ていたかなど残せはしない。

エルフェルトが顔を咲かせる。

「勿体ないです! これも思い出にしちゃいましょう!」

そう言って、彼女はシャッターを切った。
カシャリ、と耳に心地の良い音を響かせて、カメラが瞬きする。

それに対してレイヴンは、彼女を計るように質問した。

「現像もせずに、捨てたらどうする」

「どうもしません。レイヴンさんがそうしても、わたしではどうにもなりませんから」

自分の成果物が破棄されるとしても、制止も非難もせず、エルフェルト。

「正直に言うとですね、レイヴンさんが写真に写りたがらないのは、わたしも分かります。
 だって、自分自身のこと、好きじゃないですよね」

レイヴンが口を閉ざす。

「……わたしも、わたし自身を愛せないです。
 だからきっと、代わりにわたしを愛してくれる人を求めてるんでしょうね」

人間とは異なる人間として作られた、「バックヤード」の発生物。
それは、目の前の生命が良く浮かべる表情を真似て、苦笑と自嘲を混ぜ合った。

「わたしは感情を持つように生まれました。
 それがどういう理由で持たされたかは分かります。それでも、生まれる感情に善悪がないと、そう思いたいです」

エルフェルトが、鴉から兎に感情を変える。

「話、飛び飛びになりましたけど、何が言いたいかと言えばですね――、

 自分を避けていると、本当に自分を嫌いになってしまうと思うんですよ。

 生きた証を残して、自分に慣れていけば、一石二鳥ですよ!」

エルフェルトが、脳の中を言い切った。
声の断層に落ちて、草の囁きしか見えなくなる。

背に預けた切り株が体温に馴染む頃、レイヴンの手が彼女に伸びた。

「…………」

エルフェルトは無言の内に理解して、彼にカメラを渡した。
レイヴンはカメラからフィルムの円筒を抜き取ると、それを投げ捨てるでもなく、細い指で弄ぶ。

「現像は分かるか」

「撮影したものを、写真にする工程ですよね」

「そうだな」

詳細は期待しなかったレイヴンが、彼女の過不足ない返答にうなずく。

「フィルムは変化する。外の景色を投影されて変化しなければ、写真は黒いままだ。
 だが、フィルムの中身が引き出され、光に晒されれば、全てが白い状態で固着する。どうしようとも、元の黒に戻る事はない。

 黒のままだろうとも、白のままだろうとも、不完全だ。

 完全にするには、シャッターを切った瞬間のまま、なすべき事をなさなければならない」

レイヴンは円筒をカメラに収め直し、カチリと蓋がつぶやいた。

「全て空虚な、感情の白になりつつある人間がいるとして、
 だが、その過程を写真にしたなら、確かにその時の私の証明になるかもしれないな」

言葉全てで、思想全てを表す事はできないが、しかしエルフェルトは呑みこむように首を振った。

「レイヴンさんがどんな人だったのか、その写真が語ってくれますよ」

エルフェルトが立ち上がり、レイヴンの手を取る。

「では、式場に行きましょうか。
 また会ったら、素敵なレイヴンさんの写真を見せてくださいね!」

「……ああ」

エルフェルトに手を引かれ、二人は草原を去る。
切り株のジグザグな断層からは、緑が覗いていた。