時は風と闇と過ぐ

飛空艇すら存在が許されない、遥か上空。
確かにそこは「空」の「上」だった。眼下には気流に引き裂かれた薄い雲。裂け目に見える人工の灯りはほんの針先の輝き。上を見据えれば、大気に邪魔されず燦然と光を輝く金剛石の星と、黄金の満月。
常人も、高山で鍛えられた肺を持つ登山家も、等しく倒れ伏すであろう希少な酸素量の中に、その者はいた。
高空に居座る者に相応しく、鳥の翼を模した黒い外套。それは気流に煽られる事なく、大きく広げて存在を強調していた。
風の結界は、この場においての玉座であった。
俗物の気流を受け流し、公の空気は遮断され、需要に充分な清い空気のみ囲っている。
そしてその玉座には、二つの影が在った。
大きな影と小さな影。
大きな影は小さな影を両腕で抱え、小さな影は大きな影に語る。
「――現世に帰るのは久々だ。
ここは重苦しい圧力もない。自我を圧壊させる情報もない……。少し離れていただけだというのに、とても懐かしい」
「来訪を欲するのであれば、何時でも私めをお呼び下さい。迎えも護りも致しましょう」
頭の上で声がする。その声でくすぐられたかのように、「あの男」の表情は柔くなり、とても小さな微笑を浮かべた。
「そう……嬉しいよ。そしてありがとう。
イノも君も、どんな形であれ僕を支えてくれている。感謝し切れないよ」
「それは私としても吉事で御座います。
それで、どちらに行きましょうか?」
「もう、帰るよ」
悲しげな言葉。
それにレイヴンは驚き、しばらくして恐る恐る聞く。
「……何故でしょうか?」
「時間。……時間が迫っている。
僕は、息抜きに現世へ行こうとした。けれど、こうしてこの世界に浸っても『バックヤードでやるべき事をやらないと』と、僕は思い、そして鬱いでしまう。
それと同時に、『この世界にずっといたい』という願いも思ってしまって……これじゃあ、ほんの息抜きにもならない。
ごめん、レイヴン。でも良かった。そうと気づけて、そしてもっと頑張ろうと思えた。頑張らなければと思った。
この、僕が好きな世界を導くために」
「……左様ですか」
レイヴンは、ふと月を見上げた。
月が自分を睨む。しかし、怯む事なく真っ直ぐに見つめ、ふと思った。
私が唾棄してきた全てを、この御方は拾い集め、抱こうとしている。
緩慢に過ぎると私が感じる時間は、この御方には刹那なものなのだろう。
無味が満ちると私が感じる世界は、この御方には大切なものなのだろう。
ならば。
例え私が無価値だと思おうと、この御方がそうと思うならそう思ってみせる。
「月は、――今宵は、満月ですね」
「うん……」
その嘘に、「あの男」も月を見上げた。
「私は。いえ、私達は、」
言って、途中で訂正する。
「私達――貴方様の側近達は、この世界を支える礎の、礎となりましょう。
例え、何百年、何千年であろうと。この世界の命数が尽きるまで」
「でもそれは、君の死の望みではない」
「いいえ」
首を振り、レイヴンが告げる。
「貴方様の望みが叶う前に死ぬ事程、私が悔やむ事はありません。
私が死ぬ時は、貴方様が好くこの世界と共に」
「……そう」
わずかに笑い、そして「あの男」はそれを消し去る。
機械のように無機質で、一見すれば、それは感情の全てを置き去ったように。
それでも、置き去れない悲嘆の表情を少し残して、そのまま、小さな影は転移する。
現世とバックヤードの自由移動。徐々に現世から「あの男」の存在は薄れ、ついには消える。
掻き消えた「あの男」の残像を、それでもレイヴンは崩さなかった。
「…………」
腕に残った極少の熱量が去るまでそのままでいて、ようやく己の低温を取り戻した時、レイヴンは自らを抱くように胴を絞めた。