水中の黒

冷水は苦痛という程のものではなかった。
元より冷め切った己の体とは大差無い温度。それよりも、勢い良く飛びこんだ衝撃の方に快楽の軍配が上がる。大した事のないものだったが。
水を掻く。それは水面へではなく、水底へと進んで行く。
息苦しくなってくる。それが自分の求めていた物の一つだった。
わざと口を開き、肺に溜まっている空気を手放す。水が内部に侵食し、酸素の供給をことごとく邪魔する。
両腕を開き、享受し、感謝するように天を仰いだ。
その様は、水面から届く光の帯と相まって、黒の巨鳥がゆっくりと尊大に地面へ降り立つようだった。
白く長く、癖の無い髪はわずかな水流に揉まれて広がっていた。仮面の左目の位置にある古いコインが、光を照り美しく輝いていた。頭部を貫通している巨大な棘もまた、艶のある色を出している。
青い首、青い胸元は人間美を覗かせていた。包容力を暗喩するような広い肩から伸びるのは、翼のように開いている黒いマント。そこから生える、筋が付いていながら細さを維持する腕。手指は長く、両手の人差し指と中指には針と溶接した指輪が装着されていた。
鍛えられた胸から腰は内側にカーブを描く。体の線が自然と出る格好をしているため、そのカーブにかけてのわずかな筋肉の隆起も分かる。やがてその線はスカートの中に消え、その下からは全身を支える足が見える。無駄な肉は一切無く、機能美的な物を感じさせた。
水の中、苦痛を食む。酸素欠乏を訴える体が痛覚神経を叩きのめす。ほとんど無音の中、肋骨の中に収められた心臓が暴れる音が心地好い。全身を抱きしめる水の圧迫もまた束縛を思わせる。
生きている。自分は生きている。全身が高らかに叫ぶ不足。体が震える苦痛。息苦しい。もっと私を震えさせろ!
頭から落ちる。墜落する巨鳥は水底を目指していた。鼓膜が水圧に破れ、再生するもまた破れる。耳の奥で繰り返される苦痛のリズムが心臓と同じ間隔でレイヴンを魅了させる。
水の中に潜り、何分か経っただろうか。体は限界に来ていた。全く動かない。時折痙攣する程度で、震えない。だが心は震えている。実に甘美だ。水の深奥はここまでに私を安らがせる。素晴らしい! 永遠に水の底に居れれば、何と幸せだろうか――そう思った所で、怖れていた事態が起こる。
体が絶命した。そして、一瞬にして体は満ち足りた。すぐさま正常に体が作用する。痛覚以外失いかけていた感覚と気力が復活する。
体が再生した。頭を抱え、口が苦痛に曲がる。そして咆哮の形を描いた。自分への怒りだ。
――Scheisse!
思わず昔馴染みの言葉を吐く。言葉をこめた泡沫は受けるべき人物から離れて行く。
手は自然に天を向いていた。指が開いたその形は、天から何かを授かるような形であった。あるいは、要請。
――何故だ!
泡はもう吐けない。肺は水に満たされ、再び最初の苦痛に戻る。
が、恍惚とはできなかった。
――何故、貴様は私を終わらせないんだ!
叫びは脳の中だけに完結している。他者に届かず、頭の中で声が響く。
――私が貴様を崇めなかったからか! 私が貴様に乞わなかったからか! 私が貴様の物にならなかったからか!
目を見開く。水が目を擦る。大した苦痛ではない。褒美ですらない。
――貴様が私を嫌っているからか! 貴様が私に執着するからか! 貴様が私の敵だからか!
吐露する間にも、体は再び苦痛の渦に巻きこまれる。
憎しみと快楽の狭間の中で、悲痛な叫びは無音のまま続いていた。