降順にする

Dust Attack!

このページは、
・未完成
・低クオリティ
・表に出せない
等の理由により隠されたページです
閲覧の際はご注意ください
  1. Doubtful conversation
  2. 闇に飲めるもの
  3. ちかしい末端
  4. 90.5+82.5
  5. 嵐の陽

Doubtful conversation

イノとレイヴンの針治療の話
カップリング要素あり
「あの男」から課された任務が終わり、イノがレイヴンに会って一言、
「テメェ、ちょっと針治療しろ」
急なその言葉に、彼は首を大いにかしげて彼女に問う。
「……何故、わざわざ私が貴様を治療しなければならんのだ?」
「アァ? たかだか引きこもってるヤローが偉そうな口きくなよ。
自由に空間と時間を行き来できるアタシは忙しいの。ああん、アッチコッチにイッてるから、過労で倒れちゃったらどうしようっ。『あの御方』のお仕事にも響くわねぇ」
ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべつつ、イノがレイヴンに寄りかかる。
今すぐ突っ放して針で頭を貫きたい衝動に駆られるが、くっ、と何とかこらえ、とりあえずイノを引き剥がした。
「第一、私はそのような知識は持ち合わせていない。他を当たる事だな」
「それでアタシのオネガイをつっぱねるつもりか?
テメェの部屋にちょっとイタズラしようとした時、机の中に『シッショーでも分かる体の秘孔~これで君もジョインジョイントキィ~』っていうハウツー本があったんだよ」
「経緯はそれか……一体私の部屋で何をしようとした?」
「ちょっと机の中に触手型ギアを入れただけだ」
「それは悪戯という名のテロリズムだ」
「そんな些細なコトはいいんだよ。
で、とにかくその本があれば、簡単な針治療くらいはできるだろ? だからこうして頼んでんだよ」
「…………」
逡巡の沈黙がしばし続き――
「仕方がない。
だが、期待はするなよ。それと文句を言うのも無しだ。私は、針治療などした事が無いのだからな」
「ふふ、よろしく頼むわね」
イノはわざとらしいウィンクを飛ばし、レイヴンはその様子に吐く素振りを見せた。


時は少し移ろい、場面は変わって実験室。
普段ならば手術台となるべき寝台に寝そべり、イノは服を脱いでタオルを巻いていた。
一方レイヴンは針を洗うための消毒液を探しており、棚をがちゃがちゃと漁っている。
「そういえば、テメェなんでその本買ったんだ?」
ふと唐突に湧き出た疑問を、イノはレイヴンの背にぶつける。
彼は手の動きを淀ませる事なく、答えを彼女に返した。
「不死者とはいえ、私の体の構造は人間と同じであり、体の痛点もまた人間と同じ。という事だ。
という訳で、しばらくは人間が痛く感じる所を探して刺して喘いでいた」
「変態」
イノの罵倒に耳を貸さず、レイヴンは続けて熱く語る。
「中には、痛感神経を剥き出しにして、何かに触るだけで痛くなる醒鋭孔という素敵な効果のある技があったが、どういう訳か私にはできなかった」
「そんなことはいい。それより、まだ消毒液ないのかよ」
「催促するな。有情破顔拳を試されたいか?」
「できねぇだろ、このアミバ野郎が」
「……奥にあったな」
「無視かよ」
棚の奥に手を伸ばし、消毒液を取って容れ物に注ぎ、そこに針を何本か入れた。
充分ひたしてから、レイヴンは針を一本取り手術台に向かう。
「うつ伏せになっていろ。あと、タオルは脱げ」
「分かってるよ。ホラ、これでいいだろ」
指示通りにイノが動き、レイヴンは本を片手に針をイノに刺した。
「んっ……初めてにしては中々いいじゃない」
「誉めの言葉は結構だ。貴様の言葉は聞くだけで虫酸が走る」
「酷いわねぇ。こんなコトしてる仲じゃないの」
「一時的な事だっ。これが済んだら接触はしないと思え」
思わず声を荒げる。と同時に、二本目の針に思わず勢いがついて深く刺さったらしい。イノが怒り、こちらを睨む。
「テメェ、痛ぇじゃねえか! いきなり深く刺すなよ!」
「文句を言うなと誓っただろう。
それに、貴様は懇願した側だ。あまりうるさく言うなら止めても私は構わない」
「……まあいいっ。さっさと続けろ」
不機嫌になったイノに、レイヴンはため息を吐いて作業を続ける。
しかし針が刺さるごとに、イノは素直に恍惚として喘いでいた。
その様子に、自らは充足を得られないレイヴンは呆れと嫉妬の鼻息を鳴らして嫌味ったらしく疑問を浴びせかける。
「これしきの事で快楽を感じるのか? 随分と単純な輩だな」
「くっ……別にいいじゃねぇか……あっ……」
「反論するにも、ただ刺すだけで口が塞がれてしまうな。
どうした? もっと私を罵倒してみろ。その罵倒に値する奴が、貴様を今満たしている」
「うるせえっ! ムダ口叩いてるヒマあったら、もっとアタシに奉仕しな!」
「勘違いをしていないか? 私には止めるという選択肢がある。
私は絶対貴様に尽くすという事はない。そのように口が減らないならば、その選択肢を取る事は充分ありえる」
言いつつ、レイヴンがイノの体に刺さった針を回収する。
どうやら、今すぐに止めるらしい。それに気づいたイノはひきとめようと、猫をかぶった甘え声で嘆願した。
「――分かったわよ。
アタシ、長いこと寂しかったの。お陰で少し欲求不満になってるの。
だから……続けて?」
その言葉に、レイヴンの行動が止まり、長い逡巡の後――
「…………少しだけだ」
針をまた取った。


翌日。
あれから言葉とは裏腹に、長くイノに針治療をしていたレイヴンは、筋肉痛になった右腕に少し幸福を覚えながら廊下を歩いていた。
と、その時、向こうの廊下から歩く人影を見かける。
レイヴンは即座に頭を垂れ、会話できる程度の距離になった時、レイヴンが「あの男」に挨拶をする。
「――本日は如何でしょうか?」
「あ、ああ。そうだね。えーっと、まあ上々だ。色々と、上手く行っているよ」
レイヴンは平常通りの挨拶をするが、何故か「あの男」の様子がおかしい。
どこか落ち着きなく、レイヴンではなく虚空に視線を泳がせる。
しかし、あまり深く詮索しない方がいいと思い、自分からはその事を言わないようにしておく。
「それは私としても僥倖で御座います。
何かご不便がありましたら、すぐに私めに」
「分かっているよ。ま、まあ、そっちも、その……あまり働き過ぎるのは……」
やはり、何かおかしい。レイヴンが言うべきかと迷っている間に、「あの男」が過ぎ――
「そうだ。そ、その、レイヴン?」
「? 何でしょうか?」
相手から話しかけてきた。これには答えるべきだと口を開き、そしてその口は次の瞬間塞がらなかった。
「イノと、――仲良くなったみたいだね」
「えっ?」
「い、いや、ごめん。少し聞こえたんだ。けど、別に覗いてはいない。
しかし野暮だったかな? それだとしたら謝るよ。ごめん」
「……あの、もしもし?」
「まあ、いい。これでようやく共同の任務がスムーズに行えるようだね。
……ん、どうしたの? ああ、第三者からの干渉はあまり良くないかな。
じゃあ、この話題は今後控える事にするよ。じゃあ、失礼」
「…………?」
その言動をゆっくり咀嚼し、反芻し、嚥下する。
そして、思い当たる。昨日の事。
「まさか……」
「あの男」の言動の正体。それは、恐らく、史上最悪で盛大な誤解。
レイヴンはただでさえ青い顔を青くして、去っていった「あの男」を慌てて追いかけていった。

闇に飲めるもの

スレイヤーとレイヴンが語る話
カップリング要素あり
夜というのは、陽に当たらぬ者たちをステージへと招く裏舞台のようなものだ。
コウモリは透明な闇を、凝り固まった黒に変異させながら飛び回り、羽虫は何故この時を選んだのか、闇を蝕む街の灯に群がる。
そんな中、空っぽの道を鼻歌混じりに、大股で歩く人影があった。
見かけからの年齢は、お世辞に言っても若いとは言えない。しかし老いぼれとも言えない、がっしりとした体格の男性だ。
茶色い髪の前髪は、他者から見て左に流れをつくっていた。その髪と合わせの茶色の瞳は、片眼鏡から覗いている。
アゴから揉み上げにかけての曲線と鼻の下には髭が生えていて、一本も出しゃばる毛がないことから手入れが行き届いているのが分かった。
身につけた紳士服は濃緑だ。首を絞めるネクタイは赤く、しばらく視線を下ろすとそれが十字架の形をなしていると知れる。
右肩に赤く短いマントをかけて夜風に揺らしながら、その男はとばりの降りていない店を探していた。
しかし、時刻は深夜。いくら活気のいい酒場であろうと、多くの店からイビキ声が聞こえそうな時間帯である。明かりがあるのはせいぜい街灯のてっぺんからしかない。
それでも男は目をちょろちょろ動かし、人がいそうな店を探す。すると一件、よくは見かけない店のドアから光が漏れている。
「おっと、」
男は少し驚いた声を出して、その店へ近づいた。店のドアノブには「CLOSE」という小さな板がかけられていたが、ドアに埋めこまれたガラスから中を見れば客が一人いた。
フード付きのゆったりとした黒いコートを着ている。背が低いと錯覚したが、猫背気味に腰を折ってカウンターに頭を近づかせているため実際にはそれより高いのだろう。
酔いつぶれてカウンターに頭を突っ伏しているのかと思えば、そうでもない。アゴが触れない程度に頭の高度を保ち、そして顔を地面から垂直に立たせていた。
その客の近くに一つのコップもなく、ただ「そこにいた」。酒場だというのに酒の一つも頼んでいないのか、酒を売る事を生業とする店の主人はイライラとした顔立ちと貧乏揺すりでその客にプレッシャーを与える。当人は、無視。
「……ほぉう」
興味深げな声を出し、店の外で男は様子を見ていた。
彼は、その奇妙な客がどうなるのか少しばかり気になったのだ。
鋭い聴覚と視覚をより尖らせ、男はドアのガラスに腰をかがめる。
店の中では、ついに何かが切れたのか主人が大声を出した。
「――ふざけるな! いつまでここにいるんだ!」
客はようやく反応を示した。猫背からしっかりと腰を立たせると、主人をただただじっと見る。
「酒も料理も頼まずに、この店の中にいるのは営業妨害だ! こっちはとっとと店をたたみたいんだよ! 分かってるのか!?」
客はそれでも動じず、じっと主人を見ている。
その様子がさらに主人の火に油を注いだ。顔を真っ赤にさせ、その客の肩を揺さぶった。
「聞いてるのか!?」
しかし、客は後ろに落ちかけたフードの端を握って深く下ろしただけだった。
主人は表情を怒りに歪ませ、無礼者の顔を見ようと客のフードに手をかけた。そこで客は初めて口を開く。
「羽虫ごときが、鴉に逆らうか?」
客は決して主人のように大声で叫んだわけではない。が、客の声には何かぞくりとしたものが含まれており、声に撫でられた主人は思わず顔を青ざめさせてこわばる手を本能的に引く。
「吝嗇がついた。帰るとする」
そう言って客は踵を返し、ドアに向かう。主人の顔は今でも青ざめているが、睨みをきかせて「二度とくるな」と無言で主張した。
カランカラン、という小気味良い鐘の音が鳴り、客は外に出て、そこでようやく一部始終を見ていた男の存在に気づく。
男は初対面であるにも関わらず馴れ馴れしい笑顔を浮かべ、その客に向かってこう言った。
「やあ。このように夜遅くに出歩く者として、少々気になったのだが……。
失敬だが、見ていたよ。――君は何故、店主を怒らせるほどあの店にいた?」
「…………」
男の声も無視し、客は彼とは違うどこかへ行こうと足を運ばせようとする。
男は客を追い、何メートルか距離を置いて話しかける。
「気分を害したかもしれんが、そう無下にするのも礼儀としてはなっていないだろう?
私の名はスレイヤー。君は?」
「…………」
男――スレイヤーの話しかけにも、客は無視の姿勢を崩さずに歩いていた。
だが、今度スレイヤーが持ちかけた話題に、ようやく客は反応をしてみせた。
「頑として話さないか……。
――そうだ。私の知る店には、変わり者でも居させてくれる酒場がある。その中で、何か話してくれないか? あるいは、君がどのような者かによって、驕る事も考えるが……」
「…………」
「ふぅむ。それほど私を嫌うかね。
まあ、いい。君が私を受け入れたくないのであれば、ここで引き下がるとしよう」
「――何処だ」
「む?」
ようやく客の言葉が聞けたスレイヤーは、少しの嬉しさを持って聞き返す。
「何処だ、と言っている。……今、少し、公の場に居たい」
「ああ、そうか。それは良かった。
ご案内しよう。君のお気に召すかは保証できんがね」


ゴミがあちこちに落ちている裏路地の中に、その店はあった。
その店は看板も出していないため、商売をする気なのかと疑問に思える。
外と内とを隔てるドアの木の音がやけにきしみ、店の古さと手入れの悪さを顕していた。
内装は、不気味なアンティーク品が雑多に並ぶ全体的に暗い色調。いるだけでも気が沈みそうな所であったが、客の入りは深夜であろうと上々だった。
スレイヤーは傷だらけの丸テーブルの中から、二人がかけられるテーブルを探して、そこに客であった男を招き入れる。
ちらちらと店の様子に目を配るその姿を見て、スレイヤーはポケットから出したパイプをふかした後、話す。
「ここが、気になるかね?
ここは陽の光を当たれないような者たちが集う酒場だ。私が若いころにはよく通って、仕事の依頼を受けたりしたものだ。
――ああ、大丈夫。店主は口が堅い。その上、この店のルールは『口外するなかれ』だ。もし何か漏らしたりすれば、この店の常連が始末するというとても変わった店でね」
饒舌になるスレイヤー。一方男は無言のままだ。
二人のテーブルにふらりと訪れた店主は様子を無視し、スレイヤーに話しかけた。
「ご注文は?」
「ん? そうだな……今回も、いつものやつを。それで、君は?」
「酒は飲まない」
切って捨てる男だが、スレイヤーはひょいと肩をすくめた後に店主に言った。
「この男にも、私と同じ物を頼む」
「分かりました」
店主が引っこみ、視線を男に戻すと、男は少しの驚きと多めの嫌悪を表している。
「……何故頼んだ」
「それほど悪い物ではないよ、この店の酒は」
「悪いが、酒を飲んでも酔えないぞ」
「酔えなくとも、味が楽しめる」
「私は楽しめん」
「ほう。それは――」
「説得はいい」
フードを下げ直し、男が素っ気なく言う。
ふと、スレイヤーはそのフードを見て更に質問を重ねた。
「顔を隠す必要があるのかね?」
「少々、私は人とは変わっている」
「分かっているよ。
しかし、ここもまた変わった場だ。別に、晒しても別段問題はないと思うな」
「…………」
戸惑った後、男は辺りを注意深く見回し、警戒しながらフードを脱ぎ、
その場が驚嘆した。
男の白髪は長く、青白い胸元に届くほどだった。左目には銀色に輝く瞳があったが、右目はただ白い。
最も注目を浴びたのは、彼の額と後頭部を貫き生えた、棘。
金属のみが有する光沢を照るそれは、明らかに人体から生えるべき物ではなく、誰の目にも旗幟鮮明に金属だと分かる。しかし、そのような異物に頭を貫かれて尚、この男は生きている――。
周囲から注がれる好奇と畏怖の視線に耐えかねたのか、男はまたフードをかぶり、先程より不機嫌にスレイヤーに向いて反応をうかがった。
一方のスレイヤーは、空を泳ぐ魚を追うように視線をうろうろ天井のシミにつたわせていたが、やがて思考がまとまるとパイプに新しい草を詰めて男に問いかける。
「……あー、もしかしたら間違っているかもしれんが……。君、もしや、頭を貫かれているのかね? いや、何なら一角獣か、何か?」
「前者の方が正答だ」
「貫かれて……生きている?」
「そうだ。私は、死なない」
答える男。
スレイヤーはしげしげとフードに隠れてしまった針を見ていたが、店主がやってきた事を悟ればそちらに向いた。
店主は無言で二人の前に酒のグラスを置く。その置くというわずかな動作の間に彼は男のフードを見つめていたが、男の威圧が高まると慌てて去っていく。
スレイヤーはグラスを手に取り、男にもグラスを持たせた。そして男のグラスへ自分のグラスを運ぶ。
「乾杯としよう」
彼は男のグラスをかちんと揺らし、自分の手の中にあるそれを乾す。
「うむ、この味だ」納得したように首肯し、スレイヤーはしばらくグラスの中の氷を見ていた。
「君……死なないと言っていたな? だとすれば、私もそのような者を知っているよ」
その言葉にぴくりと男が震え、そして棘を覗かせない程度に顔を上げた。
「私と同じ者だと?」
「ああ。シャロンという、私の妻だ」
「ほう……」
男はやっと良い方向での反応を示した。
男はグラスを少し飲り、フードの陰りの中で口を曲げた。どうやら口に合わなかったらしい。
しかし男はそれを無くすように口を拭うと、スレイヤーに顔を向けて言う。
「永く在り続けてはいるが、間接的といえども同胞を知る事は無かった。それで、その女はどうだ?」
「体質以外は普通の女性と見ていいだろう。献身的で、中々に別嬪だ」
「自慢はいい。その女は、私達が死ぬ方法を知っているか?」
「多分知らんだろう。
第一、彼女は死ぬ事をあまり体験しないのでね。私に襲われて始めて不死だと気づいたらしい」
「それで、女もまた、この身を嘆いた事があるか?」
「いいや、少なくとも私の前ではな」
「…………」
未だグラスに残る透んだ酒と氷を見つめ、男は汚物を吐くようにつぶやいた。
「私は……この身を憎んでいる。
いくら刃に斬られようが、炎に灼かれようが、潰されようが絞められようが、死なないこの身を。
若い頃は、『不死』である事に浮かれていた。だが、あらゆる事に手を出し、あらゆる事に飽きて、初めて『不死』が牢獄のようにつまらない物だと気づいた。
その絶望たるや、貴様は知らないだろう」
「今の所は知らんな。私は今でも、人間を見ていて飽きないと思うよ」
「いずれ飽きる」
「その時はその時だ。強者に杭を打たれて死ぬとしよう」
飄々とよけるスレイヤーに、男は嫌味を存分に含ませ、言葉を当てた。
「……貴様が羨ましい。
私のように永く飽く生きるのではなく、己のままに生きれるか。何とも素晴らしい生き方だな」
「褒め言葉と受け取っておこう」
残り少ない酒を一気に乾して、スレイヤーは店主に御代わりを要求する。
店主はすぐにグラスに酒を注ぎ、彼は手を上げて感謝の念を示した。
グラスには口をつけず、男をひたと見据えながら彼が説いた。
「しかしだな、存在する者は全て虚無へと還る。
いずれ君にも滅びがやって来るだろう。傲る者が永く続いた事例は無いよ」
「それは最初、私も思った。
だが、他の者は死を望まずとも死を迎えるというのに、何故死を渇望する私が死を永らく得られない?」
「あるいは、君は死を望んでいないかもしれん」
「何?」
彼の刺々しい雰囲気から棘すら抜け落ち、不快も何もまとっていない。
呆気に取られてただただほうける彼に、スレイヤーが言葉を続ける。
「生きている者なら誰しも、生き抜こうとする本能がある。
首に縄を巻こうが刃を突こうが、必ずその手には悔いがある。
情死を謀る愚かで美しい恋人たちの一方が、相手を殺し自分も殺そうとしても、殺し切れないのはその為だよ」
「そうだろうな、他の者達は。だが私は違う」
「君とどう違うかね?」
「そんな事も分からないのか?
私は、数えるのも嫌になるくらい齢を重ねている。そんな青二才どもと比べるのは、全く定規が違う」
「時が人を変えるのは、私でも知っているよ。
だが、時で人が人以外に変わる事はない。根本を辿れば、君も、その青二才と全く変わりはない。
生きたい。その原因は、幸せを手放したくないからだ。そして、その幸せの原因は多岐に渡る。
遊ぶ。酒を飲む。多くを知る。快楽を感じる。愛す。愛される。あらゆる原因があるだろう。
――君は、原因に心当たりはないかね?」
男は、全くの無表情を努めていた。が、その内面には不快さが見て取れる。
「無い」
断言する。
スレイヤーはやれやれと肩をすくめ、味がなくなってきたパイプの煙草を詰め替えた。
それからマッチも擦らずパチンッ、と指を鳴らすと、パイプは独りでに火を灯す。
彼が煙混じりの言葉を紡ぐ。
「時に言葉とは、自分の心を裏切るものだ。
私には、その言葉が君を裏切ってるように思える」
「……『目を見れば分かる』、とでも言うのか?」
「瞳で心が分かるようであれば、意思疎通に不自由な言葉など生まれんよ。
言葉が嘘であれば、普通とは無意識に違う行動を取る。――震えていたよ」
鳴らした指で男を指し、スレイヤーが更に言う。
「正直になって何の害があろう? むしろ、我慢する事は心身に悪い。
それで、一体君は、今何が幸せかね?」
「…………」
沈黙。
それは、無視や忍耐などの後ろ向きな沈黙ではない。
男は目を伏せ、貫かれた頭を巡らせていた。
処理の沈黙。
『無い』と言う刹那ほど前に、思い出した事。
それの否定を何度も繰り返そうとも、何度も思い出される事。
「…………」
認め難い事を、口に出すか否か迷い、その困惑に口出しせずにスレイヤーは待っていた。
パイプの煙が二人を包むように蔓延し、耳に沈黙が詰められる。
フードの陰りの中、口腔の闇が開かれた。
「――すみません、ここに私の夫はいませんでしょうか?」
その言葉は、背後から聞こえた。
男は開いた口を閉じ、スレイヤーは彼に無言の断りを入れてからそちらへ向く。
そこに、目に馴染みのある姿が映し出された。
「シャロン、一体何の用だね?」
シャロンと呼ばれた赤い服の女は、少し膨れっ面で返答する。
「いつまで経っても、貴方が帰ってこないんですもの……。妻なら、誰だって心配します」
「それは、すまないな。それで、どうしてここだと分かったのかね?」
「長年そばにいる人なら、どこにいるかなんて見当がつきますよ」
「ああ、そうか。――心配させてすまんな、シャロン」
「言うのが遅いですよ。でも、ありがとう。あなた」
和やかな雰囲気が二人を包み、蚊帳の外にいる男は何とも言い難い目でその様子を見ていた。
その視線に気づいたのか、シャロンは彼に向くと、裏のない質問をかける。
「あなたは、誰ですか?」
「…………」
答える気配は表れず、スレイヤーは彼の代わりに彼女に紹介した。
「少しばかり、私の酒と話に付き合わせた者だ」
「あら、そうでしたか。――ごめんなさいね、こんな夜分遅くまで付き合わせてしまって」
シャロンは男に向かって軽くお辞儀をしてから、スレイヤーの手を取り無理矢理立たせた。酔いが回っているため少し足元がおぼつかなかったが、彼女の手を頼りに立ち上がる。
「いやぁ、自分から誘っておいてすまんが、私はここでお暇するよ」
右手を上げて別れの挨拶をすると、スレイヤーは金を置いて店のドアへ向かう。
「――ああ、そうそう」
スレイヤーはドアの直前で立ち止まり、彼の背を追っていたシャロンに顔を向けて、男にも聞こえるように訊いた。
「シャロン。君は……、幸せかね?」
質問を投げかけられた彼女は、即座に答えの質問を返す。
「『人間』なら、誰だって好きな人と一緒にいられることは幸せでしょう?」
スレイヤーは穏やかに微笑み、二人はドアへと消えた。
「…………」
一人残された男は居ずまいを正した。
戯れに金を数えると、頼んだ酒の額よりも随分と多い。
礼のつもりか、と、どうとも言えないため息を吐き、男は頬杖をついて目を虚空に這わせた。
が、虚空は突如として形となる。
天井付近から赤いブーツが形成した、と思えば重力に従うかのように姿が引きずり下ろされる。
白い肌赤いスカート白い胸元赤い服赤い唇七色の瞳黒い髪赤い帽子、と、目が理解するより早くその姿を展開し、周囲が棘を見たかのように唖然とする中で、彼女は男を見て、一言、
「レイヴン」
とだけ吐き棄てる。
「……何故、ここに来た?」
「テメェ、遅ぇんだよ」
口から呆れた息を吐き、彼女はレイヴンに言い募らせた。
「あまりに遅ぇモンだから、ついにくたばったかと思って期待してみりゃこれだよ」
「それは、済まなかった」
「なんだよ。謝るなんざ気持ち悪ぃな」
「……そうだな」
不自然な自分自身に呆れながら、レイヴンはイスから立ち上がる。
フードを深く下ろし、イノに向いて彼が問いた。
「準備はいいか?」
「とっくに済ませちまったぜ」
「そうか。なら、行くぞ」
そして、スレイヤーたちが消えて行ったドアへと直進する。
彼は、彼女の見えないフードの内で、無自覚に穏やかな笑みを浮かべていた。

ちかしい末端

時間移動したイノと昔のレイヴンの話
カップリング要素あり
虚しさが、膨らんだ胸に溜まっている。
手すら何も掻き抱いていない。先程まで腕の中を占めていた枕は、腹立たしい事象を思い出した時に壁へとぶつけた。
目の前に広がる楽器類を破壊したい願望に囚われたが、自制の檻がそれを塞ぐ。それが後々、後悔や自己嫌悪に代わるだけだと、経験が知っていた。
だが、抑え切れない憤怒が胸中に満ちている。
外に出さねば己が瓦解するような憎悪がある。
脳裏に顔なき顔が不快によぎる。
その憎らしい口から出た言葉は、いつもと同じ嘲りだった。
しかし、今回は少し勝手が違っていた。
ほんのわずかばかりの好意を集めて形成したような、感謝とも言えない示しを渡そうとしたのに。
それを踏みにじられたように思えた。
イノはいらだちのままに罵倒した。
過剰なまでの罵倒に、相手もまた罵倒で返した。
こんなはずではなかった。
本来なら、もっと穏やかになる計画だったのに。
自分の短気よりもまず、自分の胸の内を知れない相手の、いつも通りの言動が、いつもよりもずっと憎らしかった。
そして、あいつなんか消えてしまえばいいという思いが浮かんだ。
浮かんだ時から、彼女が動く。
ゴミ箱に好意の残骸をぶちこみ、彼女愛用のギターであるマレーネを取り、帽子をかぶり、表情を鎮め、期待の笑みを浮かべる。
そして、最後に侮蔑の言葉を部屋に置き、
彼女は時間を跳んだ。



激しい時間の水流に抗い、掻き分け、イノは目的の時間に達したと知ると古い地を踏んだ。
あたりを見渡す。
木は存分に枝葉を広げ、日光を享受している。
足元の枯葉は団子虫が食い散らかし、土へ還る途中だった。
鳥は仲間と共にさえずり、遠くの鹿は跳ねるように移動する。
ブラックテックに侵されていない森。
どうやら本当に目的の時間に着いたらしい。千年以上も前の中世時代のドイツ。それがイノの目指していた、今いる所だ。
「ふぅん……」
自分の業に感心する意味で、鼻にかけた息を吐き、酸素を取り戻すために吸う。
と、そこで血の臭いがした。
鉄と生臭さが入り混じる独特の血臭。嬲る際に何度も嗅ぐその臭いを間違いようもない。
イノは自然と臭いを辿っていき、森の深奥から境界へと移動する。
視界が開けた。
木々の柱を抜けた先には、昔の文献で見たような戦場があった。
科学も法力も無かった時代。何の工夫もなされていない槍や弓を手に、非効率的な戦いが繰り広げられている。
最前線の兵は槍ぶすまを展開し、背後では補給されては矢を射る弓兵が援護していた。
自分ならこのくらい容易く一掃できるのに、と、もどかしい気分に駆られたが、イノの目的はそれではない。
レイヴンを殺す。
それも、最高の屈辱を与えた上で。
今の時代ならば、不死性が発現していないはずだ。だから殺せる。抹消できる。そうすれば、この時代に連なった元の時代のレイヴンも、消失する。
打算し、イノの口元に下卑た笑みが浮かぶ。
確か、レイヴンは騎士だった。そうならば、もしかしたら、この戦場の中にいるかもしれない――期待を持って見回していると、兵士たちの歓声が上がった。
「援軍だ! 援軍が来たぞ!」
振り返る。そこには騎馬の群があった。手に手に馬上槍を持ち、前線に到着しては歩兵を突き刺し、蹴散らし、猛りを上げて武勲を重ねた。
中でも、背が高く、白髪を頂く若者はまさに獅子奮迅の活躍をしている。若者と同じ年齢の新兵は腰を抜かしているというのに、その若さで馬上槍を巧みに操り敵兵を蹴散らす様は、御伽話の中のように現実味に欠けていた。
欲望に駆られる。
マレーネを手に構え戦場へと踏み出した。が、兵士はイノを見るや否や、その腕をつかみ怒鳴り散らす。
「女が何をやっている! ここは戦場だ。命が惜しけりゃとっとと去れ!」
「アァ!? 誰に口きいてんのか分かってんのか!?」
ブーツのヒールで兵士の足を踏み、痛みに悶絶する兵士をよそに、イノは件の若者に近寄ろうとする。
しかし、馬の速さには勝てなかった。法力で瞬間移動、あるいは高速移動をする事も考えたが、必要以上に注目を浴びて妨害に遭う可能性も考慮し、己の足で走った。
途中の妨害は障壁で弾き飛ばした。
「待ちやがれッ!」
言葉は届かなかった。距離は開けていき、ついにイノは若者を見失った。
これ以上追うのは無駄骨だと悟ったイノは、その場に立ち尽くす。
あたりの兵士はすかさず槍を向けた。
当然だろう。騎馬隊で荒らされ回った上に、追い打ちをかけるように現れた女。
それを敵軍からの手先と考えるのは、何ら不思議なことではない。
しかし、イノにとっては不可解で不快この上ないことだ。
何故、こいつらの誰よりも高位な存在の自分に敵意を向けてるのか、と。
「……誰に先っぽを向けてんだよ、オラ!」
その怒りのまま、マレーネの弦を掻き鳴らす。
荒々しい旋律を繰り返すリフは、単なる空気の音から空気の刃へと凝縮され、周辺の兵士を吹き飛ばし、鎧をつけてもなお神経を痛みに共鳴させた。
当時の文明から見れば魔法としか思えないそれに恐れをなし、兵士は逃げ腰になる。
「先走ってアタシを満足させなかったコト、後悔させてやるよ!」
背後を見せた兵士に向かって叫ぶ。
叫びもまたリフと同様の力を伴い、兵士の背に直撃した。
ギターと槍のシンバル、悲鳴のヴォーカルが、戦場に似つかわしくない狂騒曲を紡いでいた。
数え切れないトラックは耳に収束する際に自然とトラックダウンされ、それでも褪せない響きがイノを高揚させる。
彼女が、また笑う。しかし、デクレッシェンドに曲の体裁が失ってゆく。前方に広がる軍は潰走状態に陥っていた。
頃合いと思い、ゲインが上がり切って歪んだ音が場を締め、頭の中で勝手に拍手が再生される。
フラストレーションの行き場を失い、いらだちを覚える。が、本来の目的を思い出して、頭を振りかぶった。
「レコーディングはこれからよ……。アイツの醜い喘ぎ声を、アタシの脳に録ってあげるわ」
騎馬の若者が来た方向を、イノは待ち遠しそうに見つめて言った。



大広間の重厚なドアを開けて、出迎えたのは酒臭さ。
ただ苦いだけの物を嬉々として飲む、年老いた輩の心理が理解できない。しかめっ面をして、若者は手近なイスに腰かけた。
勧められた酒は断り、汚れたテーブルクロスの上から七面鳥のモモを捻ってちぎる。
大口を開けて食べようとした丁度その時、妨害するように隣の中年が若者に話しかけた。
「よう、青二才。
戦勝したのに辛気くせぇ顔持ちこんで、一体全体どうしたんだ?」
「……お前が話しかけなければ、幾分か辛気くさくならなかっただろうがな」
言って、構わずモモをかじる。高価な香辛料ではなく、安価な塩を振って焼いただけの肉だ。酒用の味つけで、単体で食べるには塩気が多過ぎる。
酔い覚まし用の水を注いで飲み、その塩気を口から胃へ追いやる。またモモをかじった。
「そんな性格だから、テメェは陰口言われンだよ。
その陰口聞いてくれりゃ、少しくらい自分の身の振り方もわきまえられるんじゃねえか?」
「別にいい。嬉々として自分を不幸に落としこむのはオレの性分じゃあない」
「だろうな。それより、俺のほうは後ろから弓を射っててわかんなかったけどよ、テメェは知ってるよな?」
唐突な問いかけ。明らかに情報が欠けている文章に、若者は眉を潜めて中年を睨む。
「知ってねえのか?」
「何がだ」
「うーん。前線のジイさんから聞いたんだけどよ。赤い女の話」
「……ああ」
そういえば、視界の端にそのような女を見た事がある。
しかし、若者はその時、女に注目するよりも眼前に広がる敵兵の海を蹴散らすのを優先していた。あまり詳細は分からないが、こくりとうなずいた。
「なぁんだ。分かってるじゃねぇか。
話によるとよ、そいつはたった一人で、手も武器も触れずに敵を倒していったらしいぜ」
「そんなことはありえない。どうせ恐慌に陥って幻覚でも見たんだろう」
「いやいや、それがそうでもねぇんだよなぁ。
他のヤツからも話はちょろちょろ聞いてるさ。やれ魔女だ、やれ女神だ、とよ」
「呆れ」の意味合いを含んだ息を吐き、若者が否定する。
「魔女も女神もいない。そんなのは、なにかの見間違いだ。
この世に魔女なんていない。ましてや、女神もいない。いるのは、オレたち生物だけだ。
そんな姿も現れないものを信じても、何の得にもならん。恐れるなら、それだけ損になる」
「相変わらず信心ってモンがないな……」
「悪いな。動かない神様に拝んで祈るよりも、その合わせた両手で剣を握るほうがオレは安心する」
今度は呆れの息を中年が吐く。それ以降、話しかけようとする素振りを見せない。
若者は持ったままの、鳥のモモをまたかじる。
かじる。かじる。



真夜中。
日付が今日から明日へまたごうとする丁度その時。イノは古い要塞を見上げた。
戦争用に造り上げられたものだろう。岩壁は頑強に集まり、ぽっかりと空いた穴には大砲の口が覗いている。
頭一つ飛び抜けて高い見張り台は月を指し、窓から月光を取りこんでいた。
ここが、若者の敵軍の拠点だったのだろう。しかし今や、要塞にいた数人の敵兵は胸を刺された状態で野ざらしにされている。
そのせいで血の臭いがするが、酒の臭いも混じっている。イノは見張り台に人の気配がないのを確認し、空中へ飛び上がった。
冷たい夜の空気を裂き、イノは見張り台の屋根に降り立つ。岩壁一枚隔てた先を見下ろすと、酔い潰れた男たちが赤い面をして眠りこけている。こちらを見る者はいない。
イノは安堵し、要塞内を舐めるように見回す。物質を視覚的に除去していき、やがて若者の姿が暴かれる。
跳ぶ。
足先が固体と離れた刹那、空間湾曲を操る。
効果範囲は赤い帽子から赤いブーツまで。ターゲットは若者が眠るベッドの脇だ。
ギィィィ、と、無理矢理ひしゃげられた空間が悲鳴を上げた。目の前が混濁し、意識が揺さぶられる。足元にまた固体の感触が戻った。
木の床が、空間の悲鳴と同じ音で軋んだ。その音で何者かの来訪に気づいた若者は、跳ね起きてすぐにイノを見つける。
「……誰だ」
「あぁら、随分と冷静ね。『今』のアイツと同じでからかい甲斐がないのね」
若者からすれば、何の繋がりも無い返答。いや、答えですらない。
くつくつ笑うイノを見て、若者はふと思いつく。
「あの時の女か」
「あの時?」
「今日の昼間。お前はオレと同じ戦場にいた女だろう」
「――ああ、あれ。
多分そうよ。覚えてるなんて光栄だわ。それとも、そんなに魅力的だった?」
若者に詰め寄り、イノが吐息を顔にかける。焼畑の煙を浴びたように彼は顔をしかめた。
その様子を見て、面白そうにイノは表情を妖艶に形作る。
「それでも、アイツと全部いっしょって訳じゃないみたいね。アイツなら、近寄った瞬間に振り払うもの」
今、目の前で自分をある程度許容する人物。
先程、自分を見たその時から嘲笑した人物。
同じ人物。それでも差異が生じている。
時が人を変えるのは知っていたが、不死者というのはどこまでも同じようなものだと思っていたイノにとっては新事実だ。
イノがベッドを軋ませ、若者と同じく上に乗る。今までの彼女の言動、行動を理解できない彼は、答えを知るため思わず声を荒げた。
「何だ、貴様は!」
「アタシ? アタシはイノ。
アナタの未来を潰しに来た。けど……それより興味深いコト、見つけちゃった」
彼のあごをしゃくる。血色の良い美貌がイノの瞳に映る。
「……潰さないで、むしろ変えて有効利用したほうがいいかしら?」
「だから――」
その続きはつむがれなかった。
若者の口を、イノの指が塞いだ。
「今」のように死後硬直のしていない肌の感触。それを指に覚えこませ、解放させた。
「――何だ!」
ようやく、続きが出る。
イノの右腕を取る。それを引いてから彼女の左肩を打突した。
ベッドに倒れこむイノ。それにおおいかぶさり、若者が彼女の動きを止めさせる。
顔と顔が近い。彼が睨みつける様の、眉間の皺まではっきりと分かった。
「今度こそ答えろ! 貴様は、一体、何が目的だ!」
言葉の一句ごとに力を入れる。
それでもイノはほうけたように若者を見つめているだけだった。それにいら立ちを覚え、彼が更に言葉を吐く。
「貴様は誰だ? 暗殺者か?
だとすればオレは大将じゃあない。暗殺するならオレよりもっと都合のいい相手がいるはずだ。それとも――」
「……ウフ」
「何が可笑しい!」
「ねえ。こういう組み方って……、行為のと同じよね」
すると、彼は客観的に己の姿を見ることができた。
彼の顔が炎上する。
「な……、なにを……何を言うッ!」
「思ったよりウブねぇ。お姉さんが、イロイロ教えてあげようかしら?」
「断るっ」
「あら、遠慮しなくてもいいのよ。
それとも……無理矢理っていうシチュエーションが好き?」
有無もいわせずイノが転がる。
無論、イノの腕を取っていた若者も連動して転がった。
位置関係は逆転し、今や彼の方が下になっている。
イノが緩慢に口を開く。
言葉責めをしようと、そしてそれには何が一番有効だろうかと、口を開く間に考える。
そして、苛む言葉が発するより早く、若者が罵倒を口にした。
「醜婦め」
止まる。
イノの口が閉じる。下卑た笑いも消え去った。
不快の起爆剤となったその言葉は、なおも続く。
「貴様のような女など、この世の誰一人とて受け入れないだろう。――」


――「あの御方」も誰も、何もかも。


「やめろ!」
ヒステリックに叫ぶイノ。
若者は思わず黙った。それほど、彼女のその声が、表情が、これまでと一変して耐え難い憤怒を孕んでいたからだ。
彼女にバックフラッシュが起こった。
「今」の声色。「今」の抑揚。「今」の表情。
それらが、全て先程の若者の言葉と一致していた。
そのせいで、彼の切った言葉の先が、「今」の内容に補完される。
「結局テメェも同じだ……。テメェもアタシを嘲るのか!」
先程とは別人のようだった。その変わりように若者は押し黙り、唖然と彼女の顔を見つめる。
と、右頬に衝撃が走る。
銃声に似た音が響き、脳が揺れると同時に、彼は強烈な平手で打たれたのだと知った。
攻撃に備え、身構えた。が、イノはすぐさま若者から離れ、窓縁に座る。
そして、後ろへ倒れる。視界から消えようとするその際、彼と目が合い、
「やっぱり死ね」
冷酷に宣告した。



見張り台の鐘は、鼓動のペースでけたたましく鳴る。
敵襲の警鐘。それを聞き、若者はベッドから飛び起きた。
あれから寝ていない。
女の正体、そして言動。それらを考えていたら、ぞくりとする何かが背を走り、眠ることなどできなかった。
ただ横になっていただけで、意識が夢に浸かったこともない。疲労を溜めこんだ体を動かし、武器庫へ急いだ。
通路を走っていると、昨晩自分に声をかけた中年がいた。中年は若者を見ると、
「この要塞を取り返すつもりだ!」
訊かれてもいない理由を話す。
若者はどう返すべきか分からず、とりあえず首肯した。
武器庫が見えてきた。中年はいつの間にやらいなくなっていたが、この際どうでもいい。扉を開け、目に飛びこんだのは弓矢だけだった。
彼は弓矢を触り、慣れない感触を得る。いつもは前衛で剣や槍を振るうため、どうにも手つきもぎこちなくなる。
が、無いものを振るうことはできない。仕方なく弓矢を手にし、彼は要塞の岩壁に立った。
眼下に、敵兵の海が広がっていた。



鎧の音がやけに響く。
平原の凝固した血の黒と折れた刃の鈍色が、戦場の痕だと知らされる。
しかし、草を折る大軍の足音が、再びこの地を争乱のものになることを予感させた。
「――敵軍は戦勝の宴の後であろう!
その気の緩みを突き、我等が要塞を取り戻そうぞ!
更に、昨日の憎らしい魔女も対抗できぬ程の兵器が、我が軍にはある!
諸君! 我が軍に、我が国に勝ちを献上せよ!」
老将が嗄れ声も高らかに鼓舞し、その声に応えて兵たちが槍を、剣を、矢先を天に突く。
その様に感服し、老将は深くうなずくと、槍を要塞へと向けた。
「弓兵、弓矢の用意を!」
すると、要塞を中心に緩やかな円弧を描く弓兵が、一斉に弓矢を要塞に向ける。
「衛生兵、大砲の用意を!」
そして、ここまで押してきた大砲の角度を調整し、火薬と砲丸をこめる。
「――射て!」



ヒュウ、と口笛が風に溶けこむ。
「始まったようね……」
空を削る矢の群れが要塞の中に吸いこまれ、葡萄のように肥えた砲丸は弓兵ごと岩壁を崩す。
敵軍の数は見たところ、昨日と同等の数である。しかし、若者のいる軍には死者がそれなりにある上、援軍もあれ以来ない。おそらく、その数は平原をおおうあの軍ほどはないだろう。
数は、それだけで力になる。個人差に大きく左右される法力も得ない中世では、なおさらその公式が当てはまる。
だからこそ、若者の軍は負ける。だが、自分が望むのは若者を己の手で嬲り殺すことだ。それを第三者である敵軍に為されては、せっかくこの時代まで来た甲斐がない。
三度目の砲丸が、残り少ない弓兵を全て岩壁に沈めた時、ようやく要塞から騎馬や歩兵が出てきた。
カマキリの卵を潰したように、わらわらと平原の地を踏む。入り口を狙っていた四度目の砲丸がそれを潰し、大きな損害を若者の軍に与えていた。
しかし、騎馬にはダメージはない。イノはすぐさま戦場へ駆け寄り、こちらを見た敵軍の兵士が恐怖の表情で槍を振るう。
「まただ! またあの女だ!」
「魔女! 魔女が来たぞ!」
呼びかけの形をした悲鳴を上げる兵士たちを、イノは難なく吹き飛ばした。マレーネの力を発揮させるまでもない。彼女は騎馬を猛追し、若者を探していた。
が――。
「……クソがっ!」
騎馬を見たイノが暴言を吐く。
白髪を頼りに探していた彼女は、その特徴を持つ騎馬に嬉々として襲いかかった。しかし、それは生来のものではなく、老化によってのものだった。つまるところ、若者ではなかった。
他の騎馬も探す。それでも若者はいない。倒れた騎馬も見た。歩兵も見た。それでも、いない。
胸中で澱のように溜まるストレスが、力量の波によって噴出されようとしたその時、肩に手が置かれた。
「勝手に触んなよ! ゴミごときが!」
振り払う。そして、手を置いた無礼な者に顔を向けると、そこには中年の顔があった。
「姉ちゃん、今日も加勢してくれるのか?」
「アア? 何言ってんだテメェ?
たまたまアタシにちょっかいかけたヤロウが相手だっただけで、今アタシを不快にさせたアンタにブチこんでもいいんだよ!」
言って、イノが中年に敵意を向ける。時々振られる文字通りの横槍は、法力の壁で弾いた。
ふと、質問が浮かぶ。イノは幾分か声のトーンを落とした後、中年に訊く。
「テメェ、白髪の青年を知らねえか?」
「あいつか? あいつは、多分、――死んだ」
「……死んだ?」
唖然。
「ああ。あいつは弓矢を取った。
そして、弓兵は全滅した。だから、多分死んでる」
無言。
「あん時、俺が剣を取ってなけりゃ、今生きてただろうに……」
無言。
「アイツ、若かったのにな……。まだ俺のように、人生に飽きてもいないし、絶望もしていない。
そんなヤツから死んでいくなんて、やっぱアイツの言う通り、神様なんていないのかもな」
中年は、寂寥感を感じさせる声色でそう締める。
イノを縛りつける、満足のない達成。
言いようのない喪失感。
茫然自失といった瞳で、彼女は虚空を見つめていた。
「……そうかよ」
一言。
彼女は法力の壁を解き、ふらりとした足取りで、時空の狭間に飛びこんだ。



レイヴンが死んだ。
実感が湧かない事実。その事実の行く末を辿っていく間、イノは考えていた。
――憎いヤツが死んでも、意外と喜ばないモンなんだな。
自分でも驚くほど無感動に、彼女はふらふらと時空の道を歩く。
辿っていけば、西暦2186年に着く。「今」と違うのは、そこにレイヴンがいないことだけだろう。永年夢見ていた理想が、間近に迫る。
――ここだ。
ようやく到着した。長いはずの帰路は、あっさりと終結する。
時間を開き、ダイブしようとする。だが、
「…………」
行けない。
自分が、その時間にいることを許されていない。
「何なんだよ……」
口が歪む。
理由が分からなかった。何度も試みても、弾き返されてしまう。何故だ?
何故だ――?
その自問に、何分も時間をかける。
答えは単純明快だった。
「簡単なコトじゃねぇか……」
不快に口元を押し下げ、指を食む。
「アタシの血統の誰かさんが、あのヤロウと関係があるんだろうな」
直系か、あるいは彼によって直接的・間接的に救われた者の末裔か、それは分からない。
ただ、分かるのは、レイヴンを生かさなければ、自分は「今」に戻ることすらできないこと。
そして、イノが導き出した解決策は、今までの努力を無意味の塵芥に化すこと。
「なら、アイツを救うしかねえだろ」
皮肉に、イノが嘲笑った。



アウトレンジからの攻撃というのにメリットがあるのは分かる。
だが、重量ある得物で敵を屠ってきた彼にとって、その手に握られた軽さはあまりにも頼りなく感じた。
それでも、やるしかない。
矢を手にし、弦を引く。あまり経験がないために、腕が震える。
青いな、と自分でも思い、苦笑する。
限界まで引き、弓の形が湾曲した。
その時、背後に気配が生じる。
「――ッ!」
気配に抱きかかえられた瞬間、視界はがらりと入れ替わった。
眼下には地。眼前には要塞。敵軍から随分と離れた森の中、レイヴンは空間湾曲特有の酔いに目眩がした。
回る目に捉えたのは、昨日の女。だが、その顔は、昨晩最後に見せたものとは違っている。
「悪いが、昨日のはナシだ」
笑み。
目を回す自分の無様さに笑ったのか、と思い一瞬腹立たしくなるが、自分ではなく彼女自身に笑っていることをふと感じ、罵倒に開いた口を閉じた。
その滑稽なレイヴンの様子も見ず、イノは要塞に向きながら話す。
「テメェの存在要素がアタシの存在要素と一致しちまってるんだよ。
だから、生きろ。飽きちまっても絶望しちまっても生きろ。テメェをとことん生かしてやる」
「何を――」
「そろそろ来るな」
レイヴンの質問も遮り、正体の分からない発言をするイノ。
彼は質問を諦め、彼女が見すえる要塞をつられて見る。
すると、砲丸が要塞に直撃した。
丁度、彼が先程いた場所に。
唖然とする彼に、イノが振り返り耳元で囁いた。
「見ての通りだ」
イノの囁きに、唖然を閉じて同意する。
「……ああ。そうだな」
「で、どうするつもりだ? 逃げるか?」
「戦う」
イノが多少驚き、また笑いを取り繕う。
「さすが騎士様ねぇ。やっぱりお仲間は見捨てられない、っていう美しい精神かしら。
でも、それってはっきり言って自殺行為よ? ま、アンタが将来、嬉々としてやるようなコトだけど」
「違う。
国の連中のほとんどは、負けて逃げるより戦地で尽きる方が美徳と考えてる子供ばかりだ。
この場で敗軍を見捨てて逃げても、国はオレを守らない。逆に国を捨てて自らの命を優先した潰走兵として刑に処されるのが妥当だ」
「じゃあ、アンタの理論だと、どっちにしろ地獄行きじゃねえか」
「だろうな。生憎、オレは神様に祈ったことは一度もない。
が、死にはしないだろう」
「……何でだ?」
イノの問いに、彼は即答する。
「オレを生かすと、お前が言ったからだ」
確信の声色と瞳を持つレイヴンを、イノは呆気にとられたように注目していた。
自分を信じている。「今」のように険悪な仲であれば気味悪がるだろうが、今は小さな幸福感が先行する。
「ずいぶんアタシを信用してるじゃない?」
「お前は自分が結んだ約束をすぐに破るか?」
質問に諭しの質問で返され、彼女は黙り、静かにうなずいた。
それは肯定ではなく、納得のもの。
沈黙が場を満たす。
その中で、決意は自然と固まっていき、レイヴンが毅然とした態度で立ち上がった。
「行くぞ。援護はオレに当てるなよ」
「分かってるよ。アタシのテクを舐めんじゃねえ」
そうして二人は、再び戦場に呑みこまれた。


刃は欠け、矢は避け、鎧は凹み、肉は断つ。
敵軍にとってその働きは、血塗られた魔剣が為すもののように思えた。
しかしそれは、屍が持っていたごくごく平凡な大剣でしかなかった。
ただ、施された法力と、振るう者の技量とが、常識とは「少し」逸していただけだ。
大剣は、薄い風の膜に包まれていた。
風は極小域に超高速で吹き荒び、その鋭利さは職人が限界まで磨き上げた業物を遥かに上回る。
更に、それを振るうレイヴンには恵まれた体躯があり、また若くして長く戦場にいた故の経験の豊富さ、日々研鑽してきた剣の技量もその戦果の構成要素に積載されている。
また、イノが敵軍に与える損害も、相手に恐れを抱かせた。
法力という未知の力に薙ぎ倒される仲間たちを見て、敵兵たちは足が竦む。そこに追い打ちをかけるようにレイヴンが詰め寄り斬り捨て、その隙に彼に寄る羽虫の兵士を彼女が的確に潰す。
たった二人。それでも戦果を上げるその二人に、若者の軍は士気が上がり、敵軍は逆に士気が下がっていた。
「――一体、何なんだよ、テメェらッ!」
法力に足を折られた兵士に向かって、イノが唇を舐めながら答える。
「『あの御方』の犬、と――鴉ってとこかしら?」
マレーネが吼えた。
それは、散々弾き尽くしたライブに終わりを告げ、フィナーレの始まりを告げる、楽譜もない衝動の前哨。
それは、音楽を解さない兵士たちにも知れる、最終曲目の始まり。
「……テメェらは、ノイズなんだよ!」
「……曇天の陽にすら劣る雛どもめ!」


その曲は、疾風を思わせた。
旋律を根本から形創るギター。大剣が風を斬り裂き唸るヴォーカル。
それを分類するならば、打ちつけるような疾走をフィーチャーしたスラッシュメタル。
ギターの音色に追随するヴォーカルは獣の如き咆哮で、声そのものではなく声という楽器になりすましている。
ライブパフォーマンスは血肉を伴う激しいダンス。風の波、あるいは風の剣に裂かれた哀れな客は、その芸術の一つとなって恐怖に魅了する。
それだけでも充分にメロディアスで魅力溢れる曲に、今、ドラムが加わった。
低く、大きく。大地の革を力強く打つのは、敵軍が二人に向けて発射した大きな弾丸。
本来大砲という物は集団に対して猛威を振るうものだが、二人の強大さに恐れたのか、費用も効率も全く考えていないようで躊躇いもなく撃ってくる。
しかし、緩やかな放物線を描くその軌道を見切り、二人は難なくよけた。
避けること自体は容易とはいえ、前衛の敵兵に動きを止められた時には確実に直撃し、死亡する。そのリスクを考慮すれば、敵兵を蹴散らすよりも大砲を止めることに専念すべきだろう。
二人は視線を交えて意見を求め、互いの瞳で同意を知った。
同時に地を蹴る。砲丸が二人の残像を射貫いた。
迫る二人を仕留めようとして、いくつかの兵士が刃を向ける。
イノはレイヴンに襲いかかろうとする兵士を弾く。
レイヴンはイノに遅いかかろうとする兵士を斬る。
行く手を阻む兵の群れは例外なく倒れ伏し、二人が通った場所には屍の道ができていた。
「――うああぁぁぁぁぁぁ!」
恐慌状態に陥った兵が、折れた槍を捨ててレイヴンに突っかかる。
無論、兵を容易く断頭させ、絶命させた。が、突っかかった際の慣性で兵の屍が彼によりかかり、重しとなった。
「くっ……」
空気の歪みの音を聞き、空を見上げる。
逆光でより黒く見える砲丸の牙が、真っ直ぐにレイヴンに向かっていた。
兵を捨てようとする。が、間に合わない。
ここまでか――?
諦念が彼を突き落とす。しかし、
「テメェを生かすって、約束しただろ!」
イノが砲丸を弾き飛ばした。
大きく振り上げた右手が衝撃波を描き、波は砲丸へ直進する。砲丸はその力に軌道を逸らされ、レイヴンのすぐ横に埋もれた。
「すまない――」
そう言い、レイヴンはイノの死角から襲おうとした兵を、恐るべき速度で接近してから斬り捨てた。
「――だが、これで借りはなしだ」
ざし、と大剣を地面に刺し、彼は彼女に背を預ける。
「いいぜ。わざわざ千年以上も越えて借金取りはしたくねぇからな」
マレーネを構え、彼女が応える。
「さあ、そろそろ終わりの終わりね」
ゲインを引き上げる。
音楽に疎い者でも、その音律はこれまでの仕上げにかかるものだと知れた。
速度を感じる。あらゆる音を凝縮し、指向性のある爆発が脳を奮い立たせ、それでもなおクールダウンさせる。
音量は激しく、大きく増していく。それとは反比例し、敵軍は形骸と呼べるまでに縮小していた。
法力の、大剣の、刃が軍を斬り刻む。
集団の利より自己の命を優先し、逃げようとする愚者は死の旋律で耳から血を噴く。
果敢に捨て身を実行する兵士は、死神の鎌の如き無慈悲な大剣により胸を貫かれる。
そうして、敵軍は削られてゆく。
奥深くへと侵攻し、ようやく見えたのは老将と大砲。
二人は歓喜を表情に灯した。
その二人の思惑を知った老将が、何事かを叫ぶ。完全に傍らの仲間と戦場とに同化した二人には、興奮で言葉の意味が分からない。
言葉は敵兵を寄せ集め、老将と大砲を護る壁となる。
手に持つは槍。ファランクスの形状を取るその壁は、二人の目にはとても薄く感じられた。
「無駄だ!」
二人のどちらが叫んだ言葉か、当人すら分からなかった。
兵が織り成す槍襖を、イノが法力で引き剥がす。
素手の兵の首を、レイヴンは大剣で掻き斬った。
あらわになった老将と大砲が、顔面と砲口を二人に向けていた。
レイヴンが大剣を老将に向けて振りかぶり、
イノがマレーネを大砲に向けて掻き鳴らし、
ステージは、一際大きな旋律で幕を閉ざした。
軍隊というものは時に生き物と同質のものとなる。
知能を司る頭を失えば死骸も同然だ。それでもなお生きていることなど、極一部の例外を除いて、無い。
そして、大将格たる老将が亡くなって、敵軍は潰走状態に陥っていた。
追うことはない。ただ放っといても、さしたる脅威にはならないだろう。
レイヴンは法力から解放され、重量を取り戻した大剣を手放し、忘れていた疲れにどっぷり浸った。
血だまりにすら気もとめずに腰を下ろし、心底からのため息を吐く。
「――ま、結果オーライってヤツね」
イノは汗も垂らさず疲れも見せず、立ったままレイヴンを見つめていた。
「アタシの欲求不満も解消したし、多分コレで帰れるだろうし、あとはもう、ここに用事はないわ」
確認し、イノが時間跳躍に精神を費やす。
レイヴンは薄れていく彼女をじっと見つめ、消え去る間際にぼそりと呟く。


「感謝する」



――あの女は、本当に訳が分からない。
自室のベッドの上で、「今」のレイヴンは天井を見ながら思想を巡らした。
いつも通りの嘲りの言葉一つを投げかけただけで、十の罵倒を返すような事例など、今までなかったはずだ。
膨大な記憶の中から、漠然とそう結論づける。しかし、引っかかることもある。
イノが後ろで隠していた物は、なんだったのだろうか?
まあ、恐らくは、「あの御方」に渡す物だったのだろう。その中に媚薬の毒を忍ばせはしないかと思い、隙を見て検分してやろうか、とも思う。
コンッ、コンッ。
控え目なノックが二度。
「あの御方」だろうか? そう思い、口を硬く結んでドアを開く。
「よう」
イノ。
レイヴンは厳粛に用事を尋ねようとしたところを閉口させ、苦い顔で彼女を睨んだ。
「……何用だ」
素っ気なく尋ねる。するとイノは、彼と同じ顔をして暴言を吐くより前に、背後に回していた手をレイヴンへ突き出す。
「今日はテメェのための日だ」
ラッピングすらされていない木箱をレイヴンの手に無理矢理握らせ、イノはそれだけ言って去ろうとする。
どう言うべきか。そう迷い、電撃のように思い出したのは、
「すまない」
謝罪の言葉だった。
その言葉に、ぴたりとイノの足が止まる。
「……最初に貴様と会った時に、怒らせた言葉を、また私が言ったな」
「……ああ」
「それを思い出した。……すまなかったな」
「……ああ。学習しねぇな。テメェは」
イノが言い、沈黙が落ちる。
彼女は振り返り、「初めて」レイヴンに、純粋に笑いかけた。
「待つからな。
例え忘れ去っても、千年経っても、思い出すまで。――お返しを」

90.5+82.5

イノとレイヴンがあちこち行く話
カップリング要素あり
「似ている」。
それは、自分との共通点を発見する事。――その対象に、自分と同位である「何か」が含まれる事。
思えば、自分に「似ている」と思った人などいなかった。
生来から自分は誰よりも優れ、誰よりも高位な存在であると自負していて、現在でもそう思っている。
例え、「あの御方」のようにとても興味深いことをする人物であろうと、結局腹の底では世界の誰よりも高みに自分がいると思っていた。
傲慢だ、などとは思わない。
当然だからだ。
好きな時に時を超え、全てを観察者として笑える立場に、何一つ欠点などない。
欠点なんて、あるわけないじゃない。



「イノ」
不快な人物が、自分の高名を呼ぶ時ほど怖気が走ることはない。
負の感情をありのまま表現した顔で、イノは発声源であるレイヴンと差し向かう。
疎ましいという感情を仮面越しでも伝える気色が、一層自分の不快の色を濃くしていった。
「『あの御方』から、質問を預かっている。――何故、『背徳の炎』を消そうとした?」
答えの分かりきった質問に、彼女は「当然」といった態度で返答する。
「そのほうが、楽しそうだろ?」
「……貴様は『あの御方』の計画より、卑俗な感情を優先するのか?」
漂う怒気を隠そうともしないレイヴンを嘲り、イノは胸を張って言った。
「『あの御方』だって理解してる。アイツより、アタシのほうがずっと有能だって」
「…………」
呆れて物も言えないレイヴンを、イノは反論の術なき沈黙と受け取ったようだ。尚もまくし立てる。
「いつだってアタシはアイツを殺せるし、アイツは時を超えることもできねえ。
どっちがイイか、っていわれるまでもねえだろ。アイツが消えても、代わりなんていくらでも調達できるんだし……。アイツが消えたら、色々と面白そうじゃねえか。連王の坊やとか、そのガキとかよ。
それに――アタシは、『あの御方』から最も愛されてる女だ。少しくらいのイジワルくらい、許してもらえるだろ?」
「……お前は、」
レイヴンは口を開きかけたが、何かを思ってそれを閉じた。
これまでの怒気や呆れは霧散し、代わりの感情を含んで彼は退く。
それがどういった感情かは、彼女はまだ分かっていなかった。



その件を記憶の隅に追いやってから数日後、イノは任務を受けて現世へ降り立った。
無事に現世に到着した後は、ターゲットを探すために人の多い昼の街の通りで訊きこみを続けていた。しかし地道な作業に飽きが生じてきた彼女は軽薄そうな男の誘いに乗り、今は近くにあった喫茶店でコーヒーの中身を戯れにスプーンで掻き混ぜている。
別に何の意味もない手持ち無沙汰だが、男は少しの話題でも膨らまして彼女の気を「その気」にさせようと話しかけてきた。
「コーヒー、冷ましているのかい?」
「ええ。少し猫舌だから。
でも、熱くて甘いものは食べたいわ。二人っきりで、夜にね……」
「へえ……。んじゃ、今日にでも……食べる?」
「がっついちゃダメよ。女はゆっくり料理しないと」
自分の機嫌を良くしようと懸命になる男を見て、イノは内心でせせら笑う。
――人間風情が、アタシと「ヤれる」とでも思ってんのか?
男はあくまで「食い物」で、宿を手配されても彼女は直前で逃げ去る腹積もりだった。
そんな心情も露知らず、男は話題探しにちろちろと目を動かしていた時、彼は目を丸くして彼女に囁いた。
「なあ、アンタ……、もしかしてカレシとか、いたりする?」
「いないわよ。どうかしたの?」
「こっちを睨んでる男がいるんだよ」
告げて男が指さす先に、
レイヴンがいた。
公衆の面前なので、流石に頭の棘は抜いてきている。服装は「あの男」から借りたのか、上から下までボタンを留めた白衣。その上からは翼を模したいつものマントを羽織っている。
喫茶店において不適当なその姿は、明らかに目立っていた。自分たちのテーブルにケーキを運んできたウェイトレスは、こちらに目を向けずにレイヴンへ視線を注いでいた。
目の前に置かれた水に手もつけず、猫背になってこちらをじーっと見つめるマントと白衣の青ざめた男の姿というのは、とても不気味なものがある。
眉をひくつかせながらも、イノは平常を保って男に向き直り、答える。
「赤の他人よ」
きっぱりと放ったその言葉に安心できない男は、ちらちらレイヴンを見ながら自分の紅茶を啜っていた。
「でもさ、明らかになんか関係ありそうだし。そんでもって、オレ、アイツに心当たりないし」
「アタシの魅力に惚れこんで勝手にストーカーしてるヤツじゃない?」
……シャーッ……。
名前の癖に蛇っぽい威嚇音が、レイヴンの方角から聞こえてくる。
イノの推測で合点がいったのか、男は曇らせた顔を幾分か明るくして話題を切り換えた。
「それで、今度どこ行く?」
「そうね。ショッピングでもしたい気分だわ」
表面上は楽しげな二人をよそに、
「――すみません……、ご注文は……?」
レイヴンのテーブルでは、勇気あるウェイトレスが注文を取っていた。
レイヴンはイノから視線を外さぬまま、敵意のこもった声調で注文する。
「コーヒー。火傷できる程の熱さで。ジョッキでもいいから多めで頼む」
「は、はい。かしこまりました」
妙な注文にウェイトレスがどもる。それを無視し、イノは更に会話を続けた。
「でね、まずはブティックに行って、それからちょっと楽器屋に寄るの。あとは適当にぶらついて、そのあと夕食でなにか美味しいものを食べるの。それで――」
「お、おいおい。ちょっと多すぎねえか? オレの財布事情とかあるし」
「フフ。女を誘ったからには覚悟してると思うけど?
そ・れ・に。夕食の後にはもちろん――ご希望どおりの展開よ」
「そ、それなら! な、今から、ブティックでも……」
「あら、がっついちゃダメよ、ってさっきも言ったじゃない」
「それはそうだけどよ――」
議論する二人だが、その話は遮られた。
――バシャアッ!
男の背中から浴びせかけられたのは、湯気立つコーヒー。
「うぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
悲鳴を上げ、男は床をごろごろと転げ回る。
そこに、レイヴンが足で踏みつける。動きの止まった男を見下げ、凍える程に冷めた言葉を吐いた。
「若造、貢ぐ相手は選べ。
この汚れた狐女を肥やしても、何の見返りもないぞ」
靴のヒール部分に重心をかけ、男が苦悶の声を上げる。
レイヴンが足を離すと、男は仕返しもせず尻尾を巻いて逃げていった。恐らく「敵わない相手」だと判断したのだろう。
去りゆく背中を横目に見やり、レイヴンはため息を吐くとイノと対峙する。
「どういう事だ? よもや、あいつが今回のターゲットだと思ってはいないだろうな?」
「ただのお遊びだよ」
彼女もまたため息を吐き、レイヴンの目の前でぼやいた。
「あーあ。なんだよ、せっかくいい獲物がかかったと思ったのにな。
にしても、てっきりこっちにかけて来んのかと思えば、まさかアイツだけとはな。テメェも、年取ってやっと丸くなったってか?」
「ただの個人的な感情だ」
「あぁら? もしかして、アタシを気づかってくれたの?」
「冗談でも虫酸が走る言葉は止めろ。――ああいう向こう見ずな若造は、苦い過去を思い出させる。とても嫌いだ」
「テメェにも、そんな過去あったのか?」
イノの発言で、レイヴンは墓穴を掘った事に気づく。
それを払拭するため、別の方向へ話題を逸らした。
「……とにかく、早く任務を終わらせてくれ。無駄な時間を食うのは避けるべきだ」
「分かってる。ったく、口うるせぇな……」
面倒臭そうに後頭部を掻き、イノは席を立って店の扉に手をかけ――。
「あの……お客さん」
「なんだよ?」
カウンターのウェイトレスが、営業スマイルを保ったまま言った。
「代金、払って下さい」



「――普通、男のほうが払うべきだろ」
「悪いな。貴様のように遊びほうけるための金など、私は持ち合わせていない」
「ただ単に金も稼げねえんだろ、このヒモ男」
「誰がだ」
「テメェ」
口を休ませる暇もなく、二人は道を歩きながら罵詈雑言を交換していた。
イノが喫茶店で三人分の代金を支払った後、未だ見つからないターゲットを探すために街のあちこちをぶらつき情報収集を行っていた。
が、どうにも落ち着かない。自然に振る舞ってはいるが、訊きこみの際に捕まえた人はひきつった表情をし、まれにそそくさと立ち去っていく。
それによくよく考えれば、周囲から奇異の視線が送られている――。
「なあ、レイヴン」
「どうした?」
と、真っ青な肌をしたマントと白衣の男が返事をする。
「テメェ、その格好どうにかなんねえか?」
「……これの、どこが悪い?」
自覚症状のない言葉に、イノは苛立って強引にレイヴンの手を取る。
「な、何だ?」
「ついて来い! テメェのそのフザけた姿を、アタシが少しでもマシにしてやる!」
「何だと? 『あの御方』は朗らかに笑いながら『問題ない』と仰しゃったが」
「……いいから! 黙って従っとけ、このボンクラがッ!」
とにかく強引に手近な服屋に飛びこみ、やはり店員にも奇異な視線を送られながらイノは手早く服を選んで会計を済ました。
その後、レイヴンを購入した服と共に試着室へブチこみ、着替えるように指示をする。
しばらくしてから、イノはカーテン越しのレイヴンに呼びかけた。
「もういいか?」
「まだだ」
「遅ぇ。ムダな時間食うなとか、言ってたのは誰だろうな?」
「そもそもこの行為自体が無駄な気がするな」
「テメェのその不審な格好じゃ、街中でウワサになってターゲットが離れるかもしれねぇだろ?」
「……頭の中に隠語と罵倒しか入ってないかと思えば、意外とそういう事も考えられるとはな。雀の涙ほどは見直したぞ」
「さっさと着替えろ」
「もう着替えた」
「ならカーテンを開けろ」
イノの指示に従い、レイヴンはカーテンを開けた。
白いシャツに、黒基調のアウター、焦茶色のズボンを革のベルトで締めた、先程よりも随分常識的な格好である。
丈を詰めるような時間もなかったためにズボンの袖が余っているが、手や足を隠すほど長くもないため「こういうファッション」としては通じる程度。
着慣れない感覚に眉をしかめる彼の顔を、イノはいきなり取り出したパフで叩いた。
「いっ、いきなり何だ!」
思わず顔を引くレイヴンに、イノは迫って再び叩く。
「テメェの肌を隠すためだよ! じっとしてな!」
「第一、どこから出したっ?」
「女なら化粧道具くらい持ち歩くモンだ」
言いつつ彼女は粉をレイヴンの顔に塗りたくり、彼はじっとそれに耐えていた。
「……終わったか?」
「まだだ。手ェ出せ」
言われるがまま手をイノに差し出し、レイヴンは未知の儀式を見るように彼女の行為を眺めている。
両手が終わり、やっと解放されると思った彼だが、今度取り出した瓶を見てまだ続くのかと落胆した。
「臭ぇからな。香水で誤魔化しゃいいだろ」
訊いてもいない理由を述べつつ、彼女は瓶に入った液体をレイヴンにかけ、適当に液を広げて馴染ませる。
濃い林檎の匂いで死臭を隠し、ようやく彼女は納得したようにうなずいた。
「これでいいだろ」
「……やっとか」
心底疲れたようにレイヴンがため息を吐き、イノが血色を偽装した左手を再び取った。
「んじゃ、ちょっと寄るところがあるから付き合えよ」
「どこに寄るつもりだ?」
「マレーネの弦がこないだ切れちまったんだ」
そう言ってイノは、レイヴンの目線に合わせるようにマレーネを掲げる。
その内一本の弦が、見事にぷっつりと切れていた。


楽器屋へ行く道すがら、訊きこみを続けた。
レイヴンの格好が大分改善した事で、人から避けられたり会話を拒絶されたりする事がなくなり能率が格段と良くなったが、ターゲットの情報は見つからない。
しかし、見つかったとしてもマレーネは使えず、ターゲットを倒す事に苦労するだろうからかえって好都合だとイノが思う。
実を結ばない作業を続けている間に、目的の楽器屋に到着した。
ショーウィンドウにはギターが並び、それを物珍しそうに眺めて立ち止まるレイヴンを押してドアをくぐる。
ドアがベルを鳴らし、店内に来客があったことを知らせた。
それを迎えたのは店員からの温かな歓迎の声――ではない。
迎えたのは耳をつんざくギターとベースとドラムの三重奏。それに病的なまでに嗄れた重低音のシャウト。
レイヴンが思わず耳を塞ごうとするが、左手はイノのせいで自由になれず、左耳だけ刺激をじかに受けることになった。
苦悶の表情を浮かべる彼に目もくれず、慣れているイノは目的の場所へとすいすい進む。
「さて、多分ここらにあるはずなんだけどよ」
そうつぶやくイノがドラムセットの角から顔を出すと、見覚えのある黒いコートが見えた。
さらに見覚えのある束ねた金髪。鍔広の帽子。そして木刀――。
彼女はそれらを知覚した瞬間、進もうとしたレイヴンを押し止め、ドラムセットの角に慌てて隠れた。
「一体、どうした?」
苦悶に怪訝を混ぜた表情でレイヴンが問い、イノはやかましいBGMの中聞こえるか聞こえないかの微妙な小声でささやく。
「……前にアタシとゴタゴタのあったヤツがいたんだよっ。
穏便に済ますようにって、アタシが『あの御方』から言われてるのは知ってるだろ?」
「まあ……そう聞いたな」
「だから、ここはアイツと認識のないテメェが行け!」
言ってイノがレイヴンの背を無理矢理押し、彼は納得のいかない顔で歩み出す。
「あの棚の一番左だからな!」
イノの命令に逡巡した後、とりあえずイノとゴタゴタがあったという人物を観察する。
目的の棚に男がいる。奇抜な形状のギターを眺め、時には手に取り確認している。どういった人物かは知らないが、とりあえず関るのは避けた方が良い。
なるべく自然に棚へと歩み寄り、その人物から一定の距離を保ってすれ違った。それから棚の一番左に行き、様々な弦があるのを見て迷う。
選んだ弦がイノのギターと合わなければ、わずかながら無駄足を踏む。しかし知識のない自分には判断がつかない――。あごをさすり思考を巡らすレイヴンに、いつの間にか隣に移動した男が横槍を入れた。
「なにを困ってる? できればそこをどいて欲しいんだがな……」
渋い声がBGMの中でも際立ち、レイヴンの耳に届く。
レイヴンは男を睨んだ後、とりあえず男から離れるために適当な弦を手にする。
そして立ち去ろうとした時、物陰から少女が飛び出した。
「――ジョオオオォォォォォォニイイイイイイイイイイイイィィィィィィィィィィィッ!」
「なっ――」
黄色い声とともに少女がレイヴンへ突進をかます。
かわそうとして身をひねるが、脇腹に体がほんの少し触れた。
ほんの少し。しかしそれでもかなりの力がレイヴンにかかり、吹っ飛び、勢いよく倒れこむ。
横になって嬌声を必死に抑えるレイヴンをよそに、少女は男の胸に飛びこんで楽しそうな声を上げる。
「きゃははははっ! ジョニー、ずいぶん探したよー? 勝手にボクからはなれちゃって、迷子にならなかった?」
「迷子は、どっちかっていうとそっちだと思うが……。
それより、そこのボーイに謝ったほうがいいんじゃないか? 見たところ、かなり痛そうにしてるぜ」
「あ、そうだね……。んじゃ、ごめんなさいっ!」
可愛げにぺこりっ、と頭を下げる少女。
レイヴンはそれに頷き、快楽に耐えてなんでもないように振る舞い、イノのもとへ戻った。


幸いにもレイヴンの選んだ弦はマレーネと合ったようだった。
しばらく建物の陰で弦の調整を行った後、再び訊きこみに戻る。
地道な作業に嫌気が差すイノだが、彼女に比べて根気強いレイヴンがフォローをし、今では逆に彼がイノの手を取って訊きこみをしている。
「――そこの男」
「え……俺ですか?」
何十人にもかけたその声に、茶髪の男が振り向いた。
レイヴンは紙を突き出し、紙に描かれたターゲットの絵を指さす。
「こういった姿をした者を見なかったか?」
「えーっと、見たことがあるような気がします」
「それは、どこで見かけた?」
「うーん、あまり覚えてないです。
俺、突然意識不明になったり、体が勝手に動いたりする病気を患ってまして……その人と会う前、意識がない間に勝手に動いていたので、どこに行ってその人と会ったかはよく分かりません」
「そうか」
落胆はせず、当たり前のように受け流してレイヴンが背を向ける。
その背に、男が声をかけ返した。
「あ。そうだ、こちらからも質問いいですか?」
「……何だ?」
「あの、ファウスト先生を知りませんか?
紙袋を頭にかぶった、とても背の高い人らしいんです」
「それは……確か、会った事がある」
「ど、どこで会いましたか!?」
餌に食いつく魚のように、男はレイヴンに縋りつく。彼はその勢いに少しばかり身を退いた。
「……地図には載っていないが、ドラッグド・タウンという所だった。
ロンドンの近くにある。地理に詳しい輩に訊けば、恐らく辿り着けるだろう。が――」
「そうですか、ありがとうございます!」
言うが早いか、男は脱兎のごとくレイヴンから遠ざかり、すぐさまその影は雑踏に紛れた。
「――もう無いのだが、な」
男の性急さに呆れ顔でいるレイヴンの気を惹くため、イノは指で肩を刺す。
レイヴンはそのわずかな接触でも顔を大いにしかめ、彼女に向き直った。
「なあ……この任務、テメェだけでいいだろ?」
「良くない。貴様がまた遊びに行くだろうからな」
「チッ、なんだよ。どっちがヤったって、同じ結果じゃねぇか」
「……とにかく、この任務は貴様が完遂しなければならないんだっ」
自分勝手なことはともかく、正しくはあるイノの言葉にレイヴンは苦い顔を彼女から背ける。
そして、背けた顔が向いた先には人だかりがあった。
レイヴンはそちらを見ながら、イノに命令する。
「あちらで訊きこみをするぞ。貴様もやれ」
「ああ、分かったよ」
イノは唾を道に吐き捨て、二人はその人だかりに近づく。
人々の歓声や拍手の声に紛れ、レイヴンの耳に届いたのは聞き覚えのある声だった。
「――さあさ、これから皆様にお見せするのは、華麗な扇の演舞に御座い!
ジャパニーズの扇を存ぜぬという御方々は、これを契機にその美を知り得て頂きたく候!」
朗々と辺りに響く口上に、イノが気づくと人だかりを踏み越えた。
ギターを構え、空中に足場を成し、人だかりの中心地に殴りこむ。
そこにいるのは、ジャパニーズ風の衣装を纏った、露出度の多い男――。
――ギャッ!
イノはその姿を捉えた刹那、パワーコードを乱暴に弾き、生じた法力で道路の一部を虚無に還した。
男の近くでそれが起こったにも関わらず、当の男は扇で顔を仰いで口笛を吹く。
「おっと、いつぞやの楽師さんじゃねえか。元気してたか?」
「うっせえ! この脳味噌筋肉!
あの時、アタシを凍結させやがって……ッ! テメェをミンチにして焼いて、カラスに食わせてやるよ!」
「それは願い下げだな」
人ごみを掻き分け、現れたレイヴンが反対する。
イノと比べれば随分と静かだが、レイヴンにも彼女と違う事情でその男を恨んでいた。
「『あの御方』の下に仕えるという栄誉を蹴り、安穏と各地を行脚するとは、随分と良い身分だな……御津闇慈」
「おっ、まだ名前覚えてくれてたのか? いやー嬉しいかぎりで」
はっはっはっ、と笑いつつ、閉じた扇で頭を叩くひょうきんな仕草をとる闇慈だが、場の雰囲気は悪くなっていく。
争いの気配が色濃くなる中で、子供連れはそそくさと立ち去り、野次馬に徹する人々は被害に遭わない距離まで後退した。
一触即発。
その空気に割って入ったのは、桃色の髪をした女だった。
「おい、闇慈。説明しやがれ」
と、飄々とした態度を崩さない闇慈に、初めて脅えた表情が浮かんだ。
「あ、姐さん……」
「聞いてたぜ。テメェ、『あの男』とつるんでやがったのか?」
「いや、姐さん! ちょっと落ち着こうか!
って、いつの間にか刀抜いてる!? 俺、斬られる!?」
「四の五の言わずに吐け。俺はな、嘘をつく男と、しゃっきりしねぇ男が嫌いだ。
つまり、今のテメェが大嫌いだ」
殺意を漂わせ、女が闇慈に近づく。
闇慈はどうしたものかと頭を巡らせていたが、頭をぐしゃりと掻いた後、腹をくくって扇を開いた。
「姐さん! 御免!」
「あぁ?」
女が反応するより前に、闇慈が扇を巨大化させ、自分たちを周囲の視線から隠し――。
消えた。
「待ちやがれっ!」
イノが叫ぶが、声はもう二人には届かない。
彼女は不機嫌そうに地面を蹴り、周囲を見やる。
予想通り――あるいは期待通りの結果にはならず、野次馬になっていた人々は散り散りに去っていった。
レイヴンは不機嫌な表情をなんとか殺し、イノの手を引きつぶやいた。
「任務に戻るぞ。――あのジャパニーズを仕留めるのは後だ」



そして夕方。
ターゲットの姿はおろか目撃情報もつかめないまま、空きっ腹を抱えたイノはレイヴンに提案した。
「なあ……。
今度、あの店で訊ねたらどうだ? もしかしたら、店ン中に知ってるヤツがいるかもしれねえし」
真面目な体裁は保っている発言に、レイヴンはうなずく。
「そうだな」
二人は件の店の扉を開き、店員の歓迎の声を浴びた。
「いらっしゃいませー! 二名様ですね――あーっ!」
いきなり甲高い声に射貫かれて硬直する二人に、店員はイノに近づき輝く瞳を向けて言った。
「紅い楽師のお姉さんですね! もしかして、ウチといっしょに芸人になりにきたんですか!?」
「ええ!? いや……そういうつもりじゃなくって……」
「――コラーッ! ブリジット、お客サンをちゃんと案内するアルヨ!」
戸惑うイノを救うように、店の奥から店員――ブリジットに対する怒声が聞こえる。
「あっ、ごめんなさいジャムさん! ……えと、一名様と美形さん入りまーす!」
「は?」
ブリジットから発せられた言葉の内容に困惑するレイヴン。
「美形アルカーッ!?」
しかし、店の奥から飛び出してきた女が、更に彼を困惑の渦に落としこむ。
女は彼を舐め回すように眺め、渋い顔をした後メモ帳のような物を取り出し中に字を書き独り呟く。
「カイ様より……ランクは随分下アルガ……ギリギリ及第点……アル……」
「……私が言うのもなんだが、客に対して失礼じゃあないか? その発言は」
「盗み聞きはよくないアルヨー」
「いや、普通にしていても聞ける音量だったぞ」
「ねえ、ブリジットちゃん。生龍焼っていうの、一つちょうだい」
「『ちゃん』はつけないで下さいよー。お姉さんがウチと芸人になってくれたら一割引にしてあげますよ?」
「そういうのは聞かないコトにするのが礼儀アル」
「そんな自分勝手な礼儀など聞いた事がない。ここの従業員は仕事に私情を割りこませるのか?」
「あら、意外とセコいわね。無料とか、そういう気前のいいトコ見せてくれないとねえ」
「私情じゃないアルヨ。全てはお店のため、美形のボーイ登用で女性の客足伸びるネ。コレビジネスヨ」
「だったら、ウチの給料返上して無料です! これで相方になってくれますよね?」
「随分と悪どいビジネスだな」
「じゃ、お金払うからポテトラーメン一つ。相方になるほど、アタシには時間がないのよ」
「悪どくないネ。ちゃんと給料払ってるアルヨ」
「むー……。はい、分かりました。ポテトラーメンですね」
「そういう問題じゃあない……」
「しかも時給1030圓アル!」
「だから――、もういいっ。イノ、こんな違法まがいの所だとろくな情報は得られないだろう。他を当たるぞ」
「アァ?」
イノの方を見ると、席に着いてすっかり食事の時間に浸っている。
彼女はしかめっ面でレイヴンを睨み、イスに深く腰かけてから言った。
「まだポテトラーメン来てねえぞ」
「……貴様っ」
「ま、いいじゃねえか。腹減ったんだし、腹減っても死なねぇ不死者のテメェは一人で訊きこみでもしてろよ。アタシはここでゆっくり食事をとってるしさ」
「はい、ポテトラーメンですー」
「あら。思ったより早いのね」
「早く・安く・旨くがモットーですから」
怒り顔のレイヴンをよそにポテトラーメンを頬張るイノに見切りをつけ、とりあえず手近な紗夢に向き直り訊きこみを開始する。
「訊きたい事があるが、いいか?」
「ン? なにアルカ?」
「金髪で、背丈が178cmくらいの聖騎士団員姿の人物を見た事があるか? その人物から金属音が聞こえたり、煙を吐き出したりしていれば、特に教えて欲しい」
「ソレ、アッチにいるやつネ」
「……馬鹿を言え。散々探したやつがそう簡単にいる訳がない」
レイヴンが頭を振り、紗夢から更に聞き出そうとしたその時。
「――化学えねるぎーカラ電気えねるぎーニ変換完了! へらくれすえんじん全開! 今ノワシナラ、アノ芋面ニモ勝テル! ……ハズ!」
不審な声が、店内から聞こえた。
発声源に目を向けると、そこには金髪で背丈が178cmくらいの聖騎士団員姿の人物。
ギギギ、と金属音を立てながら、ブシュー、と煙を吐きながら、口らしき部品につまようじを当てている。
「貴様はっ!」
レイヴンの声に驚いたそれ――ロボカイは、「ゲゲッ!?」と声を出して周囲を見る。
「ナニー!? イツノ間ニヤラ、危険度Sらんく判定ヲ受ケタヤツガ二人モイルデハナイカ!
コレハイカン! 轍鮒ノ急トハマサニコノコトダ!」
言って、ロボカイは身を翻すと、窓に飛びこみガラスを砕きながら逃げ出した。
「待てっ!」「逃がすかっ!」
イノとレイヴンはすぐさま後を追い、ロボカイが割った窓から追跡する。
「ああっ! 代金、まだ払ってないアルヨー!」
窓から紗夢が嘆きの声を上げるが、その肩を叩いたブリジットが慰めた。
「大丈夫です。ウチの給料から天引きして下さい」
「……いいアルカ?」
「はい。その代わり、あのお姉さんは、ぜーったい、ウチの相方にするんですから」


目尻から入る景色は、街を彩る賑やかな色から森の味気ない色へと変わっていく。
店から出てだいぶ走ったものの、追う者と追われる者、二つの影の走りに陰りは見えなかった。
ロボカイが行く手を阻む茂みを封雷剣の模造品で切り拓きながら背後を見ると、駆けるイノが相変わらずそこにいる。
「マダ追ッカケルカ。マルデ芋面ヲ追ウ駄目おりじなるノヨウ」
「へんっ、ほざいてろっ! もうすぐテメェをスクラップにしてやる!」
必死の形相でイノがロボカイを猛追する。
「ソレニシテモ、ナゼワシガ追ワレナケレバナランノダ? ワシハ善良ナ一般市ろぼ、悪イコトナンテシテナイゾ。信ジテ先生!」
「誰だっ。それに、身に覚えがあるだろうがっ!
テメェが数日前、アタシが消滅させる前のブラックテックを解析してただろうがッ!」
「ナヌッ!? アノがらくたハソンナ大層ナモノダッタノカ!?」
「とにかく、運が悪かったな! 鉄クズは鉄クズらしく、サビて埋もれろ!」
ギターを構えつつ、イノが脅迫する。
しかし、ロボカイはその脅迫にも関わらず、場違いな余裕を見せていた。
「フッフッフッ。ダガ、ワシニハ最終兵器ガアル」
「何ぃ?」
不敵に笑うロボカイに警戒し、イノが一瞬足を緩める。
その隙を突き、ロボカイは頭から奇妙な部品を出すと、その部品が開いて三枚の羽になり、ヘリコプターのように回り始めた。
「コレガ科学ノ力ダ!」
ギコギコとペダルを漕いでロボカイは宙に舞い、イノの手が届かない高度まで上がると高笑いをし、悦に浸った。
「ヌハハハハハハ! 人間風情ハココマデ来レマイ!
オニサンコチラー! 手ノナルホウヘー!」
「――ならばその言葉に甘えて、来てやろう」
「ヌ?」
上空から聞こえた声に向くと、そこには空間転移で先回りをしていたレイヴンがいた。
「食らえッ!」
踵を捻りながらロボカイの頭頂を蹴りつけ、
「クルヌギァー!」
と悲鳴を上げながらロボカイが墜落する。
見事に不時着するロボカイの上にレイヴンが降り、踏みつけたまま冷たく告げた。
「さて、哀れなる木偶人形よ。言い残す事はあるか?」
「ウ、ウグゥ……。ソノ前ニ、足ヲドケロ……」
「そうか。それが遺言か」
レイヴンが冷酷に吐き捨て、金属すら破壊する超高圧の大気を集わせる。が――。
「――ギギィー!」
離れた茂みから、量産型のロボカイが出てきた。
「……何だ。人形が一体増えようと、あまり関係がないな」
つまらなそうに鼻を鳴らすレイヴン。だが、イノは冷静に分析した。
「レイヴン、違ぇぞ。次々にこっちにきてる音がする」
「何?」
警戒を強める二人の様子を見て、ロボカイは高らかに解説を始める。
「クハハハハーッ!
遅イ、遅イワァッ! ワシガ一体デモぴんちニ陥ルト、近クノ仲間ニ助ケヲ呼ブ信号ガ自動的ニ発セラレルノダ!
ワシノ計測器ニヨレバ、オヨソ五十体! イクラSらんくトイエドモ、コレダケノ相手ヲスルノハ容易デハナイダロウ!」
「容易だな」「容易だろ」
「……エッ?」
意外とあっさりとした反応に、ロボカイはきょとんと立ちつくす。
そうしている間にも、茂みから量産型ロボカイが飛び出してくる。
それに、イノはギターの弦に指をかけ、レイヴンは手刀の構えをし、二人は互いの背を預け、周囲を取り囲む量産型ロボカイと激突する!


その激突は、わずか数分で終わった。
周囲には量産型ロボカイの残骸。
音譜の形をした空洞を胸に残すもの。胴を鋭く両断されたもの。様々なものがあるが、どれも再起不能なまでに破壊されたことは素人目にも分かる。
そして、死屍累々ならぬ機器累々の光景の中、
「ゴメンナサイ」
土下座するロボカイがいた。
仁王立ちになっている二人の足元の近くまで頭を下げ、何度も体を上下させて謝罪の意を示す。
「ホント、スンマセンデシタ。調子コキマシタスミマセン。ダカラ、トリアエズコノ場カラ離脱サセテ下サイ」
「断る」
イノの冷酷な拒否。
「反省ハシテイルガ、後悔モシテイル。早ク家ニ帰ラセテ下サイ。家ニハ母サンガ……母サンガこたつデ寝コンデイルンデス!」
「断る」
レイヴンの冷淡な否定。
その二人の反応を聞くと、ロボカイは地に伏して滂沱する。
「ウワーン! 幼気ナワシニ同情モシテクレナイトハ……貴様ラ、血モ涙モおいるモナイノカッ!」
「ねぇな」
「ウウ……ワシノ命運モココデツキルノカ……」
目からオイルを垂らし、ロボカイは起き上がり――。
『状況分析中。Sランクと接触中。勝率算出中。勝率3パーセント。逃亡不可。
――情報漏洩防止のため、緊急自爆プログラム作動します』
「エ?」
ロボカイが首をかしげ、自分の中から発せられる無慈悲な情報を処理しようとし、フリーズする。
「自爆?」
イノが思いっきり嫌そうな顔をし、レイヴンと顔を合わせる。
彼もまた彼女と同じような顔をして、イノの手を握った。
「――逃げるぞ」
手を思いっきり握り返して答える。
「言われなくても、分かってるよ!」
そう言って駆け出そうとする二人。
しかし、その足にロボカイがひっしと縋りついた。
「ワシヲ一人ニシナイデー!」
「うっせえ! テメェのせいだろうが!」
イノがロボカイの頭をげしげしと蹴りつける。が、固い感触がブーツの裏に反射するだけだ。
「早くそいつを振り解け、イノ! 出来なければ私の手を離せ!」
「テメェも手伝えよ! 男なら女を助けてナンボだろうが!」
「死ナバモロトモー!」
そうする間にも、スピーカーから発せられる声はカウントダウンを開始する。
『5……4……3……2……1……』
「ちょっ、助けっ――」
誰かがそう呟き――、
『0』



――いつもは静かな郊外の森に、爆音が響き渡った。



現世からバックヤードへの移行は、問題なく完了した。
「苦労をかけたね、二人とも」
「あの男」からかけられるねぎらいの言葉にすぐさまレイヴンが反応し、膝を着き、頭を垂れて返答する。
「御心遣い、感謝致します。
あのような用事であれば、いつでも私めを御呼び下さい」
「ああ、分かった」
満足そうに「あの男」がうなずき、叩頭する彼から目を離してイノと向き合った。
「イノも、――真面目に任務をこなしてくれたのか?」
「ええ、勿論です」
満面の笑みで返す彼女に、「あの男」は少し戸惑った挙動を見せつつも平静を努める。
「そう、か。それは、良かった」
舌の回らない返事をした後、逡巡の間を取ってから「あの男」が話す。
「ご苦労様。じゃあ、僕はこれから取りかかりたいことがあるから、二人は自分の部屋へ戻ってもいいよ」
『承知致しました』
二人は意図せず言葉を合わせ、それに気づいて互いを睨み合った。
「あの男」が静止の声をかけようとするも、睨み合いながら早足で退出する。
そうして視界から消え去った直後、廊下を響かせて耳に入ったのは、相変わらずの口論だった。
『――テメェ! アタシの足蹴るんじゃねえ!』
『――貴様が私の前に立つからだろうが!』
いつもなら頭痛の種であろうそれに、
「……まあ、このままでもいいだろうね」
「あの男」は、幸せそうに顔を和らげた。


















目蓋は躊躇もなく開け放たれた。
体に残る疲労感から鑑みるに、まだ充分な睡眠時間を摂っていない。
しかし、意識は覚醒していた。ベッド上で寝返りを打ってもしっくりと来ず、ますます睡魔の誘いが遠ざかる。
「……あー、クソッ」
髪をぐしゃりとひん曲げ、イノはベッドから勢いよく起き上がった。
バックヤード内のどこかにある建物。
そこは「あの男」の生活空間であり、「計画」に対する研究施設であり、「慈悲なき啓示」に関する観測施設であり、ギアたちの収容施設であり、――多くの目的を包括する建物だ。
そしてその目的の中には、側近を傍に仕えさせるための空間提供の場でもある。
建物内にあるイノの部屋。
彼女はその部屋から抜け出し、暗い廊下に法力の光を灯す。
眠気を呼び戻すために、適当にぶらつこうか――。そう思った矢先、少し開けられたドアから、光が漏れ出していた。
「あの男」の部屋だ。
そう記憶を呼び起こすと、イノは「あの男」を誘惑して暇を潰そうと目論み、ドアに手をかけた。
「――イノ、か」
姿を現す前から声をかけられ、彼女が思わずぴくりと震える。
が、続く会話に、どうやら自分を呼びかけたのではないと察せられた。
「彼女は、確かに素晴らしい特技を持っている。それに頼らざるを得ない時もある。
だが、彼女は暴走してしまう時がある両刃の剣だ。……ヴァレンタインも発生するこの時期は、あまり危険な事はしたくない」
「左様で」
仮面のせいでくぐもっている短い言葉は、レイヴンの声で紡がれていた。
イノは自分が話題に上がっている事に眉をひそめ、そのままドアの近くで会話を盗聴する。
「イノはどうにも僕の思惑から離れたがる。彼女の行動は、流石に僕でも理解し切れていない。
これ以上自分勝手にするようなら、凍結をしようと。今回の任務は、そう思って下した」
一体、何の事だ? 疑問がイノの胸に広がり、ドアにかかる手が思わず力む。
そして「あの男」が発した言葉は、彼女に精神的な衝撃を与えた。
「任務の成果自体は、どうでもいいんだ。
ただ、彼女が僕にどれだけ忠実に動いてくれるかの『テスト』。これを失敗したならば、凍結を行おうと思った」
――忠実に動いてくれるかの、『テスト』。
イノはその言葉を聞き、ざっと血の気が引いた。
自分は任務に真剣に取り組まず、レイヴンに任せてばかりいた。自分の働きといえば、せいぜい量産型ロボカイを破壊した程度だ。
手が震え始めた。聞きたくない、と思っても、体が鉛のように重い。
「彼女は、任務自体は成功した。けれど、それは果たして彼女の成果なのか?
……レイヴン。これについて、君の報告が聞きたい」
――ギィッ。
イノがドアにかけた力は、わずかにドアをきしませて。
その音は彼女の心臓を大きく跳ねさせた。
「あ……」
その音に気づいた「あの男」とレイヴンは、ドアへと――凍結か否かの話題にしていたイノへと顔を向ける。


ドアから覗く彼女の顔は、叱られる直前の子供のように怯えていた。


「……ッ!」
イノはすぐさまドアから手を離し、廊下にブーツの響きを満たしながら遠ざかる。
それを見たレイヴンの体が動く。が、動いただけだった。
身じろぎのような震えが走り、追いかけようとする体を留め、意志を「あの男」に繋ぎ止める。
「続けてくれ」
その言葉に従い、レイヴンが口を開く。
「任務は、」
一瞬の躊躇が挿入される。
「任務は、イノの成果ではありません」――。
それが事実だった。そう言おうとした。
しかし、彼女の去り際の顔が思い浮かび、何かがレイヴンの口を固まらせる。
主はその様子を、ただじっと見ている。
言うべきだ。早く。と急かす頭の声に後押しされ、レイヴンは口を無意識に動かした。
「イノの成果です」
自分で言った言葉に、自分自身が驚いた。
唖然とするレイヴンを、ただひたすらじっと見る「あの男」。
もしかしたら嘘を見透かされたのかもしれないと思い、慌てて言い繕うとしたその時、「あの男」は笑い始めた。
最初はくつくつと、その後は段階的に声を高く、長く響かせ、ついには大笑いにまで至った。
だいぶ時間が経った後、「あの男」は笑い涙を拭いてから、目を丸くするレイヴンに話しかけた。
「ああ、分かった、分かった。
『そういう事にしておこう』。さあ、下がっていいよ」
「あの男」から許しを下され、レイヴンは戸惑ったように一礼した後、急いで去って行った。
足は、イノが逃げて行った方向に向いていた。


どれくらい走ったのだろうか。息が荒く、足は震える。全身が疲労を訴えている。
廊下の角を曲がったところで、足が崩れて倒れこんだ。
痛みに顔をしかめ、立ち上がろうとする。腕を床に垂直に伸ばすが、肘が折れて再び倒れた。
何度もそれを繰り返し、涙を溜めこんだ目蓋から雫がしたたる。
立ち上がる気力すら消え、そのまま床に伏せていた。
……「あの御方」は、アタシを愛していなかったのか……?
自分は美貌を誇っていた。その美貌に誘われた男を食った数は底知れない。
そんな自分を「あの御方」が愛さない訳がないと驕っていた。
しかし、その驕りは最早崩された。
自分と、他の側近の最たる違いのはずだった。それを鼻にかけて、奴等を見下していた――。
「イノ」
いつの間にか追いついたレイヴンが、彼女の名前を呼んだ。
彼女はびくりと怯え、首を回して彼を見る。
それから彼女が吐いたのは、平常驕っていた彼女にとっては滅多に聞けない自嘲だった。
「……アタシは……バカだ。
『あの御方』に愛されてもいないのにそう言い張って……『あの御方』に嫌われているのに寄り添って……、それを分かってるテメェに、その勘違いを自慢した、バカだ。
テメェのその仮面の下で、アタシのコト笑ってんだろ……? 笑えよ……いっそ笑え。そのほうが道化にはお似合いだよ」
それだけを言うと、彼女は首を正面に向け、ひたすらに泣きじゃくる。
レイヴンは笑わなかった。ただ、脆弱な彼女を見つめ、かける言葉に迷っていた。
そして、ようやく言葉が見つかる。
「お前に指図される謂れはない。
私は笑わん。お前の思う通りの振る舞いをする事は、不快だ。
そして、私はお前が嫌いだ。私が嫌いなお前が嫌う事は、私にとって喜ばしい事だ」
そう言いつつ、レイヴンが彼女に近づく。
イノは彼の言葉から推測し、暴力を振るわれると思い体を縮こませる。
頭を抱え、足を折り畳む。みじめな体勢を取り、イノは彼の行動を待った。
殴られるか、蹴られるか、踏まれるか斬られるか。いくつもの想像が頭の中で渦巻き、恐れを抱く。
時間が長く感じる。彼がイノの身に触れた。イノは一際大きく震え、目蓋を固く閉ざした。
そして、イノの体が床から離れる。
その現象はイノの思い描いていたいくつもの想像の何にも該当せず、訝しんで目蓋を開ける。
間近に彼の仮面があった。
「なっ……?」
驚き声を上げ、状況が把握できず混乱する。情報を得るために目を巡らすと、自分がレイヴンに抱きかかえられているのだと知れた。
訳が分からない。目を再び仮面に戻すと、彼は苦々しげに囁く。
「お前は、私に触れられる事が嫌いだ。それに、私に借りを作るのも嫌いだ。
私はお前が嫌がる事なら、自ら進んでやってやる。――それが、私にとっても嫌な事でもな」
言い訳がましい説明をし、レイヴンが歩き始める。振動が揺り籠のように心地良くイノを揺らす。
彼女は少し微笑んで、彼の腕に自分の腕を絡ませた。
「……やめろ」
本当に嫌そうにレイヴンが抵抗し、イノは更に微笑みを強めて言う。
「アタシも、テメェと同じだ。
テメェが嫌がるコトだったら、アタシが嫌でもヤってやる。
どうだ、嫌だろ? テメェが地面に頭こすりつけてオネガイすればやめてもいいけどな」
「……このっ」
絡まれたレイヴンの腕が、ぴくりと動く。殴ろうとしていたのだろうが、あいにく両腕はイノの体を支えることで一杯だ。
小さく悪態を吐き、彼はそのまま進んで行く。
彼女は彼の腕の中で、ゆっくりと眠りに落ちていった。

嵐の陽

ソルとレイヴンが戦う話
痛めの描写あり
カップリング要素あり
雷鳴が、主なき古城に反響する。
豪雨が容赦なくステンドグラスに叩きつけられ、ドラムのような音が連続した。
酷いな、と誰に言うでもなく囁いた声に、肯定するような雷鳴が重なる。
窓際で外の様子を見て、今夜は野宿ではなくどこか屋根の下で寝ようという自分の英断をひそやかに自画自賛する。でなければ今頃濡れ鼠だ。
刻限は深夜であり、埃をまとったベッドに一旦寝たものの、この雷鳴の大音量を浴びせられて起きてしまった。
目は雷光に射抜かれて眠気を手放し、体は束の間の休息にも関わらずもう疲労感を消費した。
つまるところ、寝ようとする気は全く無い。
不健康だと愚痴るものの、そもそも自分にその心配は要らないのだと気づいて苦笑した。
彼は不死者だ。
永く生きている事を暗示する白髪を頂き、病的なまでに青い肌で身体を構成し、不死性を強調する頭部の棘は明らかに脳を貫通していた。
その棘でこつこつと窓を叩き、どうしたものかと思案する。
「退屈凌ぎ」にすら退屈している現状、この退屈もまた打開する術など特に無く、ただぼうっと外を見ていた。
相も変わらず鳴り響く雨と雷の轟音に耳が慣れ、ほんのわずかな音も聞こえてくる。
城内で、雫が床に弾かれる音にふと気を取られ、窓から目を離して天井を見た。
その頬に、雨漏りの雫が絡みつく。
古城であるから、手入れがされていないのは当たり前だろう。ため息を吐いて頬の雫をぬぐい、窓に再び目を向けた。

そのわずかな隙に、窓に一瞬映った赤い人影は消えていた。



城内で、水音以外の音がした。
窓から目を離し、耳を澄ます。
反響する音。それはゆっくりとこちらに近づいている。
ブーツの音だ。
彼は舌打ちをして窓から離れ、手を軽く掲げて召喚法術の力場を整える。
「闇の抱擁を……」
つぶやき、手に浮かんだ力場から鴉型のミニオンが召喚された。
鴉は小さくガアッ、と鳴いた後、すぐさま翼を羽ばたかせ音源へと向かう。
鴉と視界を共有させ、目に映るのは暗い廊下。時を経てくすんだ絨毯。玄関の大きな扉。そして――。
「――――!」
炎。
音源を視界に収めた刹那に放たれた業火が、一瞬にして鴉を燃やす。
しかし、その音源の正体は掴めた。これだけの収穫があれば充分なのだが、
「不味いな……」
攻撃されたという事は、使役する鴉に気づかれてしまったという事だ。
それも、その使役者が誰かも分かる相手に、気づかれてしまった。
「流石は『背徳の炎』と言った所か。この湿気た中であれだけの炎を出せるとは、全くもって末恐ろしい」
足下に広がる雨の残骸を蹴り、水を巻き上げる。
上がった水がばちゃりと床に落ちる音が響いた。
その音を囮にし、彼は法力を駆使して空中を滑るように移動する。
音を立てずに場所を変え、囮に食いつかせた相手を混乱させるためだ。
そうしてから、感知できないくらい離れた地点で空間転移を行おうと画策し、廊下の角を右に曲がる。
確か、この城は五階建てだったはずだ。その一番上の階ならば、一階で「背徳の炎」が自分を探している限りは感知されないだろう。
そう思い、曲がった先にある木の階段に足をつけずに登り、その近くにある階段を再び登った。
登り続け、ようやく五階に辿り着くと、すぐさま法力を展開する。
「座標は……トリオラがいいか。
あそこならば不審に思われるような事もあるまい」
位置を確認し、綿密に計算し、幾つかの過程を消化してようやく発動に取りかかろうとした刹那、
天井から垂れた水が、熱湯のように彼の体を蝕んだ。
「……ッ!」
苦痛に震え、思わず法力を手放し、霧散させる。
レイヴンは顔をしかめ、近くの水たまりに触れる。が、先程のような熱が感じられない。
――どういう事だ?
思考がその一点で停止し、そこから先へ進まない。
ただただ無為な時間が躊躇に費やされ、転移の猶予が削ぎ落とされていく。
ようやく彼が早急に何らかの対応をすべきだと駆り立てられたのは、階段を登るブーツの音が聞こえ始めた時だった。
こうなっては仕方がないと、手近な窓を開け放つ。
轟、という唸りが耳元をかすめ、強風と共に雨が城内に侵入してきた。
窓枠に足をかけ、逃げようとする。が、背後から迫り来るブーツの音に、自分の行動が遅かった事を悔やみながら振り向く。
そして、無理矢理に嘲笑を浮かべて、自分が相手より優位に立っているかのように振る舞った。
「久方ぶりだな、『背徳の炎』。
貴様を待っていたつもりは無かったが、会うまでの数ヶ月は実に長かった。
貴様はどうだ?
各地のギアを殺すために旅をしているはずだというのに、国家に保護されたギアに手もつけられず、ギアでも何でもない兎を追いかけ回す『充実した』日々は、長かったか? 短かったか?」
「……追いつめられたヤツが言うセリフか?」
「追いつめられた? それは傑作だ。実に笑える。ああ、笑ってやるとも」
ククッ、と口を閉めた状態で笑い、表面上の余裕を見せびらかすように両手を広げる。
「私はいつでも逃げられるぞ。指を三つ折り曲げるよりも早く、空間転移を為す事ができる」
「だが、それは感知できる」
「感知したとしても、貴様は生命活動が停止するような場所にはいられない。
私は水深千メートルもある深海に行こうと思えば、この不死の身を活かして転移する事ができる。それを貴様は追いかけようとするのか?」
ソルは黙って封炎剣を構え、炎を刀身に纏わせた。
「なら……転移する前に殺すまでだ」
レイヴンは迫り来る炎を避けるため、窓から身を投げ落下する。
眼前で炎の柱が立った。
炎は窓から吹き荒び、レイヴンの顔を一瞬だけ真っ赤に照らす。
その威力を恍惚として見つめていたが、また残念そうな表情も浮かべていた。
「やはりこの天候では最大威力を発揮する事は不可能か。
できれば限界まで焼死するくらいに浴びたいが、ぬるい炎には興味がない」
「勝手に言いやがる……」
焼けた窓から顔を出し、ソルは舌打ちする。
「だが、炎じゃ分が悪いのは確かだ」
その時、強風は意思を持った。
下から火傷する程に熱い颶風が吹きつけられ、レイヴンの身が浮かび上がる。
そして、自分の身が吸いこまれるように窓へと向かうのを知った時、レイヴンは苦い顔をしてその風を制御しようとした。
しかし、風はそれを拒否してそのままレイヴンを窓へと押しこんだ。
愕然とするレイヴンの胸倉を掴み、ソルが右手を握りしめた。
「砕けろ」
殴打。
頬が破れるような衝撃が顔に響き、脳が揺さぶられ、一瞬だけ意識が飛ぶ。
白濁した視界に再びソルが映り、すぐさま二撃目が襲いかかった。
顎から頭頂にかけて震動が走る。ゴギリ、という嫌な音に鳥肌が立ち、顎の骨が粉砕された事を自覚させる。
胸倉の拘束が解かれ、思わず体が床に崩れ落ちる。そこに追い打ちをかけるように脇腹に蹴りを入れられ、折れたあばらが内臓に押しつけられた。そのうち一本のあばらは肺を刺し、内部に血溜まりをつくらせた。
足首の関節に、鋭いストンピングが叩きこまれる。骨と骨との緩衝剤である軟骨が砕け、皮膚が破れ、赤い血を纏った白いアキレス腱を露呈させる。
更に蹴る。重さと速さを載せた蹴りは次々とレイヴンの体に突き刺さり、嬌声する暇も与えない。
絶え間なく続く苦痛に快感を覚える。しかし、「背徳の炎」に圧倒されているという状況に、屈辱も感じていた。
ソルが蹴りの威力を増すために法術を紡ぐ。その一瞬の隙を感じ取り、レイヴンは脊髄から即席の法術を編み上げる。
「――ガァァァァアアアアァアアアァアァッ!」
逆曲がりの腕をソルに向けて伸ばし、痰と血がわだかまる喉を無理矢理震わせ、法術は発動した。
鴉が飛び立とうとする湖面のように乱れた精神を具現して、ソルとレイヴンの間に方向性も指向性も全くない風が吹き乱れる。
両者の距離は風で引き伸ばされ、レイヴンはやっと再生された関節を動かし、ソルに背を向け必死に駆けた。
廊下を曲がった瞬間に、光と熱と轟音が背後で溢れる。
思わず総毛立つ体を抑えつけ、走る事に専念した。
深海に転移するという先程の狂言が頭をかすめたが、苦痛から解放され冷静になりつつある頭は否定に振られる。
確かにそれ自体は可能だが、その後が問題なのだ。
深海などに転移すれば、たちまち水圧で体は苦痛を食み、再び転移の法術を組むための集中は霧散してしまう。
自力で海上に上がろうとしても、鼓膜が破れ、三半規管は意味を失くしてしまう。視覚で周囲を確認しようとも、深海には光が全くなく目視は不可能。つまり、上へと向かっているつもりが、より下へと潜ってしまう可能性がある。
その手段が使えないとすればこの状況をどう打開すべきかと己に問い、その答えを行動で示した。
足を止め、振り向きぎわにソルへと手を伸ばす。
それを起点にレイヴンは強風を巻き起こした。
子供一人は簡単に飛ばせる風力だ。ソル相手では流石に飛ばせはしないが、直立するだけで精一杯という程度で、足止めには最適である。
つまり、足止めをして感知されないほど距離を伸ばし、改めて転移を取り計らうのだ。
しかし、見えないはずの空気の塊を見ていたかのように、ソルは不敵に笑みを作った。
その奇妙さに、嫌なものが背筋を走る。
風がソルに到達するまでに要する時間が過ぎ、レイヴンはそのタイムラグから彼が行った事を察知し、慌てて防御の構えを取った。
肺を溶かすような熱風が、レイヴンに襲いかかる。
これは単純にレイヴンの風を反射した訳ではなかった。
レイヴンの風を上回る風力で、ソルが風を生み出した事になる。
「……貴様っ」
ぎりっ、と奥歯を噛み、レイヴンはソルに初めて苦渋の顔を見せた。
「こうでもしねぇと、テメェのクソみてぇな余裕面が崩れねえだろ」
ソルは、余裕がなくなった彼の顔を見ながら、静かに語り始める。
「法力には、五つの属性がある。炎、雷、水、気、そして風。
個々人に与えられる属性は基本的に一つだけ。
だが、多くの属性を操るヤツもいる。それがオレだ。
……どうだ? テメェの得意な属性が、それを不得意とするヤツに圧倒される心地は」
「貴様……貴様ッ!」
「別にオレはそういう『趣味』じゃねぇが、今までさんざテメェに手を焼かされた仕返しだ」
言いつつ、ソルは封炎剣に「何か」を纏わせた。
攻撃を予感し、レイヴンは回避するために空間の狭間に隠れ、存在そのものを隠蔽させる。
が――。
ソルは構わず踏みこみ、レイヴンのいた空間を封炎剣で斬り裂いた。
腕に伝わるブツリ、という感触と共に、レイヴンが姿を現す。
その右肩から先を無くした状態で。
「――ッ!」
幾千の針に右腕全てを貫かれたような激痛が、声なき悲鳴となって脳に響き渡る。
ソルは全身に返り血を浴び、顔についた血をジャケットの袖で拭った後、封炎剣に纏わせた「何か」の正体を語った。
「吸血鬼も殺す『気』の法術だ。どうやら、テメェのような人外にも効果はあるようだな」
「クッ……!」
貧血を起こし、薄暗くなりつつある視界の端に、再生が起こる気配のない右肩が映った。
めまいや虚脱感でふらつく足に気力をこめ、レイヴンはソルから離れようとする。
ソルは後頭部にある棘を右手で持ち、レイヴンを制止させた。
「離せ!」
レイヴンは振り向く事もできず、暴れてソルの手を振り解こうとする。
ソルは棘を強く押し、前のめりに倒させる。ばしゃり、とレイヴンは雨漏りできた水溜まりに顔を埋めた。
左手をレイヴンの肩に当て、ソルは後頭部の棘を頭頂部の方へと押し倒していく。
「ゴボッ……!」
レイヴンが抗議の声を上げた。が、その声は言葉にならず、泡と化す。
怪力によって棘は頭頂部へと徐々に移動する。移動した痕は大きな亀裂となり、中から脳と頭蓋骨の断面と肉が見えた。
完全に棘がレイヴンの頭を分断すると、棘は肉から離れてソルの手に握られる。
金属でできたそれに炎の法力を注ぎ、レイヴンの背に落とした。棘が背を貫いて着地した瞬間、棘が真っ赤に変色し、融解して背中を灼く。
間髪入れず、ソルは再び法術を組んだ。
顔を埋めている水溜まりの温度が一気に上昇し、ついには沸騰温度を超えて千度以上にまで達した。
レイヴンの身が大きく痙攣し、本能的に離れようとして左腕で立とうとする。
しかし、ソルが彼の首を踏み、その自由さえ許さない。
なおも立とうと力を入れる。すると、首から嫌な音がした。
骨が折れ、食道に折れた骨が突き刺さる。
水溜まりが完全に古い血の黒色で染まった。それを見たソルは首から足を離し、今度は肩を踏みつけ、いつでも反撃ができるように法術を準備した。
ソルは無表情を保ち、しかしその口から発せられる言葉に憎悪をこめ、レイヴンに問いを放つ。
「――『あの男』はどこだ?」
レイヴンは首を回し、ソルに顔を向け、熔けかかっている目蓋を必死に開けて侮蔑の視線を送った。
「それを……貴様に言うと思っているのか?」
「ああ、思ってねえ。これまでの訊き方と同じならな」
言って、ソルはレイヴンを抑える足とは違う方の足で、あばらが既に折れている脇腹を再び蹴りつける。
あばらの杭がより深く穿たれ、反射的に「気持ち良ッ……!」と声を上げた後、レイヴンは息を荒げつつも皮肉を返した。
「……これまでと同じじゃあない?
なら何だ、土下座でもして『お願いします』と乞うのか? 貴様のその姿を想像するだに怖気が誘われるが、一度見てみたいとも――」
思うな、と言うよりも前にソルがレイヴンの顔を再び蹴りつけ、無理矢理にその言葉を中断させる。
「これが最後の機会だ」
あくまでも、無表情に、憎悪をこめて、ソルが、言う。
「『あの男』は――」
「言うものか!」
折れた歯を再生しながら、レイヴンが叫んだ。
「私は決して『あの御方』が不利になられる事など言わん!
言う事も行う事も思う事も、全て、断じて、私はやらん!」
「……随分な忠誠心だ。権威主義者か?」
「否。私はただ、全ての存在が『あの御方』に従うべきだと思っているのだ。――貴様も含めてな」
「何だと?」
「貴様は『あの御方』に、尊大なる役目を与えられたというのに――私がどれほど懇願しても叶わなかったその身分に就いたというのに――貴様は――貴様はッ!」
嫌悪と嫉妬の混じる腐敗した右目に射抜かれても、ソルは相変わらず無表情で、レイヴンを見下げていた。
「鴉はゴミ溜めにいる事を望む、か。オレは御免だがな。さて――」
ソルは自分のジャケットを漁り、何かを探して取り出した。
指でつままれたそれは、透明な液体が入った、小瓶。
その小瓶をレイヴンにアピールしてから、ソルが解説する。
「自白剤だ。
ファウスト――いや、とある医者から貰った物だ。
少し前に『実験』してみたが、効果があるのは確認している。即効性があるのもな」
そう言うと、ソルはレイヴンの脇腹を蹴り、うつ伏せの状態からあお向けに変え、がら空きの鳩尾に全体重をかけた蹴りをかけた。
「――――――――――――――――!」
描写もできない叫び声が、大きく開け放たれた口から噴出する。
その口に、ソルは小瓶ごと自白剤を投げ入れた。
口腔にその小瓶が収められた瞬間、ソルは拳をつくり、顎を殴りつける。
嫌が応にも閉じられた口の中で、歯が小瓶のガラスを噛み砕き、苦味を伴う自白剤が溢れ、勢いあまってそのガラスの破片と自白剤を嚥下してしまった。
尖ったガラスの破片が喉を引っ掻き、突き立ち、鮮血が自白剤と共に胃へと流れ落ちる。
舌鋒はその巻き添えを食らい、鈍い前歯で半分絶たれた。その半分の切り口は切断された筋の様を呈し、張り巡らされた血管から血をだらだらと流している。残りの半分は強く圧迫されたため、内出血で膨れていた。
ソルが再び鳩尾を蹴り、再びレイヴンの口を開かせた。
ガラスの破片が歯肉や上顎や舌根に埋まり、光を乱反射させている口内を見て、ソルはレイヴンが自白剤を飲んだ事を確認した。
ソルは目をすぼめ、三度目の問いを投げかける。


「……『あの男』は、どこだ?」






外で雷が鳴き叫ぶのを、衰弱した耳がかすかに拾い上げる。
右肩は回復するそぶりも見せず、ただただ血を流し続けていた。
体は、全く動かない。虚ろな感覚で満たされ、立ち上がる事すら困難だ。
唯一の対抗手段になりそうな要素は、痛めつけられた精神に残された、わずかな法力。
しかし、これまで強力無比な法術を見せつけてきたソルを打倒する事は、不死者である自分が死ぬ事と同じくらい不可能であろう。
絶望的な状況の中、レイヴンはふと、その文章の中から逃げのびる活路をすくい上げた。
「……『あの男』は、どこだ?」
ソルの、声。
レイヴンは口を固く閉ざそうとする。だが、意志に反して口が開かれ、血をだらりと垂らした。
「……『あの御方』は……」
微弱な声が紡がれ、ソルはレイヴンに催促する。
「もう少し大きな声で言え。テメェと顔を突き合わす時間はとりたくねぇ」
「……『あの御方』、は……」
ソルはどうしてもその先が聞き取れず、レイヴンの口に耳を寄せた。
「…………」
「もう一回言ってみろ」
「……ククッ」
その時、レイヴンは確かに笑った。
ソルが怪訝な表情を浮かべると同時に、レイヴンが吐血する。
喉や肺を裂かれ、血溜まりと化した口に通ずる器官から、血が一気に押し寄せ、小さな奔流となってソルの身に浴びせられた。
「っ……!」
嫌悪感から、レイヴンから身を退くソル。一方レイヴンは、嘲笑に顔を染めている。
「先程も言ったはずだ。
私は、言わん。『あの御方』が不利になられるような事は、全て、断じて、言わん」
「……どういう事だ?」
「どういう事、とは?」
首を傾げる。だが、その質問の行方を推察すると、レイヴンはより嘲るように笑った。
「ああ、自白剤の事か?
残念だが、どうやら少ししか効かなかったようだな。何しろ、私の身は残念な事に『不死』だからな。体に有害な毒物は排除されるようになっている。――この場合は自白剤だな」
互いに黙する。
ソルはその中で、胸の内に殺意を煮立たせ、ようやく開いた口から脅迫が漏れた。
「テメェ……殺すぞ」
これまでの比ではない殺気を漂わせ、ソルが法力を練り上げた。
レイヴンは大口を開け、笑い始める。
「フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! ハハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
「黙れ!」
声を荒げ、ソルが殴る。
それでも、レイヴンの笑いは絶えない。
「考えもしなかったか? 思いもしなかったのか? それとも、自分の策を自画自賛し、その可能性を冷静に見つめる事すらできなかったのか?
――まあ、百数十年『しか』生きていない貴様には、考えが及ばなかったのも当たり前だろう」
「黙れッ!
もういい――ここで灰になれ!」
ソルの法力が膨らんでいくのを感じたレイヴンは、笑うのを止めてソルを挑発した。
「避けていたな」
「何っ?」
「これまで、貴様は私を圧倒するために、様々な属性の法術を見せてきた。
だが、まだあるじゃぁないか。――雷が」
ソルは黙り、レイヴンの言葉を聞いている。
「私は本来、雷の属性を得意としている。
これまでは、貴様を殺さないよう『あの御方』に言われていたからこそ、私は風を操っていた。
つまり、貴様は私の不得意な属性を捩じ伏せ、得意げになっていただけだ。……実に滑稽だったな」
「嘘をつけ!」
「嘘かどうかは――実力で確かめれば分かる事だ」
言うが早いか、レイヴンの全身からバチバチという異音と光が立ち始める。
「上等だ……!」
ソルもまた業火を放つための法力を、雷の法力に変換する。




嵐の雷鳴と共に、城内で凄まじい電流が迸った。








ソルが、ゆっくりと後ろに倒れる。
受け身も取れず、大きな音を立てて床と激突した。
レイヴンはそれを見て、安堵のため息を深く吐く。
それから辺りの空気を肺に取りこむと、妙な特異臭が鼻についた。
酸素が、電流でオゾンに合成されたせいだ。
「……青いな」
そう、レイヴンがつぶやいた。
「感情だけで動けば、足がすくわれるのは世の常だ。……怨敵を討つ時こそ、冷静を保つべきだというのにな」
苦笑し、雷撃で気絶しているソルをじっと見つめる。
そもそもレイヴンが得意な属性は雷ではなく風だ。他の属性では、風ほどの力は発揮できない。
そして、先程のように全身から電流を発生させる事が、レイヴンの雷の法術の最大出力だ。
それを見たソルは、それを「これから強大な雷の法術を放つ予兆」と誤解し、レイヴンの法術を圧倒的に上回る雷を生み出し、そしてレイヴンに解き放った。
だが、ソルはレイヴンの血を浴びていた。
血にはヘモグロビン――つまり鉄が含まれている。勿論、鉄は電気を通し、レイヴンに放った雷は、血を伝ってソルへと逆流した。
つまり、ソルは自らの雷に打たれて倒れたのだ。
レイヴンもまた雷に打たれたが、不死者である以上死にはしない。
ソルは死ぬ可能性があったが、レイヴンという抵抗が作用して電力が弱まるため、その可能性は低い。
「計画通り、だな……」
レイヴンのその言葉にソルが反応を示さないのを見て、一応死んでいるかどうかを確かめる。
首に触り、動脈が動いている事を確認し、レイヴンは一つうなずく。
「さらばだ、『背徳の炎』。充分に――充分過ぎる程、楽しませて貰った。
今度は、私に死を得させてくれる事を期待しているぞ。……私でさえも未だ知りえぬその時までな」
彼は穏やかに言葉を残すと、その姿は朧に揺れ、鴉の羽を散らして去って行った。



「――なるほど。それでこうなったってワケか」
件の城から遥か遠き、名も知れぬ地の更に地下。
「あの男」がいくつか用意している拠点の一つであり、そこで傷を癒していたレイヴンは、偶然居合わせたイノに包帯を巻くよう指示した。
不承不承でそれを請けた彼女だが、その心情を表したように、巻かれる包帯はとても雑である。
ところどころがシワになっていたり緩かったりして、あまり心地がよろしくない。
ごわごわした感触に口端を曲げ、レイヴンはその不快さを眉根のシワで表した。
「……私が危機に瀕していたというのに、貴様はどうしてそう労るという事を頑に拒絶する?」
「じゃあ逆に訊くが、アタシがテメェを労るなんてコトすると思うか?」
「思わんな」
「それが答えだ」
その言葉に口をつぐみ、レイヴンは代わりにじっとイノを睨みつける。
しばらく沈黙が場を支配していたが、
「――これでいいだろ」
イノの合図で、沈黙は融解した。
「フン、まあいい。貴様にしては上々だと思うようにしよう」
「……どうしても労って欲しいんだったら、まずテメェの態度から改めろよ」
「年長者を蔑ろにするその姿勢こそ改めるべきだと思うがな」
「レディファーストっていう言葉を知らねえのかよ?」
「レディ? 今どこに淑女がいるのか、まずそこから教えて貰おうか」
「ケッ、手足の数は減ったってのに、相変わらず口だけは減らねぇのな」
イノがそう言って去ろうとする。その背中に、レイヴンがわざとらしい大声で「独り言」をのたまう。
「ああ、喉が渇いたな。シュヴァルツヴォルケンでは冷蔵庫は開けられないだろうが、隻腕のままではビールを取り出すのも一苦労だな」
「……チッ!」
舌打ちし、イノは法力式の冷蔵庫を開け、中から缶に詰められたビールを取り出した。
その缶を開けてからレイヴンの左腕に渡し、レイヴンは一呑みしてからイノを見やる。
「頼んでもいなかったが、一応感謝しよう」
「うるせえ! さっさと自分の部屋に戻りやがれ!」
イノが怒鳴り、レイヴンは静かに彼女の名前を呼んだ。
「イノ」
「何だよ!」
「エダマメも頼む」
「……このヤロウ!」
腕を振り上げるイノから目を離し、虚空に視線を合わせるレイヴン。
口を開き、怒声に掻き消されるほど小さな声で独りつぶやく。
「まあ――しばらくは生きていてもいいか」
  1. Doubtful conversation
  2. 闇に飲めるもの
  3. ちかしい末端
  4. 90.5+82.5
  5. 嵐の陽