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Dust Attack!

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  5. 無限の打鍵

レイヴンさまはへんたいさん その2

オリジナルキャラクターとレイヴンの話
オリジナルキャラクターメイン
痛めの描写あり
私は、猫が好きです。

ある昼下がり、道の真ん中で日に当たる猫を見て、私はすぐさまその猫に近づきました。

その猫はどうやら日常的に人と接しているようで、近づいて撫でてみても、警戒心なく喉を鳴らします。
しかし、その猫に首輪はなく、また雑種のようで、特定の個人で飼われているような様子もありません。

現にこうして私が猫を触っていて、通行人や周囲の住人の視線の中、
「その猫は私の猫だ」と名乗る人も、「あの家の猫だ」と告げる人もいません。
ただ、微笑みの中に猫はいました。

「あなたに家がないのなら、私の家に来ませんか?」

それは、その猫へ向けた言葉というより、今ここにいる人たちへの確認でした。
拒む人は、いませんでした。
私の確認が、受け入れられたと言っていいでしょう。

私は猫を抱きかかえると、その顎を指で掻きました。
弛緩した様子の猫は心地良さげに目をすぼめると、ゆっくりと眠り出します。

「……可哀想に」

誰かに飼われていれば、きっとこんな事にはならなかった。
そんな意味を言葉に隠して、私は猫と共に家路につきました。


久々に満ち足りた感覚を腹部に覚え、私は安堵の溜息をつきました。
量こそ少ないものの、数日ぶりの食事は非常にありがたいものです。

私は空になった皿を持ち、キッチンへと足を運びます。

調理後に掃除はしたものの、まだ血生臭さが残り香になっています。
少々ばかり顔をしかめますが、仕方のない事です。

「……私は、生きたいのです」

そして生きる為に、私は他者の死すらも選びます。

私は皿を洗った後、キッチンの隅から砥石を取り出しました。
それから、洗い籠の中から一振りの包丁を抜き取ります。

それは、職人によって作られた、とても丈夫な包丁でした。

私がこれまで飢えていた原因であり、そしてレイヴン様への捧げ物です。
今回、その切れ味を試す為にも使用しましたが、その性能は折り紙付きのものであると、素人の私でもはっきりと分かりました。

歯こぼれは見受けられないものの、万が一を考えて包丁を砥石で研ぎ出します。

シャッ、シャッ、と。
威嚇音のように包丁が鳴く様を聞きながら、私は今夜の事を考えます。

今夜が、レイヴン様とお会いできる日です。
今日に、この包丁をレイヴン様に捧げます。

この鋭い刃物を、一体どのように使うのか。

そう思いを馳せてしまうと、私は恐れに震えてしまうのです。


刃よりずっと冷たく鋭い笑みを浮かべながら、レイヴン様は私の包丁を検分されます。

「一夜を超すには充分だろう」

刃に指を滑らせて、零れる血を舐めながら、レイヴン様はそう判断を下されました。

「あえて求めるならば、硬度に強化をかけた物がより良かったが……お前の財力と法術では、到底無理だろうな」

睨みと嘲りを効かせてレイヴン様は謗られ、私は著しい息苦しさを感じました。
私はすぐさま床に手と頭をつけて、深く謝罪の意を示します。

私が口を開くより早く、レイヴン様は鬱陶しげに制止されました。

「ただの要望だ。お前にこれ以上は望まない」

――だから、私はお前に期待など抱きはしない。

レイヴン様の御心の声が聞こえるような、含みを持たせたそのご返答。
それは凡人の私にとって当然の事実でしたが、それを当たり前に受容するほど厚顔無恥ではありません。

「……失礼、いたしました」

己の至らなさに唇を噛み、私は面を上げました。

レイヴン様は既に私から目を離しており、意識をただ刃の切っ先に向けられております。
何度も指を滑らせたその銀色の刃は、既に赤黒い色で大部分が染まっていました。

レイヴン様はしばらく包丁をじっと見つめられておりました。
そして、おもむろに仰せ付けられました。

「金鎚を取って来い」

その御用命に至ったお考えは推し量れないものの、私はその令に従い首肯しました。

「承知いたしました」

私は部屋から出て、地下室への錠を解き、法術で指先に炎を灯し、明かりを頼りに降りました。
地下室には、箒から拷問具まで数多くの道具があります。

その道具の大群から金鎚を選び取り、地下室から部屋へ戻りますと、
レイヴン様の足元には指から溢れた血の泉ができておりました。

レイヴン様は私と金鎚を視界に認めると、口を大きく開けて、両の口端に刃を当て、包丁を咥えました。
その姿のまま「近寄れ」という手振りをして、私は金鎚を抱えたままレイヴン様へ近づきます。

「いかが、いたしましょうか?」

レイヴン様は口を開かず、
その枯木のような指で金鎚を指すと、
次いで、包丁をその指でなぞりました。

――叩け。

私はその意味を知ると、そこから連想される惨事を思い躊躇しました。

しかし、レイヴン様はその惨事こそ望んでいらっしゃるのです。
私の俗なる感性など、そのお望みの障害でしかありません。

私は自分を殺し、金鎚を震える手でしっかりと握ると、包丁の峰目がけて力一杯に叩きこみました。

金属と金属が衝突した、甲高く耳障りな音。

硬く鋭い異物が、生きている人間の肉に食いこむ感覚。
その総毛立つ感覚が、金鎚を伝って手に届きます。

私は口を食い縛り、情けない悲鳴を押し殺します。
レイヴン様は、ただその欲望のままに叫ばれました。

「ンひヲッ、ヂィイいいいいィッ!」

「気持ち良い」と、私とは全く真逆の感覚に酔いしれ、レイヴン様の吐息で包丁が曇ります。
レイヴン様の口端は刃によって断裂し、その肉を露呈していました。
包丁の切っ先が引っかかったのか、舌根も一部の皮が剥かれていて、滲む血が泡となっては弾けていきます。

その光景の痛みへの共感から私は口を塞ぎ、何一つ傷のない頬を我知らずさすりました。

しばらく痙攣されたままのレイヴン様でしたが、その震えが次第に治まっていくと、私に鋭い視線を投げました。

催促。

私はその意を汲み取ると、とにかく慌てて行動を起こします。
私は金鎚を床に捨てると、レイヴン様に近づいて、その包丁を口から抜こうと手を伸ばしました。

ですが、その包丁の取っ手には、レイヴン様の血と涎で濡れていたのです。
私は少しばかりの躊躇をしましたが、意を決して力強くその包丁を握りました。

頬に食いこむ包丁を、恐る恐ると抜こうとします。
ですが、血と涎でぬめる取っ手は、私の意に反したのです。

レイヴン様の口から、わずかに包丁が離れた時、
私の手からも、包丁が離れたのです。

重力に引きずられた包丁は、レイヴン様の喉奥に落ちました。

「!? ッガ、はァぁぁっ!」

不意の苦痛に驚きを、次いで喜びを。
レイヴン様は感情の遷移を声にされました。

「も、申し訳ございません!」

私は一刻も早く失敗を取り繕うと、再度包丁をつかもうとします。
ですが、急いた腕は精密さを欠き、私の手は取っ手をつかみ損ねました。
その手は、包丁を押しこむ形で、取っ手を叩きこんだのです。

より奥深くに穿たれた包丁は、レイヴン様の口の中にずるりと引きずりこまれます。

「――ッ!」

レイヴン様は、口を絶叫の形につくりました。
先程包丁で裂かれた頬が、大きく口を開いたせいで、その傷跡からぶちぶちと筋繊維が切れる音がするような。
そんなに口を開いても、声帯に傷を負われたのか、ただ荒々しい息が肺から押し出されるような音しかしません。

食道までその刃が届いたのか、咽頭反射でレイヴン様の喉が蠢きます。
口からわずかに覗く包丁の取っ手は、えずく度に上下してしました。

私は今度こそ失敗しないようにと、服の袖を破いて手に巻きつけ、不敬にもレイヴン様の口に手を突っこみました。

ぬめる取っ手に苦闘して、何度も包丁を前後させ、その度にレイヴン様の喉に刃が入る感触がしました。
私は片手だけでは足りないと、ついには両手で取っ手をつかんで、ゆっくりと包丁を抜きます。

今度こそ手が滑らないようにと、手に力と注意を注ぎこんで、ようやく包丁は私の手に戻りました。

私は緊張で、レイヴン様は苦痛で息を荒くし、しばらく事態は硬直します。
レイヴン様が下を向き、喉に溜まった大量の血を吐き出すと、元に戻った声帯を震わせました。

「……意識の死角を突いた喜びだ」

レイヴン様は、そう私の失敗を評しました。
ですが、私の失敗は失敗であり、かつレイヴン様の口に両の手を入れるという無礼をしたのです。
私は深く頭を下げ、その罪に身を強張らせました。

「大変、申し訳ございませんでした……」

レイヴン様は皮肉げに笑われると、私に視線を滑らせます。

「不意の挙動が歓喜を生むなら、目でも潰して包丁を握らせるか」

その提案に、不随意な声が私の口から漏れました。

失明の恐怖。
暗闇の恐怖。

無論、私は文句を言える身分ではありません。
しかし、二度とレイヴン様を拝謁する事ができなくなるという、私の根幹を揺るがす苦痛を考えてしまったのです。

私は必死にレイヴン様のお姿を今の内に記憶しようと、青ざめた顔で揺れる瞳にレイヴン様を映し続けました。
目蓋を閉じてなどいられません。私はただレイヴン様を一秒でも視界に収める事に全力を注ぎます。

ですが、レイヴン様はこの私の愚行に気づいたようで、更に嘲りを強くして笑われたのです。

「冗談だ」

前言を撤回するお言葉に、光を無くすという恐れが消え、私は眼に目蓋を下ろしました。
ですが、それとは別の恐れが浮かび上がったのです。

レイヴン様は、私の意図した苦痛よりも、過誤による苦痛を好まれたのです。
成功ではなく、失敗を。
それは私の正気から生み出される行為を否定されたようでした。

私は、狂わなければなりません。
レイヴン様は、狂気を期待しているのです。

私はうつむき、己の不甲斐なさに切歯しました。

私は何をするべきなのか。
そう考えを巡らせていると、レイヴン様は言葉をかけられました。

「私はより鮮烈な苦痛を求める。
しかし無痛というのは、鈍らの痛みよりも劣るものじゃぁないのか?」

私ははっとして顔を上げました。
そうです。
自分が悩む時間よりも、レイヴン様に退屈な時間を抱かせる事の方が、何よりの損失です。

私は己の矮小な悩みを消し飛ばし、しかし何の指針も立てられない私は伺いを立てました。

「……どのようにいたしましょうか?」

レイヴン様は、嘆息の後に一時をかけると、ご着想を得られたようです。
平和的でない微笑みをつくり、私に問いかけられました。

笹掻(ささがき)は得意か?」

笹搔。
人参などの表面を薄く削ぎ取るような切り方です。

私は料理人ではありませんので、得意かと言えばそうではないのですが、

「できるかと存じます」

不確実な記憶ではありますが、多分知識はありますから。
そのように答えると、レイヴン様は右腕を伸ばして命じました。

「私の腕をそうしろ」

予想はしていても、感情が受け止め切れないご指示です。
私は微動する腕を抑え、決意を固めるように包丁を強く握りました。

「……承知いたしました」

私は左手をレイヴン様の右手に絡め、その右腕の内側を上にします。
千年を経ても汚れ一つない肌が、その美しさを露わにしています。
そんな畏れ多いものに手をかける罪悪感が、私の背を走りました。

私は心を決めて、包丁を肘関節のあたりに置くと、力をこめて引き下ろします。
レイヴン様の白い皮膚が浮き上がり、その下から血が滲み出てきました。

「嗚呼……!」

人の腕を笹搔にするのは、困難でした。
それは、手が震えて力が入らない事もそうでしたが、
根菜とは違い、肉という柔らかいものの表面を切る事が難しいのです。

少し刃が上を向けば、すぐにぷつりと肉が途切れ、
ゆっくり静かに力をかけなければ、切り口の皮がたゆんで切れなくなります。

私は静かに、人間の肉を薄く切る事に集中しました。
でないと、自分が人間の肉を薄く切る事を自覚してしまうからです。

私は包丁を手首まで下ろすと、包丁をぐるりと回して肉を切り離しました。
薄く削がれた肉は、体から分離すると重力に引かれて床に落ちます。

皮膚が剥がれて充血した腕は、その痛々しさを私の目に焼き入れます。
ですが手を止めてはいられません。
私はレイヴン様の従者なのです。命ぜられた事は為さねばならないのです。

再度肘関節に刃を入れ、必死に腕の塊の肉を一枚の長細いハムにしていきます。

私はなるべく考えないように包丁を下ろしていると、引っかかりを感じて私は手を止めました。
包丁は何かに阻まれて、その先に進めないようになっています。

このエラーに対処すべく、包丁を抜いてその引っかかりの原因を調べます。
分離途中の肉をめくると、鋭い輝きが私を貫きました。

針です。
針が、レイヴン様の腕の中にあったのです。

「ひっ!」

滑稽な悲鳴を上げて、私は思わず包丁を落としました。
その包丁が床と接触し、その鳴り響く音は私を笑って部屋を駆け巡ります。

『お前はそんな奴に仕えているのだ。
普通では考えられない方法で、自分で自分を傷つける奴の下にいるんだ』

そんな意味はないのでしょう。
しかし、私にとってはそんな意味でした。

金属音から幻聴を抜き出してしまう。
そんな自分を確認すると、異常下に置かれた自分の精神が異常に傾きつつある事もまた自覚しました。

これでは、いけない。
私は私の役目を果たそうと、頬を叩いて問題解決にあたります。

レイヴン様の腕に深く埋まった針の、その頭の部分を私はつまみました。

私はしっかりと力を入れて抜こうとしましたが、血のせいでその針はとてもよく滑ります。
何度も何度も試してはみましたが、傷に指が押し当てられる痛みでレイヴン様が喘がれるばかりです。

私は上手く行かない事象に苛立ち、床から包丁を拾い上げました。
包丁の先をその針の埋まる肉に立てると、その切っ先で針を穿つ穴をえぐります。

「イイ゛ッ……! もっと……もっと深くぅ゛ッ!」

肉を開かれ、摩擦面が著しく少なくなった状態の針は、あっさりと私の手に落ちました。
邪魔にならないように針を捨て、私は再度包丁をレイヴン様の裂傷にあてがいます。

何枚もの薄切り肉が折り重なり、そこに血のソースがかけられて、地獄の皿のような床は見たくもありません。

私は混乱にぶれる瞳をなんとかレイヴン様の腕に固定するように努力して、
包丁を入れるごとに浮かび上がる鶏肉のような白さの人肉が、一瞬で湧き上がる血で赤く染まる様を何度も何度も何度も眺めます。

ついには、包丁にがりりと硬い感触がしました。
それは黄ばんだ白をしていました。
私はその光景に、遠い遠い過去に埋没した教科書のページを重ね合わせます。
見事な腕の断面図でした。

私はしばらくぼうとしていましたが、レイヴン様はくるりと右腕を回し、まだ笹搔になっていない反対側を見せつけました。
私は、再度肉を削る面倒な作業に取り掛かったのです。

何度も行ってきた処理がどれだけ未知で残虐な行為でも、人間は慣れる生物なのだと思いました。
そう考えられる余地ができるほど、私はこの行為に慣れてしまいました。
言い換えれば、麻痺したのです。

あれ程怯えた、生きた人間の肉を削ぐ感触は、冷蔵庫から出したてのチーズに包丁を入れるような感触に感じます。
一瞬だけ見える白い肉が赤く染まっていく様は、白い砂浜に打ち寄せる夕方のさざ波です。
床に溜まった血肉の混合物は、もしかしたらディナー前のホテルの調理場にあっても違和感がないのかもしれません。

心理の抵抗が麻痺して、早くなっていく私の手は、またしてもがりりと硬い感触を捉えます。
諦めてしまえば全ては矢のようで、もうレイヴン様の右腕は、肘から手首までは骨でしか繋がっていません。

私は手を止めて、骨の腕からレイヴン様の御顔に視線の先を移します。

そのレイヴン様は、羞恥もあられもなく破顔し、よだれを垂らし、愉悦に潤んだ瞳でどこでもないどこかを映していました。

それで役目がひとまず終わったと感じ、レイヴン様の汗ばんだ右手から、私の左手を離しました。
しばらく立ち尽くし、ただ私はレイヴン様のご容態を見守るしかありません。

ただ痙攣し、血を垂れ流すだけであったレイヴン様の右腕の断面が、その時脈動しました。
蔦が樹に纏わりつくように、露出した骨に筋繊維の一本一本が重なり合って再生します。
それは耳を澄ませば、みみずが這うような音がしたかもしれません。

そして、あっという間に腕は再生しました。
白く完璧な腕が出来上がると、レイヴン様は大きく息を吐きました。
落胆の息です。

私はその音色を聞き、戦慄しました。

また、レイヴン様のご機嫌を損ねる訳にはいきません、

私は停滞した思考を掻き混ぜて、その潮流から狂気を掬い上げようとしました。
ですが、私の思いつく全てはどれも逸脱のない発想で、何一つレイヴン様の為になるようなものはありません。

それでも、レイヴン様に無味乾燥とした時間を過ごさせてはなりません。
絶対に、ならないのです。

私は包丁の切っ先をレイヴン様に向けます。
私の様子を見て、それに気づいたレイヴン様は扇動的な身振りと口振りで問いかけられました。

「それで……私を、どうするつもりだ?」

「首を斬るか?」喉を指でなぞりながら、

「皮を剥ぐか?」腕を手刀で撫でるように、

「心臓を刺すか?」胸を指して、

「さあ……どうする?」

レイヴン様はベッドに腰かけ、私の狂気を値踏みしました。
緊張と恐怖で乾いた喉に唾を通し、答えます。

「腹を……捌かせて、いただきます」

レイヴン様はそれを聞いて、気構えを変えずに嘲笑(わら)われました。

「陳腐な発想だ」

私という人間は、どこまでも普通の人間でした。
それでも私はレイヴン様へ急ぎ近づいて、怯懦の性分を隠して、力一杯にその腹へ、心臓の下辺りに包丁を突き立てました。

「ガアッ!」

しかし、最初に突き立てた場所へ力を入れても、硬い感触が返ってきます。肋骨に当たったようでした。
私は包丁を抜くと、今度は今度こそ深く貫く為、腹の真ん中に包丁を振り下ろします。

「ァアッ……!」

包丁の切っ先の半分が埋まり、鮮血が溢れて刃を伝って、私の手を濡らしました。
動脈から噴出する鮮紅色の血が止まる事なく流れて、包丁の柄を滑らせます。
私は決して離さないよう、しっかりとその柄を握って、腹に包丁が埋まったまま、体全体の筋肉を使って刃を動かします。

ノコギリを挽くように包丁を前後に動かし、腹を縦に割るように、包丁はゆっくりと身を割きながら進みます。

「あッ! ……あぁアっ! ……ァア゛ッ!」

人間の皮と肉を切るおぞましい行為を、自分の手で犯していく。
擦り切れそうな正気を必死に保ちながら、私は貴い方の腹を完全に開いてしまいました。

レイヴン様は口から血と喘ぎ声を出し、開腹の快感に身悶えているようでした。
その満たされていらっしゃる様を見て、恐れを上回る喜びを感じます。

ですが。

――ただの要望だ。お前にこれ以上は望まない。
――陳腐な発想だ。

私は、ここで踏み止まってはいけないのではないかと、レイヴン様の事を考えました。
それでもこれ以上をやれば、私の精神が壊れてしまうのではないかとも、私の事を考えました。

ですが。

私などのような矮小な凡俗の心が一生壊れたままになる事と、
レイヴン様の悠久の時に刹那でも歓喜を与える事と、
天秤にかければどちらが傾くか。

そんな事。
分かり切った事じゃぁないですか。

私は(なずき)が生む突拍子のない加虐的思考に従い、床に捨てた金鎚を音もなく拾います。
そして、包丁は左手に持ち替え、右手に金鎚を持ち、人間としての理性を放逐します。

ここにいるのは、レイヴン様を満たすだけの道具。
そう考えれば、ぐるりと思想が回転します。

これで終わりだと思いこみ、ベッドに横たわるレイヴン様に、私は迫りました。

「どうした――?」

余裕のある様子で、レイヴン様が問いかけます。
その問いに、私は言語ではなく行動で応えました。

私は包丁の刃先を、まだ開かれていない胸にあてがい、
右手に持った金鎚を、その峰に振り下ろします。

衝撃。

「ギィッ!?」

胸骨がまだ包丁を受け入れる事を阻んでいます。
これを壊さなければ、胸も割く事ができません。

私は渾身の力をこめ、金鎚を再び振るいました。

「ギぁアっ! ァあアッ! がっ、ガアアッ!」

頑丈な胸骨は一つや二つの衝撃にも耐えていましたが、
いくら幼子だろうと、力と執念を籠めて繰り返される破壊の衝撃は確実に胸骨に亀裂を与えます。

そして、何十回という打ちつけの果てに、胸骨を破壊した確かな感触と共に包丁は深く胸の奥まで沈みました。

「ィい、ァッ!」

レイヴン様は大きく口を開けました。
気管が傷ついたのか、その口から垂涎のように血が顎を伝います。

構わず、私は黒い衝動のままにレイヴン様を切り開いていきます。
肋骨も金鎚と包丁で叩き切り割り、胸の肉も開いていきます。
そして、心臓に刃を入れました。

「あ゛ア゛あぁ゛アァぁァァ゛ああアア゛アアああぁア゛アァ゛ァアぁァ゛ぁぁあアあ゛あアア゛ァアァ゛ァあああぁ゛ぁあアぁ゛あアアア゛ァぁ゛ァ゛ああ゛アあァ゛あアああ゛っッ!」

その声は、私の理性の断末魔でした。
レイヴン様は、心臓を裂かれて盛大に嬌声を上げます。

心臓に入った直線的な傷口から、脈動の律動に合わせて血が噴出しています。
血は、私がこれまで見た事のない色をしていました。
手足等の末端の擦過傷から流れる、老廃物を含み黒く淀んだ静脈の血ではなく、
腎臓によって濾過された、通常生命の維持に必要で重要な、純粋無垢な真紅の血です。

心臓は全身に張り巡らされた血管にその動脈血を行き渡らせる為に、力強く脈動します。
その脈動から漏れ出た血は勢いよく私にかかり、私の服を真っ赤に汚濁させました。

私はその煩わしい血を止める為に、心臓に包丁を突き立てます。

「ぎゃガッ……!」

心臓の周囲に纏わりつく血管を剥がす為、私は心臓の周りに刃をぐるりと入れます。
今まで繋がっていた肉から分断された心臓を鷲掴み、ぞんざいに放り投げました。

「あハアッ! はあ、ああああ、ンァあア゛ッ!」

耳を障る叫びを吐く度に、呼吸器官である肺は艶めかしく膨縮を繰り返します。
そんな肺の様が、狂った私の目には縮こまって丸くなる猫に見えました。

私はその肺を体から斬り離そうとします。
肺と接続している血管と気管を、包丁で切断しました。

「! ッ!」

発声の元となる器官を奪われ、レイヴン様の口からは血以外の何も出る事はありません。
私はレイヴン様の体から孤立した肺を腕に抱き、引き離します。

血を含んで重みのある肺を横に放置し、レイヴン様の胴の上半分が空いた様を見て、妙な達成感を覚えました。

ですが、まだ私の思惑は半分です。
まだ、下半分があるのです。

大きく在す肝臓を、最初私は持ち上げようとしました。
しかし、どこか分からない所で体と繋がっているらしく、強い抵抗を感じます。
私は仕方なく包丁で肝臓を端から切り崩し、少しずつその体積を減らし、そして完全に外へと運び出しました。

次に醜い大蛇のような腸を掻き出しました。
ねじくれ、複雑に絡まった腸は、こうして広げなければ収拾がつきません。
広げた腸の最下部に根本を見つけ、包丁でそこをちょん切ります。

それからすぐに異臭のする腸を捨て、食道と地続きの胃もその境目らしきところで切断します。
消化器官も捨て去り、そうしてようやく一息つきます。

レイヴン様の胴体の中身は、完全に空洞になりました。

生命の必須構成となる要素のほとんどが除かれても、やはりレイヴン様は生きていました。
肺が無い為に声こそ上げられないものの、著しく歪んだ恍惚の表情は、異常な痙攣で蠢いています。

そこで、私は膝から崩れ落ちました。

人体の中身がぶちまけられた、血溜まりのベッドの上で、私は構わず倒れこみます。
すぐ近くに空っぽのレイヴン様がいて、ただじっとその様を見るしかありませんでした。

ひたすらに、ただじっとレイヴン様を見つめていました。

レイヴン様はその腹の中とは裏腹に非常に満たされた表情をしており、
熱のこもった瞳が、私の視線と交わると、


レイヴン様は、凄絶に嘲笑(わら)いました。


その惨烈な表情に中てられ、私は戦慄し、強張って動く事もできませんでした。

レイヴン様は私の腕を取ると、関節が外れそうなほどの強い膂力で引き寄せました。

「レイヴン様ッ――!」

同意もなしにあのような事をして、不興を買った。
表情こそ満足げな演技をして、実の所はちっとも気持ち良くなかった。
用済みになり邪魔者となった私の、最後の一日だった。

そんな理由から、私は罰を受ける。

恐ろしい臆測に私はがちがちと震え、涙が零れ、レイヴン様がこれから行う「何か」に従うしかありませんでした。

レイヴン様は、その空洞の胴体を近づけると、
私の体を、その中に引きこみました。

血と肉に囲まれた私は思わず自由を求めて手足を伸ばそうとしましたが、レイヴン様の腕がそれを押しとどめ、無理矢理にこの空洞の胴体に抑えこまれます。

私の体は小さく、そしてレイヴン様の体は大きいものでした。
体を縮こませる必要はあるものの、私の体の大部分はレイヴン様の胴の中に何とか収まる大きさです。

やがてレイヴン様の腹部周囲の皮膚が、私の体に沿う形で再生を始めました。
そして、畳んだ足の隙間を縫って腸がうねり、閉じた腕の間から心臓が創出し、レイヴン様の肉で次第に圧迫される私は、死の恐怖を感じました。
このまま、レイヴン様の体の中に閉じこめられれば、血肉に口を塞がれ窒息死する事でしょう。

私はなんとか顔を出そうとしましたが、レイヴン様は私の額を押さえつけ、ただその瞳を煌々と輝かせて私が肉に埋もれていく様を眺めていらっしゃいました。
そして、肺が出来上がると、発声機能を獲得したレイヴン様は大きく息を吸い、仰りました。

「お前の狂気を感じたぞ……」

その声は、レイヴン様の体の中にいる私には、とても良く聞こえました。

「だが、足りない……結局お前は、枠に収まった狂気しか知らない……。
それでも――お前が私の腹を捌いたお陰で、私はこうして、新たな『方法』を考えついた」

レイヴン様の胴体が完全に再生し、私は血が流れこまないよう口を閉じて息を止めました。

「さあ――私の中で足掻き、藻掻くがいい。
肉を掻いて、血を啜り、皮を蹴り、内臓を押し潰せ。
私としては、お前の命を取るつもりはないが……嗚呼、気持ちが良くて、解放するのを躊躇ってしまうかもしれないなァ……?」

「…………!」

レイヴン様の中で命を終える。
その光栄さたるや、身が怯える程に貴いものです。

しかし、私の未熟な精神は、まだ生きたい、まだレイヴン様に仕えたいと、馬鹿げた感情を先行してしまいます。
苦しみ悶える体は愚かな生存本能に従い、脱しようと蹴破ろうと、レイヴン様の皮膚を足蹴にしてしまいました。

「アアッ……! 良イッ……!」

そんな私の不敬に、レイヴン様が愉悦に声を揺らしました。

段々と脳が酸素の欠乏に締め上げられます。
窮鼠の状態にあった私は、生命への執着をこめた力で一蹴しました。

すると、私の脚は、レイヴン様の皮膚を突き破ってしまいました。

「――ンァアアアアッ! 気゛ッ――持ッヂ良イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!」

雄叫びは私の鼓膜を突き破るように大きく、何より荒ぶる感情を持って空気を震わせました。
外気に触れた私の右脚をレイヴン様は撫でられ、そして爪を立てました。

「……ッ!」

「ああ……さあ……元に、戻せ……! もう一度、私という殻を破ってみせろ!」

レイヴン様は私の右脚を体内に掻きこみ、
窒息に耐え切れない私は、レイヴン様のお望みを叶えて解放されようと、すぐさま左脚を蹴り出します。
そして、人間の皮膚を破る感覚を、覚えこみました。

「ガアッ! ハアァッ……! 良いなぁ……! 素敵な刺激だぁ……!」

レイヴン様の悦びの声に、私の体は希望を持ちました。
これで、私は外に出られるかもしれない。
あわよくば、お褒めのお言葉を拝受する事ができるかもしれない――。

しかしレイヴン様は、私の左脚もまた体内に収めると、粘滑(ねばらか)に言ったのです。

「だが、ああ……まだ満たされない。まだ足りんのだ……。
まだ死ぬような時間じゃぁない……さあ、じっくりと私を楽しませてみろ……」

「! ――ッ!」

脳が割れそうな窒息の苦痛の中で、その言葉は頭を叩き潰しました。
理性は最早崩壊し、野性が剥き出しになって暴れます。

私はレイヴン様の中を無我夢中で掻き回しました。
腸を脚で捏ね繰り回し、肝臓を締め上げ、背骨を殴り、心臓を握り潰し、腹を幾度も空けました。
レイヴン様はこの私の不敬に、随分と充足していました。

「そうだッ! 生き足掻いてみせろッ!
お前が、生きようとする度にッ! アアッ! 私は――生きる実感をッ! 覚えられる!」

その声を出す為に震える肺を顔に受け、生存本能のままに私は肺に歯を立てました。
どうだっていい。なんだっていい。
私は息をしたい。生きたい。その為に息絶えたりしたくない。

その為に、
私は、レイヴン様の空気を奪います。

生命の全ての力をかけて、自分でも信じられない膂力をもって、私は肺を引きちぎりました。
目は、見えません。しかし、肺全てを気管から剥がしてやれば、耳にごぼりごぼりという空気の音がしました。

私はその音に近づき、口を開き、
レイヴン様の気管を、含みました。

「……ッ!」

レイヴン様の動揺が、口の中まで伝わります。

裂けた気管から、血が口に流れこみます。
しかしそれ以上に必要なものを、空気を酸素を、わずかながらも必死に吸いこみます。

口をぴったりと気管に沿わせなければ、空気が漏れ、隙間から血肉が妨害をする事でしょう。
だから私は貪るようにレイヴン様の気管に吸いつきました。

意識はようやく回復していき、私は狂々(ぐるぐる)とした感覚を覚えました。
がりがりと無意識に掻く四肢に、びくりびくりと周囲の肉が反応を返します。
生命の危機を脱した私は、ようやく余裕を持ってこの状況を受け入れました。

血と肉と臓物と骨の抱擁の中。
全身を包む、何よりも豊かな存在。

レイヴン様の、中にいる。

その事実を振り向き再確認してみると、
私の心身は、大きく痙攣しました。

それは、先程まで感じていた死への恐怖ではありません。


何よりも満ち足りた、生の実感でした。


――狂っている、と私のどこかが囁きました。

しかし。
それが私の望んだ幸せなのです。
私が選んだ幸せなのです。

私はレイヴン様に関われるのであれば、何だっていいのです。
従者でも慰物でも道具でも使捨でも食料でも。
例え狂い歪んでいると揶揄されても、私はそれでいいのです。

私は嬰児のように身を丸くすると、
レイヴン様の胎の中で、外に産まれ出てしまうその時に脅えながらこの甘美を享受しました。


その甘い時間は、数時間の事だったのでしょうか。
ですが、私には刹那に感じました。

レイヴン様は自らの御腹を開かれて、私を体内から引きずり出しました。
血と肉片と分泌液で飾られた私の姿を見て、レイヴン様はほんの数瞬だけ表情を変えます。
ですが、すぐに無表情を努められ、私にお声がけくださいました。

「……お前は、狂っているな」

私は「ありがとうございます」とつぶやいたつもりでしたが、口が開閉するだけでした。

「私に脅えながら、何故私に尽くすのか」

御恩の為にございます。

「私がお前を殺しても、お前は私に従うのか?」

躊躇はあるかもしれませんが、御命とあれば。

言葉にならない鳴き声だけが口から洩れますが、私はこくこくと首肯してレイヴン様に返答します。
私のその様に、レイヴン様は口を曲げて見下げられました。

「全く、不可解な幼子だ」

いえ。私にとっては当然の事です。
私はレイヴン様に仕える事こそが至上の喜びなのです。
何故、と聞かれても、私にはそれだけが真実です。

何故そうなるに至ったかなど、昨日も一昨日も一昨昨日も記憶できない私にとっては、覚えていない遠い過去です。

ですが。
私の中に息づく確信は、間違いなくレイヴン様に向いているのです。
私にとって、誰よりも何よりも、三千世界の全てをくべても、レイヴン様を讃えます。
恐らく、顔も忘れた父母よりも。

「わたしは、レイヴンさまのしもべですから」

ようやく、言葉にできました。
何にも代えられない立場を誇り、私は安らかに微笑みました。

レイヴン様は私のその言葉を聞くと、目を伏せて困惑なされました。

「……私もまた、狂っている」

そう仰られるに至った背景など、私のようなものには推し量れないものでしたが、
そのお言葉を耳にして、私は頷くのをためらいました。

しかし、心の中で同意します。
常人にとって、痛みとはとても嫌なもので、
それはレイヴン様に仕える私にとっても、嫌なものです。

それをレイヴン様は、とても喜ばれて受け入れているのです。

私にとって、レイヴン様が正気であろうと狂気であろうと、変わらずお仕えする所存です。
しかし、どうにも今私の目の前に在すレイヴン様は、狂っている事を負い目に感じられているようで、
私の言葉で肯定も否定も口にする事ははばかられました。

と――。

私の腹が、狂々(ぐるぐる)と音を立ててしまいました。
私は慌てて腹を抱えます。

腹に収めたはずの糧は、数日分の飢えに耐えられなかったようなのです。

しかし、その獣の唸り声のような飢えた音は、レイヴン様のお耳を汚したようでした。
レイヴン様の視線が、私の腹に注がれています。

恥辱に顔を赤らめて、私はすぐに身を床に投げました。

「お聞き苦しい音をお聞かせしてしまい、誠に申し訳ございません!」

私が全身で謝罪を表すと、しばらくレイヴン様は黙されていらっしゃいました。
ですが、くつくつと笑われる声が、次第に哄笑へと、狂笑へと変じていきます。

レイヴン様はその狂笑を急に止めると、その右脚の爪先で私の顎をくいと上げ、その瞳を合わされました。

その御顔には、狂われたような笑みが貼りついていらっしゃいました。

「……私とお前の、この狂った隷属に相応しい褒美をやろう」

レイヴン様は包丁を手に取ると、私に見せつけるようにその輝きに舌を這わせました。

私は、顔を伏せる事も動かす事もできません。
まるで釘のようにレイヴン様の爪先が、私の顎を固定しているのです。
だから、この後の光景をじっくりと見てしまうのです。

レイヴン様は、私に触れている右脚に力を入れ、包丁を掲げてこう仰ったのです。

「包丁はやはり、食材を切る為に使うものだ」


悪夢を見たようで、私が起きた時には、寝間着が汗を吸っていました。
私はぐるぐると回る頭を何とか抑えて、新しい今日をまた始めるのです。

腹に手を当てると、こちらもぐるぐると空腹を訴えているのでした。
この分ですと、恐らく何日もまともに食事をしていないのでしょう。

でしたら、きっと食材も何もない状態かもしれません。
私は諦め半分でベッドから降り、キッチンで法力式の冷蔵庫を開きました、

そして、私は驚きました。

そこには、皮が剥がされた塊の肉があったのです。
しかし、塊の肉しかなかったのです。

何故かそこには、値の張る肉だけがあって、安い野菜はどこにもなかったのです。

「……昨日の私は、イノシシでも捌いたのでしょうか?」

まさか。
素人の私には、小動物程度しか捌けません。

疑問は湧きますが、目の前にある肉を食べない道理はありません。

私は肉を手元に寄せると、その肉をまな板の上に載せました。
全体像を見るに、どうやら動物の後ろ脚を切り落とした肉のようです。

太めの骨の断面が覗いていて、良い出汁の出そうな骨髄がたらりと垂れています。
また、肉部分の脂身は少なく、赤身がかなり多いです。運動量の多い、小さな馬の脚でしょうか。

私は骨と肉を包丁で分け、かつ肉を一食分のものに切り分けます。流石に、この量の肉を一回で食べきれるものではありません。
そして、今回食べる分以外の肉を冷蔵庫に再び戻し、私は鍋に水を張り、火にかけます。

私は骨を最初包丁で切ろうかとも思いましたが、非力な私には到底無理そうでした。
なので、私は金鎚と釘を取り出すと、釘を火で炙って消毒した後、骨に釘を打ちつけ、少しずつ骨を分けていきます。
そうして分けた骨を鍋に入れ、塩胡椒を入れて煮立たせます。

それから、私は肉の調理に取りかかりました。
塩胡椒は既に骨のスープに使っているので、他の味付けにしたい所です。

そこで、私はキッチンの奥底を探ると、いつ買ったかは分からないカレー粉の缶が出てきました。
開封して匂いを嗅ぎましたが、腐ってはいないようです。

少し舐めて、カレー粉の味加減を見てみます。少々薄味です。
これならばと、私はカレー粉をまんべんなく肉にまぶしていきます。
更に、ついでに出てきた小麦粉も肉につけ、肉汁が外に出ないようにします。

私はフライパンを取り出し、充分に熱した後、オリーブオイルを行き渡らせます。
そこにカレー味の肉を載せると、非常に香しい匂いと、食欲そそる音が鳴り響きました。

私の腹は、ここで一番大きく鳴きました。

中火で、ちゃんと中まで火を通して数分。
頃合いと思い肉を皿に盛りつけ、骨のスープを器に注ぎ、私は両手に皿を持っていそいそとテーブルに移ります。

フォークもナイフもスプーンも持ち、椅子に座って十字を切ります。
誰よりも偉いという傲慢な神に祈るというより、単なる癖のようなものです。

ともかく、食前の行為を行った後、私は最初にスプーンを手に取りました。

少々黄色に色づいたスープは、飢えた胃袋にとても染みました。
塩胡椒と骨の旨味だけで、ここまでできるのかと思い知りました。

私はがめつく一気にスープを飲み干すと、いよいよナイフとフォークを手に取りました。

肉はナイフを入れるだけで切れる程柔らかくはありませんでしたが、前後に動かすだけで難なく切れました。
ほんのわずかに肉汁が溢れ、私は唾を飲みこみ、肉を口に入れました。

その肉の、何とも美味な事でしょう。

空腹は最高の調味料ではありますが、しかし、こんな贅沢な肉を口にしたのは、生まれて初めてかもしれません、
カレーのスパイスが肉の旨味を引き立てて、嚥下するごとにもったいないと思ってしまいました。

そうして、全部を胃に収めて、私は幸福の一時にひたりました。

そこで、急に口についたのです。

「レイヴン様……」

叶いはしませんが。
もし、このテーブルの向こうにレイヴン様がいらっしゃったら。

この一時は、人類が歩んできた歴史上で最も貴重な一時になり得たでしょう。

私は、空想上の虚像を、テーブルの向こう側に投影いたしました。
そして、


レイヴン様は、凄絶に嘲笑(わら)いました。

変態鴉は参戦の夢を見るか?

レイヴンの夢の話
薬漬けの街ドラッグド・タウンの騒動は、終わりを告げようとしていた。

レイヴンは、ギアに変質した人間の残骸を貫く。
これで最後だ。後は、街全体に展開される殺界が、この忌むべき痕跡を浄化するだろう。

「……くだらない諍いだったな」

俗物が、「あの御方」のGEAR細胞に手を加え、売りさばく。
願わくば、そう企てた張本人を己の手で断罪したいものだが、それは何者かの手に預けるしかない。

己の受けた任務は、この騒動を不都合な事実無く閉ざす事だ。

そしてそれは今、一段落着いた。
後は事後処理だけだが、それを行うには数日分早すぎる。

『――殺界の発動まで、あと3分――避難状況、概算9割9分完了――』

警察機構の通信を傍受する。この地に生命が存在できるのは、その言葉の通りあと3分となるだろう。
そこで、彼は震えた。

「いいじゃぁないか……」

「苦痛」とは、その二文字で多岐にわたる。

常人はその二文字を意識しない。
しかし、小指を家具の角に打った鈍痛と、腹を冷やした事に起因する腹痛とは、素人でも種類が違うと分かるだろう。

ならば、殺界の苦痛とはどのようなものだろうか?

新たなる快感の予感と、訪れるかもしれない「死」に高揚し、恍惚として息を吐いた。

己の身を抱き、天蓋と顔を合わせ、レイヴンはつぶやく。

甘き死よ、来たれKomm susser tod――!」


朧な意識で、思考する。

――私は、死んだのか?

殺界の苦痛は――残念ながら、味わう事はできなかった。

触覚が痛みを脳に伝えるより早く、意識が途絶したのだろう。
殺傷力が高いのも考えものだ。

しかし――今、私はどのような状態にいる?

周囲が把握できない。
体の感覚も曖昧だ。

もしや――これが、「死」?

「夢だよー」

無邪気な声が、頭上から降り注ぐ。
そこで、感覚がある程度のレベルまで復帰した。

ふにゅん。

そんなオノマトペが思い浮かべられるような、柔らかな感触を頬に覚えた。

「…………」

声の主を見やる。
天使のような笑顔を浮かべた、天使のような輪を浮かべた、女性の姿がそこにあった。

追加情報としては、己の頭部の位置は、正座という状態にある女性の太腿の上部にあり、
つまり、「ひざまくら」であった。

「……最悪だ」

「心理学の観点からすれば、鼻血ブーで全力バタンキューなシチュエーションだと思うけど、しないの?」

「するものか」

己の決意を口にして、レイヴンはすぐさま起き上がる。

「もー。常識的に考えてドバドバ出るのにー」

そう言って「ぶう」を垂れている女性の正体は分かる。
同じ主に仕えるその彼女の名は、ジャック・オー。

しばらく彼女をじいっと見やり、ふと気づく。

「ほんの前に貴様を見た時は、」

「なに?」

「『あの御方』が、私にヴィタエの確保と抹消の命を預けていただいた時だが、」

「あれね」

「貴様はフードを被っていたが、」

「うん」

「――背が、違う」

そう。

以前見かけた時、というよりほんの数日前に見かけた時。

それは明らかに、女性のものとしては背が高く、
ともすれば身長181cmのレイヴンに迫るほどのものだったのだが、

今、眼前にいるジャック・オーは、それと比べて明らかに小さい。

世界が世界なら、この箇所をゆさぶるかつきつければ話が進むようなムジュン点である。

そんな指摘に、ジャック・オーはしばらく沈黙し、
ぽんっ、と手を打つ。

「輪っかのせいだ」

「手を打つ動作は通常、これまでになかった事を考えついた時のものだが」

「じゃあ、鉄球に乗っていた為だ」

「もしそれが事実ならば、その発言の最初に『じゃあ』はつけないんじゃぁないのか」

逃げ道を狭まれたジャック・オーは、しばらく黙った後、恐る恐るつぶやく。

「……後付けせって」

「やめるか。つまらない事を訊いてしまった」

己も無粋な事を問いたものだと反省し、レイヴンは素早くこの話を打ち切った。
でなければ、彼女は絶対防壁フェリオンよりも強固な第四メタの壁を超えてしまうかもしれない。

そんな末恐ろしい事態を回避した二人は、ともかく現状を認識する。

「夢、と言ったな。
では、その夢とは、私の夢という認識で良いのか?
ここにいる私は、貴様や、あるいは、何者かの夢によって創られた存在ではない、と」

「胡蝶と疾風――じゃないっ、胡蝶の夢ではないと、言っておくよ」

「しかし、夢の中とて油断はならないかもしれない」

ふむ、と顎に手をやり、レイヴンが考えこむ。

「これが、夢として錯覚させた現実、あるいは幻術である可能性もある
 ……そして、夢にまつわる奇妙な噂を聞いた事がある」

「夢にまつわる噂なら、私もそう、知っている」

二人が顔を見合わせて、同じ人物を思い浮かべる。

「己の夢に引きずりこむ――」

「少年の、噂――」

噂をすれば影とは言うが、こと物語中に関しては、それが色濃くなるものであり、
ズガンと、重量感ある音を立て、重量感あるベッドが降臨した。

いや、ベッドそれだけではない。
ベッドに拘束されているような、その少年が目蓋と口蓋を開けた。

開口一番、その特徴的な声質で、

「おはよう、お兄ちゃん」

男性に属する生命体が発するには物騒な言葉を吐く。
絶望すらも朽ち果てそうな、バッド・エンド直葬の台詞である。

「別咆吼に、いや別方向に荒唐無稽な夢を生み出したものだ」

レイヴンは頭を抱えた。

「何だい? 頭が痛いのか?」

「肉体的にも、精神的にもだ」

針の刺さった頭から手を離し、向き合いたくない少年に視線を合わせる。
少年は再び目を伏せて、得意げにまくし立てる。

「考えてくれたまえ。夢とは己ですらも手綱を握る事ができない暴れ馬だ。夢の中ではどのような事であろうと現実には無意味だ。ならばその夢のままに事を為す事が今この時の最善の手だとは思わないかい?」

「……それが、貴様の最善である懸念もあるがな」

レイヴンは鋭い眼で彼を射抜き、この場に渦巻く雰囲気を冷徹なものに変質させる。

「時に、人間は夢を見て死ぬ。
――いわゆる『ゆりかごの死コット・デス』はあるいは、夢魔がその命を刈り取ったが故かもしれない」

「つまりは、僕が夢魔と? 不確定な材料を元に確定的に明らかと判断するのは愚者の考えだ。その考えを、君は抱くというのか?」

「そうと決めつける訳じゃぁない。
だが、何の思想を抱いているか分からない人物の言葉を鵜呑みにするのもまた、愚かしいと思うがな」

思想の違えは、立場の違えとなった。

自然と、各々の武器を構える。
少年は、ベッドに備えられたアームを、レイヴンは、人間の骨肉すら立つ己の手刀を、
相手が先手を取ろうとも即座に対応できるよう、目と武器を光らせて対峙していた。

その絶妙な均衡を破ったのは、すっかり第三者となってしまったジャック・オーである。

「れっつろっくー」

自分が蚊帳の外にいる事を自覚した彼女は、このつまらない状況を打破する為のゴングの役を担った。

刹那、双方は同時に動いた。

――距離を詰め、相手を翻弄する。
その為に、双方は秘蔵の法術を持っていた。

全く同時に、彼らは同じ術を使い、
その姿が、掻き消える。

「……あー。空間転移」

ジャック・オーが声を漏らす。

流石に、相手が同じ高等法術を扱えるとは思ってはいなかったようで、その動揺が法力を捻じ曲げる。

『あ。』

少年は、己の武装たるベッドを残して転移した。
レイヴンは、その棺のようなベッドの中に収まるように転移した。

つまり、少年は己の得意とする武器を無くし、
レイヴンは、己の自由を無くした。

死よりも深い、沈黙。

少年は不服な表情を浮かべ、こう切り出した。

「正直に言うとだね」

「ああ」

「僕は、虚像だ。君の、君自身の夢の中で生み出した、妄想の産物だ。つまり、ここで何をしようとも、君をどうこうする力はない」

「……ああ。貴様の開口一番の台詞の時点で、偽物である事は薄々気づいていた」

双方の戦意喪失を確認し、謎の少年は謎のままにとぼとぼと去っていった。

「……無駄骨」

ジャック・オーが先程の時間を三文字に要約し、レイヴンは再び頭を抱えこんだ。

「だいじょうぶ? 頭、ざらついてる?」

最早質問に答える気力が湧かない。
黙るレイヴンに、ジャック・オーは頬を膨らませた。

「さっきの人が進言した通りに、こう、自分の夢に働きかけようとか思わない?」

「……私は働かないぞ」

「ンモー、そうやって自分の世界に引きこもるー。
ほら、飴あげるから! 働くって素敵SU☆TE☆KIだし! 流した汗だって美しいよ!」

「いつか終われ夢……」

そうぶつぶつと呪詛をつぶやき、己を拘束しているベッドの中に――何故か生成された掛布団に隠れるように、もぐりこむ。
こうなれば、目が覚めるまで、時間をプチプチのように潰すだけだ。

夢の中でベッドに潜るのは中々に珍妙な体験ではあるが、それ以上に珍妙な感触がレイヴンを襲った。

ふにゅん。

本日二度目のオノマトペが、ベッドの中から放たれた。

すかさずベッドの掛布団を剥げば、少女がいる。

あちこちにリボン。
すみずみまでフリル。

その少女は異様に熱のこもった瞳で、こちらを見ていた。

「男と女が、ベッドを共にする……これは最早、夫婦関係にあると言っても過言ではありませんよ!」

「ジャック・オー! このベッドを、私ごと壊してくれ!」

「ああっ、心中ですか!? そんな、私を想ってくれているのは嬉しいですけど、まだ私にはやるべき事が……!」

ベッドであがくレイヴンだが、少女は彼を逃さぬよう必死にまとわりつく。

そんな二人を見て、ジャック・オーはニャマリと口角を上げる。

「あーごめんねー。私お邪魔ねー」

「ま、待て! むしろ貴様の助力が必要だ!」

「いやはや、後はご両人にお任せという事でー」

「任せるな! この拘束を解くのは、貴様しかいないのだぞ!?」

決して仲が良いとは言えないが、この喜劇じみた狂気の夢の中では頼りの綱である。
レイヴンは必至にジャック・オーを留めようとするも、彼女の周りに天使らしきものが降臨すると、ゆっくりと昇天していく。
その頭の光輪にぴったりのシチュエーションではある。

「幸福とはそういうことなの……これでいい……気にしないで……みんなに4649と言っておいてねー……」

「嗚呼ッ……!」

手を伸ばすも、黄金の風と共にジャック・オーは雲の上へと消えていった。
絶望状態に陥るレイヴンは、がっくりとうなだれる。

そんな彼に構わず、少女はべたべたとレイヴンに絡みつく。

「ああっ、そんなに落ちこまないでください旦那様ッ!」

「誰がだ……」

「もう、今まさに同じベッドで寝ている仲じゃないですかー。100パーセント既成事実ですよ!」

「十割で事実無根だ」

「例え恋の水は枯れていても、愛は砂漠でも花咲くの!」

「無理だ。私は誰も愛する事はできん」

拒否を淡々と告げていくレイヴンだが、その一言に少女は強く反応した。

「……愛する事ができない?」

「そうだ。それがどうした?」

「それは……誰かから、禁じられているから?」

「違う」

「じゃあ、自分で、そうなったっていうんですか?」

「それ以外、何がある?」

レイヴンとの問答に、少女は言葉を失ったようだった。
それから、ぽつりぽつりと胸の内を明かした。

「私は……『お母さん』から、ちゃんとした心を抱く事を――誰かを愛する事を禁じられているんです。
もしかしたら、あなたはまだ知らないかもしれないのですが……私は、『ヴァレンタイン』なんです。
私たちは、『お母さん』の目的のために存在していて、それ以外はいらないんです。――だから、愛する事も、いらないんです。
でも、私は感情が存在してしまったんです。誰かを愛してみたいんです。寄り添ってみたいんです……。
だから、だから私は、誰かと結ばれれば、この気持ちが満たされるかもしれなくて……、
私は、その為に、私と一緒にいれる人を探してるんです。
私と一緒になれたら、できればその人の為に料理とかも作ったりして、幸せな家庭を知りたいんです。
でも、初めて作った料理は上手くできなくて、でも旦那様は我慢して美味しいよ、とか言ってもらったり、
あ、でもでも、旦那様がストレートに助言してくれて、二人で一緒に台所に立って特訓して、美味しい料理ができるまでの過程の中でお互いの愛も深まり合ったりとかもいいですね。
そういうのもいいですけど、最近私は結婚後に大事なのはやっぱり寝る前の会話だと思うんですよ!
お互いを労わって、今日あった他愛ない事を話し合ったり、『お疲れさま』とか、そして『今日も愛してるよ』とか、むっほぉ~!
あ、でも寝る前のキスとかも王道で! あるいは寝る前はつっけんどんで、でも寝た後に額にチューして『寝顔も可愛いよ』とか何とかぁ!
そして二人してベッドで寝て、お互いの温もりを確かめ合うのー!
ああ、ペルフェクティー!」

胸の内の不要な部分まで吐き出したエルフェルトは、心機一転し胸からしゅるりと巻物を取り出した。

「お互いに愛の求道者と分かった所で、やはりここは結婚して愛を確かめ合うのが道理だと思います」

「私と貴様では道理という二文字の認識が光年程違うようだな」

「愛ですよ」

「何故そこで愛」

「やっぱり愛ですから」

「愛などいらない」

嗚呼、愛とは何か。
男女の押し問答は果ての無いトンネルのように暗闇へと吸いこまれ、
ベッドの上、青い肌と白い肌とが交差する中、愛について語り合う二人。

そう書けばこの世にわんさかとあるラブ・ロマンスの一幕のようであるのだが、
しかし、この話の中では新たなカップリングが生まれるきっかけにはならないのであった。

「なんで分かってくれないんですかー!?」

「貴様の愚考への理解を何故私に求めるんだ!?」

平行線の議論に堪忍袋の緒が切れた双方は、言葉ではなく腕力で己の正当性を訴えた。
何とも幼稚な喧嘩の光景だが、法術を使い手ならばこの裏の攻防に戦慄する事だろう。

致命的な致命傷を与えるレイヴンの法術に、その構成を読み取った少女は適切なディスペルをカウンターし、
あるいは少女が相手の心を虜にする法術を忍ばせれば、レイヴンが法術を汚染して使い物にならなくし、
レイヴンの空間転移に少女は時空間の座標にノイズを走らせる事でエラーを起こし、
少女の単純故に瞬間的に繰り出せる不意の麻痺の法術をレイヴンが身をひねって躱し、
その応酬の凄絶さたるや、素人が間に入るだけで雲散霧消する程のものであった。

そんな騒ぎが上で繰り広げられ、
少年のベッドは、まるで意思があるかのように動いた。

「え?」「ん?」

ベッドは拘束具を外し、
二人をアームで器用につまみ、ぽいっと投げ捨てると、
もう関わってられないと言わんばかりに、素早くこの場から立ち去った。

この展開こそ意外だったものの、晴れて自由の身を得たレイヴンは、ともかく少女と向き合った。

「……これ以上の邪魔立ては無用を願うぞ」

これまでの短時間に何度も表明してきた拒絶を突きつけると、少女は座りこんだ。

「でも、私……!」

「貴様がどれだけ私に付き纏おうが、私が貴様に抱く感情など断じて無い。
 去れ、忌み子。この――化け物が」

自分に匹敵する法術の使い手が、ただの少女な訳がない。
あの時の争いで、相手が少なくとも人間ではない事を知ったレイヴンは、そう慈悲無く宣告した。

少女はしばらくレイヴンを見上げ、やがて意味を飲みこむと、その頬に涙を通した。

「私……どうして……感情なんかあるのっ! 涙なんかあるのッ!」

無言でレイヴンは少女を見下げた。
「それ」に憐憫をくれてやる事もなく、かといって追い打ちをかけるほど悪趣味ではない。

レイヴンは目を閉じ、この起伏激しい夢から覚めるように念じた。
が、結局この夢は、最初から最後まで落ち着きがないのであった。

目を閉じて視界を閉ざしたレイヴンは、無防備にも立ち尽くし――、
背後から突如現れ、凄まじい運動エネルギーを持った質量に思いっきり跳ね飛ばされた。

「ンギモヂイィィッ!?」

天にも昇る苦痛と共に空を舞うレイヴンをよそに、
新たに出てきた「それ」は、うつむく少女に声をかけた。

「エル、大丈夫?」

「ラム!」

互いに互いの名を呼び、容姿も雰囲気も違う「それら」はしかし、何かが同じだった。
新たに出てきた少女――『ラム』は『エル』の涙を見ると、今まさに頭から着地したレイヴンを睨みつけた。

「エルに何をしたの?」

「……何、と……言われても……」

レイヴンが抗弁を上げようとするが、こみ上げる快感に嬌声を抑えるのに息も絶え絶えだった。
彼をよそに、『エル』は事のあらましを最初から説明した。

「気づいたらベッドに拘束された状態で、あの人と初めて会ったんだけど」

「……待て……」

「愛について話してたら、あの人が突然襲いかかってきて」

「…………だから、待て……」

「それで……あの人……私に、酷いことを……うぅっ!」

レイヴンに言われた言葉を思い出し、『エル』はその先を言えず、嗚咽を漏らす。

レイヴンは強烈なまでの嫌な予感がした。
その『エル』の説明では、まるで自分が彼女に「行為」を強要したと思い違いをされる。

「そう……エル、分かった……」

『ラム』は『エル』の頭を撫で、彼女を慰める。
『ラム』がレイヴンと向き合うと、二振りの大剣を呼び出した。

「――出来損ないの人形を絶滅する」

その気迫の凶悪さたるや、千年を生きていてもなお指折りの脅威である。

レイヴンは不名誉な誤解に対する悪寒とこれから与えられる更なる快感に、ひきつった笑みを浮かべて『ラム』と相対した。
撤退を図ろうかとも思ったが、頭部から落下した事による頸椎の断裂が未だ再生していない。

「未来を――悲観しろ」

『ラム』の放つ絶望的なその光は、まるで殺界の光のようにレイヴンの身体と意識を灼き尽くした。


「――ぐ……」

謎の気怠さと痛みを伴い、レイヴンは殺界の外で目覚めた。
恐らく、殺界を展開した際の衝撃で自分の体が飛ばされ、効果範囲から離れてしまったのだろう。

苦痛を存分に感じられなかった事に舌打ちし、彼は立ち上がる。

「疲れる……夢だった……」

15年分の疲労を味わったような、そんな疲労感が身に残っていた。
だが、具体的な夢の内容は、覚えていない。
知っている顔と知らない顔がいて、それが代わる代わる自分を悩ませていった、そんな感じの夢だったかもしれない。

しかし、所詮夢は夢である。
彼にはやるべき義務があり、脳が生み出した虚像に時間をかける暇はない。

レイヴンは夢の残像を振り払い、風を見る為、空を見やる。

太陽を隠す曇り空が、彼の眼に映った。


2180年。倫敦郊外。
薬漬けの街ドラッグド・タウンの騒動は終わった。
しかし、これから起こる騒動の幾つかは、その数年後に待っている。

レイヴンさまはへんたいさん

オリジナルキャラクターとレイヴンの話
オリジナルキャラクターメイン
痛めの描写あり
今日もまた、新しい一日が始まります。
きっと、誰かにとっては変わり映えのしない一日でも、この私にとっては一生のものになる一日です。

まず、私は起きてすぐ、懐中時計を見るようにしています。
6時02分。健康的な時間帯に起きられました。

その次に、私は左腕を見るようにしています。
忘れがちな私は、左腕に今日やるべき、一番重要な事を書くようにしているのです。

【針 数百本程度調達 午後8時30分出発 西大通り直進 トネリコの廃屋】

「――よしっ!」

頬を叩き、ベッドから抜け、私はこの一日を始めました。



私が住んでいるのは、大通りから離れたところにある、小さな借家です。
まだ成人を迎えていない私には不相応な住処ではありますが、
音漏れ等、集合住宅では不都合な事もあります。

ただし勿論、集合住宅よりも値の張る借家です。
その借家の不都合が、テーブルの上に集約されています。

テーブルの上には、今日の仕事のメモの他、
昨日の内に用意された、二点の朝食がありました。

……豆の缶詰と、角砂糖の瓶。

受け入れがたいものはありますが――この豆の缶詰と角砂糖が、私の朝食です。
冷えた豆の味から、自身が置かれている困窮の度合いを痛感します。

ともかく、消化し終えた朝食をそのままに、左腕を洗い、服を着替え、
懐中時計が6時30分を差したその時に、私は仕事へ向かいます。


その道中。

「あ、あの! その、黒髪のおねーさーん!」

後ろから声をかけられたらしく、私は立ち止まり、振り返ります。

「……私、でしょうか?」

声の主は、十を数えたかどうか、というような少年でした。
表情は赤くはありますが、それは怒気によるものではないと思えます。
私はこの少年に、失礼はしていないようです。

とまれ、その少年は、私に用があるようです。

彼の言葉を待っていると、息を大きく吸い、上ずった声でその言葉が始まりました。

「なあ、もしかして、おねーさんって、オレの――クロト学園に通ってるヒトか!?」

「いえ。すみませんが、どの学校の生徒でもありません」

「そっか……いっつも同じ時間で、同じ道で会うから……つい」

「いえいえ。お気になさらず」

そこで、沈黙が落ちました。

あいにく、私は会話が得意ではありません。
穏便に会話を打ち切る言葉を探っていると、少年の方から切り出してきました。

「あの! 明日も、オレ、これくらいの時間にこの道にいるから!
 もし、その……また、会ったら!」

会ったら?

そんな疑問を浮かべるが早いか、彼は一陣の風となって去っていきました。

こんな体験は初めてです。
周囲の人々は、私を見てくすくすと笑いかけます。

『告白』とほぼ同じ事だと考えるのは自意識過剰ではないはずですが、しかし、
……明日のこの時間、私はどういう返事を返すのでしょうか?



7時34分、私は仕事場に着きました。

【モルタ縫製工場】

掲げられた看板の文字を確認し、従業員用の扉をくぐります。

そこに、年齢層が幅広い女性の方々がいらっしゃいました。
その年齢層の下限を広げるように、私がその輪の中に加わります。

雑談と噂話と陰口で騒々しい中、私は黙々と仕事の準備を整えます。

作業衣に袖を通し、点呼に加わり、持ち場であるミシン台へ移動します。

そして、持ち場を同じくする少女が、隣に立っていました。
同じ年頃の少女で、私よりずっと快活そうな印象です。

実際、彼女は明るい声で、私に話しかけてきました。

「やー! 久しぶり!」

「えっと……あの、」

「あ、覚えてない?
 ま、仕方ない仕方ない! んじゃ、今日もよろしく!」

その言葉が合図だったかのように、始業の鐘が鳴りました。

すぐに私たちの手と足が動き、一旦ミシンによる縫製作業に打ちこみます。
やがて、四肢が作業に慣れ始めると、隣の少女が会話を再開しました。

「ね、あのさ、やっぱアンタも親から働けってせっつかれた?」

「いえ。これは自分からです」

「そっか、自分から! 自立してるねー!
 アタシはね、ちょっと貧乏な家だったからさ、小学卒業したんだから『やれ』ってさー」

「……クロト学園、ですか?」

「そうそれ! そりゃね、教育費って結構な負担だけど、
もう少しガマンすれば王様がなんとかしてくれたのにね」

「中々、うまくいかないものですね」

「んっふっふ」

会話の流れに逆らって、彼女は不敵に笑いました。
自分でもわかる、怪訝な表情を向けますと、彼女は語り始めます。

「いやね、前まではうまくいかないなーって感じだったけどね、
 それがっ! 一週間前、この工場内で、ステキな人と出会ったの!」

「……どういった方ですか?」

「それはさ、大人でカッコいい、クリスっていう人でっ!
 すっごくタイプなの!
 これってさ、ココで働かなきゃ出会わなかったワケで、これって運命的な感じじゃない!?」

「あ、はは、そうですねー……」

「し・か・も、今夜! デートする予定までこぎつけちゃったのー! キャー!
だからさ、アンタも負けず劣らずステキなんだから、がんばっちゃいなよー?」

「まあ、そうですね……頑張ります」

「うぃっ!」

そんな他愛ない会話が、単純作業の疲労を和らげます。
あっという間に、時計の針が進んだように思えました。



7時49分、仕事が終わりました。
外はもう夜です。法力の明かりが、目に眩しい頃合いです。

仕事の間中は忘れていた疲れがどっと襲いかかり、今すぐにでも眠りにつきたいくらいです。
しかし、私には次の「仕事」があります。

その為にも、私は頑張ります。

私は終業後、まばらな人影に紛れ、箒で床を掃きます。

周囲の方々からは「小さいのに真面目だねぇ」とお褒めのお言葉をいただきますが、
それが少し面映ゆく、どこか罪悪感を覚えます。

床に落ちているゴミ類には、誰の所有権もないのは確認しておりますが、
その中から拾い上げた物を自分のものとするのは、少し心苦しくあります。

断ち切られた布、ほつれた糸、艶やかな髪の毛。
それらに紛れた、折れたミシン針を集める為、私は磁石を取り出しました。

ちりとりから吸い上げられた針を慎重に集め、袋に詰めていくと、すぐに量が取れました。
今までの分と合わせてこれなら、大丈夫でしょう。

懐中時計を見ます。8時24分。
いつの間にか、かなりの時間が経っていました。

慌てて外に出て、西大通りへと向かいます。
月は、針のように輝いていました。




私は、懐中時計も確認せず、高揚した心持ちで廃屋に飛びこみました。
まだ予定の時間ではないのでしょう、中には誰一人としていらっしゃいません。

一瞬深く落胆しますが、しかし、それならば「主」を迎えるにふさわしい場にしたいと存じます。

まず、床に散らばる枝葉と土を、箒によって屋外へ掃き捨てます。
次に、ベッドからマットを剥ぎ取り、内部に溜まった埃を叩き出します。
それから、蜘蛛の巣を払い、蝋燭を取り替え、腐臭を香で追い出し、使用済みの赤いシーツを新調し、床の血糊を雑巾でこすぎ落とし、鍵付きの地下にしまった拷問具を点検し――、

ありとあらゆる事を終え、それでも「主」はいらっしゃいません。

「主」は多忙な御方です。
もしかすれば、今宵に不穏な事が起き、その対応に追われていらっしゃるのかもしれません。
このような事は、恐らく今日だけの事ではないでしょう。

懐中時計の針をずっと目で追っている時間は、硝子が垂れる程に遅く感じました。
しかし、しかし。だからといって、この場を離れる事など、
私が今日を生きてきた希望を自ら断ち切るような、
いえ、積んできた過去全てを無に還すような、存在意義を否定するような、この世界の何物よりも無価値にするような、そんな事など、できませんでした。

今日が消耗されていく恐怖に震えながら、私はただじっと、廃屋で「主」を待ちました。

懐中時計の秒針は同じ道筋をぐるぐると回ります。必死に私はそれを支えに凝視しました。
ぐるぐると、ひたすらにぐるぐると、
私の胸中の不安の渦のように回ります。周ります。廻ります。輪ります。輪姦ります。
めぐりまわり、ふれまわり、まわりふるまい、くるくるぐるぐる狂狂と、時刻むごとにかちりと耳障りな音を立てて、嘲笑うような音で私を責め立てています。
宝物を壊したくなる程に壊れそうでした、私は。「ああ、神さま、ママ」と、歯を鳴らす小声は私のでした。わたしは「会いたいよぉ」とお願いします。あっ、間違えてる。これだと、願いは誤解されちゃう。「神さまとママじゃない、」そう、そう。わたしが会いたいのは、こんなわたしを産んだひとじゃなくって、

「レイヴンさま――」

それは、一日限りの奇跡で、明日から命を落とす呪文だったのかもしれません。

うずくまる私の髪を、迸る風が撫で回しました。

思わず懐中時計を落としました。それは確か、12時か0時を差していたと思います。

目を上げます。
死臭を伴った風が目を乾かし、埋め合わせの涙が溢れました。

緑がかった風が収まり、見計らった月光が、美しくカーヴを描く玉手にかかります。
月光は心細い光量にも関わらずその御身の雅な事は、旗幟鮮明に取れました。

透き通った白髪は、その長命さを物語り、
頭部の前後を貫通した針は、その不死性を表し、
切れ長の瞳は、魔性の眼光を冷たく宿し、
神の手を施された面差しは、嘲りすらも画とし、
首筋は細く、しかし力強く伸びやかで、
鎖骨の窪みは天上の盃と言っても過言ではなく、
雄大な肩は、生易しい包容力ではなくその強壮たるかを証明し、
筋と骨肉が調和を為す腕で、命を刈られていただいても、それは文句も後悔も無く、
引き締まった胸部が脈動する度に、見る者の心を留め、
連続して腹部、禁欲的に鍛え上げられたその張りは、むしろ他者の欲を掻き立てるようで、
中央に在す御臍は、心象の地平線を表出させる精神的重力を持ち、
豊かな腿には、狩猟動物のそれを思わせる力学的合理性が見出せ、
刃物の印象を受ける脛は、強かでしなやかで尊く存在し、
履物で隠された御御足は、その内の爪先までがどのようなものかを想うだけで吐息が出るものです。

レイヴン様は、その不変なる美貌と共に、私の目の前に降臨されました。
私を一瞥すると、ゆったりと口を開き、皮肉げに笑いかけました。

「随分と時間が経ったというのに、まだいたのか」

「はい。レイヴン様の為であれば」

「……理解できんな。だが、その不可解な意志が続くのならば、利用させて貰う」

「光栄でございます」

頭を垂れ、隠せぬ歓喜を声色にこめて、私はそう答えました。
私は、針の詰まった袋を取り出し、レイヴン様に差し出します。

「よろしければ、お納めください」

レイヴン様はその袋の口を開き、中の針を一瞥すると、すぐに判断を下されました。

良しグート

その言葉を得られ、私の胸中は喜びに満ちました。

レイヴン様はすぐにその袋の中身を左手一杯に取り出すと、左手を口に運び――、

思わず私は、そこから予想される行為から、慌てて目をそらしました。

「――ンぎッ、ギおぉ――ヂいぃ良ィイッ……」

その言葉が常と比べて声量がないのは、声を出す器官に損傷ができからでしょう。

恐る恐るレイヴン様を視界に映しますと、恍惚と震える御身と、少しばかり針が刺さった左手と、それと喉元――、

「ひっ」

私はその凄惨さに、己の首を抱えてうずくまってしまいました。
しかし、レイヴン様は私の腕をこじ開け、目を合わせられました。

貴様が仕える、貴様の主を見てみろひハァかヅかェる、ギァあのアうヂヲみぇいるォ

「は、ぃ……」

涙を浮かべ、私はレイヴン様のその痛々しい御姿を見ました。

喉には、血に混じって光る針が、その先端を輝かせています……。

レイヴン様は、針があちこちに刺さった口を大きく開き、幾つもの針で貫通した舌を見せつけるように、ねっとりとつぶやきました。

どうした? 貴様の尊ぶ主を見れないのか?おうジダ? ィあま゛オどうロヴあぅヴィウォみえニぁイノか?

私は――、

レイヴン様の事を、忌避する訳では決してありません。

ですが、凡俗の感性を持つ私にとって、時としてレイヴン様の自慰行為には、目を覆ってしまう事があるのです。

そして……その事について、レイヴン様はご存知の上で、そう問いかけられているのです。

「ご命とあれば……貴方様の、髄の奥まで拝見いたしましょう……」

レイヴン様の口の端が嘲笑に満ち、再生した声帯から言葉を紡ぎました。

「いずれはそうするつもりだが、今は、違う」

レイヴン様は、針の袋を私に付き返しました。
私はそれを両の手で受け取ると、レイヴン様は右手をこちらへ突き出します。

「手の中で、最も神経が通う場所はどこだと思う?」

「……手の平、でしょうか?」

「爪と指の間だ」

昂ぶりの籠る嘆息と共に、指が艶めかしく動きました。

「さあ……貴様の刺激に期待している」

「……承知いたしました」

私は、袋から針を一本取り出し、袋を懐に収めました。
そして、左手でレイヴン様の御手をとります。

生命を感じられない冷たさが、私の左手に圧し掛かりました。
そのままでは安定しない為、私よりずっと大きな薬指を、左手の全指を絡ませて固定し、
右手の針を――レイヴン様の薬指にあてがいます。

このまま針を押し出せば、当然指に刺さります。
それを我が身に置き換えると、自然右手がわななきました。

数秒の躊躇でしたが、レイヴン様の貴重なお時間を奪ってはならないと、心を決めて力をこめました。

刹那、

「――あァっ、ハあぁアアッ……! 気持ち良いッ! 気持ち良いなァ……ッ!」

嬌声を上げ、レイヴン様はがくがくと痙攣します。
私の右手には、勢い余り、先端が指の腹から飛び出した針があります。

その光景の傷ましい事は、私の心にも傷をつけるようでした。

ですが、レイヴン様はお喜びになっておられます。
役に立っている実感を覚え、私は恐れの心に充実を満たし、己を奮い立たせて二本目の針を持ちました。

薬指から小指に持ち替え、ひきつる身体に鞭打ちます。

「し、失礼、いたしますッ……!」

「あぁ、来い……! 私を貫いてみせろ!」

そのお言葉に促されるまま、二本目の針は小指に飲みこまれました。
今度は、針の全長が小指に埋まります。

「アアッ!」

レイヴン様は小刻みに小指を揺らします。

その歓喜の様に、従者の本望が満たされます。
それと同時に、嫌が応にも感覚を共有しようとする精神は、背筋に怖気を走らせました。

それでも――、
眼前に在すこの御方は、今日この時にしか逢えないのです。
従者の責を果たすのは、この時にしかないのです。

半狂乱の状態で、私は針を何本も手に取りました。

同じ箇所に同時に刺したり、軟骨と共に貫通させたり、
爪の真正面の刺しようが無くなった時には、横から無理矢理入れこみ、
勢い余り、下から貫いた時には、爪が針に押され、剥がれたりしました。

終いには、レイヴン様は私の右手を取り、強引に前後させ、針を指に出し入れするようになりました。

耳に染みこむ、よがった声、
液体が溢れ、はじけ、垂れる音、
鼻を刺す鉄の生臭い空気、右手に伝わる、肉を侵す感触、針の冷たさ、
死体はそうなのだろうという手の冷たさ、それが私の体温で温まるその実感、
視界には暗闇と、月光に照らされた血の照りと、
レイヴン様の御身が、私に覆いかぶさるようにいらっしゃいました。

その吐息の息苦しそうな様は、レイヴン様の本質的な美しさが様となっていて、
レイヴン様は私の行いによって快感を覚えていらっしゃっているようで、たまらなく充足いたしまして、
嗚呼、レイヴン様はそのように、平常の冷静さから考えもつかないあられもない御姿でいらして、
レイヴン様はその口元から幾遍も満ち足りたお言葉を私におかけになられ、それもまた私の心を満たし、しかし、私の手は随分とレイヴン様の血で汚れ、いえ、血で洗われていき、それは私の腕を伝って私の衣服に染み出て、服が濡れてまとわりつくその感触は抱擁のようで、
私は必死にレイヴン様を刺しました。その血と私の肌が触れる度に、私の忠誠は表出されていきます。レイヴン様は何度も私の針を受け入れていただき、それが言葉にも表せないほどに光栄な事で、堪らなく想いが込み上げていき、私はやがて悲鳴のような驚喜の声を、レイヴン様の愉悦の声と共鳴するように吐き出し、レイヴン様はその左手から何本も針を生やしてもなお懇願し、それにお応えする為に私は己の心に刺すように針を刺し、差し、射して挿して注しました、こんなに、どろどろと血を撒き散らして、レイヴン様はそれでも声を上げました。無論、それは悲痛ではなく極上を猛る声で、それが私の心を尚更に掻き混ぜて混沌にしていき、レイヴンさまはより高まり、レイヴンさまのそのお声は私をゆさぶり、レイヴンさまはわたしの手を前ごさせてレイヴンさまの肉をかき乱しレイヴンさまは何どもあえがれてレイヴンさまはわたしの頭にひびきわたって――、

心が、まひしたようで、

それきりもうろうとした頭でぼうと立ち、それでもはりをわすれないようにしていると、
ふくろの中からは、はりがもうなかったのです。

とおい所から、声がしたようにきこえました。

「――じゅうぶんだな」

レイヴンさまです、たぶん。

レイヴンさまはわたしのようすを見ると、わたしの手をひいてくださり、ベッドによこにさせました。

「何ともよわい子どもだ。このままではつかえないな」

つめたいわらい方をして、レイヴンさまははりでいっぱいの手をわたしの目のまえにさし出します。
それをどうしたいのか、わたしは分かります。

わたしは、手にいちばん近い、自由になるところで、レイヴンさまのはりをぬきました。

そんなわたしを見て、レイヴンさまはおどろいたようでした。

「口でぬくとは、思わなかったが……まあいい、すべてぬいてみろ」

わたしはひたすらにはりを口にくわえ、レイヴンさまの手をあらわにしていきます。
その間じゅう、レイヴンさまはただじっと空を見ていらっしゃいました。

そして、ぜんぶはりがぬけると、レイヴンさまはしつもんされます。

「今、何じだ?」

かい中時けいを出して、3時4分とよみ上げました。

「3時20分か。ころ合いだ」

レイヴンさまは、わたしの手にかみをにぎらせました。
それから、わたしに手をかざすと、ちでびしょびしょのわたしのふくを、ほう力で白くしました。

「――ありがとうございます」

わたしはあたまを下げ、レイヴンさまにお礼をのべました。

レイヴンさまはわたしを見ると、口をつりあげてわらいがおになります。

「ゆくぞ」

その三文字で、わたしの心はくるしくなりました。
でも、わたしは下のものです。とめることはできません。

さいごまで、わたしはレイヴンさまを見たいですが、
それをがまんして、あたまをさげました。

「本日は、ありがとうございました。おきをつけて下さいませ」

それをきいて、わたしを見もせず、レイヴンさまは風にきえました。

それが、わたしとレイヴンさまの、今日さいごのことでした。





わたしは、わたしの家にかえります。

まよ中です。ほう力でてらされたみちでも、とても心ぼそいものでした。

そのと中、

「おい、そこのじょうちゃん! とまれ!」

いきなりうでをつかまれて、ふりかえるとけいさつがいました。

「わああああああああ!」

つかまる。つかまってしまう。
それがこわくて、わたしは手をふりまわしました。

「あああああっ!」

「おい、あばれるなっ!」

そこに、べつの声がわりこんできました。

「――そのあたまのよわいガキじゃない! 大人だ! おってるのは大人だよ!」

「い、いやでも、これくらいの年のがひがいしゃででたなら、ほごしなきゃまきこまれ――」

「やああああああああああ!」

つかむ手がゆるんだ時に、わたしがむりやりかけだします。

「こら、まて!」の声がとおくきこえて、でもおってきません。

わたしは走っていえにとびこみました。

時けいを見ます。5時6分、わたしがおきる時間まで、1時間もありません。

わたしはあわてて明日のしたくをととのえます。

戸だなから、豆のかんづめと角ざとうをテーブルの上に出し、しごとのメモは今日のままにしておきます。

それから、レイヴンさまからもらったかみをもとに、左うでにあしたのことをかきました。

これで、今日のすべてはおわりです。

わたしは、したくをおわると、すぐにベッドの中に入りました。

きっと、今日のゆめは、しあわせなゆめなのです。




今日もまた、新しい一日が始まります。
きっと、誰かにとっては変わり映えのしない一日でも、この私にとっては一生のものになる一日です。

まず、私は起きてすぐ、懐中時計を見るようにしています。
6時丁度。健康的な時間帯に起きられました。

その次に、私は左腕を見るようにしています。
忘れがちな私は、左腕に今日やるべき、一番重要な事を書くようにしているのです。

そこに書かれた事を読みこむと――、

「……凄く、難題ですね」

これは困りました。

独力ではどうにもできませんし、
お金では合法的に解決できません。

どうしたものか――、

「――よしっ!」

それでもとりあえず頬を叩き、ベッドから抜け、私はこの一日を始めました。



私が住んでいるのは、大通りから離れたところにある、小さな借家です。
まだ成人を迎えていない私には不相応な住処ではありますが、
音漏れ等、集合住宅では不都合な事もあります。

ただし勿論、集合住宅よりも値の張る借家です。
その借家の不都合が、テーブルの上に集約されています。

テーブルの上には、昨日の内に用意された、二点の朝食がありました。

……豆の缶詰と、角砂糖の瓶。

受け入れがたいものはありますが――この豆の缶詰と角砂糖が、私の朝食です。
冷えた豆の味から、自身が置かれている困窮の度合いを痛感します。

朝食を消化する最中、テーブルの上にあった、朝食とは別に用意された仕事用のメモを見ます。

【6時30分出発 モルタ縫製工場】

それから、朝食を終えた後、左腕を洗い、服を着替え――、

その最中、ドアのベルが鳴りました。
時間の余裕は、一応あります。

私は玄関へ行き、ドアを開けました。

「どなたでしょうか?」

そう言いましたが、それ以前に服装で分かりました。

「――警察の者です」

「わああっ!」

思わず、声が出ます。

……もしかすれば、以前犯罪を犯したのかもしれません。
あるいは、私とレイヴン様に関係性があると突き止められたのかもしれません。

気取られぬよう、玄関脇の火掻き棒に手を出しました。
場合によっては、自分か、あるいは相手を殺さなければなりません。

そう緊張する私ですが、それは杞憂に終わりました。

警察は、手に持った紙――鉛筆で描かれた、大人の女性の肖像画を見せながら、質問を投げかけます。

「こちらの女性、クリスティーナというものですが、
女性に見覚え、または、どこにいるかご存知ないでしょうか?」

「いえ……すみません、存じ上げておりません」

どうやら、私を犯罪者としてつかまえるようではなかったようで、ほっと胸を撫でおろします。

警察は、私の姿を検分し、渋い顔をして告げました。

「実は、このクリスティーナという女性は犯罪者でして――、
昨日の夜、モルタ縫製工場で働く少女を殺害した容疑に問われております。
……被害者は丁度、お嬢さんほどの年頃でした。お気をつけてください。
それでは、失礼いたします」

警察は、一礼して次の家へと向かいます。

「……大変ですね」

ぽつりと他人事のように――実際、他人の事として、私はつぶやき、家の後片付けを行いました。

懐中時計が6時30分を差したその時に、私は仕事へ向かいます。



その道中。

「あ、あの! その、黒髪のおねーさーん!」

後ろから声をかけられたらしく、私は立ち止まり、振り返ります。

「……私、でしょうか?」

声の主は、十を数えたかどうか、というような少年でした。
表情は赤くはありますが、それは怒気によるものではないと思えます。
私はこの少年に、失礼はしていないようです。

とまれ、その少年は、私に用があるようです。

彼の言葉を待っていると、息を大きく吸い、上ずった声でその言葉が始まりました。

「えっへへ……その、昨日の約束通り、来てくれたんだな!」

「えっ?」

困惑する私の様子に、少年は疑問を表情に浮かべて、それをぶつけました。

「まさか……昨日の約束、覚えてないのか?」

少年のもっともな疑問に、答えました。



「私の記憶、一日しか持たないんです」



「えっ……?」

彼は、唖然としました。

「一日しか、覚えられないって……、
じゃあ……昨日の返事も、聞けないんだな……」

「返事……と、言いますと?」

「その……告白、の……」

……これは、悪い事をしました。
昨日の私は何をやっていたのでしょう。
本来ならばこれはすぐさま断るべきです。

しかし――これは好都合でした。

私はにっこりと、満面の笑顔を粉飾すると、少年に返します。

「私――元気な人、好きですよ?」

「え……?」

真に慕う方は――元気になるのは、苦痛を得た時のみですが。

「だから……こんな私ですが、付き合ってくださいますか?」

「う……うん!」

「では、西大通りを直進した所に、トネリコの大木の近くに廃屋があるので、
夜遅くになると思いますが――待っていただけませんでしょうか?」

「もちろん! オレ、学校終わったら行くよ!」

「ありがとうございます。嬉しいです」

本当に、嬉しいです。



今日、レイヴン様に用意するものは、【使い捨てのできる運び屋】でした。

Cold Word

風邪をひいたレイヴンと看病するイノの話
カップリング要素あり
三月二七日。
元ドラッグド・タウン付近の地下に設けられた、拠点の一つ。
そこにレイヴンはいた。
いつもの黒ずくめの服装ではなく、新品の白衣に白いゴム手袋に白いゴム長靴と、白ずくめの服。
そして、もはや彼の体の一部ともいえる頭の棘すらなかった。
そのいつもと違う姿の彼は、やはり様子もいつもと違う。
どことなくワクワクした様子で、満面とはいえないが笑みを浮かべていた。
スキップすらしそうな足取りで、レイヴンは通路をしばらく歩く。
その歩みは扉の前で一時停止し、彼は勢いよく扉を開けた。
扉の先は、保管庫だった。
棚に並べられた試験管やケースには、得体の知れない液体や奇妙な肉塊が収められている。中には宇宙的(コズミック)な色をした冒涜的な液体やら、なにかに奉仕していたかもしれない黒い肉塊やらもある。
そんなものには目もくれず――というより目にしないようにして、レイヴンは目的の棚へと歩を進めた。
そして目的の棚に着き、そこに置かれた試験管を手にとる。
試験管には、見た目にはなんの変哲もない透明な液体を孕んでいた。
だが、彼の目的は紛れもなくその液体。
その中身は、彼が独自に開発した新種のウィルスであった。
「あの男」の持つ書物を色々と読み進め、あらゆるウィルスや細菌を調べ上げ、試行錯誤を繰り返し、望みのものを創り上げても培養に幾度となく失敗し、それでも諦めず努力し手にしたのがこのウィルスである。
ではこのウィルスでなにをするのか。
それはイリュリア連王国に病の恐怖を撒くこと――ではなく、ある危険人物を殺すため――でもなく。
ただ単に、苦しみたいだけである。
苦しみたいだけで何年もかけてこんなことをするあたり、彼は真性のマゾヒスト、そしてマゾヒストの鑑と言えよう。
……暇人とも言えるが。
ともかく、何年もかけてまで創ったウィルスはそんじょそこいらのウィルスとは違う。
レイヴンの不死能力でも殺し切れない繁殖力と毒性と、彼以外の人間に感染しないという特性を持たせた特別なウィルスだ。
そして、それとは別に抗ウィルス剤も創ってある。
緊急の任務が来たり、万が一にでも他の人間に移った場合のためのものだ。
この抗ウィルス剤は飲んで一時間ほどで効く即効性に重点を置いたもので、効果は試験体で実証済みだ。
「フフフ……フハハハハハッ!」
これまでの努力と、これから得られる苦痛を思い、思わず哄笑する。
そして口にウィルス入りの液体を含み、嚥下した。



三月二八日。
「あーっ、ったく……あのヤロウ、よりにもよって今回だけすっぽかしやがって……。
せっかく成金のヤツと約束したってのに……アタシに鉢が回ってきやがったじゃねぇか」
空間転移で拠点に移動し、開口一番イノがぼやく。
昨日、レイヴンに「あの男」から緊急の任務が入ったのだが、彼と連絡がつかなかったために彼女が代わりとしてその任務をこなしたのだ。
「今度会ったらトコトンなじってやる……マジメくさってるクセに、こういうときだけ意地悪くすっぽかして――ん?」
イノの耳に、何者かが咳きこむ声が届く。
その何者かの正体を探るため、しばらく沈黙し――、
再び咳の音。その声を脳内で知る限りの人物と当てはめていき、ついに答えに辿り着いた。
「レイヴンがいるのかよ……」
舌打ちをし、今すぐ文句をつけるため声の元へと歩み寄る。
声の元は、彼の自室だと知れた。
扉を開け、すぐに彼女が怒鳴り散らす。
「おいレイヴン! なんで昨日「あのお方」の呼びかけに応じなかったんだよ!」
彼の部屋に、イノの大声が響いた。
それでも、返答はない。
怪訝に思った彼女は部屋からレイヴンを見つけだそうと視線を巡らした。
そしてようやく、部屋の隅に置かれたベッドの毛布が盛り上がっていることを発見し、ズカズカと近づく。
イノは毛布に手をかけ、怒りのままにそれを取り上げた。
「おいテメェ! 無視してんじゃねぇよ!
――?」
そこで、彼女が眉をひそめる。
毛布によって隠されていたレイヴンの姿は、珍しく白衣をまとっていた。
だが、それはどうでもいい。
「げほっ……がはっ……イノ、か……」
かなり弱った様子で、咳きこみながらレイヴンが返事する。
普段は青い頬に紅を差し、目の焦点も若干合っていない。
そんな彼の様子を見て、イノは思わず問いただした。
「おい……カゼか?」
「……ああ、そんなところだ……」
「テメェ、不死者なんだろ?
なら病気にもかからねぇハズだろ。どうしたんだよ」
「……確かに私は不死者だ。だが……その再生力を上回るウィルスを……ゲホッ――開発したんだ……。
一応、私以外にはかからないよう性質を変えた……安心するといい……」
「で、そのウィルスが昨日すっぽかした原因かよ……。
テメェの自分勝手のせいで、アタシがムダに働くコトになったじゃねぇか! どう落とし前つけてくれるんだよ!」
「……抗ウィルス剤も開発したが……どうにも、上手く作用しなくてな……すまなかった」
珍しく素直に謝るレイヴンに、妙な気味の悪さを覚える。
だが、おののくことはなく、さらにイノが問いつめた。
「じゃあ、このままくたばるのか? そうなりゃこっちとしちゃ万々歳だがな」
「そうなれば、私としても喜ばしいが……多分治るはずだ……そのうち、体内で抗体でも生成されるだろう……」
「そりゃおめでてぇな。んじゃ放っておいても勝手に治るんだな」
「ああ……そういうことだ――かはっ、けほっ、ガハッ……!」
激しく咳きこむレイヴンに冷ややかな視線を投げかけ、イノは彼を見捨てるように部屋を出る。
「ったく……珍しくバカやりやがって……」
ため息を吐き、イノもまた自室にこもった。
帽子とブーツを脱ぎ捨て、ベッドに倒れこむ。
そのまま寝ようかと思ったが、レイヴンの咳きこむ音がそれを邪魔した。
それに、彼の病気について考えると睡魔が退いていく。
ウィルスはレイヴンにしかかからないと言ったが、もし自分にもかかったら? このまま長引いたとしたら、彼が負うはずの任務が自分に回るのではないか?
そんな風に考えて、イノは髪をぐしゃぐしゃに掻き、
「あーっ、もう!」
ベッドから跳ね起き、レイヴンの部屋に乗りこんですぐ宣言した。
「看病してやる! さっさとそのクソウィルスを殺してやれ!」



拠点には、必要最低限のものしか置いていない。
資料や実験道具、机やイスはあるものの、食材や人体用の温度計などといった生活感のあるものはほとんどなかった。
「……ま、こんな狭けりゃ置き場所に困るしな」
なにか役に立つものはないかと、拠点をあらかた探し回ったイノがため息を吐く。
「こうなりゃ、シャバに出て買いこむしかねぇか……」
金なら、男を惑わし貢がせた金がいくらかある。
財布の中身を確認し、充分あると判断したイノはさっそく拠点から地上へと空間転移をとりおこなった。
座標は、人気のなさそうな森深く。
その場所を強くイメージし、法術を編み、イノの姿が拠点から掻き消えた。
そして、イメージ通りの場所に、彼女の姿が凝固する。
一応、辺りを見回した。どうやら空間転移の現場を見た人間はいないようだ。
とりあえず最初の関門をクリアしたイノは、森近くの小さな街へと足を運ぶ。
よくここを空間転移の目的地としているため、近くの地理には詳しい。
目立った目印のない森の中を、迷うことなく進んでいく。
さしたる障害もなく街に入り、そこでイノははたと気づいた。
「……カゼとか、病気にかかったときって、どういった処置をすればいいんだ……?」
彼女の脳内には、家庭の医学に関する情報は一切含有されていない。
幼少期から現在に至るまで、時間移動の特異体質故か病気などかかったことがなかった。
その上、病人を看病する機会など全くないイノにとって、風邪に関する基本的な情報すら知らない。
医者に訊けば答えてくれるだろうが、唯一知っているあの生物学的に変態的な医者に頼るのはなんというか人間の尊厳の根本的な部分に関わる深刻な問題を引き起こす気がする。
しばらく立ち往生し、ぐるぐると悩んでいると――、
「……君は……いつかの赤い人……?」
「ん……?」
呼びかけられ、振り向いた先には女が立っていた。
外ハネの赤毛に、血色の悪い肌。背後には鍵にしか見えない斧が、困惑した表情で女を見下ろしている。
見覚えはある。が、面識が浅いせいか名前が出てこない。
硬直するイノに、女がボソボソと独り言をつぶやいた。
「……更年期の……ボケの始まりか……」
「誰が更年期か!
そうか……テメェ、前にこのアタシのコトを三十路っていった鍵女じゃねぇか!」
「名前が出ないのはもう手遅れ……後のまつり縫いね……」
「さっきのでもう分かったよ! テメェはアバっていうんだろ!」
「正解……」
これまたボソボソと喋るアバ。
イノはフン、と鼻を鳴らす。
「それで、なんでアタシに声をかけたんだ?」
「君は……あちこち行ってるらしいから……。
それで……訊きたいことがある。
私の夫……体を、造れる人……探してる」
知るか、と一蹴する直前。
イノの頭上に架空の電球が光った。
「あぁ、それなら心当たりがあるな」
「……本当?」
不審げな様子を見せるアバに、イノが提案する。
「教えてやってもいいけどよ……ギヴアンドテイクって知ってるか?」
「私に知らないことはないわ……」
「それならなおさら好都合だ。
じゃあ、コッチが教えてやるかわりに、ソッチが教えてくれ」
「私は……何を君に教えるの……?」
「あー……カゼひいたヤツの看病の仕方だ」
「…………」
「知ってるよな?」
「……………………」
アバはしばらく考えるも、時間が過ぎるごとにどんどんと顔が険しくなっていく。
その様子を見たイノは、思わず声をかけた。
「おい……まさか、知らないのか?」
非難を帯びた声に、アバが頭を振って否定する。
「私に知らないことはないわ……そ、そんなこと、簡単よ……」
「そうか。なら教えてくれよ」
「それは――」



拠点に戻ったイノの耳に、レイヴンの咳の音が聞こえる。
五回ほど咳が続き、さらに数秒後に再び咳。
その様子を見て……いや聞いて、イノが不安に駆られる。
「あいつ……ますます具合悪くなってねぇか?」
確か彼が言うには、時間が経てば抗体ができるというのだが……。
大きな買い物袋を机に置き、袋の中から小箱を手に取りレイヴンの下へ急ぐ。
扉を開け、目に飛びこんだのは――毛布に若干の血をつけた、彼の姿。
「おいっ! レイヴン!?」
「大丈夫、だ……心配するな……げほっ、げほっ! ただ……咳をし過ぎてッ……ガッ! がはっ! ……喉を、傷つけて……血がほんの少し出ただけだ……ぅっ……」
「もういいっ、これ以上喋んな!」
さっき見たよりずいぶん憔悴しているようだ。
早急に何らかの対処をすべきだと判断し、イノは小箱からなにかを取り出す。
「ホラ、風邪薬だ。
たぶん、なにもしないよりはマシだろ?」
「まあ、そうかもしれんな……」
イノから手渡しされた風邪薬を掌に乗せ、レイヴンが彼女に向く。
「すまないが、水をくれ」
「わかった。水だな。ちょっと待ってろ」
そう言うと、イノは部屋から出てコップと水を調達し、部屋に戻ってレイヴンに渡した。
彼は震える手でそれを受け取り、コップのフチに口をつける。
「あ――」
だが、力がうまく入らないのか、レイヴンの手からコップが滑り落ちた。
体や毛布に水がかかり、イノが「ったく」と悪態をつく。
「後で替えてやるから、とにかく今は薬を飲め」
「だが……今はどうにも、体が……」
「うまく動かなくて水も飲めない、ってか?
じゃあ、先に薬を口に入れてろ」
「……?」
言われた通りに彼が薬を口に含むと、イノが身を乗り出して彼の口に手を突っこむ。
「モガッ……!」
「噛むなよ」
それだけを忠告して、イノが法術を紡いだ。
水の法術。
それはごく少量だけ彼の口腔に発現し、無事発動したことを確認するとイノの手が引っこむ。
レイヴンはむせないように水を飲みこみ、薬を胃の中に収めた。
「……気遣いは、ありがたいが……コップにストローをつける程度でいいぞ」
「ねぇよ。拠点にストローなんざ」
「……そう、か……そうだな……」
納得するレイヴンから離れ、イノが口を開く。
「それじゃ、テメェの毛布と服の替えを用意するな」
言いつつ、イノがクローゼットを開いた。
そこには服と毛布が当然ある。が、少し気になる点がある。
「おい……この服なんだ? なんか中に棘がしこまれてるんだが」
「それは……趣味だ」
「じゃあ、この金属でできた服は……」
「熱した後、着るものだ……」
「……じゃあこれはなんだ?
……この、あちこちにリボンついてて、すみずみまでフリルの、」
「それは追求しないでくれ……私としても、その扱いには困っているんだ……」
レイヴンが頭を毛布に埋め、その服にまつわる過去のフラッシュバックが脳裏に閃く。
イノはそっとしておこう、と選択し、とりあえず適当な服と替えの毛布をクローゼットから取り出した。
レイヴンから毛布をひっぺがし、替えをあてがう。
そして彼の濡れた服に手をかけたとき、レイヴンはわずかに抵抗の色を見せた。
「これくらい……自分で、できる……げほっ」
「病人は病人らしく、他人に任せてろ……」
「待っ――」
制止しようとする腕を振り解き、イノが彼の服をひっぺがす。
服の下から露わになった体を見て、彼女は首をかしげた。
「……お前、傷ができても跡形なく治るんじゃなかったか?」
「ああ、これか……」
胸と腹、背にある傷をなぞり、レイヴンが少しだけ喋る。
「昔……私が、不死になった時……かはっ……できた傷だ……」
「そうかよ。にしても――」
イノが彼の身体をじろじろと見つめ、ぽつりとこぼした。
「――意外と、いい体してんじゃねぇか」
ざっ。
その独り言に過剰に反応したレイヴンが、病人とは思えない速度でベッドの上を後ずさる。
彼の様子に、イノが顔をしかめた。
「別に、ンな反応しなくてもいいじゃねぇか」
「……先程の言動は、明らかに私に毒牙をかける気の言動だろうが……」
「違ぇよ。ただ単に素直な感想をいっただけだ」
「……素直な? ……お前が……? ……お前が、私を……いいと……?」
段々と赤面していくレイヴンに、イノは慌てて言い訳する。
「ち、違ぇ! それも、違ぇぞ!」
「……どう、違うというんだ……?」
「こう……なんつーか……と、とにかく違うモンは違うんだよ!」
なんとか勢いで誤魔化して、イノが扉に近づいた。
「服は置いといたからな! 自分で勝手に着てろよ!
アタシはメシつくっとくから、その間に少しでもウィルス殺しとけよ!」
扉を勢いよく開け閉めし、イノが部屋から一時退散する。
買い物袋を取りに行き、それから拠点にある台所に足を踏み入れた。
「台所」と名がつくものの、その部屋には法力式のコンロと洗い場くらいしかない。
それでも、これから作ろうとしている料理であれば充分だ。
イノは買い物袋から食材や調味料を取り出し、机に並べていく。



数十分ほど経った頃。
薬が効いたのか、咳の回数は前よりも少なくなっていた。
ただ、薬は咳に対しての効果しかないのかもしれない。
脳を苛む熱や、気分の悪さは相変わらずだ。
「……くっ……」
服を着替えることにすら数分もかけ、自分が不調であることを思い知らされた。
早く体調を戻さなければ、「あのお方」の下で働くことすらできない。
そう考えると、この身に蔓延る苦痛を快楽として受け取れなかった。
「おーい、できたぞー」
言いながら、イノが扉を開けて入ってくる。
手にしている盆の上には料理が載っていた。
その料理を見たとき、レイヴンが眉をひそめる。
「……それは?」
「ん? 訊くまでもねぇじゃねぇか」
土鍋の中がよく見えるようほんの少し傾けて、イノが答えた。
「お粥だよ」
「……粥というのは、ここまで混沌を体現した料理だっただろうか……」
確かに、土鍋の中に見える白い粒は米だろうが、イレギュラーな要素がその物体を「お粥」と呼称させることを留まらせる。
ゴボウやニンジン、卵やヤマイモはまだいい。――いや、大体が皮つきな時点でよくないかもしれないが、それよりも。
ウナギ。スッポン。更にはハチの子。
米に混ざっている様々な食材が、そのままの姿で投入されていた。
しかも、このラインナップ――、
「……これは風邪の罹患者向けというより、ある症状にかかっている男向けの料理じゃぁないのか……?」
「そうか? こういうのが、体力がつくんだろ?」
「体力というか別の力がつくな。というか、結局貴様は私を襲うつもりなのだとこの件で確信した」
「まぁとにかく食っときゃいいだろ。なにも食わないよりはよ」
「……いや……私は遠慮しておこう……」
「人肉とかは入ってないから、遠慮せずに食え。というか食わせる」
「ちょっと待て……病人に残飯処理をさせむグァッ!?」
抗議の声が、米とハチの子を乗せたスプーンによって遮られた。
苦い顔をし、吐こうとするが――それより前に、味覚が捕らえた感覚を素直に表現する。
「……旨い?」
「味見はしといたからな。
んじゃ、残さず食っとけよ。アタシは他に色々と用意するコトがあるからな」
「あ、ああ……」
土鍋とスプーンを押しつけられ、レイヴンはのろのろとスプーンを口に運ぶ。
見た目や、食べにくいところや生の部分があったりするところがネックだが、食べられないことはない。
……こういったものは、いったい何十年――いや、何百年ぶりだろうか。
不死であるが故、何十日も食事を摂らないこともある。そして仮に摂ったとしても、野生の獣や草をただ単に焼いたものが大半で、まれに店で食事をしていた。
金銭の授受もせず、他人がつくった料理を口にする。
そんなことなど、これからずっと経験できないことだと思っていた。
「どうにも……弱っていると、妙な事を考える」
つぶやき、最後の一匙を口にし、咀嚼する。
そして嚥下した瞬間、また扉が開いた。
そちらに目を向けると、なぜかネギを持ったイノが姿を現す。
ネギはどうやら焼いてあるらしい。コゲ目があちこちにあり、香ばしい臭いが立ち上っていた。
「……そのネギを、どうするつもりだ……?」
当然浮かんだ疑問を、イノにぶつける。
彼女はネギを手持ち無沙汰に振りつつ、返答した。
「ケツにぶっ刺す」
ざざざっ。
前回よりもずっと俊敏に、レイヴンが後ずさった。
イノは開いた距離を詰めるため、一歩踏み出す。
「しょーがねぇだろ。こうすると治るって教わったんだからよ」
「その知識が間違っているという可能性はないのかッ!?」
「じゃあ間違ってないって断言できるのか?」
「それは……断言できないが……。
とにかく! そんな治療方法があるとしても、私はそれに頼ることはしないぞッ!」
「テメェがイヤでも、アタシとしてはさっさとテメェを治したいんだよ」
「待て! 近寄るな! というより、何故に法術を紡いでるッ!?」
「どうせ、テメェが抵抗するだろうと思ってな」
「普通抵抗するだろうが!
そもそもその笑い顔はなんだ! 本当に私を治すつもりなのか!?」
「ああ治すつもりだ。ついでにテメェの処女を奪ってやる」
「奪ってなんになるッ!?」
「自己満足する。
アタシらは戦うたびさんざんあの紙袋に犯されてんだ。なのにテメェらだけ戦うときにはケツの穴に気を配らなくていいよなぁ?」
「ただの八つ当たりッ!?」
「まぁいい。とりあえず、止まれ」
「なっ――」
イノから放たれた拘束の法術で、レイヴンの後退が完全に止まる。
彼女は一気に彼に近寄り、ネギの持たない手でズボンに触れた。
「――待てッ! 待てえええぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇぇッ! 法術っ、法術を解ッ、解きッ――!」
悲痛な断末魔が、拠点に響き渡る。



「まー、こんぐらいやりゃ良くなるだろ」
楽観的につぶやいて、イノが時計を見やる。
今は、午後八時。
夕餉やその他諸々が済み、彼女が一息ついた。
彼女は自室のベッドに腰かけ、知らぬ間に溜まった疲労に心地よさを感じる。
――結構、動いたんだな。
自分の掌を見つめて、そう思う。
最初は、ただ単に「レイヴンが働かなければ自分が働くはめになる」と考えて動いていた。
しかし、世話を焼く内に段々と別の考えが顔をのぞかせてくる。
「――けっこー苦しがってたなぁ」
どの場面を思い浮かべているかは分からないが、ゲスな笑みを浮かべてイノが独りごちる。
彼女はブーツを脱ぎ、帽子を脱ぎ、毛布をかぶって眠る体勢に移った。
疲労はすぐに彼女を夢の世界へと誘い、ゆっくりと目蓋を閉ざし――、
目を開く。
「……声」
レイヴンの声が、彼女を睡魔から引きずり上げた。
イノはすぐさま起きあがり、ブーツを履いて彼の下へと急行する。
勢いよく扉を開き、彼女が開口一番問いを発した。
「おいレイヴン! どうした!」
「……がはっ、ガハッ! ゴホッ!」
返事もせず、咳を何度も続けるレイヴン。
どうやら、症状が悪化したらしい。
「……さすがに、脅したのはマズったか……?」
歯噛みし、現状確認のため彼の口にくわえさせた温度計を見る。
「……41度!? さっき見たときは39度だったってのに……」
――こうなると、マズいんじゃないか?
イノが焦り、きびすを返した。
「待ってろ! 今、なにか冷やすモン持ってくるな!」
言い残し、イノが台所でタオルを濡らし、絞り、持って帰る。
タオルをレイヴンの額に乗せ、イノは彼に顔を寄せた。
「他に、なんかやって欲しいコトってあるか?」
「……いや……ゴホッ、げほっ! ……ない……」
だが、このまま放っておくわけにはいかない。
そうだとしても、やることが見つからない。
苦い表情のまま固まるイノに、咳が収まったらしいレイヴンが呼びかけた。
「……お前、は……」
「なんだ? どうした?」
虚ろな目でイノを見据えるレイヴンは、彼女の腕に手を伸ばす。
彼女はそれに応えるように手と手を絡め、じっと彼の目を見つめた。
「どうしたって言ってんだろ」
「……世話をして、貰って……感謝する……」
「お、おう……」
真正面から感謝の言葉を伝えられ、面映ゆくなり後頭部を掻く。
「い、いったいどうしたんだよ……?」
「……お前は、」
「だから……なんなんだよ……」
今までのレイヴンと違う様子に、イノが怪訝な顔で問う。
すると、彼はいきなり声を小さくし、なにかを囁いた。
「…………」
「おい、なにか言いたいならはっきり喋れ。
いくら病気だからってよ、そこらへんちゃんとしねぇと伝わるモンも伝わんねぇぞ?」
「……だ……」
「だ?
一文字で伝わるかよ。夫婦じゃあるまいしよ」
「……き……だ……」
「アァ?」
焦れったく感じたイノが、彼に耳を寄せる。
レイヴンの口とイノの耳が触れるほど近くで、彼の言葉がようやく彼女に伝わった。

「綺麗だ」

…………。
……………………。
………………………………。
「え……?」
最初は、理解のために。
「あ……」
次に、困惑のために。
「ええええ……?」
そして、実感のために。
「――うぇええええぇぇぇぇえぇぇぇえぇぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇッ!?」
最後に、悲鳴のために。
彼女は時間を割き、そして脱兎がごとく彼から逃げ出した。
「な、なななんなんなんなんだッ!?
え? アイツ、なんて言った? なんて言ってたッ!?」
――綺麗だ。
「うあああああああぁぁぁぁぁっ!」
イノが赤面し、自室に戻り、ベッドに飛びこみ顔を枕に押しつけた。
――どういう意図があって、あんなコトいったんだよ!?
策略か。本心か。いや策略に違いない。
そんな感じに決めつけて、イノが羞恥を激怒に変えて立ち上がる。
ドタドタと足音を立て、彼女が扉を開けて怒鳴り声を発した。
「レ、レイヴンッ! テメェ、よくも、お、おちょくりやがって……!」
それに応答する言葉は――なかった。
ベッドの上では、すでに眠りこんだレイヴンが穏やかな寝息を立てていた。
そんな風景を見て、怒気を孕んでいたイノのオーラが消沈していく。
「……なんだよ」
気の抜けたイノは、そのままずるずるとへたりこんだ。
「いったい……なんだってんだ?」
緊張が解けたその瞬間。
忘れていたはずの眠気が襲いかかり、目蓋がゆっくりと閉ざされていく。



「――ノ――イノ――イノ!」
「ん……」
体を揺さぶられ、イノは微睡みから解き放たれる。
目を開くと、「あの男」がいた。
「あ……テメェは……――ッ! い、いえ、貴方様はッ!」
「心配だったから来てみたんだ」
そう言って、イノに微笑みかける「あの男」。
「レイヴンが珍しく呼びかけに応じなかったからどうなっていたかと思ったんだけど……。
無事だったんだね」
「いえ……詳細は省きますが、風邪のようなものにかかっていまして……」
「え? 風邪?
でも、どうやらもう治ってるみたいだ」
「あの男」がレイヴンに目を向け、イノもつられて彼の様子を見た。
どうやら「あの男」の言う通り完治しているようだ。咳も熱もない。
二人が見つめる中、なにも知らないレイヴンが起き上がった。
「――くっ……朝か――?――わっ、我が主ッ!?」
「あ、ああ。おはようレイヴン」
「せ、先日は申し訳ございませんでした!」
寝起き直後で土下座の姿勢をとった彼に、「あの男」が声をかける。
「その事はいいよ。
僕はあと少ししたらまた『バックヤード』に行くね。それじゃ――」
「おいレイヴン! テメェやっと起きたか!」
「あの男」の前であるにも関わらず、イノが紅顔しながら責め立てた。
「昨日はアタシにフザケたコトぬかしやがって!
完治したからにはもう容赦しねぇぞ! ネギ百本ケツに詰めこんでやる!」
その言葉に、レイヴンは小首を傾げる。
「巫山戯た事、だと? 何の事だ?」
「ごまかしてもムダだ!
き、昨日――アタシに『キレイだ』とかクサいコト……ッ!」
「は!?」
レイヴンが間抜けな声を上げ、イノに問いつめる。
「誰がいつそんな事を言った!?」
「自分が言ったクセに忘れやがって! この痴呆症老人!」
「証拠捏造とは姑息な真似をしてくれるな、この恋愛詐欺師!」
「ガタガタうるせぇ! さっさとそのド頭を床に押しつけて靴でも舐めて謝罪しろよ変態妄言野郎!」
「妄言を吐いたのはどちらかその胡桃大の脳味噌で考える事だな墓穴売女!」
「ンだとこの認知症重患者!」
「誇大妄想狂!」
「…………」
こうなってしまったら、冷めるまで待つしかない。
二人を良く知る「あの男」は、和やかなため息を吐きつつ部屋を出た。
そして、部屋の中から大きな音――音の鈍さから、人間の体が陥没した音だろう――がした後、扉から出てきたのはイノだった。
彼女の姿を認めると、「あの男」は口を開く。
「あれは本当かい?」
「あれ……?」
「その……レイヴンが君に『綺麗だ』って言った事」
「ああ、アレですか。本当です」
不機嫌な表情で答えるイノに、再び「あの男」が確かめた。
「レイヴンは、昨日まで風邪をひいてたんだよね?」
「は、はい……」
「そして、その言葉を言った時、高熱だった?」
「恐らく……」
「なるほど」
うんうんとうなずき、「あの男」が診断を下す。
「それは、譫妄状態だね」
「譫妄状態?」
「そう。急に訳の分からない事を言い出したりする事だよ。
起こるケースはいくつか考えられるけど――この場合は、多分高熱が原因だね」
「そう……ですか」
幾分か安堵した様子で、イノが自室に足を向ける。
「あれ、イノ。どうするんだい?」
「……ちょっと、寝直します」
「ああ。分かった。おやすみ」
「あの男」が彼女の背にそう投げかけ、彼女もまたため息を吐いた。
「……なんだ」
そんな。
わずかに落胆を含ませて、イノが不機嫌につぶやいた。



あの言葉は本当に、レイヴンの本心だったのか。
それは、彼以外分からない。

無限の打鍵

ヴァレンタインに関する話
無限の時間を生きる無限の猿が無限の鍵盤を無限に叩いている。
その大部分が毒にも薬にも意味にも文章にもならない無為な文字列を打ち出している。

無限の時間を生きる無限の猿が無限の鍵盤を無限に叩いている。
しかし時として、毒にも薬にも意味にも文章にもなる可能性の文字列が打ち出される。

無限に無限を重ねていく。
須臾を刹那を永遠に永劫に塗り替えていく。
0に限りなく近い可能性を1に限りなく近い可能性へと歩み寄らせる。

その行為は、その所業は、今もなお続いている。


世界が、赤い。

目が痛くなるほどに赤いその世界に、一つの人影がぽつりと立っていた。
長身痩躯の人影だ。
長寿を象徴する白髪は象徴どころか事実であり、青ざめた肌は死人のようと言うまでもなく実質的な死人の肌をしている。

仮面に表情を隠し、外套で身体を覆い、彼はただじっと頭上に存在する立方体を見上げていた。
「キューブ」と名づけられた人工物だ。
光り輝く紋様がその透明な六面に浮かぶ神々しい姿は、その全てはただの見てくれだけで造られたのではなく性能を何よりも重視して造られている。

卓越した武術が芸術として評価されるように、その機能美もまた芸術として得点が高いのはその筋でない彼にもよく分かった。
ただ、彼が今思考することはキューブの美しさについてではなく、その内に収められたある情報について、である。

――キューブの内部には地球に関する情報が詰められている。
――ならば、自分の情報は? その情報を破壊すれば、あるいは――。

そこまで考えて、彼が振り向く。
いつの間にか、そこに人が立っていた。

年齢は分からないが、その外見は若者として分類されるだろう。
ただ、彼の内面はひどく年経たものだと雰囲気で見てとれた。

溌剌としていない、落ち着いた雰囲気。
それは年の功故の落ち着きと、大義の為に命を捧げる者特有の落ち着きを併せていた。

「レイヴン、何を考えていたんだ?」

思考を見透かしていながら、あえて疑問を口にするような。
全てを知りつつも、その者の腹積もりを量るような。
そんな声色で、「あの男」が彼に問う。

レイヴンは仮面の下で瞳を閉じ、どうするべきか逡巡した。
素直に本音を打ち明けるべきか、自衛の建前を作り上げるべきか。

一瞬の躊躇を犠牲に決断を執り、外套を翻して主と対峙する。
髪の下にあるであろう瞳を見据え、レイヴンは乾いた唇から言葉を紡いだ。

「……少々、邪な考えを抱いておりました。
あの中にある私の情報を壊せば、私の永劫は終焉を迎えるのか、と。そう考えていた次第です」

「そうか。それは可能性としてはあるかもしれないな」

「あの男」が相槌を打ち、会話の主体がレイヴンから彼に移る。

「バックヤードの情報には、時折誤り――バグが生じる事がある。それによって不老不死の状態になる前例は僕の知る限り一件だけ存在している」

「……前例、ですか?」

未聞の事実に思わずレイヴンが聞き返し、「あの男」はそれに首肯した。

「不老不死になったある女性だ。
僕なりに調べた結果、情報のバグを発見した。これが原因だと僕は思っている」

「しかし……このバックヤードにバグ、ですか? そのような事は無いと考えていましたが……」

「どんな物にだって完全はない。それがただ、百分の一の不完全か、百兆分の一の不完全かの違いであるというだけだ。
その不完全を積み重ねて、バグが出る。それはこの深遠なるバックヤードでも、数百年に一度という程度のバグだ」

そして、「あの男」はレイヴンに向く。

「お前は、『無限の猿』を知っているか?」


無限が折り重なり、幾星霜。
無数が積み重なり、幾星霜。

永遠と永劫と永代と永久の幕開けで、
永遠と永劫と永代と永久の最果てで、

無限の猿は無機的に、無感動に、ある題名を打ち出した。

――Hamlet

それに正しく続く文を次々と打つ時も、
無限の猿は無機的に、無感動に、ただ己の行為を続けるのみ。
そこに何者かの介入があったとしても、
無限の猿は無機的に、無感動に、ただ己の行為を続けるのみ。


「ねえ、フレッド」

「何だ?」

「たまに考えるの。運命っていうのを」

「確率の専門家が言う台詞か?」

「確率の専門家だからこそ言う台詞だよ。
この世界には約70億人の人たちがいて、その中から私たちが出会う確率はどれくらいだと思う?」

「……単純に考えて、70億と70億で……10億は10の9乗で……49×1018分の1だ」

「そう考えると凄いでしょ? 4900京分の1って」

「だが、それは世界の人口の話だろ。このアメリカに限ればもっと少なくなる」

「その上、この世界に人間が生まれてから現在までの時間を考慮すれば、アメリカに限っても更に更に凄くなるよ」

「じゃあ、この世にいる全てのカップル共はその『凄い偶然』の上に成り立っているのか?」

「もう。もっと大事な要素を考慮してないなぁ」

「生憎、俺はお前ほど確率に詳しくないからな」

「ううん、確率とかそういうのじゃなくって、もっと単純な事」

「……勿体ぶらずに言ってみろ」

「んー。こんなにも愛し合える二人が都合良く出会うなんて、運命だなーって事」

「…………」

「こら。目を逸らさない。
私だって恥ずかしいんだよ。でもやっぱり、そういうのは言葉にして伝えなきゃいけないし」

「……じゃあ、俺もお前に『愛し合う二人はいつも一緒だ』なんて事でも言えばいいのか?」

「…………」

「目を逸らすな」

「――いや、まあ、それは別としてさ。
そんな確率から、こんな風に相性の良い、良過ぎる二人が出会うなんて、凄い偶然というか――運命って感じがしない?」

「偶然でも運命でもなく、ただ単に俺達の行動の結果だろ」

「……それなら、良いんだけどね」

「――何でいきなり暗くなる?」

「いや、ちょっと……あいつの言葉がね」

「あいつの言葉?」

「……『神』と『啓示』の話」

「あれは妄言だって言っただろ」

「でもさ。
生き物が生まれて人間までの進化は、本当に確率としてとても珍しい事なんだよ。
偶然、化学反応から生命が誕生して。偶然、生命が突然変異を経て進化していって。そして偶然、こうして暮らしていけている――。
私だってずっと不思議に思ってた事だけど、今まではただ単にとても珍しい偶然って思いこんでた。
けど――もしそれが全て誰かの手のひらの上だとしたら、この世界の全部が『啓示』っていうのの思い通りになってて、それでこうしてフレッドと話し合うのも――」

「止せ」

「……フレッド?」

「真に受けるなとも言ったはずだろ。
それはあくまで仮説だ。真実じゃない。確実な証拠だって無い。
だから、そんなに思い詰めるな」

「…………」

「仕事のし過ぎだ。少し、休め」

「……うん。そうだね。
ちょっと疲れてるみたいだけど、きっとぐっすり眠ってきっぱり起きれば、ちゃんとまっすぐに考えられると思うよ」

「……ああ」

「――ねえ、フレッド」

「また、何だ?」

「もし……私達が『運命(啓示)』に引き裂かれても、最後にまた逢えるよね?」

「…………」

「…………」

「……逢えるとか、逢えないとかじゃねぇ」

「……?」

「逢う。必ずだ」

「…………」

「…………」

「ふふっ――ありがと、フレデリック。
じゃあ――また明日――」


「無限の猿」という概念が衆目に晒された時から、人々は「無限の猿」に好奇と期待を寄せた。

ある者は「無限の猿」に魅入られ文学作品に引用し、
ある者は「無限の猿」は無能であると糾弾し、
またある者は実際の猿に鍵盤を与えてその経過と結果を表した。

そして、ある者は擬似的な「無限の猿」をコンピュータの内に創り上げた。

英数字と記号を無作為に組み合わせるプログラム。
それによって、疑似「無限の猿」は人間の監視下で、初めてその作業をひけらかしたのだ。


数百の可能性が確定していく。
数京の可能性が淘汰していく。

今もなお身体や精神に関する是非が問われる中で、未完成の体と心で少女は己の名前を獲得した。

それを発声するにはあまりにも早過ぎる。
それを理解するにはあまりにも早過ぎる。

それでも、少女は己の名前を己の内に刻みこむ。
いつか来る、赤いバックヤードの胎から解き放たれるその時の為に。


プログラムでできた仮想上の一匹の猿が紡いでいく、膨大な言葉のがらくた。
そのがらくたの中から、人は光り輝くある一片を拾い上げた。

それは猿にとって意味のない一片だった。
それは人にとって意味のある一片だった。

無限に無限を重ね、可能性の果てに紡いだ、ある一片。

「VALENTINE」と、猿は打鍵した。
  1. レイヴンさまはへんたいさん その2
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