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  1. 絶望はちかく、されど隣人ではなし
  2. 過去を覗く窓
  3. We're All Gonna Die
  4. 贋銀と黄金

絶望はちかく、されど隣人ではなし

昔のレイヴンの話
過去捏造描写あり
死ぬのは何度目であろうか。
猫は九回生きるという。しかし彼は猫ではない。

後世に「魔女狩り(Witch Hunt)」と名づけられたこの集団ヒステリーに、彼は巻きこまれた。

彼は戦火から逃れた「ふり」をして、ある村に住まう事とした。
彼としては、しばらく住んでから、自らの特異性を不審がられる前にずらかろうという目論見であった。

しかし誤算だったのは、彼が村の仕事として草刈りの役を当てられた際、指を鎌で切った事だった。

彼はその指を慌てて隠した。だがあろう事か、それを隣家の少女に見られたのだ。
少女は彼に駆け寄った。

「いたいよ? なおすよ?」

彼はその少女を払い退けた。だがあろう事か、それは傷ある手指の方だったのだ。
少女は彼に叫び立てた。

Witch(まじょ)!」

鎌は血で濡れているというのに、その指から血が流れる事はなかった。

常人にはあり得べからざる再生力である。
彼は死ぬ事のできない体をしていた。

彼はすぐさま裁判にかけられる。
虚実をどれだけ織り交ぜて、抗議の声を何度も上げて、それでも裁判官は彼を川に連れていった。

石を抱かされ、
縄で結わされ、
耳を打たれる。

「沈めばWitchではない、沈まなければWitchである」

どちらに転べど、行くは死の道。
彼は川に沈むまで、何度も抵抗をし、首を振り、「嫌だ」と叫んだ。
その際に、離れた場所で囁いた少女の言葉を、忘れられない。

何故殺されなければならないのだ(な ん で こ ろ さ れ る の)?」

お前のせいだ。
お前のせいだ。
お前のせいだ。お前のせいだ。
川の底で何度も呪詛を吐いては、それは単なる泡となって水に流れる。

砂が角膜に貼りつくのも気に病まず、彼は目を見開いた。

狂う苦しみに苦しみ狂う。
酸素を渇望する脳が、頭蓋骨を割って這い出そうなほど痛い。
意識を失えば、いや死んでしまえば、いっそ幸福だった。

尋常にはあり得べからざる生命力である。
彼は死ぬ事のできない体をしていた。


彼の肺胞が空気に触れる事を叶えたのは、四日後の大嵐の夜だった。

傷ついて正常に戻る彼の肉体。
狂えども正常に戻る彼の精神。

数える事もできない狂気から回復した時、彼が抱いた石は、大嵐の流木で別たれた。
これまで抱いていた重い女から解放され、彼は無気力に浮上した。

世に産まれてからつい四日前まで継続していただけの、呼吸という当然の行いは、
川に浸かってからはや四日間だけ停止していただけで、新鮮である錯覚に陥った。

川べりに腕をかけ、それでもすぐに川から上がる事はできなかった。

水を吐いて、息を吸う。
血を吐いて、息を吸う。
砂を吐いて、息を吸う。
泥を吐いて、息を吸う。
虫を吐いて、息を吸う。

肺から気体以外のものを排除すると、酸素を得た体はようやく機能した。

腕の筋肉を働かせ、川から体を引き剥がす。
水を孕んだ服と髪が、夜風にびゅうびゅうと吹かれたが、むしろその風が温かく感じる。

水流に洗われた体が大気に抱かれ、彼はある感情を覚えた。

九死に一生を得る事による、安堵や歓喜ではない。
九生に一死を逃す事による、落胆と絶望であった。

死ぬのは何度目であろうか。
猫は九回生きるという。しかし彼は猫ではない。

いっそ猫の死は如何だろう。たった九回生きるだけで死ねるのだ。
しかし彼の死は稀有だろう。うんと何回生き長らえば死ねるのか。

嗚咽が、空気を取りこんだ肺から押し出される。
自然、彼は泣いていた。少女のように泣きじゃくる。

風が角膜に切りこむのも気に留めず、彼は目を打開いた。

なんでころされるの(何故殺されなければならないのだ)?」

彼は、天に在すという神に訊いた。

お前のせいだ。
お前のせいだ。
お前のせいだ。お前のせいだ。
空の蓋で何万の星斗が嘲っては、それは単なる光となって彼に落ちる。

「私が何をしたというんだ!」

神の思惑が一端に触れる事を叶えたのは、四日後の大雨の夜だった。


森の中、人によって地肌を暴かれた道を行く。
道の木の根は掘り起こされ、岩石は横に転がり、平坦に整えられた道である。

しとど雨粒が落ちる中、避けようもない水の弾を受けて掻き進む。

脚下には、何処(どこ)へ繋がるかも知らない道がある。
足元には、何奴(だれ)が敷いたかも知れない道がある。

後退しても、既知のものが広がっている確証があるだけだ。
背後の道がどれだけ長いか記憶を持たないが、矢張進むしか道はない。

進行しても、未知のものが広がっている保証はないのだが。
眼前の道がどれだけ長いか見当が付かないが、結局戻るべき道はない。

ささと雨滴が降りる中、違えようもない光の筋が見えて立ち止る。

雨が眼球に染みこむのも気に掛けず、彼は目を抉開けた。

道の果てに、窓から光を零している建造物が、木々に囲まれ佇んでいる。
他人の存在が、そこにあった。

温かな光に当てられて、彼は途端に自分の体温を痛感した。
折角水温まで落ちた体温だったが、急にがちがちと(おとがい)が落ちる。
八日も前には他人のせいで川底に落ちたというのに、全く調子のいいものである。

幾度も滑りながら、
何遍も倒れながら、
それでも建造物の扉の前まで辿り着く。

雨で見えなかった扉にある、白銀(きらめ)く十字架。
それを目の中に入れ、彼はおののいた。

修道院だった。

石を抱かせられた源である、聖人(たむろ)す総本山。
それの目の前に立ち、彼がたじろいだ。

今に扉が目の先で開き
黒い手が己の腕を掴み、
光の中へ引き摺り込む。

漠然とした恐怖を空想し、彼は扉の前から逃げた。

逃げる、にしても地平の終わりまで走る訳ではない。
よろよろとその場から離れ、一番近くの木の後ろに隠れる。

彼が完全に隠れ、目だけを扉に向けていると、十字架の扉はゆっくりと開いた。
扉を開いたのは、黒く質素な衣に身を包んだ、老いた修道女である。

修道女は、扉の近くの鐘楼へ歩み寄っていく。
晩を告げる鐘の為に、鐘楼の修道女が撞木を振り上げた。

反響音が、雨に湿った空気に染み渡っていく。
晩を告げた鐘の音に、屋内の修道女が作業を切り上げた。

食堂を見せる大きな窓の光は一層大きくなり、その中で若い修道女たちが晩餐の支度を整えている所が見えた。

鍋を掻き混ぜる所を見て、男の喉が大きく鳴った。
ここ数日で、水以外の何も腹に入れられていない。

枝の葉から樹雨が降り落ち、背が冷える。
窓の中には湯気が立ち昇り、腹が縮まる。

自分を迫害した村から離れている修道院である。
施しを受けたとて、己をまた沈める事はないのでは。

そう推測するも、感情は臆病に竦む。
ただじいっと、修道院の晩餐の様子を見ているだけの行動を固着させる。

今や、体が凍える事はなかった。
自らが惨めな状況に追いやられる事など、当然に過ぎない。

神から嫌われているが故に、この不死の身を与えたのだ。
神から憎まれているが為に、この不死の業を負ったのだ。

己の来歴を反芻する間に、窓の食堂には修道女が出揃い、食前の祈りを捧げている所だった。

豪雨の五月蠅い沈黙が、やけに時間を引き伸ばす。
そんな中、彼が辿ってきた道から、集団が入りこんだ。

男の集団だ。身なりは襤褸切れのようで、旅の乞食と言っても納得できよう。
後ろで木に隠れている人間が恐れた十字架の威光を目の前にして、集団は何の気兼ねもなく扉を叩いた。

扉が開き、鐘を撞いたと同じ修道女が顔を見せた。
恐らく、彼女が修道院長なのであろう。

集団は、修道院長を前に、堂々と物乞いをした。

「旅の者だが、神様の慈悲を預かりたいねぇ」

信仰心のない物言いに、院長は顔を固くしながらも返答する。

「食事と屋根なら、分けられます」

「財産も娼婦でも、恵んでくれよ」

へらへらと笑う集団に、院長が毅然と断った。

「貴方がたに放蕩の罪を負わす事はできません」

院長は、これを最後として扉を閉じる。
院長は、それを最期として生を閉める。

「おらっ」

蠅を払うように、集団の先頭が腕を振り下ろす。
振り下ろす腕の先には、棍棒が握られていた。

その棍棒が院長の頭を割ると、ばっと赤い雨が降る。

男たちの集団とは、盗賊だった。

盗賊たちが手慣れたようにどやどやと扉をくぐっていくと、修道女たちの悲鳴が窓硝子を通って耳を貫いた。

聴覚を食む、喚く声。
視覚を染む、開く赤。

人間という信仰が、人間という殺意に潰されていく。

修道女の生涯の結末を迎える。
窓硝子に鮮明な血沫が広がる。

何故殺されなければならないのだ(な ん で こ ろ さ れ る の)?」

疑問の形をした命乞が、修道院を抜けて脳を貫く。
男は、耳を押さえて現実を拒絶した。

その一部始終を見ながら、それでも、木に隠れた男は動き出さなかった。
あの渦中に入ったところで、動かない肉が一つ出来上がるだけだ。

目の前では、幾人もの人生が終幕する一大劇が供されている。
しかしそれは、彼が散々演じてきた絶命の真似事に過ぎない。

彼は重くなった目蓋で視界を遮断され、無意識のカダスに引き落とされた。


意識の闇を討ち祓う、朝の陽ざしで目を覚ます。
朝露に濡れた頬を拭い、彼は頭を起き上がらせる。

修道院の扉は開いたままだった。
そこから覗く風景に、生きている人間はいなかった。

危険性が全く無くなったと判断して、ようやく彼は心身を動かす事ができた。

修道院の扉をくぐると、血の冷気に抱かれる。

老いた修道女、醜い修道女、太った修道女はその全てが頭を潰されていた。
若く美しい修道女は、誰もが衣服を裂かれていた。

惨劇の結末が満ちる中で、それでも彼の目に特に映ったのは違うものであった。

食堂の奥にある、修道院長の為らしき席。
他の席はテーブルが倒されていたのだが、その席のテーブルとその上に載せられた食事だけは無事だった。

彼は修道女たちの遺体をまたぎながら、無感情に席へ向かう。

伽藍堂の席に座る。

彼は木のスプーンを手にした。
冷めた空豆のスープと、干し葡萄と、酒気の薄いビールを胃に収める。

頭に血が巡る。
感情と涙腺が湧く。
動物性から人間性へと近づいていく。

ようやく、彼は鳴き始める事ができた。

別に、自分という存在が特別に虐げられていた訳ではないのだ。

この修道女たちのように、罪もなく、神を信仰している者でさえ、
最期はこうして罪人たちに凌辱されて死んでいくのだ。

自分は神に嫌悪を寄せられていない。

その事実は、彼に安堵ではなく多大なる不安をもたらした。

自分は、常人とは異なる特別な一人と言えないのだ。
自分は、常世での単なる存在の一個に過ぎないのだ。

自らに与えられた不死とは、つまり、神が気まぐれに行った事の一つなのだろう。
その気まぐれの一つとは、この修道院の有様であり、ありふれた事でしかない。

(から)の白々とした皿に、陽の光が垂れ下がった。
(そら)の白々しい青さに、吐き気が込み上がった。

それでも、彼は胃袋に収めたものを捨てる事もできず、それ以外の価値のない修道院から離れた。
そして忘れる。

過去を覗く窓

レイヴンとエルフェルトと写真の話
筒状に続く暗闇を、手に灯した法術の光で焼き払う。
レイヴンはイリュリア城下街の地下、下水道にいた。

とはいえ、汚水とゴキブリで満ちた現役の下水道ではない。老朽化し、破棄された下水道である。
街全域を網羅しているほどではないが、広域を蜘蛛の巣状に張り巡らされている。

彼はその旧下水道を通り、イリュリア城の真下に向かっていた。
イリュリア城本体に対する警護は、法術と衛兵による堅牢なものである。
しかし、地下はその警護も手薄であろう。

その推測を試すべく、彼はここにいるのだった。
もし手薄であれば、監視の目をここに置くのもいいかもしれない。連王、及びその周辺の動向を手にする事ができれば、今後動きやすいものだ。

ガサッ……。

「――ッ」

針を構え、音の方向へ体を向ける。
光を掲げると、痩せたネズミが目をくらませ、キキッと悲鳴を上げて逃げ出した。

自分の警戒が空振りになり、一瞬の油断が彼を弛ませた。

「――マグナムウェディング!」

その声が聞こえる頃には、
音速よりも素早い銃弾が、レイヴンの後頭部を打ち抜いた。


気を失っていた。
いや、正気を失っていた。

「――はっ!」

いの一番に知覚したのは、今まさに口を(まじ)わそうとせん己の身と、目を閉じて口を尖らせるエルフェルトの顔。

「…………」

状況整理を一瞬で済ませ、レイヴンは考えるよりも先に手を動かした。
右手の指をまっすぐに揃え、頭上に振り上げ、主犯の脳天にチョップが刺さる。

「アイーッ!?」

もし自分に理性の邪魔がなければ、チョップではなく人体切断せしめる手刀が、エルフェルトの頭部(ケーキ)へ入刀する所だった。
頭部の痛みを散らすべく、床を転がる彼女を冷ややかに見降ろしてから、周辺情報を手札に追加していく。

二人がいるのは馬車の中。
木板で造られた普通の馬車であり、外界と隔てているのは落下防止の簡素な柵のみ。
景色は草原。のどかな日差しが真昼を表しており、流れる情景は今なお馬車が走行中であるという事を示している。
座標的に、城下街から離れていっているようだ。
街道を走っている。このまま走れば、別の街へと辿り着くだろう。

そこまで把握した所で、ようやく痛みの治まったエルフェルトが立ち上がる。

「随分と過激な愛の形ですね!」

「愛と害の区別もつかない状態でよく現代社会を渡り歩けたな」

「自分が喜ぶ事を人に行う事は愛。
 レイヴンさんが喜ぶ事をわたしにしたので、やっぱり愛なのかな、と」

「なら私が一番喜ぶ爪の剥ぎ方を実践しよう」

「いいえ、わたしは遠慮しておきます」

レイヴンの殺意をかわし、エルフェルトが懐からズルッと婚姻届を引き抜いた。
婚約届を広げてみれば、そこには彼の署名と拇印。

「ともあれ、こうして誓い合った仲ではありませんか」

「判断能力が低下している状況で成した契約は無効だ」

「何を言っているんですか!
 あんなに『愛している』とか、『共に住むなら小さな家がいい』とか、『毎朝お前の作った硫酸が飲みたい』とか言っていたでは――」

ストッ。
エルフェルトの足下に、十センチほどの長い針が刺さった。

「――言っていたわけでは、なかったかもしれません!」

「そういう事にしろ」

そういう事にしたい。自分自身も。
前後不覚の自分が何をのたまっていたかなど忘却の海に沈め、レイヴンは馬車の柵に足を乗せる。

「何をするんですか?」

「貴様の戯言と戯事に付き合うつもりはない。すぐにでも元の場所に戻らせてもらう」

脳裏に空間転移の法術を描く。数秒もあれば、あの暗くてじめじめした下水道の中だ。

「あ、あの、レイヴンさん――」

「さらばだ」

言うと共に、馬車の外へと(おど)り出す。
呪文を囁く。今にも暗闇へと戻るであろう。

「あの、馬車に乗る前にブライダルの人に、レイヴンさんの服をタキシードにしてもらったんですけど。
 そのタキシード、わたしが指向性バインドを入れたので、危険だったり大規模な法術は使えないです」

「は?」

感覚、間隙。

レイヴンの体はあるべき所に帰らず、受け身を取る余裕もなく地面に激突。
馬車の速度が乗った体はそのまま車輪のように地面を転がり、皮膚に砂利が突き刺さる。

「ンギモヂィイイィィッ!」

「レイヴンさーん!
 ――あ、あの御者さん! 新郎が馬車の外に行って、いや馬車の外でイッてるんで、ちょっと止めてもらえますか?」

「はぁーい」

間の伸びた声が御者台から聞こえ、馬車の速度が下がっていく。
エルフェルトは馬車から降りると、十数メートル後方のレイヴンの元へと駆け寄った。

「大丈夫ですかレイヴンさん!」

「……私の身は不死だ。傷つこうとも、新鮮な痛みが得られるに過ぎない」

「レイヴンさんのタキシード、レンタル代結構高いんですけど、大丈夫でしょうか」

「破くぞ」

レイヴンの犬歯が鋭くなる。

自分の服装を確かめてみれば、確かにタキシードであった。しかも法術コントロールできる。
これでは空間転移という大がかりな法術はできないし、かといってエルフェルトを針串刺しの刑に処すような事もできない。

「『初代』率いるヴィズエル軍もバインドを使用していたが、腐ってもヴァレンタインという事か」

独り()つレイヴンの腕を取り、エルフェルトが馬車を指す。

「さあ、早く戻りましょう! ここで転がってたら、一時間後の式に間に合わなくなってしまいます!」

「貴様の葬式に間に合わせてやろうか」

「冠婚葬祭の内二つを一度にやりたいなんて欲張りさんですね!
 そうと決まれば式場に行きましょう! レイヴンさんの服も先にそちらへ送られているので、ささ、どうぞ馬車へ」

「…………」

エルフェルトの誘導に、心の天邪鬼が反発する。

だが、下水道の調査など、後日に回せるほど優先度の低い事柄である。
ここで妙に反発しても、単に心労になるだけだ。ならばさっさと服を回収して退散しよう。

レイヴンは、深く、深くため息を吐いて、己の尊厳を燃やして、重々しく首を縦に振った。

「私のものを取り戻すだけだ。式など絶対に参加せん」

「大丈夫です! もう無理にとは言いません!
 これ以上レイヴンさんの機嫌を損ねたら、ちょっと私の命の期限も損ねそうなので!」

エルフェルトの賢明な判断。
彼女に手を引かれて馬車へと戻り、再度草原の景色が動き出す。

「ここから、何分かかる?」

レイヴンの質問に、エルフェルトではなく御者が答えた。

「一時間くらいですねぇ。丁度式に間に合うくらいになりやす」

「一時間か……」

反復する。
別に、一時間という時間の幅に不都合や好都合が生じるという訳ではない。

ただ、馬車に揺られて一時間の退屈を過ごさなければならないのか。
どうせなら、この衝突事故のような事態から、有意義な成果でも上げてみようか。

「お前の母親は、どのようなものだ?」

「慈悲なき啓示」の事を探る。
それは形而下、あるいは形而上の存在なのか。それに感情、著しくは悪意があるのか。

レイヴンの質問に、エルフェルトが過剰に反応した。

「お母さんですか!?
 そ、そうですね……ちょっと厳しい感じの人です。
 でも、よその人には体面が良いですね。仮面被ったみたいな……言っちゃ悪いですけど、猫を被っているような感じで……」

「啓示」の気性か。思考から行動を推測する材料として無価値ではないが、それほど有意なものではない。
情報を飲みこむレイヴンに、エルフェルトから異物を混ぜこまれる。

「好きなタイプは、ソルさんみたいなタイプだと思います」

「…………」

「それとモンブランとか、スイーツが好きです!
 お母さんの気持ちを引くなら、お菓子をお土産にするといいでしょう! レイヴンさんの故郷を匂わせる為にバウムクーヘンとかいいかもしれないです!」

「……何だ、その情報は」

「ええっ!?
 結婚のご挨拶に行くために、お母さんのコトを訊いたんじゃないんですか!?」

「違うっ!」

レイヴンが強く否定すると、エルフェルトは表情を沈める。

「……それでしたら、お母さんについて詳しく話す事ができないです」

目線をレイヴンから自分の膝上に向け、スカートの上の手の平がぎゅっと縮む。

「わたし、まだお母さんと繋がってるので……もし口を開こうとしたら、わたしがいなくなるか、レイヴンさんをいなくしようとするでしょう」

そう悲し気にこぼすエルフェルトに、若干の罪悪感を覚える。
レイヴンはそっぽを向くと、先程の否定よりトーンを落とした。

「――まあ、酷な事を要求した件については謝る」

「いえ、むしろ謝るのはこっちの方ですよ。勝手に勘違いしてしまって……」

明るい景色をよそに、馬車の空気は冷たく落ちる。

「…………」

口の中が沈黙で乾く。
エルフェルトは唾を飲みこみ、喉を湿らせてから唇を開く。

「じゃあ、今度はわたしから、質問いいですか?」

レイヴンは彼女に目線を戻してから、揺れるように頷く。

「ああ」

「あの、レイヴンさんの着替えは、ブライダルの人に任せて貰ってたんですけど。
 その人から、服の中に紛れていたって言われて、預かったものがあります」

言いつつ、エルフェルトが懐を探る。
探り当てた物品をつまみ、それをレイヴンに見せた。

「これって、何ですか?」

手のひら大の、一枚の写真。
黒茶に露出した土から、腰ほどの高さの小さな木が生えている。

青々とした新緑を身に纏う、天を突く樹木の子。
それが主題であるという意志は計れるが、何故それを主題としたか意図が計れない。

「レイヴンさんの持っていたカメラも、私が預かってます。
 そのカメラで撮ったというなら、これは単に店で売られていた観光写真じゃなくて、ちゃんとレイヴンさんが撮ろうとして撮影した写真ですよね?

 この木、何の木、気になる木じゃないですか」

故に、知りたい。
エルフェルトの好奇心に応じ、レイヴンが説明する。

「林檎の木だ」

「林檎の木?
 実も生っていないのに、葉ぶりを見ただけで答えられるなんて……まるで樹木博士ですね!」

「樹木博士じゃぁない。
 単に、それが林檎の種の時から知っているだけだ」

傾聴の姿勢になるエルフェルトの手から写真を取り、レイヴンは平面の木の幹を指でなぞる。
御者に聞かれないほどの小さな声で、彼は写真の由縁を語った。

「百年前。正確な年は忘れた。
『聖戦』の最中、破棄されていた果樹園から林檎を拝借した。その後の戦中に食う為だ」

「……レイヴンさんも、『聖戦』に加わっていたんですか?」

「『どちら』に加わっていたかについては、言及を避けるが。
 そして腹積もりの通りに、戦の渦中で一段落がついてから口にした。
 その後、痕跡を残さない為に埋めた」

「それで、また来たんですね」

「別に、芽吹きを見に来た訳ではなかった。

 埋めてから数年後、またこの地に用があった。
 焦土に成り果てた黒色の景色で、唯一の緑を見つけた。

 それを見た瞬間、ここで林檎を食した事を思い出し、その緑がそれなのだと確信した」

「その時に撮ったんですか?」

「ああ。若干なりとも、感情が動いた。

 戦の渦中の、ありふれた地獄。
 それでも足掻く二種の生命。
 闘争の狭間で、舌を濡らす酸味と甘味。

 そして、それらを想起する緑。
 いずれ消える小さな記憶だが、記録程度には値した」

写真を見る目が、遠くなる。
平面を抜けて、その時の空間が頭の中で再演された。

表情を揺らすレイヴンの横顔を見て、エルフェルトが問う。

「それって、良い思い出――いえ、良いかどうかは分からないですけど……でも、残しておくべきものだと思います。
 その思い出の木、ずっとずっと大きくなって、きっと今は子供の林檎をつけてるといいですね!」

エルフェルトの言葉に、また違う表情に震える。

「……そうだな。今なら、また新しい果実を下げている頃合いだろう」

果樹園という親から離れ、戦地であった土に根を張った大木。
生命の営みを遂げている様を思い、レイヴンがつぶやく。

「ここの近くだ」

「え?」

「この写真の木は、この近くにある。
 あそこから見える草原が、元は焦土だった。
 ……捧げられた数多の血肉が、草の栄養になっただろう」

最後に皮肉を寄せて、レイヴン。
エルフェルトは彼の右手を両手で包み、輝く両目で針を見上げた。

「良ければ、行きませんか?」

「……何故」

「わたしも、ちょっと見たくなりました。
 ――あ、でも、レイヴンさんは一刻も早く式場に行きたいですかね? それだったら、場所を訊いても――」

「いや、いい。
 どうせ、ただ過ぎるだけの一日だ。ほんの足労程度、あった所で支障ない」

興の乗ったレイヴンが、馬車の柵から腕を出し、人差し指を草原の果てに伸ばす。

「あそこだ。座標は知っている」

「分かりました。――あの、御者さん!」

「はぁーい」

「あの草原の所、行けますか?」

「あぁー、それは駄目ですねぇ。
 時間通りに行かんと、後に予約してるお客さん、つかえてしまうんで」

「そうでしたか……。
 では、申し訳ないんですが、ちょっと止まってもらえますか?」

「はぁ」

「先に行ってていいです。わたしたち、木のところに行きたいので。
 式の人には中止の言伝もしたいのですけど、それも――」

「まぁー、いいですよー」

馬車が徐行を経て停止する。
二度目の停止に、今度は二人が土を踏む。

「ありがとうございました!」

エルフェルトが手を振り、それを見送り馬車が去る。

馬車が豆ほど小さくなった時、レイヴンの脚が草原に踏み入った。
エルフェルトは彼の長細い背を追い、柔らかな草を超えていく。

「ここが、その……戦場、だったんですね」

「今や見る影もないが、確かにあった事だ」

「きっと、壮絶なものだったんでしょう……」

自分が過ごしている世界が、闘争の果てに人間が勝ち取ったものであると実感し、エルフェルトの面持ちが真っ直ぐになる。
レイヴンの顔は見れないが、恐らくは同質の表情を形作っているだろう。

慣れた無言の中、進行は続く。
未だ見えぬ木の姿に、エルフェルトは腓腹の疲労を感じ始めた。

「あと何分ですか?」

「いや、一分もしない内に着くはずだ。
 それでもなお見えないとすれば――」

と。
等速で動いていたレイヴンは急停止し、彼のすぐ後ろにいたエルフェルトはたたらを踏んでそれに倣う。

「ど、どうしたんですか?」

「……見えないとすれば、もう存在しなくなったという事だ」

言いつつ、レイヴンは横に身をよける。
エルフェルトは、彼の視線が足元にある事を知ると、その線を辿ってそれに気づく。

木が、折られていた。

直径は数十センチ。椅子の座面ほどの大きさまで育ち、そして止まった。
断面はギザギザで、起伏が激しい。真っ直ぐな刃物で斬られたというよりは、怪物が力に任せてへし折ったという様相で、事実そうなのだろう。

「…………」

木の残滓を確認してから、彼女は心配してレイヴンに目を向けた。
だが、彼の表情から、心情を察する事はできない。
別段の動揺も悲嘆もなく、事実をそのまま呑みこんでいる顔だ。

むしろ、レイヴンは彼女から受けた同情の視線を読み取り、それを鬱陶しいと振り払うように告げる。

「このような事など、私にはありふれている」

彼もまた疲労を感じていたのか、踝ほどの背丈の木の幹の近くに座りこんだ。

「遍く全ては摩耗する。結末は万物に宿っている。それが表出したまでだ」

エルフェルトは、彼から少し離れて、それでも彼と同じく木の幹に背を触れるようにし、腰を下ろした。

「……そう、ですね」

気分を落ちこませたエルフェルトは、切り替えるべく話題を作る。

「他に写真はありますか?」

レイヴンは皮肉気に、しかし冷たくもなく返した。

「……空間法術が使えればな」

「あ、あう……ごめんなさい」

口を開閉させるエルフェルトをよそに、レイヴンは手を伸ばす。
手を伸ばした先は虚空。その虚ろが液のように揺らぎ、手が空間に沈んだ。

「全身を空間転移するようなものでなければいけるようだな」

手のみを空間転移させ、次元の狭間に保存された物品をつかんで引き揚げる。

「これだ」

「ありがとうございます!」

エルフェルトは、レイヴンから渡された写真を腕一杯に受け止めた。

「この、白くて大きいペンギンみたいなものは?」

「ブラックテックの時代だな。それは飛行機だ。
 魔法もない、金持ちでもない人間でも空を飛べた。鉄と油の怪鳥だ」

「へえ……!
 じゃあ、この緑の丘はなんですか? 写真……なのに、現実じゃないくらい、すごい色がはっきりしてます」

「ブドウ畑だ。そこの風景写真は、多くの人間が使う道具に埋めこまれた事がある。
 恐らく、何処とは知らずに最も目に晒された場所だ。その逸話に興味が惹かれて、その丘まで足を運んだ」

「そうなんですか……!」

一枚一枚に感嘆の声を上げて、エルフェルトが写真を見ていく。
それらを見ていく間に、エルフェルトの中に純粋な疑問が積もる。

「――レイヴンさん」

「何だ」

「なんで、全部の写真の中に、レイヴンさんがいないんでしょうか」

エルフェルトから目を逸らし、苦々しくレイヴンが吐く。

「……必要ないからだ」

その言葉を受けて、エルフェルトが更に疑問を重ねた。

「ではレイヴンさん、何故、写真を残していらっしゃるんですか?」

「私が生きてきた証跡、それを残す為だ」

レイヴンの答えに、エルフェルトが主張する。

「なら、尚更、その時のレイヴンさんを残すのはいいと思います」

本人が生きた証を残すなら、その当人がいなければならない。
ニュアンスを含んだ彼女の物言いに、レイヴンが過去の主張を繰り返した。

「私など、何一つ変わりはしない」

不死の病。
課せられた業にして罰。

その有様をまざまざと見せつけられ、何の救いとなるのか。

「いっそ老いたのであれば、私の悲嘆は削られたかもしれない。
 だが、この身は忌々しく固定されている。褪せた髪色も、耳障りな声色も、老化も退化もせずあるだけだ。

 見飽きた醜いものより価値ある何物かがあれば、そちらを優先するが道理だ」

持論を開くレイヴンをよそに、エルフェルトが彼のカメラが構えた。
そんな彼女を見つめ、今度はレイヴンから疑問が湧く。

「――何を、」

「でも、残しておきましょう」

相手の言葉を切って、エルフェルトがカメラのファインダーを覗く。

「だって、レイヴンさんって、タキシード着た事ありますか?」

彼女の提言に、唖然とする。
確かに、タキシードなど着た事がない。

いや、着る機会がなかった。

婚礼はともかく、正装をして会に参加する事も招かれる事もなかった。
そういう意味では、稀有な証ではある。
景色や他者のみを写していたなら、自身が何を着ていたかなど残せはしない。

エルフェルトが顔を咲かせる。

「勿体ないです! これも思い出にしちゃいましょう!」

そう言って、彼女はシャッターを切った。
カシャリ、と耳に心地の良い音を響かせて、カメラが瞬きする。

それに対してレイヴンは、彼女を計るように質問した。

「現像もせずに、捨てたらどうする」

「どうもしません。レイヴンさんがそうしても、わたしではどうにもなりませんから」

自分の成果物が破棄されるとしても、制止も非難もせず、エルフェルト。

「正直に言うとですね、レイヴンさんが写真に写りたがらないのは、わたしも分かります。
 だって、自分自身のこと、好きじゃないですよね」

レイヴンが口を閉ざす。

「……わたしも、わたし自身を愛せないです。
 だからきっと、代わりにわたしを愛してくれる人を求めてるんでしょうね」

人間とは異なる人間として作られた、「バックヤード」の発生物。
それは、目の前の生命が良く浮かべる表情を真似て、苦笑と自嘲を混ぜ合った。

「わたしは感情を持つように生まれました。
 それがどういう理由で持たされたかは分かります。それでも、生まれる感情に善悪がないと、そう思いたいです」

エルフェルトが、鴉から兎に感情を変える。

「話、飛び飛びになりましたけど、何が言いたいかと言えばですね――、

 自分を避けていると、本当に自分を嫌いになってしまうと思うんですよ。

 生きた証を残して、自分に慣れていけば、一石二鳥ですよ!」

エルフェルトが、脳の中を言い切った。
声の断層に落ちて、草の囁きしか見えなくなる。

背に預けた切り株が体温に馴染む頃、レイヴンの手が彼女に伸びた。

「…………」

エルフェルトは無言の内に理解して、彼にカメラを渡した。
レイヴンはカメラからフィルムの円筒を抜き取ると、それを投げ捨てるでもなく、細い指で弄ぶ。

「現像は分かるか」

「撮影したものを、写真にする工程ですよね」

「そうだな」

詳細は期待しなかったレイヴンが、彼女の過不足ない返答にうなずく。

「フィルムは変化する。外の景色を投影されて変化しなければ、写真は黒いままだ。
 だが、フィルムの中身が引き出され、光に晒されれば、全てが白い状態で固着する。どうしようとも、元の黒に戻る事はない。

 黒のままだろうとも、白のままだろうとも、不完全だ。

 完全にするには、シャッターを切った瞬間のまま、なすべき事をなさなければならない」

レイヴンは円筒をカメラに収め直し、カチリと蓋がつぶやいた。

「全て空虚な、感情の白になりつつある人間がいるとして、
 だが、その過程を写真にしたなら、確かにその時の私の証明になるかもしれないな」

言葉全てで、思想全てを表す事はできないが、しかしエルフェルトは呑みこむように首を振った。

「レイヴンさんがどんな人だったのか、その写真が語ってくれますよ」

エルフェルトが立ち上がり、レイヴンの手を取る。

「では、式場に行きましょうか。
 また会ったら、素敵なレイヴンさんの写真を見せてくださいね!」

「……ああ」

エルフェルトに手を引かれ、二人は草原を去る。
切り株のジグザグな断層からは、緑が覗いていた。

We're All Gonna Die

レイヴンとカイの対立の話
針は一本だけと決めていた。
決めたのは、数十年前の事だったか。

その時、針はゆうに千本を超えていた。
際限なく痛みを求める欲望に跪き、頭部が真なる銀髪で覆われた時、文字通りに「忘我」というものを体験した。

知識、知性を司る脳に損傷を与える行為。
針が一本貫けば、自分が好いていた事柄を一つずつ忘れていった。
針が十本刺されば、自分に関わってきた人間を十ごと失くしていった。
針が百本抉りこめば、自分が今なにをしているのかすら分からないようになっていた。

気がつけば、何一つ考える事もない霧の底に微睡んでいた。
濃霧の奈落から引きずり上げられたのは、十日ほど後の事だったと聞く。
赤い楽師が悪態を吐きながら、頭の針を抜いていたのを、ただ(ぼう)と水晶体が受容していた。

故に、彼の頭部にはただ一つの針のみが存在する。
今のこの身は、砌である。主の号令に耳を寄せるべきであり、欲望に沈溺してはならない。
己に課せられた主命を忘れる事など、有ってはならないのだ。



だが、決まりとは得てして破られる定めである。


「ただいまー!」

常日頃よりも少し大きな声量で、少女が朝の散歩から帰宅した事を母に告げる。
その差異に母も気づいたようで、朝食の鍋を回す手を止めて振り返った。

「おかえり。なにか、良い事あった?」

「いい……ことじゃ、ないかもしれないけど……あったことがある!」

言いながら、少女は母のいるキッチンまで走る。
彼女の腕には、小さな生き物がいた。

「あら、黒猫でも拾ってきたの?」

「黒いけど、ちがう! とり! からす!」

言いながら、少女が鴉を母に見せる。

「まぁ。捕まえてきちゃったの?」

「つかまえた、っていうか……ケガしてて飛べないみたいだから、守ろうと思って!」

少女が善意を表出させる。
「良い子」に育った我が子を見つめ、母はにっこりと笑んだ。

「あらあら、ならしばらく、うちで休んでもらおうかしら」

「……ずっと飼うの、だめ?」

小さい生物を所有したいという好奇心が、少女の首を傾げさせる。
しかし、母は少女の額をつんと突くと、やんわりと否定した。

「だーめ。このカラスさんも、帰るおうちがあるのよ。
 狭いおうちにずっと住んでいたら、ひろーいお空に帰れなくなっちゃうわ」

「そっかー。なら、帰れるまで、いっしょにいる!」

少女が、潰さない程度にぎゅっと鴉を抱きしめる。

「さあ、もうすぐお父さんも起きてくるわ。
 カラスさんは、こないだ空けた林檎の箱にタオルを敷いて、そこに住んでもらいましょう。
 朝食の棚にオートミールがあるから、カラスさんにあげなさいね」

「はぁーい」

少女が言いつけ通りにいそいそと準備して、腕の鴉を木箱にそっと移す。
鴉は少し足をばたつかせた後、タオルに体を埋めてこちらを向く。

鳥類の黒い瞳には、食卓の様子がはっきりと映っていた。
少女から差し出される餌と水の皿には目もくれず、鴉は家庭の有様をじっと見やる。

「――おはよう、二人とも」

「あ、おとうさんだ!」

「おはようございます、あなた。今日は朝から二人とも好きなシチューよ」

「二人? はは、君も好きじゃないか」

「あらそうね。ふふ、じゃあみんな大好きね」

「お皿、くばるね!」

「ありがとう。じゃあ、今度はパンも運んでくれる?」

「それなら僕が運ぶよ。今日は休日だからね、仕事よりも君たちが優先だ」

「あら、じゃあよろしくお願いするわ、あなた」

陽光が部屋を暖色に染め、不和なき安寧を鮮明に映し出す。
一切の不幸が存在しない、純粋無垢な幸福の体現。

その光を一身に受けても、鴉は飛び立つ事ができない。
情景から目を外す気力すら湧き上がらず、ただじいっと水晶体に受容させる。思考力すら、奪い去る。

つつがなく朝食を終えた少女は、救急箱を持ってすぐに鴉へと駆け寄った。

「いたいよ? なおすよ?」

言いながら、少女は脱力した鴉を抱き抱える。

「あれ……?」

そして、疑いが生まれた。

「さっきまで、おててにケガしてたよね?」

少女は、先まで流血していた翼に目をやり、首を捻る。
疑念に緩む少女の手に、機会を得た鴉はようやく我に返った。

鴉は翼を激しく動かし、少女の手から逃れて着地する。

「あっ!」

少女の驚きの声を振り払い、鴉は一心不乱に羽ばたいた。
未だ完治してはおらず、飛行に若干のふらつきはあるが、行動そのものに支障はない。

鴉は開かれた窓へと身を躍らせ、外へと離脱する。

少女が鴉の後を追い、窓に縋りつく。
そして、少女は鴉へと叫ぶ。

「飛べたんだねー! よかったー!」

怨嗟ではない。後悔ではない。
小動物を飼育する機会を逃した負の感情ではなく、生命があるべき姿を展開した事への正の感情を叫ばれる。

どこまでも、彼女とその家庭には、善良なものしか存在しない。
そこに、闇の一切は存在し得ない。

「…………」

いたのは、ただ光に虐げられた矮小な自分だけだった。

決して無い(Nevermore)

二度と、あのような家を得られる事はない。

鴉の姿は空間に溶ける。
空間迷彩。高度な法術が結実する。

そして見えざる黒の鴉は、誰にも知られず人間へと変じ始める。

羽毛は衣服に。
黒毛は白髪に。
嘴は針に。

あの少女に拾われる前、レイヴンは傷を負った。
「あの男」を狙う復讐者、梅喧という女によって、である。

その女から与えられた死傷は、極上の痛みであった。
そして久方ぶりに満足をした彼は、頃合いを見て逃亡した。その背に受ける罵倒すら甘美だった。

空間転移すらままならぬ痛みだったが、鴉へと変化する法術は行使できた。
路地裏で治癒を待つと共に余韻に浸っていると、あの少女が自分を見つける。

以後の展開については、前述の通りである。

今や身傷の癒えた彼であったが、それよりも深い心傷を負った。
その傷の形は絶望(Verzweifelt)

悲劇とは何故悲劇足り得るのか、それは喜劇が存在するが故である。
仮に悲劇のみが演じられるとすれば、それは「悲劇」という名は与えられず、単なる「劇」であるしかない。

絶望とは、ただ存在するだけではそれほど酷くはないのだ。
酷薄な環境に置かれようとも、そこに浸るだけでは「仕方ない」という諦念が救いになる。

だが、希望ををまざまざと見せつけられれば、絶望は絶望足り得る。

自分に差し伸ばされた手。
全てを包むが如き温かな家庭。
こちらから拒絶し、空へと逃げようとも、落胆すらせず安堵を紡ぐ無垢。

一体自分は何なのだ?
復讐者に殺意を抱かれ、幾度も斬られ殺されて、惨めに逃げて罵倒され、路地裏で燻っていた自分というのは、何だと言うのだ?

鳥にも劣る畜生である。受けた傷にすら喜びを覚える卑小な肉袋だ。
あの小娘に拾われなければ、このような思いをする事はなかった。苦痛をあるがままに享受する幸福しかなかった。

希望の光を前に、全ては反転した。
闇に微睡む存在にとって、光とは目を刺す劇物である。

家庭の希望。
それは追い求めなければ得られぬ貴重な宝ですらなく、この世界の人間多くに満ち溢れる、ありふれた産物。

だが、自分は決して満たされる事はない。
この先、今まで生きてきた同じ時間を費やしたとしても、化け物は凡俗の産物すら得られないのだ。

レイヴンは、それに逃げた。
飛びながら、どうする事もできない焦燥に駆られて、技を叫ぶ。

「Schmerz Berg――!」

激情が、一本ではなく幾千本の針を呼びこんだ。
星空のような切っ先が彼を取り囲み、自滅する。


自分の意思を確認した時には、既に場は整っていた。

「これより、被告人、元第一連王カイ=キスクの裁判を始める」

元? その意味を問うよりも早く、ヴェールで顔を隠した裁判長が木槌を叩いた。

法廷は、現行のものとは大きく様相が違っていた。
傍聴席は、どちらかというとコロシアムの観客席と形容した方が早い。
被告人である自身を擁護するはずの弁護人はいない。いや、それどころかその役が座るべき席すら存在しない。

現実には存在しない法廷の中で、カイが真正面の法壇を見上げる。
古めかしい羊皮紙の巻物を解き、裁判長は年若い声で文章を辿った。

「被告人はGEARを国内に入れた。それは大いなる罪である。
 聖騎士団に所属していた頃より知人であったGEAR、ソル=バッドガイを度々召還し、GEARで造られた人造兵オーパスの配備を看過、果ては妻すらもGEARである。
 これは連王の座に就きながら国そのものに背く、外患誘致罪である」

裁判長の言葉に、堪らず抗議が口を突く。

「GEAR全てが害ある存在ではない!
 彼らは、彼女たちは――人間と同じ、意志があり、慈悲があり、愛情がある、共に生きる事のできる隣人だ!」

「罪人、口を開くな!」

未だ判決が下されていないというのに「罪人」と来た。さながら魔女裁判の様相である。

「では、これより証人を召喚する!」

現代の形式から大きく外れた進行の中で、魔法のように証人が何処(いずこ)から湧いて出た。

その証人の名前を、驚きのあまり声にする。

「レオ……!」

同じ聖騎士団出身、同じ連王の位、同じ志の、友にして朋。
外見こそ相違ないが、彼が語る言葉は総て違う。

「GEARは人類の敵だ」

抑揚のない、零度の声。
レオが決して紡ぐ事のない台詞に、カイが前のめりに否定した。

「違う! この証人も、その証言も偽物だ!」

否定に、偽のレオがなおも言い募る。

「お前も俺も聖騎士団の団員だ。ならば、GEARの害悪さなど身に沁みて覚えているだろう?」

「それは、ジャスティスによる命令で――!」

「ジャスティスはアリアだ。
 ソルの恋人で、かつては善良な女性だと聞くが、何故善人は人類を殲滅しようとした?
 GEARは人間を殺す道具としてデザインされた、破壊衝動を持つ生物兵器だ。
 GEARにされた者は全て、人類に牙を剥く危険物に成り下がる」

「ジャスティスが人類の殲滅を指示したのは、アリアさんがGEARになった事だけが原因ではないはずだ!」

木槌が響く。それと同時に、レオの姿が掻き消えた。
消滅と代替するように、新たな証人の姿が出現する。しかも、それは一人や二人ではない。

全て、見知った顔だった。
鎖鎌を下げた男がいた。髪のゆらめく女がいた。紙袋を被った男がいた。中華服の女がいた。
全員が全員、顔に何の表情も浮かべていなかった。

その全員が一個の生き物であるように、違う口から続く言葉が連なっていく。

「お前がGEARを守ろうとする理由を教えてやろう」

「GEARの女に恋慕したから」

「GEARの子供を成したから」

「お前自身が、GEARになっているから」

「自分たちが攻撃されないように、GEARを擁護しているんだ」

「お前がGEARを好かなければ、今でもGEARを殺していたんだろう?」

「全て、保身の為に過ぎない。かつて掲げた、正義の為ですらない」

「お前は、罪人だ」

その言葉は傍聴席にすら連鎖して、世界の全てがカイを責め立てた。

「証言は、以上だ」

裁判長が、顔を隠していたヴェールを上げる。
露わになった口で、偽装された真実を告げる為に。

「故に、有罪である」

裁判長の姿形が、ヴェールごと剥ぎ取られた。
そこにいたのは、聖騎士団団長として戦場に立っていた、かつての自分。

GEAR(化け物)を殺す事が正義だと信じていたお前が、今更何を守るというんだ?」


体は休んでいたというのに、動悸が激しい。
夢。自罰的な傾向にある彼にとって、あまり楽しい夢というのは見た事がない。

そういった悪夢を見ない為に、彼には決まりがあったのだが。

「……夜の紅茶は、一杯だけと決めていたのだが」

日が変わるまで積み重なった仕事をこなす為に、カイは気力を満たす紅茶を三杯口に入れた。
浅い眠りが夢を運び、こうして苦しむ事になる。

カイは心臓が収まるまでベッドの上で時を過ごし、落ち着いてから支度を始める。
仕事着に袖を通そうとして、手が惑った。

「休日か……」

多忙な連王の身である。常ならばカレンダーの休日すら潰す程であるが、今日は仕事の一切ない本当の休日だった。
そんな貴重な休み時だが、何とも幸先の悪い夢見である。

少し損をした気分になりながら、仕事着を戻して普段着に着替える。
カーテンを開ける。陽光を浴びれば、後ろ向きになっていた気分も前に転換していく。

硝子に映る自分の目は、エメラルドグリーンに光っている。

「…………」

目元を撫でる。

GEARの目の色は赤である。
赤と緑は対照色。連王として立つ己は、GEARとは関係ないかのように、清廉潔白に振る舞っている。
だが、既に気づいている。己の目の色が、時に赤へと変じている事に。

「私は……人間ではなくなっているのか?」

GEARへの嫌悪感はない。
だが、自分の種が変じる事への忌避感が、不安を湧かせる。

かつての自分がGEARを殺していたのと違い、今の自分はGEARを愛している。
それは本当に自分の意思によるものなのか? GEARへと変じたが故に、保身の為の感情なのではないのか?

違う、と強く否定する。ディズィーを愛した瞬間の己は、間違いなくGEARに染まる前だったはずだ。

ならば――ディズィーと邂逅しなければ、自分は今でもGEARを敵と思っていたのか?
自分という性質が分からなくなり、カイが頭を振る。

悩みながらであろうが、自分は道を進んでいるはずだ。
国民も、聖戦の傷が癒えて、GEARと冷静に向き合える時代に来ている。
全ては希望へと向かっている。未だ障壁は大小数多そびえ立つが、神は乗り越えられぬ試練を与える事はない。

努めて楽観的に物事を判じ、カイは自室の扉を開いた。

妻のいる小さな扉に手をかけると、その横にいた衛兵のソードマンが声をかける。

「ああ、カイ様。お伝えしたい事が」

「何だ?」

「ディズィー様は、先程シン様に連れられてバーガー屋へと行きました。
 シン様は、カイ様の所にも寄ったそうですが、寝ていたとの事なので……」

「そうか。……何分、十一時になるまで寝ていたからな」

「それは……珍しい事でありますね」

「ああ。そうだな――」

予定を折られたカイは、少し思案した後、ソードマンに行き先を告げる。

「少し、旧礼拝堂に行ってくる」

「……承知しました」

若干の沈黙、それは上の者を諌めるべきかという逡巡。

旧礼拝堂、というのは、つまり新しい礼拝堂が別にあるという事である。
ではなぜ旧くなったかと言えば、バプテスマ13事件が由来にある。

ヴィズエル軍によるイリュリア城の襲撃により、城の一部が破壊された。その内の一つが礼拝堂であった。
城の主要な箇所は既に修復されていたが、軍事的及び政治的には重要度の低い箇所は後回しにされていた。
その間に、修復するよりも新規に建てる方が早いという事で、別の礼拝堂が新たに建てられたのだ。

現在も旧礼拝堂には瓦礫が散らばっている等の不備があり、立ち入る者は限られている。
壁の倒壊の心配はないとの事であるが、万が一という事に心配するのも部下の情である。

しかし、立ち入る者がいないという事で、第三者の介入なく黙想するにはうってつけの場所であった。
カイは豪奢な廊下を抜け、補修の跡の目立つ通路から旧礼拝堂へと辿り着く。

軸の外れた扉を開けて、岩の匂いのする空間に一人佇む。

天井には、聖母マリアを模ったステンドグラス。
壁には、傾いた鏡と歪んだ窓。
床には、壁から欠けて落ちた灰色の煉瓦や、割れた窓ガラスが混在し、かつての事件の不穏さを残していた。

足元の障害物を避けながら、礼拝堂の最奥にある木壇に近づく。
木壇の上には、儀礼用の長剣が二振り置かれている。
その銀の輝きを前に、まずカイが目蓋を合わせ、手を合わせる。

「神よ……私は、少なくとも一つの間違いを犯しています」

かつてGEARを殺した事、今はGEARを守る事。そのいずれか。
神への懺悔とも、己への自戒とも取れる言葉。

「罰を与うならば、私が一身に受けましょう。どうか、皆には深き慈悲を願います」

自己犠牲を説き、しばし沈黙に身を委ねる。
ステンドグラスに濾された虹色の光が、カイの身体を滑った。

胸中で満ちたカイは、目を開け、手を崩す。
祈祷を終え、彼は次なる鎮静の手段を求めた。
右手に長剣の一振りを握り、左右に開けた空間に行くと、虚空に向かって構える。

「――ッ!」

一呼吸の動作で、一閃が流れる。
剣術。かつての生業であり、今では離れた荒事である。

刃の閃きを重ねるごとに、若き頃より振るってきた馴染みの感触に心が落ち着く。
だが、同時に苦笑が浮かんだ。

「……流石に、ペンだけを手にしていると、腕が鈍るな」

速さも、重さも、足りていない。
美貌を以て未だに「若い」と言われてはいるが、その身に経た年月は積まれている。

「はあっ!」

裂帛の声と共に、剣が舞う。
銀が煌くその刹那、頭上から涼やかな異音が鳴った。

「――ッ!?」

見上げる。
天井のステンドグラスは割れ、その亀裂の中心部には落下する塊があった。
落下してきたものが、物ではなく者だと、鷹の目が見抜く。

「何者だ!?」

誰何の声を上げながら、駆け寄る。
敵対者である可能性は高いが、もし無辜の者であるのならば、応急処置と救護の要請が必要だ。

だが、落ちてきたのは、前者だった。

「お前は――!」

「……お前は、誰だ?」

目の前の人物を知るカイとは正反対に、彼は目の前の人物を知らないと発言する。
その無知自体に、カイが驚く。

自分の事を知らないはずがない。
かつて己と切り結び、敵対し、そして一時的に自身の友と共闘した存在。

レイヴン。その人だった。

「敵か!」

短絡的に判断し、彼はカイから飛び退いた。
レイヴンが周囲を見渡し、武器となる長剣が木壇の上にある事を知ると、カイへの警戒を払いながら長剣を手にする。

「祖国に仇名す敵の牙城か……! お前がオレをここに連れてきたのか!」

混乱状態の新兵を思わせる素振りに、カイが戸惑う。
認識にある限り、彼という人物の振る舞いからかけ離れている。本来の彼なれば、より冷静に事を分析できるはずだ。

「答えろ!」

叫びながら、レイヴンがカイへと斬りかかった。
困惑という渦に脚を取られていたカイは、その斬撃の対応にやや遅れた。

自身の長剣でレイヴンの長剣を斬って流し、互いに声を上げる。

「くっ……!」

斬撃の重さに喘ぐカイ。

「……っ、お前も手練れかッ! 」

自身の攻撃を流された事に憤慨するレイヴン。

カイは後ろに跳躍し、長剣を下げて制止した。

「待てっ、様子がおかしい! 何があった!」

「敵に心配をする貴様の方がおかしいだろう!」

レイヴンは聞く耳も持たず、直進する。
やるしかない。カイは染みついた剣技を瞬時に想起し、長剣が振り上がる。

幸いというべきか、相手は不死身の男である。手加減はいらない。
足を踏みこみ、腕を走らせ、長剣はレイヴンの首を狙う。

「――っ!」

レイヴンはすぐさま後ろに跳んだ。
それは過剰なまでの後退だった。たたらを踏み、一度転倒する。

「ぐっ!」

それでも素早く立ち上がり、長剣を再度構えた。その刃先は、震えていた。
彼の様子を見て、カイは確信する。

自分の目の前にいるのは、戦死を恐れる新兵だ。
死を望み、痛みを歓迎する彼とは違う。

「があああああっ!」

それでも、レイヴンは自分を奮い立たせて剣を振る。
カイは最低限の動作でそれを避け――ようとし、見誤って脚にかすった。

「ちっ!」

だが、支障ない。
血の赤を意識外に追い出し、カイはカウンターとして刃を繰り出した。
狙うは先と違わず、首の両断。そして数瞬。

「ぎイっ!」

レイヴンの悲鳴と共に、左側頭部が切り離される。
手に返ってくるのは、肉と骨と、細い金属を断った感触。
狙いとは違うが、これで戦意ごと削がれてはくれないか。

カイが一抹期待し、彼の様子を見つめた。

レイヴンは、自分の頭にあるべきものが存在しない事を、自分の手で確認する。
血に濡れていく体を見ながら、彼は大きく悲嘆した。

「ない……!? オレは、死ぬのか……!? (いや)……!」

錯乱し、死に震えているレイヴン。

「オレは……死んでたはずだ。敵に囲まれて……腹を剣に貫かれて……だが、今は違う……それでもこうして斬られても、生きて……? 何故だ……?」

しかし、頭部が再生していくと、段階的に冷静さを取り戻していく。
流血が止まり、状況を飲みこもうと黙りこむレイヴンに、カイが疑惑を投げこんだ。

「もしかして、記憶喪失を起こしているのか?」

「黙れっ!」

確かに記憶があやふやだ。だが、それを敵に指摘されるのは不快だ。
そういった苛立ちを含めて反抗し、レイヴンが剣を握り直す。

「何があろうと、お前はオレを殺した!
 お前は敵だ! 許すワケがない!」

再度、レイヴンが迫る。
今度は蛮勇と言える猛烈さだった。
死への恐れが、不死への疑惑によって薄れている。

先程よりも迷いと恐れのブレがない、死線を一、二度くぐり抜けた太刀筋。

「ッ!」

カイは息を吐き、刃を刃で受け、あるいは身を横に反らして躱す。

「だが……っ!」

体が、戦闘を思い起こしている。
脳裏に浮かぶのは、かつて聖騎士団で受けた訓練。
剣と剣とを打ち合い、互いに高め合う実践訓練。
違う所と言えば、これは模擬刀などではない事か。

「――隙あり!」

相手の大振りを見切り、終了を告げる突きを繰り出す。
これは訓練ではない。相手の眼前で止まる事はなく、刃が頭部を貫通する。

「ァ――ア゛……!」

痙攣するレイヴンをよそに、

「――ッ!?」

カイが、彼から漏出した真実に身震いする。
貫通した頭部から、刃と肉の合間を縫って幾本もの針が流れ出す。

そもそも、彼の頭部には元から大きな針が一本刺さっている。
だが、脳にこのような針が無数も潜りこんでいたのか?

硬直するカイだったが、痙攣を止めたレイヴンがつぶやく。

「思い出した……」

ずぷ、と水の音を立てながら、レイヴンが後退する。
剣が肉の鞘から抜かれ、再生が始まった。

「ここを通せ」

ようやく、彼らしい不敵な笑みが浮かんだ。
カイは首を振り、刃に纏わりついた血を振って拭う。

「……事情もなく、通す訳にはいかない」

「先も見ただろう、俺は死なない。
 死なない人間を殺そうとしても、疲れるだけだ」

そう宣い、レイヴンが刃を向けた。

「はあっ!」

刃と刃が混じり合い、火花が散る。

既に刃から、死の恐怖はない。
厄介ではあるが、こちらから剣を向けた際には回避を行っている。

疑問を確信に変えるべく、剣を交えながらカイが問答を仕掛ける。

「痛みはどうした!?」

「痛み? そんなもの、受けるだけ損だ!」

レイヴンが薙ぎ払い、わずかな風圧を受けながらカイが退く。

成程。ならば、まだ完全には思い出していない訳だ。
それは自身とて同じ事であった。本来の実力、聖騎士団団長として立っていた頃にまだ追いついていない。

対して、向こうは不死者である。
脳を切り離される都度、確実に何かを思い出し、その刃に不死の驕りを乗せてくる。
死ねば最後の己とは違う。こちらに明らかな不利を押し付けてくる。

秘密裡に、救援信号を法術で送る。このまま逃げる手もあるが、逃げた先に一般人がいたら巻きこむ事になる。

足を礼拝堂に止め、ここで戦う事が、一番犠牲の少ない選択だ。

……それが、本当に良い選択なのか?

「はあっ!」

頭に過ぎた思いを払うように、カイが剣で弧を描く。

自分は久方ぶりの戦いに、高揚しているのではないか?
何かの為に戦うのではなく、戦う為に戦っているのではないのか?

無意識に、カイは礼拝堂の鏡に背を向けた。もしそこを覗いてしまえば、赤い目のした己を視界に入れてしまうかもしれなかった。

否が応にも、カイの腕前が上がっていく。そうでなければ、自分は死の奈落に吸いこまれる。

「カアッ!」

鳴き声のような掛け声と共に、レイヴンが急進する。

「今だ!」

その攻撃動作そのものを隙と見て、カイが剣を下から上へと逆袈裟に斬り上げた。

「!」

声は、出るはずもなかった。
喉から上が切り捨てられ、レイヴンの体が床に崩れる。

「…………」

カイは、自分が息を止めていたのに気づく。
呼吸をする。息が荒い。アドレナリンが自分の体を無視していた。

限界ではない。むしろこれ以上の域まで行ける。
剣を構え直し、レイヴンの再生を待つ。

首から上が生えるように再生し、カイの予見通りに彼は立ち上がった。

「――全て思い出した。
 ああ、そうだ。私はイリュリア城の上空で墜落した」

自身の全てを取り戻したレイヴンに、カイが説く。

「今ここで、戦う必要はないはずだ」

「ああ、そうだ。必要はない」

言葉とは裏腹に、レイヴンは長剣を手放さない。

「だが、私の興が乗った」

「……私は、争いは望まない」

「どうかなぁ?」

挑発的に首を曲げると、レイヴンが笑いかける。

「貴様の興も乗っていたのだろう?
 現に、お前の顔には――未練がましさが貼りついている」

「ッ!」

反射的に、鏡の方へ顔を向けた。
刹那、接近する気配を感知し、脊髄の信号のままに剣を真横に構えた。

ギン、と鈍い金属音が響き、風の法力の纏った長剣が空間を裂いた。

「……本気でやる、という訳か」

「私とて、昔は軍で剣を振るう身だった。
 同じ剣士ならば――私の千歳(せんざい)を埋めてみろ!」

吠えながら、レイヴンが斬撃を繰り出す。
一閃ずつに風の法力が乗った攻撃は、床にすらそのダメージを行き渡らせていた。

カイも同じく、雷を纏って刃を輝かせる。
法術。これを駆使しての戦は、殊更聖戦当時を思い出させた。

「行け!」

地面を這う雷撃を予め読み、風と共にレイヴンが飛ぶ。
雷撃の一部はレイヴンの足を食らい、彼の口から嬌声が漏れた。

「ああ! 重畳、重畳じゃぁないか!
 貴様の狂気を見せてみろ! 『第一連王』! 『聖騎士団団長』! カイ=キスク!」

「『死体漁りの烏』! 『不死の病』! レイヴン!」

互いに、互いの名を、互いへの敵意と敬意でもって共鳴する。
荒廃した礼拝堂は、風と雷に舐められ更なる荒地へと変じていく。

雷は幾度も彼の外套を(かす)める。
風は何度も彼の後髪を(たわ)める。

斬撃。
交錯。
回避。
閃光。

その戦いそのものが、刃を鍛える鎚のように、カイの腕を元に戻していく。
感覚が取り戻されていく。

戦場に立つという事。
そこに、命の価値は問われない。
最後まで立ち続け、敵を殺す事を至上とする白黒の空間だ。

生き延びるには、殺すしかない。
GEARの首魁を上げれば喝采された。
GEARがどのような姿であれ殺した。
見るもの全てを竦ませる竜の姿であろうと、物怖じせずに殺した。
見目麗しい美女の姿であろうと、何の逡巡もせずに殺した。
小さな鼠のようでも殺した。空に浮かんでいれば飛んで殺した。逃げていれば追いかけて殺した。
GEARは一匹で無力な十人を殺す。自分が生きるのみならず、世界の人々が生きる為であれば、GEARは全て殺さなければいけない。

目の前で死んでいった同胞を何度見ただろうか。
彼らの希望を潰えさせてはならない。
生きなければならない。生きて、殺さなければならない。

自分は生きなければならない。
彼らの骨を、墓を、死を背負っている。
自分が歩んできた道は、たった数十年であろうとも、それは幾十人もの生を継ぎ接ぎした、千年に匹敵する。

「――――」

口が真一文字に閉じられる。
感情の一切が、喉の奥底に飲みこまれた。

今自分が行うべきは、目の前の敵を確実に殺す事。
静かな熱が沸き上がり、殺害のビジョンの一つ一つを精査する。

そして、カイの長剣が大きく空を斬った時、レイヴンはその間隙を過たず突いた。

「――脆い!」

歓喜の声と共に、レイヴンの長剣がカイの心臓に迫る。

長剣にまとわせた雷撃は、礼拝堂の壁を崩すだけで潰えた。
完全に、長剣を振り終わった後である。これからレイヴンの刃を払おうとしても、人間の速度では追いつけるはずがない。

舌なめずりと共に、レイヴンの刃はカイの皮膚に達し――、

「――――」

言うならば、煮えたぎる凪の湖面。
カイの心臓は獲物を捕らえた狩り人のように跳ね、しかし送り出す血は鉛のように冷たい。

常人であれば、致命的なまでの間隙。
今までの人間業の剣技であれば、跳ね退ける事のできない空白。

故にこれより行うは、化け物の所業。

そもそも、自分は化け物を相手に殺してきたのだ。
化け物を殺すなら、自らも化け物にならなければならない。

カイは放った雷撃とは別に、肉体加速の法術を仕込ませていた。
雷撃をデコイとし、隠されていた法術が始動する。

右腕が神速の域に達する。
肘の関節が磨り潰れ、可動部分から大きく外れ、骨が砕け、筋繊維が断裂する。

どうしようもない間隙を餌にして、肉体を消費に命を屠る、対化け物(GEAR)の外法。

自らの肉体を厭わぬ、過剰なる加速がレイヴンの長剣に食らいついた。

「――!」

それだけでは終わらない。
レイヴンの手から長剣を離させると共に、神速の勢いを全く減衰させず、
長剣は有り得ない奇怪な軌跡を描いて、彼の首を、腕を、胴を、脚を、全く同時に断つ。

再生力のある存在であろうとも、この損傷は時間がかかる。
そういった事を熟知しているから、分かる。

「……はあっ! くっ、痛ッ……!」

慣れから遮断していた痛覚が戻り、カイが左腕で右腕を抱える。
右腕には、関節が二つほど増えていた。折れた骨が皮膚を突き破り、表皮は鬱血の青黒さを浮かべていた。

次弾に備え、左手から治癒の光を生じる。
右腕が治るのが早いか、あるいはレイヴンが動くのが早いか――。

と。
レイヴンの肉が、頭と首が接合した瞬間。
脚も手も再生するよりも前に、彼が哄笑する。

「……っく、は、ははっ――はははは!
 見ろ! 貴様もまた私と同じ化け物だ!
 数多の人間に支持されようとも、結局は私と同じに過ぎない!」

カイが鏡を見る。
瞳が、赤い。

「……あるいは、そうかもしれない」

諦めを混ぜて、薄く同意する。
自身と同じ化け物を、多くの人々から認められる人物に見出したレイヴンは、己と彼とを一緒くたに嘲笑した。

「そうだ。我々は結局、安寧に微睡む事のできない闇の身だ。
 俗人が手にする幸福では満ちる事ができず、戦地と苦痛にのみ価値を見出す狂気に他ならない」

結局は、自身も刃を交える事に心地よさを感じていた。
カイは血まみれの長剣を床に刺し、改悛に目を強く閉じる。

「――大丈夫ですか!?」

「無事か、カイ!?」

扉が大きく開かれ、二人の影が礼拝堂に闖入した。

「――ディズィー!? シン!?」

カイが声を上げると、すぐにディズィーが彼の状態を理解した。
彼女はカイに駆け寄ると、すぐに治癒を唱えて専念する。

シンはカイとレイヴンとの間に入り、仁王立ちで敵対者となった男を睨みつけた。

「やけに法力の臭いがして、ヤな予感して戻ったんだ。
 ――おい、おっさん! お前、味方じゃなかったのかよ!」

非難するシンだったが、レイヴンの目はカイに向かっていた。
その目は、嘲るものから戸惑うものに変わっていた。

同族故に、カイはその目を理解する。

「……化け物の身であろうと、狂気だけで生きる事はできないはずだ」

左手を、受け入れるように差し伸べる。
届く事はない。しかし、レイヴンは後ずさった。

「私にも、こうして駆け寄ってくれる二人がいる。
 私は、何よりも愛する存在がいる。それだけで、この先千年だろうと生きていける」

「――だが、永遠に理解し合えると約束された訳ではない」

渋面のレイヴンが、辛々反論する。

「完全な理解はできない。歩み寄る事で人は支え合える」

「人? 可笑しい事を言う、人間がこの場に誰がいる!」

「ここに立つ者は全て人間だ! それはお前も例外じゃない!」

レイヴンの感情が一切消え失せる。

「……ああ、そうか。分かり切っていた事だ。単に、私が大きな勘違いをしていただけだ。
 結局はお前も、光に立つ事のできる存在だ。私とは、違う」

レイヴンがカイを切除しようとして、それでも彼は一歩を踏み出した。

侮辱した事への怒りではない。
憐憫。何を話しかけようとも脅える子供に向けるが如き、慈悲の緑青。

「違う事はない! 貴方にも、私と同じものを持つ腕があるはずだ!
 人と理解する事ができる言葉を、人と共感する事ができる感覚を、まだ貴方は持っている!」

その指摘。
持てる者の、傲慢な指示。

それはどのような器具よりも痛く耳を貫き、結局自分は劣った存在だと再認識させる拷問。
反論、反駁、反感、反逆は湧いて出る。それでもその全てをもってしても、己が抱く不平をそのまま受け止められる事はないだろう。

レイヴンは空っぽのまま直立した。
法術を紡ぐ。戦闘の為ではない。離脱の為だ。

「……連王。お前にはもう少し期待していた」

「待て! まだ話が――!」

「もういい」

心底うんざりとして、レイヴンが空間の狭間に消える。


結局は、そうなのだ。

自分を理解できると、自分でも理解できると、
そうと近づいたとしても、その細部が違うと知って、勝手に傷を作るのだ。

見えざる鴉は飛び上がる。
太陽を運ぶ事のない鳥は、その光に焼かれたように虚空へ掻き消えた。

贋銀と黄金

イノがレイヴンの誕生日と過去を探る話
過去捏造描写あり
「そういえば、あと一年後くらいでアンタの誕生日だったよな?」

イノがせせら笑いながら、レイヴンに話しかける。

「風船のような問いかけだな」

「風船?」

「何でもない。だが、確かに日は近い」

3月28日。
絶えぬ年月を耐える彼にとって、その日は他よりも微小に差異のある日。

彼女の話で、ようやくその事を思い出す程度の日である。
大して期待もせず、今度はレイヴンから問いかけた。

「何をするつもりだ?」

「別に。ただ、それだけ覚えてるってのがおかしいと思ってな」

イノが黒髪を指で巻きながら、先の質問の意図をどうでもよさげに説明する。

「生まれた年は覚えてないんだろ? それなのに誕生日だけは覚えてるって、中々珍奇なモンだと思うだろ」

「そうかもしれないな」

言われて、レイヴンが緩く同意する。
彼は時を隔てた遠くを見つめ、その由縁を説いた。

「誕生日には、毎年親が甘いパンを作った。蜂蜜漬けにした林檎をくるんで揚げたもので、当時一番の贅沢だった。
 それがただ、私の頭に残っている。古い人間の拙い懐古、それだけの理由だ」

それを聞いて、イノが内心で驚く。
レイヴンにも親はいる。当たり前の事ではあるが、目の前の男に幼い時代があった事など、思い至る事がなかった。
目の前の存在は、この世に発生した時から頭に針のある男である。そんな感覚が裏切られる。

「まあ、そうだよな……コイツにも毛も生えてない時もあったんだな」

「……当人を前にして、やけに大きな独り言を言うな」

怒り、というより呆れ。レイヴンがイノを切り捨てる。
彼女と話す事の生産性を低く見積もったレイヴンは、言葉もなく彼女の視界から去っていく。

その背を見つめながら、イノの好奇心が首をもたげる。

自分に親はいない。生まれた時からこの状態だった。
ならば、あの野郎は生まれてから数年経った時、どのような状態だったのか?

彼女が時間跳躍という超高度な技術を揮うのは、それだけの衝動で充分だった。


その地に降りた時、まず彼女を受け入れたのは腐葉土の柔らかさだった。
山頂の冷たさと麓の温かさが交じるくすぐったい温度の中、彼女は透明な息を吐く。

正確な年は分からない。
レイヴンの生地(しょうち)を求めての時間跳躍は、これまでに六回ほど行っている。
その六回は何かと言えば、既にレイヴンが不死となった後の時代であったり、あるいは生まれてすらいない時代であったり、という試行の回数である。
それを繰り返している内に、飛び先の時代が何年であったかという情報が脳から押し出された。

「テメェの年ぐらい覚えてろよ、気がきかねぇな」

理不尽な愚痴を吐き、レイヴンの生体法紋を探る。
これで見つからなかったら帰るつもりだ。帰って一番にあの鳥頭を殴る事で気を晴らす。

と、探知の法術に、見飽きた反応が返ってきた。
イノは反応のあった北北東に足を向け、反応が強まっていくと同時に村が見えてくる。

村の共同窯からは煙が上がり、灰のヴェールが朝日にかかる。
この村にレイヴンがいるのは間違いないだろう。法術を終了させ、村の外周を囲う畑に近づいた。

畑には、農作業をしていた男が一人。その男が農作物を持ち上げようと面を上げた瞬間、自身と目が合った。
男は外部者に向ける警戒を露わにするが、対してイノは偽物の笑顔を披露する。

「こんにちは。わたくし、旅の楽師ですの」

悪辣なまでに丁寧な物言いで、ただでさえ短いスカートの裾をつまんで上げるイノ。
色香を前にした男は、不審を上回る下心で彼女を迎え入れた。

「そ、そ、その旅の方が、どのような用件で?」

「オオカミが怖くって、夜通し歩いてへとへとですの」

疲労を示すように男に倒れこみ、胸の温柔を押しつける。

「ですから、どうかこの村でしばらく宿をお願いしたいんです。よろしいですか?」

「え、ええ! ええ! オイの家は一人ですんで、屋根を貸すくらいどうにでもなりやすよ!」

たじたじになる男をよそに、イノの目が虹色に光る。
七色の中に、銀髪の少年の姿を捉えた。

イノは家に引きこもうとする男の腕を払い、なだめる為にウインクする。

「ごめんなさい。あちらの誰かが呼んでるみたいですの」

未練がましい男の手を振り切り、イノはずかずかと少年の元へと近づいた。
一歩踏み出す都度、少年の容姿を値踏みする。プラチナブロンドの麗しい少年だ。
年は十歳前後か。切れ長の目に、豊かな睫毛。農作が主な労働であるこの時代において珍しく、透き通るような白い肌をしている。

銀髪はイノに気づくと、待ち構えるように立ちつくす。
言葉を問題なく交わせる距離まで短くなると、先制して銀髪が声をかけた。

「……なに?」

敵意と共に睨め上げる様が、全くそっくりだった。
イノの唇が少しひくつくが、「現代」への不満を踏みつけて対応する。

「アナタ、なんてお名前かしら?」

「言わない」

つっけんどんな態度に、ヒールの下の土が静かに潰れる。

「なんでかしら?」

「妖精に名前を教えると、子供をさらって食うんだ。
『知らない人は全員妖精だと思え』って、母さんから言われてる」

「へーぇ」

いかにも昔の人間らしい迷信だ。
否定するのも疑いを増すだけだと思い、イノは適当に肯定する。

「確かに、アナタの銀髪なんか、この村で一番キレイそうだものね。攫っちゃいたいくらい」

「そりゃ一番だろう。だって、この村でオレしか銀髪がいないんだ」

褒められて悪い気はしないようで、銀髪の胸が膨らんだ。

確かに、他を見回しても、いるのは黒髪や赤紙、くすんだ金髪くらいしかいないようだ。
だとすると、やはり、という確信がイノの中で生まれてくる。

イノはしゃがんで銀髪と目線を合わせると、警戒心をほぐす為に名を渡す。

「アタシはイノ。旅の楽士よ」

「このへんじゃ聞かない名前だな」

「ここからずっと遠い所から来たからね。それで、坊やの名前は?」

「それは……」

母の教えを守るべきか、それとも、少しだけ信頼し始めたこの女の言う事を聞くか。
銀髪がせめぎ合いを表情にしている最中、背後の家から出てきた女性が金切り声を上げた。

「そこの女! ウチの子を盗るつもり!?」

その女は豹のように距離を詰めて、イノに向かって拳を上げた。
だが、剣よりものろい拳だ。イノは振り下ろす動作と共に後ろへ足を動かし、余裕の表情でたしなめる。

「奥様、そう怒らないでくださいまし」

「何を言ってるの! よくもあたしの子を――!」

「待って、母さん!」

銀髪は、母の体にしがみつき、蛮行を止めさせる。

「この人は、さらって食うようなことはしない。だから、殴るのはやめて欲しいんだ!」

実の息子からそう言われ、母はようやく怒りを冷やした。
しかし怪訝そうな目はイノに向け、形だけの謝罪をする。

「それは、まあ、先走って、ごめんなさいね。
 貴女、このへんじゃ見ないもんで。妖精か人食いかとでも思ったわ」

「いいですわ。それだけ、息子さんを愛しているって事じゃありませんか」

心にもない甘言を舐めさせるだけで、母の態度は軟化した。

「あらあら。でもそう、こんなに良くできた息子ですのよ」

そう言って母は銀髪の頭を撫でる。
銀髪は居心地が悪そうに顔を下げ、赤くなった頬を地面にだけ見せる。

その様子が「現代」のそれに似つかわしくなく、イノはくすぐったく笑った。

「お母様にお似合いですわ」

少し褒めるだけでチョロイのが、と内心追記する。
イノの内心を知れない親子二人は、言葉だけで懐柔されたようだ。

「いやぁ、本当に、ご無礼を申し訳ございません。
 何と謝っていいものか……ああ、よければ、上がってもらえませんでしょうか? 朝食がまだでしたら、ぜひご同席を」

渡りに船の申し出に、イノが手を合わせて快諾した。

「あら、ありがとうございます。でしたら、ご相伴に与らせてもらいますね」


「――それで、ったら本当に良い子ですの。
 早いころから本も読めるし、字も書けるんです。あたしたちには本当にもったいない子で――」

口の回る母親の言葉を、表情筋の固着した笑顔で受け流す。

イノが口に運ぶのは、辛いだけの塩漬け肉。それと大量の硬いパンに、薄いワイン。
肉を手づかみするのは抵抗があったが、この時代の庶民にフォークなどは存在しない。

郷に入っては郷に従うしかなく、イノは不快さをおくびにも出さず食事を進める。

テーブルを囲むのは、彼女を除けば三人。
母親と父親と銀髪。三人家庭である。

母親はご覧の通り、お喋りで感情的であり、「女」の枠に入れて抜いたような人柄である。
一方の父親は寡黙そうで、食事中に一言も発していない。
銀髪は少し程度に棘のある、だが結局は少年の域から脱していない子供だった。

その銀髪を一瞥する。べた褒めする母の言葉を耳に入れ、再度顔を赤くしていた。
――「今」でもこんななら、もっとからかい甲斐はあっただろうに。

「お宿は、ございますか?」

そこで初めて、父親の口が開いた。
声の低さは、確かにレイヴンと通じるものはある。

「いいえ、生憎」

首を振るイノに、母親は、手を合わせて「良い事を思いついた」と目を光らせた。

「でしたら、今晩泊まりませんか? 何でしたら、一週間ほど滞在いただいても」

警戒心の強い村での、宿の確約。
食事以外は願ってもない提案に、イノが頷く。

「本当にありがとうございます。では、甘えさせてもらいますわ」

イノは噛み切れないパンをテーブルの上に置く。
そのまま席から立ち、母親がイノの起立を目で追った。

「あら、お腹一杯ですか?」

「はい。翌朝、またいただきますね」

また明日に不味いものを口にしなければいけないのが、げんなりと来るが。
しかし、母親は厳しい顔をして否定した。

「それはいけませんわ。時間を置くと、食べ物が悪いものになってしまうかもしれませんから。
 、お客様のお残しを、裏口に捨ててちょうだい」

「はい、母さん」

食事の終わった銀髪が椅子から離れ、イノの残飯を持ってどこかへと駆ける。

「本当に、羨ましいくらい出来た息子さんで」

「ええ。あたしたちの自慢の一人息子です」

母親が、父親に目配せする。父親は少し気乗りしないように首肯した。

「そう。まぁ、普通より少しは、いいんじゃぁないか」

残飯を捨てて戻ってきた銀髪は、自分の話題がまた広げられているのを聞いて、意を決して話の転換点を作る。

「恥ずかしいから、やめてくれないか?
 それより、ライ麦が切れてるよ。コボルドが逃げてしまう」

「それは困るわ。隣からまた一束ライ麦を貰わないと」

「コボルド?」

イノが首を傾げると、銀髪が説明する。

「お姉さん知らないの?
 家に住む、小さい妖精だよ。牛乳や麦をやると、代わりに家の世話をしてくれるんだ。
 ただ食事をやらないと、畑を不作にしたり、銀を腐らせたりするんだよ」

「ああ、また妖精ね」

ファンタジー創作の犬っぽいモンスターという認識を改め、イノは小さくうんざりする。
現代で否定される迷信が真実と通るこの時代において、この感覚の擦れ違いは快適とは言えない。

母親がライ麦を貰いに外へ出て行き、今度は父親が銀髪に命令する。

「イノさんを空き部屋に通してあげなさい」

自分からは動かない父親に対して、不満の色を小さく示す。
それでも銀髪はイノに近づき、進行方向を指さした。

「こっちだ」

銀髪の後ろをついて行き、木の扉の前に着く。

「前に……使ってた部屋で。今はもう誰もいない」

そう説明しながら、銀髪が扉を開いた。

扉の先は、控えめに表現すれば「物置」だった。
土のついた木の棒きれ、収穫用の丸い小鎌、共同窯の灰を掻き出す火掻き棒や、麻紐を結って作られた馬の鞭。

「この部屋で寝ろってコトかしら?」

あえて満面の笑みでイノが問いかけ、銀髪が慌てて言い繕う。

「ご、ごめん! こんな荒れてるとは思ってなくって……。
 あ、今片づける! 片づけるから、ちょっと待ってて!」

わざわざ自分の為に、憎んでいる相手が働いている。
冗談のような状況に、イノはくすりと感情を漏らす。

結局、その部屋が片付く頃には、日が赤くなっていた。


「はぁ……」

藁の臭いを嗅ぎながら、天井を見る。
ベッドは、ホテルのように白いベッドではない。枯草色だった。

藁を集めて、その上から布をかぶせる。そこに寝転がり、薄い織物を体にかける。
それがこの時代の夜の過ごし方だ。

窓は存在するが、ガラスは存在しない。部屋の壁の一部には穴が空き、麻のカーテンで外と区切る。
曖昧な区切りは、夜風に煽られて月明かりの侵入を許していた。もしこれが真冬だったらと思うと、震えてくる。

「もうこのまま、帰っちまおうかな」

思い立って、すぐにでも法術を唱え始めるイノであったが、夜の景色から声が流れてきた。

「おい」

「……あん?」

ベッドから起き上がり、スプリングの代わりに枯草の乾いた音が鳴る。
窓に近寄ると、麻のカーテンで隠されていた人影がはらりと見えた。

白髪。
銀髪ではない。その髪の色は豊かに輝かず、あの少年よりもずっと色褪せた印象を抱かせる。

少年と青年の間に立つ人間の雄が、緑色の目でイノを睨んだ。

「そこはオレの場所だった」

不審な白髪を前に、イノが不敵に構える。

「だが、今はアタシの場所だ」

縄張りの誇示に、しかしあっさりと白髪が引き下がる。

「そうか」

それだけを言い残し、大した敵意もなく白髪が夜の中に溶け消えた。

「……何だよ」

不快なベッドに戻り、一息つく。

「アイツの目のが、そのまんまじゃねぇか」


「おはようございます」

体から藁を払いながら、起床したイノが挨拶する。

父親と銀髪の二人は、既にテーブルについていた。
母親は朝食の支度に忙しなく動いている。

イノは席に座り、向かい合わせの父親に照準を合わせた。

「少し、質問いいかしら?」

「何でしょう」

くん、一人っ子なのよね?」

問いに、一瞬だけ止まる。
止まったのは、問いかけられた父親だけではない。銀髪と母親の二人もまた、その動きを止めた。

一瞬だけだ。次には、動く。

「――ええ、そうです。それで、何か問題が?」

答えではなく、家族の反応に満足して、イノは首を振った。

「いいえ、何も」

がたん、と銀髪が席を立つ。
そしてそそくさと外へ出て、水桶を持って銀髪が戻ってきた。

「ごめん、母さん。水汲み忘れた。
 お姉さん、水汲み手伝ってくれる?」

「こら、お客さんに手伝いをさせるなんて――」

母親の叱責を抑えて、イノが誘いに乗る。

「いえ、いいですわ。朝の散歩に行きたい気分ですし」

銀髪と共に家を後にする。
村を抜け、川へと向かうであろう道すがら、イノが切り出した。

「で、何か用?」

あの状況で、後回しできる用事をネタに自分を連れ出した。
銀髪の幼稚な意図を察したイノは、彼の言葉を待つ。

吹く風が緑を鳴らし、梢が静まる頃に、銀髪がイノの目と相対する。

「お姉さん、なんでさっき父さんに『一人っ子か』なんて、きいたんだ?」

質問ではなく、確認。
目の前の女が家族の嘘を見破ったという事を確かめると、イノの返事を待たずに否定する。

「違うよ。オレ、兄貴がいるんだ」

目を伏せて、言い直す。

「いたんだ」

銀髪は水桶の底を上にして地面に置き、即席の椅子に腰かけた。
長丁場になると悟り、イノもまた手近な草を手で均して座る。

「兄貴は、母さんと父さんからよく無視されてたんだ。
 オレ、昔は兄貴に少しだけ話しかけたりしたんだ。それを……母さんが、兄貴に話しかけた瞬間にこっち睨んでるって気づいて、それからオレも兄貴を無視するようになってしまった」

話す銀髪の顔も声も、その話題に合わせるように暗くなる。

「三ヶ月前のある日、兄貴がいなくなったんだ。
 さすがにその時、母さんに『兄貴がいない』って言ったんだ。
 そうしたら、『あなたにお兄さんなんていないでしょう』って言われて……すごく、当然のことのように言ったんだ。
 オレのほうが間違ってるんじゃないか、頭がおかしくなってるんじゃないかって思いこむくらいに……それで今日まで、疑わないように生きてきたんだ」

拳を握り、己の無力と怯懦に怒る。

「兄貴、妖精に攫われたんじゃないかって思ってる。
 だから、最初お姉さんと会ったとき、あんなこと言ったんだ。本当にごめん」

頭を下げる銀髪に、イノが粗雑に首を振る。

「いや、別にいい」

「?」

丁寧語のない返答を繕い、言い直す。

「い、いえ――別にいいわ。アナタも辛かったでしょうね」

口だけのフォローに、銀髪がついと目を逸らす。

「きっと兄貴のほうが辛いよ」

そりゃ、家の中でぬくぬくと育っているヤツと比べれば、そうだろう。
同情も何もない感想を掃いて捨て、イノが銀髪の背をさすった。

「さあ、家に帰りましょう。
 川の近くでお喋りが過ぎると、妖精が馬に乗ってきて攫ってしまうわ」

自分でも嘘と分かる言い聞かせに、真実のように銀髪が震え上がった。


夜闇。
灯すランプはなく、電子の明りも法力の光りも存在しない。

故に、妨げるもののない星の光が急速に落下し、暗がりを薄暗がりに変えている。
目蓋を閉じても、カーテンから星の光がちらちらと映り、古ぼけた天象儀を思わせた。

目蓋の天蓋に、星ならざる光が混じった時、イノが身を起こした。

「アンタのことはもう聞いてる、おにいちゃん

窓から覗く緑の光が窄む。

「その言い方はやめろ」

相も変わらぬ物言いに、イノが肩をすくめる。

「じゃあ、なんて呼べばいいんだ?」

「好きに呼べ」

突き放す言い方に、悪戯じみてイノが名を呼ぶ。

「レイヴン」

渡鴉(Raven)
呼び慣れたその名を呟くと、いずれ呼び慣れる者が眉を跳ねる。

「……何故、その名を?」

「好きに呼んだだけだ」

レイヴンの言葉を引用し、意趣返しをした。
イノは窓に寄り、誘惑するように体をくねらせる。

「それで、アタシのトコに来てどうするつもり? 一緒におねんねでもしたい年頃か?」

漂う色香を跳ね除けて、レイヴンは吐き捨てる。

「未練があるだけだ。

 元々、両親はそれなりにオレを育てていた。
 幼い頃には子守唄を聞かされた。一人で歩けるようになったら鍬の持ち方を教えられた。豊作の次の年の誕生日には、木苺を甘く煮詰めたジャムが出されたりした。
 それに恩義はある」

一呼吸の沈黙を置き、次に不穏を混ぜ合わせる。

「恩義以外も、ある。

 弟はオレより優れていた。弟と比較しては、両親はオレの不出来さに気づいた。

 両親はよくオレを『取り替え子』だと言った。オレは妖精の子で、本物の赤ん坊と取り替えてしまったんだ、と。
『妖精を追い出す』という名目で、火掻き棒を押しつけられた事も、馬用の鞭で打たれた事もある。

 次第にオレは蔑ろにされていき、弟が物心つく頃には、この家にオレの居場所はなくなっていた。

 三ヶ月前から、オレは家を出た。今は、裏の山で過ごすばかりだ。
 だが、オレはこうして毎夜、家に戻る。理由は未練、それと――」

レイヴンは、手に持ったものを、見えるように掲げた。
それは、歯型のついた塩漬け肉と、ぼろぼろに小さくなった硬いパン。

残飯を口にして、皮肉気に笑う。

「それと結局、家にしか生きる方法がない」


朝起きて、テーブルを確認する。

少し起きるのが遅かったのか、銀髪と父親は既に食事が終ろうとしている頃だった。

「お母様は、どちらかしら?」

「裏口に行ってるよ。残飯を捨てに」

銀髪の指さす先に、扉を開けて作業をする後ろ姿を認める。
イノは母親に歩み寄り、声をかけた。

「お母様?」

「なんでしょうか? なにか、ご用が?」

振り返りぎわ、手に持っていた食べかけの肉とパンが見えた。
イノがそれを見て見ぬふりをし、母親を試す。

「そうですね。お母様がどのようなご用で、裏口に行っているかと思いまして。
 何か、わたくしにもできるお手伝いはないかと」

母親はいえいえと首を横に振った。

「大した事はありませんよ。
 最近、鴉が来ているみたいで、フンでもしていたら掃除しようかと」

三ヶ月前から?」

具体的な日付を出すと、母親が同意する。

「はい。その頃から、残飯を裏口に捨てるようにしているんです」

「大変ですわね」

心にもなく同意していると、水桶を持った銀髪から声が上がる。

「お姉さん」

その声に続く事柄を読み取り、イノが会話を切り上げた。

「朝の散歩に行って参りますわ」

「ええ。お気をつけて、行ってらっしゃいませ」

先日と同じように道を辿り、先日とは違う疑問を銀髪に投げる。

「残飯は、誰が出すようにしてるんだ?」

丁寧語のないイノのため口に、少し驚く銀髪。
しかしその質問を受け流さず、正しく返した。

「みんなだよ。
 毎日、誰かしらご飯を残すんだ。今日のは、父さんの分」

すんなりとは理解できない事象だった。
家にいる時は散々蔑ろにしてきたというのに、いざ家からいなくなると、陰膳のように食料を用意する。

イノは、実感のない感情の名称を思い浮かべる。

「罪悪感からか?」

「かもね。でも、それだけじゃないと思う」

銀髪は、僅かに晴れやかな顔をして、イノと向き合った。

「結局は、きっと家族だと思ってるからだと思うよ」


「違うな」

朝に言われた事を、夜が否定する。

「単に、支配する対象という玩具が欲しいだけだ」

レイヴンを窓から引きこみ、部屋の片隅にあった椅子に座らせる。
彼は乾燥した肉を噛み千切り、咀嚼しながら怨嗟を口から排出した。

「『あいつは自分がいないと生きていけない動物なんだ、自分はそれを生かしてやれる尊い人間なんだ』って思っていたいから、そうしてるだけだろう」

舌に満ちる塩と油の味に、苦々しくレイヴンが表明した。
藁のベッドに腰かけるイノは、茶化すように言い放つ。

「達観してるな。アンタ、もう千歳くらい生きてるんじゃねぇか?」

「現代」への皮肉を含めたそれに、レイヴンは馬鹿にした様子でイノを冷笑する。

「人間、精々五十しか生きられないだろう」

年齢への言及に触発されたのか、レイヴンは指を五本立て、語り始める。

「オレは十五歳だ。誕生日は、もう親から祝われた事がないから、分からん。
 だが、年だけは覚えてる。弟が生まれた時から、『お前は五つ上の兄なのに』とよく詰められた。それが、十年前だ」

レイヴンの語りに、イノに驚きが生まれる。

「生まれた年を覚えてて、誕生日を覚えてないのかよ? 真逆じゃねぇか」

「何が真逆だ?」

イノが訝しむ。

現代のレイヴンは、口から出た通りそれとは「真逆」のはずだ。
生まれた年は覚えておらず、誕生日は覚えている。

新たに生まれた疑問の為に、イノが小さく確認した。

「……3月28日って、何の日だ?」

すると、白髪はすんなりと情報を引き出す。

「それは弟の誕生日だぞ。少なくとも、オレの誕生日はそれとは違ったはずだ」

直感の矛盾。
事実の背反。

目の前の男の目は、紛れもなくあの緑色をしていた。
しかし、「今」の彼が言う事と、「現代」の彼が言う事から組み立てれば、弟の銀髪がレイヴンになるはずだ。

では、今自分が会話し、皮肉に笑い、嘲るように物事を捉える。
この鴉じみた男は、誰だ?

「…………」

硬直するイノをよそに、白髪が窓から流れる風に当たる。

「――風が温くなってきてる。明日が、件の3月28日のはずだ」

そして、白髪は風船のように冗談を放った。

「オレの誕生日は、あと一年後ぐらいと言ったところか」


3月28日。
朝食を並べる母親を前に、イノは深くお辞儀をした。

「そろそろ、旅に戻らないといけませんわ」

その言葉に、四つ目のパンをテーブルに置こうとした母親が目を丸くした。

「まぁ。今夜はこの子の誕生日ですのに。
 一緒にご馳走をと思っていましたのですが……夜まで、待てませんでしょうか」

「いえ。居心地よくって、長居してしまいました。
 本当なら、昨日出るつもりでしたが……どうにも言い出せず、申し訳ございません」

「いいです、いいです。
 ご滞在いただき、良い思い出になりました。、ほら、ご挨拶しなさい」

言われて、銀髪がイノに駆け寄った。

「お姉さん、また来る?」

「どうかしら」

肩をすくめておどけると、銀髪は目を滲ませた。

「その、色々、話させてくれてありがとう。
 また、会えるといいけど……会えなかったら、これをあげる」

そう言って、銀髪はイノの手に硬質な物を握らせる。
手触りで言えば、金属だった。

「これは、兄――いや、」

家の奥にいる両親を考慮して、言い直す。

「何故か、あの空き部屋を掃除してたら、見つけたヤツなんだ。
 遠い国から来た商人が落としていった、銀の硬貨。ここらじゃ使えないし、多分……そう、コボルドがしまってたヤツだ」

そう言い訳して、銀髪がイノから手を離す。
視線を手の平に落とすと、確かに銀色に輝く円が収まっている。

イノは硬貨をしまうと、改めて銀髪に目を合わせる。

緑色の目。だが、未だ純粋を灯す目。
最後に確認する為に、イノが銀髪に問う。

「アナタ、どれくらい生き続けたい?」

脈絡もない質問に、銀髪が首を傾げながら、答えた。

「そうだね。
 ずっとこの先も。できれば、永遠に」

そんな事はあり得ないと分かりながら、銀髪が願望を渡した。
イノは銀髪の頭に手を乗せて、撫でながら二度と会う事のない別れを告げる。

さようなら(Auf Wiedersehen)


裏の山を歩きながら、イノがマレーネの弦を爪弾く。
思い描くメロディは童謡。エレキギターには不似合いな、稚気じみた歌。

――昔々、ある所に、貧しい一家が住んでいた。大層美しい娘がいた。
或る日、一家の元に王様がやってきた。母親は見栄を張り、「娘は藁を黄金に変える」と言い張った。
すると真に受けた王様は、そんな娘ならばと城へと連れていった。そして娘に荷車一杯の藁を与え、「一夜で黄金に変えろ。さもなくば首を刎ねる」と告げる。
娘はどうにもならず、一人で泣き始めた。すると妖精がやってきて、娘の願い通りに、藁を黄金に変えてみせた。
だが、妖精は娘に対価を求めた。お前を嫁によこせと。娘は拒否し、ならばと妖精が条件を出す。
「俺の名前は、一体何だ? 当ててみせたら、お前は自由だ」――

「アイツは、誰だ?」

イノの胸に湧いた言葉を、そのまま法術の起動に繋げる。
探知法術。レイヴンの生体法紋を探り、それは未だに裏の山をあちこちに動いている事を知る。

「クソッ」

先程探知した時には、丁度今の場所にいるはずであったのに。
探知法術はそのままに、イノが空間を走り白髪の後を追う。

時刻は既に夕方だった。

生体法紋は、山から村へと下りていた。
まだ夜には早い。だというのに、何故わざわざ姿の見える夕方に?

イノの胸がざわつく。

空間を跳び、探知し、そちらへと更に跳ぶ。
その工程を何度も繰り返し、ついに生体法紋がある一箇所で止まった。

そこでイノが大跳躍を行い、虚空から白髪の元へと一気に辿り着く。

白髪は、あの家にいた。
だが、家の中にはいない。家の外、外壁に背を預けて、座りこんでいた。

裏口のすぐ横の壁である。
虚空から急に現れたイノだったが、当の白髪は目線を地面に向けていた為に、空間転移の妙技を目にしていなかったらしい。
ともあれ、気配だけは察したようで、白髪はイノが来た瞬間にはぴくりと動いた。

イノは白髪の横に座り、マレーネを立てかける。

「どうしたんだよ」

「どうかしているんだ」

白髪が、頭を掻き毟る。

「昨日はあんなに余裕ぶっていたのに、今日になって心臓が百足(ムカデ)になっている」

「弟の誕生日のせいか?」

イノの問いに、こくりと頷く。

「見たくもないものを見たいと思ってる。天国(地獄)を見るだけだと知っているくせに」

見ても、繰り広げられているのはさぞ幸せな弟の姿だろう。
対して、自分は何も与えられていない。何も祝われていない。何もかも存在しない。

その空虚さを自覚するだけだというのに、自分が手にしたかもしれない幸福がそこにあると知って、こうしてうずくまっている。

イノが、白髪の惰弱さを見透かして、舌打ちする。

「見ればいいだろ。
『この家は地獄だ』って目に見えれば、残飯食って生きているコトがバカらしくなるだろ」

イノの示唆に、白髪が反抗する。

「窓から顔でも出すつもりか? 深淵を覗けば、深淵が見返してくるぞ」

その声に、今度はイノの方が掻き毟った。
もどかしい。何であれば、その背中を押し蹴ってやる。

「アンタが深淵になるんだよ」

言って、イノが法術を唱える。

性に合わないが、「アレ」が傍で使っているのを良く見ていた。
だから、こうして自分も唱えられるほど、良く分かっている。

対象を指定し、空間自体を一定の方向にずらす。
隠密の為の法術。

「これで、アタシもアンタも、誰も認識できなくなる」

「本気で言っているのか?」

白髪が、イノの正気を量るように疑問する。
イノにとっては、わざわざ法術の何たるかをこんこんと説明する義理も時間もない。

「妖精の魔術だからな」

やけくそに言い放ち、イノが裏口を開いた。

「待てっ――」

白髪が止めようと手を伸ばすが、イノが床を歩き、それでも誰もこちらに目を向けない事を証明してみせる。

「ほら、なんともない」

「…………」

白髪はしばし目を見開くが、これが現実であると知ると、彼女に倣って家の中に侵入した。
中に踏み入れた瞬間、温かな空気が身を包む。

白髪は、凍えたように身体を震わせる。

「ここは、本当にオレの家なのか?」

「何だよ、記憶障害か? 頭に針でも食いこんだか?」

「いや、何でもない」

甘ったるい匂いの満ちた家の中で、吐き気がこみ上げる。
記憶の差異に酔っていた。いや、立場の差異か。

自分にとって知っている場所というものは、疎まれた兄としての立ち位置だ。
今立っているのは、弟だけのものとなった場所。弟が受けてきた、祝福の(うてな)

白髪は、食卓のある居間へと向かって、一歩を踏み出した。

「――母さん、それはなに?」

銀髪の声に、硬直する。

イノと白髪の姿は、三人のすぐ眼前にある。
それでも、その内の一人も気づかない。

そこまで近づいているからこそ、この場の空気が何よりも沁みる。
疎外も除外も存在しない、祝いの座。

「クラップフェンよ。
 蜂蜜漬けにしたリンゴをくるんだ揚げパンでね、今日の為に奮発したわ」

母親が微笑んだ。
そんな表情など、自分に向けられた事はなかった。

「そんな、すごい!」

銀髪が驚嘆する。
そんな声色など、自分が上げる資格すらなかった。

「今年からは、特別だ」

父親が宣言する。
そんな事象など、自分に起こるはずもなかった。

「毎年、貴方に食べさせてあげる。
 貴方が生まれてきたこの記念日を、ずっとずっと覚えておくように」

3月28日。

自分が生まれなかった日。
自分でない者が生まれた日。

弟が生まれた時は、あまり釈然とはしなかった。
それでもその翌日に弟の鳴き声を聞いた時には、自分が兄なのだろうとぼんやりと思い浮かんだ。
更に次の日に、兄なんだからもっとちゃんとしないとと、気を張った記憶がある。
生まれてから一年の間、母は弟につきっきりだった。
兄なんだからと、我慢した。母の分まで仕事が来た時も、母が頑張っているからと自分も頑張った。
一年を過ぎて、自分も弟の世話をするようにした。弟は自分が何をするにもイヤイヤと拒絶した。母親が来るとそれは止まった。
二年を過ぎて、今の自分でも読めない本を読めるようになっていた。父親は神童だと褒めた。確かに、自分でもできない事ができるから凄いだろうと思った。悔しがった。
三年を過ぎて、顔立ちの良さが目に見えてきた。母親は事あるごとに集まりに弟を連れて行った。自分は家を守っていた。帰ってくると弟の手には一杯の菓子と玩具があった。
四年、弟は文字を書けるようになった。父親も弟の世話を焼くようになった。自分が一つ失敗をするだけでも酷く怒鳴られた。余りに怒鳴られて失神してからは無視されるようになった。五年、弟の食事にだけ果物がついていた。自分にはなかった。その頃から存在を無視されて、自分の誕生日が無くなった。六年、弟が自分に物を投げてきて殴った。火掻き棒を押し当てられた。部屋に物が捨てられるようになった。七年、同じテーブルにつく事を許されなくなった。立ったまま物を食べなければならなかった。八年、弟に跡継ぎするには厄介がいると父親に睨まれた。農作業を一日休んだら一週間何も口にできなかった。蛙を食べて吐いた。九年、声を上げるだけで睨まれた。物置のような部屋で一日中過ごす事になった。

十年。

十一年。


十二年。



十三年。




――――。
――――――――。


何かを叫んでいた。その声が自分だと気づいたのは、息が苦しくなってからだった。

「何だ!?」

父親が声を上げた。それは自分の声のせいだと思ったが、自分の足がテーブルを蹴り上げたせいだと分かった。
テーブルの上にあった、濃い赤色の、水で薄めていないワイン。
塩まみれでない、柔らかい肉。
煙の立ち上がる、揚げたての甘いパン。

全部、宙に浮いては床に叩きつけられた。
ワインは木目に染み、肉は埃まみれになり、パンがボールのように壁に当たって跳ね返る。

一切が、自分の手に入らないもの。
それが台無しになったとしても、決して自分の手には入らないもの。

「ああああああああっ!」

ようやく、鼓膜が自分の声を認識した。
叫ぶと共に、振る舞われた事すらないクラップフェンをつかむ。

傍から見れば、それは小麦の塊が宙に浮いているように見えたのだろう。

「妖精ッ!」

何よりもそれを恐れている母親が、そう悲鳴を上げた。

走り出す。裏口を抜けて、村を抜けて、山へと駆け出す。
不思議な事に、ゆうに千フィートは全力で走っているというのに、疲れの一切を知らずに足が動いていた。

止まったのは、地面から突き出した石につまずいたせいだった。そこでようやく、自分を顧みる。

すぐに、気配が生まれた。単なる空気だった空間が、一気に凝縮して女の姿になる。

汗一つないイノが、問いかける。

「それで、どうするつもりだ」

これから、どうするつもりか。
手にした物で、どうするつもりか。

問いに、無言のまま口を開けた。
クラップフェンを頬張り、自分が得た事のないものを、嚥下する。

味は分からない。何も分からない。
ただ、今までここまで突き動かしてきた衝動がぷつりと切れて、白髪が地面に倒れた。

「……おい?」

イノが、足で白髪の体を揺らす。

どうやら、気を失ったらしい。
そうもなるだろう。自分でも行動が分からなくなるほどの激情に駆られた上に、全力で走り酸欠になったのだ。

「……結局、『今』のコイツも、救われねえ存在か」

言って、イノが弦を鳴らした。

レイヴンは、不死に狂った。
痛みに快楽を見出し、「あの御方」を信じ、それでも最後に望むのは、ただ有り得ざる「死」一点。

それでも、過去を語っていたあの時の表情には、このような絶望を想起しているような様子すら無かった。

「一体何だっていうんだ。アタシが介入したせいで、何か改変でも起こったのか?」

それにしては、過去改変特有の、空気が変わるような違和感が存在しない。

悩むイノに、解答の一人が起き上がる。

「……思ったよりも早いお目覚めだな」

白髪が落ち葉を払い、イノの姿を認めた。

「ああ……今、起きた」

意識を失っている間に動悸が落ち着いたようで、冷静な動作で立ち上がった。

「頭がすっと軽くなった。夜だというのに、眠気もない」

「それは良かったな。それで、これからはどうするつもりだ?」

「これからは、そうだな……家から離れて、軍に行く。
 徴兵が始まっている。稼ぐ為にも、生きる為にも、そこに行くしかないだろう」

先までの様子とは打って変わって、前向きになったようだ。

「少しくらいは、救いはあったか」

「何の話だ?」

「いや、何も」

胸が少しだけ軽くなり、イノが白髪と並び立つ。

「ともあれ、『(いま)』のアンタの踏ん切りがついたんだろ?
 これで、心置きなく『現代(いま)』のアイツをいびれるワケだ。流石に、あんな暗い状態のままじゃ、後味悪いしな」

言って、イノが白髪に背を向ける。

「行くのか?」

「ああ。もうアンタに興味はない。
 会うのはまた数千年後だ。じゃあな、レイヴン」

そう言って、時間跳躍の法術を展開する。

だが、白髪は、イノの呼称に怪訝な顔をする。

「レイヴン? 誰だ、それは?」

「――――」

イノの口が止まる。
彼に目を向ける。その顔は、心底不思議そうな顔をしていた。

「オレの名前はだ。
 渡鴉(Raven)なんて呼ばれた事は、一度もない」

「――――」

イノは、唇を噛んだ。

直感の矛盾。
事実の背反。

それらが解れた。
解れた結果散らばったのは、グロテスクな結末だった。

イノは白髪に一瞥もせず、現代へと跳躍した。


「バックヤード」。
その一角に、彼女たちの居場所の一つはある。

「…………」

無言で、寝静まる「現代」のレイヴンを見下ろした。
ここにおいても、カレンダーは3月28日。ただし、時刻は午前を指している。

藁ではない、純白のベッド。
かつてよりずっと恵まれた場所であり、だがそれは彼の心を埋めるに値しない。

跳躍前に買った「モノ」であれ、そうだ。
昨日、評判だというパン屋に訪れ、気まぐれに彼が会話で挙げたクラップフェンが、「バックヤード」のテーブルの上にある。

だが、今となっては、それは過去のレイヴンを侮辱するものでしかない。
イノはテーブルの上から、その紙袋を拾い上げた。

「バックヤード」は「あの男」及び側近の生活拠点でもある。
イノは「あの男」の菓子作りに使うキッチンへ寄ると、手に持った紙袋を、生ゴミの箱へと静かに入れた。

  1. 絶望はちかく、されど隣人ではなし
  2. 過去を覗く窓
  3. We're All Gonna Die
  4. 贋銀と黄金