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Dust Attack!

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  1. 千年の一夜
  2. レイヴンさまはへんたいさん その3
  3. 信じて送り出した側近が上級射撃兵の搾精托卵にドハマリしてアヘ顔ピースリプレイデータを送ってくるなんて…
  4. 空の飛び方
  5. 世界はそれでも

千年の一夜

レイヴンとラムレザルの夜の話
18禁
カップリング要素あり
千年を生きた人間は、何を思うのか。

人間の寿命は、精々が百年前後である。
つまり、精神の耐用年数もその前提を元に設計されている。

もし、その想定を遥かに超えて稼働した場合、どのような不具合が起こるのか。

その業を、ラムレザルは知った。



それはある夜の事である。
エルフェルトの行方が、未だ杳として知れない中。
ソルとシン、そしてラムレザルの三人は、旅をしていた。

森の中で日没を迎え、今日中に宿を取れないと悟ったソルは、二人に野宿の旨を告げた。
シンはぼやきながらも一番始めにいびきをかき、取り残されたラムレザルは膝を抱える。

「……眠れない」

そうつぶやく。

ソルは木の根にもたれかかり、彼女のつぶやきに反応する。

「目をつぶって、何も考えていなけりゃいい。その内眠る」

「そうしたけど、眠れない」

「なら、羊でも数えていろ」

「分かった。
 この近くに、牧場はある?」

「……実物じゃねぇ。
 頭ン中で、柵を越える羊をひたすら思い浮かべてろ。
 羊が一匹、羊が二匹ってな。
 そうしてりゃ、数えるのに疲れて眠くなる」

「どれくらい数えればいい?」

「眠るまでだ。
 まあ、それでも眠れないなら、その辺を歩いて気を紛らわせた方が良いだろうがな」

「そう。ありがとう」

ソルの助言を受け、ラムレザルは素直にうなずいた。

目を閉じる。
脳内に草原を用意し、白塗りの柵を立て、そこに羊が湧いては跳ぶ。

羊が一匹。羊が二匹。羊が三匹……。

羊が柵を越えるシミュレート。
意味の見いだせない反復作業だが、ラムレザルはただ総数を加算していく。

……羊が十匹。羊が十一匹。羊が十二匹……。

繰り返されるインクリメント。
単純ではあるが、継続する計算。

その精神的疲労は澱のように蓄積していき、彼女はようやくうとうととしてくる。

……羊が、五十匹。羊が……五十……一匹……羊……が……ごじゅう――。

そこで、彼女はこくりと夢に落ちた。

懸命に羊をイメージしていたからか、その夢も羊に関連したものだった。

まどろみの中で彼女は牧場に佇んでいる。
あたり一面、羊の海。
まるで雲海だ。

ラムレザルは夢の中で歩き出した。
意味なんて無い。無意識から来る行動である。

彼女が歩いても歩いても、夢はどこまでも草原と羊だった。
緑と白の広がりだったが、次第に色を失い始める。

レム睡眠から、ノンレム睡眠へ。
より深い意識の停止へ。

思考が微睡み、睡眠の深海へ向かい始める。

そんな彼女の耳に、犬の鳴き声が届いた。
それはもしかしたら、現実の狼の遠吠えなのかもしれない。

とかく、夢の中で彼女は犬の鳴き声を聞いた。
意識が睡魔に溶け、輪郭を失い始める夢の景色の中で、彼女はその鳴き声の主を探す。

周囲の羊がぐねぐねとした塊になっていく。
草原がただの緑の概念になっていく。

しかしそれは、はっきりと彼女の認識に映りこんだのだ。

ヤブ犬の、死体。

「――!」

白と緑のマーブルの中で、それだけは確かな輪郭を以て彼女に突きつけられた。
突如として浮かび上がった、過去の悲しみの象徴。

それに感情を揺り動かされ、彼女は夢から追い立てられた。

「ああ――!」

覚醒する。
首襟を恐怖の手に捕まれ、夢の深海から引きずり揚げられていく。

「あ……」

彼女は起きた。
そこに、緑の平原も白の羊も、そしてヤブ犬の姿もない。
森の黒々とした様の中で、大木の幹に身を預けるソルとシンがいる。

架空の死体を見た心臓は、どくどくと鼓動の早い事を主張していた。

……眠れない。あんなものを見てしまっては。

悪夢を見た心細さから、ラムレザルはソルに声をかけようとした。

「ねえ――」

声を、止める。

既にソルは静かに寝息を立てていた。
起こしてしまうのは忍びなく、彼女の声は行き先もなく消えていく。

「…………」

だが、心細い。

一人きりの闇の中で、何もできずにじっとしていた。
次第に心臓の鼓動が、平常のペースに戻っていく。

大丈夫だ。あれは夢だ。

そう落ち着かせてはみるものの、眠気は雲散霧消してしまった。
過去を体現した悪夢を見たのだ。眠れる気がしない。

自分の乏しい知識や経験では、どう対処するのか分からない。
覚醒した意識を一人抱えたラムレザルは、ふとソルの助言を思い出す。

――まあ、それでも眠れないなら、その辺を歩いて気を紛らわせた方が良いだろうがな。

ソルの声が脳内に響く。
彼女はその声に従うべく、その辺を歩くべく立ち上がった。

そうだ。こんな不快な気分にもなっている事だ。
気分を、紛らわすしかない。

ラムレザルは、夢の中にいるソルとシンの二人を起こさないよう、法術でふわりと浮いてこの場を離れた。

そうして、間違いを犯してしまった。


望月は賜杯のように天蓋に掲げられ、その威光は地上にまで届いていた。

幸い、地面にある程度の光は落ちている。
闇に慣れた目にとって、行動に不十分しない光量だ。

夜風に撫でられ、寒さを覚える。
ラムレザルは自らの体を抱き、後悔をつぶやいた。

「……ルシフェロ、連れていけば良かった」

そうすれば、夜の散歩の話し相手にはなったかもしれない。
彼女は歩きながら、森を見回す。

木々の陰は、自分を取り囲む影絵の劇場のようにそびえ立っている。
時折見える渡鴉は、身を寄せ合って眠っている。
狼は吼え、星は煌き、太陽は夜に隠されている。

周囲に人の温もりがない景色。
自分以外に誰もいない光景。

彼女は、孤独を理解した。
もしかしたら今、世界は自分たった一人になったのかもしれない。
そんな馬鹿げた考えに、ともすれば頷きそうになる。

気分はまだ優れない。
それどころか、自分が孤独である事を浮き彫りにし、出所の分からない不安まで鎌首をもたげていた。

人と会いたい。会ってみたい。
落ち着かない脚は森の奥へ奥へと誘われ、ラムレザルはふと立ち止まる。

「……戻れるよね?」

振り返る。
そこに、ソルとシン、二人の姿はなく、既に木立の背後に隠れていた。

来た道を覚えてはいない。
元の道を辿る事は、できないだろう。

だが、彼女は法術の何たるかを、そして二人の生体法紋を覚えている。
その生体法紋の位置へと進めば、二人の下へと帰れるはずだ。

周囲の様子を探る法術を紡ぐ。
「これでいなかったらどうしよう」と恐れていたが、法術ははっきりと二人の存在を示していた。

大丈夫。これなら、帰る事ができる。

安心した彼女は、それで法術を解こうとした。

「あれ」

しかし。
どうやら二人以外の、何者かの存在も検知したようだ。

その存在の感覚を、ラムレザルは知っていた。
だがそれが誰の感覚であったか、忘れてしまっていた。

「…………」

この感覚は、確かに会った覚えがある。
誰なのだろうか?

彼女は数瞬、考えこんだ。

恐らくは会った事のある人物。
だが何者か分からない人物に、会うのか。会わないのか。

二択を迫られる。
立ち止まる彼女に、煽るような風が吹いた。

ここは寒い。
寂しさを覚えた彼女の足は、ソルとシンの下から離れていった。

「この、先……」

より奥へ。もっと深く。
彼女が歩みを進めると、ついに彼女は彼を視界に認めた。


吊られた男。


木の枝からぶら下がった荒縄。
末端の輪にかけられ、鬱血から青黒くなった首。
責め立てる快楽に痙攣する体。
垂れ流された体液によって、濡れた地面。

恍惚を浮かべるその顔に、ラムレザルは見覚えがあった。

そう、自分は確かにこの人物と会っている。
しかし、全面の好意を以て迎える相手では無かった。

彼女は軽蔑の意を添えて、彼の名を呼ぶ。

「レイヴン」

快楽に没頭していたレイヴンは、その呼びかけでようやく彼女の存在を知ったようだった。

虚空を彷徨っていた視線がラムレザルに注視すると、少しばかり残念そうな表情を浮かべる。
彼は手刀で荒縄を切り、自慰を打ち切りとした。

彼は淡泊に彼女の名を呼ぶ。

「ラムレザル=ヴァレンタイン」

互いの間に、冷たい空気が流れこんだ。
ラムレザルは戦いの構えを取り、レイヴンは無防備に対峙した。

「ジャック・オーを見つけて、私たちと離れたお前が、どうしてここにいる」

威嚇のように問う。

「理由を話す理由がない」

突き放して答える。

「私たちを、監視していたの?」

嫌悪を示す。

「どうかなぁ?」

敵意を煽る。

「気にくわない。消えろ」

「ならば――消してみろ」

レイヴンの挑発に、ラムレザルが応えた。

雷の法術。
漆黒の迅雷。
シンから教えて貰った、力。

それは不可避の速度でもってレイヴンを捕らえると、彼の喉を震えさせる。

「気持ち良い!」

快楽を讃える声に虫唾が走った。

彼女は次いで炎を呼び出す。
ソルの炎だ。
紅い炎は、翼を広げる竜のように膨れ上がる。

レイヴンの姿を、まばゆい閃光と溶解する灼熱の中へと埋めた。

これで充分だと、注いでいた法力を断つ。
火焔は炎となり、炎は火となり、そうして勢いが失っていく。

やがて火の粉一つも消え去ると、そこには灰しか残っていない。

しかし彼女は、一切の警戒を解かなかった。
ラムレザルがその灰を睨んでいると、突如として天を衝く腕が生えてきた。

腕は地面へと勢いよく振り下ろされ、指が地面に突き立てられる。
杭なる指を支えとし、奈落から這い上がるように、レイヴンは姿を現した。

頭を、首を、肩を腕を胸を胴を腰を腿を足を。
灰の湖面から、彼の体が這い出ていく。

完全な五体を再び手にした彼は、残念そうに嗤った。

「――やはり、死ねない」

倒れた三日月のように口を模り、レイヴンがそう哂う。
見る者の不快を故意に掻き立てる、作り物の顔だ。

彼の思惑通り、ラムレザルは大いに不快の念を表した。
歯を剥いて口角を下げる彼女に、レイヴンが嘲りの声を上げる。

「連れの法術の再現とは面白いが、やはり模倣では無理がある。
 さあ……貴様の狂気を見せてみろ。私を震えさせてみろ」

垂涎し、レイヴンが彼女に期待を寄せる。
ラムレザルは、彼に背中を見せないままじりじりと後ろへ退いていた。

何であれば、敵意のままに彼に刃を突き立てたい。
だが、生まれて間もない彼女であっても、彼の態度が刃を誘う挑発である事を知っている。

「どうせ私が戦っても意味なんてないよ。お前を喜ばせるだけだ」

彼が苦痛を享受する事を知っている。掌に踊らされはしない。

彼女の指摘に、レイヴンは確かに同意した。

「そう……どうせ眠れぬなら、せめて歓喜の時を!」

彼の言葉に、ラムレザルがぴくりと眉を動かす。

「……眠れない?」

同じく、眠れずに森を彷徨っていた彼女は、不意を突かれて鸚鵡返しにそう訊いた。

「ああ、そうだ。眠れない……目を閉ざしてはみたが、悪夢を見て醒めてしまった」

レイヴンは何でもないように返す。

悪夢を見て、眠れない。

相手もまた、自分と同じ状況下にある。
奇妙な共感を覚えた彼女は、戦闘の構えをふと緩ませた。

「お前も、悪夢を見るのか?」

「そうだ。それが、どうした?」

「……見るんだ」

ぼそりと、呟く。

黒雷に、灼炎に、灰となってなお蘇る不死の存在。
それすらも、自分と同じ悪夢を見るという事実に、どういう訳か安堵を覚えた。

「どうした……? もっと殺意を磨げ……」

敵意の劣化を敏感に感じ取ったレイヴンは、舌舐めずりをして敵意を煽る。

「その気はないよ。私も、眠れない」

そう伝えられると、レイヴンは口をつぐんだ。

煽っても、彼女の返答に棘の欠片もない。
一方が刃を下ろしたこの場において、最早敵意は無粋だと突きつけられたものだ。

快楽を得られず、不平ながらもレイヴンは諦める。
一方のラムレザルは手近な木の根に座りこむと、彼を話し相手の対象とした。

「私も最初眠ろうとした。
 けど、夢でヤブ犬の……死体を、見た。
 それで起きてから、眠れない」

「……そうか」

彼女の経緯を知ったレイヴンもまた、地面に腰を下ろす。

「私の悪夢は、未来だ。

 遥か先、私だけが生きている未来。
 誰も何もなく、ただ時だけが過ぎていく。
 ――その中で、絶望すらも朽ち果てて、感情を喪失した私がただ存在する。

 そんな、実現し得る悪夢だ」

彼の吐露に、ラムレザルもつられた。

「……なら、私の悪夢は過去だった。
 私の――大事だった『仲間』が死んでしまったの。
 それを、また見てしまった悪夢」

過去に潰えてしまった命。
未来も潰える事のない命。

その恐れの起源は何もかも違っていたが、それでも互いに互いの共感を覚える事ができた。

先程まで固着していた緊張は、夜に攫われ溶けてしまった。

「……ん」

冷えた風に少しだけ身震いしていると、ラムレザルの近くで火が灯った。
ほんの焚き火程度の火だが、温もりを感じる。

「……ありがとう」

聞こえるか、聞こえないかの声量で、彼女が感謝を囁いた。

レイヴンはその声から逃れるように、そっぽを向く。
そのまま、彼は言葉を漏らす。

「――感情というものは、理解できてきたか?」

独り言のような問いかけに、ラムレザルはこくりと首肯した。

「前の私とは、違う。
 今の私は、感情を殺す必要がない。でも、まだ少し慣れない」

「だが、それは時間が解決する」

「そう。いつか未来には、ちゃんと笑えるようになりたい」

ラムレザルの言葉に、レイヴンが自嘲する。

「……そうだな。お前は日を経るごとに、感情を取り戻す事ができる。
 そして、私は日を経るごとに、感情を手放していく」

対比。
時間と感情の比例と反比例。
それが、二人の違い。

「時とは、やすりのように人間に作用する。
 それは常人の心を磨き上げるが、度が過ぎれば削れていく。

 そうして、時は私の感情を啄んでいった。
 この世で感じ得る刺激を、永きに渡って受け続け、ついには何も感じなくなる」

彼にとっては既知の事実だったが、彼女にとっては未知の危機だった。
驚きを表情と声色に出し、ラムレザルが問いかける。

「――それは、とても悲しい事じゃないの?」

「そう考えて恐れる事すら、今や薄くなりつつある」

「悲しい事も、悲しいと思えなくなる……」

そう考えて、ラムレザルは彼の恐れを抱いた。

自分が、喜怒哀楽の全てを知っている訳ではない。
それでも分かる。喜怒哀楽、感情の全てが、感じ得なくなってしまう事への恐怖。

その一端を、彼女はつかむ事ができた。

誰かを愛おしいとして、その思いが過去にしか存在しなくなったら。
そして、その感情が漸次的に失いつつある最中の、喪失への恐怖の大きさと言ったら。
きっと、それは耐え切れない。

その末路に考えが及んだ時、絶望はどれほど大きかったのだろうか。
そこまで想像して、目の前の人間の感情に思いを馳せた。

レイヴンという存在。

今もなお眼前に息づく人間でありながら、その命は千年以上も前に存在していた。

きっと、子供の頃があっただろう。
見果てぬ未来に心を躍らせ、瞳が輝いた時があっただろう。
父母と共の屋根の下、その温もりに感謝を抱いたときがあっただろう。

時折覗かせる人らしい表情には、彼が本来、そうしたただの人間であった事を証明している。

それが。

幾年が経とうも、皺一つとして変わらないその身。
限りない日常が連続し、それに消耗するしかない毎日。
仮に何者かの傍らにいたとしても、共に生き続ける事ができない諦念。

ただの人間が、苦痛に喘ぎ死を求める化生に変わってしまう。
千年という年月は、彼の何もかもを奪ってしまった。

瓦解せざるを得なかったその成れの果てが、ラムレザルの目と心を捕らえた。

「お前は――いや、」

言葉を、ふと変える。

「貴方は、今苦しいの?」

少女の物案じの問い。
それを受けた彼は、苦悩を拭えぬ答えを返す。

「そうだ。
 人間ではなくなっていくこの苦しみ。
 やがてこの苦しみにすら飽きて、人型をした肉塊に変ずる事への苦しみ。

 人間として生きる事が叶わなくなるというのなら、
 私は、まだ人間である内に、死を迎え入れたいのだ」

死を欲する人間の心理に触れ、だがそこまでの共感に行き着けない。
彼女は素直に、その感想を述べる。

「……私は、死ぬ事を怖いと思っている」

怯える彼女を見て、宥めるように続けた。

「私も、かつてはそうだった。
 だが、感情すら亡くして生き続ける。その絶望は、死をも超えて恐ろしい」

レイヴンは、そう己の内をさらけ出す。
剥き出しの思いのその深さが、途方もないものと感じ取れた。

己の存在だけで埋められるほど、彼の絶望は浅くないだろう。
しかし、そうと知ってやり過ごすほど、彼女は無情な存在ではない。

ラムレザルは腰を上げると、レイヴンに近寄り、その傍らに再び腰を下ろす。

「……何だ?」

訝しむ彼の様子を落ち着かせるように、彼女はつぶやいた。

「意味なんてないよ」

何もできないというもどかしさをそうして紛らわせ、彼女は深く息を吐いた。

「そうしようと思ったから、そうしただけ」

「同情か?」

「分からない。この感情は、今まで抱いた事がない」

そう聞いて、レイヴンは自嘲じみた顔を作る。

「ならば教えてやろう。
 同情とは、自分より矮小な人間が惨めな状態にあると、そう知った時に起こる感情だ」

「否定するよ」

ラムレザルが、すぐに彼の仮面を取り払う。

「貴方は矮小なんかじゃない。

 私の震えに、気づいてくれた。
 私の為に、火を灯した。

 そんなに苦しく生きていても、誰かの為に手を差し伸べる事ができる。

 それを、矮小だなんて思わない。否定する」

静かに燃える火の迸りだけが、その場に響き渡る。

二人の沈黙。
その間中、二人の視線は互いの目に注がれている。

自分ではない者。
自分にはない物。

瞳を通じてそれを探り、あらゆる「違い」を理解していく。
そうして、互いの中に、互いの存在が構築されていった。

それを感じ取ったレイヴンは、顔を曇らせた。

――これ以上は、ならない。

「……レイヴン?」

その曇った顔を察知して、彼女は怪訝そうに問いかける。

「……ヴァレンタイン」

個体としての名ではなく、種としての名を呼ばれる。
返事をしようと思ったが、先んじてレイヴンが続けた。

「私は、お前の『姉』を知っている」

「……『姉』?」

「始まりのヴァレンタイン。お前も、知ってはいるだろう。
 バプテスマ13事件を引き起こした、張本人――『一人目』のヴァレンタインだ」

「うん。ルシフェロから聞いてる。
『前任者』。その――『姉さん』が、どうしたの?」

レイヴンが、できうる限り冷酷を務めて、告げる。

「私にとって、ヴァレンタインという存在は敵対者に他ならなかった」

自分の種そのものを敵視したという宣言。

ラムレザルは息を呑む。
恐る恐ると歩み寄った人間が、一気に遠退いてしまったようだった。

レイヴンは、喉を絞って言葉を紡ぐ。

「私は『一人目』を知っている。
 何故なら、私の敵だったからだ。

 あの事件の、その時に。
 イリュリアの襲撃に際して、私はその地で『一人目』と相対した。

 ヴァレンタインにとっても、私という存在は敵対者だった」

彼は振り返る。
あの時、自身は間違いなく、ヴァレンタインそのものへの嫌悪を持っていた。

世界の理から外れた、感情の無い肉傀儡。
当然の死すら得れず、感情を失う肉細工。

自己嫌悪する己の一部の写し鏡のように思えて、その存在が何よりも腹立たしかった。

「私は、『一人目』を妨害した。それが私の役目だった。

『一人目』による連王の殺害を阻み、追い払い、
 配下となるサーヴァントの所有権を書き換え、元の所有者に牙を剥かせ、
 私は暗がりから『一人目』を監視し、その行動の全てに睨みを利かせた。

 仮に『一人目』が感情を抱いたとしたら、私の事は『嫌い』だっただろう。
 そしてそれは、私もそうだった」

さらけ出したレイヴンの嫌悪。
それを聞くラムレザルは、目を伏せながらもその言葉の一つ一つを受け止めた。
だが。

「それ故に、『二人目』が現出した時、私はその存在を憎悪した」

ついには。
自分を嫌っていたという事実を突きつけられ、ラムレザルは硬直した。

そんな彼女の様子に、レイヴンは感づいている。
己の言葉が、彼女の心を抉っていると。

それでも、言わなければならない。
彼女から、離れなければならない。

彼女から、自分という存在を忌み嫌わせなければならない。
そうでなければ、自分という毒が彼女に残ってしまう。

「私はお前を監視した。
 その行動の全てが、人類を殲滅する悪意ある行動として見ていた。
 最初にお前を確認してから、今も、そう――今日もまた、『背徳の炎』と合わせて、監視していた。

 それが、私の役目だ」

今日、己がここにいる理由も、洗いざらい吐いた。
ラムレザルは、しばらく何も動けず、何も話せなかった。

それで良い。
これで良い。

――私のような呪われた存在に、この娘を踏み入れさせてはいけない。

レイヴンは冷笑を顔に貼りつけた。
跳ねるように崛起し、マントを広げて威嚇する。

「さあ――私を嫌うがいい!
 より目映い拒絶を! 私を、否定しろ!」

私から離れろ。
私から逃れろ。

――この私の存在で、この娘の未来に爪痕を残してはならない。

その思いをこめ、レイヴンはそう振る舞った。

ラムレザルはそのレイヴンの態度に、疑惑を投げかける。

「……貴方は、私が嫌い?」

「ああ。そうだ。私はお前が嫌いだった」

嘘ではない事実を絞り出す。

そう。
レイヴンはラムレザルが、嫌い『だった』。

この返答で、彼女の心から己が消え去る事を、レイヴンは期待した。

しかしラムレザルは、彼の嫌悪から逃げる事なく踏みとどまる。
彼の瞳を見据えて、確かめた。

「『過去』じゃなくて、『今』が知りたい。
 ねえ、今の貴方は――私が、『嫌い』?」

刃物のように、真っ直ぐな質問。
それを己の偽悪に突き立てられ、彼は口をつぐむしかなかった。

嫌われる為の虚勢は張れても、虚言で彼女を濁らせたくはない。

押し黙る彼の様子を見て、ラムレザルが語りかける。

「私も、貴方が嫌い『だった』。
 今は違う。少なくとも、嫌いじゃない。

 でも、貴方はどう?
 今のこの私は――嫌い、なの?」

違うはずだ。
嫌いなら、自分に己をさらけ出したりしない。
嫌いなら、今こうして傍らに自分がいる事を許したりしない。

しかし、不安ではあった。
本当に自分が嫌いだとしたら。
何故だろうか。そう思うだけで、苦しみが胸の奥で脈を打つ。

「答えてみて。
 もし、言葉で答えられないなら。
 私から、逃げてみて」

ラムレザルは、立ち上がって彼と向き合った。
そして、右手を伸ばす。

二人の距離は、ほんの数十センチの距離だ。
だが、躊躇と不安が、その右手の接近速度を鈍らせる。

彼女の右手は、迷いながらレイヴンに触れようとする。
手の角度をゆっくりと上げ、足で二、三歩小さく詰め、近づいていく。

レイヴンは、その右手の行方を、揺れる瞳で注視している。

「逃げろ」と、遠くで理性が囁いた。
同時に「しかし」と、感情が訴える。

――この場で逃げたら、この娘はどうなるというのだろうか?

いや。心配は無用だ。
自分などいなくとも、この娘はソルという庇護の下にあり、シンという親しい存在があり、エルフェルトという――今は何処かに囚われてはいるが――繋がりある姉妹がいる。

それでも「しかし」と、感情が啼く。

――ならば私は、どうなるというのだろうか?

いや。自分などどうでも良い。
例え自分の感情が震えようとも、他者の未来を供犠にするまで堕ちてはいない。
ましてや、無垢な存在の未来を奪うなど。

疑念と否定を繰り返し、なおも彼の体は動かない。
彼の感情は青い未練で抵抗し、「かくあるべき」を錆びつかせ、むしろ彼女との接触を望んでいた。

ラムレザルの右手が、顔に伸びる。
レイヴンの理性は、わずかに顔をひねっただけで終わった。

彼女の温かな右手の平は、
彼の冷たい頬に熱を分ける。

ラムレザルは、その感触に胸を撫で下ろしたようだった。

「良かった」

逃げなかった。
彼は今の自分の事を、嫌ってなどいないのだ。

その事実を確かめて、ラムレザルは手の感触を意識する。

冷たい。
だが、それは風や雨や、鉄や水の冷たさとは違う。
己の熱を奪う、無機質な冷たさとは違う。

人の冷たさ。
彼女は初めて、冷たい事を心地好いと思えた。

ずっとこの手を、頬の一部にしようかと考えた。
しかし、時が経つほど現実を認識していくと、この状態に面映ゆさを覚えた。

手を引いて、彼から離れる。
ラムレザルは、感触の残る右手を大切そうに胸に抱いた。

「……これも、『違う』」

感触と感情を噛みしめるラムレザル。
その彼女の様子を見て、レイヴンの口は空洞のように開く。

「いずれ、今を悔やむ」

ラムレザルが返す。

「でも、それは不確定な世界の可能性の一つ」

そして、否定とその否定を繰り返す。

「私と関わる価値など無い」

「貴方と話ができて良かったと思う」

「お前に傷がつく」

「私もさっき、貴方を傷つけた。おあいこだ」

「私の傷など、苦痛を視覚化した赤い符牒に過ぎん」

「傷には違いないよ」

「私の傷とお前の傷は、違う」

「違わない。
 今、貴方が傷ついたとしたら、それは私の傷のように苦しい。
 同じだよ」

「……違う。私は傷から得る苦痛に快楽を得る。
 お前は傷ついても、それは単なる苦痛だと思うだろう」

「それはそう。
 でも、貴方の傷は、私の傷になる」

「だが、私の快楽が、お前の快楽になりはしない」

「そう。なりはしない。
 私は痛い事が嫌いで、貴方は痛い事が好きだ」

ここに来て、彼の否定を肯定する。
ラムレザルは、その上で否定を紡いだ。

「――それが理解できない。
 私と貴方では、傷ついた時の感情が違う。
 だから、貴方が傷つく事が、なおの事苦しいと思う」

「……何故だ?」

「その時だけ、貴方の心が私から離れる」

人間は、分かり合う事で親密になる。
分かり合えないからこそ争いになり、戦いになり、戦争になる。

関心を寄せる人物に、その理解が及ばない領域があるとすれば、
それの領域に踏み入れた時、「理解できない」事への悲しみが滲む。

「ねえ」

ラムレザルが、レイヴンに指を差し出した。

「私は、理解をしてみたい。
 だから、私を傷つけてみて」

柔らかな褐色の、細やかな指。
それはまるきり敵意がないというのに、喉元に突きつけられた切っ先と同等の意味を持っている。
感情にかぶせられた仮面を割る、円やかな刃だ。

己を求めて近づくその指に、困惑と悲哀を載せてレイヴンが拒む。

「……私を理解するな」

「それは、貴方と同じ所に私を連れていきたくないから?」

「ッ……何故、それを……」

「貴方を見てたら、そういう事だと考えられたの」

レイヴンの言動とその裏を知ったラムレザルが、彼の本性を洗い出す。
そうして現れたのは、冷酷と異常を纏った化物ではなく、存外にも他者への情を持ったヒトだった。

だからなのかと、ラムレザルが胸中でつぶやく。

これまで彼女が関わってきた人間は、大概が感情を偽る事なく接してきた。

ぶっきらぼうで、自分のやる事とやり方を通していくソル。
自分を思いやり、気にかけ、そして笑顔を向けてきたエルフェルト。
考える事なくただ直球に、感情をそのまま伝えてくるシン――。

彼女が接してきた皆とは違い、彼は己を隠して邂逅した。
これまでとは違うヒト。
その違いがラムレザルの関心を惹き、もっと、もっと深くと囁いた。

指先は、自然彼の口元へと吸い寄せられ、彼女はレイヴンに接近する。

「待――」

レイヴンは口を開き、制止の声を上げようとする。

だが、ラムレザルの指は勢い余ってその口に入りこんでしまう。

続いて言葉を発しようとしたレイヴンの歯が、彼女の指を強く噛んだ。

「あっ――」

ラムレザルが、その痛みに目を見開き、指を引っこめる。
彼女はしばらく唖然として指をさすっていた。

その痛みが、過去を呼び覚ました。

指先の痛みは、
かつて腕に抱いた事のある、小さな命から与えられた痛み。

ヤブ犬の痛みだ。

痛みを通して、過去にしか存在しない命を想起する。
すると、彼女の目元から、その命の温もりを知る滴りが零れた。

「ああ――」

不意に蘇った亡き命への想いに堪えられず、彼女は指を抱えてうずくまる。
尋常でないラムレザルの反応に、レイヴンは慌てて声をかける。

「指を見せろっ。骨まで達したか?」

「違う……違う……」

涙混じりに、ラムレザルは彼の心配を拭おうとする。

「きっと、この感情は、貴方の痛みとは違う……。
 けど、この痛みは――この痛みは、嫌いじゃない。嫌いに、なれない……」

痛みを通じて、彼女の奥から言葉が生じる。

この痛みは、ヤブ犬が残してくれた痛み。
散ってしまった、命の傷痕。
何よりも強く眩い、生命の証跡。

「この痛みが、『生きた証』」

その発言が、レイヴンの心身を大きく揺らす。
彼女が、痛みと証を欲する自分の深層をも理解したのだと錯覚した。

愕然とする彼に、ラムレザルは続ける。

「私はこの痛みを、決して忘れない。
 かつての命の証を。
 そして、これからの貴方の命の証を」

ラムレザルにとって、その文脈はただの発見とその反芻に過ぎない。
だがレイヴンにとって、その告白は己の芯を貫き抉る棘だった。

それはこれまで経験した事のない、えも言えぬ感情。
それは希望と絶望を抱かせる、アンビバレンスな言の葉の針。

ただ言える事は。
この娘に己の戻り得ぬ過ちを残したという業の、確かな事。

彼が己の内で罪を自覚したその刹那。
ラムレザルは抱えていた指を離し、その先端を掲げた。

朱色が、褐色に線を引く。

紛れもなく傷ついた指先を、彼女は己の口へ引き寄せた。

「何をする?」

レイヴンの疑問が、その動きを中断させる。
ラムレザルは当然、といったような素振りで、その疑問を跳ね除けた。

「『舐めときゃ治る』。シンから教えて貰った。
 それが間違いなら、何が問題?」

「何が問題だと?
 その指は、私が噛んだ傷だぞ」

その指摘でも、彼女は何も気づかない。

「……その指を、お前が口に含むというのか?」

その反語でも、彼女は何も悟れない。

気づいていないのではない。
知っていないのだ。

人間が口にした何物かに、特別な意味が付与されている事を。
それを彼女が舐めれば、その……間接的に口と口とが触れた事になる事を。

ラムレザルは不思議そうに指とレイヴンを見比べると、
それでも何も見極められず、最終的に彼を見つめた。

「私が、この指を舐めると不都合なの?」

レイヴンは頭をしばらく押さえた後、暫定で答える。

「不都合は、あるだろう」

ラムレザルは彼の様子をしばしじっと検分した。
そこに嘘を見出せず、彼の返答を受け入れる。

「じゃあ、貴方は?」

指を再度レイヴンに向けて、彼女はずいと彼に迫った。

「もし貴方がこの指を舐めたら、不都合じゃないの?」

レイヴンは驚き、思わず固まった。

口元に近づく、わずかに赤い指。
彼が拒絶を選択するよりも早く、その指がレイヴンの唇に触れた。

血で、濡れる。

熱を含んだ生命の潮流が、傷から溢れて染み渡る。
その感触で口を塞がれ、彼は拒絶を紡ぐ事ができなかった。

いや。
塞ぐだけではなかった。

指は唇をこじ開け、上下の歯の隙間を通って咥内に入りゆく。
唇で挟まれた指の鼓動が、感じる事のない触覚をどくどくと叩いた。

ついにはレイヴンの舌先に、ラムレザルの熱が零れた。
味覚に飽きを抱いていたはずの舌は、血の成分上有り得べからざる感想を抱く。

甘い。

口に溜まる唾と共に血を嚥下し、彼女の存在が彼の中に取りこまれる。
その存在はほんのわずかであるにも関わらず、血の滴はニトロとなって爆発的な熱をレイヴンにもたらした。
思考すらままらないような熱である。

舌は無意識にラムレザルの指先をなぞる。
蠢動する舌の感覚を受け、彼女はくすぐったく身動ぎした。

「……んっ……」

思わず、ラムレザルから吐息が漏れる。
その吐息が鼓膜をくすぐり、レイヴンは正気を取り戻した。

「――ッ!」

彼女の手首を掴む。
そのまま手首を引かせてやれば、咥内から指がするりと抜けた。

口と指の間に、唾液と血液の糸が引く。

手を離し、いつの間にやら早くなっていた動悸を落ち着かせ、レイヴンはラムレザルの目を見つめた。
純に澄んだ瞳に悪意も敵意もなく、ただその心を映している。

純粋な疑問と好奇心だけで、あの蠱惑的な行動を取ったのだ。

自分の指を見つめ、大事そうに手の平で包む少女は、あくまでも無邪気に振る舞っている。
そして、不意を突く言葉すらも呟いてみせた。

「……気持ち……良かった」

ヒトの体温を指先に感じながら、柔らかな舌平に包まれる感覚。
非日常的でありながら安心感を覚えさせる、矛盾した心地。

その感覚に少しばかり酔い、そうラムレザルがつぶやく。

未だ余韻に浸るラムレザルは、指に注いでいた視線を彼に向けた。
注視されたレイヴンは思わず後退るも、逃げようという気が湧かなかった。

自分のような存在から離れさせるべきだと主張する理性、
感情を、世界を理解しようともがく彼女を拒めない情動。

情動はゆっくりと理性に覆い被さり、柔らかな麻痺が精神を侵す。

ようやく口にできたのは、

「……何故、私なんだ」

ただ、困惑。

それこそ、ソルであれシンであれ、誰であれ自分よりも彼女に相応しい存在などいくらでもいる。
なのに何故、十数分前まで嫌っていた自分にこうまで興味を示してくるのか。

いっそ拒んでくれた方が分かりやすかった。
拒み、牙を立て、この身を引き裂かれてしまえば、このような事態にはならなかった。

この事態を望む感情など起こらずに、この事態を引き起こしてしまった事への罪悪感を覚えずに、ただの退屈な日常に帰れたというのに。

レイヴンの内なる葛藤を知らず、ラムレザルが口を開いた。

「貴方を、理解したいと思ったから」

「…………」

答えられない。
応えられない。

曇天の陽のように無価値なこの己を、求められて何を返せるというのか。
他者を殺す猟犬でも他者を探る蝙蝠でも無く、他者と関わろうとしなかった臆病な自分自身として欲されて、どう返せるのか。

分からなかった。
そんな事など、ともすれば数百年ぶりの事で、久々が過ぎる。
初めての、経験していない未知の事のように思えた。

久遠の智見すらも超越して、幾許の年月の少女が彼に近寄る。

「ねぇ――」

ラムレザルが、レイヴンの右手を両手で覆う。
少女の熱が己の手に伝わり、得も言えぬ感覚の熱波が腕を伝った。

彼女の見上げた先にあるのは、自分と共にこの状況を感ずる一人の人間。
彼の目の奥に映る再起した感情が、自分の事を受け入れている事を確かめる。

ラムレザルの右手がレイヴンの手から離れ、再度彼の口に至った。
人差し指を唇に当てながら、感覚を覚えた彼女は純心なまま乞う。

「――もう一回、して欲しい」

倒錯への自覚もない、少女の欲求。
その祈りを拒めるほど、彼の悪意は頑強ではなかった。

「……ッ」

怖々と口を開ける。

ラムレザルの小さな人差し指はするりと彼の口へと入りこみ、舌体の表面を指の腹で撫でた。
柔らかな舌は彼女の指を受け入れ、無味の甘美を感じ取る。

しばらく何も動かないでいたが、ラムレザルの無言の期待を裏切る事もできず、舌を動かす。

「……ぁっ」

彼女から、堪えるような声が上がる。

指を舐め上げ、指先を吸い、その度にラムレザルが身をよじった。

己の行為によって、少女が喜びを得ている。

レイヴンがそう自覚すると、罪悪感と共に、呪われた身にとって不相応な充足を覚える。
自分が求められる事――いや、自分が価値ある存在だと認められる事が、喜ばしかった。

「やめろ」と叫ぶ理性の声はどこまでも遠い。
彼もまた、彼女の価値を認め始める。

彼女こそ、己にとって、あるいは――。

希望の萌芽を内にするレイヴンとは別に、ラムレザルが動き出す。

彼女は左手でレイヴンの右手首を握ると、それを顔に近づけさせた。
自分の顔ほどに大きな手をさすりながら、彼女が囁く。

「……私ばっかりじゃ、ずるい……」

与えられてばかりでは、不平等である。
彼女の善意がそう行動し、彼の中指を、ラムレザル自身の口で抱きしめる。

「……ッ」

声は上げられない。彼女の指で口は塞がっている。

ラムレザルの柔い頬肉が彼の中指を包み、滑らかな舌の抱擁は精神を耽溺させる。
反射的に中指を引き抜こうとしても、彼女の唇が指を伝う感覚に心を奪われ、この状況から逃げる事ができない。

「ぁ……う、ん……」

引き抜かれかけた中指を、ラムレザルが再度口に咥え直す。

「ィッ……!」

離れかけた快楽が再度押し寄せ、声が漏れる。
同時に、ラムレザルの指が彼の歯を、つつ、と撫で、滅多にない感覚が神経を弄んだ。

その感覚を分け与えてやろうと、レイヴンもまた彼女の歯をなぞり、歯肉を指で押し撫でる。

「……っ、ふぁっ……」

互いに違いの指を舐め合うという歪曲した交流の中、二人は無言の内で逸楽を探り合う。

頬肉を爪の背で愛撫し、口蓋をさすり、舌で指を巻き取り、指を軽く噛み転がす。

「ゃ、あ……」

常人ですら知らない事を、ラムレザルは知っていく。
その都度、彼の指を咥えながら嬌声を上げた。

それだけで満ち足りる彼女とは対称的に、レイヴンにとってこの感覚は歯痒いものだった。

彼の感情を底から揺さぶるものは、苦痛である。
この状況もまた倒錯した安らぎを得られるが、彼女の熱に中てられた渇きが、安直な痛みを欲した。

この期に及んで、彼女ではなく苦痛を求める己の浅ましさに怒りすら覚える。
だが、誤魔化しようのない衝動が、彼の指先を動かした。

「クッ……!」

堪え切れず、レイヴンはラムレザルの犬歯に中指を当て、痛みを求めて引き擦る。

「んっ――」

彼女の犬歯が中指の肉に食いこみ、皮膚を裂く。
レイヴンの指先の傷跡は、小さく、しかし確かな痛みを伴い始めた。

「んんッ……!」

ラムレザルの咥内に、血の味が広がる。
何百年と彼の体を巡ってきた古き血だ。

生まれて間も無い彼女にその血を注いだ事に対して、彼は奇異な支配感を覚える。

「ん……ちゅっ……」

ラムレザルは、味蕾を犯す血を舐め取り、吸い上げる。
乳呑み児のようにあどけない素振りが、妖艶にすら思えた。

傷跡を前後する舌平の柔さが、なおのこと苦痛を浮き彫りにする。

「……んっ……」

ラムレザルはレイヴンの血を感じ、その脈動を直に受ける。
紛れもなく己と同じ血の味であり、彼が「生きている」という証拠を確かめ、安堵した。

しかし、彼が自ら血を出した事の意味を知っている。
彼女にとっては充分な快楽だが、結局は苦痛を求めたのだ。

それを思えば、やはり彼の感覚の全てを共有できない事への寂しさを覚える。

せめて、その願いに添いたい。
ラムレザルはレイヴンの指を軽く噛み、その傷跡を弄ぶ。

小さくも刺激の増した痛みに、レイヴンの体がびくりと痙攣した。
更に歯で指を挟みながら、その傷跡に舌を伸ばす。

「……ッ!」

レイヴンの震動を指と舌で感じながら、ラムレザルは彼に近づく。

苦痛を喜ぶという感覚が遠い。
ならば、この現実の距離だけでも近くなりたい。

指を咥えながら、指を咥えられながら、一歩二歩と距離を詰める。

「――――」

彼からの拒否はない。
受け入れられた事の証左を得て、ラムレザルの心が高鳴る。

彼女がついにレイヴンの懐にまで迫り、その胸先に頭を預けられるほどに近くなった。

体温を感じる。

熱った体には、彼の体の冷たさが快い。
そのまま体の全てを預ける。

すると、レイヴンは空いた左腕で己の外套を掴み、北風から守るようにラムレザルを包む。

「あっ――」

思いがけない彼の行動に、頬を紅潮させる。
ここまで近づいて、外套と腕に抱き抱えられ、レイヴンの匂いをはっきりと知覚した。

古く安らいだ匂いだ。
永くその枝葉を伸ばし、生命に休息の木陰を与える巨木のような匂いだ。

目を閉じる。
きっと、親に抱えられた子とは、このような気分になるのだろう。

落ち着く自分を認識する。

「…………」

しかし、それと同時に、自分の奥底に熱が湧き上がっている事に気づいた。

このままでいたいという幼い自分。
これ以上が欲しいという知らない自分。

その二つがせめぎ合う。

ラムレザルは、温まった彼の指から口を離した。

「――――」

ラムレザルに合わせて、レイヴンもまた彼女の指を咥えるのを止める。
彼女を見つめていると、潤んだ目で見上げるラムが呼ぶ。

「レイヴン――」

自分の名を睦言のように呼ばれ、レイヴンは継ぐ言葉を、彼女を待った。
ラムレザルは彼の胸に手を置き、くしゃりとレイヴンの服を握る。

「分からない……」

これ以上が欲しかった。
だが、それが何であるかを分からない。

無自覚ながらも肉体は本能に濡れ、病原なき熱病に悩まされる。

「ラムレザル――」

レイヴンが囁く。

彼は分かっている。
彼女が何を求めようとしているのか。

彼女が、肉欲を自覚しつつあるのが。

しかし、それに応える事は禁忌に等しい。
彼は心臓に寂寥を沈殿させ、ラムレザルを抱き抱えていた腕を離す。

「ッ!」

二人の間に、切るような風が、彼女に離別を差し出した。
レイヴンは一歩、二歩とラムから距離を取り、ゆっくりと空間に溶けていく。

空間転移――。

それを見たラムは、兎のように跳び寄った。

「いや――!」

悲痛な声を上げて、彼の腕をつかもうと手を伸ばす。
その手は、半透明の腕に触って、通り過ぎる。

先まで自分の感情を与えていた存在の喪失。
自分の感情すらも摘出されたような感覚に、茫然と立ち尽くした。

風が冷たい。
自分を包んでいた、彼の外套が無くなった事に気づく。

ふと見やれば、レイヴンが灯した火は既に息絶えていた。

昏い木立の中で、一人きりの孤独が押し寄せる。

ならば、ソルとシン――あの二人の下へ帰るか?

熱は未だ燻ぶっていた。
この熱が何かは分からないが、二人に打ち明けるのは忌避感がある。

胸に手を当てる。
早鐘の心臓が存在を訴え、消沈の滓を巡らせた。

気力を失くした体は地に膝を突き、ラムレザルはへたりこむ。

腰が地面に落ちる。
布越しに陰部が地面と触れると、小さく声を上げた。

「あっ――」

地面の石や草苔のわずかな隆起のささやかな刺激。
それでも、女の体に無知な少女には確かな快感だった。

だが。
一人で自分の熱を抑えこもうとするのは、何よりも心淋しい。

「ああっ、んっ……!」

腰を揺らし、求める感覚を得ようと無我に高める。

この場に、欲しい人もいない。
訳のわからない欲求を止める方法も分からない。

しかし、朧にも理解し始める。
汚いと、恥ずかしいと忌避しても、止まる事ができない。

ラムレザルは「そこ」に布の上から指で触れ、掌を押しつける。

「やっ……!」

目を瞑る。潤んだ瞳から涙が絞られた。
それは快楽に耐える為でも、己の痴態から意識を逸らす為でもある。

感覚の波に体を強張らせ、ラムレザルは地面に座ったまま事を続ける。

目蓋の裏に、自然と黒い影が浮かんでくる。

「あっ……ああっ……」

誰も見えない空間に切ない声が吸いこまれる。

分からない。
こんな事も分からない。
これが正しいかも分からない。

いや、間違っているのだろうという漠然とした確信が彼女に浮かぶ。

自分に知らない事を教えてくれる人はもういない。
去来する空漠を埋めるように虚ろな熱が増していく。

「うぅっ、んっ……!」

この夜が訪れるまでは、何も知らなかった指が、悦楽に飢えて艶めかしく動く。
その度に、自分がこんな事をしているという事に酷く傷ついていく。

地面に横たえ、火照った身を土で冷ましても、なお欲求から逃れる事ができない。
右頬を土で汚しながら、太腿で己の右手を挟み、無我夢中に弄る。

惨めで、孤独で、泣きそうだった。
煽情的でありながら、見つめる事のできない状況に、一陣の風が差しこまれる。

その匂いを、彼女は知っている。

「――ッ!」

風が巻き上がると、暗闇と混ざり合って凝固し、一個の影となる。
その影の頭に頂くのは、銀の光。

レイヴンが再度顕現すると、ラムレザルは慌てて身を起こした。

去ったはずの彼が、何故?

再来した充足の存在と相対し、喜びよりも先に羞恥心に駆られる。
何しろ、もしかすれば、先程の狂いようすら見られていたのかもしれないのだ。

一瞬にして紅潮するラムレザルの顔を見れず、レイヴンが目を逸らしつつも答える。

「……本当ならば、お前が帰る事を確認してから去るつもりだったのだが」

ラムレザルの傷ましい自慰を目の当たりにして、耐え切れずにその姿を表したのだ。

自分の与えた影響は、彼女に自慰行為へと走らせるほど大きかった。
それは何より、レイヴンに罪悪を知らしめた。
彼女がそれほどまでに自分を欲しているのだという事をも。

彼女が、己に欲情している。
その事実に高揚する心を汚らわしく思いつつも、レイヴンは彼女と相対する。

ラムレザルは、恥ずかしさに、泣き出しそうにも、逃げ出しそうにもなりながら、それをも上回る感情に動く。
紛れもない、刹那的な愛情。

「――ッ!」

今度こそ、消えない彼に手を伸ばす。
確かな腕がラムレザルを迎え、千年の匂いに溺れる。

ラムレザルの腕がレイヴンの背に回され、力一杯に抱きしめられた。

「……ッ」

抱擁される感覚に戸惑いながらも、レイヴンもまたぎこちなく抱きしめ返す。

しかし、これで自分の行いが許された訳ではない。
いや、これからも許されない。

永劫の内に忘れ去ったはずの、生命としての感覚が急速に燃えたつのが分かる。
それは、彼女と同じ欲望の色をしていた。

堕落の蛇が囁きかける。
熱を得た果実を放置して腐り落ちるより、己が貪れば共に僥倖だろうと。

理性で言葉を組み立てながら、彼女の意向を確かめる。

「……お前は、戻れなくなってもいいのか?」

腕に抱えられた存在は、その言葉で彼を見上げた。
ラムレザルが、その声色に気づく。

それは最終通告だ。
後悔したとしても、取り返しのつかない事象の警告だ。

だが、それこそ自分の求めたものだった。

「――私から癒える事のない苦痛を得ても、『その先』が欲しいというのか?」

レイヴンからの確認に、
ラムレザルは、微笑を携え、はっきりと答える。

「――その痛みも、私の生きた証になる」

凛とし、揺るぎのない声。

彼女の覚悟に、抗いの否定を与えるのは不義理だと知っている。
「無駄だ」「どうせこいつも離れていく」「自分の欲望で彼女を傷物にするのか」――
無数に湧き立つ正論を抑えこみ、レイヴンが告げる。

「お前が、この世界に降りてどこまで知識を得たかは知らないが――」

ラムレザルの瞳を見据える。

「私がやろうとしている事は……恋仲にある人間のやる事だ」

その言葉を受けて、ラムレザルが確かめる。

「……恋? つまり……恋人?」

言葉になった事実を差し出され、レイヴンは重くうなずいた。

「……ああ、そうだ」

肯定を受けて、ラムレザルの顔に喜色が咲く。
花が開く様を早回ししたように、手指の動作の末端まで笑みが広がっていく。

「いいよ」

ラムレザルが、その意味を甘受した。

「エルからよく話される。あたたかいものだって。
 貴方なら、恋人でいい」

その言葉に、レイヴンの善意が怯える。
例え、言い難い契りで結ばれたとしても、

「……一夜きりで別れるだろう」

己は結局、「あの御方」に仕える身なのだ。
彼女の傍に常にいられるような存在ではない。

ラムレザルは彼の葛藤を見通して、それごと包む寛容を備えて受け入れる。

「それでも、貴方を好きになったから」

「――――」

初めて、かもしれない。
これほどまでに、打算のない、綺麗な好意は。

正面からそれを受けたレイヴンは、考えるよりも先に、ラムレザルを抱きしめながら後ろへと倒れた。

「あっ……」

驚きの声を上げるも、彼女は抵抗せずに共に倒れる。

レイヴンの背は地面につき、ラムレザルは彼の身体の上に伏せた。

レイヴンは彼女の背中を撫で、そっと耳元に提言を預ける。

「動きたければ、そうすればいい」

そう言って、レイヴンは右脚を彼女の両脚の間に差しこんだ。
そして、右脚を立てて、ラムレザルの股座に近づける。

レイヴンが、ラムレザルの背に回した腕に力をこめる。

「……っ!」

ラムレザルもまた、強く抱きしめる。
それは縋る意味合いも含んでいた。

覚悟はした。受け入れもする。
それでも未知のものに対する不安がある。

しかし、それでも「欲しい」と思った。

それはこの熱を冷ます方法か、彼自身の感情か、あるいは――。

「――ッ!」

思考が一瞬、停止する。

レイヴンの右脚は、ラムレザルの体を突きあげるように股座を擦り上げた。
布地の上からの刺激だ。
だが、自分の意思によらない不意の刺激に、彼女は思わず目を見開いた。

ラムレザルの表情を窺うレイヴンは、彼女の不意の驚きに対する謝罪のように、彼女の髪を撫でる。

「んん……」

ラムレザルの緊張が解れるのを確認して、今度はゆっくりと右脚を動かす。

上下に震動させ、緩い刺激が伝わってくる。

「ぁっ……んっ……」

連動して、互いに体が揺れ合った。
それは揺り籠のように安らぐ一定の周期のものであり、されど心臓の鼓動はゆっくりと上がっていく。

髪の合間に溶けるような、レイヴンの細やかな指。
象牙の櫛のように心地好く、ラムレザルが瞼を閉じる。

体は昂っているというのに、心は安らいでいく。

「んっ……」

より体重を預けてきたラムレザルに、レイヴンもまた安らぎを得ていた。

これまで、自分の生というのは自他ともに拒絶の道だった。
他者への不信から関わりを拒み、他者から畏怖され繋がりを絶たされていた。

しかし、ラムレザルの純真が己を許し、こうして自分の体にもたれかかっている。
その事実は、永く得られぬ感情をもたらしてくれる。

「んっ、ああっ……!」

なおも、右脚の震動は休める事はない。
ラムレザルに刺激を与え続け、彼女の口から洩れる嬌声は熱を増していく。

「はあっ、ッあ、ぁう……!」

レイヴンの右脚に、やがてじっとりとしたものを感じられる。
運動から来る己の汗もあるだろう。動悸の荒い彼女の汗もあるだろう。だが、恐らくはそれ以外も――汗ではない、「何か」もあるのだろう。

「充分」と判断したレイヴンは、左腕でラムレザルを抱えながら、上半身を起こす。

レイヴンと共に身を起こす形となったラムレザルは、ぱちりと瞬きをして彼を見つめた。

相手は何をも分からぬ少女である。
いきなり本番という訳にはいかない。段階は経なければならない。

レイヴンは徐に右手の手袋を外した。
それをじっと見つめるラムレザルの視線を振り払うように、露わになった中指をすぐさま自分の口に含む。

そして、己の指を舐め始めるレイヴンに、ラムレザルが声をかけた。

「何をしているの?」

知識がなければ唐突な行為でしかないが、挿入の前段階として、彼女に慣れさせなければならない。
しかし、ここまできても羞恥心が先に立つ。口で「それ」を懇切丁寧説明するには面映ゆく、

「濡らす為だ」

言って、唾液を中指に絡ませる。

「……そう。じゃあ――」

ラムレザルが、口を寄せる。

「私も、手伝う」

「ッ――」

別にいい、の声を上げる間もなく、ラムレザルの唇が中指に触れる。
いや、それどころか、勢い余ってその唇は、中指越しに彼の口にまで達した。

柔い。熱い。無垢の味。

そして、ラムレザルの舌がちろちろと指の腹を舐めていき、互いの津液が混じり合う。
指を隔てた口づけに、互いの脳が火照りに囚われた。

しばし時間が過ぎる事を甘受していたレイヴン。
だが、チチチと夜を鳴く虫に急かされたように、口を離した。

「まだ……して、いなかったな」

一夜とはいえ、恋仲という事を認めてから、口づけをしたのは初めてだ。
その言葉の意味を彼女は知らないと思っていたが、ラムレザルは存外にそれに反応した。

「誓いの、キス?」

エルフェルトから教わった、婚約の知識から引用し、それは彼に動揺をもたらした。

「……知っていたのか」

ならば、口と口を重ねる意味を知ってなお、ラムレザルは自分に口を重ねたのか。
思わず、彼は左手で顔を隠す。赤くなる感情が表情に出てしまいそうだった。

ラムレザルは彼の腕を取り、なおも中指を舐め続ける。

「……んっ」

唾液で照る指を見て、レイヴンはラムレザルの肩に手を置く。

「もういい。これで、充分だ」

レイヴンの宣言を受け、ラムレザルが口を離した。
口づけの残滓は銀色の軌跡を描き、やがて切れる。

準備は、まだ続けなければならない。

レイヴンは手袋をつけたままの左手で、ラムレザルのホットパンツのウエストに触れ、

「……ッ!」

防衛反応から、反射的にラムレザルが身をよじる。

「嫌か」

問うレイヴンに、ラムレザルが首を振った。

「ううん……突然で、びっくりした」

そう言って、彼女は宛てのない腕で、自分の胸を撫でる。

「これからする事は、なに?」

ラムレザルに質され、レイヴンはしばらく沈黙した。

性的な事柄を口に出す事に羞恥はある。
だが、これからそれを体で行う事だ。言葉にする事が何だというのだ。

面映ゆさをそう納得させ、少々首を捻って答える。

「この指を、お前の中に入れる」

「なか?」

ラムレザルは合点のいかないようで、首を横に曲げた。

レイヴンは意を決し、ずいと迫ると、濡れた中指を彼女の陰部に、布越しに宛ててみせる。

「――ッ!」

突発的な快感の波が、彼女の脊髄を伝う。

「ここに入れる」

彼の宣言に、ラムレザルが顔を伏せ、恥ずかしげに赤くなる。

「……入るの?」

その部位がそのような器官だとは知らず、その目は大きく丸くなっていた。
レイヴンは、口にせずに首肯する。

そして、先程拒絶された左手で、再度ホットパンツのウエストに指をかける。
ラムレザルは不随意に体を硬くするものの、その指を拒まずに行く末をじっと見つめる。

レイヴンは大きく息を吸い、左手をゆっくり、息と共に降ろした。

「やあっ、ぁあ」

彼女から、一際大きな声が上がる。

今まで、誰にも晒した事のない秘所である。
それを明かされ、羞恥心に身が焼かれる。

これまでの責め苦に焦らされた彼女の陰部から、熱ある愛液が、冷たい夜闇に蒸気を立てた。
その熱気がレイヴンの左手を撫で、ぞくりとする獣の感覚が沸き上がる。

その感覚を宥めつつ、彼は右の中指の先を、ラムレザルの陰部に置いた。
少しばかり、周囲をなぞる。

「んゃっ、ひゃぁっ……!」

普段の澄んだ彼女から遠い、羞恥と高揚と陶酔の表情。
その口から紡がれるのは、雄の情を揺さぶる艶やかなものに仕上がっていた。

レイヴンの指先には、唾液以外のもので濡れそぼった陰部の感覚が返ってくる。
指の一本ならば、容易に入るだろう。

彼は左腕をラムレザルの肩甲骨に添え、右手の中指は膣口に宛て、彼女に行為を確かめる。

「入れるぞ」

ひとしきり、静かな吐息と荒い呼吸が空白を埋めた後、彼女は間違いなく首を縦に振った。

「うん」

決死の決断を下すように、レイヴンはしばし目蓋を下ろす。
彼の目蓋が上がると共に、中指を彼女の中へと入れていく。

「んぁあっ、あッ……!」

充分に濡れていた為か、その声に苦痛は潜んでいない。
そも、本来は赤子の頭すら通る器官だ。指の一本ならば、初な乙女であろうと入るものだ。

とはいえ、一夜の想い人には苦痛を与えたくはなかった。
ラムレザルが痛がっていない事に、レイヴンは表には出さずに胸を撫で下ろし、彼女の表情に目を向けた。

彼の視線に気づき、ラムレザルは上目遣いに見上げる。

「なんだか、変な感じ」

感覚のこそばゆさからか、彼女の頬はおかしげな笑みを形作る。

「慣らしていく。これに慣れたら、食指も入れる」

胸の内にある段取りを開き、ラムレザルの不安を拭う。

「動かすぞ」

その宣言に、

「うん」

信頼をもって受け入れる。
中に入ったままの中指を、回していく。
温めた牛乳に、砂糖を溶かし混ぜるように。

「ん、んっ……」

快楽というより、こそばゆさが先に立った。
膣口を開く為に上下左右へと蠢く中指は、膣壁から離れる際、時折淫らな水音を鳴らす。

「ゃっ……」

その音が聴覚を揺する都度、ラムレザルは羞恥に身を揺すった。

レイヴンは彼女の容態を見て、その頬が苦痛に固く締まっていない事を確認する。
しかし、まだ快楽にはいたらないようだった。

レイヴンは数瞬、思案した後、既にラムレザルで包まれた中指ではなく、外界に出ている親指で陰核を撫でる。

「ああっ!」

認識の隙を突く感覚に、ラムレザルが大きく声を上げた。
想定以上の反応に、レイヴンの指が止まる。

「痛いか」

「う……ん、ぃ、いや……よく、わからない……」

そうは言うものの、身体ははっきりと理解していた。
中指を濡らす愛液は、陰核に触れた瞬間に湧き出ていた。

少女ではなく、女として目覚めつつある。

熱っぽく見上げるラムを左腕だけで抱きしめながら、レイヴンが囁いた。

「また、やるぞ」

「……うん、うん」

ラムレザルはぎゅっと瞼をつぶり、先程神経を貫いた衝撃に備える。
レイヴンは中指の動きは止めぬまま、親指でほんのすこし、陰核の先に触れた。

「んんっ……!」

押し殺してもなお口端から洩れる声には、機微を惑わす色が湛えている。

快楽に耐える、健気で蠱惑な反応。
彼女に中てられ、レイヴンは知らず嚥下した。
親指は陰核に触れたまま、しばらく待ち、徐にそっと押しこんだ。

「あっ、ん……ふゎっ……!」

ラムレザルの動悸はより度数を上げ、吐息は熱を増していく。
快楽を覚えていく身体は、やがて膣にも伝播する。
地面が濡れる。それほどに。

「はあッ、はぁあ……!」

抽送する際の水音に合わせて、彼女の息が乱れる。

「まだくすぐったいか?」

「んっ! はあ、今っ、違う――なんだか、ぞくって、ぁあッ……!」

レイヴンの左腕はラムレザルの背を支えているだけだというのに、その背からじっとりとした汗が出てきた。
体温は灯篭の様。只でさえ温い彼女の膣内は、今や竈のように彼の指を茹だてている。

「食指も入れるぞ、いいか」

「ん、ふぁ、ああっ、ん……!」

口からは淫らな啼声を上げるだけで、言葉がままならない。
だが、こくこくと何度も首肯し、より深い進展を望みたいと示した。

それを受けて、彼は人差し指を膣口に当て、中指と共に押し挿れる。

「ひゃあっ……!」

より刺激を増した肉の感覚に、堪らずラムレザルが喘いだ。

「ん、んん……!」

より辺りに響くようになった水音が、既に真っ赤な羞恥心を膨れ上がらせる。
それでも、止まらない。昂っていく体は、否応にも快楽を飲みこんでいく。

膣口を拡張する為、中指と人差し指を膣壁に押し当て広げる。
広げられていく動きに伴って、彼女の背中はびくりびくりと、過敏に反応を返した。

荒い呼吸の中で、それでも彼女は言葉を紡ぐ。

「ああっ、はぁっ、んぁ、れ、レイ、ヴン……」

つと自分の名を呼ばれ、平坦になりつつあった感情が跳ね上がる。
レイヴンは動揺を抑えて、ラムレザルの瞳と合わせた。

「――なんだ?」

未だ送りこまれる快感の波を押さえて、彼女が訊く。

「この、いつもとは……『違う』感覚が……『気持ち、良い』……なの……?」

「恐らくは、そうだろうな」

「なら――」

ラムレザルが、右手で彼の頬を覆う。

「貴方の、『気持ち良い』と、同じ……?」

不意の確認に、レイヴンは静止する。

――自分の「それ」とは、違うだろう。

彼は、痛みを以て「生きている」という事を確かめる。
苦痛に因って、己の肉体を怯えさせる事で、まだその部分は正常なのだと確かめる。

「気持ち良い」という事。

同じ言葉であっても、ラムレザルをその域に引きずりこむ事はできない。
彼女を、苦痛に狂う存在には、できない。

レイヴンは静かに首を振る。
それを見て、彼女は小さくつぶやいた。

「違うの……」

悦楽に濡れた瞳に、悲哀が一粒だけ混じる。
しかし、その一粒を掻き消すように、レイヴンの二指が膣を抉った。

「ああっ! んっ……!」

寂しい。
こんなにも近くなったのに、彼と同じ快楽を得る事ができない。

その寂しさを埋める為、ラムレザルの口が、彼を求める。
求めた結果、口唇がレイヴンの首に辿り着く。

「ッ!」

レイヴンは一瞬、眉を跳ね上げた。
ラムレザルは彼の首筋を噛み、犬歯を皮下へ抉りこむ。

苦痛。
彼にとっての、快楽。

レイヴンの口が動く。
「何故」と問われる前に、ラムレザルが答えた。

「――違う感覚でも、いい。
 一緒に、気持ち良く、なりたい」

健気な奉仕に、レイヴンがびくりと反応する。

「気持ち、いい?」

数十秒の時間をかけて、レイヴンが頷く。
彼の首肯を得て、ラムレザルは瞳を閉じた。
視覚を遮断し、触覚と味覚が鋭く尖る。

首筋から溢れる血を、舌で拭う。
傷口を溶かす唾液が、熔鉄のように熱く、彼を苛んだ。

「あァッ……!」

今度は、彼こそが喘ぐ。

「ッ……」

ラムレザルの口は、彼の首で埋まっている。
それでも、肉体から押し寄せる快感に耐え切れず、声にならない喘ぎを生み出す。

互いに、互いを高め合う。
快感の種類は違う。だが、思い合うのは同じ事だ。

血を通貨に、二人は意思を重ね合わせる。
個が溶け合う。

「……んッ……!」

ラムレザルは、血の代替のように愛液を零していた。
既に三本の人差し指、中指、薬指を全て受け入れるまでになり、その全てに淫靡な照りが生まれている。

もう、拡張は充分だろう。

右手が彼女に包まれる感覚は名残惜しいが、レイヴンは左手を自分のズボンのベルトに置いた。

それに疑問を抱いたラムレザルは、彼の首から口を離して、一旦制止する。

「なに……?」

少しだけ、罪深さを再確認されて息を飲んだ。
それでも止まる事はできない。レイヴンは、彼女に知らせる。

「私が今、お前に指を入れている」

「うん……」

「だが、それは本来の『行為』の前段階に過ぎない。
 …………男というものは、女の中に入れる為の、生殖器がある」

己の下腹部を、わざと彼女の足に押しつけた。

「っ!」

布を隔ててもなお、その怒張したものにラムレザルが驚く。
男女の違いというものは、単に体格や声質の違いだけではない。

彼女は、それを実感した。
実感すると同時に、喉から熱い息が立ち上がり、欲望が羞恥心を上回る。

おおきい。
指よりも、ずっと。
そんなものを、自分の体に入れてしまったら、どうなってしまうというのだろうか。

知りたい。
いや――感じたい。

ラムレザルは両腕を下ろし、自ら陰部に手を伸ばす。レイヴンは、彼女の手の気配を察し、自らの手を彼女から引かせた。
恥ずかしい。だが、彼もやった事だ。

彼女は指で入口を引き広げ、レイヴンを酷く誘惑した。

「……入れて。
 私……それ……やってないのに、すごく『きもちいい』って、理解している」

異性を全面的に受け入れるという言動。
男を惑わせるには恐ろしいほどに覿面だ。

「ッ!」

許可も、同意もなく、レイヴンは衝動的にラムレザルをきつく抱きしめた。
荒い息を彼女に押しつけるように頬を摺り寄せ、右手が己のベルトにかかる。
ズボンを下ろし、ラムレザルを地面に転がす。

彼女は両脚を軽く開き、彼の到来を待ちわびた。
そして、レイヴンは両の手指を彼女のそれと絡ませて、ゆっくりと腰を下ろした。

「あぁっ!」

入る。
まずは、ほんの先端のみ。
だが、それでも過敏にラムレザルが反応する。

「ッ……!」

レイヴンもまた、情けない喘ぎ声を出すまいと歯を噛んだ。
一番敏感なのは「頭」である。彼女の熱に包み焼かれ、性感を突かれる。

しかし、苦痛ほどではない。むしろその微弱な手応えを楽しむように、しばらく腰が止まった。

レイヴンにとっては、灼熱のような抱擁だった。
ラムレザルにとっては、水のような侵入だった。

「ん、んん……!」

入口だけの刺激は歯痒く、ラムレザルが自らレイヴンを飲みこんだ。
腰を寄せ、脚に力を入れ、ずず、とより深く接触する。

「あぁッ!」

自分から動いたというのに、慮外な感覚が神経を刺し貫く。
性感帯への刺激が想像以上で、ラムレザルもまた止まってしまう。

二人、静止する。

見下げるレイヴンの眼に、見上げるラムレザルの瞳に、片一方の瞳眼が浮かぶ。
見つめ合ったまま、どちらからという始まりもなく、唇に引力が生じた。

「ん……」

彼女は、瞳を閉じた。

間近に、愛しい気配がする。
こんなにも興奮するというのに、安心してしまう。

ラムレザルの体が弛緩する。
だが彼は、違った。

「っ!」

一気に腰を押しつけ、ラムレザルの体を貫く。
最深部に到達しては、急速に引いて、再度寄せた。

「ゃっ! あっ、んぁッ、やあっ!」

彼の唇から離れ、ラムレザルが喘ぎ出す。
彼女の蠢く唇を舐めながら、レイヴンが彼女の体に沈む。

刺激を。
より眩い快楽を。

己は苦痛を至上としている。
あの痛烈な感情の先鋭化を思えば、性的快楽など足元に横たわる。

首には、彼女が残してくれた傷痕がある。
それを種火に、己の昂ぶりを持続させ、彼女を満たさねばならない。

女の体というのは、幾度も経験がある。
その過去を引き出して、彼女の体を貶める。

「ゃっ、あぁッ!」

声に苦痛の色はなく、悦びの一色に染まっている。
だが、ラムレザルは、レイヴンの背に腕を回すと、己の首を起こして彼の耳に言葉を置く。

「だめっ……!」

明確な、否定の意志。
レイヴンは止まり、同時に心が凍る。

自分の行いが彼女を尚更傷つけたのか、その恐れに。

ラムレザルは、彼の瞳を真っ直ぐに見つめると、彼の不安を払拭するように首を振る。

「だって……貴方が、『きもちよく』ない……!」

ラムレザルは、背に回した手を鳥趾の形にし、彼の広い背に爪を立てる。

「あまり、痛くは……『きもちよく』は、ないかもしれないけど……」

彼の鎖骨に牙を立て、骨を軋ませる。

「でも……私は、貴方と一緒がいい。そう言ったの」

「……!」

自らの手で、自らの体を傷つけるのではなく、
彼女の手で、自らの体を傷つけられる。

それも、憎悪や嫌悪によってではない。
愛を向けながら、傷が生まれる。

確かに、この痛みはどこまでも小さい。
それでも、愛し、愛される存在からの贈与の証明。

感度の大きさではない、感情の大きさだ。
二つの傷を得たレイヴンは、興奮を保ったまま、再度動く。

「んんっ……!」

今度こそ。
互いに満たされながら、静かに、しかし情動は激しく、互いの体を沁み込ませる。

「あっ! やっ、ぁんッ……!」

ラムレザルが、膣の奥深くを突かれる度に甘い声を出す。

「っ……!」

レイヴンが、背に傷を一筋刻まれる度に震える。

彼女の中を掻き乱す都度、彼女から苦痛のフィードバックが返ってくる。
その繰り返しに、脳が錯覚を引き起こす。

苦痛ではなく、ラムレザルの体こそが、「きもちいい」と。

「はぁっ……!」

彼の口から、声が漏れる。

彼は、己の経験を元に、彼女に悦楽を教えこんでやろうとしていた。

だが、違った。
むしろ彼女の素振りこそ、彼に苦痛を餌とする、(あるじ)の振る舞い。
生命としての、人間としての快感に鳴らすよう調教しているようだった。

性感に呼応して苦痛を与え、それが「きもちいいこと」だと身体に再認識させる、パブロフの犬。

何が要因として自分の身が歓喜しているのかすら、分からなくなる。
感覚の混線が頭に火花を散らし、これまでにないものが沸き上がる。

「やっ! だめっ! なにか、……くる!」

ラムレザルも同じだった。
味わった事のない絶頂の到来に、不安と期待を綯交ぜにする。

腰を一際大きく引くレイヴン。
ラムレザルはその一撞を察知し、彼の腰に脚を巻きつかせ、彼女から彼を受け入れる。

「ぁあッ!」

どちらから出た声なのか、あるいは両者からなのか、分からなかった。

後ろに脚を回され、奥深くまで彼女を穿ったレイヴンは、
彼女の深層に、自己を溶かした。

「ひゃ……!」

これまでの感覚とは違う、固体ではないモノの存在を知覚し、ラムレザルが驚きの声を上げた。
同時に、心身が幸福に満たされる。

ああ。
きっと、これが、私の、貴方の、「きもちいい」。

充足を脳に刻み、しばらく二人が抱き合っていた。

「……………」

沈黙が快く過ぎていく。
相手の吐息の音が、耳を撫ぜる。

ラムレザルの絡む脚が弛緩すると、レイヴンが彼女から離れた。

「んっ……」

離れる間際に、くちゅっ、と互いの性器が鳴り合った。
ラムレザルは恥ずかしげに頬をこすり、それからレイヴンのものを改めて見る。

「それが……入ってたの?」

見つめられたレイヴンは、若干の居心地の悪さを覚えるも、隠す事なく返す。

「そうだ」

「へえ……」

妙な感慨が湧き、じっと見やる。

実際に入れる際には、触覚でその存在を知っただけで、視覚として捉えたのはこの時点からだ。

ラムレザルは、好奇心から手を伸ばした。

「……何をする気だ」

レイヴンが疑問を呈する。

「だめ?」

首を傾げるラムレザルに、口ごもるレイヴン。
黙する間にも、彼女の手が触れる。

「ッ……」

ほんの少しの刺激でも、体全体が痙攣する。
射精したばかりで、感覚が鋭敏になっている。

縮小し、軟質化したそれを、ラムレザルは可笑し気に触った。
生物として秘匿すべき、男性器の敏感さを考慮しない、無邪気な愛撫。

「っ!」

ビクビクと引き攣るレイヴンに、ラムレザルが歯を見せた。

「これも、『きもちいい』?」

常であれば取るに足らない感覚だったが、性感と痛覚を攪拌されたレイヴンにとって、それは彼女の指摘通りのものだった。
射精したばかりであっても、精巣からぞくぞくと爛れた気配が昇ってくる。

「……ふふ」

ラムレザルはすっかり彼の感情を透視しているようで、レイヴンがこの状況が嫌ではないと理解していた。
精神的苦痛――少女に弄ばれているという状態――も加味して、レイヴンが再度高まっていく。

「わ……」

手の感触が、より輪郭のはっきりとした主張をしてきた。
それと呼応するように、ラムレザルの体の奥がまた疼く。

接合の熱の再来に、今度は彼女からレイヴンの上に跨った。

「……大丈夫か?」

レイヴンの心配に、ラムレザルが僅か笑む。

「多分。私は分かった、と、思う」

彼女自身のものと、彼のもので、膣は既に濡れている。
初めてのときよりもずっとスムーズに、受け入れる事ができた。

「んん……」

ラムレザルが腰を下ろしていく。

「はあっ……」

正常位では互いの顔を見ているだけだったが、騎乗位の体勢では、下腹部の様子がはっきりと見える。
レイヴンは自分のものが彼女の中に沈んでいく場面を見て、被支配の悦楽を味わった。

「……私の事は、気にしなくていい。今度は、お前の好きなように動け」

「うん。レイヴン、ありがとう」

彼の名を囁いて、彼女は本能に従って動き始めた。

「あっ……」

分かる。
理解、した。

彼から手解きを受けた事で、自分の欲望の方向を理解できた。
レイヴンが離れ、一人残された時とは違う。どうすれば、己の熱を冷ます事ができるのかを、知っている。

足に力を入れ、静かに腰を浮かし、重力に任せ、腰を下ろす。

「あっ、んっ、はぁっ、んんっ」

繰り返す。
自分から、自分の好きな所を。

「……っ」

無我夢中になるラムレザルを見つめ、レイヴンの指が地面を掻く。

こんなにも、彼女は己を貪っている。
愛欲の証左を目の当たりにして、高ぶると共に罪深さを痛感する。

ラムレザルにこんな事を教え込んだのは自分だ。
姦淫の罪。この世界に自分たちしか知らない、林檎の味。

背徳感が脊髄を駆け上がり、高揚の火の薪とくべられる。
罪深いほど、深く溺れる。

「っ、あ、ん、いいっ」

ラムレザルの行き場のない腕は、彼女自体の体を抱きしめる。
体が上下する毎、彼女の褐色の胸が震え、伝う汗が飴になる。
柔らかく膨らんだ胸が、鼓動に前後する。

女だ。
彼の眼前に広がる光景が、全てそう訴えていた。

「――はあっ」

ラムレザルが下腹部を圧迫し、そこから空気が押し出されたように、レイヴンの口から息が漏れた。

千年。
その千年の間に、彼女ほど自分を必要と者はいるのだろうか。

この身は、「あの御方」に捧げたものだと信じていた。
「あの御方」は、確かに自分を必要とはしているだろう。己を礎と、柱と、(みぎり)として。

彼女はそうではない。
己を欲情の、情愛の、愛恋の――一人の人間として、私を愛している。

――私は、
――私は、どうだろうか。

愛するという事を、何年か何十年か何百年か前に、諦めたつもりだ。
人間の感情に欠陥を抱き、それでも存続する惨めな有機体だと自己嫌悪していた。

それがどうだ。
己の胸に溜まる、この灯火は何だというのだ。

千年。他人から言及されるに、「永い」と断じられた事がある。
自分もまた、この千年は感情の石臼として引き潰してきた、長きにわたる退屈であった。

この瞬間。
自分が千年を生き続けて、この灯火は、千年辿ってきた生涯の何にも一致しなかった。

過去が一瞬に脳裏を巡って、ともすれば、ラムレザルという存在との邂逅が、この千年の回答とすら錯覚した。

――いや、錯覚だ。

自虐的に笑い、期待を下げ、そうして来るべき失望の落差に備える。
そのレイヴンの機微すら察して、ラムレザルは手を伸ばした。

「――私は、貴方を愛している」

真っ直ぐに、正面から。
その言葉を投げるより、受け止める方が恥ずかしくなる直球だった。

「だから、貴方は、私を愛して」

「…………」

命令を受けたのは、何度だってある。
遥か昔、母国の戦争で殺せと言われた時もある。あるいは主の下、ヴィタエ回収の命を受け、そこでも殺した事がある。

その命令の、何と甘美な事だろうか。
彼女は、自分が他人を愛する機能を持つ人間として扱い、そう言っているのだ。

レイヴンはラムレザルの伸ばした手を取り、指を絡ませた。

「ああ」

レイヴンと意思を通わせ、ラムレザルが再度動き始めた。

愛している。
愛されている。

その実感が、より湿潤に欲求を募らせる。
目と膣を濡らし、ラムレザルの腰が蠢く。
それにレイヴンの律動も加わり、両者がもう一方を慈しむように貪る。

結合部から溢れる、二者の体液が地面に広がる。
腰が動く毎に淫猥な水音が立つが、それに恥じ入る事すらない。
最早互いに互いを求めることだけに意識が注がれ、聴覚には片翼の吐息、視覚には片目の面差。

「きゃっ! んんっ、ゃっ!」

「くっ……ッ……はぁっ……!」

共に、絶頂の再来を察する。
ラムレザルはしなやかに背を前方へと倒し、腹部が、胸が、そして唇すら、彼と重なる。

「んっ……!」

熱を交換する抱擁。
夜の冷気にあっても、決して収まる事のない熱。

「ああぅ! くる――来ちゃう!」

脳に火花が散り、ラムレザルの膣が収縮する。
レイヴンは腕を彼女の背に回し、花園の終焉、その到来を待つ。

「ああっ! レイヴンッ! 私は――貴方を――」

唇が、虚を描く。
弧を描く。
呼を――。

知覚はしなかった。
それよりも鮮烈な、肉体と精神の融け合いに、意識が同一化する頂点に達した。



空白。
何よりも至福な、余熱の持続。

今はもう両者共に平常の服と態度を装い、しかし互いに見つめ合うと、羞恥心もなく魅了され合う。

「……惜しいな」

ぽつりと、空白を裂く。

「お前は、『あの御方』の下につかないだろう?」

諦念、残念、だが、殊更な無念はない。
それもまた一興と、レイヴンが柔く笑んだ。

「――うん。……今の所。
 貴方の事は、随分……すごく、嫌いじゃなくなった。
 でも、『あの男』の事は、分からない。だから、私はまだ、あそこにいる」

自分が抜け出してきた方面に目を向けて、ラムレザルが答える。

「だから、すごく、離れたくないけど……きっと、これで、またお別れだ」

「ああ」

レイヴンの同意が、耳を撫でる。

彼は今、私を抱きしめてはいない。
だが、こんなにも安堵する。
一緒にいるだけで、温もりすら感じ取れる。

レイヴンが指を鳴らすと、消えていた焚火は再度灯った。

「朝日は近い。だが、狼が来ては困る」

ラムレザルが、ここに来て目蓋が重い事に気づいた。
そうだ。自分は、眠れないからここまで来た。

安堵による睡魔の到来が、抗えないほど近寄ってくる。
レイヴンが、目を閉じる彼女の睫毛を撫でつけた。

「私も、お前を――」











「――レザルッ、ラムレザル!」

己の名を呼ばれると共に、頬を叩かれる。
夢の世界への未練ある目を開き、ぽかんとして目の前の人物を呼称した。

「……ソル。おはよう」

「『おはよう』、じゃねぇ……どうして俺たちから離れて、こんな所で眠ってた?」

それは、咎めると同時に、自分を心配してここまで探してきたのだろうという声色を含んでいた。
ラムレザルは申し訳なく思い、しゅんと頭を下げた。

「ごめんなさい……眠れなくて、でも歩いていたら、急に眠くなってきちゃって……」

そういえば、自分から初めて嘘をついたかもしれない。
初めてにしては上出来な嘘を、ソルが受け止めて舌打ちした。

「……確かに、そこらへん歩いて来いとは言ったが……まあ、眠るなら集まって眠っておけ。狼や野盗に絡まれたら、厄介な事になる」

「うん。ごめん。今度からは、ちゃんと一緒に寝る」

その謝罪に、ソルは怒気を収めて、ラムレザルの体を起こさせる。

「なら、そろそろ行くぞ。
 今日こそは次の街に着く。でなけりゃ、シンの泣き言を延々聞くハメになる」

ぼやきと共に、風が鳴る。
二人はそちらに注意を向けた。

朝の陽ざしと共に、鴉が舞う。

レイヴンさまはへんたいさん その3

オリジナルキャラクターとレイヴンの話
オリジナルキャラクターメイン
恋愛描写あり
SM描写あり
嘔吐描写あり
私の記憶は、起きてから寝るまでの一日しか持ちません。

ですが、私がこうして言葉として物事を考えられる通り、ある程度の記憶は持っているのです。

空を飛ぶ黒い鳥の名前は「鴉」である事。
私の名前が「」である事。
重要な事は、左腕にメモを残す事。
私の記憶が一日限りである事。

それら言葉や知識については、問題ないようです。

しかし思い出や記憶については、斑にしか覚えていないのです。

生きるべきか、死ぬべきか(To be, or not to be」の一塊が、シェークスピアの作品の一部であると知っています。
その一端に初めて接した媒体が、演劇か小説か伝聞かは覚えていません。

誕生日にはパーティを開くものだと知っています。
実感したのが誰かの誕生日か、あるいは自分の誕生日なのか。それは分かりません。

自分を産み出した男女一組が、両親というものだと知っています。
私の両親の顔も声も姿も、何一つとして頭に残っていません。

そして、レイヴン様が私の主であり、他の何者も誰よりも、神すらも超えて崇めるべき御方であると、全ての記憶よりも深く強く知っています。
しかし、何故そうなったのか。その重要な経緯を、私は喪失してしまっているのです。

私は多分、これまで何百回と、レイヴン様の御前に私がいた最初の記憶を掘り起こそうとしたでしょう。
ですが、私がこれまでに書いたメモの全てをひっくり返しても、その重大な出来事の一片も追憶できなかったのです。

それでも。
この胸に息づく確かな熱は、紛れもなくレイヴン様に向けられたものです。
それこそが何よりも証跡であり、人間が息をするのと同じくらいに自然なものです。

それが、私です。


窓から差す光を浴びて、私は目が覚めました。

「ん……」

ベッドの上で、私は何とはなしにつぶやきます。

懐中時計は、午前6時8分を差しています。

左腕には、何も書かれていません。
仕事があればメモを置こうと決めているテーブルにも、何もありません。

「今日は……何もない日」

つまり、レイヴン様に会えない日です。

複数の日に渡って記憶を持ち越す事ができない私ですが、
そういった日が一番多く、そして一番嫌いである事を、何とはなしに理解しています。

倦怠感のままベッドを転がり、ただ身の安息に浸ります。
自分の体で温まった、ベッドと毛布は心地の良いものではありました。

時間をそうやって過ごして、やっと午前7時を回ります。

私はようやく起き上がりました。

ごくごく短い廊下を通り、居間を過ぎ、キッチンへ足を向けました。
冷蔵庫を開き、野菜と魚を取り出して、ざっくばらんに切って炒めて味付けて、一食を作って平らげます。

それからメモの多いカレンダーを見つめ、今日が日曜日だと知りました。
日曜日は求職所も休みだと、カレンダーの下の私の注意書きも知りました。

仕事はない。求める事もできない。急を要する事もない。何もない。

全く、平和で退屈な日でした。

普通の人のように毎日を過ごせる機能を持っていれば、恐らく今日のような日を享受できたのでしょうが、
今日の私は、今日だけしか生きられないのです。

私は口を洗って普段着に着替えると、家を見回しました。

家は借家で、私一人しか住んでいない事になっているはずです。
しかし見回してみると、小さな鈴付の首輪や、乾燥したキャットニップ、ペット用と思しき器をちらほらと見つけました。

今はいないようですが、かつての私は猫を飼っていたのかもしれません。

過去の私の残滓を見つめ、私は一つ柏手を打ちました。

「ペットとかは、どうでしょうか」

何かを飼えば、こういった日を無為に過ごさなくても良いかもしれません。
それに、何かがあった時の――いえ、何もなかった時の備えにもなります。

私は外に出る支度をすると、地図で家から保健所の経路を辿り、
迷子にならないよう覚えこんでから外に出ました。



ペットといえば、ペットショップで注文をしたり、ブリーダーから譲り受ける方法もありますが、
何しろお金がかかります。お金は非常に大事です。

私はペットの血統書には頓着しない性分でもありますので、
こうして、保健所に足を運んだ次第です。

数十分をかけて来た保健所の様子を探ります。
どうやら、日曜日は保健所も休みのようです。

予想はできていましたので、とりあえず保健所の付近にあるであろう檻などを探してみます。
すると、すぐに目に飛びこんできました。

保健所の裏にある、鉄格子。
「立ち入り禁止」のロープのギリギリまで近づくと、その中に犬がいる事を見つけます。

今この場で持ち去る事はしませんが、目星をつけて損はないでしょう。

「小さい犬がいいですね……」

大きい犬は、散歩の時に大変そうですし、何より餌代がかかります。

「赤犬がいいと、噂では耳にしていますが……」

ならば、小さく、そして毛並みの赤い犬。

少し遠くから吟味する私は、ただ夢中になって犬を見つめていました。
その為、その人が私の肩を叩くまで、一人だと思っていたのです。

「おい、嬢ちゃん!」

「ひゃいっ!?」

不意をつかれ、私は変な声を出しながら振り向きます。
そこには、ツナギを着た男の人がいました。

どうやら、保健所の職員の方のようです。
職員の方は朗らかに笑顔を浮かべると、私に向けて親指を上げてきました。

「犬、好きなのか?」

「あ、はい。犬も好きです」

「へーぇ。それでわざわざ保健所まで?」

「そうですね。休みでなかったら保護しようかと思って来たんですが、休みだったのでどの犬をもらおうか検討していたところです」

「あー……、そうかい……」

すると職員の方は、目を泳がせて言いよどみました。

「まあ、そいつら……明日から、別んトコに行くからよ……検討しても、明日明後日にゃあいなくなる」

『殺処分する』という事を、暗喩に包んで幼子に伝える事に苦労したようで。
職員の方の気遣いに、私は偽笑で返しました。

「そうですか。それは失礼しました」

その偽笑はただの微笑を受け取られたようで、職員の方は裏のないはにかみを見せました。

「いや、むしろこっちのが礼をしたいもんさ。
わざわざ、こいつらに会いに来てくれて――おっと、そうだ」

「立ち入り禁止」のロープを巻き取り、職員の方は犬の檻の前に私を招きます。

「良かったら、最後に――最期に、挨拶でもしてくれ」

私はその招きを受け、檻に近づき中を覗きます。

すると、中にいた犬たちは、私に気づいたようです。

人懐っこく吠え、尻尾を振る首輪つきの中型犬。
威嚇の大声を出す、耳にタグをつけた大型犬。
檻の隅で震える、背や脇腹に酷い傷がある小型犬。

その犬たちがここに来るまでの背景が、それを見るだけで朧げに分かりました。
そして、その背景にある人の影も。

「……あなたたちは、自分をそうした人たちを覚えている」

私と違って。
そう心の中で付け足して、今日の私よりも長生きする犬たちに言葉をかけます。

私はしばらく犬たちを眺めてから、職員の方に向き直りました。
「ありがとうございます。それでは失礼しました」と、収穫のないこの時間を打ち切ろうとします。

ですが、それよりも前に、職員の方は私の頭をぐりぐりと撫でたのです。

「――何、でしょう?」

「嬢ちゃん、馬に興味あるか?」

「馬、ですか?」

「ああ。この保健所には、三年前から迷い馬を飼っててな。
餌でもやっていってくれ」

どうやら、存外時間を潰しそうです。
とはいえ、今日は何もない日なのです。
馬はそれほど嫌いじゃぁないので、私はその提案に乗りました。

私は移動する職員の方の背についていき、野腹を通って大分離れの木造の小屋につきました。

職員の方は小屋の裏に行った後、人参を盛ったバケツを持って戻ってきます。

バケツをどかんと足元に置くと、その内の三本を私に手渡しました。

「コレ、小屋の中にいるから、やっといてくれ。
オレはちぃっと準備したいから、よろしく頼む」

「はい。分かりました」

快諾し、小屋の中を見ると、確かにその馬はいました。

馬は藁の敷かれた床に座りこみ、目をつぶって寝息を立てています。
寝ているのを起こしてはいけないと、私はしばらく馬を眺めていました。

栗毛の、少し痩せた馬です。
たてがみには白い毛も混じっていて、その馬は老いた馬なのだと知れました。
その馬の空気には、私が見知った色が混じっています。

死の気配。

飼いならされた馬とて、元は野性の草食動物です。
弱っている所を見せれば獣に襲われるからこそ、自身の病や怪我の素振りは隠そうとします。
それでも、その内に秘められた死の香りが、なんとはなしに漂っていました。

私がしばらくじっと見ていると、馬は耳を立てて顔を上げます。
そして私と目が合うと、よろよろと立ち上がりました。

私は手にした人参を馬の口元に運びます。
馬は、人参を検分するように鼻を押しつけましたが、「良し(グート)」と判断して、人参を口にしました。

ぼりぼり、というくぐもった音が何度か反復し、音が消え去ると――つまり嚥下すると、馬は鼻息を荒くして次を催促します。
私は二本目の人参を馬に渡した後、足音に気づいてそちらに体の向きを合わせました。

「おう、仲良くやってるな」

職員の方は、鞍や鐙などの馬具を小脇に抱えてやってきました。
私はそれも気になりましたが、何よりも先んじて抱いた疑問を解消します。

「この馬、もしかしてそろそろ寿命なのではないでしょうか?」

「……よくわかったな。
そうさな。こないだ獣医に見せてやったら、もう年だそうだ」

「そうですか」

このような馬もまた、死を得る事ができる。
そう考えた時、ふと目蓋に浮かんだのはレイヴン様の憂い顔でした。

その悲しげな美しさに目を遠くに配すと、ほうと溜息を吐きます。
それを、馬への憐憫と思わせてしまったようで、私の頭にぽんと手が置かれました。

「まあ、そう悲しまんでくれ。
これが普通で、日常だ。何かしらが死んで、だが何かしらが生まれてくる」

職員の方はわしわしと私の髪を乱すと、人懐っこそうな笑顔を浮かべて言いました。

「なあ、嬢ちゃん。乗ってみるか?
嬢ちゃんなら、軽いし、きっとコイツにそう負担はないだろう」

今日は、有り余るほどに時間があります。
断る道理はありませんし、少しばかり興味がありました。

首肯すると、職員の方は手で招いて馬の傍に寄らせます。

促されるまま鞍にまたがり、手綱を握ると、職員の方は馬を起こして手綱の端を牽きました。
すると、馬は牽かれた方向にゆったりと進み、その揺れに落ちそうになる身を慌てて固定しました。

「大丈夫か?」

「は、はい――」

大丈夫です、と続けようとしました。
ですがそう続けられなかったのは、大丈夫じゃぁなくなったからです。

馬は突然いななくと、職員の方の手を振りほどくように駆け出していきました。

「うわあっ!」

「ああっ! 待てっ! どうどうっ!」

なんとか追いつこうとしますが、人間と馬の足の速さは歴然です。

馬は私を乗せて走っていきます。
私は必死に手綱を握り、足を踏ん張り、振り落とされまいと体を強張らせました。

私はそのあまりの速度と振動に恐れ、歯を食いしばって馬に縋りつきます。
その内、速度に慣れてきた目が、再度恐れに曇りました。

「このままだと、街道に出ます……」

こんな暴走馬を道で走らせては、要らぬ騒ぎを起こしてしまいます。
そうなってしまえば、従者である私を伝ってレイヴン様にご迷惑をおかけしてしまうかもしれません。

私は馬の首を叩き、叫びました。

「止まってください! どう、どう!」

それでも、正に馬耳東風といった様子でした。
人気はありませんが、街道に入ってもなお速度を緩めません。

この聞き分けのない馬をどうやって止めるというのでしょうか。
私が、忍ばせたナイフを指でなぞったその時でした。

馬は目の前に人混みがあると察知すると、ようやくその足を止めたのです。
ほっと胸を撫で下ろしていると、人混みの中から声を聞きました。

「第一連王様だ!」

その言葉に顔を上げます。

第一連王様。
名前は覚えていませんが、非常に位の高い御方だという事は覚えています。

私は、馬のお陰で高くなった視線を生かし、遠くにその姿を捉えました。
そして、息を飲みました。

「……きれい」

殿方に抱く感想としては、女々しかったかもしれません。
ですが、その金糸の髪と鮮やかな碧眼は、遠くからでもはっきりと綺麗だったのです。

その方も同じく、馬に乗っていました。
とはいえ、私のように最低限の馬具を備えただけの老馬ではなく、一目で王家のものと分かる、上品な金や青で彩られた白馬です。

その白馬に乗った連王様は、それはとても魅力的でした。

王というのは、威厳ある印象が先行しますが、
しかし、その人は険しさと程遠い柔和な様子で、取り囲む人々に笑顔を振りまいていました。

白馬の王子様。
童話でのみ語られる存在は、その内の一字を欠いてそこにいたのです。

私は、じっと見惚れていました。

そして、連王様がこちらの方向に目を向けた時。
私は、その時愚かしくも、「私を見ている」と錯覚したのです。

自分でも分かるほどにぼうと上気して、一瞬で心臓が締め上げられてばくばくと脈打ちます。
私は連王様が後ろを向いても構わずに、ただじっと連王様を見つめていました。

時が止まれば。
一日しか生きられない私は、恐らく過去にも何度も思った事でしょう。
ですが、今日ほど強く想った事は、恐らく過去にはなかったでしょう。

私は懐中時計を強く握り、このまま壊せば時が止まるような気がして、ただ強く強く握りました。
懐中時計が軋む音を立てたその時。
遥か遠くで、ぼん、と爆発音が聞こえました。

最初は、連王様の来訪を祝う花火かと思いました。
しかし、爆発音を耳に入れた人々のざわめきと、音の立った方向からもうもうと立つ黒煙が、それは不穏なものであるとの推測に至ります。

この事態に不安に揺れる人々でしたが、しかし、連王様の顔に浮かんだ表情はどうにも違いました。

引きつった笑顔。

通常であれば、顔を曇らせたり苦い顔をしたりするものでしょうが、
どうにも連王様は、この黒煙の方角に対して、そんな表情を浮かべていました。

連王様は慌てた様子で手近な兵士に指示すると、その指示で得たと思しきマイクを手にして呼びかけられます。

『……えー、皆様。申し訳ございません。
先程の爆発ですが、今回の式典で使われるはずの花火が暴発してしまったようです。
お騒がせいたしまして、重ねてお詫びいたします』

その言葉に、人ごみから安堵の声と笑い声が上がります。
私は、その申し訳なさそうな声がどうにもおかしく、周囲につられて笑んでしまいました。

連王様は兵を黒煙の方向に向かわせると、人々に手を振ってどこかへと去っていきます。
私はその背が見えなくなるまで、ずっとずっとそこにいました。

多分、恋というのは、こんな事なのだろうと実感しました。


私がようやく我に返ったのは、昼ご飯の頃に腹の音が鳴った時でした。

私はまだ馬に乗っている事を自覚すると、慌てて踵を返します。
馬を帰さなければなりません。

慣れないながらも、手綱を手繰って馬を進ませ、ゆっくりゆっくりと歩かせます。

どうやら、先刻の疾走で、走る事については満足したようです。
息の薄い様子でしたが、生憎馬の降り方を心得ていない私は、心配しながらも馬を歩かせるしかありませんでした。

やがて、本来いるべき馬小屋を視界に収めると、遠くから手を振る人影が見えました。
その人影は私と馬を見ると、駆け寄ってきて、その人影が予想通り職員の方だと分かります。

「良かった。どうなったかと思ったぞ」

「然程、大きな騒ぎにはなりませんでした」

「良かった。それは、良かった」

そう何度も言って、職員の方は馬から私を降ろしてくださいました。
足を止めてもぜいぜいと息の荒い馬を見て、職員の方は目を窄めます。

「これは、ダメかな」

そう言って、馬小屋まで牽かずに、野原の真ん中に馬を寝かせ、馬の頭を撫でました。
私も、そのたてがみにそっと触れます。

わずかに温かいだけで、震えるその体からは生気が段々と失われていくようでした。

しゃがみこんだ職員の方は、私に話しかけます。

「嬢ちゃん」

「何ですか?」

「こいつと見た景色はどうだった?」

私は、連王様の姿を思い浮かべました。
それだけで私は胸が熱く、苦しくなり、深くうなずいて答えます。

「きれいでした」

「良かった。それは、良かった」

先程の言葉を繰り返し、深くそう刻みこむように何度も首肯し、馬に語りかけました。

「最期に、キレイな景色を、嬢ちゃんと見れて良かったな」

その言葉に、馬は深く息を吐いて――、
そして、馬はそれきり息をしなくなりました。

しばらく馬の皮膚に手を当てていました。
生きていた熱はしばらくありましたが、それは野原の草が段々と奪っていき、ついには冷たくなっていきます。

職員の方はしばらく黙っていましたが、おもむろに立ち上がって言いました。

「嬢ちゃん、サンドイッチでもどうだ?」

「え?」

「サンドイッチ。さっき買った」

「それはその……悪いです」

「いや、悪いのはこっちの方だな」

そう言って私の髪をくしゃくしゃにすると、深く頭を下げました。

「あんな事やるヤツじゃないと思って乗せたんだが、巻きこんじまったな」

「ですが、そのお陰でとても思い出になる事ができました。
こちらの方が、悪いです」

私がそう跳ね除けると、職員の方は顎をさすり考えこみます。

「それじゃあ……じゃあ、嬢ちゃん。
こいつの鞍とか手綱とか鞭、諸々引き取ってくれないか?」

「え……?」

「コイツしか、ここで飼っている馬がいなかったんだ。
このままだと、馬具は腐っちまうだけだ。
そうなるなら、嬢ちゃんのその思い出を残す為に、引き取ってくれないか?」

「なら――」

なら、貴方が持って帰れば――。
そう反論しようとしましたが、先んじて職員の方がそっと口にしました。

「オレの女房が、もうこれ以上物増やすなって、遺品預り所じゃねぇんだぞって五月蠅いんだ。
いや、もし嬢ちゃんがイヤだってんなら、こっちで何とかしてやるさ。気に病まなくてもいい」

そう聞いて、私は一人暮らしには広い借家を思い浮かべました。
そして、私はこくりとうなずいたのです。


「ただいま、戻りました!」

誰もいない空間に、そう言いました。
私は腕一杯に抱えた馬具を、家の奥にある物置にしまい、半分を過ぎたばかりの今日を振り返ります。

「今日は、とても良い事がありました!」

時間が経つごとに、思い出は美化されるものと聞きました。
それを実感したのは、恐らく初めてでしょう。

私は寝室に入りそのままベッドに飛びこむと、ごろごろと転がりました。
窓から照らされる顔をだらしなくほころばせると、ぽつりとこぼします。

「連王様……」

まさか、この地の王様が、あのように綺麗な人だなんて!

そう思うといてもたってもいられず、ごろごろごろごろと何度もベッドの上を往復します。
明日もこの想いを続けたくて、ペンを取ったりもしました。
ですが、どうにも字に著す事が気恥ずかしく、紙を前に一字も書けずに悶えたりしました。

だから、私はベッドの上で自意識過剰な芋虫になるしかなかったのです。

もし。
もし、連王様の奥様になれたら。

それは絶対に私ではないでしょう。
ですが、そう思ってしまうのです。

そう思うだけで、私の血という血が血管をくすぐり、ばたばたと意味もなく足を蹴り出したくなります。

私はベッドの中で、もし、もしと続けていき。その度に悶えては静まり返り、考えこみ――。



そんな事を繰り返していると、図らずもベッドの上で昼寝をしてしまったようでした。
いえ。寝室が見通せないほど真っ暗です。
昼寝どころか、もう夜になってしまったのでしょうか。

「本当に、真っ暗です……」

私は手探りでランプを見つけると、そこに明かりを灯しました。
古ぼけた明かりは、部屋全体を照らすほどのものではありません。

私は懐中時計を取り出すと、今の時刻が目に飛びこんできます。

「4時26分……?」

夕方です。
まだ光があってもおかしくないのに、窓に面したこの部屋の中は真っ暗でした。

私は怪訝な顔をして周りを見回すと、ランプを片手にベッドの窓に近寄ります。

「あれ、いつの間にカーテンを閉めていたのでしょうか?」

家のどの窓もカーテンを閉め切っていて、夜同然の暗さになっていても当たり前です。
私は外の様子を見ようと、カーテンに手をかけました。

その時。

横から突然現れた手は、カーテンを開こうとした私の右腕を引っ張り、窓から私を遠ざけようとしました。
私は、瞬時に判断しました。

侵入者です。
恐らく、カーテンが閉められたのもそのせいでしょう。

私は服の下に忍ばせたナイフを左手で取ると、背後に覆い被さる人影に突き立てました。

左手の、ナイフの柄に伝う血の生温かさ。
それに冷ややかな戦慄を覚えながら、私はその声を聞きました。

「――ン気゛持ヂ良いぃイイッ!」

そのお声を聞いて、私は息が止まりました。
血の気の引いた体は硬直し、右手のランプは床を転げます。

侵入者ではありませんでした。
私は不敬にも勘違いをしていたのです。

ナイフをすぐさま引き抜き、私は振り返り際に頭を深く下げました。

「ご、ご無礼、大変申し訳ございません!」

私は、ただ顔を上げる事ができず、床を眺めるしかありません。
転がるランプが照らし出した床には、血溜まりと、泡立った唾液が落ちていきます。

頭上から、恍惚とした声が降りました。

「立派な殺意だぁ……!」

それは、私に向けてというより、苦痛に対しての感想のようです。
ご気分を害された様子ではないものの、私は先走った行動を恥じ入ります。

垂れ流し続け、なおも広がる血と涎でランプの火が侵されると、部屋には再度暗闇が満ちました。
暗闇の中、液体の落ちる音が聞こえなくなると、もう充分堪能したという深いため息と共に、法力の光が上がります。

「――いつまで頭を下げている?」

呆れたようなその口調に促され、私は顔を上げました。
私がその御姿を視界に捉えると、思わず声を荒げて貴名を呼んだのです。

「レイヴン様! その傷は一体……!」

一体も何も、傷はお前がつけたものだろうと揶揄する声があるかもしれません。
ですが、私の目に映ったのは、ナイフ長と同じくらい深く抉られた首元の傷が霞むようなものでした。

左半身のほとんどが、黒く変色されていたのです。
その黒い御体に注視すると、それはぶすぶすと煙を上げ、炭化した表面のひび割れからは、再生途中のような赤身がマグマのように覗いていました。

炭を鱗のように纏ったレイヴン様を知覚すると、惰眠で機能を一時停止していた嗅覚が、さっと醒めて叩き起こされます。
肉が醜悪に焼かれた悪臭が感覚を貫きました。

「――ッ!」

視覚と嗅覚は私の消化器官を揺り動かし、食道を刺すようにこみあげるものを無理矢理呑みこむ事を強いられました。
思わず口を覆い、レイヴン様の御前で醜態を晒すまいと耐えます。

そんな私の様子に一切の心も配らず、レイヴン様は口を開きました。

「本来ならばお前とは会わない予定だったが、この近辺で活動をする必要があった。

その途中、『背徳の炎』と遭遇した。
私としては隠密に行動したかったものだが、妨害を受けた末にこの様だ。

これでは快楽に気が散り、空間転移などできない……しばらく身を隠そうと、そこで思い当たったのがここだった」

レイヴン様は炭化した左腕を上げて見せながら、その経緯を説明しました。
その脆くなった左腕は自重に耐え切れず、ぼろりと肘の先からもげます。
床に落ちたそれは人体だったはずであるのに、不出来なチョークのように粉々になりました。

倫理に逆らったようなその様が、引鉄になったようです。

私は無礼にもレイヴン様に背を向け、廊下を抜けて洗面台に駆けこみました。
そこで胃を空にしている最中、寝室の方から何かを削ぐ音が聞こえます。
じょりじょりとぞりぞりと、「まるで炭を撫で斬りにしているような」と形容するまでもなく、目にしない事を幸いと思えるような事をされているのでしょう。
目にしてしまえば、胃袋だけではなく小腸まで蠕動しそうです。

私の口から汚い物と音が出なくなると、口内の不浄を水ですすぎます。
全部を綺麗に片づけた後、手を洗って部屋に戻りました。

そこには、まだ少しばかり筋肉組織が露出しているものの、先程よりずっと人間の肌色を取り戻したレイヴン様がいらっしゃいました。
未だ死臭と焦げ臭さは部屋に充満していますが、私にはもう吐くものもありません。

レイヴン様は戻ってきた私の姿を見ると、安全を確保する為に問いかけられました。

「お前は逮捕された事はあるか? あるいはマークされた事は?」
「この周囲に警察は頻繁に来るか? 不審者が出るか?」
「この家の防音性はどうだ? 以前に隣人が苦情を言いに来た事は?」

私はそれらのご質問に、すぐには答えられませんでした。
何故なら、昨日より以前の過去を遡らなければ分からない事だからです。

私はその都度、メモや日記や新聞や借家の契約書をひっくり返し、そして「恐らくは」と弱気な枕詞を置いて「問題ございません」と全てに答えました。
レイヴン様は少しばかり逡巡したご様子でしたが、

「まあ、いい」

妥協されたようでした。

私が過去の記録と格闘している間に充分な時間が経ったのか、レイヴン様は街を歩いても問題のない体を取り戻しました。頭部の針を除けば、きっとそうです。
レイヴン様は名残惜しそうに左半身を見ていらっしゃいました。

ですが、やがて思いついたように顔を上げると、レイヴン様はベッドに腰かけこう仰います。

「ほとぼりが冷めるまでここにいる」

レイヴン様が、私のような下賤の人間のあばら家をご所望なのです。
そのお言葉で、私の空っぽの胃に熱湯が満たされたような感覚が沸きました。
その身を熱くする光栄と、そして火傷のような恐怖といったらありません。

光栄はともかく、恐怖。
何しろ、今日はレイヴン様を迎えようと思って家にいた訳じゃぁありません。

レイヴン様の腰かけていらっしゃるベッドだって、外から帰って私が寝転がった汚らしいベッドです。
床もいつ掃いたものか分かりません。昨日以前の私に詰問する事もできません。
そもそも、こんな安い借家なんて、レイヴン様に相応しくないにも程があります。

それでも、レイヴン様はここでしばらく時間を過ごされるのです。
私は少しでも場を整えなければと思い立ちました。

「あの! それでしたら、掃除して参ります!」

そして寝室から失礼し、私はカーテンの閉め切った居間に明かりを灯しました。
小さな物置から箒を取り出し、床を掃いていきます。
また、雑巾を絞って床を拭き、少しでもぴかぴかにしようと地面を這いつくばります。
しかし、その最中で気づきました。

「首輪も器も、ありません……」

朝確認した時には、ペット用と思しきそれらの物品があったはずです。
不意にそんなものがレイヴン様のお目に留まったら末代までの恥となりましょう。
テーブルや椅子の下や窓の近くやキッチンをくまなく探しましたが、どこにも何もありません。

それらを見て、私はペットを飼う事を決めて外に出たのです。
決して、それらは幻覚ではないはずでした。

私が必死に部屋を右往左往していると、背後からお声がかかりました。

「これを探しているのか?」

もしかすれば、レイヴン様は心を読める法術をお持ちなのかもしれません。
私が慌てて振り返ると、レイヴン様の手には首輪やリード、器があったのです。

「何故、それをお持ちなのですか!?」

ただ驚愕し、その理由を求めました。
レイヴン様は距離を詰め、その不用品を手渡ししてくださいました。

「お前が目が覚める前、この家に罠がないか調べていたら見つけた。それだけだ」

全く全うな理由です。
しかし、ならば何故持っていらっしゃるのでしょうか?

その疑問を口にする前に、レイヴン様は笑われました。
「動物を飼っていたのか? 愛嬌のある幼子だな」といったような平和的な笑みではありません。

「良いものを持ってるじゃぁないか」

そう、意味深に仰られました。
その口の形は、氷にヒビが入ったような、不穏な笑みの形です。

私の背を、ぞっと悪寒が走りました。
この安物を指して「良いもの」と称され、額面通りに受け取る事はできません。

「良いもの」とは、歪んだ認識にとっての「良いもの」なのです。

レイヴン様は硬直する私を見下げ、問いかけました。

「お前は、私の事を何だと思っている?」

質問の真意は分かりませんが、私は答えます。

「他の何者も誰よりも、神すらも超えて崇めるべき御方でございます」

淀みなく私の考えを口に出すと、レイヴン様は押し殺した笑い声を、歯の隙間から漏らします。
笑いをつと止めて、レイヴン様は大仰に腕を開くと、残酷にもこう命じられたのです。

「その認識を捨てろ」

ご命令は、私の心を引き裂くようなものでした。
レイヴン様は、私に敬わせる事すらも拒絶したのです。

私にとって、レイヴン様に付き従う事こそが望みです。
その望みが絶たれるとは、つまり文字通りの絶望でした。

しかしレイヴン様は、当然私の様子などに構いません。
声に熱を忍ばせて、

「下等な存在だと、」

次第に高揚して、

「下卑た獣畜だと、」

己の自虐にすら興奮するようで、

「卑しい四つ足だと、」

開かれた口から唾液が垂れ、

「私を見下げろ。私を罵倒しろ、踏みつけ、ぞんざいに扱え……私を、犬のように扱え……!」

そう、命じられたのです。

私はその昏い熱気に押され「ひっ」とたじろぎました。
強張る手から首輪がこぼれ落ち、首輪の鈴がちりんと鳴ります。

レイヴン様はその音を聞くと、より一層笑みを濃くしました。
そして、レイヴン様の背が丸まり、膝をつき、床に手を当て、四つん這いとなり、肘を曲げ、その口を床に落ちた首輪に近づけ――、

「い、いけません! そのような汚いものを――!」

レイヴン様の口が首輪に触れないよう、首輪との間を遮るように手を伸ばします。
首輪をつかみ、それを拾い上げようとしました。

ですが、

「痛っ!」

レイヴン様は言葉でそれを叱責せず、私の手を首輪ごと噛んでこの行為を咎めました。
それは……玩具を取り上げられようとした不躾な犬のようです。

私は痛みから首輪を落とし、手をひっこめると、レイヴン様は私の手から口を離しました。
それからレイヴン様は当初の目論見通りに、床に転がった首輪を咥えます。

手に残った歯形は、わずかな唾液でぬらりと光ります。
私は、レイヴン様を茫然と見るしかありませんでした。

四つ足となり、私よりもずっと視線の低くなったレイヴン様は、口に首輪を咥えたまま顔を上げます。
そして私に首を伸ばして首輪の鈴を意識的に鳴らしました。

ちりん、ちりんと。
私をなじるように鳴り渡り、私は理解したくない概念を把握してしまいました。

首輪は、首につけるものなのです。
人間用の首輪ならば、装飾としての色が強いのですが、今レイヴン様が口にしているものは動物用の首輪です。
それを、人間がつければどうなるのでしょう。

屈辱という「苦痛」が味わえるでしょう。

「……レイヴン、様」

私は、淀んだ希望でぎらぎらと輝く瞳を見下げました。

諦めるしかありませんでした。
レイヴン様は、今この時は、敬うべき存在ではないのだと。

私はレイヴン様の口から首輪を受け取りました。
涎で濡れた首輪の留め具を外し、レイヴン様の首に回します。

白く美しいその首に、薄汚れた首輪がかけられました。
レイヴン様が恍惚と息を吐くと、喉の震えでちりちりと鈴が小さく鳴きます。

その姿を見た時、レイヴン様に抱く憧憬(Sehnsucht)の幾つかを手放しました。

レイヴン様はしばらく期待に満ちた表情で私を見上げます。
しかし当の私は、困惑と失望とで何も行動を起こせずにいました。
何も起こらない事にレイヴン様はそっぽを向け、四本足のまま床を走りました。

「あっ……」

私はレイヴン様を追います。

レイヴン様はキッチンに向かいました。
走るレイヴン様は、冷蔵庫を見かけるとその目の前で止まります。
何をするのか、私は少し離れた所で見守りました。

すると、レイヴン様は、その手でがりがりと冷蔵庫の扉を引っ掻きます。
その動作は扉を開けようとする意図は分かりました。
「取っ手を引けば扉が開く」と理解しているというのに、「犬」という役割に陶酔するレイヴン様は、その「前足」を動かします。

私が呆気に取られて見ていると、レイヴン様の指が不意に引っかかった扉が、大きく開かれました。
レイヴン様は開け放たれた冷蔵庫に顔を突っこみ、その中を掻き出し始めました。

冷蔵庫の中には、当然食料があります。
金欠気味の私にとって、食料が無駄になる事は、数少ない貯蓄を削る事になります。

その二つが、私をようやく行動に移しました。

野菜を散乱させるレイヴン様に、口を開きます。

「お、お止めくださいませ!」

駆け寄り、レイヴン様に何度もそう呼びかけました。
ですが、「犬」のレイヴン様は人間の言葉に耳を傾けず、掻き出された胡瓜を踏み潰し、キャベツに引っかき傷を残し、トマトを飛ばして床に散らします。

言う事を聞かないようにしているレイヴン様に、私が取れる行動は一つしかありませんでした。

恐らく、レイヴン様の思惑通りなのでしょう。
私が腕を上げた瞬間、レイヴン様は私を見上げ、爛々と瞳を輝かせました。

痛む心を押さえつけます。
一気に動悸が激しくなる、これから自分が実行する事に恐怖しました。

私は振り上げた手で、レイヴン様の頬を叩きました。

柏手に似た音が、部屋を反響します。

主に向かって暴力を振るったという行為に、私の心臓に針を打たれたような、血の凍る感触が全身を襲いました。
冷や汗が噴き出て、心臓が激しい鼓動に痛みます。

そんな私とは正反対に、実際に暴力を振るわれたレイヴン様は、望んだ苦痛を得られた事に喜色を示していました。

肉体的には、単に頬を打たれた程度の苦痛でしょう。
ですが、本来自分よりずっと「下」である幼子の私の足元で四つん這いになり、その上知能のない動物を躾けるように頬を叩かれたのです。
その精神的苦痛に、レイヴン様は恍惚としたご様子を晒しました。

犬のようにぜいぜいとわざとらしく息を荒げ、
弛緩した口からだらりと舌が垂れ、
粘った唾液が糸を引き、
叩かれた頬を愛おしげに床にこすりつけました。

本当に犬であれば、その尻尾は機嫌良く振られていた事でしょう。

しかし、たった一回きりの苦痛です。
レイヴン様はそれ以上を求めて、私に期待の眼差しを注ぎながらも、手は冷蔵庫に伸ばされました。

――そら、「犬」がまた悪さをするぞ?

レイヴン様の心理を理解した私は、求められた役割に徹しようと声を上げました。

「――あああああッ!」

怒鳴り声を出そうとしましたが、それは私の感情を如実に表した悲鳴でした。

私はレイヴン様の頬を再度叩きます。
二度目の衝撃でした。それは一度目よりも躊躇はなく、より強く、それでも精神を揺さぶる衝撃です。

そして、レイヴン様の首輪をつかみ、冷蔵庫から引きずり離しました。

冷蔵庫の扉を閉め、私はレイヴン様に向き直ります。
これから起こる事を待ち望み、レイヴン様は私の足元で背を低くしていました。
口元を緩ませ、腰をがくがくと痙攣させています。

私は、再度手を上げました。
それを振り下ろしてしまえば、きっとレイヴン様の欲望に応える事ができるでしょう。

ですが。
私の中には、悲観や絶望の他に、認めたくない怒りを抱いていました。

私がなけなしの小銭で買った食料が無碍にされた事。
買った時、市場のお爺さんが笑いながらおまけしてくれたイチゴが赤い何かになった事。
それと、過去の私から送りつけられたような、理由も知れない憤怒。

その怒りと、レイヴン様の期待以上を求める浅ましい心が、背中を押しました。

足元でわだかまるレイヴン様の顎を、蹴り上げます。

「――ア゛ぁっガッ!?」

醜い悲鳴を上げて、レイヴン様が転がります。

そのまま暴力にかまけようとする暗い熱を抑え、私の役割を刻みこみます。
私は、レイヴン様の「飼い主」にならなければならないのです。
ただの暴力ではなく、レイヴン様を「犬」たらしめる因子にならなければなりません。

「いけ、ません……! 荒らさないで、ください……!」

自分の悪行に吐きそうになりながら、精一杯に叱りつけました。

レイヴン様は、その言葉に耳を傾けました。
更なる屈辱を求めるレイヴン様の意図を汲み取り、私は無理矢理続けます。

「……お腹が、減っているんですか……?」

その問いに、レイヴン様はうなずきました。

「なら……床を、綺麗にしましょうか」

虚勢を努めて、私はそう命じました。

掃いてもいない床です。そこに散乱した野菜は、どれだけ綺麗に洗ったとしても「汚れている」と感じるものでしょう。
そんなものを口にしろと、私は命じたのです。

レイヴン様はその命令を受け、喜々として一吠えしました。
すぐさま口を床に近づけ、へばりついたトマトを舐めとります。

「ハゥッ、ハッ……」

獣の息遣いを装って、レイヴン様が「犬」になります。
その両手を床に付け、腰を上げ、大きく開けた口に潰れた野菜を口にしていきます。

それが洗ってもいない泥だらけのものだろうと、そして新聞紙に包まれたものだろうと、
衛生観念を理解しない「犬」は、洗い流しも手で剥がしもせずに床を舐め回しました。

私はその様を、暗澹たる心持ちで見下げていました。

床一面に広がっていた惨状は、唾液を擦りつけるような食事で、ぺろりと平らげられます。
自分で命じた事の経緯と結果を見せつけられ、私は諦念の奈落に堕ちました。

今のレイヴン様は、尊敬に値しない「犬」です。
そう自分を洗脳して、「飼い主」の私はレイヴン様の傍に寄りました。

「飼い主」は、命令を果たした「犬」を褒めるものです。

「……良い子、ですね」

それは、褒め言葉の形をした格下げの言葉。
幼い子供に「犬」として扱われているという実感。

私は、目を輝かせて見上げるレイヴン様の頭に、手を置きました。
存外柔らかな白髪に指を埋め、その頭を撫でます。
畏れ多いはずの接触は、獣臭いものでした。

私は一撫でしただけで手を引いて、レイヴン様になおも問いかけます。

「まだ、お腹は減っていますか?」

私は、それを否定していただきたかったです。
せめて、主であるレイヴン様の拒否があれば、責め苦に動く私の心身を止める事ができました。
それが叶わぬ事なのは、何よりも分かっています。

レイヴン様が吠えました。
私の期待に沿わず、思惑のまま、レイヴン様は悦びをその声色に乗せます。
結局、止まる事はありませんでした。

「待っていて下さい」

レイヴン様は、腰を床に付け、曲げた足と真っ直ぐに立てた腕を作り、「待て」の姿勢を保ちました。
私はそんな「犬」に背を向け、ふらふらと物置に向かいます。

私は猫を飼っていました。
ならば、それはあるはずでした。
そして、実際にそれはありました。

目的の袋と皿を抱えてレイヴン様の元に戻ると、未だ「待て」のレイヴン様の前に皿を置きます。

その皿は、ペット用の皿です。

私は抱えていた袋の中身を皿に出しました。
乾いた餌がざらりと皿に空けられます。

途端、餌の臭いが周囲に広がりました。
およそ人間が口にするものではない臭いです。
見た目も、茶けた固形物としか言いようがなく、臭いと共に食欲が減退しそうなものです。

それでも、レイヴン様は口を開きました。
人の食べ物ではない、畜生の餌を前にして、だらりと舌を垂らします。
ハッ、ハッ、と息を荒くし、舌の先から唾液を垂らし――恐らく「人間以下の犬としての仕打ちを受けている自分」に対して興奮し、紅潮していました。

こうして四つ足をつき、
幼子に「犬」として弄ばれ、
与えられる食物は餌であり、
餌の盛られる皿は、テーブルではなく汚らしい床に置かれている。

「アァッ、アッ……!」

人語でなくとも、その声に恍惚が潜んでいる事が分かりました。
開かれた口から唾液が落ち、乾いた餌をじっとりと濡らし、レイヴン様は餌に顔を近づかせます。

四肢は折り曲げられ、体は床に限りなく近く、頭は床に着くほど低く、その様は屈服の姿勢のようでした。人間の尊厳を踏みにじる恰好です。

私は、その様子をただじっと見ていた訳ではありませんでした。
レイヴン様の為にならば、より私は自分の狂気を引き出さなければなりません。
より貶める為にすべき事を。

私は、今まさに餌をかぶりつこうとせんレイヴン様に対して、笑いかけました。

「まだ、『良い』とは言ってません」

嗤いを含めて、呼びかけます。
ぴたりとレイヴン様の動きが止まり、口を閉じて私を仰ぎ見ます。

レイヴン様に向けて、狂人を装い冷笑を偽りました。

「おすわり」

私自身、それは変貌と言っていい変わりようでした。
実際、様子の変わった私を感知したレイヴン様は、発した命令ではなく、変化に惑った様子です。

間隙を見つけた私は、足を上げました。
上げられた足は、床についているレイヴン様の手の甲に振り下ろします。

「ガァあッ――!?」

足を圧しつけながら、踵に体重を集中させ、抉るように回転させます。
指の骨のゴリゴリとした感覚が靴の裏に伝わりましたが、遠慮は必要ありません。

私は「飼い主」であり、不出来な「犬」を躾けるのが責務なのです。

その立場に立っているのだという事がすとんと胸に落ち、私の理性と正気を手放せば、簡単でした。
まるで、手慣れたように狂人になります。

「早く、おすわり」

その言葉で、レイヴン様の皮膚に鳥肌が立つ場面を目の当たりにしました。

自分は今、この矮小な「飼い主」に躾けられている。
小娘に服従し、醜態を晒している。

「アァ、ッハアァ……!」

手を踏み躙られているというのに、レイヴン様は愉悦に喉を鳴らしました。
口の端から垂涎し、今の屈辱に陶酔します。

レイヴン様は姿勢を正しました。
ただし、人間としての姿勢ではありません。
足を曲げ、腕を伸ばし、手と足裏を床にぴったりとつけ、私を見上げて動向を伺う。
「おすわり」の姿勢でした。

私は、餌皿から一粒の餌を拾うと、レイヴン様に言いつけます。

「口を開けてください」

「ァア……!」

唇を離し、舌を露呈し、口蓋を晒します。
その口の中に、私は指を突っこみました。

「――ッ!」

レイヴン様の舌の上に餌を置き、指を引っこめると、すぐさま口を閉じ、咀嚼を始めました。
ポリポリという音がしてから、レイヴン様の喉が嚥下に蠢きます。

「そんなに欲しかったのですか? この餌を」

この餌を。決して人間のものではない餌を。
そんな餌を、自分は浅ましく求め、そして呑みこんだ。

レイヴン様はしきりに頷きます。餌を求める自分という像に、快楽を覚えているようでした。

「……ふふ」

素直な愛玩動物を目の当たりにしたように、私の頬が緩みます。
そしてより「犬」の忠実さを見たいと思い、私は取り出したハンカチを縛って丸くしました。

それを部屋の向こうに投げて指差し、

「取ってきてください」

その言葉が言い終わらない内に、レイヴン様は四つ足で動きました。
膝をついた状態では、それほど早く歩けません。

それでも、より早く命令を成そうとして、レイヴン様は膝を何度も床に打ちつけて走り寄りました。
地面を受けるよう作られていない膝には血が滲み、床には血の足跡がわずかに残ります。

ようやくレイヴン様が投げたハンカチに辿り着くと、当然のように手を使わず、頭を下げます。
床に唇までつけて、転がるハンカチを口に咥え、私の足元へと戻りました。

私はレイヴン様の口からハンカチを受け取ります。唾液を含んだそれが手の平に乗り、若干の嫌悪感を覚えました。
それでも、「犬」が持ってきてくれたという事に感謝の念を抱き、私はレイヴン様の頭を撫でて許しを口にします。

「良し」

たった、二文字。
レイヴン様は足元の餌皿に顔を突っ込み、固形の餌を食べ始めました。

私は勿論、その餌を食べた事はありません。
ですが、姿勢を低くし、餌の悪臭を鼻腔に受け、動物の食すものと同じものを口にする、それは尊厳の凌辱でしょう。
餌にがっつくレイヴン様は、時折歓喜に震え、口を止めて身を揺すり、喘ぎ声を上げます。

「ハア、ハァアッ……!」

口から垂れる唾液が餌皿に落ち、その唾液と共に餌を嚥下していきます。
無我夢中で獣畜の食事にいそしむレイヴン様をよそに、私はハンカチの端をつまんで次の事を考えていました。

レイヴン様が皿の底に残った最後の一粒まで、浅ましく舌で追って口の中に収めた時、ようやく私は次の事に取り掛かれました。
つまんでいたハンカチをレイヴン様の鼻先に当て、用意していた言葉を出します。

「ちゃんとした玩具(おもちゃ)は無いのですが、これでも遊ぶ事はできるでしょう?」

するとレイヴン様は、喜び勇んでハンカチに噛みつきました。
そして理性無く私の手からひったくると、ハンカチの端を前足で押さえ、口に含んだり、引っ張ったり、何度も噛んだりと「犬」らしく遊びました。

自分の涎の臭いが染みついたハンカチです。
しかも、そのハンカチを咥える前に、あのペット用の餌を口に入れています。
しきりにハンカチを嗅いでは自分の悪臭に耽溺し、更に噛んだり引っ張ったりとマーキングを繰り返しました。

「ハァアッ。ハハァッ……!」

床に自分の体を擦りつけるように、レイヴン様は身をよじらせました。
それは快感に耐え切れずに体が蠢くのか、あるいはそうする事で自分が這いつくばる存在であると自虐しているのか、あるいは両方なのか、分かりません。
その遊びの中に割って入る事はできませんでした。

近くの椅子を引き寄せて座ります。
私にできる事は、レイヴン様の一人遊びを眺めるのみです。

人間の容をした「犬」をただ見つめます。

レイヴン様を満たす役目から離れ、思考回路に空きが生じました。

その間隙に、溶岩のような感情が押し寄せます。
そう。レイヴン様を嬲るごとに、その感情は私を侵蝕するのです。
肺の底から滲み出る、昏く熱を孕んだ感情。

由来も分からない感情を、私は戯れに解体しようとしました。
何故レイヴン様を責めれば、その感情は這い出てくるのか。

床の埃を拭うように、咥えたハンカチを擦りつけるレイヴン様。
それを視界に映していると、その痴態を通じて幻視が始まりました。

――空っぽの玄関。
幻の中で、私はその玄関に立っていました。

記憶を失った私には、そこがここではない家である事しか分かりません。
それでも、玄関に通じる廊下が、その廊下の先にある扉が、情景として浮かび上がると。

「――ァ――」

汗が噴き出しました。
幻の中の玄関の情景が、私の感情を恐怖に灼きました。

これ以上、その廊下を進んではいけない。
そうなれば、自分の存在意義を殺さなければいけない。

深層意識の警告が、心理を貫き、身体までを揺さぶりました。

「あァぁ――」

醜く唸り、目の前の色が急速に失われました。
レイヴン様の瞳の色も、自分の毛並みを整えているその舌も、床に散乱する血の跡も。

鼓膜を震わせる音も、まるで舐ぶりの水音を拒絶するかのように、全ての音が遠く離れていきました。
体のあちこちがまばらに重くなっていき、右半身だけに血が寄っているような錯覚が襲います。

「――――!」

平行感覚が取れず、私の体は右に傾きます。
座っていた椅子を道連れにし、私の体はくぐもった音を立てて床に衝突しました。

一人でハンカチを相手に「犬」となっていたレイヴン様は、べとべとのハンカチを放り、新しく発生した状況に近寄ります。
そして「飼い主」を気遣うように、クゥと鳴いて私の頬を舐めました。

餌の悪臭を伴うその気付けに、私は手を振っていさめます。

「……申し訳、ございません……体調が優れず、もう……」

続く言葉も繋げられませんでした。

私は上半身だけを起こして、四つ足のレイヴン様の首に手を伸ばします。
レイヴン様は「縊りでもするのか」と期待した目で私の手を見つめました。

しかし、私は限界でした。
レイヴン様の喉を縛る首輪に手指をかけ、その結合部品を解きます。

レイヴン様を「犬」たらしめる要素を外し、私は無色の溜息をつきました。
手の平の上に移った首輪を見かけ、レイヴン様は失望した眼差しを私に注ぎます。

「……フン」

不満げに鼻を鳴らし、「犬」でなくなったレイヴン様は餌皿を口ではなく手で持ちました。
そして餌皿をしまう為に物置へと向かうレイヴン様の背を見送り、私はうずくまります。

空漠にたゆたう中、「飼い主」になっていた自分を振り返りました。
「飼い主」になるのは記憶上初めての事でした。
それでも、記憶に無いだけで何度もそうしていたのか、あるいはそうなるだけの素質があるのか、その時の私は「飼い主」として振る舞えました。

ですが、今はそうであった自分を否定し、逃げたいほどに恥じ入ります。

――何故、自分はここにいるのでしょう?

それは、自分がこの地理座標にいる事の疑問ではなく、この状況に存在している事への疑問です。
レイヴン様に仕えているのは何故でしょうか。

私が過去を忘却する事は、私にとって正常な生理現象であり、起きてからこの時までその事を不便と思った事はありません。
つまり今、自分の病を枷のように感じました。

記憶を手繰り寄せようとしても、ぼろ切れのような記憶の糸は、昨日という境目で断絶されているのです。
私の手元にあるのは、残された意図の分からない記憶の幾つかと、私の感情と勘定の中心に(ましま)すレイヴン様しかいらっしゃいません。

――ならば、何故レイヴン様なのでしょうか?
仮に、そう――今日の連王様では代わりとはならないのでしょうか?

後に思い返せば、何たる不敬でしょうか。
それでも、私は身を起こし、空間に連王様の虚像を浮かべます。

女神が縒る運命の糸のような金糸の髪。
窯から出たばかりの陶磁器すら霞む肌。
麗しく整えられたご容貌――。

その残影を投影するだけで、今日の昼の高鳴りが、胸を叩きます。
愚かしく連王様の虚像に陶酔していると、その虚像に重なるようにレイヴン様が戻られました。

「ぅわあぁっ――!」

奇妙な一致に驚嘆の声を上げようとする口を抑えます。

「……何故声を上げた?」

不思議そうにレイヴン様が首を傾げられました。
私は空間に浮かべていた虚像と、自分の根幹を探る事を掻き消して頭を下げます。

そう。
連王様ではなく、レイヴン様でなくてはならないのです。
私の思考回路の根本が、レイヴン様を目にした瞬間からそう屈服しました。

「……失礼いたしました。ただ、ようやく落ち着いてきたようです。ご迷惑をおかけいたしました」

答えた通り、ここに来てようやく余裕を得られました。
レイヴン様が私から離れていたのは幸いです。自分の気性を宥められる事ができました。

「まあ、いい」

一拍を入れ、レイヴン様は私の眼前に立ちます。

私の前に姿を現したレイヴン様は、後ろ手に何かを隠しているようです。
ただ、こちらからはレイヴン様の御体で隠されて、それが何かも分かりません。

しかし、待てどレイヴン様からそれが何かを明かすご様子もなく、この場では私から問うのが作法のようでした。

「……レイヴン様、何を携えられていらっしゃるのでしょうか?」

求めていた反応を得られた事で、レイヴン様は口を開きます。
同時に口端を上げて、

「良いものを持ってるじゃぁないか」

そう、レイヴン様は笑みかけました。
先の首輪を見つけた時と同質の、氷のヒビの嗤い。

ゆっくりと焦らすように、レイヴン様は右手につかんでいたものを見せつけました。
それを見て、私は息を呑みます。

「鞍……」

昼に私が跨っていた、馬の鞍です。
そう、昼間。私を連王様に引き合わせてくれた、今は亡き老馬の、鞍。

それを見ただけで、老馬と共に見た連王様の記憶が掘り起こされました。
あの時の輝きも高鳴りも、恋と思しき感情の沸騰も、何もかもが蘇ります。

その証明が、レイヴン様の右手に収まっていました。

「あ、ああ……」

ひび割れたレイヴン様の笑みは、私の脊椎を凍てつかせるように惨たらしく映ります。
私は一瞬、連王様の思い出と共に、レイヴン様から離反する事すら考えてしまいました。

ですが、私の足裏はぴったりと床に貼りつき、レイヴン様の笑みが私の心臓を握りしめています。

逃げる事など、できやしない。
逃げたとしても、帰る場所はレイヴン様の下しかない。

私はただ、レイヴン様の動向に引きずられるしかありませんでした。

レイヴン様は、馬の鞍をじっとりと見つめます。

「このような道具があるならば、『馬』に堕ちるのも悪くはない。
『犬』は『飼い主』に服従するだけだが、『馬』なら、そう――より屈辱的な事を味わえる」

「馬」として地を這い、上に乗られる屈辱。
そう考えを巡らせて、レイヴン様の呼吸に熱が籠ります。

「だが、それだけじゃぁない」

レイヴン様が、左手にまだ隠していたものを掲げます。

「それは……縄、ですか」

荷物をまとめる為の荷縄でした。
麻製で、直径0.5インチ程度の、いつ買ったかもわからないものです。

「これはどう使うべきか、分かるか?」

「縛る、ものです」

「どこを縛るべきだ? どのように、縛るべきか?」

問い詰めながら、レイヴン様は興奮を高めていきます。
その縄でどうするのか。レイヴン様の理想に近づくごとに、その期待が膨らんでいくようでした。

しかし、私にはレイヴン様の理想が分かりませんでした。
縛るにしても、レイヴン様の何を縛るというのでしょうか?
凡百の私には、首を縛る程度の貧弱な発想しかありません。

首を振ると、舌なめずりをしてレイヴン様がその理想を説明します。

「これで、私の四肢を縛れ。私を低く陥れろ。
 ただ縛るんじゃぁない。肘と膝で床に立つように、四つ足になるように縛るのだ」

その説明で、朧げに理解しました。
レイヴン様は私に近寄り、荷縄を渡します。

それから鞍を置き、仰向けになり、高揚に震える手を私に伸ばしました。

「さあ……私を、畜生に堕とせ……!」

舌をだらしなく垂らしながら、レイヴン様がそう命じます。
私はレイヴン様の傍に近寄ると、伸ばされた右腕に手をかけました。

まず、私はレイヴン様の肘を曲げさせました。
手の平で肩に触れられるまで曲げさせてから、私は荷縄を伸ばします。

レイヴン様は抵抗する事なく、私の所作を待ち望むように見つめています。

私はレイヴン様の脇を開かせ、噛ませるように荷縄を通しました。
そして荷縄を手首で交差させ、解けないよう固く結びます。

「……アァ……!」

熱のこもった吐息が漏れ出ました。
レイヴン様の手首と脇が縛り上げられ、肘を曲げた状態のまま固定されます。
縛り終えた荷縄の端を切り、次に左腕も同じように縛り上げます。

本当に固く縛ったせいか、両腕とも縛り終えた頃には、右腕の手首が鬱血し、青黒くなりつつありました。
その苦痛と、拘束されているという状況が、レイヴン様をより昂ぶらせているようでした。

脚も同じく、縛らねばなりません。
痙攣する右脚を押さえ、足首と太腿の裏を密着させます。
荷縄をぐるぐると巻き上げて、腕よりも一層強く縛ります。
仰向けにされてなされるがままのレイヴン様を縛っていく内に――レイヴン様の喉が跳ねました。

「ウッあァっ、ア゛ァあ……!」

天を突く肘がぴんと立ち、背を反り返し、腰を上げ、大きく痙攣します。

「ひっ!」

突然の動作に驚き、私が荷縄から手を離しました。
幸いな事に、既に左脚は縛った直後です。荷縄が解かれる事はありません。
レイヴン様はしばらく余震のように細かく震えた後、急に脱力し、反っていた背を床につけました。

しばらくレイヴン様の様子を窺っていましたが、荒く息を繰り返すだけで、これ以上の変化はないようです。
私が恐る恐るレイヴン様の御顔を覗くと、レイヴン様は私に視線を合わせて仰りました。

「私を……立たせろ……」

そう言われて気づきました。
レイヴン様の両腕も両脚も、縛られて自由に動けません。
私がレイヴン様を起こさなければ、歩く事もままならない状態です。

「……失礼いたします」

私はレイヴン様に近寄り、まず仰向けのレイヴン様を横に倒しました。
それからレイヴン様の胴を抱え、力一杯にレイヴン様を持ち上げます。

肘と膝がゆっくりと直立していき、私が手を離せば、ようやくレイヴン様は立てました。
――四つ足をついた状態で。

「嗚呼……!」

レイヴン様は自分の視線の低さに恍惚し、自分の体の状態を確認すると、なお興奮したようでした。
折り曲げられた両肘と両膝で床を突いているその様は、先よりも獣に近いものです。
四肢を拘束され、二足で立つ事もできない状態。
自分の体をうっとりと見つめてから、レイヴン様は私を見上げました。

言語は不要でした。
もうこれからは、言葉を交わす事は禁忌となります。

私は再度「飼い主」となり、
レイヴン様は今度「馬」となるのです。

私は、床に置かれた鞍をレイヴン様の背に乗せます。
馬に使われる本物の鞍です。人に合うものではなく、鞍の上に手を乗せれば少々ぐらぐらと不安定です。

その不安定さを少しでも拭う為、よりレイヴン様を「馬」らしくする為。
私は、荷縄を再度、二本切りました。

その内一本。腕ほどの長さに切った荷縄の真中を、レイヴン様の口元に寄せます。
閉じたレイヴン様の唇に指を突っ込み、無理矢理に口を開かせました。

「がァ……!」

まだ餌の臭いを含んだ口臭に辟易しながらも、私はレイヴン様に荷縄を噛ませます。
荷縄の両端を持てば、手綱の代わりになります。

道具を扱う腕は縛られ、言葉を司る口は塞がれ、人間としてあるまじき姿に堕される。
荷縄を噛む口の端から唾液が溢れ、くぐもった嬌声がこの仕打ちに恍惚としているようでした。

私は決心がつかず、レイヴン様の鞍を撫でました。

昼の刻。
私があの馬に乗り、連王様と邂逅したあの時。
過去を忘れてきた私が、忘れたくないと思える一時。

それを思い出させるこの鞍が、今やひどく黒ずんで汚れきったようでした。

今この鞍に乗ってしまえば、馬上で拝んだあの情景も、汚穢に染まる。
確信が私の足を床に縫いつけます。

しかし、その確信に従ってしまえば。

私のせいで、レイヴン様が不満を抱いてしまいます。

呼び起される最悪の事態。それを想像しただけで、脳が凍るように停止しました。
そしてすぐ、熱湯をかけたように脳が回ります。

それだけは、避けなければ。

ただそれだけを考えて、覚悟も何もなく衝動だけで、
私は、勢いよくレイヴン様に跨りました。

「ッ――ォッ……!」

小さいとはいえ、私の全体重がいきなり落下したのです。
私が「馬」に乗ると、重みを支える両肘と両膝に、一瞬の負荷がかかりました。
ギッ、と床板が擦れた悲鳴を上げます。

その悲鳴は苦痛の指標になると共に、連王様の記憶の断末魔となりました。

「ああ」

嘆きと諦めを交わせて、私の喉が擦れます。

鞍の感触は、昼のそれと全く同じでした。
ですが、目に広がる景色は、全く違います。

昼のきらびやかな陽光の中、人だかりの中でもなおその威光の埋もれない連王様の姿。
転じ。この暗く淀んだ闇の中、狭い部屋の中で見る低い壁の様。

過去の景色が現在の景色で塗りつぶされ、侵されて、私は忘却に沈む事を決めました。
私には、今のこの状況しか残されていないのです。

「ン……んン゛っ……!」

荷縄を噛むレイヴン様が、体を揺すって催促しました。
私は、未練がましい望みを絶ち、目の前の手綱を握ります。
それを思い切り引き、私は踵で「馬」の腿を蹴りました。

「行け、行くんだ」

敬語すら、紡ぐ事もできません。
いえ、その時の私は、また湧いて出た溶岩の如き感情に焼かれ、「飼い主」である事を過剰に振る舞っていました。
焼却された連王様の記憶が、感情にまで焼きついてきたのです。

本に、この私は、「馬」をただの畜生と貶める事に何ら疑問を浮かべない、「飼い主」の鑑となりました。
レイヴン様の理想となるべく、主たるレイヴン様の口調を真似て。

とはいえ、狭い部屋の中で走らせる事はできません。
私はレイヴン様の脇腹を蹴りつけ、部屋の中を回らせます。

レイヴン様の肘や膝が床に着く度に、くぐもった嬌声が聞こえました。
関節の役割とは、四肢を曲げる事であり身体を支える機能を持ちません。床には、皮膚が破れ滲んだ血の跡が点々と残ります。
しかし、それ以上に喘ぐ理由は分かります。

今、小さな「飼い主」を乗せ、「馬」として歩いている。

私は重しとしては軽いものでしょう。しかし屈辱は一層重く苛みます。
このような少女に乗られ、命令に従う「馬」。
「犬」と種類の異なる責苦が、より深くレイヴン様の心を抉りました。

より、屈辱の限りを。

露わになった私の思考と、レイヴン様の嗜好が合致します。
私は手綱から右手を離し、もう一本の荷縄を手に持ちました。

荷縄というからには、振れば揺れる柔軟性とそれなりの長さがあります。
私はその荷縄を高く掲げ、レイヴン様の腰に向けて振り下ろしました。

張りのある材質ではなく麻です。恐らく革製のものであれば、随分と良い音が鳴った事でしょう。
ですが、私の奈落で横たわる感情が、速度となってその荷縄にこもりました。

それが勢いよくレイヴン様の腰に打ちつけられると、レイヴン様は頭を反らしてびくん、と震動します。

「――ぁッ、イ゛ィ……!」

鞭で打たれる。
理性なき畜生への躾が、この身を襲っている。

レイヴン様の咥える手綱に悦楽の形骸がつう、と伝い、私の左手にまで到達します。
私は左手を見下し、なおもレイヴン様を鞭打ちします。

(さえず)るな。(いなな)くな。私は『行け』と言っている」

「――ッ!」

私のその言葉を聞き、レイヴン様の首筋が痙攣します。
その時、明確に、自分自身もその言葉の含意が分かりました。

敵意。

今この私は、レイヴン様に害を成す為に存在していました。
殺意にちかしいその意志が、レイヴン様の欲求に流れこみます。

レイヴン様が喜々として行進しました。
肘も膝も血に染めながら、意味もなく部屋を巡回します。

表に出る事は決してできません。
しかしその意味のなさが、逆に一種の責めでありました。

歩行速度は遅々と、腹立たしいほどに遅いものでした。
当然でしょう。これは「馬」ではありますが、四足歩行に不自由な生き物なのです。

速度を求める利点もなく、私は更に指図しました。

「走れ」

それを聞き入れたレイヴン様は、より息を荒くし速度を増します。

ただでさえ血の悲鳴を上げる肘膝は、走る事で接地の衝撃が激しくなりました。
露出した肘は空気に触れた血塊と新たな血流でぐずぐずになり、膝の皿をくるむ穿物は血で濡れ床を離れる瞬間に水音をやかましく立てます。

走る度、ごりごりと関節の軟骨の喚き声が聞こえました。
手綱に伝わる喘ぎ声はそれと連動して震えます。私は、その声が聞きたくなく、手綱を強く引いて口を圧迫させます。

ついには右肘がより一層大きな音を立てました。
それは、鳥の骨を奥歯で潰したような、そんな音です。

音の発生源に耐え切れず、その耳障りな嘶きが発生します。

「ン゛ィイッ、ィッ良゛ア゛ッアア゛ッ!」

「飼い主」に不快を与えた「馬」に対し、私は正当に躾ける事にしました。

私は何度も踵で脇腹を蹴りつけ、この暴力の理由を告げます。

「私が何と言ったか忘れたのか」

「何も鳴くな」という言いつけを破った事で、私もまたレイヴン様の脇腹を蹴り破るように強く踵を叩きつけます。
今度のそれは、肋骨で守られた脇腹ではなく、比較的柔らかな腹部に突き刺さったようでした。

「――ッ、ッ!」

レイヴン様の体がびくんっ、と一際大きく痙攣します。
最初、それは快楽による震えだと私は解釈しました。

その実何であったのか、それは胃の中身と共に明かされました。

レイヴン様が口に咥えていた手綱を吐き出すと、二度ほど頭を震わせて、
まるで普通の人間のように、レイヴン様は嘔吐を始めました。

滴る胃液とふやけた餌の混合物が、びちゃびちゃと床に吐かれていきます。
汚物の水溜まりが広がっていき、気化した胃酸と餌の臭気がつんと鼻を刺しました。

全く、全く躾のなっていない「馬」でした。

私は粗暴に舌打ちし、レイヴン様の後頭部から生えた針をひっ掴みます。

「頭を下げろ」

言いながら、掴んだ針で頭を床に押しつけ、レイヴン様は前腕を床につけて前屈みになりました。
自分の吐瀉物を目の前に突きつけられ、汚物に触れないよう顔を背けます。

そんな抵抗を振り払いました。

「避けるな、小賢しい。それはお前の汚したものじゃぁないか」

片脚を上げると、その足をレイヴン様の首に押しつけました。
レイヴン様の顔を吐瀉物に近づけ、私はヒビ割れた笑みを浮かべます。

「汚したからには、綺麗に片づけろ」

綺麗に?

手は縛られています。
足で拭う器用さも無く、自由な指はありません。

そんな疑問を浮かべたようで、レイヴン様は首だけ振り向き、私の表情を窺います。

私は、レイヴン様に対して――記憶が無いので、「恐らく」という推測ではありますが――初めて「可愛い」という感情を抱きました。
「可愛い」をより解体して表すならば、「自分よりも弱い動物が怯える様に対して、自分は手を差し伸べる事ができるのだという優越感」です。

私はレイヴン様に笑いかけ、その言葉の一つも漏らさないよう、ゆっくりと耳へ注ぎました。

「綺麗に片づけてくださいね。その口で

優しく。
知能の低い動物に言い聞かせるように、見下した優しさでそう諭しました。

そう諭した瞬間、レイヴン様の表情は凍ります。
きっと、私もレイヴン様から突拍子もない命令を受けたらそういう表情を浮かべるのだろうと、そう思ってくすりと嗤いました。

レイヴン様はぎこちなく首を元に戻すと、床に広がる吐瀉物に硬直します。
それは、腹の中にあったものです。それを再度腹に収めるのは、形而下では単に位置が移って元に戻っただけでしょう。

ですが、心理的抵抗は大きいものです。
眼下には、胃酸に冒され、半液状化した家畜の餌。
畜生であろうと避けて通るような汚物です。

最早、生物としての扱いではありません。
その状況に追いやられ、レイヴン様はがくがくと脚を震わせ、熱く溜息を吐きました。

再び、レイヴン様が私に振り返ります。
懇願に瞳を震わせ、哀れましく振る舞っていました。
「飼い主」の横暴に怯える「家畜」の演技としては、心に迫るものです。

ならば私も、横暴な「飼い主」として返すのが筋でしょう。

私はその顔に足を押しつけ、レイヴン様の顔を汚物溜まりに接触させました。
汚らしい湖面に波音が立ち、純白の毛並みが侵されます。

私の鼻よりも距離が近いのです。その悪臭はより強いものでしょう。
レイヴン様は「飼い主」の命令に諦めたふりをして、吐き戻したそれらを口にします。

私は、吐瀉物を舐め始めた事に満足し、足を戻しました。
そして鞍の上から、舌を以て床を掃く作業を監視します。

ぺちゃぺちゃと、水音がしばらく響きました。

今、レイヴン様の態勢は腹部よりも頭部が下の状態です。
つまりは、胃袋から消化物が流れやすい状態にあります。

その上、今自分が口にしているのは吐瀉物です。
反芻動物でない限り、吐いたものは口にしません。

その矛盾が、嘔気を殊尚更刺激しました。

レイヴン様は少しだけ頭を上げると、苦し気なうめき声を出します。
しばらくは堪え、口を閉じて逆流を堰き止めていましたが、それも限界に達して堰を切りました。

理性と道理を無視して何とか腹に戻したものが、再度床に広がります。

その不始末に顔を歪ませ、私は手にした荷縄の鞭を振るいました。
狭苦しい部屋に、乾いた屈辱の音が響きます。

鞭打ちがなおさら嘔吐を誘ったようで、どろどろの餌から、先頃食べて消化しかけた野菜まで、胃の中身を吐き切ります。
なおも嘔吐は止まらず、透明に泡立つ胃酸が口から垂れ、更には黄色い胆汁から、緑に変色した体液までも。
縊り殺されているような声と共に、口から断続的に排出されていきます。

私はわざとらしく溜息を吐き、鞭を振るいました。
嘔吐さえも許されずに臀を叩かれ、「馬」の嘶きは悲痛なまでです。

「早く、この汚らしい芝を食い収めろ、私の部屋を反吐でマーキングするつもりか?」

その嘲りで、発破をかけます。
しかし、レイヴン様の体は小刻みに震え、息を荒くし、懼れに竦んだように動きません。

頑として動かないレイヴン様に、この状況の前提を再掲します。

「『馬』ならば、『飼い主』に従うものだろう? 理性のない、『馬』ならば」
 ――それとも、自分は『人間』だと言い張るつもりか?」

私の中に潜む何者かから発せられた嘲笑が、私の脳を通さずに口を通ります。
私の言葉でありながら、そうとしか言えませんでした。

「『人外』が」

その罵りに、レイヴン様は一際大きく反応しました。
レイヴン様は目を見開き、私を見上げて唇を裂きました。

「……わ……たしは……」

「馬」が、人語を話します。
それは、歪んだ状況を正常に瓦解させるタブーでした。

この状況を望んでいたはずのレイヴン様は、なおも続けて嘶きます。

「私は――『人間』だ」

それははっきりと、抗議の意味を添えて発音された、言語です。

私は、連王様の記憶を焼き捨ててでもこの状況に身を委ねたのです。
この場に来て状況を覆そうとする「馬」に憤怒を覚えました。

即座に鞍から降りました。

部屋の暖炉に近寄ります。
傍に置かれた薪を投げ入れ、
火種たるマッチを擦り、それも投げ入れ、
玄関から火掻き棒を持ってきては、それも投げ入れます。

一連の私の作業を、レイヴン様は呆と見ていました。
私はレイヴン様の元に戻り、四つ足で見上げるそれを見下ろします。

「お前が何者かを教えてやろう」

私はレイヴン様の白髪をひっ掴むと、廊下を通り、倉庫の方に向かいました。
レイヴン様は、引きずられるように伴います。

倉庫の前まで来て、私は四つ足のレイヴン様を立たせたまま、倉庫の扉を開いて漁りました。

そこには、鞍以外の馬具が収められています。
偽物の荷縄の鞭を捨て、私はそこから本物の鞭を取り出しました。

厚い毛皮と皮膚に覆われた、本物の馬に使われるような鞭です。
毛もなく皮膚も薄い人間に使うべきではない、動物扱いをする為の鞭です。

威嚇するように鞭を大きくしならせて、私はレイヴン様の前に立ちました。
「飼い主」を前に怖気づく畜生を演じ、レイヴン様が体と瞳を震わせて私を見上げます。

私は予備動作もなく、レイヴン様の首を鞭で打ちつけました。

「ガァッ!」

先程よりも人間らしくない囀りに、ほんの少し溜飲が下がります。
それでも、これで全てを許すつもりはありません。

「『馬』になった時と、同じようになれ」

命令を下して五秒だけ待ちます。
その五秒の間、命令を理解できずに立ちつくす事に時間を消耗したレイヴン様に、再度鞭を振り下ろしました。

「ギィッ、アァッ!」

先程打った箇所に重ねるように鞭打てば、傷も苦痛もより深く穿たれました。
レイヴン様が震え悶え、腹を見せるように横に倒れこみます。

床に頬を擦りつける体勢となっても構わず、レイヴン様はぜいぜいと動悸を荒げます。
その腹に鞭を入れ、命令をより分かりやすく説明しました。

「私がお前の四肢を縛った時のように、仰向けにして肘膝を見せろ」

レイヴン様はようやく理解したようで、四肢を封じられた状態でぎこちなく倒れこみました。
その際、背に乗っけられただけの鞍は、ころりと床に転がります。

内臓の詰まった腹部を晒す事は、動物が行う服従のポーズです。
ですが、私がそうさせたのは服従の証を見る為ではありません。

私は、倉庫から目的のものを取り出しました。
それらを見た時、レイヴン様の表情が掻き乱されます。
苦痛への希望と、堕落への絶望で綯交ぜになった表情で、私の手を見つめました。

金鎚。
鉄釘。
そして蹄鉄。

金鎚と鉄くぎは、家の補修用のものです。
ですが、それに蹄鉄を伴えば、そんな意味など違えて受け取れるでしょう。

四つの蹄鉄と何十本かの鉄釘を床に置き、私は金鎚を構えました。

処刑人を前にした囚人のように、レイヴン様は願いをこめて抗います。

「私は……『人間』だ」

私は、常のレイヴン様を装い、首を傾げました。

「どうかなぁ?」

蹄鉄と鉄釘を拾い上げ、レイヴン様に迫ります。

「来る、な……」

弱弱しく抗議するその態度の中を見透かしました。
その気になれば、レイヴン様は今にでも縄を解き、私を殺す事ができるでしょう。

しかし、レイヴン様の唯一の救いである苦痛を目の前に下げられて、それに抗う事などできはしないでしょう。
私の脳の回路がレイヴン様と同一のものとなった今、その推測は確信と同一です。

私はレイヴン様に迫り、蹄鉄の底面を右肘に合わせました。

「――ッ!」

最後の抵抗として四肢を暴れさせ、「馬」になる事を拒みます。
私は肘を押さえつけ、一瞬を突いて右肘の蹄鉄に釘を打ちつけました。

「ア゛ッ、ガッァあ゛アっハぁあ゛ッアァッ!」

人語の次にレイヴン様の口を衝いて出たのは、甲高い咆哮でした。
およそ理知的とは程遠い表情に切り替わり、口が裂けんばかりに開かれます。

この一釘で抵抗を失い、激痛に引き攣る肉体を晒します。
私はレイヴン様の理性が戻る前に、救われる事のない欲望を刺激させました。

まだ釘を打ちこむ穴の残る右肘の蹄鉄に、釘を添えて金鎚を下ろします。

「アあッ、い゛ッイ、良゛ィイっ!」

「人間」であると主張していたレイヴン様の姿が、欲望に呑みこまれていきました。
人間らしい表情を急速に失くしていき、苦痛を快楽と受け取る浅ましい表情に堕ちていきます。

釘が関節の軟骨を破壊し、肉に穿たれ、「馬」の証である蹄鉄が固定されます。
そうしていく内に、抵抗の為に暴れていた四肢は、自分から肘膝を捧げるように従順になりました。

「そう、それでいい」

レイヴン様の欲望の写し鏡となった私が代弁します。

「『人間』である事など、この場においてはどうでもいい。
 今や私を救い得るものは、この生を実感できる苦痛しかないのだ」

肘膝へ装蹄する間に、血が湧き出してはレイヴン様の身を染めました。
私がレイヴン様に四つの蹄鉄をあしらった時には、床は赤い湖面に変わります。

最後の釘が左膝を穿った時、レイヴン様が絶頂し、その背を弓なりに反らせました。
絶頂の余韻に浸るレイヴン様をよそに、私は役目を失った金鎚から、御する為の鞭へと持ち替えます。

四つ足で起き上がる事のできないレイヴン様を何とか立たせると、蹄鉄を固定する釘が自重で抉られ、耳をつんざく嘶きが辺りに喚き散りました。
転がっていた鞍を背に乗せ、レイヴン様の後ろに回り、血で濡れそぼった腰を鞭で鳴らします。

「前だ、前へ行け」

号令を受けたレイヴン様は、廊下を歩きます。
その歩行速度は馬というよりは亀でした。

「ぁア……ハぁあ……イッ……あァ……!」

何しろ、蹄鉄が床を鳴らす都度、四肢を刺す釘の凌辱が鮮烈に脳を焼くのです。
口は意味のないよがり声の為に開かれ、喜悦から分泌される唾液がだらだらと垂れています。

ただ歩くだけでその様です。
ほんの数メートルの廊下を踏破するだけでも、五分はかかったと思います。

部屋に戻ったレイヴン様は、それで号令を果たしたと思いこんだようでした。
歩みを止めて、早鐘の動悸を鎮めるべくぜいぜいと呼吸を繰り返します。

しかし、前へ進めという号令の目的は部屋に着く事ではありません。

私はレイヴン様の腰に鞭を振り下ろし、皮膚が破裂するような音が部屋中に反響しました。

「ヒッ、イィいンッ!」

馬に似せて鳴き喚き、レイヴン様はそのまま直進しようとします。

それも私の目的と違いました。
私はレイヴン様の髪を引き、進むべき方向へとレイヴン様の向きを修正します。ぶちぶちと、何本か髪が千切れました。

進路を変えさせたレイヴン様の先にあるのは、先程火を焚かれた暖炉です。

私の心境は、囚人を処刑台へ誘導するそれでした。
暖炉の前まで歩かせると、前進し過ぎたレイヴン様の肘が暖炉の中に入ろうとしていました。

炙られる快楽への期待に、鞭を打って「否定」を示します。

「あッ――!」

私が想定するのは、レイヴン様の身を焦がす単調な火葬ではありません。

暖炉の前で止まったレイヴン様は、先端が炙られている火掻き棒をぼんやりと見つめていました。
私はそれが何を意味するのか分かります。

何しろ私はこの時のために、わざわざ暖炉に火を灯し、この火かき棒を突っこんだのです。

予想だにしない期待に目が眩むレイヴン様は、まるで獣のような醜態を見せていました。
それはお預けを食らっている家畜の目です。

「汚らわしい」と、私は思いっきり見下しました。
それすらも期待を高ぶらせている様子で、首の下には垂涎の溜池ができていました。

私は 火かき棒を手にすると、レイヴン様の後ろに回りました。
レイヴン様の腰に手をかけると、そこにあった穿物の布を破ります。

そこは頻繁に鞭打たれたところですから、脆くなったその箇所は簡単に破けました。
露わになったレイヴン様のその腰は、白く滑らかな肌を覗かせ、
しかし鞭打たれ、青く淀んだ痣のあるその腰に、
私は火かき棒を突っ込みました。

「い゛ッ――ヒぃイ゛ッ、い゛ィィインッ!」

耳を塞ぎたくなる嘶き声を上げます。
人間が口にするには獣性の強いそれでした。

何しろ数十分前から暖炉の中に置かれた火かき棒です。
毛皮に覆われていない人間の肌に当ててしまえば、チーズのように溶けてしまいます。

ジュウ、と言う肉の焼ける音と、食用ではない屑肉の焼ける臭いが、煙と共に上がりました。
その臭いを嗅いで、私は顔をしかめます。

「アあ゛ぁっ……! ィんッ、んンッ……!」

レイヴン様は、身に余る快楽から逃れようと、火掻き棒から腰を引かせました。
そんな事を許してはなりません。追尾するように火掻き棒を押し当てます。

「イ゛イ゛ッ――!」

四つ足で、腰を熱鉄で焼かれるその醜態の意味。
ただ焼かれるではこうも行かない、嬌声の正体。

烙印です。牛馬の証です。

頭を振るい、背を震い、レイヴン様はその恥辱に喉を反らせます。
なおも私は火掻き棒をぐいぐいと当て、更にはまだ焼いていない皮膚をなぞり当てます。
白と青の綺麗な肌の上に、火傷の隆起がのたうち回りました。

私が一回火掻き棒を離すと、荒げた息を整えようとレイヴン様は呼吸に励みます。

しかしそれは終わりの合図ではありません。
私は再度火掻き棒を暖炉に突っこみました。
まだ焼き終わっていない部分があるからです。

火掻き棒が熱を孕むまでの間、私はレイヴン様の背中に腰かけます。
「馬」というよりは椅子のように扱いました。

その間も、辱めに震えるレイヴン様は、足の下で更に息を荒げます。

やがて熱した火掻き棒ができあがると、私はレイヴン様から降りました。
レイヴン様の腰をより多く露出させ、背に至るまでが外気に触れます。

私は先の続きを焼き続け、レイヴン様は喘ぎ続けました。

「イ゛ッ……! ヒィッ……!」

一方的に与えられる悦楽に、文字通り身を焦がし、人間の言葉で快楽に猛る事を必死に我慢し、舌を噛んで血を吐きます。

そして今度こそ焼き終えると、私は火掻き棒を床に落としました。
床と金属が奏でる晩鐘の響きが、終わりを告げます。

レイヴン様は四つ足すらも維持できず、体も顔も床につけ、陵辱の余韻に沈みます。
私は部屋の片隅を指差し、耽溺するレイヴン様を引きずり揚げました。

「あれを見ろ」

床に頬擦りしている中、レイヴン様は首を回してそこを見ました。
そこに、鏡があります。

私はレイヴン様の耳元に口を寄せ、

「焼いた痕を、お前のその目で見るんだ」

「飼い主」としての命令を囁きました。

レイヴン様はよろよろと立ち上がり、四つん這いで進みます。
肘膝には蹄鉄を打ち、腰には鞭と火傷を負い、歩く事すら困難なほどでした。

ただでさえ嘲り笑えるその姿に、屈辱の追撃がありました。
レイヴン様は鏡の前に立ち、そっと腰を鏡面に映すと、

「――ぁア」

と、諦めたように納得した声が漏れ出ました。

そも烙印とは、何者の所有物かという証明。
人権を剥奪された家畜の証明。️

そこには、️「」と私の名前が刻まれていました。

「……ハッ、ハハッ――」

レイヴン様は嗤いました。
空虚な、人間の欠落した、千年の虚無を濾した暗闇の嗤い。

それがレイヴン様です。

「そう、お前は人間じゃぁない」

レイヴン様の横に立つ私もまた、人間ではない笑みを浮かべていました。
今の私はレイヴン様を絶望に落とす、役に徹する人形です。

「人間ならば、こんな仕打ちをされて喜ぶものじゃぁない。
 お前のこの姿は、お前が望んだものだ。

 お前は自分を『犬』や『馬』のようにしろと言っていたが、それは思い上がりだろう?
 お前は元々、人でなしのケダモノだ」

その一言一言を噛みこんでは、角砂糖のように飲み下します。
そこに「人間だ」と主張した弱い人間はいません。

快楽に欲望を露出させる動物です。

人間ではなくなった「馬」は顔を綻ばせました。
自分の心を蹂躙する、屈服の暴力。
考える事なくそれに心身を委ねる事は、全てを諦めた沼の安寧です。

思考停止し、「馬」は鏡に近寄ると自分の惨めな姿をじっとりと眺めました。
特に烙印を押された腰の辺りなど、そこが映った鏡面を美味しげに舐め回します。

やがて「馬」は壁に立てかけられた鏡を前脚で床に落としました。
床に落とした衝突で鏡の一部が割れましたが、構わず「馬」は鏡の上に乗ります。
映し出らされた自分の姿に興奮し、鏡を相手にマウンティングをし始めました。

「ハッ、はァッ、ァアっ……!」

わざとらしく動悸を荒げ、自分で自分の聴覚を犯します。
興奮した姿すら鏡に映り、それを目の当たりにして醜悪な己を自覚し、途切れる事なく腰を振り続けました。

割れた鏡が皮膚を破ろうとも、なお止まる素振りも見せません。

「アぁあっ、ウあ、ァんッ……!」

自己嫌悪を材料に自ら精神を痛めつけ、次第に腰の振りが激しくなっていきます。
何度も何度も虚空を突き、周期を短く詰めて高まっていく様子が見てとれます。

不自由な後ろ足で床に立ち、背骨を折らんばかりに体全体を振り動かし、
ついには絶頂まで登り詰め、奈落に深く口を開け広げました。

()ゥわ゛ァッアんぃ()゛あ゛ァガあ゜っ゛イ゛ぅ()()ンッグウゥうぁア゛ア゜っハァア()あッっ゜ッ!」

戦慄せんほどに言語中枢が破綻した絶嬌(ぜっきょう)です。
噴出した本能の奔流を出し終えた時には、「馬」は顔を床に向けて舌と唾液を垂れ、四つ足のまま硬直しました。

乗るには都合の良い体勢でした。
頃合いと見た私は、「馬」に跨ると鞭を下ろします。

「ぃ゛ッひィ゛っ!」

鞭は、露出した烙印を叩きます。
直に皮膚を打つその痛みは、火傷で殊更増幅され、それだけで唾液を撒き散らす程でした。

「お前は何だ?
 人間に飼い馴らされ、何百年とかけて従順になった結果、最早野生種は絶滅し人間に従属する他なくなったお前は何の獣だ?」

それで、「馬」は理解しました。
人語で答えるのではなく、行動を以て応えます。

「馬」は走る為の獣です。

「馬」は吐瀉物の広がる床だろうと走ります。
それが汚物であるという理解もせず、走り出しました。

「ヒィイん、いイィンッ!」

走る都度、蹄鉄の釘が肉を抉ります。
嘶きに似せて喘ぎ、苦痛と虐待に尚更喘ぎ、呼吸困難となるまでに喘ぎました。

理性の隙もなく「馬」になった獣を相手に、私の精神の異常な昂ぶりが鎮まっていきました。
思えば、私はレイヴン様を満たす為に、その千年の精神を自分でずっと演じていたのです。
倦怠感が体に満ち、ともすれば意識が途切れるまでに疲れています。

しかし、私一人だけが疲れている訳ではありません。
幾ら壮健を保つ身を持とうとも、これまでの凌辱を受け続けた「馬」は、「飼い主」を乗せての疾走という過負荷に耐え切れなかったようです。

吐瀉物の泥濘に蹄を取られた「馬」は、前傾姿勢のまま転び、顎を床に打ちました。
転倒を想定しなかった速度で衝突し、床には断ち切れた舌が青ざめ、噛み鳴らし損ねた犬歯が口から零れます。

「馬」に乗っていた私は、遠くの床に振り落とされました。
乾きかけた吐瀉物に服を汚され、私は落胆の溜息を吐いてそれを振り払います。

私はすぐに立ち上がり、「馬」の様子を窺います。
また走る事を予想していましたが、「馬」は倒れたままとろとろと数分を消費しました。

「走れないのですか?」

私は「馬」に歩み寄り、その頬を撫でました。

四肢も、腹も、胸も、頭も、目の行方も全てが揺れ惑い、全身が無言の音を上げています。
自分が散らした血と吐瀉物で体を塗り、口からは乾いた呼吸音しか聞こえません。

もう走れないと知った私は この空間の終焉を予期しました。
幕引きを行うのも、空間を支配する「飼い主」の役目なのでしょう。「馬」が望む終着を用意しなければなりません。

私は「馬」の耳に囁きました。

「もう、用済みですね」

「用済み」という不穏な言葉に、「馬」はびくりと反応しました。
しかし抵抗はありません。それを用済みにする事への肯定と見なしました。

もう立つ事も逃げる事もままならない「馬」から一旦離れ、放置していた荷縄を再度手に取りました。
私は「馬」の胴や肩に荷縄を巻きつけ始めます。

経験はありませんが、知識だけはあります。
家畜を屠殺する際には、それを縛り上げて吊るす事が必要なのです。

縄を縛る心得はありません。
ただ幼稚な縛り方で、「馬」を縛り上げました。

抵抗をさせないよう、四肢を胴に密着させるように縛ります。
縛る事は容易でした。最早「馬」は縛られる事に抵抗する力もないほど疲労しているようです。

一重結びだらけの「馬」の縄の一本をつかむと、寝室に向かって引きずりました。

「……ィ……ゥ……」

引きずる間、「馬」は喘ぎ疲れて乾いた喉で譫言をつぶやきます。
成人男性ほどの重さの「馬」を、数分かけてやっと寝室の前まで引きずりこみました。

しかし寝室に連れこむのではありません。
私の目的は扉でした。

私は荷縄の束から、「馬」の身長ほどの長さで荷縄を切ります。
そして扉を開くと、天井すれすれの扉の上部分にその縄を通します。

扉の前後に縄が垂れるようにして、縄の一端と「馬」の縛り縄を固く結びました。
これで、もう一端の方を下に引けば、「馬」が縄に引かれて吊るようになります。

しかし一本の縄では切れるでしょう。
私は何本も扉の上に通しては、「馬」の縄と繋ぎ合わせて補強していきます。

「ゥァ……ァ……!」

そうしている間に、「馬」の疲労はわずかに回復しているようでした。
しかし身動ぎするだけで、何の抵抗にもなりません。
着々と屠殺の準備が進んでいくのを、ただ見つめるしかありませんでした。

やがて十数本の縄が扉の上から垂れました。
「馬」と反対の縄に向かい、わずかに引いてみましたが、切れる様子はありません。

安心した私は、倉庫から空のバケツ一杯と、台所から包丁を一本取ってきました。

「……!」

私が台所から戻ってきた時、手に持った包丁の照りに「馬」が戦慄した様子でした。
私はバケツを「馬」の頭の近くに置き、包丁の背で髪を撫でました。
金属の愛撫に死を感じた「馬」は、首に鳥肌を立たせて、目はがくがくと震えます。

「走れなくなった駄馬は、血抜きして肉にするんですよ」

馬耳にそう囁いて、私は「馬」の喉に包丁の刃を当てました。
喉仏のあたりに刃を当て、私は刃を押しこみます。

「ァ……!」

声帯が断たれる前に、そのわずかな悲鳴を上げます。
それきり、何も発声しませんでした。

喋る事のできなくなった「馬」に、私は構わず首に刃を押しました。

「――――!」

声ではなく、身動ぎで悲痛を示します。

「馬」は、さして動きません。
ですが、荷縄がギチギチと張る音が、その体が暴れようとしている事を伝えました。

首の半ばまで刃を肉に埋めた時、不意に流血が噴血となりました。

いわゆる頸動脈というものを切ったのかもしれません。
擦過傷程度では見られないような、鮮やかな赤い動脈血です。
「馬」ではない普通の馬ならば、失血死させるには充分でしょう。

「馬」の表情を覗いてみました。

「……ッッ!」

首から伝う血が、目蓋にまで伝っています。
それは涙の軌跡のようで、しかし顔は凶喜にひん曲がっていました。

開け広げられた口は何事かを開閉し、二酸化炭素の代わりに鮮血を吐き出しています。
実に狂った悦楽ぶりでした。

私は、首を反らせる為に「馬」の額に縄を当て、脇の下に縄を通して括りつけました。
後頭部の針が肩甲骨の間を突くような位置になります。
すると、喉仏を切られた首の断面がより開かれて、血がより流れやすくなります。

「……!」

首の骨を曲げられ、断面が空気に触れた激痛。
「馬」は体そのものが心臓になったように大きく脈打ちます。

私はバケツを扉の近くに置きました。
そして私は扉の裏へ行き、「馬」に繋がれた縄を引きます。

「馬」はずるりと体が持ち上がります。
「馬」は後ろ脚を上にして、逆さ吊りの状態になりました。

胴よりも下になった首から、重力に従う血が流れ出ています。
血の滝は、バケツによって受け止められました。

重い「馬」を吊り上げるのは大変な労力でした。
それでも上に上がれば上がる程、扉を支点とした梃の原理で、次第に自分の力で容易に上がるようになっていきました。

数分して、自分の腕に縄を巻いて座ります。
それだけで吊られた状態を維持できる程、「馬」は支点に近くなっていました。

滴る血が、バケツの湖面に波紋を立てる音が大きく聞こえます。
それは眠気を誘う音でした。

「馬」と扉一枚隔てただけですが、隔離された感覚に微睡みが包まれていきます。

これで、もう「おしまい」でいいでしょう。
そう考えて、感情の一段落がつきました。

安堵した私の脳が、私の思考が不明瞭になっていきます。

走馬燈のようでも、夢見る前の無秩序な混沌のようでもあります。

バラバラと今日の出来事がフラッシュバックしていきます。

「馬」の血。
烙印の痕。
歩き回る「馬」。
餌を食う「犬」。
首輪をかけられた「犬」。
そもそもは、レイヴン様。
その前に、連王様。
連王さま――。
そう、れんおうさまが――。

私は、
重い目蓋と眠気に抗えずに、気を絶ちました。











不意に目が覚めました。
きっかけは分かりません。悪夢かもしれませんし、血の滴る音が途絶えたからかもしれません。

縄に縛られて青くなっていた腕には、もう重みの感覚がありませんでした。
適切な睡眠ではない気絶であるからか、疲労の感覚は色濃いものです。
扉の後ろに首を回すのも、這ってようやくといった体でした。

そこに「馬」も、レイヴン様もいませんでした。
血を一杯に湛えたバケツしかありません。

恐らく、レイヴン様の時間が来てしまったのでしょう。
私は時間を計る為、懐中時計をのろのろと取り出しました。

文字盤を見て、目を見張ります。
5時に針が差し掛かっていました。

夕方の5時という意味ではないでしょう。
それは「今日の私」の時間もあとわずかなのだという宣告でした。

私は途方に暮れます。

居間の床は吐瀉物と血が混濁した汚泥が撒かれ、あちこちに縄や馬具が散乱しています。
どこから手をつけるかと考える暇もありません。

混乱した私の目に、あの鞍が目に飛びこみました。
連王様と出会えた象徴である、あの鞍です。

しかし今やレイヴン様の血汗を吸い、思い出と共に汚染された鞍です。
それでも、その思い出だけは何とか残したいと思いました。

疲れ切った私は息も絶え絶えになりながら、四つん這いで寝室に向かいます。
寝室には日記がありました。

そこに私の、わずかな憧れの一端でも残したいのです。
あの鞍に跨り、私は連王様を見たのです。
今日の私が抱いた感情を、明日より後にも残したいのです。

その思いに縋り、やっとの事で這い寄ります。
私の姿が、寝室の窓に反射しました。

それは四つ足の、「犬」とも「馬」ともつかない醜い姿です。
自分が他者を「犬」や「馬」として追い詰めながら、自分の感情は優先しようとする姿です。

自分自身の姿に、精神が射抜かれました。
私はレイヴン様に人間ではないと言いました。
しかし、今この時の私もまた人間ではないように思え、私の手足が止まります。

四肢が床に固着したように動けません。
懐中時計の時を刻む音が、精神を刻みました。

やがて、私が眠る時間が来ます。
今日の私が、死ぬ時間です。

「あ……あ……!」

私は日記に手を伸ばし、そこで意識が沈みます。


「ん……」

起きる時、体に痛みが走りました。
私は何故か、床に寝ていたのです。

昨日の私は何をやっていたのでしょう?
それに起きてすぐさま、異臭が鼻を突きました。

私は痛む体を動かして、気が進まないながらも寝室の扉を開けました。

「う――わぁっ!?」

そこでひっくり返ります。
赤黒い液体を波々と湛えたバケツがあるのです。
こんな事が日常に組みこまれるのは、屠殺場くらいでしょう。

しかし、異臭の大本はそこから発生しているようではありませんでした。
私は恐る恐る居間に行きました。

「――――」

絶句します。

床には渇きかけた野菜屑とふやけた何かと血の塊が広がり、酸っぱさと鉄臭さが合わさった悪臭が漂っています。
私はすぐさま窓を開けて換気します。

本に、一体昨日の私は何をしていたのでしょうか。

いえ、人間一人を潰して出したようなあのバケツの血を見た時から、推測は立てていました。
レイヴン様が、昨日に私の家へと来訪されたのでしょう。

昨日の私というものがどこまでも羨ましいものです。
こんな汚物の処理まで、今日の私に押し付けて!

「……はぁ」

過ぎ去った事に腹を立てても仕方ありません。
あちこちに散乱する異物を捨てるべく、物置から袋を取ってきました。

これでレイヴン様を打っていたのであろう鞭や、縛っていたのだろう荷縄を袋に入れていきます。
何の気兼ねもなく、袋の中に入れていきます。

最後に、寝室の扉の近くにあった立派な鞍を手にしました。

「…………」

私はじっとその鞍を見つめます。
それは、くたくたに使い古され、血を吸い黒ずんだ馬の鞍です。

「随分と、本格的にやっていたようですね」

やれやれと呆れ、何の未練もなくその鞍を袋に捨てました。
その感想だけです。

信じて送り出した側近が上級射撃兵の搾精托卵にドハマリしてアヘ顔ピースリプレイデータを送ってくるなんて…

エクレア×レイヴンの話
18禁
異種姦
痛めの描写あり
捏造設定あり
ピース要素なし
レイヴンの扱うサーヴァントは、敵対するヴァレンタインのサーヴァントである。
だが、彼は己の配下に置くサーヴァントを洗脳し、ヴァレンタインではなく己をマスターとして扱うように仕向けている。
彼自身の完全なる配下ではない以上、その動向には気を配るべきものである。

「……どうした?」

彼の傍らには、ぶるぶると震えるエクレアがいた。

ORGANを開き、敵のマスターゴーストを進軍先として指定しても、
「行け、行くんだ」とその場で指示を出しても、
エクレアは、その場を離れなかった。

レイヴンは首を傾げ、怪訝な色を携えてつぶやく。

「バグか?」

バックヤードには時折、バグが生じる。
それは極僅かな、天文学的な数値ではあるが、それは確かにサーヴァントの発生源たるバックヤードで息づく現象だ。

時にそのバグは、バックヤードを問わず現世に顕れる。
そのバグは、時として不死をも実現する――。

しかし、レイヴンは一体のサーヴァントの不具合に対して、然程危機感を覚えていない。

まず――説明するまでもなく、ある程度場慣れしている者からすれば、エクレアが召喚されている時点で察している事実かもしれないが――状況が優勢である事。

エクレアという存在は起死回生の一手ではなく、念を押しての召喚である。
マスターゴーストに待機させ、敵の強襲への備えとして、またゴーストの中立化の選択肢としての役割でしかない。

また、戦力として期待していない事。

もしこれがシャルロットやミルフィーユ、Missティラミスといった有力なサーヴァントであれば、早急に対処すべきバグであっただろう。
しかし、エクレアである。
戦力としては前述の三体とは劣る以上、その優先度は低く抑えられる。

それに、もしエクレア一体がヴァレンタインの手に落ちた所で、始末など容易いものだ。

これまでに数多の命を奪ってきた針の感触を確かめ、レイヴンはエクレアを一瞥する。
相も変わらず――いや、平常とは変わっているが――震えている。

レイヴンはORGANを開き、戦況の把握と本隊の進軍を進める。

「この戦いが終われば、削除するか」

慈悲もなくレイヴンが一言こぼし、ぴくり、とエクレアが反応する。
そのわずかな反応に、ORGANに集中するレイヴンは気づけず、戦況は順調であると断じてレイヴンはORGANを閉じた。

「こんな所か……ん?」

エクレアを見やると、どこにも敵がいないというのにバックステップを繰り返している。
まるで、マスターゴーストから離れるように。

「待て。どこへ行く?」

レイヴンは針を構えたまま、エクレアを追う。

ここにきてようやく、レイヴンははっきりとエクレアが異常であると判断した。

ヴァレンタインに指揮系統を奪還されたのかもしれない。
レイヴンはその場に留まり、ORGANを開きエクレアを削除しようとする。

だが――。

「消えた……?」

何故か、開かれたORGANのMAP上から、エクレアを示すアイコンが表示されなくなってしまっている。

もしかすれば、MAP外に出てしまったのかもしれない。
そう予想し、舌打ちをする。

いくらエクレアと言えども、射撃兵である。
マスターへの攻撃に長けた兵種だ。

もし、敵マスターゴーストの下で乱戦中、防御に乏しい中で背を撃たれれば。
そこで自分が倒れ、マスターを失った自軍が壊滅。前線は瓦解し、形勢逆転を許す事になるかもしれない。

レイヴンは逡巡する。

前線を一旦留め、エクレアを探して屠るべきか。
構わず進め、エクレアに討たれる前に敵を落とすべきか。

その時、前線にいるキャンディから一報が届く。

「マスターゴーストに着いた」

ORGANを再度開く。
幸い、敵はMANAにすら欠いているようだ。
手薄な防衛を見たレイヴンは、敵マスターゴーストをまず陥落させた方が早いと断じた。

ヒールロッド、Tポーション大、リザレクションと、潤沢なMANAからアイテムを錬成していき、敵陣への参戦の用意を整える。

自らのスロットにアイテムを格納していく。その隙を見計らったように。
背後から、大きく跳躍したエクレアが飛びかかった。

「なっ――!?」

想定外の襲撃。

押し倒され、腹部を強く叩きつけられたレイヴンは、体を捻って仰向けにし、起き上がろうとする。
だが、仰向けになったところでレイヴンが見たのは、エクレアの口から粘液が己の四肢に吐きつけられる場面だった。

しかしそれだけではなかった。
エクレアは法力無効化(バインド)の法術をもレイヴンにかける。
腕も脚も法力も塞がれ、完全に彼を無力化してしまったのだ。

四肢が粘液で地面に貼りつけられ、身動きの取れなくなったレイヴンは、明確に反逆者となったエクレアを睨む。

「くっ……殺せ」

ここまでしたのだ。恐らく相手は殺害による無力化を図るだろう。
ならば、ここで抵抗して時間を浪費するよりも、殺されてやるの(クリティカルダウン)が良い。
そしてスロットに格納したリザレクションで蘇り次第、殺害を遂行したと思わせた相手の隙を突き、殺し返せば――。

そこまで考えを巡らせる。
だが、エクレアが取ったのは、その考えから大きく外れた行動だった。

エクレアはレイヴンのスロットに干渉すると、彼の所持していたアイテム類を地面に引きずり出した。
サーヴァントは、マスターのスロットに格納・再召喚される事がしばしばある。故にこそ、スロットへのアクセスは簡易にできる。

しかし、その行動に何の意味があるというのだろうか。
エクレアの思惑を量れず――そもそも、節足動物の思考など理解できはしないのだろうが、レイヴンはただ彼女の行動の行く末を見る事しかできない

エクレアは、地面に転がるTポーションをつかもうとしていた。
彼女の手は、いわゆる「鎌」の形をしている。人間の手であれば用意な「つかむ」という動作も、彼女にとっては困難なミッションである。
レイヴンが怪訝そうに見つめる中、ようやくエクレアはTポーションを鎌で挟み、「つかむ」事ができた。
どことなく誇らしげで、まるで誇示するようにTポーションをレイヴンに掲げる。

「……それを、どうするつもりだ?」

その答えに、ギチチ、とエクレアは鳴いた。
エクレアは鎌に力をこめ、Tポーションの容器にヒビを入れる。
レイヴンの胴体上空に掲げていたTポーションは、ヒビから漏出した液で彼を濡らす。

エクレアがなおも鎌に力をこめ、ついに容器は完全に壊れた。
ヒビを基点に真っ二つに割れ、ガラスの甲高い音が耳に障る。
Tポーションがレイヴンの体をしとどに濡らし、身につけた服が肌に纏わりつく感覚を鮮明にした。

使用したマスターのテンションを上げる薬である。
それを浴びたレイヴンは高揚を覚え、びくり、と体を震わせた。

――不可解だ。
テンションを得たならば、反撃時に苛烈な一撃を食らわせる事ができる。
いくら相手が「バックヤード」産まれの人外であろうと、生存本能から離れているこの行動はあまりにも愚策だ。

レイヴンの考えは確かである。
エクレアは生存本能というものには基づいてはいなかった。
――しかし、その衝動は生存本能の隣人である。

エクレアはレイヴンの上にのしかかった。
古代の大型昆虫でも存在しない、エクレアの巨躯。レイヴンよりも一回り大きな彼女の体であったが、存外重みはそれほど感じない。
哺乳類のように、外殻の中身は肉で埋まっている訳ではない。これほどの巨躯であろうとも支えうる、細い脚に似合いの重みであった。

レイヴンは内心、残念そうにため息を吐いた。
どうせ嬲られるのであれば、せめて圧迫の苦しみを得たいものだ。

だが、レイヴンはその数分後、その考えを撤回する事になる。

エクレアの口は動かず、音だけが聞こえた。
ぬちゃり、という粘着質な音。それが――彼の足元で聞こえた。

つまりは、エクレアの尾部から発せられた音。
その音の原因を探るべく、レイヴンは首を動かしてエクレアの腹越しに、「それ」を見た。

最初は蛇と思った。
それに頭がない。否を突きつけられる。
次に触手かと考えた。
水棲生物でもなし、そんな事はないと自ずから否定する。

「それ」は彼の腕ほどの太さを持っていた。
体内に収まっていた「それ」は、出したばかりで体液にぬめっていた。
先端部には穴が空き、「それ」はチューブ状の器官である事を知れた。
エクレアの意思のままに「それ」は蠢き、360度いかなる角度にも曲げられ、柔軟性があった。
「それ」はエクレアの尾部から生えている事を確認している。

「それ」は何か。
判断材料をここまで集め、それでもレイヴンは否定しようとする。

――仮に「それ」がそうであったとしても、バッタやそこらの現世の昆虫の「それ」は器用に動かない。
せいぜい、前後に抽送運動する程度が精一杯であり、なおかつ少しばかり曲げた程度で折れるようなものだ。

だが、エクレアは「バックヤード」の住民であり、現世からかけ離れた生態を持っている。
レイヴンの否定を砕く事実として、「それ」はいわゆる「産卵管」という器官であった。

戦場に立つ事は珍しくないが――この時、彼の背に走った戦慄は何年ぶりであろうか。

「何を……するつもりだ!」

未知への怯えに、声が震える。
しかし、レイヴンは痛みに怯える己を認識し、「生」の快感を覚える嗜好を持っていた。
その怯えもまた、彼に期待を持たせ、隠された興奮を駆り立てた。

虚空で妖しく蠕動する産卵管は、ついに目的をもって動き出す。
産卵管がレイヴンに向かって伸びた。

四肢を地面に縛りつける粘液は、振りほどけるものではない。
身をよじる程度でしか抵抗ができない彼の脚に、産卵管が触れ始める。

Tポーションに濡れた身には、わずかな接触すら神経に響く。
寒気が脚を伝い、背を走り、脳天にまで生体電流が届いた。
快感とも言えるが、不快とも言える。いや、もしくはその両方かもしれない。

産卵管が彼の脚を軸とし、螺旋状に巻きつき始めた。
エクレアの体液を纏ったそれは、既に濡れそぼった衣類を更に汚す。
体液は無色であったが、それは変温動物の熱を帯びている。人の身を冷やす温もりが染み出した。

「くっ……!」

抵抗の為に脚を動かすも、産卵管はぴったりとレイヴンの脚に沿っていた。
レイヴンは否応なしに事実を呑み、その産卵管の行方を目で追う。

名称通りに、触手状のそれは産卵する為に機能するだろう。
ならばその機能をどのようにして果たす?
ある種の昆虫は、幼虫の餌とするべく、生きた獲物の肉に卵を産みつけるという。
何しろ、己はその獲物としておあつらえ向きだ。無限に肉を供給できる、そんな存在だ。

寄生虫や蛆虫は経験こそあるが、そのまま卵を産みつけられるのは経験がない。
未だ知り得ぬ感覚への期待が、深層意識で浮かび上がった。

「どうせ同じならば……せめて一思いにやるがいい!」

啖呵を切る。あるいは催促。
レイヴンのその言葉に応えたように、産卵管の動きが早まった。
脚を締め上げ、産卵管の先端は下腹部にまで迫る。

同時に、彼に覆い被さるエクレアはキシャア、と声を上げた。
両の鎌でレイヴンの腕を挟み、腰を上げて前傾姿勢を取る。
彼の顔とエクレアの(あぎと)が、ともすれば触れるほどに近づいた。

エクレアの尾部からは絶える事なく産卵管が伸び続ける。
その先端が探るようにレイヴンの腹部に体液を擦りつけ続け、彼は疑いの眼をエクレアに向けた。

「どうした……? 早くしろ……!」

それとも、栄養価の高い肝臓にでも産みつけようとしているのだろうか。
しかしエクレアはどこまでも彼の予想を裏切る。

産卵管は彼の胯間をなぞると、そこでぴたりと動きを止めた。
探るような動きは、確認するような動きに変わり、産卵管は局部を掻き撫でる。

「ッ……!?」

土や草を突き破る為の産卵管ならば、硬質なものだろう。
だが脚に巻きつく事が可能なそれは、掌のように柔らかい。
そんな物体が何度も何度も、遊女の手慰みを真似する。

エクレアの体液で汚されていく股座を感じ、レイヴンは目を見開いた。

「……まさか……!」

現世の昆虫ならば、雄は雌に精包を渡す事で生殖行為は成立する。
エクレアはどうだ? これまで自分が召喚してきた幾匹のエクレアの中に、果たして雄はいたであろうか?

理性が真理の理解を拒む。
――まさか、まさか、真逆(まさか)、そんな訳があるはずがない……!
種族どころか住まう世界すら違う――そんな異物との生殖など!

否定ならば脳に幾度となく浮かんだ。
しかし現実は、目の前で展開される。

産卵管は熱心に局部をなぞる。
最初こそ、どことなくぎこちない動作であった。
感覚の鋭敏な箇所をなぞられれば、あるいは掻かれれば、肉体は心理とは無関係にびくりと反応する。
エクレアはそれを学習し、より反応する箇所を、時に強く時に弱く、執着する。

しかし――。

幾度震えども、彼の身は奮いはしない。

過去に飽きるほどに浴びた快楽である。
単なる快楽に耐える術など、備えるまでもない。
そんなものは、レイヴンを奮えさせはしない。

それでもなお熱心に局部を嬲るエクレアを見て、レイヴンは冷笑した。

「フン、貴様の愚考は分かったが、昆虫相手に欲情するような相手だと思ったか?」

尤も、それ以外の相手だろうと無理な道理だが――。

とかく、レイヴンのその言葉に、エクレアがギチ、と不快そうに鳴く。
産卵管を局部に圧し当てながら、八つ当たりのように鎌に力をこめた。

腕を挟んだ鎌が狭まり、鎌に揃った虫棘が皮膚に食いこむ。
その痛みがレイヴンの脊髄を通り、頭に甘美な感覚を運んだ。

「気ッ……ィ゛ッ……!」

不意の苦痛。
「気持ち良い」と紡ぎそうになった舌を引っこめる。

相手は昆虫の姿をしているとはいえ、命令を解する知能を持っている。
ヒントを与えてはならない。自分が奮い立つものが何なのか、悟られてはならない。

しかしわずかな痛みですら、千年の内に組み替えられた本能は、過敏に反応した。

痛みという快楽に、わずかに膨らむ。
圧し当てられた産卵管は、その隆起すらも感知した。

刹那の逡巡の後、エクレアは確かめる為に更なる痛みを与える。
(あぎと)をレイヴンの胸元に近づけて、その鎖骨に棘を刺す。

「ァッ……!」

びくん、と大きく体が痙攣した。
その振動は、覆い被さるエクレアにも伝わる。

更に、彼の身体は素直にもその苦痛を甘受した。
より膨らむ局部を察し、エクレアは確信したようだった。

産卵管で局部を嬲りながら、エクレアの鎌がきつく締まり、(あぎと)が皮膚を破ってまで鎖骨をしゃぶる。

一斉に襲いかかる苦痛に、レイヴンは後悔と興奮と覚えた。

知られてしまった。
己の嗜好を、このような異種に知られ、こうして転がされている。

自分より劣る相手に良いように嬲られているこの状況に、屈辱が胸中に満ちた。
皮肉にも、その屈辱にすら快楽を覚えるのが彼だった。
弄ばれていると自覚し、そう自覚してなお脊髄に快楽の電流が走り、そんな異常嗜好の自分を見つめ、劣等感から快楽が追加される。
加速度的に増していく快感が、精神を蝕み、肉体が奮えていく。

エクレアと彼の体液に汚れつつある布は、彼の局部の形を誇張する。
汚液でぴったりと皮膚に貼りつく布が、痛いほど肉に沿っていた。
外気に晒していないにも関わらず、一目で勃起していると分かるほどだ。

「はぁっ……! アアッ……!」

見ずとも分かる。自分の体だ。
この異界の怪物を相手にして、この身は悦んでいる。

エクレアの鎌が背中にも回された。まるで彼を抱くように。
背にも鎌の棘が刺さる。
腕は流血で真っ赤に染め上がっていた。
外気がその傷口を苛み、疼痛が脳を熱に浮かせる。

(あぎと)で食い破られた皮膚からも、だらりと血が流れていく。
首を滑る血の川が皮膚をくすぐった。
生暖かい自分の血を感じて、生きているという実感が悦楽となる。

産卵管は局部をなぞる。絶頂に未だ至らず、渦巻く快感が海綿体を極度に張り上がらせ、自分から痛みを発していた。
いっそ潰されれば楽になりそうだ。だというのに、産卵管は未だ愛撫を続けている。
肉体的な苦痛こそはないが、人間である自分の生殖器が下等な節足動物の生殖器によって弄ばれているという事が、この状況で一番の苦痛だ。

責め苦は充分であるというのに、決定的な快楽を与えられず、焦らされる時間が悠久のように永い。
股座の布の先端には、出したいものも出せずに、透明な分泌液が潮として漏れ出ていた。

「――はッ……!」

――早く。
早く、出させてくれ。

懇願が喉を出かかる。だがそれを、彼に残る理性が抑えこむ。
いくら苦痛を是とする嗜好を持てども、自分は人間だ。
この虫を相手に浅ましく嘆願するというのか。人間の矜持を捨てるというのか。

焼け切れそうな高揚の中、我武者羅に理性が訴える。

屈してなるものか。
いつか、この状況を脱する手がかりが来るはずだ。耐えろ。屈してなるものか――。

歯を食いしばり、嬌声を殺し、ただ耐え忍ぶ。

永遠と思えた時間が過ぎて、その責め苦は途切れた。

挟む鎌が、しゃぶる(あぎと)が動きを止め、産卵管が局部と脚から離れていく。
達してしまわないように入れていた力が抜け、止めていた息を荒げる。

「――ッはぁ……! ハぁっ……ぁはアッ……!」

終わったのか? 諦めたのだろうか?
わずかに希望と――そして至れない失望が、脳に立ちこめる。

快楽に塗りつぶされた本能が、急速に理性と成り替わった。
未だ体は浅ましく快楽を求め、情けない事に局部は怒張したままだ。
しかし、冷めた頭で反撃を計算する。

四肢を確認する。拘束していた粘液は、腕と背から広がった血の海に浸され、わずかに脆くなったようだ。
力をこめれば、ともすれば拘束から脱する事ができるかもしれない。
だが、それをエクレアに気づかれてはならない。気づかれれば再度、粘液をかけられる可能性がある。
試行なく一度だけで、粘液を振り払わなければ。

息を整える。筋肉に酸素を取りこむ。全力を発揮しなければならない。
静かに準備を進めていったが――それは間に合わなかった。

「ハァッ……はッ……ハッ――はっ……!?」

息が詰まる。下に視線を注ぐ。
目にしたのは、産卵管の先端が下半身の衣服の境目に引っ掛けている所だった。
無論、それを擦り下ろされれば、己の局部が露わになる。

「クッ、やめろ!」

制止は届かない。
一人と一匹の体液に濡れて皮膚に貼りついた衣服は、少々苦心こそすれ、阻む事などできなかった。
未だ治まらない局部は、押さえつけられていた布から離れ、汚らしく屹立した。
手を止めた苦痛に少しばかり萎えていたその裏筋に沿い、産卵管が滑るだけで、

「ウッ、あぁッ――!」

成す術もなく、臨界まで腫れ上がる。
先端から断続的に零れる潮が、己の臍下に垂れ、自分がどうしようもなく興奮している事を証明した。
尊厳を極限まで恥辱に追いやって、それでもこれは始まりに過ぎない。

嬲る内にレイヴンの体液も混じった産卵管の先端が、局部の先端にあてがわれる。

死の恐怖にすら恐悦を覚える彼であっても、この時湧き上がった震慄は限界値を超えていた。

「ッ――――――――!」

「抵抗」という手段すらも思い浮かばない中――。
高熱を帯びた局部は、冷たい産卵管に飲みこまれた。

「……ァッ……ぁあッ……!」

異種との結合。それは尊厳も矜持も徹底的に破壊される、精神的暴力だ。
目眩がする。目の前が白濁していく。
存在自体を冒涜されるという、この上ない辱め。
絶頂に至るには充分だ。

性感ではなく、恥辱によって、局部が脈動した。
腹の底に溜まった熱が徐々に上っていく。蛞蝓(なめくじ)並の流速が、尚更惨めたらしめる。
やがて熱は鈴口に達し、彼の局部は忸怩たる射精を吐き始めた。

勢いこそないが、緩々と。しかし明確に。
同種どころか哺乳類から大きく外れた生物の生殖器に包まれ、濁々と精液を注いでいく。

内部に溜まる精液が漏れぬよう、産卵管は根本まで局部を飲みこんだ。
そして根本をキュウと締め、一滴すら逃がす事なく密着させる。

「ゥ、クゥぅッ……!」

付け根に束縛感を覚え、ぶるぶると局部を震わせた。
射精は止まらない。なまじ遅々としたペースで流れ出る精液は、ただ時間をかけて陰嚢から抽出される。

まだわずかな量しか出していない。いっそ恥も外聞もなく、この怪物の快楽に素直になり、全て吐き出してしまえば楽だっただろう。
生殺しの状態で、締め忘れの蛇口のように精液が垂れ流されていく。

産卵管はしばらく動かなかった。
そのせいで、産卵管内部では行き場のない精液が局部の根本に溜まる。
出したばかりで生温かいその精液溜まりに局部が浸り、不快感がレイヴンを責め立てる。

不快の一つ一つの要素がまた新たな苦痛となり、継続的な快楽となり、快楽の供給が射精を絶やさない機構となる。
延々と永い射精の中、ようやくエクレアは動き出した。

産卵管を更に局部に密着させる。根本だけではなく、陰茎から雁首から亀頭まで。
人外と人間の生殖器が一体となり、精液の熱で温まった産卵管が、緩く局部を締め上げた。
肉体的には物足りないほどの性感であるが、この生物種として大きく誤った状況が何よりも甘い絶望だ。
意志も理性も届かない。ただ脳の報酬系がその絶望を貪っては、だらだらと精液を排泄する。

エクレアはレイヴンの意に介さず、排泄された精液を吸い上げるべく産卵管の蠕動運動を始めた。

「いッ……ぃイィッ……!」

産卵管は下から上に液体を運ぶべく、根本から先端に至る拍動を繰り返した。

巨大なミミズに喰われている、あるいは牙を抜いた大蛇に呑まれている――現実的に有り得ない感覚が局部にのたうつ。
そして、産卵管内部が真空に近くなった。よりぴったりと産卵管が局部に重なり、拒絶反応の身震いが起こる。

チュウッ、ヂュウッ、と、自分の精液が吸引されていく音を聞かされる。
指で耳を塞ごうにも、腕は地面に磔にされたままだ。

これ程の目に遭おうとも、射精は止まる事も早まる事もなく精液を吐き出していく。
吐き出しては、エクレアの産卵管に吸い上げられ、着々と彼女の体内に溜まっていく。

牛乳でも搾るかのような、無感動な搾取。
本能で動く下等動物に人間として扱われず、ただ子種を提供する手段として消費される。

屈辱を感じながらも、成されるがままのレイヴン。
それに対しエクレアは、突然局部を解放し、だらりと産卵管を垂らした。

「……ッ?」

解放されてもなお射精を続ける局部が、彼自身の腹を汚し始めた。
キィと鳴き、再度エクレアは粘液をレイヴンの四肢に吐きつけた。

――その拘束の為の一時の解放なのか?

そう思ったが、様子が違う。
エクレアが拘束をより確かなものにしても、レイヴンに覆い被さったまま動かない。
いや、正確には、垂らした産卵管は風を受けてわずかに揺れていた。
その産卵管の先端は、揺れれば亀頭をかすめる程の高さに調整されている。
そして、産卵管の先端が亀頭をほんの少しだけ擦った。

「……っ……」

先程の搾取を受けた身にとって、それはほんのわずかな感触に過ぎない。
快楽の途絶えた局部はようやく射精を止めた。

「っ……ッ……っはぁっ……」

しかし風が吹く度に、また産卵管が揺れ、かすめ、こすり、離れ、撫でる。
もどかしい感覚が下腹部に溜まり、局部は射精を止めども勃起したままだ。

まだ、陰嚢には出し損ねた精液がわだかまっている。
先程の通り、四肢の粘液は補強されたばかりだ。自分で処理する事もできない。
わずかに自分の腰を浮かせる事しかできない、生殺しの状態だった。

エクレアはなおも動かず、レイヴンは当然動けない。
そこで、レイヴンはエクレアの悪意に思い当たる。

「――私から……求めろという事か」

エクレアは答えず、ただ産卵管を風のままに揺らすだけだった。
レイヴンの心もまた、大きく揺れ動く。

襲われてからこれまで、数多の汚辱を受けてきた。
だがそれは受動的なものであり、自分から行った事など一つたりとてない。
そもそも相手は、人が欲情するには程遠い人外の(かたち)をしているのだ。

それを、自分から性交するなど――。

「うっ……ァあッ……」

これまでの責め苦に過敏となった心身が、想像上の辱めにすら反応する。
尿道から潮が溢れ、管に残った精液と混じり、乾き始めた亀頭を再度湿らせた。
ぬめる亀頭は感度を増し、鈴口を過ぎる産卵管の刺激がより強まる。

「ッ……!」

ほんの一端の刺激に、全身が大きくわなないた。
肉体は、種を超えて雌を求めている。精神もそれに引きずられ、産卵管を見つめる目に熱がこもるのを自覚する。

それでも、なおも、理性はしぶとく残る。
己から快楽を貪る。その一線を超える事に抵抗あるいは怯懦し、震えるばかりで動こうとはしない。
その不動が、この凌辱を長引かせる行為だと分かってはいても、それでも。

虫を相手に、人間である自分からまぐわう。
その光景のおぞましさに、人類種の沽券が悲鳴を叫ぶ。
一方、恐るべき事に――彼の芯に根を下ろす被虐嗜好(マゾヒズム)は、歓喜を猛っていた。

理性と欲望に挟まれるレイヴンを見透かしたように、エクレアの産卵管が亀頭を包んだ。

「アぁっ……!」

だが、そこまでだ。
産卵管は局部全てを取りこむような慈悲深さはなく、焦らすようにそこだけを触れる。
かといって、過剰に刺激を送りこんだりはしない。ただただ、産卵管のほんの先端を、亀頭と合わせるだけだ。

それだけで、欲望が激しく駆り立てられる。
四肢が束縛されていても、腰だけは動かせる。
動きたい。産卵管に自分の一物を抽送したい。出したい。出せない苦しみから解放されたい。射精したい。産卵管の中で果ててしまいたい――。

虫の生殖器と接しただけで、局部と欲望が爆発しそうなほどに膨張した。
やめろ、という最後の理性の声が遠くから聞こえる。
その声は、増大した欲求への抑止力とは成り得なかった。

「――あッ……ハぁあっ、あぁアっ……!」

無意識だった。
快楽を求める体は、意思を裏切って動き始めた。

情けない喘ぎ声を上げ、浅ましく腰をがくがくと動かし、亀頭を包む産卵管に自分の局部を出し入れする。
腰が動くとはいえ、脚は固定されている。わずかな上下運動しかできず、陰茎の大半が産卵管に収まる事ができない。
焦らされ続けたレイヴンの体は、そのわずかな快楽だけで射精を始めるほど壊れていた。

「はァア、ンんッ……! ィあッ、ぃいイっ……!」

人語にならない、醜い囀り。
口元から垂涎し、腰を前後する。

産卵管に力は入っていない。
脱力したその虫の生殖器の中で精液を吐き出しても、吸いこまれる事なく、自分の身に跳ね返る。
精液が鈴口からびゅくびゅくと湧いては、本来の意義を果たせずに彼の体を汚した。
自分と種を違える生物の生殖器にすら届かず、己の精液で陰茎を、陰嚢を、股座を、太腿を、臍下を、下腹部全体を白く濁す雄の姿は、どこまでも滑稽だった。

そんな自分の姿を気にも留めず、レイヴンは手が届くほどに近く、届かぬほどに遠い産卵管に向かって腰を上げる。
届かない最奥を求めて、脚全体に力をこめて、より高く。
それでも陰茎の半分も埋まらない産卵管が、今や欲しくて堪らなかった。

「あァっ、アあぁっ……!」

もどかしい。吸い尽くして欲しい。自分に残っている全てのものを出し尽くしたい。
先程まで嫌悪していた事象をも美化し、レイヴンは心の底から凌辱される事を願う。
エクレアの調教とも言うべき所業により、彼の被虐嗜好(マゾヒズム)は理性も矜持も通じないほどに肥大化した。

タガが外れ、欲求に忠実な獣畜となり、おっ勃てた性器を産卵管に押しこみ、精液を撒き散らす。
動かない虫を相手に腰を振るヒトガタは、どこまでも堕ちていく。

従僕(サーヴァント)主人(マスター)という力関係すら自ら破棄し、レイヴンはついに醜悪な願望を乞い願った。

「私のッ……! 私のをっ、その管で、呑み込みっ、包みッ……す――吸い上げて、くれっ……! 全部……! 全部、出させてくれ……!」

その言葉の一つ一つが、自分という存在を瓦解させる。
奈落に落ちるような喪失感が、破滅願望に染み渡った。

レイヴンは焦点を失った瞳で、エクレアの動きを呆と見つめる。
その間も性器の抽送を止めない様子は、喜劇じみて悲惨だった。
なおも動かず、無言の彼女に促されたように、彼は正気を手放す一つの単語をみだりに叫んだ。

お願いだ(Bitte)……! お願いだ(Bitte)っ、お願いだ(Bitte)ッ!」

明確な、要求の意思表示。
それを待っていたかのように、エクレアはついに動き出した。

既に精液があちこちに散っている産卵管で、レイヴンの性器全てを飲みこんだ。
今度は陰茎の根本どころか、陰嚢までをも、全部が全部。

そしてその全てを締め上げると、身を貫くような快楽が押し寄せた。

「ぃア゛ッ! ア゛ぁあ゛っ、イイ゛ッ! ぎぃっ気゛持ッちイ゛っ、気゛持゛ヂ良゛イ゛い゛イぃい゛イィィ゛ぃぃィっィ゛ィッ!」

あらん限りの声で、一帯に響くような絶叫が口から吐かれた。

苦痛の数値化が難しいように、快楽の数値化もまた困難である。
しかし単純な量り方で言えば、この時の刺激は彼の人生の内では弱い方だろう。
頭を針で貫かれた訳でも、心臓に剣が突き立てられた訳でもない。
単に強めに性器を握られたような、苦痛足り得ない、そんな刺激だ。

それでもなお、これだけの絶叫である。
それは、ここに至るまでの工程が、屈辱と恥辱と凌辱によって彩られたどす黒い花道であったからだろう。

そして、ここで初めて勢いよく射精した。
今までののろのろとしたものではなく、正に字面の通り、精液を産卵管の中に射ち出す。
いや、ともすれば久方ぶりの勢力かもしれない程に、産卵管の中に濁流を注ぎこんだ。

自分の意思で、虫との交尾を行っている。
完全に堕落したレイヴンは、性器を絞り上げる産卵管に感謝すら覚え、絶え間ない絶頂に身も心も委ねた。

「――はっ、ハハッ、ははっ、はハははハハッ」

喘ぎ声混じりに、空虚な笑い声が口を突いて出る。
人間というしがらみに雁字搦めであった、数分前の自分を罵倒したい気分だった。

――こんなにも気持ち良い事だというのに、何故自分はこうしなかったのだろうか?

理性も尊厳も立場も矜持も種族も正気も、何もかも捨て去ったレイヴンにとっては、現状を正しく認識する能力すらも喪失していた。
虫に精液を捧げ、対価に快楽を受け、彼はそれだけで充分だった。

「はっハははハハハっ、ハはッ、ははハははっ……」

虫に性器を委ね、与えられる悦楽を甘受する。
その役割に徹してなお、正気の欠片は残っていた。
レイヴンの目尻から、一滴の涙が頬を過ぎる。
正気の断末魔とも言うべき透明な雫が、白濁した汚穢に溶け消えた。

どくどくと送りこまれる精液を、貪欲に産卵管は吸い上げていく。
尽きる気配が見えないほどの量だった。
一般的な性欲を持てず、それこそ死ぬほど快楽(苦痛)でなければ射精できないような体である。
しかし体の機能こそ正常だ。雄として生産すべきものは生産され、溜まるものは出さなければ溜まる一方だ。
それが一気に堰を切ってしまえば、それは異常な奔流となって流れ出ていく。

「あ……はぁあンッ……」

それでも、勢いを保てるような量はない。
ひとしきり産卵管にぶち撒ければ、またどろどろと勢いを失くした射精が続いた。
それは、先のように散々焦らされた挙句の射精とはまた違う。
もうこれ以上出すものはないという、白旗の白濁液である。

「いィ……ンん……」

充足の息が、嬌ぎの合間に漏れ出ていく。
相手が生物種として想定している相手ではないが、本来の役目をようやく果たせた性器は、満足したように精液を嘔吐して、痙攣し、静止した。

全身が脱力する。気力も流れ出たように、全く動く気がしない。
だが、エクレアはなおも性器を縛り上げる。

「イ゛ッ……!」

まるで一滴たりとて残す事を許さないような取り立てである。
産卵管を上下に動かす事で、垂れ下がる陰嚢に産卵管の縁をごりごりと押し当てた。
尿道に残る精液ですら惜しいと吸引し、ヂュウヂュウと激しい水音が鳴り響く。

「アア゛ッ! ガぁっ!」

陰嚢を外気に露出させ、エクレアの後肢がそれをさする。
その感触は硬質な棒で撫でるようなものだったが、時折陰嚢に走る鋭利な肢棘の感覚に戦慄を覚えた。

そんな棘で、神経の集中する性器を傷つけられたらどうなるか――。

性器に押しつけられた無言の脅迫。
本能が危機感を覚え、脳を経ずに肉体が脊髄反射を起こす。
種を残そうという防衛機構に火をくべ、責務を果たしたばかりの精巣に鞭を打った。

「ぎイッ……!」

もう尽きたと思われた陰嚢から、また精液が湧き出てくる。
一般的な性的快感によるものではない。無理矢理に捻出したそれは苦痛を伴っていた。
生物として悲痛な射精だ。脅されて出たわずかな精液も、エクレアが無思慮に搾取する。

肉を潰して精液を出すが如き痛み。
もしかしたら精液の代わりに血でも出ているのではないかと錯覚さえする痛み。
その射精の痛みが射精の素となり、その射精もまた痛みを呼びこんだ。

通常の感性であれば、性器が委縮する痛苦。
その常識に逆行して張り詰める性器が、自分の事をなおの事異常であると知らしめる。

「ぃヂあ゛ッ……ああ゛っ……!」

これ以上出してしまえば、もう二度と射精できないのではないかと思うほど。
何度も陰嚢に棘を当てられては、自分で自分を痛めつけ、精液を差し出し、それを奪われる。

本に精も根も尽き果てたレイヴンを悟り、やっとエクレアは産卵管を離した。
離す瞬間、精液と粘液で糸を引き、ねちゃりと淫靡な音を立てる。

――終わったのか……?

終わったのだ。
そう宣告するように、エクレアはレイヴンの四肢を拘束していた粘液を(あぎと)でほぐす。

腕も、脚も自由になったレイヴンだったが、荒げる息を整えるべくぜいぜいと呼吸を繰り返した。
全身に力が入らない。精液と共に力すら奪われたようだった。

地面に転がるレイヴンに向けて、エクレアは産卵管を再度伸ばす。

自分へと近づくそれに対し、彼は恐る恐ると口を動かした。

「終わったんじゃぁ……ないのか……?」

確かに、終わった。
精液は体内に取りこまれ、産卵管の先にある卵巣に行き渡った。

しかし、同時に始まるのだ。
体構造が人間よりも虫に酷似している以上、その生態もまた虫に近い。
胎児を育てる器官を持たないエクレアは、受精卵を産みつける他ない。

先程まで柔らかかったはずの産卵管は、みるみる内に変質していく。
風に揺れるような柔らかさを持たず、突き刺す凶器の硬度へと。

そう、実際に突き刺すのだ。

逃げる気力すら失い、精神的拘束に絡み取られたレイヴンは、また新たに来たるその苦痛を――待ちわびた。

今やるべき事も、本来やるべき事も、正気を失った以上全ては塗り替えられる。
快楽の原液たる苦痛を目的とし、緑と金の瞳は狂気の輝きを湛えて催促した。

「……もっと(Mehr)……もっとだ(Mehr)……!」

出すものはとうに無いというのに、再度性器が奮い勃つ。
出し尽くした精液の代わりに潮が噴き出し、レイヴンは産卵管を歓迎した。

下腹部だけが露出している衣服を、自らの手でめくり上げる。
白く鍛え上げられた腹部をエクレアに晒し、恍惚として催促した。

「さあ……刺せ……私を……肉の袋として扱え……!」

その自嘲にすら紅潮する。

催促を受けたエクレアであったが、品定めするように産卵管がうろうろと虚空を漂った。
腹に刺すのか、腕に刺すのか、あるいは頭部、あるいは、いずれは――。

迷う産卵管を待ちきれず、レイヴンは自ら腕を伸ばした。

衣服をまくるのは右腕のみとし、左腕で産卵管を握る。
自分の精液で汚れた産卵管を、躊躇なく手で包む。

手の平に金属のような硬さが返ってきた。
既に人の肉を破る事が可能な硬度になっている。

レイヴンは産卵管を腹部へと引き寄せた。
鋭利に尖る先端を指先でなぞり、期待から深く息を吐く。

そして、自らの男性器を扱くように産卵管を擦った。
愛おしげに、本来ならば雌のものであるそれを、雄のそれのように手で慰める。

彼の精液と彼女の体液が、手を滑らせた。
深くに卵を産みつける為の産卵管が、勃起のように長く伸びる。

エクレアがキィィと鳴いた。
虫であろうとも性感はあるのか、ぶるぶると震動して喜びを表す。

「嗚呼……!」

淫靡に照る産卵管を擦る内に、欲望を抑えきれずに産卵管を腹部に当てる。
そして力をこめて腹部を刺した。

「――ッキぃい゛っ、ガアぁ゛ァッ!」

鋭利に尖った産卵管は、皮膚を破り、肉に潜り、神経繊維を断ち切る。
産卵管に侵された腹が、激痛を訴えた。

汚辱や焦らしのような、これまでの苦痛とは違う。
肉体を直接的に害する原始的な痛覚。
生きているという実感を覚醒させる、強烈な異物との交雑。

そこを、頑強に仕上がった腹筋が更なる侵入を阻んだ。
腹部にさしたる骨がない以上、胃袋や肝臓といった臓器を守るのは筋肉である。
その役割に徹する己の肉に、少しばかり口元を下げた。

より深く。自分で自分を傷つけるべく。

衣服をたくし上げていた右腕も、産卵管に添えられた。
ずり下ちた衣服が傷口に触れ、そこから溢れる血で、布が赤く染め上がる。

両腕に力をこめ、産卵管を拒んでいた筋繊維に割りこんでいく。

「ヅぅ゛っ……うッ!」

産卵管の尖端が、肝臓を突いた。
肝臓に痛みを感じる機能はないが、肉を貫かれる違和を感じる。
気持ちの悪い異物感が、言いようもなく気持ち良かった。

体内を巡る血は、心臓の拍動に合わせて貫通部から湧いて出る。
肌も服も全てを血染めにして、地面に血溜まりが広がっていった。

柔らかな体内への侵入を許せば、広げる事も深く刺す事も容易である。
レイヴンは、より深く、激しい苦痛を求めた。

自由になった腕で、エクレアの肩――より正しく言うならば前肢の付け根――に縋りつく。
そして産卵管を腹に突き刺したまま、レイヴンは腹部を前後に揺らし始めた。

産卵管は、レイヴンの中身をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。

「良゛イ゛ッ! ガあァッ! ふ――カグぅっ! も゛っと、もっと深ぐぅウヴッ!」

中にミキサーがぶち込まれたままスイッチを入れたような激痛。
何度も産卵管がレイヴンの内臓を貫く内に、胃や腸や肺の肉壁も突き崩されたようだった。
口に通じる食道から血が湧き上がり、口の端から鮮血を流す。

時には勢い余り、肋骨を掻いくぐり、背中から産卵管が突き出る事すらあった。
ただでさえ狂っているというのに、これ以上に狂いそうな暴虐が体の中を掻き乱す。

虫の生殖器に入れて嬌声を上げていたというのに、今度は虫の生殖器を入れられて喜悦を叫ぶ。
角度を変え、より深く求め、腹を振り動かすその様は、雌のようでもある。

「ア゛あ゛アッ! イ゛ッ! 良゛ィイ゛ッ!」

舌を口外に垂らし、臆面もなく唾液を流し、産卵管にピストン運動をかける。
腹部から産卵管を引き出して、産卵管を包んでいた肉が剥ぎ取られる快感が、
腹部へと産卵管を引き入れて、産卵管を拒んでいた肉が貫き通される快楽が、
体そのものが性器になったように、産卵管に何度も突かれて喘ぎ悶える。

肉に挟まれた産卵管も呼応するように、雄の震えを彼に伝えた。
びくびくという振動を直に感じ、レイヴンは狂笑を浮かべる。

――始まる。

これは、生命の脈動である。
新たな、しかし忌むべき命を紡ぐべく――レイヴンの体の中に、新たな異物が注がれた。

「イ゛ッ……! ッヒぎィい゛っ……!」

体内の神経が、冷たい球状の何かが腹を転がっていると訴えた。
大きさにして鶏卵ほど。しかし楕円形ではなく、真円に近い形状をしている。
肉に埋もれて、見ずとも分かる。この状況でそれ以外の何であろうか?

――卵を産みつけられた。それだけだ。
それだけの事実が、レイヴンに更なる恥辱を与えた。

腹の中に入りこんだ虫の卵には、エクレアによって搾精された己の精子がかかっている。
先程の凌辱の証拠が自分の中にある。自分の遺伝子を孕んだ虫の卵が自分の肉にある。

自分は、その汚らわしい卵の、肉の揺り籠に過ぎない。
自分は、虫の孵卵器という、雌の役割しか持ち得ない。

肉体を犯す激痛と、精神を汚す辛苦。
双方はレイヴンの心身を切り刻み、彼は胸を反らして絶叫した。

「ああ゛ァッい゛ィ゛ィい゛ァっ゛いァイ゛い゛っぎッィヂィぃ゛あア゛あい゛っいイ゛い゛イいぃィっぎャ゛ガッあ゛っハァあ゛あ゛ア゛ッ!」

一片の知性も感じられない、獣の絶叫。
喜悦を猛り、一瞬腹の動きを止めるレイヴンに対し、エクレアが腰を振った。

「ガアッ! ガアアッアア!」

醜い鴉の鳴き声を吼え、レイヴンは彼女のピストン運動に身を任せる。
抗いもしない。ただ体内で抽送される産卵管に快楽を与え貪る膣として、エクレアを甘受する。

乱暴に胴体内部を貫く産卵管は、肺袋も胃袋も散々に突き破り、どれも等しく血袋に変えた。
そのせいで、喉が開いているにも関わらず、酸素を得られぬ窒息の喜びも上乗せされる。

真っ赤な動脈血を何度も吐瀉し、生臭い鉄の臭いが周囲に立ちこめた。

「――ァ――ァァ――!」

口から血の泡を吹き、喉を震わせ被虐に興じる。
レイヴンの痩躯を太い産卵管が掻き回しては、虫の卵を産み落としていく。
その虫の卵もまた胴体の肉の海を泳ぎ、内臓は今や傷ついていない箇所がない程だった。

心臓壁を貫いて脈動するその中に、
血で満たされた温かな胃袋の中に、
養分豊かな肝臓の中に、蠕動する腸の中に、血の巡る大動脈の中に、筋肉に、脂肪に、産みつけられる場所が狭まっていけばとにかく中に――、

「――ウッ――ァ――!」

自分が、無くなっていく。
自分という存在が、虫の卵に置換されていく。
人間ではない怪物に向けて射精した、己の精液によって受精した、自分の遺伝子を取りこんだ虫の卵が、自分の中を侵し尽くす。

血の噴出口となったレイヴンの喉から、胃に産み落とされた虫の卵が、食道を逆流して吐き出される。
胃にはとうに何十個という卵が収められている。
それどころか、胃壁の外にも存在する卵の群が、胃袋を圧して嘔気を催した。

背骨にはごりごりと卵が擦れる感覚すらある。
腹の皮も徐々に張り、胴内の卵の形が皮膚越しに見える程だった。

「――ゲェッ、ガァ――!」

逆流するのは血と卵だけではなかった。
本来腹の中に収まっているはずの数々の臓器の肉片が、卵に押し出されて体外に排出されていく。
肝臓の赤黒い肉片や、黄緑色の胆嚢に、心臓の肉壁から小腸まで。
人間として必要な臓器を口から次々と吐き出し、体の中のあらゆる全てが虫の卵に置き換えられていった。

「ァ――ゥ――!」

声らしい声は出ない。肺の中身などとうに虫の卵で埋まっている。
ついには内臓全てを失って、胴の内部はエクレアの卵で満杯となっていた。

エクレアは、ようやく産卵管を引き抜いた。

産卵管が抜かれ、丸く抉られた傷口の中には、ぎっしりと詰まった卵が覗く。
大きな傷口であるのだが、奇妙な事に血はほんの少ししか流れなかった。
血を全身に送り出す心臓が、卵で潰れているからだ。

「ァァ――!」

水面で酸素を補給する魚のように、レイヴンの口が開閉する。
そこに、エクレアが産卵管を突っこんだ。

「――ッ! ――ッ、ッ――!」

小さくか細い声すらも産卵管で塞がれる。

まだ、卵はエクレアの(はら)に残っていたようだった。
だが、彼の胴にはもう産みつけられないと知ったエクレアは、まだわずかに残った食道という空間を利用しようとしていた。

「ッ! ――ッ! ッ! ッ! ――ッ! ッ!」

四肢が限界を叫び、暴れ始めた。
エクレアの四本の後肢がそれを咎め、手首、足首に鋭利な肢先が突き刺さる。

産卵管は血と肉と体液で汚れている。
そんな物体が口腔に挿入され、強制的に舌に触れられる。
それを飲むだけで寄生虫や伝染病にかかりそうな、不衛生な味がした。

口を開かれ、喉を貫き、声帯を抉る産卵管を拒もうと、食道が蠢動する。
それは単に産卵管を刺激したに過ぎなかった。

エクレアが震えた。まるで射精前の絶頂の様子だった。
レイヴンの喉を膣として、産卵管は彼の中で排卵した。

食道の奥の奥すら卵に犯されていく。
卵が食道を埋めていくにつれ、ゆっくりと産卵管を後退させ、また新たに卵で埋める。
そうして声帯に至るまで卵を出しつくし、産卵管がするするとエクレアの体内に帰っていった。

「…………」

レイヴンは沈黙する。
発声する術すら、卵で奪われているからだ。

声帯に挟まれた卵が喉を圧迫している。
体内全部がエクレアによって侵略されている。今の自分は虫の卵鞘と何も違いはない。

卵の容器としての役割を与えられたレイヴンは、びくびくと四肢を痙攣させる。
その痙攣は、これから生まれる生命にとっては揺り籠の振動に過ぎなかった。

エクレアは満足したように、後肢を彼の四肢から離した。

レイヴンが痙攣するごとに、卵が皮を擦る。
全身を苛む異物感が心身を貫くも、発声器官でそれを表現する事はできなかった。

あとは孵化を待つのみである。
そこで、レイヴンのわずかな知性が囁いた。

――一体、何日かかる?
この至上の苦痛を堪能するのはいいが、何日もこのままだというのか?

砕け散った正気を掻き集め、レイヴンが青ざめる。

――何日も、「あの御方」の(めい)から離れるというのか?

決して快感に繋げる事のできない、ぞっとした悪寒が脊髄を駆けた。

「……ッ……ッ……!」

腕が、震える。
全身を蝕む快感が、腕の動きを覚束なくさせる。

それでも、レイヴンは腕を動かした。

「ッ……!」

卵で膨れ上がった腹に手を置き、指を突き立て、爪をもって皮膚を掻く。

皮膚には、肉という補強材はない。全てが卵に置換されていた。
痙攣し、こめた力が散りゆく爪であっても、皮膚はあっさりと破られる。
皮下の卵が露呈して、レイヴンは必死に卵を掻き出し始めた。

正気を失うほどの快楽を受けてもなお、忠誠心が突き動かす。
自ら迎え入れたほどの卵は、最早恐怖の対象である。

血を纏って外に零れ落ちる己の卵を見て、エクレアの鎌が地面を掻いた。
地面には、最初レイヴンが抱えていたヒールロッドが転がっている。
それを地面に突き立てて、エクレアはヒールロッドの効果を発揮させた。

「ッ、ッ!」

卵を出すべく、自分の腹に突っこんだ右腕が、止まる。
右腕は、再生した腹の皮膚と癒着していた。

彼は不死者だ。常人とは比較にならないほどの再生能力を持っている。
それが、ヒールロッドによって更に加速させられた。
となれば、損傷を受けた腹部の皮膚は、驚異的な速さでもって卵で満たされた胴体を覆ってしまう。

「ッ――!」

右腕を引こうとするも、先程まで(やわ)であった皮膚はがっちりと腕と結合していた。
腹の中にはまだ卵が残っている。取り残された右手は、卵で揉まれていた。

「ッ!」

外に出ている左腕で、腹を叩く。
しかし卵は柔らかく、全力で叩いてみせても、圧力から逃れてぬるりと滑った。

どうにかして、何とかしてこの状況から脱しなければ――。

激痛に頭が焼け切れそうになる中、レイヴンは思考を構築しようとした。
しかし名案が浮かぶよりも前に、彼の目にある光景が映りこむ。

掻き出されたいくつかの卵の内、一つの卵が蠢いた。

レイヴンの精液を受け、命を成した虫の卵。
それもまたヒールロッドの影響下に置かれ、今まさに異種交配の結果が結ばれようとしていた。

卵の半透明な殻の下には、黒い影がはっきりと見える。
それは卵の中を回り、殻を破ろうと試行しているのだと知れた。

「……!」

自ら手繰り寄せた正気を手放して、レイヴンは垂涎する。

始まった。
待つ必要などなかったのだ。何も恐れずとも、甘受すれば良かったのだ――。

抵抗を止め、来たる快楽を待ち望む。
こんなに早く孵化するというのならば、足掻かずとも待てば良い。
闇に落ちた瞳の中で、忌むべき生命が誕生した。

殻を頭で突き破り、出てきたのは小さなエクレア。
ほんの数センチほどの体長であるが、それは母親の姿を引き継いでいた。
子種など、単に利用しただけに過ぎない。レイヴンの血を徹底的に拒絶した子供が生まれた。

キィィ、と幼虫が産声を上げる。
知性の欠片もない、原始的な鳴き声。

それが自分の精子によって生まれたと考えてしまえば、人としての驕りが奈落の底に下る。
地面に這いずり、卵鞘となって転がる自分は、そもそも元から人ではなかったのかもしれないと、過去すらも洗脳されそうになった。

周囲に散らばる卵のどれも蠢動し始め、レイヴンの周囲で産声の輪唱が広がる。
そして、腹の中に収まったものとて例外ではない。

腹に取り残された右手が、一斉に鼓動する卵を感知した。

「ッ――!」

卵の起伏を如実に表す腹の皮が、不気味に蠢く。
粘滑(ねばらか)な卵の殻から次々と幼虫が湧き出し、肢が無秩序に右手を嬲った。

百足でも這い回っているような触感は、右手だけに(とど)まらない。
腹腔が、喉奥が、虫の肢で引っ掻き回された。
既に開かれた傷口も、続々と生まれていく幼虫によって蹂躙されていく。

キキィ、キィ、キキキ、キキィ――。

くぐもった鳴き声が、腹の中で共鳴する。
皮で閉ざされた腹部に囚われた幼虫は、自由を求めて肢を蠢かせた。

その内の一匹の肢が、腹の皮膚を貫く。
レイヴンの腹に小さな肢が突き出て、傷口を開けるように動いた。
それに続いて、また一本、一本と肢が露出し、その内部に大量の幼虫がいるという事を知らしめる。

体内を躙る幼虫の大群。
生まれたばかりのそれらは、殻を破ったエネルギーを補給すべく動きを変えた。

「ッ!」

血と肉の籠の中で、幼虫はレイヴンの肉に(あぎと)を立てる。
血を啜り、肉を貪り、幼虫の群れが本能に従った。

自らの命を分けた幼虫どもは、それに飽き足らず彼の身をも欲する。
内部から陽動的に侵食されていく感覚は、鍋責めに匹敵した。

「……ッ!」

食い破られた先から、すぐに再生されていく。
彼の身は、虫の群れの胃を満たす為にあつらえられたようだった。

真に身を削られるような思いの中、更に責め苦は増していく。

腹の外に零れた幼虫も、肉を求めてレイヴンの四肢に(たか)った。
傷口の面積を広げるように、皮膚を剥がし、表面を削り取り、露出した血管から血を掻き集める。
自分の役割が卵鞘から餌へと変わり、異物感を上回る苦痛に身をよじらせた。

「ァ、ァァッ……!」

喉に産み落とされた卵からも、幼虫が沸き上がる。
喉奥の肉も幼虫の糧となり、その刺激から吐き気がもたらされる。

食道の筋肉が蠕動し、喉の幼虫を上へと運びこむ。
声帯に引っかかり、抵抗に蠢く肢が喉を破った。
流れ出た血が潤滑油となり、幼虫がずるりと口の中へと滑り出る。

不満を訴えるようにキィィと鳴く幼虫は、食欲を伴って行動に移した。
舌に肢を回して捕らえると、その舌の先に齧りつく。

「……!」

喉奥を窮屈とした幼虫もまた、食道を通って口に逃避した。
口にも溢れる幼虫が、頬肉に、口蓋に殺到する。

口も、喉も、腹腔も四肢も、幼虫によって貪られる。
やがて再生能力を上回り、腹部を食い破った幼虫は、体外に漏れ出ていく。

血で濡れた幼虫は更なる肉を求めて、体の上を這い回った。

食い荒らした腹から逃れ、臍を下り、その先に――著しく隆起した肉が待ち構える。
幼虫はそれに群がり――悦楽に勃起した陰茎に口をつけ始めた。

「――ッ!」

口にわだかまる幼虫に構わず、苦痛のままに歯を食いしばる。
ギヂュッ、という断末魔を上げ、レイヴンの口内の幼虫は圧死した。

外殻を潰され、虫の体液の味が一杯に広がる。
幼虫に剥がされた皮膚が、晒された肉に体液の不快を押しつけた。

彼の不快は、何も一箇所に止まらない。
食するに不適な体液が溜まる口も、幼虫が肉を貪る喉も腹腔も四肢も、何もかも。
しかしそれらの苦痛の中で、一際鮮烈な苦痛が痛覚神経を叩きのめす。

腹から幼虫が逃げ出し、体内にできたわずかな空洞は、肺を再生してみせた。
そして再生した傍から、できたての肺を縮小して叫ぶ。

「ア゛ア゛アアァ゛ァァッ!」

口の体液も吐き出して、喉から絶叫を絞り上げる。

性器には他の器官と比べ、神経が集中している器官である。
そんな所を傷つけられれば、それは叫ぶほどの痛苦だろう。

陰茎に身を寄せ、幼虫たちが食らいつく。
腕や脚、腹の中を食われる痛みとは段違いだ。
その(あぎと)の一つ一つの形がはっきりと分かるほど、損傷部分から激痛が発する。

「ィア゛ッ、あ゛アッ……!」

性器を害され、防衛反応が萎縮を命じた。
しかしそれを上回る喜悦が本能を圧潰し、臨界まで陰茎がそそり立つ。

精液の代わりに血が噴き出し、その汚れた血を幼虫たちが我先にと啜り出した。
そしてより多くの血を求め、数多の幼虫が亀頭に齧り、陰茎をしゃぶり、陰嚢を噛み引く。

「あ゛アっガア゛ぁッ!」

エクレアの搾精とは違う、食欲が根差した暴力。
容赦のない搾取に体がもがき、地面に爪を突き立てて苦痛に耐えようとする。

だが、もがけばもがく程、口にした肉を離すまいと幼虫たちの(あぎと)に力がこもる。
キィィキィィと抗議の声を上げながら、全身の苦痛が強まった。

「ギッ、ガっ、カぁ゛ア゛っ!」

出し尽くした後で、しばらく時間が経ったからか。
血で赤く染まったレイヴンの性器の先から、白い液体が漏れ出している。
無理矢理ひり出したが故か、粘度はない。それでもそれは確かに精液だった。

血と精液が混じった汚穢であっても、幼虫は単に栄養として受け取ったようだった。
精液の湧く鈴口に陣取った一匹が、喜々としてその出口を(あぎと)で塞いだ。
そして、捻り上げる。

「ヒがッアっぎギい゛ィイ゛いイぃいッ!」

鈴口の中にまで棘が食いこみ、レイヴンは幼虫に向けて射精した。
幼虫の全身に薄い精液がかかり、それを周囲の幼虫たちが舐め取っていく。
なおもレイヴンの精液を独占する幼虫は亀頭を容赦なく噛み絞める。

「いギッ、ぎィっ!」

幼虫の食欲は凄まじく、陰茎の輪郭が大きく抉られ、軟骨まで至るほどだった。
その苦痛だけで常人が悶絶死するような激痛に、いくら被虐嗜好(マゾヒズム)を持ったレイヴンと言えども意識が飛びかかる。

今こそ必死に目を見張り、意識を手放さぬようにもがき、自分の絶叫で自分の鼓膜を叩いて覚醒し、それでもなお目の前が白く灼かれる。
いつ気絶しても不思議ではない、不死の身であっても限界を超える激痛。

――だからといって手放してなるものか。
屈辱の極みの中であろうとも、ここまでの痛苦を、快感を、味わいつくしてやる――。

貪欲な欲求がレイヴンの意志を繋ぎ止め、一杯にこの苦境を感じ切る。
しかしその痛苦はピークを過ぎようとしていた。
腹を満たし始めた幼虫たちの食欲が鈍りつつある。あちこちで幼虫は母たるエクレアへと帰っていく。
それでも、肉にありつけなかった幼虫がまた新たに肉壁へと殺到し、レイヴンに絶えず激痛を与えていた。

陰茎は小さな振動でも折れそうなほど削り取られている。
ほんの一針の刺激であっても、意識が逝ってしまう痛苦。
その一針がいつか来るであろうという予感が、終わりは近いという警鐘となる。

そう、終わりは近い。――二重の意味で。

「ア゛ア゛アァァア゛ッ!」

大声で狂態を晒す。
激痛の波に揉まれている彼にとって、その出来事はとうに昔に消え去った出来事だった。

レイヴンの神経は、性器を要とする全身の苦痛に集中している。
正気を失った彼がようやく悟ったのは、何もかも手遅れになったというシステム・メッセージだった。

『――MASTER GHHOST UNDER ATTACK』

脳に直接、冷たい声が囁く。

「あ――」

我に返る。

「ああ、ア――」

それは久方ぶりの、嬌声ではないまともな声であった。

そもそも、現在の状況はどうであるのか。
体の状況ではない。戦場の状況である。

レイヴンが戦線から離れる直前、戦場は確かに自分に傾いていた。
敵のマスターゴーストに攻め入るまで段階が進んでいた、明らかな優勢である。

そんな優勢であっても、数十分も放置していればどうなるか。
それは火を見るよりも明白であった。

「あ゛あ゛ア゛ア゛アッー!」

激痛はある。わずかな苦痛が上乗せされれば、気絶するような激痛だ。
そして、その更なる苦痛が重なる事が確約された。

レイヴンのマスターゴーストが、敵軍によって激しく揺れる。
マスターの魂そのものたるマスターゴーストが陥落すれば、本に死ぬほどの苦痛が積載されるのだ。

振り絞った集中力で、ORGANを開く。
前線に送り出した、ありったけの戦力は全て壊滅状態である。
ゴーストは全て敵軍の色に染まっていた。
バリアは0%を指している。
いたずらに時間は経っているが故にMANAはある。だが、とうにマスターゴーストの耐久度は一割を切っていた。防衛用のサーヴァントを召喚しようが間に合わない。
何より――自身のマスターゴーストに、敵のマスターが向かう足音が聞こえた。

そこから導き出される答えは一つ――。
マスターゴーストの陥落である。

「――ンッギモヂッイイィィィィィッ!」

敵マスターの一撃が入れられ、光を放ち瓦解するマスターゴーストと共に――レイヴンは気絶する瞬間、至上の激痛を味わう事が叶った。


それで、終わった。

2187-- 17:42
7.42MB

そのリプレイデータは、そうやって終わった。

「…………」

隔絶された「バックヤード」の一区画。
部屋として設計された、とある空間。

目の前には、再生前からずっと土下座を崩さないレイヴンの姿。
報告書代わりのリプレイデータを渡す際、彼が震えていた訳がこれで分かった。

「……あー」

「あの男」は言葉を探る。

同情はむしろ傷つけるのか。
励ましなど望まないだろう。
感想などもっての他である。

GEARをも生み出した英知をもってしても、この場に適した言葉が見つからない。

「……その、ごめん」

何故か、謝罪する。

未だ無言のレイヴンであるが、この場において口を開けるのは厚顔無恥が過ぎる。
ただ彫像のように、微動だにしない。

透明な鉛が空間に満たされた、重い沈黙。
口を開く事すら重労働となるこの空間で、「あの男」はリプレイデータを削除した。

そして、口をこじ開ける。

「……忘れよう。うん。僕も忘れるから。
 今回の件については、不問にしよう。僕は何も見なかったし何も聞かなかった」

そう言って、この悲痛な空気に耐え切れず、「あの男」は部屋から出る。

「…………」

レイヴンは「あの男」が去ろうとも、しばらく土下座の姿勢を保ったままであった。
それから数分後、ようやくレイヴンが立ち上がる。

「……申し開きもございません……」

いなくなった「あの男」に対して、精一杯の詫びを入れる。

「このような……私で……」

罪悪感を覚える彼は――この上ない精神的苦痛を受け、勃起していた。

自らが敬意を捧げ、献身する相手にあの痴態を見られたという辱め。
それは尊厳も精神も殺し尽くすような屈辱であった。

だからこそ、興奮してしまう。

主人をも巻きこんだ興奮は、同時に強烈な罪悪感を覚えこませる。
それでも、悦楽に貪欲なるレイヴンの性器が、その罪悪感すら取りこみ、猛るようにそそり勃つ。
その様は、ズボンの布越しであっても明確に分かるほどだった。

謝罪を表す為よりも、この体の状態を隠すが為に、彼は土下座という態勢を取ったのだ。
このような痴態を晒すほど、彼の心身はエクレアの手によって鋭敏になっていた。

あのリプレイデータの終了から。
意識が途絶してから、意識を取り戻して起き上がった時。

そこにはもう、「バックヤード」に帰ったのか、エクレアはいなかった。
それでも、彼女がレイヴンに残した快感の残響は、普通の動作に支障をきたす程に及んでいる。

ドアノブからコップまで、何かを握る度、自分の中を抽送し喘がせた産卵管を思い出させた。
水から肉まで、何かを体内に取りこむ度、自分の中に満ちていた卵と幼虫達を思い出させた。

その想起が蘇る都度、レイヴンの性器は奮い勃つ。

そして、今――。

これまで、「あの男」に失敗を報告する時には、快楽よりも自らの不甲斐なさが勝った。
己の恥を晒して性器を膨らませるという不敬な行為など考えられず、ただ純粋に「あの男」へと頭を垂れた。

だが、今――。

こうして情けなく己の体が快楽を欲し、あまつさえ亀頭と接する布は潮でじっとりと濡れている。

「元に……早く、戻らねばならない……」

そう決意し、部屋から去るべく立ち上がる。

この体が、元の退屈な体へと戻るには、一体幾日かかるのだろうか――。
そんな苦悶を抱えて、自慰で己を収める為に、「あの男」のいたこの部屋から逃亡した。

踵を返し、翻るマントの下から――、
キキィ、と小さな娘が鳴いた。

空の飛び方

レイヴンと、空を飛ぶ事についての話
Would you give up your hands to fly?(お前には、空を飛ぶために両手を諦める覚悟があるか?)
That is what the birds have done.(鳥はこの交換を承知したのだ。)

The One Thousand Questions




空を飛ぶ事に一回も憧れない人間は、一体どれほどいるというのだろうか。

異国の草原で寝転ぶ、この若者であっても例外ではない。

双頭の鷲の旗を差し、
異国を本国のものにせんと、
使命を負って郷遠き地に身を投じていた。

しかし今、彼の属する部隊は剣を置いている。

今日は、安息日だという。
戦争下では通例無視されるこの日だが、
敬虔あるいは怠惰な兵士が、部隊長に今日が何の日であるかを進言したのだ。

それが受け入れられたのは、連日の進軍と戦火に疲弊したが故でもあり、
兵糧が乏しく、また補給の目途が立っていない現況がもたらした、一種の現実逃避だった。

とかく、今は束の間の休息を享受していた。
若者は晴れた草原に横になり、ただ一人で空を仰いでいた。

別に孤独を愛する訳でも仲間外れだという訳でもないが、
無辜の村を襲おうという、収奪の打算の輪に入るのは、あまり良い気分ではない。

晴れやかな空に暗雲たる思いを照らし出し、嘆きの息が風に溶けた。

その風を受けて、一匹の鳥が空へ浮かび上がる様を見た。
ありふれた光景に、若者はふとつぶやいた。

「……空を、飛べたら」

無意識下から、その仮定を持ち出した。

人が空を飛べたなら。
鳥のように、空を飛べたなら。

別に、鳥でなくとも、蜚蠊(ごきかぶり)であっても空は飛べるだろうが、
しかしやはり、空を飛ぶのは鳥のようでなくてはならない。
そう、思った。

では何故、人は空を飛べないのか?
当然、翼がない為である。

ではどのようにすれば、人は翼を得る事が叶うのだろうか?

子供なら、黒い外套を羽織ってばたつかせ、「があ、があ」と鳴いて鴉の真似をした。
遠くの風の噂では、愚者が翼状の大きな木版で屋根から飛び上がった。

しかしそのどちらも、結末は親に怒られるか骨を折るかであったはずだ。

一体、人が飛ぶ翼はどんな翼であろうか?

そこで、若者の脳裡に寓話がよぎる。
東のローマから来た者の口承である。

塔に幽閉された二人の父子は、蝋でもって翼を作り、空を飛翔し逃亡した。
しかし子は、その翼によって風を切る感覚に溺れ、空高く飛び上がる。
そして太陽は子の翼の蝋を熔かし、翼を失った子は海中に没した。

その寓話では終に墜落したものの、空を飛ぶ翼のその大きさとはどんなものだったのだろうか。

空想の中で、身の丈はある翼を以て飛ぶ姿を思い浮かべる。
思い浮かべて、微笑した。

きっと、底抜けに爽快な気分だろう。

風を切る感覚は覚えている。
号令により、馬を全力で駆けさせた思い出がある。
その速度の快たるや、もう一度味わってみたいものだった。

もしその速度で、この身で空を翔けられるならば。
蝋の翼であっても太陽に近づこうとした子の胸中を、深く理解できる。

――翼が欲しい。

数多の先人も欲した、その願望を抱く。
願望のままに、手を伸ばした。

空に向かって、まっすぐに手を伸ばす。
勿論、それで何をも掴めない。
それでも憧れを表明する。

手を伸ばし、鳥の影と己の手とを重ね合わせ、視覚上で鳥を握る。
しかし鳥はするりと手から逃れ、若者の手は単に突き上げられて拳をつくったまでの事だ。

若者は、届かない鳥にその願を掛け、躍る瞳を目蓋で閉ざした。


フランスの空に、人工物が浮かんでいる。

それは、人類がついに空に触れる事を叶えた技術。
醜く膨らんだ、気球というものだ。

その気球が都会の空に二、三個ゆっくりと浮かんでは、ゆっくりと落ちていく。
緩慢な動作をするその様は、彼の平坦な感情に波を立てた。

「人間が空を飛べる」という噂を聞いた彼は、それに期待をこめて足を向けた。

無辜の民と違い、不死の枷に囚われた彼は、あらゆるものに飽きを感じていた。
その飽きを満たす為には、未知なる快楽を求めなければならない。

だが、あれは果たして「飛ぶ」と言えるものだろうか。

彼は、若い頃に思い描いた空想を引っ張り出した。
背に翼を授かり、風を切って自由に飛ぶ様を。

そして、気球というものはどうだろうか。
単に空中を浮かぶだけで、動くには気流というものに頼らなくてはいけない。

その怠惰な浮遊を「飛ぶ」と言うのは、客寄せの過剰広告に汚れている。
彼にとって、それは「浮く」としか言いようがないものだった。

まだ、人は飛べないのか。

落胆を抱きながらも、彼は気球を乗ろうとする群衆の列の中に紛れていた。

「散々扱き下ろした物体に、金を払ってまで乗りこむのか」と、背後で架空の声がする。
彼はそれに、独りで頭を振った。

せめて、空から見下ろす景色というものは見たいのだ。
空を飛べずとも、浮けるというのならば、その未知の景色は見れるだろう。

「待つ」という、退屈の極致にある行為に耐え忍び、ようやく彼の順番が巡ってきた。

彼の前に興行師が塞がった。
この気球商売が盛んである事を、気球のように膨らんだ腹が主張している。
商売用の笑みを浮かべ、興行師は手を伸ばした。

何度も札束を握ってきた厚い手の平だ。
その手の平に触れないよう、わずかに数インチほどの高さから金貨を落とした。

興行師は軽い頭を下げ、彼を気球の傍へ促した。

近くで見れば、小さく見えた気球が実体の大きさを伝えてくる。

何しろ、人間の二、三人を飛ばす為のものである。
その重量を大地から離す為の風船部分は、威圧するように頭上で膨張していた。

風船の下には、人間が乗る為の籠がある。
何らかの植物で編まれ、染色されたその籠は、煤で黒ずんでいた。
乗り降りしやすいよう、その籠には簡易な扉がついている。
籠の中には、気球を飛ばす為にいるのであろう、これまた黒ずんだ興行師の従者がいた。

気球の直下には大きなランプらしきものがある。
そのランプを焚くからこそ、従者は煤で黒ずんでいるのだと知った。

彼は籠の扉を開き、中に入る。
客である彼が籠に収まった事を確認し、従者は籠の入り口を閉めてランプに火をつけた。

油の燃える臭いを撒き散らしながら、温められた空気は風船部分に溜まっていく。

しばらくの時間を消費して――、
足下で感じていた、地面の確かな感覚がふわりと掻き消えた。
ぎしぎしと頼りなく揺れる籠に不安を覚えながらも、彼は地面から離れていく。

従者は何も声をかけない。ただランプを焚いている。

彼は気球で起こる事柄に興味を無くし、気球以外に視線を向けた。
そして眼下の景色が縮小していくのを見て、ああ、とため息を吐く。

震えない。

彼の予想が裏切られなかった事に、諦めながら落胆した。
結局、この空を浮く感覚は、既知の感覚を集めて縫い合わせたツギハギ(パッチワーク)なのだ。

眼下の景色も、肌をよぎる風も、その一つ一つが過去の感覚でしかない。
時計台から見下ろした景色も、馬を走らせて切る風も、彼の過去にあった出来事だ。

この狭苦しい籠の中に二人いるというのに、彼は空で孤独を味わった。

気球の傍を横切る鳥が、狂おしく羨ましい。

せめて、
せめて、自らの意志で空を飛びたい。

このようなものじゃぁない。
他のものに頼って動くようなものじゃぁなく、自分によって動きたい。

この己が身ですら、己の望むままに死に絶えはしないのだ。
せめて、高空を、風を切って、自由がままに飛んでみせたい。

彼は焦がれた未知の感覚ではなく、
何度も味わった苦渋だけを携えて、
数分間の浮遊は呆気なく終わった。

従者がランプを絞り、墜落しないよう、ゆっくりと下降していく。
地面から離陸した時の光景が逆再生されていく模様は、二度目だというのにとうに飽きていた。

足元に地面の感覚が戻ると、ぞんざいに籠から追い出された。

当然だ。
列を成すほどに俗物が集まっているのだ。
興行師は回転率を上げるため、用無しとなった彼ではなく、これから金を払う客に向けて笑みを配っていた。

何も得られなかった彼を残して、気球体験をした者の口から語られる興奮の声が耳をつんざく。
彼は耳を揉みながら、烏合の衆から早急に離れた。


離陸する際に耳菅を満たしたエンジン音は、最早背景のように思えた。
五月蠅いばかりの音であろうとも、常時鳴り響けばそれは静寂に等しい。
彼は空を浮く鉄の中で、窓の外をじっと睨んだ。

今まで己の立っていた街はすぐミニチュアとなっていき、遥か遠くにあったはずの雲へと迫っていく。
手を伸ばしても叶わなかった雲上の世界が、今、彼の目の前に展開された。

雲をあっさりと突き抜け、飛行機は雲海の飛魚となって海上を駆ける。

空を飛んでいる。
肉の翼ではなく、鉄の翼をもって、人間は空を飛ぶ術を身につけたのだ。

それを実感して、彼の胸中に浮かぶ思いは古びた落胆だった。
かつて偉業と思えた事が、こうも矮小なものだったのか。

いや、これは人間にとって全く矮小なものではないのだろう。
己という錆びついた存在が、この偉業にすら驚嘆しない感情になったという事でしかない。

最早、自分を救い得る発見も発明も、何もないのか。

鉄の翼に冷たい視線を送っていると、彼の心を揺るがす景色が飛びこんできた。

太陽に照らし出された、黄金の雲海か。
あるいは夜の帳に散りばめられた、鮮明に光り輝く星々の宝石か。
ともすれば、雲上に舞い上がる、力強い鳥の羽ばたきか。

そのようなものではなかった。

高揚する彼と同じ景色を見た他の乗客は悲鳴を上げる。

「エンジンが! 外れていった!」

翼の下にあった丸く太いエンジンがもげ、取り返しなく雲海に沈んでいく。

悲鳴は他の乗客に伝わり、すぐさま機内がざわめき出す。
客室乗務員はコックピットに繋がる電話を取り、話し合った後に機内放送を始めた。

「皆様、エンジンが外れたとの件についてでございますが、飛行機の設計上、エンジン一基が外れても墜落はしないようになっております。
申し訳ございませんが、万一の事を考え、付近の着陸可能な航空と連絡を取っております。
こちらの便では目的地であるケネディ空港には着陸しませんので、何卒ご理解・ご容赦のほどお願い申し上げます」

恐怖にどよめく乗客と別に、彼の目は爛々と輝いていた。

墜落。
一体その体験とはどのようなものであったのだろうか。

鉄道や船舶、自動車での事故は度々聞いている。
しかし、以前に起こった墜落の事故というのは、彼の興味を惹くようなものであった。

何しろ、本来人が存在する事のない空を、科学で無理矢理飛ばせてやるのが飛行機である。
その飛行機が機能を停止すれば、身を支える海も陸もない空で、どのような事が起こるのか。

曰く、地面への激突で、肉と鉄の境目も分からないほどに潰れた。
曰く、一人分の遺体かと思えば、人間と人間がぶつかり合ったせいで二人分の遺体であった。
曰く、周囲にはジェット燃料と金属と肉塊が混在して焼け焦げた臭いが立ちこめ、地獄のようであった。

その無残、当事者の痛みとしてはいかようなものであろうか。

エンジンのない翼をうっとりと見つめて、彼は最悪の事態に思いを馳せた。

普段であれば眉をひそめ、忌避するような周囲の喧騒は、
今この時は、これから来る悲劇の惨憺を引き立てる供物として歓迎できた。

あちこちで騒ぐ乗客をなだめる客室乗務員の内、一人がコックピットの扉を開いた。
その時耳をそばだてれば、コックピットから機長の大声が聞こえてくる。

「――パン・パン! パン・パン! パン・パン!」

故障(Panne)
そして三回続けての準緊急事態(Pan-pan)

飛行機は空に溺れる鉄屑になりつつあるという宣言が、聖句のように感情を洗い出す。
死の果てへと降下せんばかりの森羅万象が、鮮明に色づいた。

澄み渡る空を駆ける飛行機は、再度雲に身を沈め、大気の中で溺れていく。
雲の群れを抜ければ、眼下に広がる色とりどりの街並みが待ち構えていた。

段々と高度を下げていく様が乗客は青ざめ、祈る者や、中には過呼吸から気を失い者もいた。

秒針が音を立てるごとに大地との距離が縮まっていった。
飛行機は旋回を繰り返し、着陸予定の空港へともがく。

眼下に滑走路がちらりと見えると、彼は息を呑んだ。

「衝撃に備えてください!」

マイクも取らずに、客室乗務員が叫んだ。取る暇も惜しいのだろう。
その叫び声に従い、乗客は一か八かと背を丸めた。

彼もまた祈りながら背を丸めたその瞬間、下から突き上げるような衝撃が機内全員を襲った。
衝撃に女の悲鳴が聞こえる。
だが、悲鳴を上げられる口と、悲鳴を聞ける耳が無事なのだ。

彼の祈りは何者にも届かず、何者にも望まれないまま、孤独の闇に落ちる。
金属がアスファルトと擦れる甲高い音は、祈りの断末魔に等しい。

やがて、飛行機の失速は緩やかに停止へと移ろい、不安と安堵の混じった囁きが聞こえる中――、

「皆様! 当機は空港に着陸いたしました!
焦らず、近くの乗務員の誘導の下、機外へ速やかな避難をお願いいたします!」

機内放送に歓喜の声が上がる。

乗客は立ち上がり、誘導に従って避難を始めた。
彼はしばらく虚空を見つめていたが、機内の乗客の半分が出た頃、ようやく腰を上げて避難を始める。

わずかな期待をもって乗ったはずの飛行機から、大いなる落胆をもって機外に出た。
鉄製の梯子のステップを踏み、レスキュー隊の群れに囲まれながら、彼は唇を噛む。

――結局、そうなのだ。

自分はもう、痛みにしか救いを求めていない。
空を飛ぶ快楽すら、自分を満たしはしないのだ。

現に、空を飛んでいた時はどうだった?

つまらないと、窓を眺めていた。
しかし、墜落するという示唆を得て、その時の高揚はどうだった?

自己嫌悪が、彼の心を食んだ。

――私は空を飛ぶ事よりも、空から落ちる事を望んだのだ。
かつて憧れた空ではなく、今の自分を満たす痛みを求めていた。

安堵にむせび泣く声が、なおの事彼を傷つける。
その声は、「お前は人間の願望からかけ離れた化け物なのだ」となじる声だった。


「君は、風のようだね」

それは比喩ではなく、指摘。

これまでの当然であった自然法則を外れ、不自然に渦巻く緑風が、彼の手指に生じている。
手解きを受け、初めてうまくいった法術だ。

人類がこれまでに求め、そしてついに手にした無限のエネルギーのリソースである、法力。
その結実となる妙技に撫でられ、彼は手指をじっと眺めている。

そんな彼に、少年が続けて話した。

「法力は、五大元素で体系化されている。
火、雷、水、風、気……。
人は基本的に、その内の一つは習得できる。
そして君は、その五つの中から今、風を手にした。
この分なら、そうだな……その身一つで、空を飛ぶ事も可能だろう」

「空を、飛ぶ?」

無感動に、彼が復唱した。

「そう。鳥のように、自分の体だけで空を飛べる。
グライダーも飛行機も必要がない。風を切って飛ぶ気分が味わえるよ」

その気分を思い描いたようで、少年はその口元に微笑を作った。

「……左様で」

楽しげな少年の様子に水を差せず、彼は感情を隠して虚ろを吐いた。


レイヴンは空を駆けていた。

無論、その身を衆人の者々に晒すような真似はしない。
自らを渡る風の虚ろと化し、目的地へと向かっていた。

澄み渡る空。
気流に逆行し、重力のくびきを切って疾駆する。
風がレイヴンの頬を、首を、肩を背を腰を滑る。

空を飛ぶ実感が、レイヴンの五感に覚える。
だが、感じはしない。

今更、感慨などあるはずもない。

過去に憧れた「空を飛ぶ」この行為は、ほんの少しの慰めももたらさない。
そもそも、その憧れていた感情が本当にあったのかすら、忘れかけていた。

時流は彼の感情だけではなく、かつての己すらも啄ばんでいく。

初めて空に手を伸ばした記憶。
初めて眼下に街を認めた記録。
初めて雲上を眺められた記刻。

全てを体験したのだという確信がないほどに、己が薄らんでいる。
そして恐らく、今の己もまた、未来に朧となって忘却する。

ぞくりとした。
体温よりもずっと低い気体に触れ続け、震えて、
常人よりもずっと永く時間に犯されて、震える。

生命の温度から離れていく孤独から目を逸らした。
彷徨う視線は、何者も存在しない死の空から、緑溢れる地上へと向けられる。

草原がスクロールしていく。
その緑の中、一点だけ肌色が存在していた。

レイヴンは一瞬でその点の上を通り過ぎ、その姿を脳裏に再生する。

刹那だけ再生されたその若者は、空の鳥を掴もうと手を伸ばしていた。
彼は過去の己を何故か思い出して、そしてすぐに忘れた。

世界はそれでも

レイヴンが生死について話す話
ゴミ箱のタブロイド紙を鴉が持ち去ったとして、誰が気にするだろうか。
それを見たとしても、巣材にするのだろうと思うだけだ。
その塵紙が何者かの手に渡るなど、誰も推察しない。

「おお、娘達……」

レイヴンが召喚した鴉達(シュヴァルツ・ヴォルケン)は、街のあちこちから情報を掻き集めていた。
落ちていた新聞、あるいは人々の歓談、街道工事から、城の庭園の警備まで。
そこに鴉がいても別段の警戒を払わない場所を中心に、情報網を構築する。

警備の厳重な王室、また秘められたオペラハウスなどに、この鴉の目と嘴は行き届かない。
しかし重大な物事というのは、全て密室で片付けられるものではない。
公開情報の諜報(OSINT)により、情報と情報の間に糸を見出し、繋ぎ合わせる。
そうして浮き彫りにならざるを得ないほど、秘密というものは脆弱性を抱えている。

だが、膨大な情報の海の中、単なる漂流物にしか見えない事件事物の数多き事。
遍く全てを総当たりで結びつけるなど、指数的爆発を起こす作業量で溺れる事となる。
故に、情報は目を通し、精査しなければならない。

人目から離れた森深くで、レイヴンは溜息を吐いた。
彼の傍らには、鴉達が集めた情報が山となって積載している。

正午を回らない内にこの量である。
この山に果たして砂金を見つけられるのか。

これまで何十回と掘り起こしては、大概空振りで終わるこの作業。
必要性は理解していても、これは気持ち良くなれない苦痛である。

レイヴンは苦い顔をし、下世話な文章の躍る記事を流し読む。
連王の動向、権力者の突然死、料理店の広告、鉄屑(がらくた)への苦情……。
全く興味を抱けないまま「使える」か「使えない」かを選り分ける。
単純作業を継続していき、黙々と粛々と山が削られる。

その最中、レイヴンの手が止まった。
同時に、記事の単語に目が留まった。

自殺(Suicide)

自分が幾度も試みたその単語に、自然意識が向けられる。
レイヴンはその記事に注視すると、事件の概要が浮かび上がった。

曰く。
某月某日。ある二十代男性が自殺した。
男性は女性と別れた直後であり、周囲の人間に絶望と失望の程を明かした。
そして、自宅で首を吊った。

世間という観点からすれば、これは非常にありふれた日常だ。
別に「慈悲なき啓示」に繋がる訳でも、何ら重大なものでもない。

しかしレイヴンは、その単語がありふれている日常に苛立ちを覚えた。
苦々しく歯を噛んで、あえて記事を破り捨てる。

とかく、今なすべき事はこの山を超える事だけだ。
レイヴンはすぐに平常を努め、記事を淡々と分けていく。


鴉達をバックヤードへ還し、レイヴンは肺の底から息を押し出した。

今回も相変わらず、収穫はなかった。
中には未来の情報と照合すれば有益となりえる情報もあったかもしれない。
とにかく今日の時点では、収穫はない。

レイヴンは集めた記事類を燃焼させ、この場に留まった証跡がないか確認する。
一つうなずくと、彼は街に背を向け歩みを進めた。

獣すら通らぬ地を踏み、森の更なる深奥へ。
緑葉と桑茶の天然色だけの世界の中、人間の色が遠くに見え始めた。

レイヴンは怪訝な顔をして、空間迷彩の法術をかける。
周囲の自然に偽装しながら、その色に迫り正体を見極めた。

その色は、男の姿をしていた。

寝起きのままのような、ぼさついた髪。
他者の目を諦めた、こけた頬と隈のある目。
森には場違いな、普段着のシャツとジーンズ。

そして手にしているのは、長い荒縄。

それを見ただけで、レイヴンは男の企てをはっきりと推測できた。
レイヴンは不快の念をはっきりと覚え、口の端を大いに下げた。

空間に溶けている存在に目もくれず、その男は周囲を見回す。
自分の身長よりやや高く、自分が下がっても折れない枝。
吟味する視線が周囲を舐めるも、彼はレイヴンの存在に気づかずにいた。

レイヴンはじりじりと、男に近寄る。
虚ろな独り言が聞こえ始め、その内容に辟易した。

『生きている意味が何もない』

要約すれば、それだった。
レイヴンは堪らず、静かに怒声を吐き出した。

「……何故、お前たちは死を求める?」

誰もいないと思っている場所で話しかけられ、男は驚いたようだった。
周囲から人の姿を認めようとするものの、法術に長けぬ男の視界には誰もいない。

「お前たちは求めずとも、死がもたらされるはずだ……」

自分が手に入れられないものを要求できる妬み。
自分が手放してしまったものを無碍にする怒り。

レイヴンに渦巻く不快の捌け口にされた男は、魚のように口を開閉した。
ついに幻聴が聞こえ始めたと嘆き、レイヴンの声を必死に無視する。

それでもレイヴンは、追い立てるように続ける。

「私が幾万の時を重ねても、刹那の死に届かないというのに」

八つ当たりだというのは分かっている。
だが、どうせ相手は死にゆく生者だ。
その背景に同情できる惨状があろうとも、己にとっては死を浅ましく求める愚者に過ぎない。

「私は、人間だった。

最初こそ、私は人間としての感情を抱いていた。
陽光の温もりも、荒ぶ風の感覚も、かつてはしかと感じていた。

この私に死があれば、人間の心を持ったまま、人間の矜持を持ったまま、人間として死んでいた。

だが、私は死ぬ事すら許されなかった……。

歳月は私の心を腐らせ、私の矜持を潰し、私の死を弄んだ。

感覚も感情も擦り切れた今の私には、苦痛を得る事でしか救いを得られなくなった。
他者から異常だと揶揄され、それでも私が震えるには、それしか無かった。

お前はどうだ?
口にした全て、手に持った全て、鼻をくすぐる全て、目に映る全て、耳に入った全て、
何もかもが、心に何ら作用しなくなった事があるか……?

――五感の全てから受容する何もかもが朽ち果てて、喜びを渇望する心を殺して時を耐えるだけの日々に、貴様は身を置いた事があるか!」

千をも超えた月日の謗りを受け、男は耳を塞いで逃げ出した。

レイヴンは男の姿が消えた後、空間迷彩を解いた。
その顔に滲んだ絶望の色が、外気に晒される。

誰もいない森の中、レイヴンは虚ろに独言する。

「……私は決して、生きる事そのものを否定しない」

――ならば、何故死を求めるのか。
己の論理を開く度、そう問われてきた事を想起した。

その問いに、彼がつぶやく。

「私は生きたいのだ。
だがそれは、人間として生きたいという事だ。

果たして、この先に幾千幾万の時が待ち受けていたとして、
私はそれでも、人間として生きる事は可能なのか?

世界全ての生命が死に絶えた地で。
何も起こらない日常の中で。
昼と夜が堂々巡りとなる。
何もない此岸で生きる事が永久に続いていく。

やがて私は発狂するだろう。
そして、発狂してもどうにもならないと思い知らされ知り尽くしてしまい、
感情の糸が切れて、動かなくなる。
私は何も動かなくなる。
思考すらも放棄して、ただ地に倒れるだけの肉人形だ。

――その私は『生きている』か?」

自問にあえて自答せず、レイヴンは飢えた瞳で地の果てを見据えた。

「私は最期まで、人間として生き足掻いてみせる。
人間として死んで、そこでようやく私は人間のまま生きた事になる。

例え、雑言を尽くして揶揄されようとも。
永遠に私は抗い続ける」

レイヴンは、己の遺志を世界に叩きつけた。
生と死の隙間に存在する曖昧な己の、確固たる意志。

それを煙に巻くように、風が吹いた。
揺らめく深緑の世界が、その美麗たるやを見せつける。

幾重の葉の間隙を抜け、苔生した地を滑る陽光の煌き。
樹木により浄化された、清涼な薫りの立つ軽風の感触。

それでも、何も感じない。
千年に渡るありふれた感覚に、何の享受も浮かばない。

日常という牢獄の中。
永劫の罰がもたらされた己の罪を未だ知れぬまま、彼は虚空に掻き消えた。


今日も、鴉が空を飛ぶ。
森の緑の塔の上で、レイヴンは今日も情報を漁っていた。

昨日も一昨日も一昨昨日もそうだった。
明日も明後日も明明後日もそうだろう。

つまりは、日常を送っていた。
必死に日常を凌いでいた。

レイヴンが流れるように記事に目を通していると、ある単語が目に映った。

自殺(Suicide)

しかし、レイヴンは心を動かされぬまま、ただその記事を「使えない」と選り分けた。
  1. 千年の一夜
  2. レイヴンさまはへんたいさん その3
  3. 信じて送り出した側近が上級射撃兵の搾精托卵にドハマリしてアヘ顔ピースリプレイデータを送ってくるなんて…
  4. 空の飛び方
  5. 世界はそれでも