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  2. 禁忌の果樹園
  3. 入りの新月
  4. 琥珀の雫
  5. SCP-243-GG

forAnswer

レイヴンと「あの男」の邂逅の話
過去捏造描写あり
「GUILTY GEAR BEGIN」の一部ネタバレあり
一つ疑問がある。斬首された私は新しい私だろうか。

今こうして思考できるのは、常識として――このおぞましい身で常識を語るのは片腹痛いが――脳という器官の、神経細胞の繋がりによるものだ。
その脳が首ごと切り離され、こうして頭部が再生したならば、ここに転がる首は古い私であろうか。

断たれた首を両掌で挟み、自らの残滓と視線を合わせる。
全く、見られた顔でない。不健康な肌、粘着質な緑の瞳、ひしゃげた鼻、にやけた口。部位としては最低限あるべき箇所にあるというのに、その無価値な印象といったら顔に穴が空いているようなものだ。

鏡など必要ないな、と独り言ち、嗤う。

さて、こうして相対している元「私」は、果たして私だったのだろうか。
この中に記憶があるだろう。0と1しか記憶できない機械はデイジー・デイジーを謡える。記憶は思考の礎だ。

では、この物言わぬ脳髄の中に、私の意識は果たして存在しているのか?
存在しているとするならば、考えておくべき事がある。

私がこれまで断ってきた首の全てが、死を遂げられたという事だ。

この眼前の首も同じだ。私の知能を、記憶を、思考を、それを紡いだ脳があるというのならば、過たず私であると結論づけても突飛じゃぁない。
その元「私」は、胴体から切り離された。血は通わず、目は瞬かず、ただでさえ低い体温すら、今や鉛に等しい。

元「私」は、死んだ。
不確実な死ではなく、確実な苦痛を期待したまま、私の生涯の望みである死を快楽と共に得た。

同時に自己を揺るがす事実がある。世界が五分前に始まっていたのだと疑うと同様。
今の私は、五分前の頭部の再生から始まってはいやしないのか。

断たれた首の記憶を引き継いだだけの、五分前に誕生した存在なのではないのか。

千年。私が生きてきた時間。
それが「今の私」が歩んできたものではない可能性。

氷の千年に悶着こそあれ愛着はない。だがその全てが虚ろだと突きつけられれば、ここまで死に損なった己の一代(一世)が無価値と下されるものだ。
そうとなれば、幾ら固着した感情であろうと、せめて一余(一夜)でも価値はあると執着したくなる。

右の親指の爪の切っ先が、私だったモノの頬に食いこんだ。
脈拍を亡くした肉から、未練のように血が滲む。

「――あー、ミスタ・ナルキッソス」

痩せこけた声が、意識をこじ開けて現実に引きずり落とす。
手から首を離せば、金属の床に皮越しの頭蓋骨が衝突する鈍い音。

今、私が存在しているのは、ある機関の実験室であった。

強化ガラスで隔てた先にいるのは、にやにやと嘲笑する黒髪の男。

「水面を眺め続けて死ぬ事をご所望かね?」

抗議に口を開こうとも思ったが、時化た水面へ石を投げる無益に思えて、諦める。
ただ、暗喩の程度の低さを咎める視線を刺す。その黒髪は肩をすくめてみせただけだった。

「一応は丁重に扱ってくれよ。まあ、何度でも生産する事はできるだろうけど」

事前に言われた通り、断った首を鉄の盆に載せる。
盆を持ち、扉を開ける。消毒液の臭いが首の継ぎ目に染みる。

「ご苦労。戻ろう」

扉の隣にいる職員に盆を渡し、代わりに職員から首から提げる名札を渡される。

己が機関の人間である事の証明であり、またどのようなセキュリティ・クリアランスを持っているかの証明である。
しかし、名札と言うからには、必ず名前が記載されている。

私という例外を除いて。

「さあ行こうか、ナルキッソス」

こりずに私を呼称する黒髪。
先導するそいつの後ろにつき、実験室を抜ける。

無論、私はそのような名じゃぁない。
では何か、と問われれば、生憎答える事もできない。

私の名前欄には、空白が記されていた。

自己を脅かす要素はここにもある。私は私の名を忘れてしまっていた。
未開の地であろうとも、人間には名前を得る権利がある。
その権利を脳から零し、まるで頭に穴でも空いたような空白感を覚える。

無論、偽名を名乗る事もする。
だがいずれも、仮初の名に過ぎない。いずれもすぐに私の記憶から抜け落ち、自分という存在を定義するものになりやしない。

廊下を行き交う人間は、知らない顔をして名前を持ち、名札を提げて堂々と歩む。
視界に入るだけで私を苛むそれらを避けて、物知り顔で黒髪がのたまう。

「慣れたようだねぇ」

それは「飽きた」に類いする。

当初、この機関に連れられてきたのは、強制的に搬送された病院で首を吊った事から起因する。
不死性に目をつけたらしいこの機関で行われる実験と試験体提供は、感覚を満たすにそれなりであった。

あわよくば、私がようやく風の下で憩う事ができるのであれば。
しかし、憩う事の叶わない千年は私の希望を裏切り、私の絶望を実証した。

こうして飽きてしまえば、ここは単なる檻に過ぎない。
いつにここは廃れるだろうか。廊下の床にから回る脚を繰り返す。

倦み弛む日常の平坦の流れと淀み。
沈殿する汚泥を掻き分け、非日常の予兆が遠くからやって来る。

シークレット・サービスめいた黒服の群れが、白い廊下の中央を行進する。

「おお、怖い」

おどけながら、黒髪は廊下の壁に貼りつく。
私もまた廊下の壁に背をつけて、護衛の塊を検分した。

目を窄める。
黒の木立の合間に、白い毛並みが覗いてきた。

白髪(はくはつ)だ。しかし年若い。
中性的な顔立ちであるが、はっきりと男だと分かる。
背は低い。体躯に恵まれた護衛に囲まれては、尚更強調するようだった。

しかし、護衛というのは、単にその男への周囲から危害を排除しているだけではない。
――たった先に、人間を殺めて戻ってきたような、剣呑な瞳――。
その男から周囲への危害を排除する為のものにも思えた。

息長く観察する間はない。その瞳を記憶した程度で、行進はすぐに横を通り過ぎる。

「随分な要人のようだな」

新しく再生された古い声帯。乾燥して掠れた声は、統率の取れた足音に擦れて消える。
そのまま消え失せても問題ない感想を、黒髪は拾い上げる。

「ああ、『あの男』か」

映画のサスペンス・シーンを眺める目で、件の男の背景を引き出す。

「あの大先生はすごいぞぉ。
 法力学のエキスパートで、生命情報学のスペシャリストで、GEAR細胞のプロフィシェントだ。
 デタラメに才能があるビックリ人間。いいねェ、若い時分から万能なヤツは」

褒め讃えつつ、そのにやけた目に笑みはない。
妬みと憎しみのぎらつき。中途に地位を得て、半端に身の程を知った者のパターン反応。

見飽きたものを見せつけられ、私はすぐに興味が削がれる。

「そういった手合いは、才能から謀殺されるか、才能で圧潰するかだ」

「そりゃいい。できれば、遺産を残して退散して欲しいね」

良識で隠す事なく、黒髪が本音を明かす。
周囲には少なからず人員はいる。それでも周囲が平然としているのは、それがこの男の当然だと受容されている証跡か。

足を運ぶ。もうすでに目的地は目の前だ。
白い扉を前に、黒髪は懐から鍵を取り出し、錠を解く。

「さあ、ゆっくり休むといい」

自分で出る事のできない自室に押され、扉が閉まる。鍵が回る音がしてから、沈黙。

変わり映えのしない自室は、いつもの通りに固定されている。
机もなにもない部屋に、ベッドは四つ。どれも同じ造りであり、マットの横に拘束用のベルトがある以外はいたって簡素なものだ。

私が常に使用するのは、扉から一番遠い対偶のもの。
別にそれでなければならないというこだわりがある訳ではない。肉のある倦怠感がやってくる出入口から離れたいだけだ。

ベッドに倒れ、石鹸の臭いが鼻につく。髪の毛先が頬を掻き、指で払いのける。
眠くはない。休む事もしない。ただ、床に立つのも腰かけるのも億劫なだけだ。

日常の中でも最も忌むべき時間が到来する。
ベッドしかない空間で、一体どのように時間を消費すればいいというのか。

今よりずっと労働が日の大半を占めた若い頃は、このような時間こそ求めていたものだが、もう充分過ぎるほどに休息は持て余している。
天井から注ぐ光をじっと見やり、大きく息を吐く。

かつては、それが蝋燭だった。
いつしかそれは洋灯になり、ガス灯になり、そして電球へと行き着く。

技術の歩みは私に感情を灯してきた。飽きるほどに。
新たなる発見や発明というものは、目の当たりにする事こそ溢れてきてしまった。

人に翼がない時代に飛行機が出たように、今の最新技術たる法術すらもそう感じていた。
絵空事であった現象が現実に落としこまれた程度では、最早感情を動かされる事はなくなる。

これからどのような事が起こったとしても、もう私を満たすものはない。

悲嘆を描き、足掻きたい感情がわずかに立ち、どうしようもない事を知り尽くしている脳が意欲を寝かせ、肉が横たわる。

同様の繰り返し。
過去の焼き直し。

経験の再確認。
単調の一辺倒。

歴史の模倣。
既存の延長。

退屈。
閑暇。

(いとま)
(いとま)


自意識すら鬱陶しく感じ、睡魔の到来を乞いている頃に、再び非日常が扉を叩いた。

ベッドから起き上がる事もしない。目だけをそちらにやり、開いた先にあるのは、あの護衛の群れの一端だった。
「失礼」の一言を不要として、ただ要件の一言。

「新人の博士だ」

そう言って護衛が連れてきたのは、およそ博士という役割よりずっと下回った姿だった。
上半身の可動部を考慮せず縛り上げる白い布。その上から締めつけるのは白いベルト。それは、私も経験のある衣類だった。

拘束衣。原始的な無力化手段。
身を縛られた男は、今日に見たあの白髪だった。

白髪を部屋に押しこんで、護衛は扉を閉め切った。

白髪が制限されているのは、あくまで上半身だけだ。足を動かし、扉から手近なベッドに――私とは斜向こうに腰かける。

私の存在については、刹那目を向けた程度で認識を終えた。
邂逅の時と同じ殺意の光はないが、全てに信頼を置かない敵意は拭えない。

故に、私も信頼しない。白髪はベッドに寝転がり無力を晒す真似はせず、姿勢をそのまま静止させる。

私は視線だけでその白髪を(まさぐ)り、ふと首からだらりと提げた名札に目を留めた。

名前がない。奇遇にも、私のものと同じだった。

この部屋に、私以外の人間が入ってきた事は数回ある。しかし、どの人間も、しっかりと名前を持ってこの部屋に来ていたのだ。
いずれの人間も、私というつまらない男と同室である事に気分を害し、数日で部屋を出ていったが。

とまれ、白髪への奇妙な共通点を見出し、眇々たる好奇が感情の穴から這って出る。

「お前は誰だ?」

口の穴から湧いた問いに、白髪は唇だけを動かし斬り返す。

無名(John Doe)。君は?」

問いを無意味にする回答に応じて、私は字名に身を隠す。

無銘(Richard Roe)。お前と同じだ」

会話を広げる様子も当然なく、それで話題は終端に達する。
とはいえ、私としては暇を潰す手段はこの男くらいしかいない。

「ジョン、名札に名が無いという事は、本当に名前が存在しないのか?」

「リチャード、ゲストの札だよ」

「では来客という事か」

「暫定のものだ。その内、正式なものが支給されるらしい」

少しばかり興が削がれる。結局はこの白髪も、名前のある人間なのか。

「ジョン、何の博士だ?」

「リチャード、大した事はない。説明するまでもないよ」

「法力学のエキスパートで、生命情報学のスペシャリストで、GEAR細胞のプロフィシェントと聞いたが」

「なら、それで充分だろう?」

突き放す言い方に、いっそ心地よさすらある。

「ジョン、寝るつもりはないのか?」

「リチャード、君が寝たら寝るつもりだ」

「私は不眠症だ。寝る事に飽きているからな」

「それなら、僕は寝るつもりはない」

起きている私に、睡眠状態という無力の極致を晒さないという表明だった。
ならばいっそ、ずっと起きてさえいようかとも思ったが、下りた沈黙を上げる事もせずにいると、睡魔は馬に乗ってやってくる。

目蓋が幕を下ろす(きわ)でも、白髪は微動だにせずベッドの上の存在になっていた。


時計はない。時間を計る権利さえ、私にはない。
しかし感覚は朧気に物事の間隔を計っている。

惰性の眠りを払拭して、私が起き上がると同時に扉が開く。

「おや、ジャストタイミング」

口笛なぞ吹き、そう言って私の精神を逆立ててくる。
全く、嫌な日常だった。

一つ違和があるとすれば、この部屋に第三の存在がいる程度。

斜向かいには、昨夜と全く同じ体勢の白髪がいる。
眠っていない。その目蓋は鎖す事なく、意識と警戒をこちらに向けている。そしてなお声をかけようとはしない。

「仕上げが待っている、ナルキッソス」

「その名前はやめろ。仕上げとは何だ?」

「来れば分かるさ」

全容も知らせず、インフォームド・コンセントを踏み躙って黒髪が私を引きずる。

扉をくぐり、廊下を数分歩き、連れ出されたのは「Cクラス以下職員・立ち入り禁止」と書かれた物々しい部屋の前だった。
黒髪は誇らしげにBクラスの名札を見せ、それを電子錠にかざす。

感知の音の後、二度繰り返す認証成功の音。
名札から手を離し、黒髪は扉を開けて入室する。

私も続いて扉を過ぎ、そこにあったのは――。

「キミだ」

私だ。

目の前にいたのは、巨大魚でも飼うように水槽に沈められた肉。

脚は、昨月に切り離した記憶がある。移植の為だと聞いていた。
腕は、半月前に切除した記録がある。実験の為だと聞いていた。
胴は、一週間前に切った記載がある。観察の為だと聞いていた。

そして昨日、切断したばかりの頭がある。左頬に、私が刻んだ爪の痕があった。
バラバラの肉を繋ぎ合わせ、一つの人間の形に縫い合わせてある。

だが、不完全は二つある。一つはその腹が切り開かれ、あるべき中身がない事。もう一つは、私である事だ。

「驚いただろう?」

ああ。その悪趣味さに驚いた。

黒髪は人間の継ぎ接ぎに物怖じせず、その水槽の中に手を突っこむ。
開いたままの腹腔の内面を撫でつつ、言外にいけ図々しく催促した。

「内臓は足が早いんだ。新鮮な方がいい」

私は敵意を露わにし、反抗を臭わせる。

「私は聞いていない」

ただでさえ忌々しいこの体が二つになる。
まさしく、自分の身体を分けて作られた「分身」だ。

耐え難い吐き気を覚える。
恐らく、事が終われば、私は嘔吐する。

威嚇する私に、いつもの様子で黒髪が肩を竦めた。

「キミの同意書は僕が書いたからね」

(Scheiße)ッ。

率直な感想が(はらわた)からこみ上げてくる。
その衝動を携え、私の腕が上がった。

「うおっ! ととっ、危ないじゃぁないか」

身を伏せた黒髪の上を、殴ろうとした腕が空振る。

「警備員でも呼んで、こんな危険人物を放逐した方がいいだろう」

蹴りもまた黒髪に当たらず、その背後にある水槽に突き刺さる。
だが、強化ガラスで頑丈に作られた水槽にヒビも入らず、ただ爪先に痛みを返すだけに(とど)まった。

「こんなにいい実験動物を手放せって? ゴメンだねぇ!」

動物。言ってくれる。私を人間扱いしていないと!
怒りがこみ上げる。これまでも適切な扱いを受けた記憶はないが、そうと明言されれば、今まで動物として接してきたのだという侮蔑を受けたも同然だ。

「ギっ!」

手が、その喧しい喉を捕らえた。
握力を発揮する。私の腕こそ細いものの、かつての従軍時代から老いる事のない腕だ。

「ぃイッ……!」

掌に、薄い脈拍と窒息に喘ぐ震えが伝わる。
黒髪の足掻く手が、私の腕を掻く。

「無駄だ。後で、あの水槽の肉塊も無駄にする」

――結果論ではあるが、その足掻く手を振り払えば良かった。
黒髪の手には、握り隠していた小さな注射器があった。

「……ッ!」

乱暴に刺された注射針の痛みが、腕に走る。
神経でもやられたのか、それと共に痺れが響く。

力が入らず、黒髪の喉を取りこぼした。
激しい咳きこみの後に、黒髪が勝ち誇ったように説明する。

「……特別に作った、即効性の麻酔だ。致死量だけど、キミだからいいだろう?」

良い訳がない、そう反論しようにも、病的に即効だった。
口が回らない。漏れるのは言葉に成り損なった吐息だけだ。

そして体すら自律できず、意志に反して倒れ伏す。

「まあキミの体の事だ。すぐに麻酔という毒も消えるだろうけど――」

白衣を脱ぎ、簡易な第二手錠として私の手足を拘束する。

「こうすれば、もう動けない」

言いつつ、手錠にした白衣から数本のメスを抜き取った。
体の自由は効かないが、意識だけははっきりと鮮明だった。

黒髪はメスを持ち、慣れた手つきで服を裂き、皮膚を、筋肉を、開く。
現れた腹膜を、傷つけないように周囲の脂肪から切り離される様をじっと見るしかなく、私の脳が思考した。

私は何だ?
名前もない。故郷もない。約束された終末も、終焉もない。

そして、自分は確かに自分であるという事も、今無くなろうとしている。
私は、二つの存在になろうとしている。

横隔膜が反応する。嘔気だけが先行した。

ああ、自分という存在が一つだけだという驕りが、まだ私の中に存在しているのか。
唯一と言っていい自尊心に嗤い、ただただ黒髪の作業を見る。

驚嘆するほど鮮やかな手口だった。内臓はすぐさま水槽の中に移植され、あちらの「私」は見る見る内に腹が縫われていく。
機関の研究者ではなく、医者としてなら大成したのやもしれない。憶測の靄が思考にかかる。

「さて」

黒髪が、部屋の中から電極を引っ張り出す。
「私」の胸や背骨に取りつけて、すぐに退避した。

果たして、「私」は生まれるのか。

私は畏怖を、黒髪は期待を持って水槽に視線を注ぎ、その只中で目映く電光が走った。
黒髪が、すぐさま水槽に駆け寄る。

しかし眼前で、「私」が自ら動く事はなかった。

「ちぃっ、ちっ、ちぃっ!」

水槽を蹴り、失望を露わにする黒髪。
不死の身が麻酔という毒を取り除き、自由を取り戻した私は乾いた笑い声を上げてやる。

「あと21gほど足りないんじゃぁないか?」

「まあ、仕方ない。後で天才にでも聞いてみるさ」

ふん、と鼻息を鳴らしてから、野生動物でも払うかのように手を振った。

「材料は揃ってる。もうキミは帰っていい」

黒髪から離れられる権利を得て、すぐさま私は起き上がる。
血溜まりが跳ねる音がした。そこでようやく、私の認識が更新される。

腹を開かれた。当然、私の衣服は血に濡れそぼち、異常を発する姿になっている。

「服の替えは」

「ないよ。取ってくれば?」

質問を遮る回答に、血混じりの唾を吐き、私はよろめき立ち上がる。

扉を開く。
廊下を歩いていた人間は一様に目を見開き、そして私から目を背けた。

麻酔の抜けた体の疲労感は(おり)の様。久しく忘れていた睡眠欲から、自室のベッドで横たわる事を脳が要求する。
しかし腹の底で溜まる嫌悪の行き場を求め、私は少しだけ自室への進路を変える。

好奇と怯懦の視線を集める中、廊下の果てに何の色もない存在を目に捉えた。

あの白髪の男だった。
拘束衣はまだ解かれていない。白髪が目の前にしているのは、手洗い場の扉。

付き人もいない様子を見て、「ああ」と納得の声が漏れる。

あの男もまた、不当な扱いを――拘束されている時点で分かるものだが――受けているのか。
つまり、白髪を疎む何者かは、あれが「お願いします(Please)」と周囲に頼る事を、「己が無力である」と周囲の人間に晒す事を望んでいるのか。

少々情けをかけてやろうか、と好奇心が鎌首をもたげる。

白髪に近寄り、私という存在を男の認識に介入させる。
すると白髪は血染めの私を見て、僅か眉根を寄せただけで無言の感想を終えた。

気にかける価値すらない、という明確な意思表示に快楽すら湧く。
ますます干渉してやろうという天邪鬼を起こし、声をかけた。

「ジョン、私が開けてやろうか?」

白髪は数刻、その仮名に不可解そうな表情を浮かべていたが、

「ああ、君はリチャードか」

忘却の海からようやく引き揚げたように、偽物の名前を読み上げた。
私は黒髪のように底意地悪い態度を装い、白髪に提案する。

「『お願いします(Please)』と言ったなら、開けてやらんでもない」

白髪は気分を害した様子もなく、提案を鳥のように躱した。

「その必要はないよ」

コミュニケーションを絶やし、白髪は真性異言(Xenoglossia)を思わせる何事かを囁く。

囁きを終えた瞬間、かちり、と金属の音がする。
扉の開く音だった。

法術。
そのちょっとした応用を目の前にして、やはり驚きは何もない。

扉を閉めようと法術の囁きが聞こえた時、それを中断させるように私もまた扉をくぐる。
すると、感情を無に努めていた白髪は、少々意外そうな顔をした。

「君も使うのか?」

「悪いか」

皮肉気に笑いかけ、白髪はまた感情を無くすようにして、個室に入る。
白髪の目線を失ってすぐ、洗面台に駆け寄った。

「があっ」

「分身」と顔を合わせて以来、ずっと抱えていた嘔気の(たが)を外した。
内臓は取られた。作られたばかりの消化器の中身は伽藍堂(がらんどう)だ。吐くのは黄色い胃液。それが無くなれば緑の胆液。
舌がえぐい胃酸味とアルカリ性の苦味で侵される。咥内が少量溶かされ、軽い火傷のように疼く。

私は誰だ?
あの分身は誰になる?

分身の脳は、紛う事なく私のものだった。
私が記憶する全て、感受した総て、思考する凡て、経験した全てを、あの分身は持っている。

その分身が、今日に生き始めたらどうなる?
私はどうなる?

この世に、私が二人いる事になるというのか?
名前のない黒ずんだ透明の怪物が二つある事になるのか?

本当に私は私なのか? 新旧で考えれば、こちらは新しく再生された頭を持っている。
あちらの方が、昔から存在している。ならば、本に「私」と言えるのは、分身の方なのではないか?

自己が曖昧模糊になる。更に吐き気がする。口を開けば、空気と唾液しか出なかった。

鼓膜は自分の心臓の音だけを聞いていた。
自分というものに意識が行っていたようで、振り返れば個室の鍵は全て青くなっていた。

口を漱ぐ。全てを洗い流す。思考すら。
顔を上げ、鏡に映った醜い者と対面する。

「お前は誰だ?」

返るのは、狭い室内で起こる反響音。

矢鱈に足音を響かせて、手洗い場から廊下に出る。
あれから時間はそれなりに経っているが、離れた所に白髪がいた。
別に私の事を待っていた訳ではない。あの男に、黒髪が絡んでいるようだった。

丁度、自室に戻る進路の途中に存在していた。
私がその傍を通過する際、二人の会話を盗み聞く。

「もし完璧な人間の肉体があるのに、それが動かなかったら、キミは何が足りないと思う?」

苛立ち混じりの黒髪の質問に、白髪が切り捨てる。

「21g足りないのだろう」



自室に戻ると、追うように白髪が帰ってきた。
実態は私を追ってきた訳じゃぁなく、あの黒髪を撒いた後なのだろう。

帰ってきた白髪は、今まで通り無言で扉近くのベッドに腰かける。
私が手洗い場で吐いた事については、薄い個室の壁を隔てた白髪も分かっている。
しかしそれについての言及はしなかった。する必要がないからだろう。

沈黙。無音。静寂。

扉を叩く音で、それが終結する。

食事が来た。ワゴンには盆が二つ置かれている。食べ終わったら廊下に出す形式だ。
白髪の分も取ろうとしたが、法術で取られる。
他人に借りを作らないという、強い意志。

テーブルもなく、ベッドの上で食事をとる。特筆する味もなく事を済ませる。
白髪も、法術で巧みにスプーンを操っていた。

「手を拘束する必要がないな」

機関の人間へ嘲笑すると、白髪はじろりと自分へ睨むだけだった。
常に張り詰めた白髪。敵陣にいるかのように、いや、敵陣にいるものとして振る舞っている。

だが、しばらく黙っていると、白髪がつぶやいた。

「リチャード、君のクローンを見た」

「クローン? クローンは、採取したDNAを元として生命を作り出す技術だろう。あれは違う」

「どういう訳だ?」

「あれは私の体を分けて作られたものだ。
 頭を切り、腕を切り、脚を切り、胴を切り、それらを継ぎ接ぎして作ったものだ」

「頭を切られて生きている人間はいない」

私の事実を、冗談だと思ったようだ。
興味を失い、仰向けに寝転ぶ。

昨日よりもずっと隙のある姿だった。

「そんな体勢を晒していいのか? 私が襲ったらどうするつもりだ」

白髪は時折見せる、遠くの何者かを見る目をした。
そして答える。

「僕は二人殺した事になる」


「ハロー、ネームレス。仕事の時間だ」

私はどうにも、この黒髪に厭に縁があるようだ。
いや、もしかすれば、この男が私の担当者というものなのかもしれない。
だとすればぞっとしないものだ。あまり考えたくないものだが。

「何の仕事だ」

「いつも通りだよ」

「今度は何が足りない? 髄液か、血液か、肝臓か、心臓か?」

捲し立てる私に、黒髪は口角だけを上げる。

「刺激、かな?」

笑う感情など昔に置いてきたものだが、この男の冗談というのは殊更笑えないものだった。
私は何も発さず服を替え、使い捨ての布靴を履き、自然浮かぶ疑問を呈する。

「『あの男』はどこだ?」

扉近くのあのベッドは既に(もぬけ)の殻であり、そこにいたはずの白髪はいない。

「先に行っちゃったねぇ」

気楽に嘯き、黒髪は扉を開けて私を待ち構える。
私は嫌々といった足取りでそちらに向かい、黒髪に連れられ実験室へと入った。

中には、確かにあの白髪がいた。その他に研究員はいるものの、今日はどうやら護衛はいない。
拘束衣はつけたままだ。その上に羽織る白衣だけが昨日との相違点であり、それ以外の要素――周囲への油断なき敵意についても――昨日の延長線に過ぎない。

「さて、これで揃った」

実験室は、二つの高度に分けられていた。

一つは私たちのいる足場。廊下とは地繋ぎであり、白く整えられた床は文明を覚える。
一方は、それよりもずっと低い所に誂えられていた。床は打ちっぱなしのコンクリートであり、点々と赤黒い飛沫の痕が見えた。

それを見下ろす形で立ち、「コロッセウム」といった単語が頭をよぎる。
眼下にいたのは、動物のあらゆる特徴を糊付けした、モザイク細工だった。

獅子の頭、馬の脚、鳥の翼、魚の尾。
合理的な設計というより、どれだけの要素を継ぎ接ぎできるかの確認といった様相だ。

「神話で言うところの、キマイラさ」

この不自然の塊で一番の不自然と言えば、翼に該当する器官が鎖で縛られている事か。
とはいえ、翼の機能に思索を巡らせばすぐに分かる事だ。飛んでこちらに来る事がないように縛られているのだろう。

「餌は生きた人間とでも言うつもりか?」

仕事の展望が見えてきたと思ったが、黒髪はやれやれと首を否定に振る。

「アレはもう充分満腹さ。腹が膨れていても、ちゃんと『機能』するかどうか確かめないとね」

ここでようやく、白髪が口を開けた。

「開始してくれ」

周囲の研究員が頷き、その内の一人が、手にあるリモートコントローラーのボタンを押す。
がしゃん、と広い空間に機械音が響き、天井からキマイラの付近に向かって物体が降りてきた。

服を着せられ、肌色に塗られた、木製の人型だ。

獅子の脳では動かした事がないであろうに、キマイラは蹄で高く音を立て、馬の脚が速やかに標的へと直進する。
咆哮し、開いた口をそのままに、人型へ牙を立てる。

胴の太さの木は幹に等しい。しかしその硬度をものともせず、キマイラは人型をウッドチップに替えた。

標的が破壊された事を検知し、また別の場所から人型が吊り下げられる。
キマイラはまたそちらへ蹄高く走り行き、床には木の死体がバラバラに散らばっていく。

「――いや、しかし。このような木型では、本物の人間を目の当たりにしても、そこいらの街路樹にじゃれついてしまうかもしれないなぁ」

観察して浮かんだ怪訝ではなく、予め準備されたように流れる黒髪の文章。

「実例が欲しいと? 死刑囚でも取り寄せようか?」

白髪の苛立った応答に、黒髪が肩を竦める。

「必要ないよ。死刑囚は消耗品じゃぁないだろう?」

嗚呼、と隠した合点を打つ。
自分が立っている理由を推し測り、私は倦怠感に目を伏せた。

「ここにあるさ、耐久品が」

脱力した体は、肩を押すだけで柵を超える。
悲鳴は誰一人として上げず、投げやりな笑い声だけが私から奏でられる。

着地は頭から。水風船の破裂音が、潰れた耳から伝わった。
辺りに広がる血の臭いに、キマイラが鼻をひくつかせる。

木型を相手にするよりも俊敏に、距離を詰める時間は瞬時に。
キマイラは口を開き、血まみれの肉に喰らいついた。

「――!」

絶叫(絶嬌)も全て、怪物の咥内で潰える。
自分の肉と骨の境界が混濁していく音の中で、有機質な声を拾い上げた。

「さあ、どうだい?」

演劇の出来を尋ねる声色。
黒髪と共に冷笑を上げる研究員の声が聞こえる。

しかし、それは後悔に変わる。
下らない芝居を斬り捨てる、零度の声が空間を漬す。

「僕はだね、
 かつて友だった人間だろうと、利用価値が無くなれば、興味が無くなるに(とど)まらず、憎悪が湧くような人間なんだ。
 もう試すのは止めにしないかい? あのサージとかいう男に唆されているのかもしれないが、僕の顔を見てくれないか?」

見えない。
しかし、カルテが床に落ちて残響するのは理解した。
そして、無色の研究員の小さな悲鳴は把握した。

瞬間、爆発音と共に落下感を覚える。
再生して掻く手が、地面の硬質さを認識した。

床に落ちたのは、恐らくはキマイラの頭ごと。
身を起こして、目蓋が裂けた剥き出しの眼球で光景を捉える。

首は歪んだ輪郭の切り取り跡を晒す。
キマイラは、その胴体から黒煙を上げていた。

上にある展望台から、縄梯子が下りてくる。
私が痩身を引き揚げた先で、黒髪がちらりとこちらを見て、

「GEAR細胞に、あれの不死性を取り込んでみては?」

話題に取り上げられ、白髪もまた私を刹那()んだ。

「兵器は、使わなくなってからの処理も考えてこそ兵器だろう? また地雷でも埋めたいかい?」

私としても信じられない事だが、私は一応人間である。
しかし、その白髪の冷酷な打算は、その人間を目の前にしても動かなかった。

それは取りも直さず、白髪の人間性の証明である。

「――ハハハハハッ! 流石は天才」

黒髪は音のない拍手をして、白髪を舌だけで讃えた。

「キミとは仲良くなれそうだ。これはご明察の通り、疑い深いサージの提案だ。
 キミが本当に、ご友人を裏切るような人間かを測った訳だが――そんなセリフが吐けるなら、そう、信頼に値する」

裏切った人間を信頼する宣言。
黒髪が指を鳴らし、他の研究員に命じる。

「名札を外せ。拘束衣も解け。
 明日、名札はBクラスの正式なものになる。部屋も個室に割り当てられるだろう。
 今日のところは、そこのあれと過ごすが、まあ辛抱してくれ」

私がようやく同じ床の上に立つと、すぐに黒髪が歩き出す。

「今日はもうこれで終いだ。ゆっくりと、飽きるくらい休むといい」


白い扉が閉まる。

白い部屋の中でベッドは四つ。人影は二つ。
昨日と違うのは、白髪に拘束衣と名札がない事か。

各々ベッドに辿り着く。
白髪はこの空間において、初めて自ら口を開いた。

「驚いた」

あの時には驚愕の色を見せなかったというのに、そこでようやく白髪が敵意でない感情を表した。
仮面でも捨てたようだった。青さ相応の若さで、若干の興奮と綯い交ぜになっている。

「リチャード、君もGEARなのか?」

「も」とは何か。キマイラに掛かっているかと思ったが、その発言の抑揚は、それがまた別の人間に掛かっているように思えた。

「違う。だがあの通りだ。私は死なない」

機関の中での常識を、白髪に伝達する。
白髪はしばらく考えこむと、私の目を数メートル先から覗きこむ。

「だろうね。GEARであっても、あの再生力は現時点の技術では――たった一人しか、いない」

言葉を切り、白髪が思考を別の場所へ飛ばしていた。
既に傍にいないものに思いを馳せてから、白髪が再度私に意識を向ける。



「死なないとは、どれくらいの事を意味しているんだ?」

「文字通り。首を刎ねられようと、心臓が抜かれようと、年を経ようと――私はずっと私のままだ」

「……そう、か。いやすまない、昨日の君の言葉は本当だったのか」

軽く謝罪を一つ。顎を擦り、白髪が思案する。
沈黙は数分。その間に、白髪の変貌をしみじみと見る。

最初こそ、誰が触れようとも拒む雰囲気。
それは崩れ、誰であろうとも受容するような存在に置き換わった。

推し量るに、本来の白髪の人格が浮き彫りになる。
白髪は張り巡らせた思考を打ち切り、顔を上げた。

「僕は飛鳥。飛鳥=R=クロイツ。
 教えて欲しい、君はどんな名前だい?」

その質問の度、私は馴染みの劣等感と顔を合わせる。

人間の基本要素である。自分というものを表す名。それを失った存在である事を、自覚させられる。
私はもう覚えていない。私がいつ生まれたのか、私がどのような人間だったのか――私の名はどのように綴るのか。

「……覚えていない」

そう告げて、私は白髪――飛鳥の様子を窺う。
名前を持っていて当然、と人間たちは名の無い私を揶揄してきた。

――冗談だろう?
 ――冗談の訳がない。
――自分の名前を忘れるのか?
 ――ああそうだ。それほど私は私を見ないようにしてきた。

私が頬を噛んでいると、飛鳥はその告白を、

「そうか」

名前がない事を、受け入れた。
いや、受け入れるだけではなく、

「なら、君が名を探せばどうだろうか」

そんな事すら提案してきた。

「探す? 名付ける、ではなくか?」

「そうだね……君は、ヘンペルのカラスを知ってるかい?」

「……論理学を皮肉る為の戯言だ。
 鴉以外のものが黒くないと確かめる事で、鴉自体を見ずに鴉が黒いと結論づける」

「そう。でも、自分という要素を探すのに、自分以外のものにその答えを見る事もある。そういった風にもとれないかい? 鏡を見る事でしか、自分の目の色は分からないだろう?」

そこで、私の胸には失望が広がった。
要は、自分探しの旅に出ろと。そういう事か。

「――私が、どれだけ生き、どこまで行き、そしてここまで逝く事が叶わなかった事を分かっているのか?」

そうだ。

「私はあらゆるものを見てきた。飽きるほどの物を、飽きるほどの時をかけて見てきた」

だというのに、

「それでなお、この古めかしい世界に、私がまた何かを見出す事があるか?」

ベッドから立ち、飛鳥に近寄る。
結局は、こいつも同じなのか。

最初の目覚ましい殺意も、殺された私にかける怜悧な眼差しも、
仮面を捨てた感情も、私への慈悲からもたらした提案も。

結局は凡人の域にしかない。ちっとも、私の絶望を理解し得ない。

しかし、飛鳥は私を見上げると、貧者を前にした聖人のように微笑んだ。

「……まだ、君が見ていないものがある」

「何がだ」

歯を剥き、飛鳥に向けて敵意を晒す。

「本当ならば、君の同意を得てからお願いしようとしたけど、
 多分、こうした方がずっといい」

飛鳥は、すっ、と指先をメスにして空間を切り裂く。

本来ならば、単に「腕を上から下へと振り下ろした」と描写するものだろう。
「切り裂く」と形容したのは、それが相応の動作だったからだ。

「なっ――」

咄嗟の声も、吸いこまれる。

今、私の目の前には――見た事もないものが覗いていた。

空間の空漠が左右に裂かれて見えるのは、傷跡のように真っ赤な景色。
周囲の大気は、存在ごとそちらへ吸いこまれている。

「あちら側は、『バックヤード』。僕も行った事のない、未知の世界」

目を奪われ、言葉を失う私の背を、猫でも撫でるような力で押してやる。

「どういった所か、不死身の君が見てきて欲しい」

未知に惑い、不安定な足を動かすには、それで充分だった。


赤い、紅い、朱い、緋い、丹い。
容赦なく、秩序なく、隙間なく、その空間は紛れもなく赤過ぎた。
交配の果ての薔薇より赤く、血の流れより赤く、死ぬ間際の太陽より赤く、凝り固まったゼラチンより赤く、数日溜めた劣情より赤く、殺意より赤く、赤子より、頬より、ブザーより、液体より、何より、痛い。

痛い。痛い、痛い。
頭が軋む。頭を万力で潰す、外部からの圧力の軋みでは――ない。

ない。
わからない。
私はこれを理解していない。
私はそれを体感していない。

未知の痛み。知らない痛み。阿呆の痛み。
脳が情報を貪飲し、鴨の肝臓の真似事に肥大し、内側から外側へ押しのけて破裂せんとする軋み。
脳に痛覚はない。痛覚神経が差す間隙もない中枢神経の塊だ。だというのに、脳が痛い。信じられないほど侵食外来種の痛み。

腕の手の指の爪の半月に至るまで、感じた事のない痛みで独占される。
周囲の存在感が自分という空白を圧し潰す為に殺到する。訳の分からない単語が腕を通り過ぎる。

「――君は今、世界を構成する、情報の海の中にいるんだ」

異国の言葉を心臓で濾過した。それだけで、発音も概念も理解して、すぐに他の単語が乗っ取り、忘れる。
珪素生物の言語が骨を伝う。彼らは宇宙空間でも話す為に頭を突き合わせて振動させて話す。一瞬で別の星の花が咲くメカニズムと切り替わり、そんな話術は奔流の向こうへ渡る。

「それだけ情報があるなら、君の名前も見つかるかもしれない」

複眼の蟲の視界が見えた。花粉を運ぶ様が視界にびっしりと埋め尽くされる。
微生物の触覚に触れた。鞭毛が外敵を撫で、痛みもなく食われる。

無秩序。整理もしていない図書館。無限に打鍵する猿のテクスト。
砂漠に落ちた塵を探す造作が何回もできても、この空間から望む情報を拾い上げるのは難解に過ぎる。

「いや、君は名前を見つけなければならない。そうでなければ、この空間から抜け出す事は叶わない」

その声と被るように、未知の未来の言葉が通り過ぎる。

『――目を見張れ! 歯を食い縛れ! 自分の名前を思い出せ!』

思い出せ? 無いものを思い出せはしない。
粗野そうな男の言葉を唾棄し、自分の意思を確認する。

ここで何を見る?
鴉であるとはどういう事か?

ここで万物を把握して、鴉が黒いという事を証明しなければならない。

私の目から抜け出そうとしていた、私がここに持ちこんだ記憶を手で縋り掴む。
全てを知るには、自分が何を知らないかを知らなければならない。

全身で知識を検索する。不要な情報は身体から追い出し、必要な情報を精査し絞り落とす。
他の星など知るものか。私は人間だ。蟲の見方を知った所でどうなるものか。

舌を噛み千切り、知古である断裂痛に正気を取り戻す。

私は誰だ?

情報が集中する。情報に集中する。

私の名は何だ?

――ヘンペルのカラス。

私は各地を渡った。素晴らしい羽根を誇った。賢者と呼ばれた。しかし黒く染められた。
鴉。鴉でいい。それでいい。

その中から、私は無理矢理に自分の名前を掴み取る。
そこで、痛みすら無くなった。


意識も無くしていた。
気がつけば、私は血のように液状化した情報に濡れた状態で、扉近くのベッドの上に横たわっていた。

首に、他人の体温がする。脈を計っていたようだ。

「おかえり。丁度戻ってきたのが、僕のベッドの上だったんだ」

ずっと観察していたのか、間近に迫っていた飛鳥の顔がささめく。
私の首に当てていた手を引きこめ、安堵したように息を吐いた。

「その様子だと、僕の予想通りだったみたいだね」

平然と、人を致死的な空間に送りこんだ男が言う。

「『バックヤード』。世界全ての情報を格納した、誰も見切れない司書なき図書館。
 その中でも、情報密度の高い深部――人間が放りこまれれば、一体どうなるのか。
 仮説ならいくらでも挙げられるけど、実例が必要だったんだ」

私は未知を知った。
それは私に言いようのない、掛け替えのない――感情の激動を呼び起こした。

あれは何だ? あれが私が知らなかったのは何故だ?
そんな事は分かってる! あれが、この男の知っているものなのか? これは一体、どういう存在なのか?

興味は続々と這って出てくる。墓地から伸びる死者の手のように、私の心臓を捉えて離さない。
掻き乱される内面をよそに、飛鳥が声をかける。

「それで、どうだったかな、リチャード」

「リチャード?」

そう問うてから、嗚呼、と自分で笑う。
そうだ、そういえば、彼は私の名前を知らない。

「私の名前は、リチャードじゃぁない」

そう。
私は今日から、私の名前を手にして生き始める。

不敵に笑う私を見て、飛鳥が笑む。

「名前を見つけられたのか。ああ、でも――」

友人に冗談めかす為の笑みを向け、そこで初めて飛鳥の素顔が表れた。

九郎(Crow)はやめて欲しいな。僕はあの黒髪の博士が、とても嫌なんだ」

禁忌の果樹園

庭のレイヴンの話
過去捏造描写あり
痛めの描写あり
その男は、くすんだ銀の男だった。

白髪はぼやけて、あちこちに落ち葉や土を絡めている。
青白い肌に血色は見れず、摂取する栄養に難がある事を示していた。
身に纏うのは衣服とは呼べない。寝そべって潰れた植物の汁や、湿った黒土や、洗わずに生えた黴で斑になった汚い布だった。

人目を構う事のないその出で立ちは、一目で世捨て人と知れる記号である。

身なりを整えれば、二十の半ばと判断できよう。
しかし今のこの男は、ともすればそれ以上に年寄りと思える汚れようだった。

とはいえ、彼の本来の年齢よりは、どうあっても若く見られるだろうが。

彼は、遁世を選んだ人間である。

彼の生涯に、失意と失望と絶望と絶念を思い知らせた、人間たちとの関わりを絶つ為だ。
山と平地の分かれ目で、死者と生者の境目となって放浪し続けていた。

こうして山麓で日々を耐えていると、人間の肉というものはどうにも不便に出来ている。

日に一度は水浴みをしなければ、苦痛にも至らない掻痒感に苛立ちを覚える。
食事を何日か抜いた程度で手が震え、満足に首吊り縄も結べない。

そして精神というものは、どうしたものか。自分は他の人間を捨てたというのに、自分が人間である事を捨てるという事を強く拒むようだった。
仕方なしに雑草や猪の生肉を口にしたり、誰一人として接する事なく夜を超えるたび、心臓を百足が伝うような不快さが、尊厳への傷として表れる。

どうせ自分は人間ではないのだ、と嘯きながら、自分は人間だという傲慢を捨てきれない。

そんな己にすら嫌悪しながら、彼は食事を求めていた。
雑草や生肉は、彼の尊厳が拒むようで、幾ら口にしても嘔吐してしまう始末だった。
故に求めるのは、食物ではなく、食事である。

時期は、冬にほど近い秋だった。
以前までは山の木々にぶら下がっていた果実は、その多くが地面に落ちて腐っている。
中には実どころか葉の多くを落とす裸の木も見受けられ、冬に備えている様を見せた。

笑うような風が吹き、ちりちりに乾かされた肺から、空っぽの咳が吐き戻される。
力のない足取りで山の境目を辿っていると、狩れ茶色でも苔の緑色でもない、赤紫色がぽつりと茶緑の視界を突いた。

その色は、枯草の平原で、木から吊られた丸い色だった。
物色すべく、男は足の向きをそちらに向ける。

距離を縮めるごとに、その実情が鮮明になる。

確かに、確かに、それは木に生った果実だった。
それは木から垂れた雫のような、イチジクだった。

その存在を確認し、十数フィートの距離で足が止まる。

これは、何者かの所有物ではないのか?

周囲を見回す。イチジクの木は、あちこちに数本ある。
しかし人の手によって植えられるには、生産性を高めるべくより多く植えるはずだ。間隔が開きすぎている。

ならばこれは、自然に木が生え、実が生ったものではなかろうか。

彼は近寄り、イチジクの実に手を伸ばす。
そしてイチジクの起毛が指を撫ぜた時、

「きゃあ!」

と声が上がる。
イチジクから声が上がったのかと錯覚するような瞬間だったが、そうではない事は当然として理解している。

その声の主を辿ると、枯草の背からひょっこりと立ち上がった。

かくれんぼでもしていたかのように、少女は枯草に埋もれて見えなかったようだ。
それが今、彼女は立ち上がり、己を丸い目で見つめている。

「ぁ――」

水も飲まず、掠れた声が口から出る。
己の判断が間違っていた。これはきっと、少女のものであったのだろう。

抗弁の言葉を探す。

「父さま! 男のひとがいます!」

男の言葉を制するように、少女が背に向けて大声を上げる。
「不審な男がいる」というような非難ではなく、「助力が欲しい」というような要請の声だ。

逃げるか、と判断するより前に、少女が彼に駆け寄る。
そして、男が触れたイチジクの実をもぎ、引いていく彼の手を取って実を渡した。

「月のように顔色がわるいです。何日もたべていないのですか?」

その口ぶりの丁寧さといい、わずかに漂う香水といい、麻糸の上質な衣服といい、名家の娘に相違ない。
そっと渡されたイチジクの実を見つめ、男はしばし逡巡の後、その娘の期待通りに口を開けた。

今逃げようとも、失調で震える脚で娘の健脚には敵わないだろう。

イチジクの皮を剥き、口に含み、その芳香と味に、沈黙した。
やはり、と、数年前に味わった失望が再度広がる。

何も感じない。

あるのは、ただ人間としてあるべき食事を成したまでだ。
だが、それでいい。それで目的は果たした。

実一つを平らげた頃に、娘の父親がようやく彼の傍まで駆け寄った。

父親は男の容貌を上から下まで眺めた後、「ふむ」と顎鬚をさする。
父親も、名家らしく整った出で立ちだった。髪油で黒髪を撫でつけ、首にタイを巻いている。

ぼろ切れの己の隣に立たれるだけで、自分が酷く惨めになるようだ。
不躾に目を窄めるが、それに意を関さぬように父親が話しかける。

「あなたのその恰好は……随分とみすぼらしい。きっと、生活に難儀してここまで辿り着いたのでしょう」

訳知りように言ってくれる、と心の中でだけ毒づく。

「あなたに服を着せましょう。あなたに食事を用意しましょう。
 それに対価を要求する事はありません。どうか、我々の家に招かれては貰えませんでしょうか」

随分な甘言だ。
そうやって言葉巧みに近づいて、搾取されていく。
それは彼の数百年の歳月に渡って続けられた事だった。

警戒する彼の様子を見て、父親は手を振った。

「……あなたがそうなるのも無理はない。そう解してしまうのも、仕方はないでしょう。
 ただ、考えていて欲しい。私は、あなたの手を取りたい」

そう言って、父親が握手の為に手を少し上げる。
男は頑として握ろうとはしない。

冷めた眼を父親に向け、虚ろな壁を作る。

「それは蔑みだ」

拒絶を以て、意志を表す。

「無償の施しというのは、己には富があり、相手は対価すら持ち合わせていないという驕りだ」

皮肉を過ぎた中傷に、少女の顔が曇った。
父親はそれを受けてもなお、柔和な笑顔を向けている。

「ならばあなたからは、時間をいただきましょう」

そう言って、父親は彼方に指を伸ばした。

「あちらに、私が所有している庵があります。
 そこで住まうその対価に、私や家族にあなたの時間をいただきます」

時間など、感性が腐るほど余っている。

「だが、時間をどう渡すつもりだ」

「いえ、単にあなたと話すだけですよ」

それで対価となるものか。
しかし、底意地の悪い蛇が、胸中で蜷局(とぐろ)を巻く。

「話すだけだな」

謀りを隠さぬ笑みを浮かべ、男は父親の握手に応えた。


目蓋越しに朝日を確認し、男は上半身を起こした。
低いテーブルに毛布と薄布を載せたような、簡素なベッドの上。

窓は、木造の壁に四角い空白があるだけで、風を防ぐガラスも閉じ板もない。

こぼれ落ちる朝日に、手をかざす。
露出した肌に、垢の一片も見当たらない。

昨日、庵に送られた男に与えられたのは、食事だけではなかった。

桶一杯に湛えられた、石鹸を溶いた湯。それにタオルと、身を覆う一枚布とそれを結ぶ麻紐である。
庵の外で石鹸湯を浴むたび、地面に黒茶の染みができたものだった。

こうして朝日に照らしてみれば、よくもまあ綺麗になったものである。

生来の白い肌が光を照り返し、白髪も硝子糸のように澄みきっていた。
あるべき純白を取り戻し、しかし男に感謝は生まれない。

信用とは、間隙である。

あの父親には警戒を払わねばならない。
人の好い笑顔に隠されているのは、恐らくは打算なのだろう。
でなければ、親切を振り撒く事はない。

故に、昨晩から今に至るまで、目蓋を閉じるのみで一睡すらもしていない。
寝入る合間に己を襲い、人売りに渡す事も、あるいは肉売りに渡す事もあり得るやもしれない。

こうして存在する以上、そういった事は起こらなかった。
だが次の夜は。一週を経た夜は。一月、一年。安堵という餌を与えられ迎えた夜こそ、起こり得る。

緊張を以て夜を越える事に快はない。しばらくしたら抜け出すとしよう。
それまでは――この私にどう反応するのか、期待してやろう。

男が襲撃に備えて自らの体の具合を確かめていた時分に、あの一家に仕えているらしい女の使用人がやってきた。
こぶし大の黒パンと、ぬるいシチューと、あの庭のイチジクが一個。
その食事を置いて、無言のまま使用人は去った。

人間らしい住処に、人間らしい食事。
尊厳は回復している。精神状態にささくれはない。
あるとすれば、あの善人ぶった父親にどう見返してやろうという屈折だ。

食事を終えると、食器類を外に置く。使用人が後に回収する決まりだという。
それからしばらくは庵の窓の外を見て、あの父親のものだという庭を検分してやった。

父親や娘、使用人の服といい、そしてこの庭といい、どれもこれも「質素」という感想だった。

富のある者の庭とするならば、華美な石造や柵もなく、また希少であったり鑑賞に堪えるような草花もない。
しかしそれは貧した者を表さない。よく見れば、芝は同じ高さに刈り取られているし、植わっている木は剪定され、見苦しさが全くない。

つまるところ、それが父親の趣味なのであろう。

白の太陽が、天蓋の頂点に至ろうとする頃合いに、鍵のない扉にノックが走った。

男は窓からそちらに意識を切り替え、椅子に座って許可を一声する。

「いい」

木の軋む声を伴い、あの父親がやってきた。

「時間を、いただきに来ました」

昨日と同じ柔和な表情を浮かべながら、父親は彼と相対するように椅子に腰かける。

「どうですか。不便は、ありませんか」

「ない」

「なら、良かった」

冷たい男と対照的に、朗らかに笑む。

「では、あなたのお話をお聞かせくださいませ」

「ならば、あるジョークを」

一息。

「旅をしている愚者が、とある村の賢者に会った。
 愚者が悩む。『私はどうしようもない存在だ。生き続けて希望というものを失い、何者にも治せない病に罹っている』
 賢者が答える。『それは丁度良かった。間もなくこの村に訪れるという大賢者を尋ねると良い。彼ならば、あなたの病も癒やせるでしょう』
 それに愚者が返した。『私がその大賢者です』と」

道化のジョーク。
男はくつくつと嗤い、父親の笑い声を待った。

笑ってやれば、「愚者は私だ。お前は私を笑ったのだ」と詰めようと思っていた。

「それが、あなたなのですね」

しかし。
種を明かすより前に、父親はそれを見抜いてみせた。
相も変わらぬ柔和な笑みに、静かに哀しみが差す。

「その病は、今もなお癒えないのですか」

「……癒えると思うか?」

これで「生きていれば希望はある」とでも言えば、「生きているからこそ希望がないのだ」と詰る事はできた。
父親は薄氷を歩く術を知るかのように、答える。

「いえ。あなたがあらゆる人を訪ねてなお癒えないが故に、世を捨てたのでしょう」

手を伸ばし、父親は彼の手を取った。
厚い皮の下から、脈動が通じる。

男の良心が、ここにきてぐらついた。

本に、この父親に裏などないのでは?
こうも理解を示す珍しい人間だ。拒絶するのは愚かしいのではないか?

だが、男は警戒を保ったまま、黙って父親を監視していた。

「――父さま! これはなんですか!」

そこに、娘が闖入した。
娘は茶色い瘤をつけた木の枝を掲げて、初めて見た物体に目を爛々とさせていた。

父親は興奮する娘をなだめ、椅子から立ち上がった。

「いやはや、申し訳ないですが、話の腰を追ってしまいましたな。
 さて、それは。家に昆虫記がありますから、帰って調べましょう」

娘の背を押して退室しようとするその時、男は独り言のように囁きかける。

「カマキリの卵鞘だな。この時期なら珍しくないだろう」

「らんしょう?」

「卵が幾つも寄り集まった塊だ。冬を超えれば孵化して、複数の幼虫が出てくる」

「へぇえー」

娘は感心し、何度もうなずく。

冷淡であった男がわずかに見せた顔に、父親はまばたき、それから円い表情を見せた。


「今年は、たくさんイチジクがとれました!」

娘が、庵にいる自分にそう報告してくる。

自分であれば、年に一回の出来事に、こうも一喜しない。
こうして感情を動かすのは、娘の生涯にとって珍しい一大事だからであろう。

娘の眩しい表情が視線を伝い、男の頬に小さく移る。

「それは良かったな。来年もとれるだろう」

「今年より、ずっと?」

「どうかなぁ」

そう言いながら、男は書物をめくっていた。
今日は父親の古い友人が来るのだという。
客人に話を合わすべく、こうして情報を収集するのも彼の仕事だった。

「じゃあ、ここにおくから、食べてください!」

「ああ――」

娘はテーブルに丸々としたイチジクを二個と、それを木から切り離す為に使ったのであろうハサミを転がし、庵から離れていく。

「――待て、鋏を忘れているぞ」

あわてんぼうの背を視線で追うも、既にその背は扉の向こうへと去っていた。

やれやれ、と首を振る。
男の胸には、「生の充足」らしきものが満ちていた。

あの娘に会った時には、今よりも背が低かったはずだ。
何時、何年、何世紀経とうとも変わらぬ己とは違い、時の尺度が娘に投影されていた。

いつか、娘は立派な淑女になるだろう。名家であるこの家族であるからして、家名を継ぐべく婿を迎える事であろう。そして、いつか新たな子がやってくる。血筋は紡がれ、後世に続いていく要石となっていく。

そして、己はその血筋に寄り添う存在となる。
そう考えれば、悪い事ではない。頬が綻び、ともすれば、この家族、その血脈こそが、「生きた証」足り得るのかもしれない。

窓から、黄金の太陽の糸が差しこんだ。

充実と共に書物の文章の中へと心を注いでいると、扉からノックが響いてくる。
男は書物をテーブルに置き、扉の方へ向き直った。

「いいぞ」

許可が聞こえたか聞こえないか。
間髪も入れず、どやどやと入ってくるのは小太りの人影だった。

「これは、随分と古めかしく造りましたなぁ」

広げた手にはごてごてとした指輪。指の合間には葉巻を挟み、きつい香水を振りまいている。

小太りの仕草に眉を顰める男だったが、その後ろから父親がやってきて、状況を察する。

「ああ、この人がお客さんですよ」

服装、動作、声質、言葉遣い。どれをとっても気に障るような客人であった。

男はその客人に幾何か気分を害しながらも、その気分を面には出さない。
そんな彼の内情も知らずに、客人はずけずけと彼に近寄る。

「珍しいですねぇ。こうも若い人間とは」

客人の視線は、人格を持つ存在を見るような目ではない。
骨董の硝子細工を検分する、肉を透かす目であった。

「隠者であれば、もっと年の寄った男なら『それらしい』でしょうに、ねぇ」

値札に対して安いというような客人の物言いに、男は心底から不快を沸き立たせた。
男は客人に手を上げようかとも思ったが、父親の面子を思って自らを諌めた。

きっと、父親の方が客人を諌めるだろう。

「いやあ、これはこれで味がある物ですよ」

それは、父親の声だった。

諌めるのではなく、客人に物の見方を教えるように。

彼を物のように、そう(わら)った。

男の声帯が乾き、透明な残響を返す。

「……物、だと?」

その唖然とした声に、父親が答える。

「んん、そうだね……あなたは言うなれば、私の庭に住まう隠者、という事を装った、まあ――『インテリア』みたいな、といえば、そうですがね」

物。
自分は、物。
所有物。装飾品。

この父親は、自分と幾度も会話を繰り返した。
自分は当然、父親を人間だと思って接していた。

だが、もう一方は、自分を物だと、それを当然として思って接していたのだ。

体が、震え始める。
最初は単なる朧気な衝動から。それは一秒一秒経るごとに、怒りと、悲しみと、虚しさと、絶望。染まっていく情動と共に震えあがっていく。

がたん、と後方で音がした。
椅子から立ち上がった男は、客人と父親と対峙する。

「何だね?」

訝しむ二人を前に、男はイチジクの転がるテーブルの上から、ハサミを取った。

「……私は、人間だ」

男の宣言に、客人が苦笑で応対する。

「それが、何だというんだね? まさか、キミが鳥や蝶に見えるとでも?」

客人の差した水も意に関さず、男はハサミの柄を、両手で持った。

自分の心臓は、どす黒く沈んでいた。
感情は末端まで泥に染まっている。

そうだ。取り除かなければならない。
このような不快な感情を、違うもので塗り潰さなければならない。
自分は正気だ。正気でなければならない。でなければ人間でなくなる。正気を保たねば、ならない。

頬が曲がる。缶詰の切り口として、ぎこぎこと口端が吊り上がっていく。

正気?
真に正気であるならば、食事も睡眠も絵画も音楽も賭博も娯楽も物語も何をも飽いてなお正気である方が狂気ではないか。
そう。狂わなければならない。自分は狂わなければ、ここまで自分を保てなかったのだ。狂わなければならなかったのだ。狂わずにはいられず、狂って、狂い果ててこうして死に損なってきたのだ。

ここで、正常な人間の生活をなぞったとて、結局は狂っていたのだ。

男は、両腕で力一杯に刃先を開いたハサミを、自らの首に食いつかせた。

「あ――」

呆気にとられたような声が、父親と客人の両方から洩れた。

様を見ろ。
心理の底で渦巻いていた蛇が、そう啼いた。

男の首から、瞬時に血が飛び出る。

「あっ、嗚ぁ呼っ! わああぁっ、あっ、ひいぃっ! あぁぁぁあああああああっ!」

突如の自傷行為に思考を抜かれた父親と客人が、尻餅をつく。
そして男から距離を離すべく、手足をてんでばらばらに、しかし性急な速さで、庵の床を後退った。

「――――」

男は何も言わず、声帯が刻まれ、肺には血が回り、何も言う事ができない。
自分は死ぬ事ができない。だから自分は生きる事ができない。自分が人間として生きる事など、できないのだ。
だからこうして狂った。痛みに快楽を。痛みに悦楽を。痛みに極楽を得る存在でなければ、ここまで這い忍ぶ事ができなかったのだ。

痛い。傷口を露呈し、空気が刺すような喉の痛みもさる事ながら、肺にどんどんと血が注がれていく事が、窒息して手足が麻痺し苦しみ悶える事もまた鮮烈な快感だった。

暴力的な快楽が感情を押し流す。真っ白になる。

何も考えられなくなる。脳に血液が回ってこない。脳細胞が壊死していく事すら非常に気持ちが良い。
腕が快楽を求め、ハサミをより抉る。
それとハサミを横に倒し、喉の肉をじゃきじゃきと斬り始める。川から引き揚げた束の羊皮紙を斬っているような感覚だった。
その感覚を繰り返すごと、激痛が増していく。

血の足りない脚が、深酔いのようにふらふらとステップを踏む。
水たまりの音が聞こえる。あの忌々しい二人の悲鳴はもう聞こえない。ここにもう自分しかいない。

ああ。自分はここで、「死ぬ」。
あの日、飢えから山を離れ、この庭のイチジクを取った自分が遠い。
この家に、この場所に、自分の生きた証を見出し、希望していた自分は、今こうして死ぬのだ。

彼は自分の喉を、半円状に斬ってみせた。
首の骨を蝶番のようにして、その頭は真後ろに倒れこんだ。
逆しまの庵の景色を見ながら、彼は何百回目の死を迎えた。


遠く。遠く。少しでも、遠く。

意識を取り戻した彼は、あの庵も庭も放逐し、山奥へと向かっていた。
山奥に行く事は肝要ではない。全ては、元の遁世へと戻る為だった。

彼の手にはハサミはない。
あるのは、娘から貰ったイチジクが二個。それだけだ。

呻き声が漏れる。自分自身がどうしようもなく、情けなかった。



イチジクの皮を剥き、口に含み、その芳香と味に、沈黙した。
やはり、と、数年前に味わった失望が再度広がる。

何も感じない。

入りの新月

初めて死んだ後のレイヴンの話
――自分は、何故生きているのか?

始終彼の頭を悩ませていたその哲学は、今この時はその色を変えていた。

その意味は「何の為に生きているのか」というものではない。
言葉の通り、「何故生きているのか」という事だ。

彼自身、自分が今もなお生きている事に疑問を抱いていた。

昨夜の事だ。

敵国の村を略奪し、彼の部隊は憩いを得た。
しかし、それは罠だった。深夜に敵の奇襲を受け、彼の部隊は全滅する。

それは彼も例外ではなく、敵の矢と剣をこの身に受け、心臓が止まって死に絶えた――はずだった。

だが、奇妙な夢か、はたまた走馬燈か。
白い空間で苦痛の限りを味わった後、朝に起きれば生きていた。

何故だ?
あの時、この身を貫いた刃の冷たさは、今も覚えている。

彼は優秀な兵士である。人間の体のどこを斬り、どこを刺せば殺せるのかを知っている。
その彼の知識は、彼の現実に背いた結論を導き出す。

自分は、死んだ。
ならば、自分は、何故生きているのか?

こうして、冒頭の逡巡に至る。



彼は今、敵国の森の中にいた。

生死に逡巡しながらも、青年は道を歩いている。
道の先は分からない。しかし、何もしないよりは精神衛生的にマシだった。

警戒は怠ってはいない。
何しろ、先に述べた通り、ここは敵の腹の中だ。
あの傍の藪から、この木の裏から、兵士が出てくるかも分からない。

耳をそばだてる青年は、故にその存在を知覚できた。

「…………」

自分の進行方向、曲がった道の先。

目には見えないが、歩く音が聞こえた。
遠くから聞こえる音だ。一人や二人という数ではない。少なくとも十人はいる。

青年は手近な木の後ろに隠れた。
腰に帯びた剣の柄に手を置き、いかなる時にも抜剣できるよう構える。

足音は、こちらへと向かっていた。
息を殺し、わずかに目を出し、その正体を窺う。

やがて、姿を現した。

先頭にいたのは、騎士だった。

鎧を着こみ、馬に跨り、手綱の握り方にさえ作法が行き届き、貴族の出と知れる。
外套には十字架が描かれ、青年と同じ軍である事が分かった。
その後ろから徒歩(かち)の兵士たちが続き、それが足音を増幅していた原因だと知れる。

少なくとも、敵の軍隊ではない。
ひとまず胸を撫で下ろし、剣の柄から手を離した。

味方の軍であれば、合流を図ろう。
木から道に出て、己の姿を現した。

「――何者だっ!」

兵士が声を上げ、前に出た。

騎士の後ろから軽装に槍や剣、弓を持っただけの兵士がぞろと出てきて、およそ数十人に取り囲まれる。
兵士は手に手に武器を構え、青年の反逆に備えた。

敵かもしれない青年を前に、騎士はやたら軽く呼びかける。

「やぁ、やぁ、やぁ」

青年を前に、騎士は馬上から誰何(すいか)する。

「キミは、何者だ?」

騎士の怒りを買ってはいけないと、青年は礼を示した。

腕を広げ、今は武器を手にしていない事を明らかにする。
そして左脚を前に片膝立ちし、姿勢を下げて無防備を晒した。

相手に己の命運を差し出して、青年が答える。

「従士、。十字軍に参じた一兵卒です」

それを聞き、騎士は値踏みするように青年を睨めつける。

「我らが皇帝に、忠誠を誓ったか?」

「はい」

形式上のものではあったが、確かに彼は従軍の際に忠誠を宣言した。
それを聞き、騎士はなおも表情を固める。

「その発言に嘘はないと、神に誓えるか?」

それに、ぴくりと青年は反応する。

神をそれほど信じていない。
しかし、そんな事をわざわざ口にするつもりは無い。

青年は空っぽの信仰を抱き、恭しく頭を下げた。

「誓って、嘘はございません」

敵意のない、青年の素振り。
その様を馬上から見下げ、ようやく騎士は認めた。

良し(Gut)

周囲の兵士は構えを解き、騎士の後ろに下がっていく。

騎士は未だ馬から降りぬまま、青年に笑みを注いだ。

「いやはや、まあ同じ言葉を喋る以上は兄弟だと思うがねぇ。そうじゃぁない時もあるかと思ったのだ」

飄々とした騎士の口ぶりに、青年は堅苦しく返した。

「……いえ、当然かと、存じます」

敬語こそ使ってはいるものの、そこに敬意は存在しない。
あるのは、騎士の機嫌を損なわない為。保身の為のおためごかしだ。

何者かに頭を下げるのは、いつだってそうだった。

皇帝に、神に、そして今に。
己が頭を垂れるのは必要に駆られたからであり、自ら敬意を示すべき相手と邂逅した事がない。

他の皆が信じる、神ですらそうなのだ。
ともすれば、生涯に自分が敬愛を抱くものは、何者もいないのかもしれない。

青年は充分に時間を取ってから頭を上げると、騎士と目を合わせる。

殺されないと分かれば、少しばかり交渉をしたい。
何しろ、今の自分は寄る辺のない(はぐ)れた一人だ。

腹も空くし、寝床も欲しい。現に、口も乾いていた。
青年は騎士に寄ると、思案に灯った願いを紡ぐ。

「一つ、よろしいでしょうか」

「何だ」

「貴方の部隊に……入れて貰って、構いませんか」

平民の敬語を繋ぎ合わせ、青年がそう懇願した。

この騎士の態度にやや不満はあるものの、目を瞑れば利益を享受できる。

部隊に入れば、補給にありつける。
交代で番はするだろうが、獣にも敵にも怯えずに寝る事もできるだろう。

その打算を表に出さず、騎士の気を引かせる為、困窮したような素振りを見せてやる。

「自分の部隊は、もう無くなってしまいました。
 どうか、従士として仕えさせていただければ」

なるたけ哀れましく振る舞った。

正直に言えば反吐が出る。
だが仕方のない事だと尊厳を宥め、青年は騎士を仰いだ。

「剣はあります。敵を殺す心得も、前線へ切りこんだ経験もあります」

そう縋る青年に、騎士の纏う空気が一変する。
いや、変わったというより、帰ったというべきか。

青年と相対した時の、警戒の空気。

騎士は冷たくなった顔の内、閉されていた唇を割った。

「何故、キミ以外に他の兵士がいないのだ?」

その疑問を受け、青年はぽつりぽつりと過去を述べる。

「夜に、敵の奇襲を……受けたのです。それで、味方が死んでいって――」

青年の経緯の説明を遮り、騎士は問いを詰めた。

「敵は殺したか?」

「…………」

厳しくなった騎士の態度に、青年は黙して様子を窺う。
ここで「敵を殺した」と嘘をつこうかと考えた。

だが、騎士の目は鷹だった。
貴族間の嫌味と悪意をすり抜けた、いやに鋭いものだった。

その目を見て、答える事もできない。

沈黙を破り、騎士が突如怒声を上げた。

「パンを分けた兄弟が死んだというのに!
 キミには、兄弟の為に死す覚悟も無かったのだ!」

大仰に指摘し、青年は弾けたように否定する。

「違う! オレは――」

そこで、喉が止まる。

違う。
そう否定した所で、一体誰が信じるというのだろうか?

青年はあの時、死なずに場を切り抜けられなかった。
彼は死んだ。味方と共に死んだのだ。

深夜に奇襲をかけられ、馬に乗って逃げ、矢をかけられ、落馬し、腹と背を貫く刃を受け――間違いなく絶命した。

だが、彼はここにいる。

その理屈が、当の本人ですら分からず、混乱のまま口を開く。

「オレ、は……」

言い淀む青年の様子は、まるで今言い訳を紡ごうとしているようだった。
彼の惑いに嘲笑を上げ、騎士は憎たらしく揶揄する。

「キミは死体か? 私は今、死体と話しているというのか?」

騎士の皮肉に、背後の兵士から笑いが起こる。

「…………」

唇を噛む事しかできず、それでも青年は必死に脳を回す。

時は、残酷に過ぎていく。
沈黙が続くほどに信頼は失われ、ついに騎士は見放した。

「もういいだろう。キミが何なのかは、もう、分かった」

手をひらりと返し、騎士は馬から降りた。
そして騎士は青年に歩み寄り、肩を叩く。

それは、裁判所の木槌と同じ意味を持っていた。

騎士は兵士に向き直ると、腕を広げて説き始める。

「さあ、我が兄弟よ! 見たまえ!
 この若人の顔は、己の兄弟を捨て、自分だけが生き延びた者の顔だ!」

それを聞き、青年は瞠目して周りを見回す。
兵士から投げかけられる目線には、不信の色がありありと見てとれた。

明らかな不穏に、青年が狼狽し、後退る。
わずか広がった距離を詰め、騎士が威嚇した。

「この者は謂わば、我らが国の、我らが皇帝の、我らが神に背いた者である!
 故に、この背信者を――『槍の小道(Spießrutenlaufen)』と処す!」

その宣告を受け、兵士たちは処刑の準備を始めた。

青年は青ざめ、抗議に口を開けた。

「違う! オレは――オレは、何も、誰も裏切ってないっ!」

騎士はつまらなそうに目を窄め、腰の剣を抜いた。

「――ッ!」

青年も合わせて抜剣し、騎士の斬撃に備えようとする。

だが、騎士の決断は早かった。

鎧姿とは思えぬ速さで、青年へと肉薄する。

「クッ!」

慌てて青年が剣を振るった。
充分な狙いをつけない斬撃は、騎士の鎧に弾かれて終わる。

その隙を突き、騎士の剣が青年の刃を切り払った。

青年の剣が、手から離れる。

唯一の武器を失った青年の鳩尾に、すかさず騎士が拳を入れた。

「ィッ――!」

ガントレットで覆われた殴打。
青年はその苦痛に絶句し、堪らず膝を地面に落とす。

転がり落ちた剣を、騎士が足で除ける。
青年が剣を手にする事は最早叶わず、無力化を認めた騎士が号令をかけた。

「列せよ!」

「…………!」

青年は動く事もできず、ただその準備を眺めるしかなかった。

兵士たちは無言で二つの列を成していき、互いに向き合う形で直立する。

騎士は馬の荷から縄を取り出すと、青年の腕に縄をかける。

「……っ!」

これから起きるであろう虐待を予見し、青年は逃げようと体を引いた。

「逃げるな!」

騎士の一喝と共に、近くの兵士が動く。
兵士は青年の後ろに回ると、その首に剣の刃を当てる。

「――!」

逃げれば、殺す。
その意思表示を見せつけられ、青年はただ立ち尽くした。

騎士は青年の両腕を前に出させ、手首を揃えて縄を巻く。
手の拘束を終えた騎士は、青年の首に剣を突きつけていた兵士を下げさせた。

兵士は「槍の小道」の列に戻る。
騎士は青年の腕を引き、二つの列の間に立たせた。

そして騎士は後ろに回り、剣で青年の背を突いた。

「――ッ!」

「進め!」

背中にわずかな刃傷を受け、青年は有無も言えずに一歩を踏む。
兵士の列に入った瞬間、横にいた兵士から蹴りつけられた。

「ぅあっ!」

蹴りつけた兵士の向かいの兵士からも脛を蹴られ、更には抜いた剣で腿に擦過傷が刻まれた。

「いっ……!」

口を噛み、悲鳴を飲みこみ、苦痛に耐えるべく足を強張らせる。
足を止めた青年に対し、騎士は再度剣で背中を突いた。

「止まるな! 進め!」

そして、青年は理解した。

これは、そういう「調教」なのだ。

抵抗もできない弱者を取り囲み、罰という大義名分で、兵士たちの嗜虐心を収める。
同時に、国を背いた末路を見せつけ、騎士に従わなければと知らしめる。

部隊の統制をより強固にする為の、「調教」だ。

自分は、騎士の思惑に合致した道具でしかない。
意思も尊厳も無視された、便利な存在だ。

惨めで、それでも抗えず、青年が更に一歩を刻む。

剣で肉を撫でられた。
唾が吐きかけられた。
背を叩かれてうずくまり、後頭部に足が押しつけられた。
聞くに堪えない罵声を浴びた。
傷跡に矢尻をねじこまれた。
腹を殴られ、地面に吐瀉した。

青年はほんの5フィートの間で、その暴力を心身に受けた。
青あざと血と土に汚れた青年に、容赦も加減も憐憫もなく兵士たちが手を伸ばす。

兵士たちは笑っていた。
青年の姿を嘲り、苦痛に上げる声に冷笑し、地面に転べば全く可笑しいものだった。

嘲笑と武器の狭い世界の中で、ただ一匹のおかしな(けだもの)
数分の、数フィートの出来事だというのに、こんな仕打ちを受ける自分というものが人間だったのか、自己認識さえも揺れ動くような暴力。

いつまでも自分を嗤う声がつきまとう。
獣を追い立てる、背後の騎士ですら(わら)っていた。

いっそ自我を手放せば、潰される精神もないだろう。
それでも、この仕打ちに痛む心を抱えて歩く。

何度も刺し傷を開けられる脚を引きずり、打たれた頬の血を吐いて、脱臼した肩から腕をぶら下げて、列の最果てに目を開く。

必死に歩く青年の姿が尚更滑稽で、笑い声は始終絶えずに楽しげだ。

そう、彼らは知っている。
列の最果てに、希望など無いのだ。

それでもそこに辿り着けば終わるはずと期待する、その青年を見て、残虐に嗤い転げた。

「はァっ、ああッ……!」

肺から絞る声に安堵を滲ませ、青年はあと一歩を消費する。
横にいた兵士から強い殴打を受け、青年の口から歯が弾ける。

「ぅっ、あッ……!」

伸ばした腕を逆に曲げ、関節の割れる嫌な音が響いた。

「がああっ!」

そして、ようやく届いた。

列を抜けた青年は、そこで全ての力を使い果たし、糸の切れた操り人形としてだらりと地面に倒れ伏した。
その姿すらも大きく笑い、その渦の中から騎士が歩み寄る。

乾いた拍手と共に青年の傍に立つと、騎士はうつぶせの彼を蹴り転がした。

「痛っ、あぁ……!」

それに抵抗もできず、青年は転がり仰向けになる。
胸の上に縛られたままの両手を乗せ、青年のひゅうひゅうというか細い呼吸で上下する。

騎士は青年を見下げると、測るように訊ねた。

「キミは、一体どれだけの敵を殺した?」

その問いを受け、息も切れ切れに答える。

「……オレは……覚えて、いない……十は、越している……」

返答に、騎士は大仰に驚いてみせた。

「十、十もかねキミは! たった一人で、十人を殺した!
 ああ、それは随分な戦果だ。称賛に値するよ」

拍手はより大きくなり、兵士からの笑い声も大きくなる。
だが、その拍手の動作が突如空中で止まると、笑い声は消散した。

騎士は皮肉の笑みを浮かべ、青年を見下ろした。

「だがねぇ、青二才。
 裏切りは、百の味方を殺すんだ」

騎士の感情が切り替わる。

弱者を嬲る嗜虐心ではない。
人間一人の命運を断ち切る事への愉悦。

青年は目を見開き、傷だらけの背筋に鞭を打つ。
上体を起こして逃げようとするが、彼の胸に騎士の足が振り下ろされた。

「がアッ!」

「さあ諸君! 寄りたまえ!」

列状に固まった兵士が散らばり、獲物を狙う禿鷹のように青年を取り囲む。
騎士は剣を高々と掲げ、陽光を刃の照りで散らした。

「この剣に誓い――この哀れな者に、裁きを!」

『裁きを!』

兵士が復唱し、地面が唸る。

青年は、掻き消されない叫びを猛った。

「やめろっ、――やめろ!」

両腕を上げる。
だが、束縛された両腕は剣を取る事もできず、ただ胸の上で哀れに躍るのみ。

さらばだ( Auf Wiedersehen)!」

青年の目が見開かれる。
陽光で神々しく輝く剣が、自分の首へと吸いこまれる。

「ア――」

何を言おうとしたのか、分からない。
首の肉に、冷たい金属が差しこまれ、

それで、意識が飛んだ。


先のない喉元から、血が噴出する。

首と共に、命もまた過たず絶たれただろう。
青年の頭部は目を見開いたまま時が止まり、胴体は気絶したようにぴくりとも動かない。

兵士たちはその死体を取り囲み、醜い残滓をただ見下げていた。
しばらくすれば、人間の生死に飽きた者から離れていき、やがて全ては忘れ去られる。

そのはずだった。

死体であるはずのその肉塊が、びくりと痙攣した。

まるで、今まで止まっていたのは、あまりの激痛から気絶してしまっただけだったように。

その痙攣を見て、動揺が兵士の間に広がった。
だが、彼等を束ねる騎士は、恐慌を食い止めるべく声を上げる。

「落ち着け!
 死体の胸には、まだ空気がある! それが漏れ出ただけだ!」

騎士の毅然とした声色に、兵士は納得しようとした。
それでも、死体が動くという有り得ざる事象を前に、従士たちは恐れを滲ませる。

その恐れを体現するように、死体は劇的に動き始める。

激しく死体が左右に揺れ震え、拘束された両腕は何かを求めて蠢いた。
有るべきものを欠いた首。そこから生まれる激痛に、死体は悶えて苦しんでいる。

明らかに、この死体は動いている。
それも、偶然や自然法則によるものではなく、青年の意志を以て動いている。

「い――ぎゃああああぁぁぁぁぁっ!」

恐怖は悲鳴の閾値を超え、兵士の一人が金切声を上げる。
金切声を呼び水に、恐怖が兵士の間を伝播する。

「ば、化け物! バケモノだアッ!」「ひぃぃぃぃっ!」「こっ、殺されるっ!」

口々に悲鳴を上げ、或いは逃げ惑い、或いは腰を抜かして尻餅を着く。

この事態に収拾をつけるべく、騎士は剣を抜いて前へと出た。

騎士とて、この異様な光景に怯んでいる。
だが、平民である兵士を屈服させ、命令を聞かせていた長である。
その長が尻尾を巻けば、兵士に不信を持たれるだろう。

騎士は何とか己を奮い立たせ、動く死体の前に立つ。

「し――死ねぇっ!」

裏返る声と共に、死体の胸に剣を突き立てる。

その瞬間、死体は更に大きく痙攣し――、
新たな激痛の元を絶つべく、その腕を剣の束に伸ばした。

「うア――あああああああああああぁぁぁぁぁぁッ!」

最早、騎士の威厳も長の責務も投げ出して、ただの凡人として絶叫した。
死体の腕から逃れるべく、剣も放って騎士が後退る。

死体は、剣の束を握ると、刃を引き上げて己の身から剣を抜く。
そして、完全に剣を抜いた後、心臓から噴き出る血が地面を濡らした。

「わああああああああッ! あァっ、ぎゃああああああああああっ!」

その血の勢いは、騎士の頬にまで飛ぶまでだった。
まるで猛毒でも身に降りかかったように狼狽し、騎士はへたりこむ。

死体は、なおも動いている。
地面を這い、斬り飛ばされた首へとじりじりと近づいていく。
そして、その腕が首を掴むと、それを己の喉に引き寄せた。

首の断面と喉の断面を合わせ、そこでようやく死体の動きが収まる。
瞳孔が開いたままの首は、ただ斬られた直後の表情に固まっていた。

だが、首から溢れていた血の勢いが収まっていくと、その表情に色が戻る。
固まった表情が溶け、苦痛から解放された安堵の色へと染まっていく。

死体から、生者へ。
不可逆であるはずの変身を前に、兵士たちは息を呑んで注視した。

「ア……ア……」

まるで、声が出る事を試しているような、くぐもった声。
自分が生きている事を確認して、蘇った青年は周囲を見回す。

それは、自分が斬られたという敵意を持ったものではない。
単に、状況確認の為のものだった。

死から生へと転じた碧の瞳は、兵士たちを狂乱の渦に叩きこんだ。

「ああああああああああああああああっ! 化け物っ、ばっ、化け物ォっ! うわああああああああああああああああああああっ!」

そう叫びながら、兵士は、騎士すらも、青年から逃げていった。

自分から放射状に散っていく兵士たちを前に、茫然と青年がその背を目で追う。

彼の頭には、復讐という単語は浮かばなかった。

「化け物」

ただその単語だけが彼の頭に反響し、精神が肉体から剥離するような恐怖を覚えた。

自分と同じ国に生まれ、自分と同じ兵となった人間から、「化け物」と宣告されたのだ。

だが、それは当然だ。
首を斬られて、なお生きている。
それのどこを「化け物」でないと主張できるというのだろうか?

彼はここにきて、はっきりと自分というものがどのような存在なのかを自覚した。
それと同時に、自分という存在がひどく曖昧模糊とした霧になる感覚に襲われる。

今、こうして自分が不安がるような事も、「化け物」だと怯えるような感情も、全て人間としての感情ではないのか?

そう考えてしまえば、世界の総てが自分を責め立てているようにざわめいた。

人々の間では、「動物には霊魂がない」と知られている。
では自分はどうだ? 人間ではない、「化け物」の自分はどうだというのだろうか?

信心はない。
しかし、天国も地獄も存在しないという確信もない。

自分が真に死んだとすれば、自分の魂はどこへ行くというのだろうか?
いや、そもそも自分の魂すら無かったとすれば? 地獄に行く事さえ叶わないとすれば?

世界の法則から突き放され、吐き気すら伴う怖気が臓腑から這い上がる。
どうにかする事もできない状態に追いやられ、彼は地面にうずくまった。

体が震える。地面に突いた両腕に、鳥肌が立つのが分かる。

恐れる思考は、必死に希望を掻き集める。
そうだ。ここまで夢ではないのか? ここまで長い夢なのではないのか?

彼はそう考えると、自分の細い腕に目が吸い寄せられた。
縄で拘束されたままの腕だ。

青年は取り落としたままの自分の剣に近寄り、その刃で縄を切り離す。
自由になった腕で、剣を腰に戻した。

そして息の上がる喉を抑え、腕を上げ、口元に寄せる。

夢ならば覚めるはずだと、わずかな期待を抱き、彼は自分の腕に噛みついた。

「――ッ!」

痛い。皮膚が避け、肉が圧迫される痛みだ。
それは思わず腕を引こうと思う痛みだったが、まだだ、まだ足りないのだと、夢に縋って歯を立てる。
血の味がする。何度も噛んだせいで、赤い歯型が鼠の千鳥足のように刻まれていく。

そして、地面を多量の唾液と血液で濡らした時、そこに涙液が混じり始めた。
犬のように腕を噛み、青年は背を丸めて声もなく泣き始める。

夢ではない。
心の底では分かっていた事実を確かにして、彼は腫れた腕から口を離した。

腕から唾液の糸を引き、口が閉じる。

「う、うぅ……」

赤く、痛みを訴える腕を見つめる。
血はやがて止まるだろうが、数日で痕が残るだろう。

そう勘定して、それは崩された。

腕はすぐさま再生し始めた。
皮膚は粘菌を思わせる動きで蠢き、赤い腕は見る間に白くなっていく。

生命を逸脱した己の有様を見て、青年は理性で抑えていた衝動の手綱を絶った。

「ああ――アぁっ、あああぁあッアアぁぁァあっ!」

心臓を裂く悲鳴。
体全体に戦慄が走り、この場に留まっていられない情動が噴き出した。

自分の体を脱ぎ捨てて、全ての光が届かない暗闇で横たわりたい。
叶う事のない願望のままに、彼の足が逃げ出した。

道から離れ、藪を踏み、木に衝突しながらも、手足がばらばらに動いて逃げ惑う。

しかしどこまで逃げようとも、自分の体はどこまでもついて回る。

喉が痛い。水を飲んでいない。逃走で息を荒くし、喉の湿潤が尚更乾く。

やがて自分で無くなる事を諦めて、草葉の上に我が身を放り出す。
舌すら口外に放り出し、ぜいぜいと呼吸を乱れさせる。

数分、痛む喉と脚を休ませる。
脚はしばらくすれば疲労が取り除かれていくが、水を失った喉は呼吸する度に苦痛が走った。

水が欲しい。

しかし、ここは見知った故郷の地ではない。
どこに川があるかも分からなかった。

いっそ、水を飲まずにいれば、この身が乾いて死ねるのだろうか?

そんな思いが、青年の脳裡によぎる。

「――ワアッ!」

その声が、遠くから聞こえた。

少女の声だ。
聞き馴染みのない言語でキーアキーアと悲鳴を上げながら、草木の奥へとフェードアウトしていく。

そちらに目をやると、小さな背が緑に紛れていく所を見送れた。
ここは道ではない。何か目的があって移動しているのであれば、歩きにくく非常に不適だ。

恐らく、森の中を探検でもして自分を見つけたのだろう。

自分の国の言語ではない為、悲鳴の内容は分からない。
それでも、分かる事がある。

「村が、近いのか……」

一人ごちて、水の足りない頭が思考する。

少女が逃げた方向へ行けば、村がある。

しかし、敵の村だ。
言語も通じない。それに村にとって、自分とは排除すべき外敵だ。

いや、あの少女も敵と見なしたのかもしれない。
もしかすれば、少女が村人を呼び出して、自分を殺しに来るのかも――。

「――!」

思わず、自分の首を指で撫でる。
既に何の違和感もない首だ。

先程まで、騎士に斬られていたとは思えない。

「…………」

青年は、黙りこんだ。

首を断ち切られる苦痛。暴言と共に暴力を浴びる苦痛。人でなくなる苦痛――。

それをまざまざと思い出し、彼の脳に牙が覗く。

――もう一度、殺されたいか?

「嫌、だ……」

擦れる声で、そう抗う。
倒れた体を起こし、腰に帯びた剣を手でなぞる。

相手が武装した敵兵ならば負けるだろう。
だが――何の装備もない村人ならば、何人だろうと斬り殺せる。

彼は以前そうしたからだ。

補給の途絶えた彼の部隊は、無辜の村を襲い、食料を奪う盗賊と化した。
対した武器のない村人は、幾らいようが剣に伏せる。

喉が痛い。心臓と直結したように、頭が揺れた。

生きている事は酷く惨たらしいが、殺される事は恐ろしく苦痛だ。

青年はふらふらとした足取りで、剣を抜いて村へと向かった。


――自分は、何故生きているのだろう。

その意味は「何の為に生きているのか」というものではない。
言葉の通り、「何故生きているのか」という事でも無かった。

「何故……オレが、生きてるんだ……」

血に汚れた体を抱えて、そうして自分を酷く責める為の刃だった。

琥珀の雫

レイヴンと「あの男」のお茶会の話
百年に渡る聖戦は、各地に貧困という病を振りまいた。
十数年の歳月をかけ、イリュリアを始めとする都市部は復興を遂げる。

だが、末端の地は違った。

盗賊が村々を略奪し、孤児が路傍でお情けを乞い、言葉ではなく暴力が意志の媒体となる。
それは時が経つにつれ大陸の片隅へと追いやられていくものの、密度を増した闇はより色濃く欲望を抽出した。

「――おらっ! 死ねっ! 死ねッ!」

とある村。
潰れた酒場。

聖戦前はささやかながらも穏やかな土地だったのだろう、
この地を描いた絵画には、寄り添う家々と行き交う人々の温かな雰囲気が収められていた。

しかし、名も価値もないその絵画は、埃を被って放置されていた。
その絵画の対となる壁には、観賞用の猟銃が盗まれたようで、固定用のフックはただただ空だった。
客を迎え入れる机や椅子は、ごっちゃになって隅に追いやられている。

その酒場の真ん中に、二種類の人間が存在していた。

一方は、立って見下ろす複数の若者たちである。

彼らは下卑た笑みを浮かべて、弱者をいたぶる愉悦に酔っていた。
男が多いが、女もいる。年の頃は二十ほどの者が多いが、中には酒蔵からちょろまかした酒瓶を片手に持つ未成年もいた。
若者の無軌道さと無思慮さだけが肥大化したような、そんな烏合の衆である。

対するもう一方は、若者たちに囲まれた、一人の男である。

白髪には、頭部を殴打された際に流れた血があちこちについていた。
整えられた顔には、打撲による青痰と、煙草を押し付けられた火傷が刻まれている。
言葉を紡ぐべき口は猿轡を咬ませられ、叫び声はただのくぐもった鳴き声にしか聞こえない。
手首と手首は縄で縛られ、一般人であれば逃げ出す事などできはしない状態だった。

無力に横たわるその男に、一人の若者が楽しげに蹴りを入れている。

「ははっ! 芋虫ヤロー! 金もなくここらをほっつき歩くとなァ、こうなるんだよッ!」

革靴で補強された硬い爪先が、男の腹に突き刺さる。

「――ッ!」

男は髪を振り乱し、その衝撃に悶えていた。
目を覆わんばかりのその光景を、若者たちは爛々と目を輝かせて見下ろしている。

床を転がる彼に向けて、若者たちは侮蔑の言葉を浴びせかけた。

「もっと暴れてみろよ! せいぜいオレたちを楽しませてくれよなー!」
「にーちゃんよぉ、もっと頑張ってみろよ! ホラホラ逃げてみろよ! 殺すけどなー!」
「ねー見て? アレもしかして蹴られてボッキしてない? やだー!」

嘲笑と虐待の満ちる空間で、己の残虐性を曝け出す。
力の上下関係に酔う中で、一人の女が声を上げた。

「ソイツさぁ、カネ持ってなくてもさぁ、臓器売ればカネになんじゃね? キャッハハ!」

その言葉に、弾かれたように若者が面を見合わせる。

「アーっ、それ天才じゃね?」
「いーじゃん! 確かジンゾーとか、カンゾーとか高く売れるんだよな!」
「やろやろ! ちょい飽きてきたし、そのほーがユーエキじゃん?」

軽薄な言葉で、残虐な会話を広げ始めた。
その熱が若者たちの間で伝播していき、ついには一人の女が床の男に進み出る。

折り畳み式ナイフを握り、手首のスナップで刃を出した。
わざとらしく舌なめずりをし、高らかに宣言する。

「んじゃ、アタシ()っちゃいまーす!」

その宣言で、若者たちが快哉の声をわめいた。

『殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!』

拳を振り上げ、活発な狂気の中、ナイフの尖端が男の腹にかかる。
男は目を見開き、血走らせ、そのナイフに視線を注いだ。

「じゃ! ナイフ入刀ー!」

女はナイフを男の腹に刺し、茶化すように生命を侵す。

汚れたランプの明度でも分かった。
絵の具よりも純度の濃い赤色が、白い腹から流れ出る。

「ン゛――! ンン゛ッ――! ン゛ッン゛ンッ!」

喘ぐ声は家畜の鳴き声のようで、それがなお滑稽でおかしかった。

「ねー? おにーさんナニ言ってんのー? アタシ豚語わかんないんだけどー?」
「そーれ、屠殺だ、トサツだーッ!」

腹をすぐさま捌くほど手口は鮮やかではなく、苦痛の時間が引き伸ばされる。
ナイフは肉を切るほどの鋭さはなく、無理矢理傷口を折り広げるくらしか能がない。

その不慣れさと鈍さが、男の苦痛を長引かせる。

「ン゛ッ……! ン゛ン゛ッ――!」

首を反らし、男が絶叫した。
その言動の一つ一つが若者たちの嘲りの対象となり、嗤い声は絶える事がない。

客観的にはほんの数分であったが、体感的には何時間にも感じられた。

そんな時間をかけて、ようやく胸骨の下から臍の上まで、男の腹は切り開かれた。
女はナイフを抜き取り、血で汚れた自分の手を見て嫌悪を囁く。

「ヤダーっ」

そう言って男の髪で血を拭き取り、女はナイフをポケットにしまった。
泡を吹き始める男を見下ろし、若者たちが思い思いに話し始める。

「うわー、これが内臓かよ……グロいしキッショ……」
「コレ取り分決めよーぜ! オレさ、なんか高そうだしカンゾーな!」
「つーかさー、コイツに内臓切らせようぜ? 手が汚れんのヤだしよー」

そう盛り上がる雰囲気に、冷静になったある若者が水を差した。

「てかさ、どうやったカネにすんだろ?」

当然の疑問であった。

無鉄砲である彼らとコネクションを取ろうとする臓器ブローカーも何もない。
ただ「内臓は売れる」という噂と、ほんの思いつきだけで腹を開いたのである。
男の命は、虫でも潰すような手軽な命だ。

若者たちにその疑問を解消する手立てはなく、身勝手な落胆と嘆きに明け暮れた。
それでも、またもやある若者が提案する。

「なぁ、コイツさぁ、カメラ持ってたじゃん?
 確かさぁ、スナッフフィルムっていう人殺しの映像って高く売れるんだけどさぁ、写真でももしかしたらいけんじゃね?」

提案は、再度若者たちを湧かせた。

臓器を売るアテはなくとも、写真なら売りさばけるかもしれない。
軽い発想に、「アッタマいー!」「マジすげぇ!」と称賛が出力される。

自分の所持品が凌辱に使われると知るや、男は過敏に反応した。

「ン゛ッ、ン゛ン゛ッ――!」

首の骨が折れそうなほどに頭部を後ろに倒し、びくびくと痙攣し、大きく震える。
その様子に顔をしかめたある若者が、彼の顔面を踏みつけた。

「うっせ、死ね!」

「ッ――!」

ビクン、と体が波打つ。
苦痛に蠢く男を抑えるべく、両隣の若い男二人が彼の肩を固めた。
開かれた腹を大勢に見せつけるように、男の上半身を起こさせる。

「おー、どけどけー!」

カメラを手にした若い男が正面に立った。
外気に晒された内臓と共に、男の顔を収める。

そして、シャッターを切った。
カシャ、という小さな音だったが、それは確かに男の姿を捉えた証拠だった。

「いいねいいねー! ホラホラ、チーズチーズ!」

「ン゛ゥッ、ン゛ーッ――!」

何度も、執拗にシャッター音が響く中、歩き出てきたのはハイヒールの女だった。

「楽しそーじゃん! わたしも記念撮影ー!」
「イエー! ちゃん、イケてるー!」

黄色い歓声と共に、その女は男の腹にハイヒールを突っこんだ。
内臓を剥き出しにした、その腹の中に。

「――! ン゛ン゛ン゛ッ――!」

全体重をかけたヒールが、内臓を突き抜けて背骨を砕かんばかりに圧力をかける。
女は苦痛から紅顔する男を見下げ、ケタケタと嗤った。

「うっわー! マジきっしょ! 生温かいし、マジ吐きそうだし――」

好き勝手にのたまい、更なる罵倒を吐きかけようとしたその時。

「――止まれ(Freeze)!」

酒場の扉を蹴破り、屈強な男たちがこの場に展開された。

「なっ、いきなりなんだよ!」

「我々は国際警察機構の者である! 抵抗せず、速やかに投降せよ!」

「ゲッ、ポリ公がっ! ここまで来たかよ、クソッ!」

すると若者たちは蜘蛛の子を散らすように、悲鳴を上げて逃げ惑う。

しかし相手は「鼠」を何匹も捕まえてきた練達である。無計画な若者たちの逃走経路など、全てが全て封じられていた。
裏口を通ろうとした男は、待ち構えていた警察官に縛り上げられ、
窓から逃げようとした女は、それよりも前に後ろ手を掴まれ、
若者たちは一人残らず捕らえられ、また一つの闇が檻に入れられる事となった。


「…………」

無言のまま、空間をずるりと抜ける。
捕り物騒動の中、彼は空間転移によって路地裏に離れていた。

腹は既に再生している。何とも忌むべき不死である。

彼は自らの腹を切り裂いた。
腹腔に丸々取り残されたハイヒールを外に出し、壁にもたれかかる。

消化不良だった。
まさか、国家の犬があれほど鼻が利くとは思いもしなかった。

ああして若者たちに襲われるのは、ある意味計画通りではあった。

自傷の苦痛というのは、あくまでも自分によって行われる、予測可能な苦痛だ。
だが、それが他人の手であるならば、それは不意を突く歓喜がある。
その上、あのような青二才どもによって転がされる事は、非常に甘い屈辱であった。

そしてそれは、正義によって踏み潰された。

「ああ……」

落胆が口から漏れる。

荒んだ路地裏には、闇が凝固していた。
彼の隣には、死した浮浪者が横たわり、何も告げずにそこにいた。

その浮浪者を見やり、感情が湧き上がる。
憐憫や追悼という聖者の感情ではない。

「死の苦痛には、未だ至らない……」

彼は、たかが死体に嫉妬していた。
安く死を得られた浮浪者をじっと凝視した後、彼は自分の手を腹の裂け目に入れた。

「ん、ンッ……」

足りなかった。
あれっぽっちの苦痛では、まだ足りなかった。

レイヴンは自分の腹の中をまさぐる。
腸を扱き、肝臓を掻き、胃袋を潰す。

「あっ、あぁアッ……!」

息が荒くなる。
血はとめどなく流れるというのに、頬には紅が差し、快楽が押し寄せていく。

冷たい路地裏で、露天の下、死体の隣で自らを慰める。
惨めで、尚更興奮する。

腸をずるりと引き出し、自分で自分の腸を噛む。
血まみれのそれを舐め回し、己が生きている脈動を舌触りで確かめた。

人間の息づく村の裏で、人並外れた狂気がそこにある。

その狂気の中で、レイヴンは喘ぎ声を上げ、今まさに絶頂を手にしようとしていた。

「ア゛ァ゛ッ――!」

だが。

『――ヴンッ、レイヴンッ、聞こえてるかい?』

その声に、快楽に蕩けた頭が一気に醒めた。
レイヴンは己の腸から唇を離し、血まみれの口で通信に応答する。

「……何用で、ございましょうか」

先程までの狂態を悟られないよう、息を鎮めてそう答えた。
すると、「あの男」は予想外の用件を伝えた。

『お茶会を開きたいんだけど、どうかな』

「……お茶会、ですか?」

腸を腹に引きこみながら、レイヴンはオウム返しにそう言った。
「あの男」は「そうだよ」と肯定し、呆気にとられる彼に向かってこう締める。

『何か用があるのなら、それが終わってからでいいよ。
 手が離せない別の用事があるなら、断ってもいいし。それじゃ』

そして、通信が切れる。

「…………」

レイヴンはしばらく止まっていた。

「あの御方」直々の招待である。無碍にする訳にはいかない。
しかし、二度も寸止めされた昂りはどこにも発散されず、悶々と彼の中に溜まっていた。

だからといって、自分の欲望を晴らす間に「あの御方」を待たせる訳にはいかない。

理性が決断の木槌を叩き、レイヴンは血まみれの自分の姿を正していった。
顔の痣と煙草の火傷、そして腹の裂傷が再生されるのを待つ。
待つ間に、自分の髪や服に付いた血を拭い、不浄を法術で除去していく。

恰好を整えたレイヴンは、「あの男」が待つ「バックヤード」へと空間転移する。
路地裏の風景が、真っ白な空間に置き換わっていった。


情報密度は致死的なまでで、生命の自我など無機質に圧潰する。
そんな「バックヤード」の中で、そこだけは人が存在するに値する場所だった。

そうなるように整えられたその場所に、甘い匂いが漂ってくる。

「やあ、早かったね」

そこで、白衣姿の「あの男」がレイヴンを迎えた。

白い空間の中、彼の傍には白くない物品が並んでいる。
黒檀のテーブルに、向かい合う二つの椅子。
その傍らにはワゴンがあり、皿に盛られたクッキーと、ティーセットが一揃い置いてある。

「あの男」は椅子に座り、向かいの椅子を手の平で指した。

「さあ、座って」

レイヴンが指された席に向かい、「あの男」は話の種を撒いた。

「いつもよりもちょっと遅れたみたいだけど、用があったのかい?」

「……いえ、私用により、少々」

「もしかして、何かの途中だった?」

正にその通りだった。
しかし、「自慰の途中であった」などと主の耳を汚す訳にはいかない。
平常を装い、レイヴンは首を振った。

「滅相もありません。些末な事です」

「そうか、それならいいけど……」

「あの男」は苦笑しながら、ティーセットに手を伸ばした。
見るに、ティーカップもティーポットも中身が空である。
紅茶の準備はこれからであるらしい。

レイヴンは座ったばかりの椅子から立ち上がり、「あの男」の行動に先んずる。

「よろしければ、私が」

「いいのか?」

「はい。貴方様の手を煩わせるには及びません」

「あの男」は数秒ばかり逡巡したが、すぐに微笑みと共に、

「じゃあ、頼む」

そうして、「あの男」は椅子に座った。
レイヴンはティーセットの傍に寄る。

ポットの蓋を開け、茶漉しを中に嵌めてから、ポットをカップの近くに置く。
そこで水と火の法術を唱える。水に熱を加え、沸騰寸前の熱湯が虚空に浮かんだ。
その熱湯の塊をポットとカップに注ぎこみ、冷たい陶器を温める。

ほんの数秒程度で、ポットの湯を捨てる。捨てられた湯は、ジュッという音を立てて空中に霧散した。
紅茶を容器から匙で取り出し、ポットの中に三匙を落とす。
ポットの温もりが冷めない内に、再度ポットに熱湯を注いだ。

ポットを保温する為にポットカバーをつけ、数分蒸らす。

その間、「あの男」は楽し気にレイヴンの様子を見つめている。
その視線がどうにも面映ゆく、彼は居心地が悪そうにその数分を耐えた。

とかく、数分が経つ。
カップの中の湯を捨て、ソーサ―の上に載せた。
ポットカバーを外し、ポットから出がらしの紅茶を茶漉しごと持ち上げ、空の皿に置く。

そしてようやく出来上がった紅茶を二杯のカップに淹れ、「あの男」に訊いた。

「砂糖と、ミルクは」

「ブラック・ティーで」

「承知いたしました」

シュガーポットに伸ばしかけた手を引っこめ、純粋な紅茶を湛えるカップを「あの男」の前に慎重に置いた。
自分の分は――そう考えた所で、レイヴンは停止する。

味など、どうでも良かった。

味覚はとうに飽きている。
紅茶にどれだけ砂糖や牛乳が入っていようが、それはレイヴンにとって、発酵した茶葉を煎じた液体に糖分と脂肪分がどの程度溶解しているかに過ぎない。

どう味を変えようとも、無意味だった。
その無意味な選択肢を前に、時が止まる。

レイヴンの所作の違いを、「あの男」は見抜いてみせた。
彼の惑いを理解して、そっと提案する。

「僕と同じにしてみないか?」

主から、助け船を出された事に気づく。
それにいたたまれなさを感ずるも、無碍にはできずに受け入れた。

レイヴンは「あの男」に頷き、純な紅茶のカップを自分の席に置く。
そして彼が再度席についた所で、「あの男」はカップを軽く掲げた。

「じゃあ、いただくよ」

熱く仕上がった紅茶を、ほんの一口含んだ。
レイヴンが温めたカップ。それに唇をつけ、熱が咥内に広がる。

レイヴンは、自分の淹れた紅茶に間違いがないかと、恐る恐る「あの男」に訊いた。

「……加減は、いかがでしょうか」

「あの男」が、カップから唇を離した。
些か悪戯じみた笑みを浮かべ、怖々とした問いに、試すような問いを重ね合わせる。

「逆に、君はどうだい?」

「え……?」

「君がどう思うかを、先に聞きたい」

他ならぬ「あの御方」の要望である。逆らう道理など万に一つもない。
しかしその要望に、後ろめたい困惑はある。

レイヴンは自分の淹れた紅茶を見下ろした。

紅茶の色は、時を矯めこんだ紅琥珀(チェリーアンバー)のように、澄んだ赤褐色。
塵芥が入っている様子もなく、見た目では何の不備もないように思える。

それでも、もしかすれば「あの御方」の口に合わず、自分にその味を確かめさせて戒めとするつもりなのかもしれない。
失態の可能性に口元を固める。

レイヴンは一思いに紅茶を口に入れた。

熱い溶液を、ぐるりと舌で掻き回す。
味蕾に紅茶が染み渡り、舌触りを確認する。

味はある。不純物もない。

大きな不備がない事に、いくばくか安堵し、嚥下した。
それは、紅茶を愛飲する精神とは離れた、毒見の一口。

レイヴンの喉仏が動くのを見て、「あの男」は再び訊く。

「どうだい?」

「私にとっては、普通の紅茶と存じますが……何か、御口に適いませんでしたか?」

硬直したレイヴンの態度に、可笑しげに「あの男」が返した。

「別に、君を咎めようとした訳じゃないんだ。
 味は? どう思う、どう感じた?」

それに対して、レイヴンはようやく悟った。
単に、「あの男」は感想を求めていたのだ。

しかし、レイヴンはなおさら口をこわばらせる。

何も、感じなかった。

いや、味はした。紅茶の熱も、さらりとした水の感触も分かる。
だが、それは感情を動かさない。そういった意味の「感じない」である。

これはレイヴンにとって、何ら特別なものではない。
忌み嫌う、退屈の一つであった。

目に映るもの、耳にするもの、鼻で嗅ぐもの、味わうもの。
全てはとうの昔に飽きた感覚であり、今更その感動など何も得られなかった。

それでも、「美味しい」などという常人の感情を偽装する事はできなかった。
「あの御方」の前で一時凌ぎの嘘をつく事は、この場の興を削ぐ以上に無礼である。

レイヴンは、おずおずと自分の感性を晒した。

「……何も、ありません。感動し得る何物も、これにはありませんでした」

「そうか」

「あの男」はその思いは想定内のようで、何の驚きも見せずにレイヴンを受け入れる。
そして、「あの男」は再度カップを口につけ、レイヴンの紅茶を喉に通した。

苦く、笑う。

「ちょっと、茶葉を入れすぎたみたいだね。渋めなお茶だ」

その言葉を耳に入れ、レイヴンは足下に奈落が空いたような喪失を味わう。

大きな不備がないと思っていたが、それは錯覚であった。
自分の感性が欠落しているばかりに、「あの御方」に不快を与えてしまったのだ。

脊髄反射に謝罪しようとするレイヴンだったが、それを制するように「あの男」はすぐ言葉を繋いだ。

「でもね、良い味だと、僕は思うよ」

カップをソーサーに置く。
白く黙する空間の中で、陶磁器の奏でが凛と響いた。

「君は、どういう味が良いかも分からない。
 それでも、僕の為に、わざわざ手間をかけて美味しい紅茶を淹れようとしてくれた。
 でも、どう加減すればいいのかも分からない。

 ……そんな君が、この味に溶けているんだ。
 口を曲げるような味でもないし、それにこの渋さは、きっと僕のバタークッキーには合うだろう。うんと甘くしちゃったしね」

そう称えられるも、レイヴンの顔は晴れない。
自分の失敗を、「あの御方」の寛大さで許されたような心持ちだった。

レイヴンは恐縮して首を振る。

「それは……私のような下郎には身に余る御言葉にございます」

「レイヴン、それは――」

萎縮するレイヴンの否定に、温かな否定を重ねようと「あの男」が身を乗り出す。

それが、原因だった。

「――熱ッ!」

「あの男」が声を上げる。

身を乗り出し際、カップの持ち手には右手の指がかかったままだった。
カップは転倒し、「あの男」の白衣を紅茶が侵した。
それは白衣のみならず「あの男」の肌にすら到達し、淹れて間もない熱湯が彼の神経を苛む。

「お待ちくださいっ、直ちに冷やし――!」

レイヴンは瞬時に反応し、「あの男」の傍に向かおうとする。
だが、その時レイヴンの視界は、「あの男」の姿が歪んで映ってしまった。

白衣に染みた、赤褐色の紅茶。

それは無垢を汚す血のように鮮やかだ。
白と赤のコントラストは、肌と血のそれに似ている。

それは、苦痛の象徴である傷跡。

苦痛。痛苦。激痛。快楽。
傷跡に喚起され、レイヴンの隠していた欲望がフラッシュバックする。

「バックヤード」に帰還し、この茶会に参ずる前。
暴力と侮蔑の満ちた、背徳のあの酒場。

苦痛。屈辱。己を昂らせ、何よりも生を謳う感覚。
快感に昂ぶる感覚が、この相応しくない場に顕現した。

「ア――」

何しろ、警察機構に、この茶会の招待に、二度も絶頂の「お預け」を食らったのだ。
欲望が再起し、鋭敏になった感覚に息を絶やし、肉体は快楽を求めて震え始める。

それも、「あの御方」が疑似的に傷跡を負われた、その姿を見て心臓が滾った。
下劣な不敬行為を犯している自分自身を、忸怩たる思いで責め鎮める。

今すぐ、「あの御方」の苦痛を取り除かなければ。
理性が体を叩いても、「あの男」が朱色に汚れた姿に目が釘付けになる。

レイヴンが己の(さが)に縛られる間に、「あの男」は白衣の汚れに手をかざした。
その手を一振りするだけで、汚れはあっさりと消え去る。

「ぁ……」

思わず、レイヴンの口から声が漏れた。
「血のように染まった「あの御方」の姿を失い残念だ」というようなその声色に、彼は胸中で自らを非難する。

何をしている。「あの御方」の御姿を通して己の快楽に繋げていたなど、万死に値する。

自分が何を考えていたかを、決して明かす事はできない。
それでも、レイヴンは自己嫌悪のままに頭を下げた。

「も、申し開きもありません……」

「あの男」の視点から立てば、レイヴンに何の落ち度もない。
その不可解な謝罪を受け、「あの男」は手を振った。

「謝る必要なんてないよ。これは僕がやった事だ」

紅茶をこぼし、倒れたままのカップを立て、「あの男」はポットを自分に寄せた。
ポットカバーを外し、紅茶を再度淹れる。
そしてワゴンから、クッキーを載せた皿をテーブルの中央に置いた。

「さて、仕切り直そうか」

言って、クッキーを一枚齧る。
その直後に紅茶を口に含み、菓子の甘味と茶葉の渋味を混ぜ合わせ、飲みこんだ。

「ああ、やっぱり。君の淹れた紅茶に、僕の焼いたクッキーが合うな」

「あの男」がレイヴンに笑いかける。
それでも、レイヴンの顔は晴れない。

レイヴンの脳裏には、忘れていたあの酒場の責苦がくすぶっていた。
それと同時に、苦痛への渇望が呼び覚まされている。

自分のそれが治まるよう、じっと耐えている中で、「あの男」はレイヴンに促した。

「さあ、どうか君も、食べて欲しいんだ」

卓の中央に据えられたクッキーを見て、レイヴンは申し訳なさそうに縮こまる。

「……私のような者が口にするには、恐れ多いものです」

まして、主の汚れた姿を見て、興奮を覚えるような下賤な者になど。

「それに――私は先に申し上げた通り、味わう快を得られぬ存在なのです。
 それならば、私などが口にするよりも、貴方様が召し上がる方が、ずっと良いかと……」

レイヴンは、「あの男」の目を見れず、俯いてしまう。
そんな彼に、「あの男」は明かした。

「本当はね、このお茶会は、君を思って開いたものなんだ」

その言葉に、レイヴンがなお頭を下げる。

「……その、恐縮に過ぎます」

「これは、僕の単なるお節介だと思って欲しいんだ。これから言う、いくつかの事も」

そう前置きして、「あの男」が話し始めた。

「君は、苦痛を気持ち良いと感じている」

その発言に、レイヴンは深い罪悪感に墜ちる。

この茶会の際にも、自分は浅ましく苦痛を求めた。
猶も今も、この身は痛苦に(かつ)えている。

もしや、「あの御方」は、先の自分の情動を既に見透かしていて、それを咎めようとしているのではないか。
その可能性に憂い、レイヴンは身を固くした。

「でも、僕はそれを非難するつもりはないよ」

すぐに可能性は崩された。
「あの男」はどこまでも柔和に、受け入れるように続けていく。

「むしろ、君がこれまで辿ってきた道程を思えば、そうなるのも不自然じゃない。

 けど、君は苦痛を得る為に、自分自身を傷つけている。
 それは、君自身が嫌っている「不死」を――「人間ではない」と思い知ってしまう行為だ。

 それを続けていけば、いつか君は、「人間ではない」事に順応するかもしれない」

不死の身に任せ、苦痛を貪る行為。
これまで、己のその行為を見た人間は、何の考えもしない、受け売りの倫理で批判してきた。

それを、「あの御方」は受け止めた。
しかし、全面的に賛同する事はなく、ただ彼を思って述べていく。

「これは単なる杞憂だ。
 でも僕は、君が「人間ではない」と受け入れてしまう事が……怖いんだ。

 君は、五感に飽きている。
 それでも、かつてはそれを感じていた――そんな過去を苦痛で塗りつぶして、忘れていく事が、怖い」

柔和な態度に、隠せない感情が差しこむ。

レイヴンは動揺した。
何時なる時も平穏を保つ「あの御方」が、よもや自分の事でそうも顔を揺らすのか。

「人間の感覚を忘れて、苦痛だけを糧としていけば、
 いつか君の精神構造すら「不死の化物」にすり替わって、人間でなくなってしまうんじゃないのか?
 ……そうなってしまえば、僕が理解できない所にまで、君が離れて行ってしまう」

「あの男」が顔を沈める。
しかし、レイヴンの茫然とした表情を視界に入れ、慌てて手を振った。

「いや、これはお節介とかじゃなくて、僕のわがままだったね」

照れたように顔を払拭するも、続ける話にすぐさま面差しを冷ました。

「ただでさえ、僕は君に千年の隔絶を覚えてるんだ。
 僕にとっての昔は、君にとっての最近だ。
 僕にとっての一日は、君にとって苦痛の時間の塊だろう。
 それは当然なんだ。年経た以上、その差は当然だと分かってる。

 でも、本当に君が離れてしまえば――、
 僕が君にどれだけ話しかけても、理解できない領域同士で言語を交わすだけになる。
 どれだけ同じ空間と時間を過ごしても、絶対に触れられなくなる。

 ……だから、君が人間だっていう事を、まだ五感はあるっていう事を、覚えていて欲しかった」

「あの男」は、紅茶のカップを包むように、手を添えた。
陶磁器越しに、紅茶の熱が手の平に伝わる。

「それは、苦痛よりつまらない感覚だろうね。

 君は、僕が何語を話しているか分かる。
 僕が今、紅茶を手にしている事も分かる。
 つまりは、君は五感を認識できはしている。それが、普通の人間並みに感動できなくなってしまった。

 それでも、それをわずかでも「感じて」欲しい。
 そう思って、君をお茶会に誘ったんだ。

 会話という聴覚、紅茶の味、香り、温かさ。
 それに、同じ感想を抱けとは言わない。
 ただ、感じていて欲しい。

 まだ君は――いや、ずっと君は人間なんだ」

沈黙。
語り終えた「あの男」は言葉を終える。

レイヴンはただ、黙って顔を伏せたままだ。
彼は「あの男」に目を合わせられなくなっていた。

先程まで抱いていた罪悪感ではなく、その気恥ずかしさから。

自分が、「あの御方」に注ぐ敬意は、見返りを期待しない一方通行であった。
それで良かった。自己満足ですらあった。

それが、まさか、「あの御方」から、こうも返されるとは思っていなかった。

「……レイヴン、」

顔を伏せるレイヴン。
「あの男」は、それが自分の独り善がりで傷つけてしまったかと思い、不安に覗きこむ。
だが、彼の顔に感情の傷はなく、ただの羞恥から紅が差していた。

「……あぁ」

安堵する。
自分の思いは押し付けではなかったのだ。

「あの男」は、クッキー一つを人差し指と中指で挟む。
オーブンから出して十数分のもので、まだ温かかった。

その温もりを分ける為、「あの男」は立ち上がる。
俯くレイヴンの傍に近づき、彼の名を呼ぶ。

「レイヴン」

「――――」

呼びかけられ、顔を上げる。

「――ッ!?」

その瞬間、唇に熱が灯った。
クッキーの熱だった。

「あの男」は下唇上唇の合間にクッキーを挟む。
レイヴンはしばし硬直し、「あの男」を見上げていた。

「……ッ」

口に差された温いもの。
歯に当たったそれは少量唾液に混じり、飽いた味覚を揺さぶった。

「――ッ」

レイヴンは、畏れに閉じた歯を緩める。

「……ふふっ」

「あの男」はクッキーをレイヴンの口腔内に押していく。
二つの指ではなく、人差し指一つをクッキーの背に当てて押しこんでいく。

レイヴンの唇を割り、時間を楽しむようにゆっくりと入っていく。

そして、丸々一枚が口の中に入った。
クッキーを押しこんでいた「あの男」の人差し指が、一瞬レイヴンの唇と触れ合う。

「あの男」は人差し指を引っこめて、レイヴンの様子を見つめていた。

「――――」

呆気に取られているレイヴンの様子が、やたら頬笑ましく思える。
噛もうともせず一個の石像となっている彼に、促すように「あの男」が訊ねる。

「どう?」

石化したレイヴンは、その問いに答えるべく生き返る。

「――ッ」

整形されたクッキーを、歯で柔く突き崩す。
答えようと急くも、「あの御方」から与えられた聖餅を早くに消費する事は無粋だと咎める。

バターと麦粉、卵と砂糖から成るその甘味が、舌の上で溶けている。

それは主の寵愛の証であった。

味蕾をくすぐる感覚を受け止め、感じ取り、覚えこむ。
幼子のように、ただ必死に甘味を貪った。

自分の作った菓子を食べる様を、「あの男」はただ見守る。

その視線が面映いという理性も浮かばないくらい、ただその甘さを感じ尽くす。
そして唾液と完全に混ざったクッキーの溶液を喉に送り、レイヴンは口を開いた。

口にするりと入る空気が、甘味の残滓を刺激する。
胸に灯った言葉は、感想ではない。

「……ありがとうございます」

口からついて出てきたのは、感謝だった。

味の言及ではない。
しかし「あの男」はレイヴンのその言葉を否定せずに受け入れた。

「楽しめた?」

「……はい」

「でもね、君が淹れてくれた紅茶は、まるで僕の焼いたそれにあつらえたようにぴったりなんだ。
 一緒にして、口にしてみて」

そして、「あの男」はクッキーの皿をレイヴンに寄せる。
彼はその中から一枚を手にして、半月を齧った。
すぐさまカップの持ち手に指を通し、主の味に自分を注ぐ。

その調和に、心臓が膨らんだ。

全くぴったりに、甘さと渋みが抱き合った。
それは常人ならば美味と思うような味だった。

だが違う。これは違う。
味など、何世紀も前から同じだった。

自分が感じたものは、全く違う。
いや、もしかすれば、味を感じないが故に、この感情は生じたのかもしれない。

その感覚は、尊かった。
主が己の為に焼いたクッキーが、己が主の為に淹れた紅茶が、何より喜ばしかった。

レイヴンはその感情を、それらと共に飲みこんで、熱く息を吐く。
そこに、苦痛を渇望していた己はいなかった。

レイヴンが纏う雰囲気が変わる様を見て、「あの男」が囁く。

「僕から、離れはしないか?」

それに、恐れはなかった。

レイヴンは席を立つ。

「あの男」の席の横で片膝を立て、
慶びを胸に頭を下げ、
何よりも尊ぶべき主の手を取り、両手で覆う。

確かな決意を目にこめて、聖約を契った。

「常に、お傍に仕えましょう」

SCP-243-GG

レイヴンの収容記録
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