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  1. 贋銀と黄金
  2. We're All Gonna Die
  3. 過去を覗く窓
  4. 絶望はちかく、されど隣人ではなし
  5. Capriccionzert

贋銀と黄金

イノがレイヴンの誕生日と過去を探る話
過去捏造描写あり
「そういえば、あと一年後くらいでアンタの誕生日だったよな?」

イノがせせら笑いながら、レイヴンに話しかける。

「風船のような問いかけだな」

「風船?」

「何でもない。だが、確かに日は近い」

3月28日。
絶えぬ年月を耐える彼にとって、その日は他よりも微小に差異のある日。

彼女の話で、ようやくその事を思い出す程度の日である。
大して期待もせず、今度はレイヴンから問いかけた。

「何をするつもりだ?」

「別に。ただ、それだけ覚えてるってのがおかしいと思ってな」

イノが黒髪を指で巻きながら、先の質問の意図をどうでもよさげに説明する。

「生まれた年は覚えてないんだろ? それなのに誕生日だけは覚えてるって、中々珍奇なモンだと思うだろ」

「そうかもしれないな」

言われて、レイヴンが緩く同意する。
彼は時を隔てた遠くを見つめ、その由縁を説いた。

「誕生日には、毎年親が甘いパンを作った。蜂蜜漬けにした林檎をくるんで揚げたもので、当時一番の贅沢だった。
 それがただ、私の頭に残っている。古い人間の拙い懐古、それだけの理由だ」

それを聞いて、イノが内心で驚く。
レイヴンにも親はいる。当たり前の事ではあるが、目の前の男に幼い時代があった事など、思い至る事がなかった。
目の前の存在は、この世に発生した時から頭に針のある男である。そんな感覚が裏切られる。

「まあ、そうだよな……コイツにも毛も生えてない時もあったんだな」

「……当人を前にして、やけに大きな独り言を言うな」

怒り、というより呆れ。レイヴンがイノを切り捨てる。
彼女と話す事の生産性を低く見積もったレイヴンは、言葉もなく彼女の視界から去っていく。

その背を見つめながら、イノの好奇心が首をもたげる。

自分に親はいない。生まれた時からこの状態だった。
ならば、あの野郎は生まれてから数年経った時、どのような状態だったのか?

彼女が時間跳躍という超高度な技術を揮うのは、それだけの衝動で充分だった。


その地に降りた時、まず彼女を受け入れたのは腐葉土の柔らかさだった。
山頂の冷たさと麓の温かさが交じるくすぐったい温度の中、彼女は透明な息を吐く。

正確な年は分からない。
レイヴンの生地(しょうち)を求めての時間跳躍は、これまでに六回ほど行っている。
その六回は何かと言えば、既にレイヴンが不死となった後の時代であったり、あるいは生まれてすらいない時代であったり、という試行の回数である。
それを繰り返している内に、飛び先の時代が何年であったかという情報が脳から押し出された。

「テメェの年ぐらい覚えてろよ、気がきかねぇな」

理不尽な愚痴を吐き、レイヴンの生体法紋を探る。
これで見つからなかったら帰るつもりだ。帰って一番にあの鳥頭を殴る事で気を晴らす。

と、探知の法術に、見飽きた反応が返ってきた。
イノは反応のあった北北東に足を向け、反応が強まっていくと同時に村が見えてくる。

村の共同窯からは煙が上がり、灰のヴェールが朝日にかかる。
この村にレイヴンがいるのは間違いないだろう。法術を終了させ、村の外周を囲う畑に近づいた。

畑には、農作業をしていた男が一人。その男が農作物を持ち上げようと面を上げた瞬間、自身と目が合った。
男は外部者に向ける警戒を露わにするが、対してイノは偽物の笑顔を披露する。

「こんにちは。わたくし、旅の楽師ですの」

悪辣なまでに丁寧な物言いで、ただでさえ短いスカートの裾をつまんで上げるイノ。
色香を前にした男は、不審を上回る下心で彼女を迎え入れた。

「そ、そ、その旅の方が、どのような用件で?」

「オオカミが怖くって、夜通し歩いてへとへとですの」

疲労を示すように男に倒れこみ、胸の温柔を押しつける。

「ですから、どうかこの村でしばらく宿をお願いしたいんです。よろしいですか?」

「え、ええ! ええ! オイの家は一人ですんで、屋根を貸すくらいどうにでもなりやすよ!」

たじたじになる男をよそに、イノの目が虹色に光る。
七色の中に、銀髪の少年の姿を捉えた。

イノは家に引きこもうとする男の腕を払い、なだめる為にウインクする。

「ごめんなさい。あちらの誰かが呼んでるみたいですの」

未練がましい男の手を振り切り、イノはずかずかと少年の元へと近づいた。
一歩踏み出す都度、少年の容姿を値踏みする。プラチナブロンドの麗しい少年だ。
年は十歳前後か。切れ長の目に、豊かな睫毛。農作が主な労働であるこの時代において珍しく、透き通るような白い肌をしている。

銀髪はイノに気づくと、待ち構えるように立ちつくす。
言葉を問題なく交わせる距離まで短くなると、先制して銀髪が声をかけた。

「……なに?」

敵意と共に睨め上げる様が、全くそっくりだった。
イノの唇が少しひくつくが、「現代」への不満を踏みつけて対応する。

「アナタ、なんてお名前かしら?」

「言わない」

つっけんどんな態度に、ヒールの下の土が静かに潰れる。

「なんでかしら?」

「妖精に名前を教えると、子供をさらって食うんだ。
『知らない人は全員妖精だと思え』って、母さんから言われてる」

「へーぇ」

いかにも昔の人間らしい迷信だ。
否定するのも疑いを増すだけだと思い、イノは適当に肯定する。

「確かに、アナタの銀髪なんか、この村で一番キレイそうだものね。攫っちゃいたいくらい」

「そりゃ一番だろう。だって、この村でオレしか銀髪がいないんだ」

褒められて悪い気はしないようで、銀髪の胸が膨らんだ。

確かに、他を見回しても、いるのは黒髪や赤紙、くすんだ金髪くらいしかいないようだ。
だとすると、やはり、という確信がイノの中で生まれてくる。

イノはしゃがんで銀髪と目線を合わせると、警戒心をほぐす為に名を渡す。

「アタシはイノ。旅の楽士よ」

「このへんじゃ聞かない名前だな」

「ここからずっと遠い所から来たからね。それで、坊やの名前は?」

「それは……」

母の教えを守るべきか、それとも、少しだけ信頼し始めたこの女の言う事を聞くか。
銀髪がせめぎ合いを表情にしている最中、背後の家から出てきた女性が金切り声を上げた。

「そこの女! ウチの子を盗るつもり!?」

その女は豹のように距離を詰めて、イノに向かって拳を上げた。
だが、剣よりものろい拳だ。イノは振り下ろす動作と共に後ろへ足を動かし、余裕の表情でたしなめる。

「奥様、そう怒らないでくださいまし」

「何を言ってるの! よくもあたしの子を――!」

「待って、母さん!」

銀髪は、母の体にしがみつき、蛮行を止めさせる。

「この人は、さらって食うようなことはしない。だから、殴るのはやめて欲しいんだ!」

実の息子からそう言われ、母はようやく怒りを冷やした。
しかし怪訝そうな目はイノに向け、形だけの謝罪をする。

「それは、まあ、先走って、ごめんなさいね。
 貴女、このへんじゃ見ないもんで。妖精か人食いかとでも思ったわ」

「いいですわ。それだけ、息子さんを愛しているって事じゃありませんか」

心にもない甘言を舐めさせるだけで、母の態度は軟化した。

「あらあら。でもそう、こんなに良くできた息子ですのよ」

そう言って母は銀髪の頭を撫でる。
銀髪は居心地が悪そうに顔を下げ、赤くなった頬を地面にだけ見せる。

その様子が「現代」のそれに似つかわしくなく、イノはくすぐったく笑った。

「お母様にお似合いですわ」

少し褒めるだけでチョロイのが、と内心追記する。
イノの内心を知れない親子二人は、言葉だけで懐柔されたようだ。

「いやぁ、本当に、ご無礼を申し訳ございません。
 何と謝っていいものか……ああ、よければ、上がってもらえませんでしょうか? 朝食がまだでしたら、ぜひご同席を」

渡りに船の申し出に、イノが手を合わせて快諾した。

「あら、ありがとうございます。でしたら、ご相伴に与らせてもらいますね」


「――それで、ったら本当に良い子ですの。
 早いころから本も読めるし、字も書けるんです。あたしたちには本当にもったいない子で――」

口の回る母親の言葉を、表情筋の固着した笑顔で受け流す。

イノが口に運ぶのは、辛いだけの塩漬け肉。それと大量の硬いパンに、薄いワイン。
肉を手づかみするのは抵抗があったが、この時代の庶民にフォークなどは存在しない。

郷に入っては郷に従うしかなく、イノは不快さをおくびにも出さず食事を進める。

テーブルを囲むのは、彼女を除けば三人。
母親と父親と銀髪。三人家庭である。

母親はご覧の通り、お喋りで感情的であり、「女」の枠に入れて抜いたような人柄である。
一方の父親は寡黙そうで、食事中に一言も発していない。
銀髪は少し程度に棘のある、だが結局は少年の域から脱していない子供だった。

その銀髪を一瞥する。べた褒めする母の言葉を耳に入れ、再度顔を赤くしていた。
――「今」でもこんななら、もっとからかい甲斐はあっただろうに。

「お宿は、ございますか?」

そこで初めて、父親の口が開いた。
声の低さは、確かにレイヴンと通じるものはある。

「いいえ、生憎」

首を振るイノに、母親は、手を合わせて「良い事を思いついた」と目を光らせた。

「でしたら、今晩泊まりませんか? 何でしたら、一週間ほど滞在いただいても」

警戒心の強い村での、宿の確約。
食事以外は願ってもない提案に、イノが頷く。

「本当にありがとうございます。では、甘えさせてもらいますわ」

イノは噛み切れないパンをテーブルの上に置く。
そのまま席から立ち、母親がイノの起立を目で追った。

「あら、お腹一杯ですか?」

「はい。翌朝、またいただきますね」

また明日に不味いものを口にしなければいけないのが、げんなりと来るが。
しかし、母親は厳しい顔をして否定した。

「それはいけませんわ。時間を置くと、食べ物が悪いものになってしまうかもしれませんから。
 、お客様のお残しを、裏口に捨ててちょうだい」

「はい、母さん」

食事の終わった銀髪が椅子から離れ、イノの残飯を持ってどこかへと駆ける。

「本当に、羨ましいくらい出来た息子さんで」

「ええ。あたしたちの自慢の一人息子です」

母親が、父親に目配せする。父親は少し気乗りしないように首肯した。

「そう。まぁ、普通より少しは、いいんじゃぁないか」

残飯を捨てて戻ってきた銀髪は、自分の話題がまた広げられているのを聞いて、意を決して話の転換点を作る。

「恥ずかしいから、やめてくれないか?
 それより、ライ麦が切れてるよ。コボルドが逃げてしまう」

「それは困るわ。隣からまた一束ライ麦を貰わないと」

「コボルド?」

イノが首を傾げると、銀髪が説明する。

「お姉さん知らないの?
 家に住む、小さい妖精だよ。牛乳や麦をやると、代わりに家の世話をしてくれるんだ。
 ただ食事をやらないと、畑を不作にしたり、銀を腐らせたりするんだよ」

「ああ、また妖精ね」

ファンタジー創作の犬っぽいモンスターという認識を改め、イノは小さくうんざりする。
現代で否定される迷信が真実と通るこの時代において、この感覚の擦れ違いは快適とは言えない。

母親がライ麦を貰いに外へ出て行き、今度は父親が銀髪に命令する。

「イノさんを空き部屋に通してあげなさい」

自分からは動かない父親に対して、不満の色を小さく示す。
それでも銀髪はイノに近づき、進行方向を指さした。

「こっちだ」

銀髪の後ろをついて行き、木の扉の前に着く。

「前に……使ってた部屋で。今はもう誰もいない」

そう説明しながら、銀髪が扉を開いた。

扉の先は、控えめに表現すれば「物置」だった。
土のついた木の棒きれ、収穫用の丸い小鎌、共同窯の灰を掻き出す火掻き棒や、麻紐を結って作られた馬の鞭。

「この部屋で寝ろってコトかしら?」

あえて満面の笑みでイノが問いかけ、銀髪が慌てて言い繕う。

「ご、ごめん! こんな荒れてるとは思ってなくって……。
 あ、今片づける! 片づけるから、ちょっと待ってて!」

わざわざ自分の為に、憎んでいる相手が働いている。
冗談のような状況に、イノはくすりと感情を漏らす。

結局、その部屋が片付く頃には、日が赤くなっていた。


「はぁ……」

藁の臭いを嗅ぎながら、天井を見る。
ベッドは、ホテルのように白いベッドではない。枯草色だった。

藁を集めて、その上から布をかぶせる。そこに寝転がり、薄い織物を体にかける。
それがこの時代の夜の過ごし方だ。

窓は存在するが、ガラスは存在しない。部屋の壁の一部には穴が空き、麻のカーテンで外と区切る。
曖昧な区切りは、夜風に煽られて月明かりの侵入を許していた。もしこれが真冬だったらと思うと、震えてくる。

「もうこのまま、帰っちまおうかな」

思い立って、すぐにでも法術を唱え始めるイノであったが、夜の景色から声が流れてきた。

「おい」

「……あん?」

ベッドから起き上がり、スプリングの代わりに枯草の乾いた音が鳴る。
窓に近寄ると、麻のカーテンで隠されていた人影がはらりと見えた。

白髪。
銀髪ではない。その髪の色は豊かに輝かず、あの少年よりもずっと色褪せた印象を抱かせる。

少年と青年の間に立つ人間の雄が、緑色の目でイノを睨んだ。

「そこはオレの場所だった」

不審な白髪を前に、イノが不敵に構える。

「だが、今はアタシの場所だ」

縄張りの誇示に、しかしあっさりと白髪が引き下がる。

「そうか」

それだけを言い残し、大した敵意もなく白髪が夜の中に溶け消えた。

「……何だよ」

不快なベッドに戻り、一息つく。

「アイツの目のが、そのまんまじゃねぇか」


「おはようございます」

体から藁を払いながら、起床したイノが挨拶する。

父親と銀髪の二人は、既にテーブルについていた。
母親は朝食の支度に忙しなく動いている。

イノは席に座り、向かい合わせの父親に照準を合わせた。

「少し、質問いいかしら?」

「何でしょう」

くん、一人っ子なのよね?」

問いに、一瞬だけ止まる。
止まったのは、問いかけられた父親だけではない。銀髪と母親の二人もまた、その動きを止めた。

一瞬だけだ。次には、動く。

「――ええ、そうです。それで、何か問題が?」

答えではなく、家族の反応に満足して、イノは首を振った。

「いいえ、何も」

がたん、と銀髪が席を立つ。
そしてそそくさと外へ出て、水桶を持って銀髪が戻ってきた。

「ごめん、母さん。水汲み忘れた。
 お姉さん、水汲み手伝ってくれる?」

「こら、お客さんに手伝いをさせるなんて――」

母親の叱責を抑えて、イノが誘いに乗る。

「いえ、いいですわ。朝の散歩に行きたい気分ですし」

銀髪と共に家を後にする。
村を抜け、川へと向かうであろう道すがら、イノが切り出した。

「で、何か用?」

あの状況で、後回しできる用事をネタに自分を連れ出した。
銀髪の幼稚な意図を察したイノは、彼の言葉を待つ。

吹く風が緑を鳴らし、梢が静まる頃に、銀髪がイノの目と相対する。

「お姉さん、なんでさっき父さんに『一人っ子か』なんて、きいたんだ?」

質問ではなく、確認。
目の前の女が家族の嘘を見破ったという事を確かめると、イノの返事を待たずに否定する。

「違うよ。オレ、兄貴がいるんだ」

目を伏せて、言い直す。

「いたんだ」

銀髪は水桶の底を上にして地面に置き、即席の椅子に腰かけた。
長丁場になると悟り、イノもまた手近な草を手で均して座る。

「兄貴は、母さんと父さんからよく無視されてたんだ。
 オレ、昔は兄貴に少しだけ話しかけたりしたんだ。それを……母さんが、兄貴に話しかけた瞬間にこっち睨んでるって気づいて、それからオレも兄貴を無視するようになってしまった」

話す銀髪の顔も声も、その話題に合わせるように暗くなる。

「三ヶ月前のある日、兄貴がいなくなったんだ。
 さすがにその時、母さんに『兄貴がいない』って言ったんだ。
 そうしたら、『あなたにお兄さんなんていないでしょう』って言われて……すごく、当然のことのように言ったんだ。
 オレのほうが間違ってるんじゃないか、頭がおかしくなってるんじゃないかって思いこむくらいに……それで今日まで、疑わないように生きてきたんだ」

拳を握り、己の無力と怯懦に怒る。

「兄貴、妖精に攫われたんじゃないかって思ってる。
 だから、最初お姉さんと会ったとき、あんなこと言ったんだ。本当にごめん」

頭を下げる銀髪に、イノが粗雑に首を振る。

「いや、別にいい」

「?」

丁寧語のない返答を繕い、言い直す。

「い、いえ――別にいいわ。アナタも辛かったでしょうね」

口だけのフォローに、銀髪がついと目を逸らす。

「きっと兄貴のほうが辛いよ」

そりゃ、家の中でぬくぬくと育っているヤツと比べれば、そうだろう。
同情も何もない感想を掃いて捨て、イノが銀髪の背をさすった。

「さあ、家に帰りましょう。
 川の近くでお喋りが過ぎると、妖精が馬に乗ってきて攫ってしまうわ」

自分でも嘘と分かる言い聞かせに、真実のように銀髪が震え上がった。


夜闇。
灯すランプはなく、電子の明りも法力の光りも存在しない。

故に、妨げるもののない星の光が急速に落下し、暗がりを薄暗がりに変えている。
目蓋を閉じても、カーテンから星の光がちらちらと映り、古ぼけた天象儀を思わせた。

目蓋の天蓋に、星ならざる光が混じった時、イノが身を起こした。

「アンタのことはもう聞いてる、おにいちゃん

窓から覗く緑の光が窄む。

「その言い方はやめろ」

相も変わらぬ物言いに、イノが肩をすくめる。

「じゃあ、なんて呼べばいいんだ?」

「好きに呼べ」

突き放す言い方に、悪戯じみてイノが名を呼ぶ。

「レイヴン」

渡鴉(Raven)
呼び慣れたその名を呟くと、いずれ呼び慣れる者が眉を跳ねる。

「……何故、その名を?」

「好きに呼んだだけだ」

レイヴンの言葉を引用し、意趣返しをした。
イノは窓に寄り、誘惑するように体をくねらせる。

「それで、アタシのトコに来てどうするつもり? 一緒におねんねでもしたい年頃か?」

漂う色香を跳ね除けて、レイヴンは吐き捨てる。

「未練があるだけだ。

 元々、両親はそれなりにオレを育てていた。
 幼い頃には子守唄を聞かされた。一人で歩けるようになったら鍬の持ち方を教えられた。豊作の次の年の誕生日には、木苺を甘く煮詰めたジャムが出されたりした。
 それに恩義はある」

一呼吸の沈黙を置き、次に不穏を混ぜ合わせる。

「恩義以外も、ある。

 弟はオレより優れていた。弟と比較しては、両親はオレの不出来さに気づいた。

 両親はよくオレを『取り替え子』だと言った。オレは妖精の子で、本物の赤ん坊と取り替えてしまったんだ、と。
『妖精を追い出す』という名目で、火掻き棒を押しつけられた事も、馬用の鞭で打たれた事もある。

 次第にオレは蔑ろにされていき、弟が物心つく頃には、この家にオレの居場所はなくなっていた。

 三ヶ月前から、オレは家を出た。今は、裏の山で過ごすばかりだ。
 だが、オレはこうして毎夜、家に戻る。理由は未練、それと――」

レイヴンは、手に持ったものを、見えるように掲げた。
それは、歯型のついた塩漬け肉と、ぼろぼろに小さくなった硬いパン。

残飯を口にして、皮肉気に笑う。

「それと結局、家にしか生きる方法がない」


朝起きて、テーブルを確認する。

少し起きるのが遅かったのか、銀髪と父親は既に食事が終ろうとしている頃だった。

「お母様は、どちらかしら?」

「裏口に行ってるよ。残飯を捨てに」

銀髪の指さす先に、扉を開けて作業をする後ろ姿を認める。
イノは母親に歩み寄り、声をかけた。

「お母様?」

「なんでしょうか? なにか、ご用が?」

振り返りぎわ、手に持っていた食べかけの肉とパンが見えた。
イノがそれを見て見ぬふりをし、母親を試す。

「そうですね。お母様がどのようなご用で、裏口に行っているかと思いまして。
 何か、わたくしにもできるお手伝いはないかと」

母親はいえいえと首を横に振った。

「大した事はありませんよ。
 最近、鴉が来ているみたいで、フンでもしていたら掃除しようかと」

三ヶ月前から?」

具体的な日付を出すと、母親が同意する。

「はい。その頃から、残飯を裏口に捨てるようにしているんです」

「大変ですわね」

心にもなく同意していると、水桶を持った銀髪から声が上がる。

「お姉さん」

その声に続く事柄を読み取り、イノが会話を切り上げた。

「朝の散歩に行って参りますわ」

「ええ。お気をつけて、行ってらっしゃいませ」

先日と同じように道を辿り、先日とは違う疑問を銀髪に投げる。

「残飯は、誰が出すようにしてるんだ?」

丁寧語のないイノのため口に、少し驚く銀髪。
しかしその質問を受け流さず、正しく返した。

「みんなだよ。
 毎日、誰かしらご飯を残すんだ。今日のは、父さんの分」

すんなりとは理解できない事象だった。
家にいる時は散々蔑ろにしてきたというのに、いざ家からいなくなると、陰膳のように食料を用意する。

イノは、実感のない感情の名称を思い浮かべる。

「罪悪感からか?」

「かもね。でも、それだけじゃないと思う」

銀髪は、僅かに晴れやかな顔をして、イノと向き合った。

「結局は、きっと家族だと思ってるからだと思うよ」


「違うな」

朝に言われた事を、夜が否定する。

「単に、支配する対象という玩具が欲しいだけだ」

レイヴンを窓から引きこみ、部屋の片隅にあった椅子に座らせる。
彼は乾燥した肉を噛み千切り、咀嚼しながら怨嗟を口から排出した。

「『あいつは自分がいないと生きていけない動物なんだ、自分はそれを生かしてやれる尊い人間なんだ』って思っていたいから、そうしてるだけだろう」

舌に満ちる塩と油の味に、苦々しくレイヴンが表明した。
藁のベッドに腰かけるイノは、茶化すように言い放つ。

「達観してるな。アンタ、もう千歳くらい生きてるんじゃねぇか?」

「現代」への皮肉を含めたそれに、レイヴンは馬鹿にした様子でイノを冷笑する。

「人間、精々五十しか生きられないだろう」

年齢への言及に触発されたのか、レイヴンは指を五本立て、語り始める。

「オレは十五歳だ。誕生日は、もう親から祝われた事がないから、分からん。
 だが、年だけは覚えてる。弟が生まれた時から、『お前は五つ上の兄なのに』とよく詰められた。それが、十年前だ」

レイヴンの語りに、イノに驚きが生まれる。

「生まれた年を覚えてて、誕生日を覚えてないのかよ? 真逆じゃねぇか」

「何が真逆だ?」

イノが訝しむ。

現代のレイヴンは、口から出た通りそれとは「真逆」のはずだ。
生まれた年は覚えておらず、誕生日は覚えている。

新たに生まれた疑問の為に、イノが小さく確認した。

「……3月28日って、何の日だ?」

すると、白髪はすんなりと情報を引き出す。

「それは弟の誕生日だぞ。少なくとも、オレの誕生日はそれとは違ったはずだ」

直感の矛盾。
事実の背反。

目の前の男の目は、紛れもなくあの緑色をしていた。
しかし、「今」の彼が言う事と、「現代」の彼が言う事から組み立てれば、弟の銀髪がレイヴンになるはずだ。

では、今自分が会話し、皮肉に笑い、嘲るように物事を捉える。
この鴉じみた男は、誰だ?

「…………」

硬直するイノをよそに、白髪が窓から流れる風に当たる。

「――風が温くなってきてる。明日が、件の3月28日のはずだ」

そして、白髪は風船のように冗談を放った。

「オレの誕生日は、あと一年後ぐらいと言ったところか」


3月28日。
朝食を並べる母親を前に、イノは深くお辞儀をした。

「そろそろ、旅に戻らないといけませんわ」

その言葉に、四つ目のパンをテーブルに置こうとした母親が目を丸くした。

「まぁ。今夜はこの子の誕生日ですのに。
 一緒にご馳走をと思っていましたのですが……夜まで、待てませんでしょうか」

「いえ。居心地よくって、長居してしまいました。
 本当なら、昨日出るつもりでしたが……どうにも言い出せず、申し訳ございません」

「いいです、いいです。
 ご滞在いただき、良い思い出になりました。、ほら、ご挨拶しなさい」

言われて、銀髪がイノに駆け寄った。

「お姉さん、また来る?」

「どうかしら」

肩をすくめておどけると、銀髪は目を滲ませた。

「その、色々、話させてくれてありがとう。
 また、会えるといいけど……会えなかったら、これをあげる」

そう言って、銀髪はイノの手に硬質な物を握らせる。
手触りで言えば、金属だった。

「これは、兄――いや、」

家の奥にいる両親を考慮して、言い直す。

「何故か、あの空き部屋を掃除してたら、見つけたヤツなんだ。
 遠い国から来た商人が落としていった、銀の硬貨。ここらじゃ使えないし、多分……そう、コボルドがしまってたヤツだ」

そう言い訳して、銀髪がイノから手を離す。
視線を手の平に落とすと、確かに銀色に輝く円が収まっている。

イノは硬貨をしまうと、改めて銀髪に目を合わせる。

緑色の目。だが、未だ純粋を灯す目。
最後に確認する為に、イノが銀髪に問う。

「アナタ、どれくらい生き続けたい?」

脈絡もない質問に、銀髪が首を傾げながら、答えた。

「そうだね。
 ずっとこの先も。できれば、永遠に」

そんな事はあり得ないと分かりながら、銀髪が願望を渡した。
イノは銀髪の頭に手を乗せて、撫でながら二度と会う事のない別れを告げる。

さようなら(Auf Wiedersehen)


裏の山を歩きながら、イノがマレーネの弦を爪弾く。
思い描くメロディは童謡。エレキギターには不似合いな、稚気じみた歌。

――昔々、ある所に、貧しい一家が住んでいた。大層美しい娘がいた。
或る日、一家の元に王様がやってきた。母親は見栄を張り、「娘は藁を黄金に変える」と言い張った。
すると真に受けた王様は、そんな娘ならばと城へと連れていった。そして娘に荷車一杯の藁を与え、「一夜で黄金に変えろ。さもなくば首を刎ねる」と告げる。
娘はどうにもならず、一人で泣き始めた。すると妖精がやってきて、娘の願い通りに、藁を黄金に変えてみせた。
だが、妖精は娘に対価を求めた。お前を嫁によこせと。娘は拒否し、ならばと妖精が条件を出す。
「俺の名前は、一体何だ? 当ててみせたら、お前は自由だ」――

「アイツは、誰だ?」

イノの胸に湧いた言葉を、そのまま法術の起動に繋げる。
探知法術。レイヴンの生体法紋を探り、それは未だに裏の山をあちこちに動いている事を知る。

「クソッ」

先程探知した時には、丁度今の場所にいるはずであったのに。
探知法術はそのままに、イノが空間を走り白髪の後を追う。

時刻は既に夕方だった。

生体法紋は、山から村へと下りていた。
まだ夜には早い。だというのに、何故わざわざ姿の見える夕方に?

イノの胸がざわつく。

空間を跳び、探知し、そちらへと更に跳ぶ。
その工程を何度も繰り返し、ついに生体法紋がある一箇所で止まった。

そこでイノが大跳躍を行い、虚空から白髪の元へと一気に辿り着く。

白髪は、あの家にいた。
だが、家の中にはいない。家の外、外壁に背を預けて、座りこんでいた。

裏口のすぐ横の壁である。
虚空から急に現れたイノだったが、当の白髪は目線を地面に向けていた為に、空間転移の妙技を目にしていなかったらしい。
ともあれ、気配だけは察したようで、白髪はイノが来た瞬間にはぴくりと動いた。

イノは白髪の横に座り、マレーネを立てかける。

「どうしたんだよ」

「どうかしているんだ」

白髪が、頭を掻き毟る。

「昨日はあんなに余裕ぶっていたのに、今日になって心臓が百足(ムカデ)になっている」

「弟の誕生日のせいか?」

イノの問いに、こくりと頷く。

「見たくもないものを見たいと思ってる。天国(地獄)を見るだけだと知っているくせに」

見ても、繰り広げられているのはさぞ幸せな弟の姿だろう。
対して、自分は何も与えられていない。何も祝われていない。何もかも存在しない。

その空虚さを自覚するだけだというのに、自分が手にしたかもしれない幸福がそこにあると知って、こうしてうずくまっている。

イノが、白髪の惰弱さを見透かして、舌打ちする。

「見ればいいだろ。
『この家は地獄だ』って目に見えれば、残飯食って生きているコトがバカらしくなるだろ」

イノの示唆に、白髪が反抗する。

「窓から顔でも出すつもりか? 深淵を覗けば、深淵が見返してくるぞ」

その声に、今度はイノの方が掻き毟った。
もどかしい。何であれば、その背中を押し蹴ってやる。

「アンタが深淵になるんだよ」

言って、イノが法術を唱える。

性に合わないが、「アレ」が傍で使っているのを良く見ていた。
だから、こうして自分も唱えられるほど、良く分かっている。

対象を指定し、空間自体を一定の方向にずらす。
隠密の為の法術。

「これで、アタシもアンタも、誰も認識できなくなる」

「本気で言っているのか?」

白髪が、イノの正気を量るように疑問する。
イノにとっては、わざわざ法術の何たるかをこんこんと説明する義理も時間もない。

「妖精の魔術だからな」

やけくそに言い放ち、イノが裏口を開いた。

「待てっ――」

白髪が止めようと手を伸ばすが、イノが床を歩き、それでも誰もこちらに目を向けない事を証明してみせる。

「ほら、なんともない」

「…………」

白髪はしばし目を見開くが、これが現実であると知ると、彼女に倣って家の中に侵入した。
中に踏み入れた瞬間、温かな空気が身を包む。

白髪は、凍えたように身体を震わせる。

「ここは、本当にオレの家なのか?」

「何だよ、記憶障害か? 頭に針でも食いこんだか?」

「いや、何でもない」

甘ったるい匂いの満ちた家の中で、吐き気がこみ上げる。
記憶の差異に酔っていた。いや、立場の差異か。

自分にとって知っている場所というものは、疎まれた兄としての立ち位置だ。
今立っているのは、弟だけのものとなった場所。弟が受けてきた、祝福の(うてな)

白髪は、食卓のある居間へと向かって、一歩を踏み出した。

「――母さん、それはなに?」

銀髪の声に、硬直する。

イノと白髪の姿は、三人のすぐ眼前にある。
それでも、その内の一人も気づかない。

そこまで近づいているからこそ、この場の空気が何よりも沁みる。
疎外も除外も存在しない、祝いの座。

「クラップフェンよ。
 蜂蜜漬けにしたリンゴをくるんだ揚げパンでね、今日の為に奮発したわ」

母親が微笑んだ。
そんな表情など、自分に向けられた事はなかった。

「そんな、すごい!」

銀髪が驚嘆する。
そんな声色など、自分が上げる資格すらなかった。

「今年からは、特別だ」

父親が宣言する。
そんな事象など、自分に起こるはずもなかった。

「毎年、貴方に食べさせてあげる。
 貴方が生まれてきたこの記念日を、ずっとずっと覚えておくように」

3月28日。

自分が生まれなかった日。
自分でない者が生まれた日。

弟が生まれた時は、あまり釈然とはしなかった。
それでもその翌日に弟の鳴き声を聞いた時には、自分が兄なのだろうとぼんやりと思い浮かんだ。
更に次の日に、兄なんだからもっとちゃんとしないとと、気を張った記憶がある。
生まれてから一年の間、母は弟につきっきりだった。
兄なんだからと、我慢した。母の分まで仕事が来た時も、母が頑張っているからと自分も頑張った。
一年を過ぎて、自分も弟の世話をするようにした。弟は自分が何をするにもイヤイヤと拒絶した。母親が来るとそれは止まった。
二年を過ぎて、今の自分でも読めない本を読めるようになっていた。父親は神童だと褒めた。確かに、自分でもできない事ができるから凄いだろうと思った。悔しがった。
三年を過ぎて、顔立ちの良さが目に見えてきた。母親は事あるごとに集まりに弟を連れて行った。自分は家を守っていた。帰ってくると弟の手には一杯の菓子と玩具があった。
四年、弟は文字を書けるようになった。父親も弟の世話を焼くようになった。自分が一つ失敗をするだけでも酷く怒鳴られた。余りに怒鳴られて失神してからは無視されるようになった。五年、弟の食事にだけ果物がついていた。自分にはなかった。その頃から存在を無視されて、自分の誕生日が無くなった。六年、弟が自分に物を投げてきて殴った。火掻き棒を押し当てられた。部屋に物が捨てられるようになった。七年、同じテーブルにつく事を許されなくなった。立ったまま物を食べなければならなかった。八年、弟に跡継ぎするには厄介がいると父親に睨まれた。農作業を一日休んだら一週間何も口にできなかった。蛙を食べて吐いた。九年、声を上げるだけで睨まれた。物置のような部屋で一日中過ごす事になった。

十年。

十一年。


十二年。



十三年。




――――。
――――――――。


何かを叫んでいた。その声が自分だと気づいたのは、息が苦しくなってからだった。

「何だ!?」

父親が声を上げた。それは自分の声のせいだと思ったが、自分の足がテーブルを蹴り上げたせいだと分かった。
テーブルの上にあった、濃い赤色の、水で薄めていないワイン。
塩まみれでない、柔らかい肉。
煙の立ち上がる、揚げたての甘いパン。

全部、宙に浮いては床に叩きつけられた。
ワインは木目に染み、肉は埃まみれになり、パンがボールのように壁に当たって跳ね返る。

一切が、自分の手に入らないもの。
それが台無しになったとしても、決して自分の手には入らないもの。

「ああああああああっ!」

ようやく、鼓膜が自分の声を認識した。
叫ぶと共に、振る舞われた事すらないクラップフェンをつかむ。

傍から見れば、それは小麦の塊が宙に浮いているように見えたのだろう。

「妖精ッ!」

何よりもそれを恐れている母親が、そう悲鳴を上げた。

走り出す。裏口を抜けて、村を抜けて、山へと駆け出す。
不思議な事に、ゆうに千フィートは全力で走っているというのに、疲れの一切を知らずに足が動いていた。

止まったのは、地面から突き出した石につまずいたせいだった。そこでようやく、自分を顧みる。

すぐに、気配が生まれた。単なる空気だった空間が、一気に凝縮して女の姿になる。

汗一つないイノが、問いかける。

「それで、どうするつもりだ」

これから、どうするつもりか。
手にした物で、どうするつもりか。

問いに、無言のまま口を開けた。
クラップフェンを頬張り、自分が得た事のないものを、嚥下する。

味は分からない。何も分からない。
ただ、今までここまで突き動かしてきた衝動がぷつりと切れて、白髪が地面に倒れた。

「……おい?」

イノが、足で白髪の体を揺らす。

どうやら、気を失ったらしい。
そうもなるだろう。自分でも行動が分からなくなるほどの激情に駆られた上に、全力で走り酸欠になったのだ。

「……結局、『今』のコイツも、救われねえ存在か」

言って、イノが弦を鳴らした。

レイヴンは、不死に狂った。
痛みに快楽を見出し、「あの御方」を信じ、それでも最後に望むのは、ただ有り得ざる「死」一点。

それでも、過去を語っていたあの時の表情には、このような絶望を想起しているような様子すら無かった。

「一体何だっていうんだ。アタシが介入したせいで、何か改変でも起こったのか?」

それにしては、過去改変特有の、空気が変わるような違和感が存在しない。

悩むイノに、解答の一人が起き上がる。

「……思ったよりも早いお目覚めだな」

白髪が落ち葉を払い、イノの姿を認めた。

「ああ……今、起きた」

意識を失っている間に動悸が落ち着いたようで、冷静な動作で立ち上がった。

「頭がすっと軽くなった。夜だというのに、眠気もない」

「それは良かったな。それで、これからはどうするつもりだ?」

「これからは、そうだな……家から離れて、軍に行く。
 徴兵が始まっている。稼ぐ為にも、生きる為にも、そこに行くしかないだろう」

先までの様子とは打って変わって、前向きになったようだ。

「少しくらいは、救いはあったか」

「何の話だ?」

「いや、何も」

胸が少しだけ軽くなり、イノが白髪と並び立つ。

「ともあれ、『(いま)』のアンタの踏ん切りがついたんだろ?
 これで、心置きなく『現代(いま)』のアイツをいびれるワケだ。流石に、あんな暗い状態のままじゃ、後味悪いしな」

言って、イノが白髪に背を向ける。

「行くのか?」

「ああ。もうアンタに興味はない。
 会うのはまた数千年後だ。じゃあな、レイヴン」

そう言って、時間跳躍の法術を展開する。

だが、白髪は、イノの呼称に怪訝な顔をする。

「レイヴン? 誰だ、それは?」

「――――」

イノの口が止まる。
彼に目を向ける。その顔は、心底不思議そうな顔をしていた。

「オレの名前はだ。
 渡鴉(Raven)なんて呼ばれた事は、一度もない」

「――――」

イノは、唇を噛んだ。

直感の矛盾。
事実の背反。

それらが解れた。
解れた結果散らばったのは、グロテスクな結末だった。

イノは白髪に一瞥もせず、現代へと跳躍した。


「バックヤード」。
その一角に、彼女たちの居場所の一つはある。

「…………」

無言で、寝静まる「現代」のレイヴンを見下ろした。
ここにおいても、カレンダーは3月28日。ただし、時刻は午前を指している。

藁ではない、純白のベッド。
かつてよりずっと恵まれた場所であり、だがそれは彼の心を埋めるに値しない。

跳躍前に買った「モノ」であれ、そうだ。
昨日、評判だというパン屋に訪れ、気まぐれに彼が会話で挙げたクラップフェンが、「バックヤード」のテーブルの上にある。

だが、今となっては、それは過去のレイヴンを侮辱するものでしかない。
イノはテーブルの上から、その紙袋を拾い上げた。

「バックヤード」は「あの男」及び側近の生活拠点でもある。
イノは「あの男」の菓子作りに使うキッチンへ寄ると、手に持った紙袋を、生ゴミの箱へと静かに入れた。

We're All Gonna Die

レイヴンとカイの対立の話
針は一本だけと決めていた。
決めたのは、数十年前の事だったか。

その時、針はゆうに千本を超えていた。
際限なく痛みを求める欲望に跪き、頭部が真なる銀髪で覆われた時、文字通りに「忘我」というものを体験した。

知識、知性を司る脳に損傷を与える行為。
針が一本貫けば、自分が好いていた事柄を一つずつ忘れていった。
針が十本刺されば、自分に関わってきた人間を十ごと失くしていった。
針が百本抉りこめば、自分が今なにをしているのかすら分からないようになっていた。

気がつけば、何一つ考える事もない霧の底に微睡んでいた。
濃霧の奈落から引きずり上げられたのは、十日ほど後の事だったと聞く。
赤い楽師が悪態を吐きながら、頭の針を抜いていたのを、ただ(ぼう)と水晶体が受容していた。

故に、彼の頭部にはただ一つの針のみが存在する。
今のこの身は、砌である。主の号令に耳を寄せるべきであり、欲望に沈溺してはならない。
己に課せられた主命を忘れる事など、有ってはならないのだ。



だが、決まりとは得てして破られる定めである。


「ただいまー!」

常日頃よりも少し大きな声量で、少女が朝の散歩から帰宅した事を母に告げる。
その差異に母も気づいたようで、朝食の鍋を回す手を止めて振り返った。

「おかえり。なにか、良い事あった?」

「いい……ことじゃ、ないかもしれないけど……あったことがある!」

言いながら、少女は母のいるキッチンまで走る。
彼女の腕には、小さな生き物がいた。

「あら、黒猫でも拾ってきたの?」

「黒いけど、ちがう! とり! からす!」

言いながら、少女が鴉を母に見せる。

「まぁ。捕まえてきちゃったの?」

「つかまえた、っていうか……ケガしてて飛べないみたいだから、守ろうと思って!」

少女が善意を表出させる。
「良い子」に育った我が子を見つめ、母はにっこりと笑んだ。

「あらあら、ならしばらく、うちで休んでもらおうかしら」

「……ずっと飼うの、だめ?」

小さい生物を所有したいという好奇心が、少女の首を傾げさせる。
しかし、母は少女の額をつんと突くと、やんわりと否定した。

「だーめ。このカラスさんも、帰るおうちがあるのよ。
 狭いおうちにずっと住んでいたら、ひろーいお空に帰れなくなっちゃうわ」

「そっかー。なら、帰れるまで、いっしょにいる!」

少女が、潰さない程度にぎゅっと鴉を抱きしめる。

「さあ、もうすぐお父さんも起きてくるわ。
 カラスさんは、こないだ空けた林檎の箱にタオルを敷いて、そこに住んでもらいましょう。
 朝食の棚にオートミールがあるから、カラスさんにあげなさいね」

「はぁーい」

少女が言いつけ通りにいそいそと準備して、腕の鴉を木箱にそっと移す。
鴉は少し足をばたつかせた後、タオルに体を埋めてこちらを向く。

鳥類の黒い瞳には、食卓の様子がはっきりと映っていた。
少女から差し出される餌と水の皿には目もくれず、鴉は家庭の有様をじっと見やる。

「――おはよう、二人とも」

「あ、おとうさんだ!」

「おはようございます、あなた。今日は朝から二人とも好きなシチューよ」

「二人? はは、君も好きじゃないか」

「あらそうね。ふふ、じゃあみんな大好きね」

「お皿、くばるね!」

「ありがとう。じゃあ、今度はパンも運んでくれる?」

「それなら僕が運ぶよ。今日は休日だからね、仕事よりも君たちが優先だ」

「あら、じゃあよろしくお願いするわ、あなた」

陽光が部屋を暖色に染め、不和なき安寧を鮮明に映し出す。
一切の不幸が存在しない、純粋無垢な幸福の体現。

その光を一身に受けても、鴉は飛び立つ事ができない。
情景から目を外す気力すら湧き上がらず、ただじいっと水晶体に受容させる。思考力すら、奪い去る。

つつがなく朝食を終えた少女は、救急箱を持ってすぐに鴉へと駆け寄った。

「いたいよ? なおすよ?」

言いながら、少女は脱力した鴉を抱き抱える。

「あれ……?」

そして、疑いが生まれた。

「さっきまで、おててにケガしてたよね?」

少女は、先まで流血していた翼に目をやり、首を捻る。
疑念に緩む少女の手に、機会を得た鴉はようやく我に返った。

鴉は翼を激しく動かし、少女の手から逃れて着地する。

「あっ!」

少女の驚きの声を振り払い、鴉は一心不乱に羽ばたいた。
未だ完治してはおらず、飛行に若干のふらつきはあるが、行動そのものに支障はない。

鴉は開かれた窓へと身を躍らせ、外へと離脱する。

少女が鴉の後を追い、窓に縋りつく。
そして、少女は鴉へと叫ぶ。

「飛べたんだねー! よかったー!」

怨嗟ではない。後悔ではない。
小動物を飼育する機会を逃した負の感情ではなく、生命があるべき姿を展開した事への正の感情を叫ばれる。

どこまでも、彼女とその家庭には、善良なものしか存在しない。
そこに、闇の一切は存在し得ない。

「…………」

いたのは、ただ光に虐げられた矮小な自分だけだった。

決して無い(Nevermore)

二度と、あのような家を得られる事はない。

鴉の姿は空間に溶ける。
空間迷彩。高度な法術が結実する。

そして見えざる黒の鴉は、誰にも知られず人間へと変じ始める。

羽毛は衣服に。
黒毛は白髪に。
嘴は針に。

あの少女に拾われる前、レイヴンは傷を負った。
「あの男」を狙う復讐者、梅喧という女によって、である。

その女から与えられた死傷は、極上の痛みであった。
そして久方ぶりに満足をした彼は、頃合いを見て逃亡した。その背に受ける罵倒すら甘美だった。

空間転移すらままならぬ痛みだったが、鴉へと変化する法術は行使できた。
路地裏で治癒を待つと共に余韻に浸っていると、あの少女が自分を見つける。

以後の展開については、前述の通りである。

今や身傷の癒えた彼であったが、それよりも深い心傷を負った。
その傷の形は絶望(Verzweifelt)

悲劇とは何故悲劇足り得るのか、それは喜劇が存在するが故である。
仮に悲劇のみが演じられるとすれば、それは「悲劇」という名は与えられず、単なる「劇」であるしかない。

絶望とは、ただ存在するだけではそれほど酷くはないのだ。
酷薄な環境に置かれようとも、そこに浸るだけでは「仕方ない」という諦念が救いになる。

だが、希望ををまざまざと見せつけられれば、絶望は絶望足り得る。

自分に差し伸ばされた手。
全てを包むが如き温かな家庭。
こちらから拒絶し、空へと逃げようとも、落胆すらせず安堵を紡ぐ無垢。

一体自分は何なのだ?
復讐者に殺意を抱かれ、幾度も斬られ殺されて、惨めに逃げて罵倒され、路地裏で燻っていた自分というのは、何だと言うのだ?

鳥にも劣る畜生である。受けた傷にすら喜びを覚える卑小な肉袋だ。
あの小娘に拾われなければ、このような思いをする事はなかった。苦痛をあるがままに享受する幸福しかなかった。

希望の光を前に、全ては反転した。
闇に微睡む存在にとって、光とは目を刺す劇物である。

家庭の希望。
それは追い求めなければ得られぬ貴重な宝ですらなく、この世界の人間多くに満ち溢れる、ありふれた産物。

だが、自分は決して満たされる事はない。
この先、今まで生きてきた同じ時間を費やしたとしても、化け物は凡俗の産物すら得られないのだ。

レイヴンは、それに逃げた。
飛びながら、どうする事もできない焦燥に駆られて、技を叫ぶ。

「Schmerz Berg――!」

激情が、一本ではなく幾千本の針を呼びこんだ。
星空のような切っ先が彼を取り囲み、自滅する。


自分の意思を確認した時には、既に場は整っていた。

「これより、被告人、元第一連王カイ=キスクの裁判を始める」

元? その意味を問うよりも早く、ヴェールで顔を隠した裁判長が木槌を叩いた。

法廷は、現行のものとは大きく様相が違っていた。
傍聴席は、どちらかというとコロシアムの観客席と形容した方が早い。
被告人である自身を擁護するはずの弁護人はいない。いや、それどころかその役が座るべき席すら存在しない。

現実には存在しない法廷の中で、カイが真正面の法壇を見上げる。
古めかしい羊皮紙の巻物を解き、裁判長は年若い声で文章を辿った。

「被告人はGEARを国内に入れた。それは大いなる罪である。
 聖騎士団に所属していた頃より知人であったGEAR、ソル=バッドガイを度々召還し、GEARで造られた人造兵オーパスの配備を看過、果ては妻すらもGEARである。
 これは連王の座に就きながら国そのものに背く、外患誘致罪である」

裁判長の言葉に、堪らず抗議が口を突く。

「GEAR全てが害ある存在ではない!
 彼らは、彼女たちは――人間と同じ、意志があり、慈悲があり、愛情がある、共に生きる事のできる隣人だ!」

「罪人、口を開くな!」

未だ判決が下されていないというのに「罪人」と来た。さながら魔女裁判の様相である。

「では、これより証人を召喚する!」

現代の形式から大きく外れた進行の中で、魔法のように証人が何処(いずこ)から湧いて出た。

その証人の名前を、驚きのあまり声にする。

「レオ……!」

同じ聖騎士団出身、同じ連王の位、同じ志の、友にして朋。
外見こそ相違ないが、彼が語る言葉は総て違う。

「GEARは人類の敵だ」

抑揚のない、零度の声。
レオが決して紡ぐ事のない台詞に、カイが前のめりに否定した。

「違う! この証人も、その証言も偽物だ!」

否定に、偽のレオがなおも言い募る。

「お前も俺も聖騎士団の団員だ。ならば、GEARの害悪さなど身に沁みて覚えているだろう?」

「それは、ジャスティスによる命令で――!」

「ジャスティスはアリアだ。
 ソルの恋人で、かつては善良な女性だと聞くが、何故善人は人類を殲滅しようとした?
 GEARは人間を殺す道具としてデザインされた、破壊衝動を持つ生物兵器だ。
 GEARにされた者は全て、人類に牙を剥く危険物に成り下がる」

「ジャスティスが人類の殲滅を指示したのは、アリアさんがGEARになった事だけが原因ではないはずだ!」

木槌が響く。それと同時に、レオの姿が掻き消えた。
消滅と代替するように、新たな証人の姿が出現する。しかも、それは一人や二人ではない。

全て、見知った顔だった。
鎖鎌を下げた男がいた。髪のゆらめく女がいた。紙袋を被った男がいた。中華服の女がいた。
全員が全員、顔に何の表情も浮かべていなかった。

その全員が一個の生き物であるように、違う口から続く言葉が連なっていく。

「お前がGEARを守ろうとする理由を教えてやろう」

「GEARの女に恋慕したから」

「GEARの子供を成したから」

「お前自身が、GEARになっているから」

「自分たちが攻撃されないように、GEARを擁護しているんだ」

「お前がGEARを好かなければ、今でもGEARを殺していたんだろう?」

「全て、保身の為に過ぎない。かつて掲げた、正義の為ですらない」

「お前は、罪人だ」

その言葉は傍聴席にすら連鎖して、世界の全てがカイを責め立てた。

「証言は、以上だ」

裁判長が、顔を隠していたヴェールを上げる。
露わになった口で、偽装された真実を告げる為に。

「故に、有罪である」

裁判長の姿形が、ヴェールごと剥ぎ取られた。
そこにいたのは、聖騎士団団長として戦場に立っていた、かつての自分。

GEAR(化け物)を殺す事が正義だと信じていたお前が、今更何を守るというんだ?」


体は休んでいたというのに、動悸が激しい。
夢。自罰的な傾向にある彼にとって、あまり楽しい夢というのは見た事がない。

そういった悪夢を見ない為に、彼には決まりがあったのだが。

「……夜の紅茶は、一杯だけと決めていたのだが」

日が変わるまで積み重なった仕事をこなす為に、カイは気力を満たす紅茶を三杯口に入れた。
浅い眠りが夢を運び、こうして苦しむ事になる。

カイは心臓が収まるまでベッドの上で時を過ごし、落ち着いてから支度を始める。
仕事着に袖を通そうとして、手が惑った。

「休日か……」

多忙な連王の身である。常ならばカレンダーの休日すら潰す程であるが、今日は仕事の一切ない本当の休日だった。
そんな貴重な休み時だが、何とも幸先の悪い夢見である。

少し損をした気分になりながら、仕事着を戻して普段着に着替える。
カーテンを開ける。陽光を浴びれば、後ろ向きになっていた気分も前に転換していく。

硝子に映る自分の目は、エメラルドグリーンに光っている。

「…………」

目元を撫でる。

GEARの目の色は赤である。
赤と緑は対照色。連王として立つ己は、GEARとは関係ないかのように、清廉潔白に振る舞っている。
だが、既に気づいている。己の目の色が、時に赤へと変じている事に。

「私は……人間ではなくなっているのか?」

GEARへの嫌悪感はない。
だが、自分の種が変じる事への忌避感が、不安を湧かせる。

かつての自分がGEARを殺していたのと違い、今の自分はGEARを愛している。
それは本当に自分の意思によるものなのか? GEARへと変じたが故に、保身の為の感情なのではないのか?

違う、と強く否定する。ディズィーを愛した瞬間の己は、間違いなくGEARに染まる前だったはずだ。

ならば――ディズィーと邂逅しなければ、自分は今でもGEARを敵と思っていたのか?
自分という性質が分からなくなり、カイが頭を振る。

悩みながらであろうが、自分は道を進んでいるはずだ。
国民も、聖戦の傷が癒えて、GEARと冷静に向き合える時代に来ている。
全ては希望へと向かっている。未だ障壁は大小数多そびえ立つが、神は乗り越えられぬ試練を与える事はない。

努めて楽観的に物事を判じ、カイは自室の扉を開いた。

妻のいる小さな扉に手をかけると、その横にいた衛兵のソードマンが声をかける。

「ああ、カイ様。お伝えしたい事が」

「何だ?」

「ディズィー様は、先程シン様に連れられてバーガー屋へと行きました。
 シン様は、カイ様の所にも寄ったそうですが、寝ていたとの事なので……」

「そうか。……何分、十一時になるまで寝ていたからな」

「それは……珍しい事でありますね」

「ああ。そうだな――」

予定を折られたカイは、少し思案した後、ソードマンに行き先を告げる。

「少し、旧礼拝堂に行ってくる」

「……承知しました」

若干の沈黙、それは上の者を諌めるべきかという逡巡。

旧礼拝堂、というのは、つまり新しい礼拝堂が別にあるという事である。
ではなぜ旧くなったかと言えば、バプテスマ13事件が由来にある。

ヴィズエル軍によるイリュリア城の襲撃により、城の一部が破壊された。その内の一つが礼拝堂であった。
城の主要な箇所は既に修復されていたが、軍事的及び政治的には重要度の低い箇所は後回しにされていた。
その間に、修復するよりも新規に建てる方が早いという事で、別の礼拝堂が新たに建てられたのだ。

現在も旧礼拝堂には瓦礫が散らばっている等の不備があり、立ち入る者は限られている。
壁の倒壊の心配はないとの事であるが、万が一という事に心配するのも部下の情である。

しかし、立ち入る者がいないという事で、第三者の介入なく黙想するにはうってつけの場所であった。
カイは豪奢な廊下を抜け、補修の跡の目立つ通路から旧礼拝堂へと辿り着く。

軸の外れた扉を開けて、岩の匂いのする空間に一人佇む。

天井には、聖母マリアを模ったステンドグラス。
壁には、傾いた鏡と歪んだ窓。
床には、壁から欠けて落ちた灰色の煉瓦や、割れた窓ガラスが混在し、かつての事件の不穏さを残していた。

足元の障害物を避けながら、礼拝堂の最奥にある木壇に近づく。
木壇の上には、儀礼用の長剣が二振り置かれている。
その銀の輝きを前に、まずカイが目蓋を合わせ、手を合わせる。

「神よ……私は、少なくとも一つの間違いを犯しています」

かつてGEARを殺した事、今はGEARを守る事。そのいずれか。
神への懺悔とも、己への自戒とも取れる言葉。

「罰を与うならば、私が一身に受けましょう。どうか、皆には深き慈悲を願います」

自己犠牲を説き、しばし沈黙に身を委ねる。
ステンドグラスに濾された虹色の光が、カイの身体を滑った。

胸中で満ちたカイは、目を開け、手を崩す。
祈祷を終え、彼は次なる鎮静の手段を求めた。
右手に長剣の一振りを握り、左右に開けた空間に行くと、虚空に向かって構える。

「――ッ!」

一呼吸の動作で、一閃が流れる。
剣術。かつての生業であり、今では離れた荒事である。

刃の閃きを重ねるごとに、若き頃より振るってきた馴染みの感触に心が落ち着く。
だが、同時に苦笑が浮かんだ。

「……流石に、ペンだけを手にしていると、腕が鈍るな」

速さも、重さも、足りていない。
美貌を以て未だに「若い」と言われてはいるが、その身に経た年月は積まれている。

「はあっ!」

裂帛の声と共に、剣が舞う。
銀が煌くその刹那、頭上から涼やかな異音が鳴った。

「――ッ!?」

見上げる。
天井のステンドグラスは割れ、その亀裂の中心部には落下する塊があった。
落下してきたものが、物ではなく者だと、鷹の目が見抜く。

「何者だ!?」

誰何の声を上げながら、駆け寄る。
敵対者である可能性は高いが、もし無辜の者であるのならば、応急処置と救護の要請が必要だ。

だが、落ちてきたのは、前者だった。

「お前は――!」

「……お前は、誰だ?」

目の前の人物を知るカイとは正反対に、彼は目の前の人物を知らないと発言する。
その無知自体に、カイが驚く。

自分の事を知らないはずがない。
かつて己と切り結び、敵対し、そして一時的に自身の友と共闘した存在。

レイヴン。その人だった。

「敵か!」

短絡的に判断し、彼はカイから飛び退いた。
レイヴンが周囲を見渡し、武器となる長剣が木壇の上にある事を知ると、カイへの警戒を払いながら長剣を手にする。

「祖国に仇名す敵の牙城か……! お前がオレをここに連れてきたのか!」

混乱状態の新兵を思わせる素振りに、カイが戸惑う。
認識にある限り、彼という人物の振る舞いからかけ離れている。本来の彼なれば、より冷静に事を分析できるはずだ。

「答えろ!」

叫びながら、レイヴンがカイへと斬りかかった。
困惑という渦に脚を取られていたカイは、その斬撃の対応にやや遅れた。

自身の長剣でレイヴンの長剣を斬って流し、互いに声を上げる。

「くっ……!」

斬撃の重さに喘ぐカイ。

「……っ、お前も手練れかッ! 」

自身の攻撃を流された事に憤慨するレイヴン。

カイは後ろに跳躍し、長剣を下げて制止した。

「待てっ、様子がおかしい! 何があった!」

「敵に心配をする貴様の方がおかしいだろう!」

レイヴンは聞く耳も持たず、直進する。
やるしかない。カイは染みついた剣技を瞬時に想起し、長剣が振り上がる。

幸いというべきか、相手は不死身の男である。手加減はいらない。
足を踏みこみ、腕を走らせ、長剣はレイヴンの首を狙う。

「――っ!」

レイヴンはすぐさま後ろに跳んだ。
それは過剰なまでの後退だった。たたらを踏み、一度転倒する。

「ぐっ!」

それでも素早く立ち上がり、長剣を再度構えた。その刃先は、震えていた。
彼の様子を見て、カイは確信する。

自分の目の前にいるのは、戦死を恐れる新兵だ。
死を望み、痛みを歓迎する彼とは違う。

「があああああっ!」

それでも、レイヴンは自分を奮い立たせて剣を振る。
カイは最低限の動作でそれを避け――ようとし、見誤って脚にかすった。

「ちっ!」

だが、支障ない。
血の赤を意識外に追い出し、カイはカウンターとして刃を繰り出した。
狙うは先と違わず、首の両断。そして数瞬。

「ぎイっ!」

レイヴンの悲鳴と共に、左側頭部が切り離される。
手に返ってくるのは、肉と骨と、細い金属を断った感触。
狙いとは違うが、これで戦意ごと削がれてはくれないか。

カイが一抹期待し、彼の様子を見つめた。

レイヴンは、自分の頭にあるべきものが存在しない事を、自分の手で確認する。
血に濡れていく体を見ながら、彼は大きく悲嘆した。

「ない……!? オレは、死ぬのか……!? (いや)……!」

錯乱し、死に震えているレイヴン。

「オレは……死んでたはずだ。敵に囲まれて……腹を剣に貫かれて……だが、今は違う……それでもこうして斬られても、生きて……? 何故だ……?」

しかし、頭部が再生していくと、段階的に冷静さを取り戻していく。
流血が止まり、状況を飲みこもうと黙りこむレイヴンに、カイが疑惑を投げこんだ。

「もしかして、記憶喪失を起こしているのか?」

「黙れっ!」

確かに記憶があやふやだ。だが、それを敵に指摘されるのは不快だ。
そういった苛立ちを含めて反抗し、レイヴンが剣を握り直す。

「何があろうと、お前はオレを殺した!
 お前は敵だ! 許すワケがない!」

再度、レイヴンが迫る。
今度は蛮勇と言える猛烈さだった。
死への恐れが、不死への疑惑によって薄れている。

先程よりも迷いと恐れのブレがない、死線を一、二度くぐり抜けた太刀筋。

「ッ!」

カイは息を吐き、刃を刃で受け、あるいは身を横に反らして躱す。

「だが……っ!」

体が、戦闘を思い起こしている。
脳裏に浮かぶのは、かつて聖騎士団で受けた訓練。
剣と剣とを打ち合い、互いに高め合う実践訓練。
違う所と言えば、これは模擬刀などではない事か。

「――隙あり!」

相手の大振りを見切り、終了を告げる突きを繰り出す。
これは訓練ではない。相手の眼前で止まる事はなく、刃が頭部を貫通する。

「ァ――ア゛……!」

痙攣するレイヴンをよそに、

「――ッ!?」

カイが、彼から漏出した真実に身震いする。
貫通した頭部から、刃と肉の合間を縫って幾本もの針が流れ出す。

そもそも、彼の頭部には元から大きな針が一本刺さっている。
だが、脳にこのような針が無数も潜りこんでいたのか?

硬直するカイだったが、痙攣を止めたレイヴンがつぶやく。

「思い出した……」

ずぷ、と水の音を立てながら、レイヴンが後退する。
剣が肉の鞘から抜かれ、再生が始まった。

「ここを通せ」

ようやく、彼らしい不敵な笑みが浮かんだ。
カイは首を振り、刃に纏わりついた血を振って拭う。

「……事情もなく、通す訳にはいかない」

「先も見ただろう、俺は死なない。
 死なない人間を殺そうとしても、疲れるだけだ」

そう宣い、レイヴンが刃を向けた。

「はあっ!」

刃と刃が混じり合い、火花が散る。

既に刃から、死の恐怖はない。
厄介ではあるが、こちらから剣を向けた際には回避を行っている。

疑問を確信に変えるべく、剣を交えながらカイが問答を仕掛ける。

「痛みはどうした!?」

「痛み? そんなもの、受けるだけ損だ!」

レイヴンが薙ぎ払い、わずかな風圧を受けながらカイが退く。

成程。ならば、まだ完全には思い出していない訳だ。
それは自身とて同じ事であった。本来の実力、聖騎士団団長として立っていた頃にまだ追いついていない。

対して、向こうは不死者である。
脳を切り離される都度、確実に何かを思い出し、その刃に不死の驕りを乗せてくる。
死ねば最後の己とは違う。こちらに明らかな不利を押し付けてくる。

秘密裡に、救援信号を法術で送る。このまま逃げる手もあるが、逃げた先に一般人がいたら巻きこむ事になる。

足を礼拝堂に止め、ここで戦う事が、一番犠牲の少ない選択だ。

……それが、本当に良い選択なのか?

「はあっ!」

頭に過ぎた思いを払うように、カイが剣で弧を描く。

自分は久方ぶりの戦いに、高揚しているのではないか?
何かの為に戦うのではなく、戦う為に戦っているのではないのか?

無意識に、カイは礼拝堂の鏡に背を向けた。もしそこを覗いてしまえば、赤い目のした己を視界に入れてしまうかもしれなかった。

否が応にも、カイの腕前が上がっていく。そうでなければ、自分は死の奈落に吸いこまれる。

「カアッ!」

鳴き声のような掛け声と共に、レイヴンが急進する。

「今だ!」

その攻撃動作そのものを隙と見て、カイが剣を下から上へと逆袈裟に斬り上げた。

「!」

声は、出るはずもなかった。
喉から上が切り捨てられ、レイヴンの体が床に崩れる。

「…………」

カイは、自分が息を止めていたのに気づく。
呼吸をする。息が荒い。アドレナリンが自分の体を無視していた。

限界ではない。むしろこれ以上の域まで行ける。
剣を構え直し、レイヴンの再生を待つ。

首から上が生えるように再生し、カイの予見通りに彼は立ち上がった。

「――全て思い出した。
 ああ、そうだ。私はイリュリア城の上空で墜落した」

自身の全てを取り戻したレイヴンに、カイが説く。

「今ここで、戦う必要はないはずだ」

「ああ、そうだ。必要はない」

言葉とは裏腹に、レイヴンは長剣を手放さない。

「だが、私の興が乗った」

「……私は、争いは望まない」

「どうかなぁ?」

挑発的に首を曲げると、レイヴンが笑いかける。

「貴様の興も乗っていたのだろう?
 現に、お前の顔には――未練がましさが貼りついている」

「ッ!」

反射的に、鏡の方へ顔を向けた。
刹那、接近する気配を感知し、脊髄の信号のままに剣を真横に構えた。

ギン、と鈍い金属音が響き、風の法力の纏った長剣が空間を裂いた。

「……本気でやる、という訳か」

「私とて、昔は軍で剣を振るう身だった。
 同じ剣士ならば――私の千歳(せんざい)を埋めてみろ!」

吠えながら、レイヴンが斬撃を繰り出す。
一閃ずつに風の法力が乗った攻撃は、床にすらそのダメージを行き渡らせていた。

カイも同じく、雷を纏って刃を輝かせる。
法術。これを駆使しての戦は、殊更聖戦当時を思い出させた。

「行け!」

地面を這う雷撃を予め読み、風と共にレイヴンが飛ぶ。
雷撃の一部はレイヴンの足を食らい、彼の口から嬌声が漏れた。

「ああ! 重畳、重畳じゃぁないか!
 貴様の狂気を見せてみろ! 『第一連王』! 『聖騎士団団長』! カイ=キスク!」

「『死体漁りの烏』! 『不死の病』! レイヴン!」

互いに、互いの名を、互いへの敵意と敬意でもって共鳴する。
荒廃した礼拝堂は、風と雷に舐められ更なる荒地へと変じていく。

雷は幾度も彼の外套を(かす)める。
風は何度も彼の後髪を(たわ)める。

斬撃。
交錯。
回避。
閃光。

その戦いそのものが、刃を鍛える鎚のように、カイの腕を元に戻していく。
感覚が取り戻されていく。

戦場に立つという事。
そこに、命の価値は問われない。
最後まで立ち続け、敵を殺す事を至上とする白黒の空間だ。

生き延びるには、殺すしかない。
GEARの首魁を上げれば喝采された。
GEARがどのような姿であれ殺した。
見るもの全てを竦ませる竜の姿であろうと、物怖じせずに殺した。
見目麗しい美女の姿であろうと、何の逡巡もせずに殺した。
小さな鼠のようでも殺した。空に浮かんでいれば飛んで殺した。逃げていれば追いかけて殺した。
GEARは一匹で無力な十人を殺す。自分が生きるのみならず、世界の人々が生きる為であれば、GEARは全て殺さなければいけない。

目の前で死んでいった同胞を何度見ただろうか。
彼らの希望を潰えさせてはならない。
生きなければならない。生きて、殺さなければならない。

自分は生きなければならない。
彼らの骨を、墓を、死を背負っている。
自分が歩んできた道は、たった数十年であろうとも、それは幾十人もの生を継ぎ接ぎした、千年に匹敵する。

「――――」

口が真一文字に閉じられる。
感情の一切が、喉の奥底に飲みこまれた。

今自分が行うべきは、目の前の敵を確実に殺す事。
静かな熱が沸き上がり、殺害のビジョンの一つ一つを精査する。

そして、カイの長剣が大きく空を斬った時、レイヴンはその間隙を過たず突いた。

「――脆い!」

歓喜の声と共に、レイヴンの長剣がカイの心臓に迫る。

長剣にまとわせた雷撃は、礼拝堂の壁を崩すだけで潰えた。
完全に、長剣を振り終わった後である。これからレイヴンの刃を払おうとしても、人間の速度では追いつけるはずがない。

舌なめずりと共に、レイヴンの刃はカイの皮膚に達し――、

「――――」

言うならば、煮えたぎる凪の湖面。
カイの心臓は獲物を捕らえた狩り人のように跳ね、しかし送り出す血は鉛のように冷たい。

常人であれば、致命的なまでの間隙。
今までの人間業の剣技であれば、跳ね退ける事のできない空白。

故にこれより行うは、化け物の所業。

そもそも、自分は化け物を相手に殺してきたのだ。
化け物を殺すなら、自らも化け物にならなければならない。

カイは放った雷撃とは別に、肉体加速の法術を仕込ませていた。
雷撃をデコイとし、隠されていた法術が始動する。

右腕が神速の域に達する。
肘の関節が磨り潰れ、可動部分から大きく外れ、骨が砕け、筋繊維が断裂する。

どうしようもない間隙を餌にして、肉体を消費に命を屠る、対化け物(GEAR)の外法。

自らの肉体を厭わぬ、過剰なる加速がレイヴンの長剣に食らいついた。

「――!」

それだけでは終わらない。
レイヴンの手から長剣を離させると共に、神速の勢いを全く減衰させず、
長剣は有り得ない奇怪な軌跡を描いて、彼の首を、腕を、胴を、脚を、全く同時に断つ。

再生力のある存在であろうとも、この損傷は時間がかかる。
そういった事を熟知しているから、分かる。

「……はあっ! くっ、痛ッ……!」

慣れから遮断していた痛覚が戻り、カイが左腕で右腕を抱える。
右腕には、関節が二つほど増えていた。折れた骨が皮膚を突き破り、表皮は鬱血の青黒さを浮かべていた。

次弾に備え、左手から治癒の光を生じる。
右腕が治るのが早いか、あるいはレイヴンが動くのが早いか――。

と。
レイヴンの肉が、頭と首が接合した瞬間。
脚も手も再生するよりも前に、彼が哄笑する。

「……っく、は、ははっ――はははは!
 見ろ! 貴様もまた私と同じ化け物だ!
 数多の人間に支持されようとも、結局は私と同じに過ぎない!」

カイが鏡を見る。
瞳が、赤い。

「……あるいは、そうかもしれない」

諦めを混ぜて、薄く同意する。
自身と同じ化け物を、多くの人々から認められる人物に見出したレイヴンは、己と彼とを一緒くたに嘲笑した。

「そうだ。我々は結局、安寧に微睡む事のできない闇の身だ。
 俗人が手にする幸福では満ちる事ができず、戦地と苦痛にのみ価値を見出す狂気に他ならない」

結局は、自身も刃を交える事に心地よさを感じていた。
カイは血まみれの長剣を床に刺し、改悛に目を強く閉じる。

「――大丈夫ですか!?」

「無事か、カイ!?」

扉が大きく開かれ、二人の影が礼拝堂に闖入した。

「――ディズィー!? シン!?」

カイが声を上げると、すぐにディズィーが彼の状態を理解した。
彼女はカイに駆け寄ると、すぐに治癒を唱えて専念する。

シンはカイとレイヴンとの間に入り、仁王立ちで敵対者となった男を睨みつけた。

「やけに法力の臭いがして、ヤな予感して戻ったんだ。
 ――おい、おっさん! お前、味方じゃなかったのかよ!」

非難するシンだったが、レイヴンの目はカイに向かっていた。
その目は、嘲るものから戸惑うものに変わっていた。

同族故に、カイはその目を理解する。

「……化け物の身であろうと、狂気だけで生きる事はできないはずだ」

左手を、受け入れるように差し伸べる。
届く事はない。しかし、レイヴンは後ずさった。

「私にも、こうして駆け寄ってくれる二人がいる。
 私は、何よりも愛する存在がいる。それだけで、この先千年だろうと生きていける」

「――だが、永遠に理解し合えると約束された訳ではない」

渋面のレイヴンが、辛々反論する。

「完全な理解はできない。歩み寄る事で人は支え合える」

「人? 可笑しい事を言う、人間がこの場に誰がいる!」

「ここに立つ者は全て人間だ! それはお前も例外じゃない!」

レイヴンの感情が一切消え失せる。

「……ああ、そうか。分かり切っていた事だ。単に、私が大きな勘違いをしていただけだ。
 結局はお前も、光に立つ事のできる存在だ。私とは、違う」

レイヴンがカイを切除しようとして、それでも彼は一歩を踏み出した。

侮辱した事への怒りではない。
憐憫。何を話しかけようとも脅える子供に向けるが如き、慈悲の緑青。

「違う事はない! 貴方にも、私と同じものを持つ腕があるはずだ!
 人と理解する事ができる言葉を、人と共感する事ができる感覚を、まだ貴方は持っている!」

その指摘。
持てる者の、傲慢な指示。

それはどのような器具よりも痛く耳を貫き、結局自分は劣った存在だと再認識させる拷問。
反論、反駁、反感、反逆は湧いて出る。それでもその全てをもってしても、己が抱く不平をそのまま受け止められる事はないだろう。

レイヴンは空っぽのまま直立した。
法術を紡ぐ。戦闘の為ではない。離脱の為だ。

「……連王。お前にはもう少し期待していた」

「待て! まだ話が――!」

「もういい」

心底うんざりとして、レイヴンが空間の狭間に消える。


結局は、そうなのだ。

自分を理解できると、自分でも理解できると、
そうと近づいたとしても、その細部が違うと知って、勝手に傷を作るのだ。

見えざる鴉は飛び上がる。
太陽を運ぶ事のない鳥は、その光に焼かれたように虚空へ掻き消えた。

過去を覗く窓

レイヴンとエルフェルトと写真の話
筒状に続く暗闇を、手に灯した法術の光で焼き払う。
レイヴンはイリュリア城下街の地下、下水道にいた。

とはいえ、汚水とゴキブリで満ちた現役の下水道ではない。老朽化し、破棄された下水道である。
街全域を網羅しているほどではないが、広域を蜘蛛の巣状に張り巡らされている。

彼はその旧下水道を通り、イリュリア城の真下に向かっていた。
イリュリア城本体に対する警護は、法術と衛兵による堅牢なものである。
しかし、地下はその警護も手薄であろう。

その推測を試すべく、彼はここにいるのだった。
もし手薄であれば、監視の目をここに置くのもいいかもしれない。連王、及びその周辺の動向を手にする事ができれば、今後動きやすいものだ。

ガサッ……。

「――ッ」

針を構え、音の方向へ体を向ける。
光を掲げると、痩せたネズミが目をくらませ、キキッと悲鳴を上げて逃げ出した。

自分の警戒が空振りになり、一瞬の油断が彼を弛ませた。

「――マグナムウェディング!」

その声が聞こえる頃には、
音速よりも素早い銃弾が、レイヴンの後頭部を打ち抜いた。


気を失っていた。
いや、正気を失っていた。

「――はっ!」

いの一番に知覚したのは、今まさに口を(まじ)わそうとせん己の身と、目を閉じて口を尖らせるエルフェルトの顔。

「…………」

状況整理を一瞬で済ませ、レイヴンは考えるよりも先に手を動かした。
右手の指をまっすぐに揃え、頭上に振り上げ、主犯の脳天にチョップが刺さる。

「アイーッ!?」

もし自分に理性の邪魔がなければ、チョップではなく人体切断せしめる手刀が、エルフェルトの頭部(ケーキ)へ入刀する所だった。
頭部の痛みを散らすべく、床を転がる彼女を冷ややかに見降ろしてから、周辺情報を手札に追加していく。

二人がいるのは馬車の中。
木板で造られた普通の馬車であり、外界と隔てているのは落下防止の簡素な柵のみ。
景色は草原。のどかな日差しが真昼を表しており、流れる情景は今なお馬車が走行中であるという事を示している。
座標的に、城下街から離れていっているようだ。
街道を走っている。このまま走れば、別の街へと辿り着くだろう。

そこまで把握した所で、ようやく痛みの治まったエルフェルトが立ち上がる。

「随分と過激な愛の形ですね!」

「愛と害の区別もつかない状態でよく現代社会を渡り歩けたな」

「自分が喜ぶ事を人に行う事は愛。
 レイヴンさんが喜ぶ事をわたしにしたので、やっぱり愛なのかな、と」

「なら私が一番喜ぶ爪の剥ぎ方を実践しよう」

「いいえ、わたしは遠慮しておきます」

レイヴンの殺意をかわし、エルフェルトが懐からズルッと婚姻届を引き抜いた。
婚約届を広げてみれば、そこには彼の署名と拇印。

「ともあれ、こうして誓い合った仲ではありませんか」

「判断能力が低下している状況で成した契約は無効だ」

「何を言っているんですか!
 あんなに『愛している』とか、『共に住むなら小さな家がいい』とか、『毎朝お前の作った硫酸が飲みたい』とか言っていたでは――」

ストッ。
エルフェルトの足下に、十センチほどの長い針が刺さった。

「――言っていたわけでは、なかったかもしれません!」

「そういう事にしろ」

そういう事にしたい。自分自身も。
前後不覚の自分が何をのたまっていたかなど忘却の海に沈め、レイヴンは馬車の柵に足を乗せる。

「何をするんですか?」

「貴様の戯言と戯事に付き合うつもりはない。すぐにでも元の場所に戻らせてもらう」

脳裏に空間転移の法術を描く。数秒もあれば、あの暗くてじめじめした下水道の中だ。

「あ、あの、レイヴンさん――」

「さらばだ」

言うと共に、馬車の外へと(おど)り出す。
呪文を囁く。今にも暗闇へと戻るであろう。

「あの、馬車に乗る前にブライダルの人に、レイヴンさんの服をタキシードにしてもらったんですけど。
 そのタキシード、わたしが指向性バインドを入れたので、危険だったり大規模な法術は使えないです」

「は?」

感覚、間隙。

レイヴンの体はあるべき所に帰らず、受け身を取る余裕もなく地面に激突。
馬車の速度が乗った体はそのまま車輪のように地面を転がり、皮膚に砂利が突き刺さる。

「ンギモヂィイイィィッ!」

「レイヴンさーん!
 ――あ、あの御者さん! 新郎が馬車の外に行って、いや馬車の外でイッてるんで、ちょっと止めてもらえますか?」

「はぁーい」

間の伸びた声が御者台から聞こえ、馬車の速度が下がっていく。
エルフェルトは馬車から降りると、十数メートル後方のレイヴンの元へと駆け寄った。

「大丈夫ですかレイヴンさん!」

「……私の身は不死だ。傷つこうとも、新鮮な痛みが得られるに過ぎない」

「レイヴンさんのタキシード、レンタル代結構高いんですけど、大丈夫でしょうか」

「破くぞ」

レイヴンの犬歯が鋭くなる。

自分の服装を確かめてみれば、確かにタキシードであった。しかも法術コントロールできる。
これでは空間転移という大がかりな法術はできないし、かといってエルフェルトを針串刺しの刑に処すような事もできない。

「『初代』率いるヴィズエル軍もバインドを使用していたが、腐ってもヴァレンタインという事か」

独り()つレイヴンの腕を取り、エルフェルトが馬車を指す。

「さあ、早く戻りましょう! ここで転がってたら、一時間後の式に間に合わなくなってしまいます!」

「貴様の葬式に間に合わせてやろうか」

「冠婚葬祭の内二つを一度にやりたいなんて欲張りさんですね!
 そうと決まれば式場に行きましょう! レイヴンさんの服も先にそちらへ送られているので、ささ、どうぞ馬車へ」

「…………」

エルフェルトの誘導に、心の天邪鬼が反発する。

だが、下水道の調査など、後日に回せるほど優先度の低い事柄である。
ここで妙に反発しても、単に心労になるだけだ。ならばさっさと服を回収して退散しよう。

レイヴンは、深く、深くため息を吐いて、己の尊厳を燃やして、重々しく首を縦に振った。

「私のものを取り戻すだけだ。式など絶対に参加せん」

「大丈夫です! もう無理にとは言いません!
 これ以上レイヴンさんの機嫌を損ねたら、ちょっと私の命の期限も損ねそうなので!」

エルフェルトの賢明な判断。
彼女に手を引かれて馬車へと戻り、再度草原の景色が動き出す。

「ここから、何分かかる?」

レイヴンの質問に、エルフェルトではなく御者が答えた。

「一時間くらいですねぇ。丁度式に間に合うくらいになりやす」

「一時間か……」

反復する。
別に、一時間という時間の幅に不都合や好都合が生じるという訳ではない。

ただ、馬車に揺られて一時間の退屈を過ごさなければならないのか。
どうせなら、この衝突事故のような事態から、有意義な成果でも上げてみようか。

「お前の母親は、どのようなものだ?」

「慈悲なき啓示」の事を探る。
それは形而下、あるいは形而上の存在なのか。それに感情、著しくは悪意があるのか。

レイヴンの質問に、エルフェルトが過剰に反応した。

「お母さんですか!?
 そ、そうですね……ちょっと厳しい感じの人です。
 でも、よその人には体面が良いですね。仮面被ったみたいな……言っちゃ悪いですけど、猫を被っているような感じで……」

「啓示」の気性か。思考から行動を推測する材料として無価値ではないが、それほど有意なものではない。
情報を飲みこむレイヴンに、エルフェルトから異物を混ぜこまれる。

「好きなタイプは、ソルさんみたいなタイプだと思います」

「…………」

「それとモンブランとか、スイーツが好きです!
 お母さんの気持ちを引くなら、お菓子をお土産にするといいでしょう! レイヴンさんの故郷を匂わせる為にバウムクーヘンとかいいかもしれないです!」

「……何だ、その情報は」

「ええっ!?
 結婚のご挨拶に行くために、お母さんのコトを訊いたんじゃないんですか!?」

「違うっ!」

レイヴンが強く否定すると、エルフェルトは表情を沈める。

「……それでしたら、お母さんについて詳しく話す事ができないです」

目線をレイヴンから自分の膝上に向け、スカートの上の手の平がぎゅっと縮む。

「わたし、まだお母さんと繋がってるので……もし口を開こうとしたら、わたしがいなくなるか、レイヴンさんをいなくしようとするでしょう」

そう悲し気にこぼすエルフェルトに、若干の罪悪感を覚える。
レイヴンはそっぽを向くと、先程の否定よりトーンを落とした。

「――まあ、酷な事を要求した件については謝る」

「いえ、むしろ謝るのはこっちの方ですよ。勝手に勘違いしてしまって……」

明るい景色をよそに、馬車の空気は冷たく落ちる。

「…………」

口の中が沈黙で乾く。
エルフェルトは唾を飲みこみ、喉を湿らせてから唇を開く。

「じゃあ、今度はわたしから、質問いいですか?」

レイヴンは彼女に目線を戻してから、揺れるように頷く。

「ああ」

「あの、レイヴンさんの着替えは、ブライダルの人に任せて貰ってたんですけど。
 その人から、服の中に紛れていたって言われて、預かったものがあります」

言いつつ、エルフェルトが懐を探る。
探り当てた物品をつまみ、それをレイヴンに見せた。

「これって、何ですか?」

手のひら大の、一枚の写真。
黒茶に露出した土から、腰ほどの高さの小さな木が生えている。

青々とした新緑を身に纏う、天を突く樹木の子。
それが主題であるという意志は計れるが、何故それを主題としたか意図が計れない。

「レイヴンさんの持っていたカメラも、私が預かってます。
 そのカメラで撮ったというなら、これは単に店で売られていた観光写真じゃなくて、ちゃんとレイヴンさんが撮ろうとして撮影した写真ですよね?

 この木、何の木、気になる木じゃないですか」

故に、知りたい。
エルフェルトの好奇心に応じ、レイヴンが説明する。

「林檎の木だ」

「林檎の木?
 実も生っていないのに、葉ぶりを見ただけで答えられるなんて……まるで樹木博士ですね!」

「樹木博士じゃぁない。
 単に、それが林檎の種の時から知っているだけだ」

傾聴の姿勢になるエルフェルトの手から写真を取り、レイヴンは平面の木の幹を指でなぞる。
御者に聞かれないほどの小さな声で、彼は写真の由縁を語った。

「百年前。正確な年は忘れた。
『聖戦』の最中、破棄されていた果樹園から林檎を拝借した。その後の戦中に食う為だ」

「……レイヴンさんも、『聖戦』に加わっていたんですか?」

「『どちら』に加わっていたかについては、言及を避けるが。
 そして腹積もりの通りに、戦の渦中で一段落がついてから口にした。
 その後、痕跡を残さない為に埋めた」

「それで、また来たんですね」

「別に、芽吹きを見に来た訳ではなかった。

 埋めてから数年後、またこの地に用があった。
 焦土に成り果てた黒色の景色で、唯一の緑を見つけた。

 それを見た瞬間、ここで林檎を食した事を思い出し、その緑がそれなのだと確信した」

「その時に撮ったんですか?」

「ああ。若干なりとも、感情が動いた。

 戦の渦中の、ありふれた地獄。
 それでも足掻く二種の生命。
 闘争の狭間で、舌を濡らす酸味と甘味。

 そして、それらを想起する緑。
 いずれ消える小さな記憶だが、記録程度には値した」

写真を見る目が、遠くなる。
平面を抜けて、その時の空間が頭の中で再演された。

表情を揺らすレイヴンの横顔を見て、エルフェルトが問う。

「それって、良い思い出――いえ、良いかどうかは分からないですけど……でも、残しておくべきものだと思います。
 その思い出の木、ずっとずっと大きくなって、きっと今は子供の林檎をつけてるといいですね!」

エルフェルトの言葉に、また違う表情に震える。

「……そうだな。今なら、また新しい果実を下げている頃合いだろう」

果樹園という親から離れ、戦地であった土に根を張った大木。
生命の営みを遂げている様を思い、レイヴンがつぶやく。

「ここの近くだ」

「え?」

「この写真の木は、この近くにある。
 あそこから見える草原が、元は焦土だった。
 ……捧げられた数多の血肉が、草の栄養になっただろう」

最後に皮肉を寄せて、レイヴン。
エルフェルトは彼の右手を両手で包み、輝く両目で針を見上げた。

「良ければ、行きませんか?」

「……何故」

「わたしも、ちょっと見たくなりました。
 ――あ、でも、レイヴンさんは一刻も早く式場に行きたいですかね? それだったら、場所を訊いても――」

「いや、いい。
 どうせ、ただ過ぎるだけの一日だ。ほんの足労程度、あった所で支障ない」

興の乗ったレイヴンが、馬車の柵から腕を出し、人差し指を草原の果てに伸ばす。

「あそこだ。座標は知っている」

「分かりました。――あの、御者さん!」

「はぁーい」

「あの草原の所、行けますか?」

「あぁー、それは駄目ですねぇ。
 時間通りに行かんと、後に予約してるお客さん、つかえてしまうんで」

「そうでしたか……。
 では、申し訳ないんですが、ちょっと止まってもらえますか?」

「はぁ」

「先に行ってていいです。わたしたち、木のところに行きたいので。
 式の人には中止の言伝もしたいのですけど、それも――」

「まぁー、いいですよー」

馬車が徐行を経て停止する。
二度目の停止に、今度は二人が土を踏む。

「ありがとうございました!」

エルフェルトが手を振り、それを見送り馬車が去る。

馬車が豆ほど小さくなった時、レイヴンの脚が草原に踏み入った。
エルフェルトは彼の長細い背を追い、柔らかな草を超えていく。

「ここが、その……戦場、だったんですね」

「今や見る影もないが、確かにあった事だ」

「きっと、壮絶なものだったんでしょう……」

自分が過ごしている世界が、闘争の果てに人間が勝ち取ったものであると実感し、エルフェルトの面持ちが真っ直ぐになる。
レイヴンの顔は見れないが、恐らくは同質の表情を形作っているだろう。

慣れた無言の中、進行は続く。
未だ見えぬ木の姿に、エルフェルトは腓腹の疲労を感じ始めた。

「あと何分ですか?」

「いや、一分もしない内に着くはずだ。
 それでもなお見えないとすれば――」

と。
等速で動いていたレイヴンは急停止し、彼のすぐ後ろにいたエルフェルトはたたらを踏んでそれに倣う。

「ど、どうしたんですか?」

「……見えないとすれば、もう存在しなくなったという事だ」

言いつつ、レイヴンは横に身をよける。
エルフェルトは、彼の視線が足元にある事を知ると、その線を辿ってそれに気づく。

木が、折られていた。

直径は数十センチ。椅子の座面ほどの大きさまで育ち、そして止まった。
断面はギザギザで、起伏が激しい。真っ直ぐな刃物で斬られたというよりは、怪物が力に任せてへし折ったという様相で、事実そうなのだろう。

「…………」

木の残滓を確認してから、彼女は心配してレイヴンに目を向けた。
だが、彼の表情から、心情を察する事はできない。
別段の動揺も悲嘆もなく、事実をそのまま呑みこんでいる顔だ。

むしろ、レイヴンは彼女から受けた同情の視線を読み取り、それを鬱陶しいと振り払うように告げる。

「このような事など、私にはありふれている」

彼もまた疲労を感じていたのか、踝ほどの背丈の木の幹の近くに座りこんだ。

「遍く全ては摩耗する。結末は万物に宿っている。それが表出したまでだ」

エルフェルトは、彼から少し離れて、それでも彼と同じく木の幹に背を触れるようにし、腰を下ろした。

「……そう、ですね」

気分を落ちこませたエルフェルトは、切り替えるべく話題を作る。

「他に写真はありますか?」

レイヴンは皮肉気に、しかし冷たくもなく返した。

「……空間法術が使えればな」

「あ、あう……ごめんなさい」

口を開閉させるエルフェルトをよそに、レイヴンは手を伸ばす。
手を伸ばした先は虚空。その虚ろが液のように揺らぎ、手が空間に沈んだ。

「全身を空間転移するようなものでなければいけるようだな」

手のみを空間転移させ、次元の狭間に保存された物品をつかんで引き揚げる。

「これだ」

「ありがとうございます!」

エルフェルトは、レイヴンから渡された写真を腕一杯に受け止めた。

「この、白くて大きいペンギンみたいなものは?」

「ブラックテックの時代だな。それは飛行機だ。
 魔法もない、金持ちでもない人間でも空を飛べた。鉄と油の怪鳥だ」

「へえ……!
 じゃあ、この緑の丘はなんですか? 写真……なのに、現実じゃないくらい、すごい色がはっきりしてます」

「ブドウ畑だ。そこの風景写真は、多くの人間が使う道具に埋めこまれた事がある。
 恐らく、何処とは知らずに最も目に晒された場所だ。その逸話に興味が惹かれて、その丘まで足を運んだ」

「そうなんですか……!」

一枚一枚に感嘆の声を上げて、エルフェルトが写真を見ていく。
それらを見ていく間に、エルフェルトの中に純粋な疑問が積もる。

「――レイヴンさん」

「何だ」

「なんで、全部の写真の中に、レイヴンさんがいないんでしょうか」

エルフェルトから目を逸らし、苦々しくレイヴンが吐く。

「……必要ないからだ」

その言葉を受けて、エルフェルトが更に疑問を重ねた。

「ではレイヴンさん、何故、写真を残していらっしゃるんですか?」

「私が生きてきた証跡、それを残す為だ」

レイヴンの答えに、エルフェルトが主張する。

「なら、尚更、その時のレイヴンさんを残すのはいいと思います」

本人が生きた証を残すなら、その当人がいなければならない。
ニュアンスを含んだ彼女の物言いに、レイヴンが過去の主張を繰り返した。

「私など、何一つ変わりはしない」

不死の病。
課せられた業にして罰。

その有様をまざまざと見せつけられ、何の救いとなるのか。

「いっそ老いたのであれば、私の悲嘆は削られたかもしれない。
 だが、この身は忌々しく固定されている。褪せた髪色も、耳障りな声色も、老化も退化もせずあるだけだ。

 見飽きた醜いものより価値ある何物かがあれば、そちらを優先するが道理だ」

持論を開くレイヴンをよそに、エルフェルトが彼のカメラが構えた。
そんな彼女を見つめ、今度はレイヴンから疑問が湧く。

「――何を、」

「でも、残しておきましょう」

相手の言葉を切って、エルフェルトがカメラのファインダーを覗く。

「だって、レイヴンさんって、タキシード着た事ありますか?」

彼女の提言に、唖然とする。
確かに、タキシードなど着た事がない。

いや、着る機会がなかった。

婚礼はともかく、正装をして会に参加する事も招かれる事もなかった。
そういう意味では、稀有な証ではある。
景色や他者のみを写していたなら、自身が何を着ていたかなど残せはしない。

エルフェルトが顔を咲かせる。

「勿体ないです! これも思い出にしちゃいましょう!」

そう言って、彼女はシャッターを切った。
カシャリ、と耳に心地の良い音を響かせて、カメラが瞬きする。

それに対してレイヴンは、彼女を計るように質問した。

「現像もせずに、捨てたらどうする」

「どうもしません。レイヴンさんがそうしても、わたしではどうにもなりませんから」

自分の成果物が破棄されるとしても、制止も非難もせず、エルフェルト。

「正直に言うとですね、レイヴンさんが写真に写りたがらないのは、わたしも分かります。
 だって、自分自身のこと、好きじゃないですよね」

レイヴンが口を閉ざす。

「……わたしも、わたし自身を愛せないです。
 だからきっと、代わりにわたしを愛してくれる人を求めてるんでしょうね」

人間とは異なる人間として作られた、「バックヤード」の発生物。
それは、目の前の生命が良く浮かべる表情を真似て、苦笑と自嘲を混ぜ合った。

「わたしは感情を持つように生まれました。
 それがどういう理由で持たされたかは分かります。それでも、生まれる感情に善悪がないと、そう思いたいです」

エルフェルトが、鴉から兎に感情を変える。

「話、飛び飛びになりましたけど、何が言いたいかと言えばですね――、

 自分を避けていると、本当に自分を嫌いになってしまうと思うんですよ。

 生きた証を残して、自分に慣れていけば、一石二鳥ですよ!」

エルフェルトが、脳の中を言い切った。
声の断層に落ちて、草の囁きしか見えなくなる。

背に預けた切り株が体温に馴染む頃、レイヴンの手が彼女に伸びた。

「…………」

エルフェルトは無言の内に理解して、彼にカメラを渡した。
レイヴンはカメラからフィルムの円筒を抜き取ると、それを投げ捨てるでもなく、細い指で弄ぶ。

「現像は分かるか」

「撮影したものを、写真にする工程ですよね」

「そうだな」

詳細は期待しなかったレイヴンが、彼女の過不足ない返答にうなずく。

「フィルムは変化する。外の景色を投影されて変化しなければ、写真は黒いままだ。
 だが、フィルムの中身が引き出され、光に晒されれば、全てが白い状態で固着する。どうしようとも、元の黒に戻る事はない。

 黒のままだろうとも、白のままだろうとも、不完全だ。

 完全にするには、シャッターを切った瞬間のまま、なすべき事をなさなければならない」

レイヴンは円筒をカメラに収め直し、カチリと蓋がつぶやいた。

「全て空虚な、感情の白になりつつある人間がいるとして、
 だが、その過程を写真にしたなら、確かにその時の私の証明になるかもしれないな」

言葉全てで、思想全てを表す事はできないが、しかしエルフェルトは呑みこむように首を振った。

「レイヴンさんがどんな人だったのか、その写真が語ってくれますよ」

エルフェルトが立ち上がり、レイヴンの手を取る。

「では、式場に行きましょうか。
 また会ったら、素敵なレイヴンさんの写真を見せてくださいね!」

「……ああ」

エルフェルトに手を引かれ、二人は草原を去る。
切り株のジグザグな断層からは、緑が覗いていた。

絶望はちかく、されど隣人ではなし

昔のレイヴンの話
過去捏造描写あり
死ぬのは何度目であろうか。
猫は九回生きるという。しかし彼は猫ではない。

後世に「魔女狩り(Witch Hunt)」と名づけられたこの集団ヒステリーに、彼は巻きこまれた。

彼は戦火から逃れた「ふり」をして、ある村に住まう事とした。
彼としては、しばらく住んでから、自らの特異性を不審がられる前にずらかろうという目論見であった。

しかし誤算だったのは、彼が村の仕事として草刈りの役を当てられた際、指を鎌で切った事だった。

彼はその指を慌てて隠した。だがあろう事か、それを隣家の少女に見られたのだ。
少女は彼に駆け寄った。

「いたいよ? なおすよ?」

彼はその少女を払い退けた。だがあろう事か、それは傷ある手指の方だったのだ。
少女は彼に叫び立てた。

Witch(まじょ)!」

鎌は血で濡れているというのに、その指から血が流れる事はなかった。

常人にはあり得べからざる再生力である。
彼は死ぬ事のできない体をしていた。

彼はすぐさま裁判にかけられる。
虚実をどれだけ織り交ぜて、抗議の声を何度も上げて、それでも裁判官は彼を川に連れていった。

石を抱かされ、
縄で結わされ、
耳を打たれる。

「沈めばWitchではない、沈まなければWitchである」

どちらに転べど、行くは死の道。
彼は川に沈むまで、何度も抵抗をし、首を振り、「嫌だ」と叫んだ。
その際に、離れた場所で囁いた少女の言葉を、忘れられない。

何故殺されなければならないのだ(な ん で こ ろ さ れ る の)?」

お前のせいだ。
お前のせいだ。
お前のせいだ。お前のせいだ。
川の底で何度も呪詛を吐いては、それは単なる泡となって水に流れる。

砂が角膜に貼りつくのも気に病まず、彼は目を見開いた。

狂う苦しみに苦しみ狂う。
酸素を渇望する脳が、頭蓋骨を割って這い出そうなほど痛い。
意識を失えば、いや死んでしまえば、いっそ幸福だった。

尋常にはあり得べからざる生命力である。
彼は死ぬ事のできない体をしていた。


彼の肺胞が空気に触れる事を叶えたのは、四日後の大嵐の夜だった。

傷ついて正常に戻る彼の肉体。
狂えども正常に戻る彼の精神。

数える事もできない狂気から回復した時、彼が抱いた石は、大嵐の流木で別たれた。
これまで抱いていた重い女から解放され、彼は無気力に浮上した。

世に産まれてからつい四日前まで継続していただけの、呼吸という当然の行いは、
川に浸かってからはや四日間だけ停止していただけで、新鮮である錯覚に陥った。

川べりに腕をかけ、それでもすぐに川から上がる事はできなかった。

水を吐いて、息を吸う。
血を吐いて、息を吸う。
砂を吐いて、息を吸う。
泥を吐いて、息を吸う。
虫を吐いて、息を吸う。

肺から気体以外のものを排除すると、酸素を得た体はようやく機能した。

腕の筋肉を働かせ、川から体を引き剥がす。
水を孕んだ服と髪が、夜風にびゅうびゅうと吹かれたが、むしろその風が温かく感じる。

水流に洗われた体が大気に抱かれ、彼はある感情を覚えた。

九死に一生を得る事による、安堵や歓喜ではない。
九生に一死を逃す事による、落胆と絶望であった。

死ぬのは何度目であろうか。
猫は九回生きるという。しかし彼は猫ではない。

いっそ猫の死は如何だろう。たった九回生きるだけで死ねるのだ。
しかし彼の死は稀有だろう。うんと何回生き長らえば死ねるのか。

嗚咽が、空気を取りこんだ肺から押し出される。
自然、彼は泣いていた。少女のように泣きじゃくる。

風が角膜に切りこむのも気に留めず、彼は目を打開いた。

なんでころされるの(何故殺されなければならないのだ)?」

彼は、天に在すという神に訊いた。

お前のせいだ。
お前のせいだ。
お前のせいだ。お前のせいだ。
空の蓋で何万の星斗が嘲っては、それは単なる光となって彼に落ちる。

「私が何をしたというんだ!」

神の思惑が一端に触れる事を叶えたのは、四日後の大雨の夜だった。


森の中、人によって地肌を暴かれた道を行く。
道の木の根は掘り起こされ、岩石は横に転がり、平坦に整えられた道である。

しとど雨粒が落ちる中、避けようもない水の弾を受けて掻き進む。

脚下には、何処(どこ)へ繋がるかも知らない道がある。
足元には、何奴(だれ)が敷いたかも知れない道がある。

後退しても、既知のものが広がっている確証があるだけだ。
背後の道がどれだけ長いか記憶を持たないが、矢張進むしか道はない。

進行しても、未知のものが広がっている保証はないのだが。
眼前の道がどれだけ長いか見当が付かないが、結局戻るべき道はない。

ささと雨滴が降りる中、違えようもない光の筋が見えて立ち止る。

雨が眼球に染みこむのも気に掛けず、彼は目を抉開けた。

道の果てに、窓から光を零している建造物が、木々に囲まれ佇んでいる。
他人の存在が、そこにあった。

温かな光に当てられて、彼は途端に自分の体温を痛感した。
折角水温まで落ちた体温だったが、急にがちがちと(おとがい)が落ちる。
八日も前には他人のせいで川底に落ちたというのに、全く調子のいいものである。

幾度も滑りながら、
何遍も倒れながら、
それでも建造物の扉の前まで辿り着く。

雨で見えなかった扉にある、白銀(きらめ)く十字架。
それを目の中に入れ、彼はおののいた。

修道院だった。

石を抱かせられた源である、聖人(たむろ)す総本山。
それの目の前に立ち、彼がたじろいだ。

今に扉が目の先で開き
黒い手が己の腕を掴み、
光の中へ引き摺り込む。

漠然とした恐怖を空想し、彼は扉の前から逃げた。

逃げる、にしても地平の終わりまで走る訳ではない。
よろよろとその場から離れ、一番近くの木の後ろに隠れる。

彼が完全に隠れ、目だけを扉に向けていると、十字架の扉はゆっくりと開いた。
扉を開いたのは、黒く質素な衣に身を包んだ、老いた修道女である。

修道女は、扉の近くの鐘楼へ歩み寄っていく。
晩を告げる鐘の為に、鐘楼の修道女が撞木を振り上げた。

反響音が、雨に湿った空気に染み渡っていく。
晩を告げた鐘の音に、屋内の修道女が作業を切り上げた。

食堂を見せる大きな窓の光は一層大きくなり、その中で若い修道女たちが晩餐の支度を整えている所が見えた。

鍋を掻き混ぜる所を見て、男の喉が大きく鳴った。
ここ数日で、水以外の何も腹に入れられていない。

枝の葉から樹雨が降り落ち、背が冷える。
窓の中には湯気が立ち昇り、腹が縮まる。

自分を迫害した村から離れている修道院である。
施しを受けたとて、己をまた沈める事はないのでは。

そう推測するも、感情は臆病に竦む。
ただじいっと、修道院の晩餐の様子を見ているだけの行動を固着させる。

今や、体が凍える事はなかった。
自らが惨めな状況に追いやられる事など、当然に過ぎない。

神から嫌われているが故に、この不死の身を与えたのだ。
神から憎まれているが為に、この不死の業を負ったのだ。

己の来歴を反芻する間に、窓の食堂には修道女が出揃い、食前の祈りを捧げている所だった。

豪雨の五月蠅い沈黙が、やけに時間を引き伸ばす。
そんな中、彼が辿ってきた道から、集団が入りこんだ。

男の集団だ。身なりは襤褸切れのようで、旅の乞食と言っても納得できよう。
後ろで木に隠れている人間が恐れた十字架の威光を目の前にして、集団は何の気兼ねもなく扉を叩いた。

扉が開き、鐘を撞いたと同じ修道女が顔を見せた。
恐らく、彼女が修道院長なのであろう。

集団は、修道院長を前に、堂々と物乞いをした。

「旅の者だが、神様の慈悲を預かりたいねぇ」

信仰心のない物言いに、院長は顔を固くしながらも返答する。

「食事と屋根なら、分けられます」

「財産も娼婦でも、恵んでくれよ」

へらへらと笑う集団に、院長が毅然と断った。

「貴方がたに放蕩の罪を負わす事はできません」

院長は、これを最後として扉を閉じる。
院長は、それを最期として生を閉める。

「おらっ」

蠅を払うように、集団の先頭が腕を振り下ろす。
振り下ろす腕の先には、棍棒が握られていた。

その棍棒が院長の頭を割ると、ばっと赤い雨が降る。

男たちの集団とは、盗賊だった。

盗賊たちが手慣れたようにどやどやと扉をくぐっていくと、修道女たちの悲鳴が窓硝子を通って耳を貫いた。

聴覚を食む、喚く声。
視覚を染む、開く赤。

人間という信仰が、人間という殺意に潰されていく。

修道女の生涯の結末を迎える。
窓硝子に鮮明な血沫が広がる。

何故殺されなければならないのだ(な ん で こ ろ さ れ る の)?」

疑問の形をした命乞が、修道院を抜けて脳を貫く。
男は、耳を押さえて現実を拒絶した。

その一部始終を見ながら、それでも、木に隠れた男は動き出さなかった。
あの渦中に入ったところで、動かない肉が一つ出来上がるだけだ。

目の前では、幾人もの人生が終幕する一大劇が供されている。
しかしそれは、彼が散々演じてきた絶命の真似事に過ぎない。

彼は重くなった目蓋で視界を遮断され、無意識のカダスに引き落とされた。


意識の闇を討ち祓う、朝の陽ざしで目を覚ます。
朝露に濡れた頬を拭い、彼は頭を起き上がらせる。

修道院の扉は開いたままだった。
そこから覗く風景に、生きている人間はいなかった。

危険性が全く無くなったと判断して、ようやく彼は心身を動かす事ができた。

修道院の扉をくぐると、血の冷気に抱かれる。

老いた修道女、醜い修道女、太った修道女はその全てが頭を潰されていた。
若く美しい修道女は、誰もが衣服を裂かれていた。

惨劇の結末が満ちる中で、それでも彼の目に特に映ったのは違うものであった。

食堂の奥にある、修道院長の為らしき席。
他の席はテーブルが倒されていたのだが、その席のテーブルとその上に載せられた食事だけは無事だった。

彼は修道女たちの遺体をまたぎながら、無感情に席へ向かう。

伽藍堂の席に座る。

彼は木のスプーンを手にした。
冷めた空豆のスープと、干し葡萄と、酒気の薄いビールを胃に収める。

頭に血が巡る。
感情と涙腺が湧く。
動物性から人間性へと近づいていく。

ようやく、彼は鳴き始める事ができた。

別に、自分という存在が特別に虐げられていた訳ではないのだ。

この修道女たちのように、罪もなく、神を信仰している者でさえ、
最期はこうして罪人たちに凌辱されて死んでいくのだ。

自分は神に嫌悪を寄せられていない。

その事実は、彼に安堵ではなく多大なる不安をもたらした。

自分は、常人とは異なる特別な一人と言えないのだ。
自分は、常世での単なる存在の一個に過ぎないのだ。

自らに与えられた不死とは、つまり、神が気まぐれに行った事の一つなのだろう。
その気まぐれの一つとは、この修道院の有様であり、ありふれた事でしかない。

(から)の白々とした皿に、陽の光が垂れ下がった。
(そら)の白々しい青さに、吐き気が込み上がった。

それでも、彼は胃袋に収めたものを捨てる事もできず、それ以外の価値のない修道院から離れた。
そして忘れる。

Capriccionzert

スレイヤーとレイヴンの若い頃の話
過去捏造描写あり
窓から零れていた灯りも全て落ちる頃合い、石畳の道を月光が行き交う。

昼行性の人間が微睡む中で、目覚めさせようと喉を張る。

「助けて!」

美女だった。
豊かな乳房を手で隠し、衣服は剥がれかけていた。
それが望んだ状態でない事は、脱衣の為のボタンが外れておらず、胸の布地が切り裂かれている事で悟る。

ではそうした者は誰だというのか。
誰何を饒舌に表すのは、彼女の背後から鳴り響く靴の音。

「売女風情が、待ちやがれ!」

追う男の手には肉厚なナイフ。
暴漢の露わな殺意だった。

数分前、明らかな害意を察した彼女は「商売」から逃げだした。

「誰か、助けて!」

右肩から血滴。切れ込み程度に入れられた傷跡が、誇大に痛みを訴える。
血の臭いを振り撒き、美女は路地裏に逃げこんだ。

街の裏を知る彼女は、危ない客の撒き方も分かっている。
行方を左右に揺さぶり、時には壁を乗り越え、空き家を通過する。

しかし、相手は逃げた獲物を追う術に長けていた。
わずかな血の痕も、足跡も、音響も察知し、的確に美女の後を辿る。

息が上がる。一夜中腰を使う事は慣れているが、脚については専門ではない。
暴漢との距離は運命の糸の長さと等しい。
振り向きもしないのに、糸を絶つナイフが近づいているのが分かる。

「あ――」

建物の壁に突き当たり、角を左に曲がって、そこで文字通り致命的な失敗をした事に気づく。

この角を左に曲がれば、壁に突き当たる。
表通りに繋がる右に曲がるのが正解だった。

後頭部から血がずるずると下っていく感覚に陥る。
脚に疲労感の津波が寄せ、膝を折る。
恐怖と酸欠に肺が空回った。

暴漢が追いつく。
立つ事もままならず、四つ足の状態で震える美女。
彼女を見下ろし、暴漢がナイフを逆手に持ち直す。

「わ、わたしの……わたしがなんで、殺されるの!?」

この理不尽に意味を求めて、美女が叫ぶ。

「お前は情報を漏らした」

「わ、わたし、ただの花売りじゃない! 知らない! なにも!」

「三日前、商人を相手にした。
 商人は一番貧相なズダ袋に、一番高価な胡椒を入れていた。その知恵をお前に自慢した。
 盗人が入ったとき、盗もうとも思わないズダ袋だけが盗まれていた。
 盗人はすでに土の下だろう。後は、ズダ袋に胡椒があると知り得た人間が残る」

「違う、違う! わたしは、なにも!」

手を合わせる。懇願する。神様、と祈る。

「悪いが仕事なんでな、死んでもらおう」

暴漢が腕を上げる。
ナイフの刃が、月光を照り返す。
一秒あれば、一個の命が終わる。決定的な時間の狭間。

そこに差しこまれた第三者の時間が、運命を分かつ。

「――一晩限りの女性に言うなら、他の人間にも言っていたのではないかね?」

暴漢の腕に、掌が食いこむ。

「なっ」

暴漢が振り返ると、振り返りの小さな風圧で紫煙が揺れる。

茶髪の男だ。
黒い燕尾服に、十字を模した赤いネクタイ。木製のパイプを口に咥え、煙草を優雅に燻らせている。
髭はなく、若々しい。見かけの年齢だけを勘案するのならば、二十代半ばと言った所だ。

だが、彼を青二才と断言できない要素は一つ。
煙と共に漂わせている空気が、老成した匂いを含ませていた。

暴漢は歯を剥くと、殺意を美女から男に向ける。

「テメェに何が分かる!」

「しがない流れ者だが、それだけの証拠でレディが落命するのはしのびない。そう思っただけだがね」

「このっ!」

暴漢の腕を拘束していた、男の掌を振り払う。
同時に、ナイフを男に向かって振り下ろした。

狙いは心臓。何度も貫いた事のある臓器だ。

だが、暴漢の手が何度も味わった貫通の感覚はなかった。
あるのは、刃の両脇を両手で挟まれた感覚。

真剣白刃取り。

「なっ!?」

初めて目にした、動体視力と反射神経がなせる技。
生まれた躊躇を呑みこむ前に、男の腕が瞬時に伸びる。

左腕はナイフの腹を、右腕が暴漢の腹を別々に殴りつけた。

「ガアぁあッ!?」

男の体はそれなりに筋肉がついていた。だが、殴った瞬間に暴漢が十フィートほど飛んだ理由にしては、説明不足で理解不能だった。人間というより鬼の膂力に近い。
それだけの威力を腹に受けた暴漢は、たまらず意識を手放した。
壁にブチ当たり、肺から漏れた空気が「キュウ」と声帯を揺する。それきり動かない。

「し……死んだ……?」

未だ生死に震える美女の肩は、男の手に包まれた。
優しく撫でられ、美女が男に顔を合わせる。

彼は犬歯を見せた。
いや、笑みを形作った際、うっかりと牙を見せた。

「単に伸びただけだ。死んではおらんよ」

その言葉に、美女が深く息を吐いた。
安堵のため息。

それから、その瞳に輝きを乗せる。

「あ、あの……貴方様は……!」

内心で、男は口笛を吹いていた。

上物だ。これほど美しい女性の心を射止めてみせた。
これならば、対価に血を求めても叶えてくれるだろう。
あわよくば、ベッドの上で、今宵の月を共に味わってくれるだろう。

今はとにかく、美女の感謝を耳にするだけである。

「流れ者、と仰ってましたよね……!
 名前は聞いています……! 各地を旅し、困っている人を助けているという……!」

おお、何という事だろうか。
各地で狼藉をこてんぱんにし、その対価に血を頂いてきたこの自分が、よもやこの美女の耳に名前が届く存在になっていたとは。

思いがけない名誉に胸を躍らせ、美女が自分の名前を呼ぶのを心待ちにする。

「ああ、そのような大それた者ではない」

謙遜するも、美女はとんでもないと首を振る。
両手を合わせ、祈るように上目遣いで、

「『渡り鳥の賢者』様ですね!」

だが、その名前は彼の名前ではなかった。
聞き覚えのない名前に、彼の表情にぽかんと穴が空く。

「……『渡り鳥の賢者』?」

「はい! 村々を渡り歩き、病や怪我を癒やす、賢く清い殿方だと、そう聞き及んでおります!
 ああ、まさか、憧れの方とお目見えできるなんて!」

困惑する自分をよそに美女が盛り上がる中、おずおずと水を差す。

「…………あー。すまんが、それは私とは違う男だ。病や怪我を癒やす事はしていない」

「……え゛?」

それを聞いて、美女の目から輝きが消える。
人間は突然の出来事への反応にこそ、本物の感情が見える。

口角と眉を下げ、目は窄み、手はだらりと脱力する。
美女は、明らかに落胆した。

しかしそれは一瞬である。「残念だけど、折角救ってくれたんだし」というような義理で感情を覆い、苦みに近い笑みを浮かべた。

「え、ええ、ええ。そうですね! わたしったら、てっきり……その、ありがとうございます。とても、助かりました。それではおやすみなさい」

水飲み鳥を思わせるお辞儀を何度も繰り返し、美女が足早に去っていく。

「…………」

後に残ったのは、血を吸い損ねた吸血鬼だけだった。


両親が自分を抱きしめるたび、自分がこんなにも愛されているという事と、そしてこんな風になってしまった理不尽を怒った。

平穏だった家の中で、転がる水瓶を踏み砕いた悪漢を見上げる。

「そこのガキを渡せ!」

「い、い、い、いや、いやです!」

三人家族は恐怖で脚を砕かれ、床にへたりこんでいる。
怯懦の中でも、両親は愛息を挟んで互いに抱きしめ合った。せめて、息子の盾になろうとしていた。

「な、な、なぜ……なぜ、息子なんですか!」

「そ、そうです! わ、私が……私でもいい!」

両親の言葉に、涙が溢れる。こんな事ならば、普段のやんちゃなどせず、父の鍬を振るい、母の水汲みを代われば良かった。
後悔を潰すように、悪漢が汚く冷笑する。

「こないだこの街に来た商人に盗みが入った。そのネズミがそこのガキだ」

「な……なんの話だよ?」

丸っきり記憶にない犯罪に、少年が思わず声を上げる。

「現場にテメェがいたっていう情報が上がってんだ! 文句はねぇよな?」

「あ……あるに決まってるだろ! おれやってねぇ! そんなのウソか誤解だ!」

「じゃあ、家の裏手にあった、このズダ袋は何だ?」

そう言って、悪漢は小汚い袋を掲げた。
それについても記憶にない。見た覚えがあれば、例え忘れていてもはっきりと思い出すはずだ。

「このズダ袋には大層高価なコショウがある。テメェらのような貧乏野郎どもの一生を養えるほどのシロモノだ」

本当の犯人は、盗んでからその換金先のツテがない事に気づいた。
だが既に大事になっていた為に、誰にも知られない内に元に戻すという選択肢が無くなった。
そこで、この少年になすりつけるべく、家の裏手にズダ袋を置き、聞きこみをしていた悪漢に嘘の証言をした。

未熟な偽証だったが、この限られた状況の中で少年が握る反証はない。
ただ、

「違う! おれは、絶対に違う!」

主張するだけしかない。
最後の足掻き、と嘲笑う悪漢は、ナイフを振り上げた。

「テメェの命で償うんだな!」

羊の三人は惨劇に目を瞑る。
神様、と誰かの喉が鳴いた。

果たして――ナイフが振り下ろされる事はなかった。

「っ!?」

数秒の空白。
怪訝に思った三人が目を開け、恐る恐ると様子を窺う。

ナイフは振り下ろすよりも前。早々に肉を捕らえていた。
鋭利な刃を握る赤い手は、悪漢の背後から生えていた。

白髪の男だ。
悪漢を見下ろす形で立っている。
長身痩躯のその体に、白髪と同化しそうなほど白い肌。
痩せているように見えて、油断なく筋肉を備えている。

白髪は笑みを浮かべていた。
苦痛を快楽と捉えている――訳ではなく、脂汗を浮かべ、余裕があると見せる為に表情筋を繕っていた。

「誰だっ、テメェッ!」

誰何の声に、白髪が唸る。

「お前に名乗る名前はない!」

若干芝居がかった声を上げ、男がそのままナイフを奪い去る。
ナイフを遠くに放り投げ、無力化したと思った白髪は一瞬、安堵に息を吐いた。

しかし、その息にすぐさま血が混じる。

「ガアッ!」

「にいちゃん!」

少年の悲鳴が響く。

「はっは!」

悪漢が快哉を叫ぶ。
その手には、先程放り投げられたナイフとは違う、胸ポケットにしまえるほど小さな暗殺用のナイフ。

鋼の煌きは、男の胸に深く沈んでいる。
悪漢の手つきは、単なる素人ではない。
胸骨や肋骨を避け、過たず白髪の肺を、心臓を捕らえていた。

最早、白髪の命はあと数十秒。失血死か心停止かの二択。
激痛で意識を鎖してもおかしくないというのに、白髪はまるで慣れたように食いしばり、意志の碇を現実に絡ませる。

「なっ、なんでまだ意識があるんだ!?」

悪漢に、驚愕という間隙が生まれる。
白髪は拳を握り、悪漢のこめかみ目がけて殴りつけた。

「ぎぃっ!?」

大剣をも振るった経験のある腕である。
勢いをつけた拳は脳震盪を容易く引き起こし、悪漢は落ちた先の床へ、熱く長い抱擁を続けた。

「あ……」

「に、にいちゃん! 大丈夫か!?」

呆気にとられる両親の腕の隙間を抜け、一足早く少年が駆け寄った。

流れる血に阻まれ二、三度手を滑らせたが、白髪はようやく自分を穿ったナイフを抜いた。
滝となって落ちる血は致命的だ。それでも、彼は苦笑してみせる。

「大丈夫、だ……オレは、死なない……」

「死なないって、そんなのウソだろ!」

生死に多く立ち会った事のない少年でも、白髪がまず死ぬであろう予感を抱いていた。
青ざめた肌。震える体。血染めの床。それら全てに死が漂っていた。

しかし、数秒。
白髪の体が一際大きく揺れると、信じられない光景を目の当たりにした。

「ぐっ!」

己の体の脈動には未だ慣れず、白髪が啼く。
見る間に胸の傷が塞がり、血の滝が堰き止められる。
青ざめた月と見紛う肌色は、たちまち血色を巡らせ、鉛と同じ摂氏の体温は正常値に戻り、体の震えが忽然と止まった。

生から死への不可逆な流れの否定。有り得ざるエントロピーの減少。

人外と言うべきその姿を見て――少年はしばし茫然とした。

「にいちゃん……まさか……」

白髪の胸中では、懸念が渦巻いていた。

それに続くのは何であろう。罵倒か、嫌悪か。
いや、それでも自分は、この選ばれた力を以て人々を救う事を望むのだ。

まだ青い彼は自己犠牲に少々酔い、目を閉じて少年の言葉を受ける事を待ち構えた。

「不死身の体で、あちこちの人を助けてきたっていう……!」

罵倒でも嫌悪でもなく、声から零れてくるのは憧憬の思い。

白髪は、図らず頬を綻ばせた。
嗚呼、この身を捧げて人々を救ってきた道程は、かのような幼子の耳にも届いていたというのか。

白髪は待ち構えるのでなく、少年の言葉を待ち望む姿勢に変える。

少年は思わず拳を握り、爛々とした目を白髪に晒した。

「『正義の吸血鬼』だよな!」

しかし、明らかに自分の事ではないであろうフレーズに、思わず脚を崩す。

「……きゅ、吸血鬼?」

「そうだよ!
 夜にしか姿を現さない、弱きを助けて悪を挫く! ……くーっ! カッコいい!」

吟遊詩人から何度も聞いたキャッチコピーに痺れ、少年が一人で悶える。

「ま、まさか……!」

「この人が……!?」

両親も、度々少年から聞かされてきた人物を目前として目を開く。

全く身に覚えのない白髪は困惑し、頬を掻きながら手を振った。

「……いや、オレは吸血鬼じゃぁない」

「……え゛?」

それを聞いて、少年の目から輝きが消える。
人間は突然の出来事への反応にこそ、本物の感情が見える。

口角と眉を下げ、目は窄み、手はだらりと脱力する。
少年は、明らかに落胆した。

しかし、それは一瞬であった。少年の落胆を読み取った母親は、命の恩人である白髪の機嫌を損ねまいとすぐに少年の腕を引いた。

「ふふ、うふふふ!
 あの。ごめんなさいね、その、この子、早とちりしちゃったみたいで!」

「……そういえば、確かに牙もないな……じゃあニセモノのまがいモンガッ!?」

「で、でも助けて頂いて、本当に助かりました!」

少年の失言未遂を拳骨で黙らせ、水飲み鳥もかくやと母親が何度も頭を下げる。

「……はあ」

釈然としないものを抱えながらも、白髪はその感謝を一応受け止める事にした。


夜は深海。
紺青の空間に月白のカーテンが差し、圧で濾された清廉な空気が冷たく沈む。
深層水のように清い空気を、紫煙と併せて飲み下すと、煙草の味が泡のように浮き上がる。

だが、こうして口の暇を潰しても、空腹の気配は紛れない。
昨日の美女が、自分を「渡り鳥の賢者」だと勘違いしなければ、あるいは昨日も血で満たされたのかもしれない。

血は一昨日に吸っただけだ。
昨日のように美女を救い、その褒美として頂いた。

彼はかように生きていた。

むろん彼の力量であれば、人間の一人や二人の血を、思うままに貪る事はできよう。
しかし、それは強引に過ぎる。
いずれ自分が「化け物」として首に金をかけられ、騎士団が討伐に押しかける未来に絞られるやり口だ。
それより何より、美学に反する。

それと、男の血でも生命活動を維持はできるが、彼は美学と共に美食を尊んでいた。
女の血は熟れたワインと比べて遜色ない。芳醇な匂いと深みある味をもたらしてくれる。

美学と美食を満たす為、彼は夜の娼婦街を歩いていく。
警邏兵の目の少ない夜。人の欲望が渦巻く娼婦街は、時として欲望が刃に変ずる事がある。

ここを徘徊すれば、いずれは人を救い、そして己の口を美女の血で濡らす事ができよう。

しかし、と彼は顎をさする。
そろそろ、この方法以外にも模索した方がいい。

常に夜が騒乱を欲している訳ではない。
いずれ、自分一人がこうして行脚するだけでトラブルが転がりこみ、血を頂ける事もなくなっていくのやもしれぬ。
より効率的かつ定期的に、自分の美学に反さず、人間社会を維持して、吸血を行う方法――。

人外の身には過ぎた夢、絵空事だろう。すぐに思考を切り替え、耳を澄ます。
彼の能力は、何も膂力だけではない。獣のように鋭い聴覚は、鼠の足音すら聞き分ける事ができるだろう。

煙の火を消し、鼓膜を張る。
瞑想にも似た精神集中が、遥か遠くの悲鳴をも捉えてみせた。

二時の方向。すぐさま彼が駆け出した。
速度は矢のようでありながら、足音も立てず、滑るように走っていく。

発生源への道は血管のように数多枝分かれしているが、ここしばらくの滞在でその多数を把握している。
迷う事なく脚を回し、足の速度と耳の精度により、数分も経たない内に惨劇の種を見つける事ができた。

右腕に酒瓶を持った暴漢と、その左腕の中に捕らえられ、逃げる事のできない女。

「いや! 離して!」

「へへへ、もう逃げられねえぞ!」

一つの激情は劇的だが、複数回目にした劇場は全く陳腐なものである。
決まって揃いの台詞を交わすその間に、茶髪が割って入ろうとした。

「待て」

ありきたりな制止を第一声とする機械仕掛けの神(Deus ex machina)を演じようとしたところ、その神は台本を奪って茶髪とは反対の方向からやってきた。
年若く見える、白髪の男だった。

「誰だ、テメェは!」

闖入に心を荒げた暴漢が、声に心を現した。

白髪は、劇看板の「二枚目」といった演技である。
彼は大仰に手を振り、皮肉を演じた。

「少なくとも、吸血鬼じゃぁない」

「吸血鬼」というピンポイントな単語に、茶髪が微動する。
その微動で、ようやく茶髪を意識に捉えたとばかりに、白髪が苦く笑った。

茶髪に制止の手を挙げて、ちっちと気障に舌を打つ。

「言っておくが、これから起こる事は見世物としては刺激が強い」

言外に「去れ」を含ませた物言いに、茶髪の男が牙を見せ笑い返す。

「それはいい。少し退屈していた所だ」

白髪が、茶髪からの不敵な笑みに訝しんでいると、いつの間にか蚊帳の外になっていた暴漢が割って入る。

「おい! テメェら、とっとと帰れ! 俺はこの女と話がしてーんだ!」

白髪が軽快に答える。

「その話で死体が出ないなら、そうしてやろう」

暴漢の頭から血管と痺れが切れる音が響いた。

「死ねえぇっ!」

暴漢は持っていた酒瓶を振り上げ、白髪に振り下ろした。
だが、白髪はすぐに両腕を交差させて掲げ、酒瓶の衝撃を、クロスさせた腕の根本で緩衝させる。

「このッ!」

暴漢は女と酒瓶から手を離し、「きゃっ!」という悲鳴と、ゴトリという酒瓶と石畳が衝突する音が広がる。酒瓶は割れないほど丈夫だった。
突然解放され、よろける女に茶髪が近寄り、この騒動に巻きこまれないよう抱き寄せた。

暴漢の目には、白髪への殺意しか浮かんでいない。よその二人を気に留めず、白髪の交差する腕につかみかかる。
白髪は暴漢の腕をあしらい、同時に長い脚が暴漢のアキレス腱を鋭く叩く。

「痛ぇエ!」

足元への衝撃にバランスを崩し、暴漢は石畳に倒れる。
その手元に落とした酒瓶が触れ、暴漢はつかんで立ち上がった。

再度振り上がる酒瓶。白髪は二度目の未来に備え、またも両腕を交差した。

「――ッ!」

しかし、白髪の予測が外れる。

暴漢は、立ち上がりぎわ、自分の頭の角度を斜めにした。
その先には、腕を上げてがら空きになった鳩尾がある。

勢いをつけた頭突きが入り、今度は白髪の身が石畳に投げられた。

「があああッ!」

暴漢の恨みの叫びと共に、振り上げたままの酒瓶が白髪の頭に下ろされた。

「いやあっ!」

酒瓶は頭の中に陥没した。白髪が血の赤と脳の白で汚れていく。
悲鳴と共に、女が目を覆った。茶髪が聞こえない程度に舌打ちする。
いくら自分が人並み外れているとはいえ、女を抱えてあの無謀な白髪をも救える訳がない。

白髪の四肢が石畳に放り投げられ、仰向けのままぴくりともしない。
思考を司る頭部を破壊されたのだ。当然である。

「へへっ、死体、出ちまったな」

数分前の白髪の意趣返しを吐き捨て、暴漢が血の滴る酒瓶を持ち直す。
そして茶髪と女の二人に視線を向け、興奮の泡を吹き、叫んだ。

「おら! さっさとその女をよこせ!」

「渡してそこの青二才と同じようにするのかね?」

「そいつの態度によるなぁ!」

「ひっ!」

暴漢の睨みに女が当てられる。
茶髪は女を抱きしめていた腕を解き、暴漢に立ち塞がった。

「テメェもアレと同じにしてやるよォ!」

酒瓶に殺意を乗せ、暴漢は横からの殴殺を試みる。

「――ッ」

細く静かな呼気と共に、茶髪は拳を握りしめて体を反らす。
それは攻撃をかわすと同時に、弓を引き絞るような反撃の準備。

「――マッパハンチ!」

声が喉から吐く。拳が顎へと突く。

「っぃガッ!?」

ただ一箇所への衝撃。だというのに、暴漢の体が数フィート空に上がる。
暴漢の全体重を浮かすほどの力が、顎伝いに脳へとショックを与えた。

石畳に暴漢が落下すると、転がったまま起き上がる気配もない。完全に伸びている。
熱くなった拳を振り、茶髪は女に向き直った。

「お見苦しいところをお見せしてすまなかった、レディ。よろしければ、その手に口づけてもよろしいかね?」

茶髪がかしずき、見上げて牙を見せる。

「えっ……?」

女は困惑していた。

――いや、無理からぬ話だろう。
――暴力の場面に次々と遭遇したのだ。
――か弱いレディには、少々刺激が強すぎる。

彼女が冷静さを取り戻すまで待とうとしていたが、女は口を押さえて、それでも抑えられない悲鳴を上げた。

「いやーッ!」

すぐに女がその場を逃げ去る。

「ど、どうしたのだね? レディ!」

別に、自分は怯えさせるような態度をしてはいないはずだ。
では何故……? と首を傾げているところに、視界の端でびくりと蠢くものがいた。

白髪だった。

「……?」

頭部が破壊されれば、間違いなく人は死ぬ。
死体となった彼が自律的に動く事はないはずだ。だというのに――。

「――ククッ」

白髪が、笑う。
不敵な笑みを浮かべ、仰向けの顔は天を向いたまま。

「貴様の悪行は、やはりここまでだな」

……彼の中では、まだ暴漢との闘いが続いていた。
いや、仕方がないのだ。何しろ、白髪が脳を損傷して以降の話は、聞こう見ようにもできなかったからだ。

故に、白髪のタイムラインは自分が殴られた時と現在とが地続きになっている。
茶髪が暴漢を倒した事など、知るよしもない。
白髪の足元に暴漢が転がっているが、彼の目は月しか見えていない。

血で染まった髪を振り、白髪が勢いよく起き上がり、朗々と口上を立てた。

「オレは不死の身を以て人々を救う『渡り鳥』だ! 貴様の殺意がどれだけ研がれようとも、このオレを殺――す、には……至らない、が……」

途中で気づく。
起き上がって、自分のすぐ近く。意識を失った暴漢が倒れている。
そして辺りを見渡せば、どう行動すべきか悩み、どうしようもなく頬を掻く茶髪の男が一人。

「…………」

気取った口上が空ぶった事に、白髪は頭を抱えた。
茶髪は少々呆れたような口ぶりで、

「まあ、泣くような事でもあるまい」

「泣いてなどいない」

ただひたすらに落ちこんでいるだけだ。
気まずい無言が空間を占める中、茶髪がパイプを取り出しがてら、そろそろと口を開く。

「その、君は……あー、『渡り鳥』と言っていたが、『渡り鳥の賢者』かね?」

「……そうだ」

茶髪がパイプを咥える瞬間に、その鋭い牙を見る。
白髪はよもやと浮かんだ疑問を口に出した。

「お前が、『正義の吸血鬼』か?」

「恐らくは」

互いに互い、未知の単語を既知に置換する。

茶髪は空いた腹をさすり、白髪をちらと見やる。
――結果的にこの白髪は、自分が甘血を得る切欠を再度潰した。

一方の白髪が視線に気づき、鍔迫り合わすように拒絶する目を交わす。
――結果的にこの茶髪は、自分が栄誉を受く機会を双度壊した。

互いに互い、「好けない」といった感想が浮かび、渦を巻く。

茶髪のパイプの紫煙は感想の渦を表しているようで、その禍は白髪の顔にまとわりついた。
煙を火種にしたように、白髪が撃鉄を起こすように口を開く。

「……オレは、昨日もお前に阻まれた。
『正義の吸血鬼』様に勘違いされて、助けた人間から感謝の言葉を聞けなかった」

茶髪は、明らかに自分を非難する声色を感じ取った。

「それは私も同じようなものだ」

「そんな事は、オレの知った事じゃぁない」

「私も同じ状態だがね」

火種はささやかなものでも、くべる燃料があれば炎となる。
互いにわずかな不快を交換し合うと、後ろ向きの相乗効果が発生した。

静かに燃え上がるのは、相互に矢印を向ける敵対心。
「我ながらまだ青いものだ」と自覚と自嘲を携えながらも、茶髪は決して穏当ではない台詞を隠せなかった。

「私は血を頂く為にこういった事を続けている。
 これは私の生命活動の一部だが、君の独善は、ただの自己満足だろう?」

己の善意の、人間の感情を持っている事の証明。
悪性の表現に証明を切り捨てられ、白髪は目を窄めた。

「人間を食って生きている化け物とは違う。お前の行為は利己的だ。
 オレは真に、人の為になっている」

どちらも、手を引くつもりはない。

「『人の為になっている』かどうかを、それをしている人間が決めるのはおこがましいとは思わないかね?」

「証人でも立てろと? あるいは最後の審判が来るまで待つか?」

「そんな事は、人の口が証明してくれる」

二人の善行は、吟遊詩人が「正義の吸血鬼」と、「渡り鳥の賢者」と謳われている事で証明される。

「……なら、オレがお前よりも先に、この街の歌に上がるようになれば、オレの方が正しい」

敵対的な比較は、「競争」を唆した。

「では私の方が正しいのであれば、君は早々にどこか別の所に渡って欲しい」

「ならば、オレが正しいと貴様が出て行く事になるな」

目が交差した所から、火花が散る。

こうして――やや傍迷惑な「狂騒」が始まった。


翌朝から、白髪は行動を開始した。

相手は吸血鬼。太陽の下での活動は鈍るはずだ。
であれば、日中を行動時間とする人々を相手にすれば、同じパイを奪い合う事はない。
それに、人間は昼行性の生き物が多い。
それは、自分の知名度を振り撒く対象が多いという事でもある。

そう考えれば、むしろあの吸血鬼が可哀想にも思えてくる。
含み笑いを抑えきれず、白髪の笑みを見た患者が不安げに問いかけてきた。

「あの……本当に、大丈夫なんですかね?」

今、白髪はとある家で寝こんでいた猫背の男と対面していた。
彼の家族が、白髪を「渡り鳥の賢者」と見こんで連れてきたのだ。

白髪は含み笑いを変転させ、見る者を安堵させる為の笑みを被る。

「大丈夫だ。この症状は前にも見た事がある」

患者の病状を索引に、過去の書庫から知識を引き出す。

「これは北の方で発症が多い。だからその分、そちらの方の知恵が発達している。
 その知恵を借りるとして、曰く原因は『神と離れたが故』だ」

「神と……!?」

偉大なる聖名(みな)を唱えられ、猫背の男が縮こまる。
怖々と震える男をなだめるよう、白髪が淡々と説く。

「あくまで比喩だ。実際のところは、太陽と魚から離れた事による病だ。
 ベッドは窓辺に寄せて日の光が当たるように。魚は内臓ごと食べればいい」

「魚は……高い。手が出せない」

「なら茸、特に干したものがいい。それと山羊のチーズかバターが効く。
 いずれにせよ、治る病だ。症状が軽くなれば外を歩くといい。二年ほどで完治する」

「おお……!」

希望の光を見出し、猫背の男が拝むように手を合わせた。

「ありがたい……医者に高い金を払って見てもらっても、首をひねるだけで終わってしまったんだ……。
 それが……『渡り鳥の賢者』様に見ていただいて、本当に助かった……!」

「ああ」

空返事をしながら、内心で皮肉が浮かぶ。
――こうして他人の病を治しても、己の不死の病は治せないのだな。

用の済んだ白髪は、きびすを返して部屋の扉を開きくぐる。
続く居間には、祈るように手を組んでいた家族がいた。

「あ、あの、父は……」

「心配はない。治る」

白髪の無骨な返事とは正反対に、家族は感涙して深く腰を折った。

「ありがとうございます……!」

血の通う人間からの感謝を受けて、白髪は内面で密かな充足が湧くのを感じた。
その熱こそが自らが生きているという証だ、と思いこんで、白髪は対価を慎ましく受け入れる。

「礼には及ばない。オレが知っている事を知らせたまでだ」

それで会話を切り上げて、同時に足上げ家から出ようとした。
家族は白髪の様子を見て、その背中に声を投げる。

「恐れ入りますが、食事程度は用意してもよろしいでしょうか?」

提案と同時に、間の悪い腹が音を立てた。
頬を掻き、ばつが悪い白髪が足を返す。

「……なら、招きに与ろう」


未だ排煙も蛍光灯も知らない夜空であるが、都市部を離れれば一層の輝きを見せている。
さんざめく星光の下、山麓の崖下で無粋な男たちが宴を催していた。

「――それでは、今宵の酒を供していただいた商人様に、」

『乾杯!』

木製のカップがかち合う音があちこちで鳴った。

粗野な男たちは下品な笑い声を上げ、口上に掲げられた当の商人は輪から外れた場所で震えていた。
崖を背もたれにして、痣と血痕にまみれ、腕と肢には荒縄がかけられている。

つまりは、男の集団は盗賊であり、商人は羊であった。

逃げようとは思えない。逃げればすぐに暴力の雨が降る。
それでも、決して安全と言えないこの場への恐怖から震えは止まらない。

「おうおう、楽しんでないみたいじゃねぇか、なぁ?」

「ひっ!」

ビアを片手に、男が商人に近づく。

「そう怯えるんじゃねぇよ! これから長い付き合いになるんだぜ?
 アンタが生き永らえる代わりに、稼いだら稼いだだけ貢いでくれる契約なんだぜ! 全くいい契約だぁ!」

「そ、そんな……」

「飲んでねぇだろセンセェ? ホラ、おれの酒をおごってやるよ!」

男は手にしたビアのカップを、商人の頭上で逆さにする。
重力に引かれた生温いビアは、商人の服を更に汚していった。

「はっはははははっ!」

弱者をいたぶる快楽に酔う男が、笑い声を上げる。

「はははは――ぐげぇっ!?」

「いっ!?」

突然、自分の横で昏倒した男に、思わず商人が悲鳴を漏らす。
異常を察知した二人の男たちが、倒れた仲間と商人を見比べた。

「おい! おれたちの兄弟に何しやがんだ!」

「ち、違う! わたしはやっていない!」

「あぁ? ここにはもうテメェを守る護衛もいねぇんだぞ! テメェしかねぇだろうが!」

詰め寄る二人。これから起こる惨劇に身をよじる商人。

「ぃぎゃっ!?」

そしてまた、突如として一人の男が倒れた。

商人は縛られたままだ。何かをしかけるはずがない。
その証拠を目の前にして、ようやく商人の無罪を飲みこみ、もう一人の男が周囲を見回した。

「だ、誰だっ!?」

「――私だ」

大声を上げた訳ではない。しかしその声の存在感は、饗宴を静やかにさせるほど大きかった。

皆が皆、崖を見上げた。
そこには、月光を背にした茶髪がいる。

手慰みに、拳大の石を投げてはキャッチを繰り返し、それが男を昏倒させた原因だと知れた。

「あまり紳士的な手段とは言えないが――。
 君たちほど数がいると、流石に手は考えなければならない」

茶髪を外敵と認めた盗賊の首領が、鉈を振り回した。

「ええい、降りやがれ!」

無料(ただ)で地の利を手放す訳にはいかんよ。金品をそこの商人に返して、足を洗うという契約なら、契っても構わんよ」

「あぁ? 何バカ言ってやが――ぎゃがっ!」

首領の額に投石が当たり、気絶する。
一瞬の沈黙。すぐに怒声が湧き上がった。

「図に乗るんじゃねぇ!」「生意気だ!」「殺してやるぅ!」

湧き上がる男たちに構わず、あくまで冷静に茶髪が投石を続ける。
掻き集めた石は、足下に山となって重なっている。
その山から石が減るたび、立っている男も少なくなっていく。

「行くぞぉ!」

だが、黙って的になっているほど盗賊は殊勝ではない。
切り立った崖はそのまま登る事はできず、回りこんで坂を行軍する。

「ぎぃあぁっ!」

それでも、茶髪の投石が止まる事はない。距離が離れているというのに、何と恐ろしい命中精度と速度であるか。
倒れる仲間を踏み越えて、男たちはようやく茶髪と相対した。

崖上には、針葉樹がぽつぽつと生えている。その間に挟まれるように、茶髪はいた。
既に不要となった石の山を足で崩し、茶髪は不敵にパイプを揺らす。

「これが最後なのだが、投降はしないのかね?」

「へっ、その言葉、そっくりそのまま返してやるぜ!」

多くが倒れたとはいえ、少なくない数の盗賊が群れている。
相手の地の有利を潰し、数の有利を実感する盗賊たちは、余裕ぶって振る舞った。

やれやれ、と茶髪は肩を竦めた。

茶髪の足は石の山から、針葉樹の根本へと素早く移った。
鈍い衝突音と共に針葉樹の根本が抉れ、傾く幹を茶髪の両腕が抱き抱える。

「ふんっ」

筋肉に押し出された肺の呼気と共に、針葉樹の根本と幹が折れ分かれた。
尋常でない膂力によって針葉樹を持ち上げた茶髪を見て、盗賊が冷や汗を垂れながら、

「……その、交渉しませんか?」

「すまないが、期限切れだ」

返事と共に、茶髪は針葉樹を振り回した。


「――それで、本当に凄かったのですよ! あの『正義の吸血鬼』は!」

「はぁ」

ため息交じりの相槌を打ちながら、白髪は商人の話を聞き流す。
未だ自分の感情を偽るに熟達できず、微笑を務めようとしても口端が痙攣する。

どうにも憎らしい。
人が好むのは、地味な癒術よりも派手な英雄譚である。

事実、白髪の癒術を待つ人の列ですらも、「吸血鬼?」「知らないのか? 盗賊団を潰した事で有名だぜ」と口々に噂する。
このままでは、知名度対決は吸血鬼に軍配が上がるだろう。

いや、しかし、と頭を振る。自分は神を代行すべく生きているのだ。あんな勝負など二の次である。
だが、しかし、と心が逆む。正直イラつく。あの煙管が揺れ笑う様を思うに、畜生と吐く渦がある。

憎しみをこめて薬草を潰し、苦い芳香が立ちこめた。
草汁を商人の傷に当てつつ、何とはなしに訊いてやる。

「癒えるのは一週間ほどか。ここにはどれほど滞在する?」

「ん? ああいや、一日二日で退散するつもりですよ。
 何しろここは物騒ですから。ええ、商品を仕入れたらすぐにでも」

「物騒?」

確かに、都市部なら人が多い分、人間同士が擦れ合う故に軋轢はある。
だが、その作用の範疇ではあるはずだ。計算外なまでに事故・事件が溢れている訳ではない。

眉根をひそめる白髪を見かねたように、声量を絞って商人が囁いた。

「あなたが『いい人』だから言いますがね、ここには暗殺組織があるんですよ。
 最近だと、二人の貴族サマの権力争いが激化していると専らの噂でしてね。どっちが、誰が殺されるか分かったもんじゃありませんよ」

商人の傷に洗った綿を当て、その上から布きれでぐるぐるに巻く。

「話は分かった。ありがたい。
 これで治療は充分だ」

「へえ。こちらこそありがたいもんですわ。他の医者ならもっと高い金を払うもんでして」

これはほんの礼、とばかりに、白髪の手に銀貨を握らせる。
そして商人はそそくさと扉の奥に消えていった。

「……次」

白髪の言葉に、腕の曲がった女がその扉から入ってきた。

白髪が今いるのは、とある宿屋の二階、その一室である。
寝泊まりするのもここであるが、昼間はこうして病人や怪我人を相手する、簡易な診療室になっていた。

宿の主人に迷惑をかける、と懸念していたが、それは単なる杞憂に過ぎた。
階下では、回復祝いの祝杯がぶつかり合う音が上がっており、商売繁盛といった所である。

数多の傷病を見て、それらに適切な処置を施す。
それだけで、机の上に展開された懐中日時計の影が伸びていく。

「…………次」

その声を扉の空白に投げかけて、誰も来ない事に気づく。
誰も聞いていない空ぶりの声だが、繕うように咳で払う。

机の上に広げていた薬草や、清水の入った深皿を片づけ、最後に懐中日時計のリングをくるりと回してしまいこむ。

窓から差しこむのは橙色と藍色が組み合う外光。
眩しそうに目を細めて、白髪は扉をくぐった。

階下へ続く階段を降り、疲労した体を喧噪が包む。
引き返して自室のベッドに転がりたい願望を檻に押しこみ、酒場のカウンターに近づいた。

宿屋にして酒場の主人は、白髪を見るとすぐに駆け寄り、何も言わない内からジョッキにビールを注ぎこんだ。

「お陰様でこの盛況ぶりでさぁ。これも賢者どのの腕に感謝しなきゃいけやせんねぇ」

「ああ」

あちらでテーブルを囲う男衆も、主人に釣られて「賢者どの、万歳!」と乾杯の口実にする。
酒臭さに鼻を擦り、注がれた善意を一気に飲み干した。

二杯目を注ごうとする主人を手で制し、自分の中での本題を持ち出した。

「この街で有名な貴族が二人いるらしいな」

「ん? あ、ああ。いりやすねぇ。政治を耳にしないあっしにゃ名前は知りやせんが。
 北の『隻眼男爵』と、南の『鷲飼男爵』がいますんが、ちょっくらそこらの事情が物騒でしてね」

「どちらがどうか、という事は分かるか?」

「んま、まあ、ほんの針先ほど知ってる事ぁありやして。
 最近じゃ、北のが有利で南のが不利だってさぁ。ちょっと大きな声で言えやせんが、北が色々手を回した、らしいそうで」

その情報を握り、白髪がカウンターから離れる。
白髪が外套を羽織り、店の外へと歩み始める。

「礼を言う。それだけ分かれば充分だ」

「賢者どの、どちらに行かれるので?」

「酒気を醒ます」

白髪は、嘘を言い残して去っていく。


日ごとに痩せていく月を眺めながら、隻眼の男が銀杯を揺らす。

「月が満ちれば、後は欠けるまでだ。
 (さく)になるのもそう長くはない。あの鷲飼の名誉も、それまでだ」

ワインと水が混じった薄紅色を口に運び、飲み干すと体を脱力させた。

「これで、私が南もいただく」

喉で笑い、隻眼は窓から遠く南を見つめる。

あの鷲飼は、最早爵位すらも維持する事ができないであろう。
元より、あれは汚らしい男なのだ。当然に帰るだけだ。

身を落とす鷲飼の姿を想像して、いっそ爽快な気分にすらなってくる。

「さて……」

本棚から気に入りの詩集を取り、上等なベッドに腰かける。

刹那。

「ッ!?」

ベッドが変形する。
いや、そうではない。ベッドのマットは人間の形にくり抜かれていた。
そして、そこに暗殺者がいた。

首に、ぞっとするほど冷たい金属の感触。
暗殺者は、隻眼の耳に命令をねじこむ。

「――動くな」

隻眼は目を見開き、背後の存在を推測した。

「鷲飼の子飼いか!」

「否。鷲飼と我々は単なる客と商売人の関係だ」

「……まさか暗殺組織が、噂ではなく本当にいるとはな」

隻眼の冷や汗が頬を伝い、首を伝い、刃を伝う。

「私は国王陛下に鷲飼の醜態を伝えただけだ。潔白のこの身を斬れば、貴様の魂は地獄に落ちる」

「我々は元から地獄にいる。場所が変わるだけで何となる」

「神は私も貴様も見ている!」

「見ているだけだ。孤児であった、唾棄されていた、我々を救おうとすらしない!」

単なる仕事への意志だけではない。強者への妬みを乗せて刃が食いこむ。
薄く開かれた傷から血が零れる。しかし興奮からか、隻眼は痛みを感じなかった。

「神よ! この者に裁きを!」

「神などクソ食らえだ! そのクソったれごと死に絶えろ!」

叫びと共に、短剣の刃が一瞬離れる。
速度をつける為の助走。その離した距離は、ある瞬間を境に縮小へと転ずる。

「神よ――!」

祈りは果たして、窓から願いが滑りこむ。

「ぎぃっ!?」

月色の髪と肌をした男が、部屋に乗りこみ暗殺者の腕を蹴り上げた。
腕の先にある短剣は指から離れ、隻眼の足を掠って絨毯に刺さる。

「ぅわっ!」

一インチずれていれば、足の肉を抉っていた。隻眼は悲鳴を隠し切れない。

「……酔っていなければ、そんな所に落とさせたりはしなかったが」

白髪が舌打ちし、短剣の柄を踏む。
短剣の刃は完全に床板の中に埋没し、手で引き抜くには困難を極める。

一つの凶器を無力化され、暗殺者はすぐに第二の短剣を取り出した。

「死ねぇっ!」

切っ先は隻眼ではなく、妨害者である白髪へと向いた。
白髪は――指を切り落とされるという躊躇もなく、右手で刃を握り、痛みに震えながら嘲笑する。

「……オレが死ぬ事など、できるものか!」

白髪は暗殺者の脛を蹴りつけた。

「ぐげぇッ!」

急所を的確に打たれ、暗殺者が昏倒する。
白髪は暗殺者をうつ伏せに、手を後ろに回させた。

「シーツを取れ。縛る」

「あ、ああ!」

隻眼がベッドからシーツを剥ぎ、暗殺者を言うがままに縛り上げた。
布が軋むほどにきつく締め、無力化を確信して息を吐く。

安堵により、隻眼は生存から好奇へと優先事項がすり替わる。

「君は、誰だ? 何故、ここにいる?」

白髪はシーツの端を引き千切り――怪我を止めるというより隠すように――右手を縛る。
それから隻眼の質問に優先権を移し、ここへの経緯を口述した。

「南が劣勢ならば、静観していても北が勝つ。手を下すまでもない。
 博打を打つのは、いつであろうと劣勢の側だ。今夜より張りこもうとしたが……その今夜の内に尻尾を出すとは」

「張りこみ? 何だ? 君は一体何者なんだ?」

未だ混乱の中にいる隻眼に、彼の祈りを引用してふっと苦笑した。

「あるいは神かもしれない」


釣鐘を鳴らし、宣伝手が声を張り上げる。

「南の鷲飼が! 暗殺者を北の隻眼に送りこんだ! 隠匿されし鷲飼の尾を見たり! その尾羽の黒い事か!」

明朗に響き渡る声で、目が覚める。
それを聞く人々のざわめきすら、彼の耳に聞こえた。

誰も寄り付かない廃屋で太陽をやり過ごしていたのだが、聴覚から睡眠を妨害されてしまった。
埃臭いベッドから起き上がり、頭を振る。

美女の血もこのところ吸っていない。そんな不健康の中で、更なる不機嫌が上乗せされた。

「――隻眼を凶手より守りしは、かの『渡り鳥の賢者』殿である!」

人々の賛美の声が聞こえ、茶髪が握るシーツがぐしゃりと皺になる。

盗賊団を壊滅させた事実を流布するのは一般人である。
それは単なる噂に過ぎない。だが、それを公正な宣伝手が口にすればどうなる?

確実な手柄を人々に知らしめたのはあの白髪の野郎である。思わずFの字をつぶやきそうになり、寛大な紳士的精神で抑えこむ。

ああ、青い。我ながら未だ青い。
頬に自嘲を、額に青筋を浮かべ、茶髪が立ち上がる。

血液不足に日中活動が重なる。
だが居ても立ってもいられぬのだ。

廃屋から日光の下へ身を動かす。
足音を立てて道を行く中、酒場から出てきた、夫婦らしい二人組が目を引いた。

顔の青い夫を、妻が杖となって支えている。
妻は涙を流して夫を見つめて、「絶望」というものをその顔に刻んでいた。

茶髪はすぐにその二人へ駆け寄り、妻に声をかける。

「どうなさった、ミセス」

訊かれた妻は、しゃくり上げつつも事情を開けた。

「夫が……酒に、毒を、入れ、飲まされて……『賢者』様に、行って、言ってみても……こ、今夜を、越えられないだろう、と……」

つまりは、あの白髪が匙を投げた患者であった。
茶髪の目が光る。これだ。

彼は妻の両手を取り、沈痛な面持ちで目を伏せた。

「それは労しい……しかし、それを嘘にするとしたら、どうだろうか」

「な、何がですか?」

茶髪は懐から革袋を取り出すと、中の物体をカラコロと鳴らし、

「これは、私の知人――いえ、狐印の丸薬でね。
『バックヤード』――いや、東洋の奇跡が詰まったもので、あらゆる病と毒を払う……と、いう触れこみだ」

「は、はあ……」

半信半疑、というより七割ほど「疑」に天秤が傾いている様子である。
しかし、藁にも縋る思いで、妻が夫を揺り動かした。

「あなた、少し、口を開いて」

それを同意と見なし、茶髪が革袋から真っ黒な丸薬を取り出した。

「う、ううん……」

口を開く事すら難儀する夫の口に、丸薬を放り投げる。
夫の喉がごくりと鳴った瞬間。

「――う!? うげえっ!」

夫は、胸を叩いて苦し気に暴れ出した。

「あなた!」

夫の異常行動に、妻が悲鳴を上げる。
妻は恐る恐る茶髪に目を向けると、疑いの眼差しを形作った。

「まさか……あなたは、夫に、とどめを刺そうと……!?」

茶髪は慌てて手を振り、必死に否定を伝える。

「いや! そんなつもりでは無いのだが……!」

まさか悪戯の品でも押しつけられたのか、と後悔する茶髪。
その後悔を払拭するように、夫が続いて叫んだ。

「不味い! 苦い! 辛い! 酸っぱい! とにかく不味い! 不味すぎる!」

口にするのは、苦しみというより、丸薬への苦情だった。
その夫の様子を見て、妻の表情が茫然とする。

「あなた! さっきまで口が回らないくらいだったのに……!」

「ん? ……あ、ああ! そういえば!」

見れば、真っ青だった顔色も赤くなり、生気に溢れている。
「賢者」にすら見捨てられ、絶望の淵に立っていた夫だったが、今や妻に支えられずとも二本足で直立できるほど元気を取り戻していた。

「おおおおっ! 生き返ったッ!」

歓喜の声と共に、夫は確かめるように足を踏み鳴らす。
その音の力強さといったら、周囲の注目を集めるに足りる。

図らずも茶髪の広告台になった夫は、周知するような大声で彼を讃えた。

「ああ、何と素晴らしい! これは『賢者』を上回る、『大賢者』と言っても良いのではないでしょうか!」

冗談と賛美を同時に謳われ、茶髪が苦笑で受け取る。
どちらかといえば「知人」の功績が過半であるが、まあ、それはそっと置いておく。

「貴方の名は一生忘れません……! ところで、貴方の名前は?」

「いや、名乗る程の者ではない。強いて言うならば、『吸血鬼』とでも名乗ろうかな」

「『吸血鬼』! ああ、あの『正義の吸血鬼』で!」

更にヒートアップする夫は、肩を叩く妻にも気づかず茶髪の手を握った。

「まさかこうしてお会いするとは! ……昼なのですが、その、日光は大丈夫なのですか?」

「ちょっと痛い程度だ。気にする事はない」

「おお、それは良かった! いやはや、私ただの一警邏なのですが、やはりこう、正義の為にある存在というものには憧れが――」

「あなた!」

夫の袖を強く引き、妻が水をかける。

「ご迷惑ですよ。そろそろ行きましょう?
 ――ああ、『吸血鬼』の方、ありがとうございました! 今度甘いケーキを焼いてきますので」

まだ言い足りないと口を噛む夫を引きずり、妻は帰り道を歩き出す。
夫婦二人を見送り、残った茶髪は睡眠不足の頭を抱えて帰り始めた。


夜、暗闇の中で灯る蝋燭を囲む。
彼らは複数人であり、いずれも同じ黒装束を着こんでいた。

肌を見せず、顔を見せず、夜闇に溶ける衣装を揃え、彼らはただじっと蝋燭を見つめる。
蝋燭に殊更の装飾がある訳ではないし、それを見ている事が有益な事でもない。

「……それで、失敗が続いたのね」

首領である女性の目を見る事が、何より恐ろしいからであった。
放棄された地下墓地(カタコンベ)の湿気もさる事ながら、その雰囲気を重々しくしているのは、言葉にするには酷な「失敗」の報告である。

「売女も、少年も、隻眼も警邏も、誰一人として暗殺できなかった、と」

胡椒泥棒の濡れ衣を着せられた売女は、茶髪によって守られた。
同じく、冤罪を被せられた少年もまた、白髪によって救われた。
「隻眼男爵」の暗殺の刃は白髪によって奪われてしまい、
致死性の毒を盛った警邏は茶髪によって解かれてしまう。

唇に差した紅が火にゆらめき、女の豊満な胸が揺れる。
蠱惑的ですらある景色に、しかし彼らは怯えた。

「一体いつから、わたしたちは暗殺組織からガキの遣いになったのかしら?」

言いながら、最後の報告をした組織員を一瞥した。
そして靴音すらなく、蛇より静かに近寄る。

眼前にまで顔を近づけ、目を合わせる。
彼女の髪が蛇でなくとも、体がたちまち石になる。

その肉が砕かれないよう、慌てて保身を口走った。

「それら全てに、かの『渡り鳥の賢者』と『正義の吸血鬼』が絡んでおります」

「『賢者』? 『吸血鬼』?」

鸚鵡返しに反復した後、頓狂な御伽噺でも聞いたと言うように、首領が笑う。
だが、目は一切笑っていない。未だゴルゴンのように研がれている。

「そうね、まるで子供騙しな、素敵な英雄のようじゃない」

首領は目を細め、逆に口は裂くように吊り上げた。

「そんな英雄さんの晩節を汚さないようにお手伝いしましょうか」


日時計の影なる針が薄く伸び、窓の下では夜に備えて提灯を持つ夜警がせせこましく歩いている。
患者の列も途絶え、白髪は日時計を畳んで懐に入れた。

当初こそ、以前から病んでいた人間たちが殺到していたが、このところは落ち着いている。
一抹の寂寥を浮かせながら、夕餉の為に階下へ降りる。

白髪の姿を見つけ、元患者たちは静かに歓声を上げた。
同時に、白髪は溜息を吹く。

自分の善行は、最早「存在する事が自然」となったのだろう。
それに諸手を上げて讃える事はない。

いつしか、「自然」は「当然」に変わるのだろう。
そうとなれば、その当然の存在が去る事になれば、背に受けるのは激励ではなく罵倒になるだろうか。

「いつか」のように。

悲観的な予感を抱くも、彼が酒場のカウンターに着いた途端にグラスが置かれる。

「患者さんから差し入れでさぁ」

グラスには白い液体が湛えられている。透かして向こうを見る事もできない程に濃い白をしていた。

「何だ、これは」

獣乳のようであるが、水面の揺れ具合からして、それよりは粘性のある何かである事には違いない。
「賢者」の目からしても知れない液体に、カウンター奥の主人が肩をすくめた。

「あっしも知りやせんでしたが、山羊乳の乳酒と言ってやした」

「乳酒?」

「あっしの親父も、親父の親父も酒場やってますがね、果物だ蜂蜜だ麦だ何だの酒は見た事ありやすが、乳の酒は見た事ないですねぇ」

「それなら、東のものかもしれないな」

そういなしながら、一滴を咥えて検分するように舌を回す。
確かに、乳成分の甘味が先行するが、酒の苦味と発酵による酸味が感じられる。

別段、悪くはない。が、驚くほどのものもない。

昼の休憩ぶりの水分として、グラスを一気に傾ける。

飲み干した際、口に異物を感じた。
吐き出すと、くしゃくしゃの玉になった小さな黒布。

「……何だ?」

広げれば、それは蝙蝠の形に切り抜かれていた。
この状況で蝙蝠。否が応にも、あの茶髪の影が浮かぶ。

だが、こんな事をするのか?
あの茶髪のものなのか?

「まさかな」

頭を振り、自問に否定を自答する。
空にしたグラスを主人に返し、問いを添える。

「これを渡したのはどのような人間だった?」

「はぁ。まあ、結構な別嬪さんでございやした」

時流の糸に垂れ下がった記憶を、引き寄せる。

女の美醜というものの感性は敏くなくなっていたが、それでも別嬪と称されるような患者に心当たりがない。
不健康な女というのは大体が老女であった。あとは顔に疔がある女であったり、殊更痩せていたり太っていたりしたものだった。

考えを切り替えるに、美女というようなものは、突き詰めれば特徴的な欠陥のない人間という事だ。
故に記憶に残っていないのかもしれない、と、些事にそう結論づけ、白髪は席から立ち上がった。

白髪が二階に上がる。
階段を踏む足が、妙に重い。

酔いからか、足元がおぼつかない。

……いや、乳酒の味に強いアルコールは感じなかった。
となれば、この千鳥足は何だ?

「……!?」

階段の踊り場に吐血する。
木の板の継ぎ目に赤が差し、液体が固体にしきりに落ちる音が響いた。

その響きを察知した主人が姿を見せ、白髪の様子を目の当たりにし青ざめる。

「け、賢者どの! 大丈夫ですかい!?」

「……大丈夫だ」

「自分は死なない」と音もなく独り言つ。
眼前に広がる朱色の原因を推測するに、一つ。

毒を盛られた。あの乳酒に。
酒の苦味の中には、もしかすれば毒の味も混じっていたのやもしれない。

「私は『賢者』だ。この対処法も把握している」

放っておけば治る。この不死の身だ。

危機の欠片もない苦笑で主人をなだめ、廊下を抜けて部屋の扉を開ける。
部屋に入る間際、主人が不安半分の表情で雑巾を持ち出していた。

誰が、毒を盛ったのか?

主人は美女が酒を持ってきたと言っていた。
だが持ってきただけであり、盛っているかは不確かだ。
あるいは足役であるだけであるかもしれないし、自らを恨む他の医者や鷲飼の残党という事もある。

どの道、今の材料から確実な一つを導く事はできない。

「…………」

白髪の脳裏には、布の蝙蝠が飛んでいた。


赤。

赤い絨毯、赤い飾り布、赤いドレス、赤い唇。
広間に点在する晩餐の卓には、ワインのふりをした種々の血が、グラスに入って並べられていた。

熱のある血の蒸気の中で、人影は二人しかいない。

赤い美女と茶髪の男。

茶髪は、霧がかった思考を巡らす。
現在に至った経緯も記憶もない。ならばこれは夢であろう。

ここ数日、美女の血にありついていない。
血のグラスも、目の前の美女も、深層意識で欲しているのか。

明晰夢の中で、しかしそれをわざわざふいにする必要もない。
目の前の美女に近づき、手を取り、熱を抱く。

陶磁器の白い肌を撫で、ビードロの脆い首に唇を寄せた。
牙を立て、肉に刺すナイフのように深々と牙が埋まる。

美女の熱が、口に零れる。
口から、肺に、胃に熱が落ちる。

やがて全身に赤が回る。
骨、臓腑、いや髪の先から爪の先まで、熱にうなされる。

熱い。
いや――暑い。

身体を包むこの暑さは、肉体よりも熱気に連なる。
己に回された(かいな)は、その白さと熱さからして、高温に達した金属の発色に等しい。

「――!」

危機的気温に目が醒めた。

周囲を見渡す。映るのは赤。寝床であった廃屋の壁も天井も、今や壊滅的な火で彩られている。

その火の中で――渡鴉が映る。
弱弱しく翼を動かし、背中には松明と思しき木の棒を背負っていた。何者かにくくりつけられ、ここへ放たれたに違いない。

額から流れ落ちた汗を拭えば、周囲の高熱ですぐに気化する。
微睡みのままでいれば、骨になるまで眠っていた所だった。

背筋を以て文字通りに跳ね起き、弾丸もかくやと廃屋を駆ける。
炭化した壁を突き破り、数時間ぶりの外気の涼しさが体を受け止めた。

「ああ! あんた、大丈夫か!?」

廃屋の火事は既に周知のようで、火を囲む野次馬の一人が茶髪に声をかける。

「いや、大丈夫だ。この程度で死にはせんよ」

口笛を吹いてみせ、茶髪は無事を表す。

とはいえ、心情は平常とは言えない。
寝込みを襲われた。放火犯を押さえるまで、安眠を得る事はできない。

「……おい、なんかついてるぜ?」

先程声をかけたのと同じ男が、背中を差して指摘する。
彼の通りに背に手を払うと、軽い感触が手に返してくる。

それをつまんで眼前に戻せば、松明を背負ったの渡鴉のものであろう、黒い羽根が手に乗っていた。

「……渡り、鳥。か」

くしゃりと羽軸を折り、脳裏で鴉が舞い去った。


朔の夜。
一際深い闇のカーテンの中、古城の隠し階段を降りる女が一人。

地下墓地に戻った首領を、組織員が頭を垂れて迎え入れる。
首領は彼等を一瞥するだけで対応を終え、地下墓地の奥に置かれた人皮の椅子に深く身を預けた。

「事は、終わりましたか?」

恐々と問う一人に石の視線を寄せ、首領は気怠く目を細める。

「終わったけど、終わってはない」

「……それは、どのような意味で?」

意識的な嘆息を鳴らし、首領が人皮を手慰みに撫でつつ、

「わたしは『賢者』に毒を盛り、『吸血鬼』に火を放った。普通ならこれで死ぬでしょうね。それでわたしの仕事は終わり」

「では、『終わってはない』というのは?」

「死ぬワケないでしょ、あんなの」

さらりと、自分の仕事の不備を吐く。
その宣言で組織員がささめき合い、不満を抱く者の中には明らかな首領への侮蔑の言葉が交換される。

首領の耳にその全てが飛びこんでいるものの、目くじらも立てずに己の行動を説く。

「『賢者』なら、毒に対する薬を持っている可能性もあるし、不死だなんてふざけた噂もある。
 『吸血鬼』なら、名の通りの怪物でしょ? 火に巻かれたくらいで死ぬほどヤワじゃないって事を考えておくわ」

「なら、結局無駄な事だったのでは?」

侮蔑を囁いていた組織員が、隠してもいない嫌味を飛ばす。
首領は、その嫌味に感情も体勢も変えない。

そのまま、隠しナイフをその組織員の腕に投げつけた。

予備動作のない不意の投擲に、虚を突かれた組織員は一拍の間を空けてから悲鳴を上げ始めた。
その悲鳴をよそに、小声であっても存在感のある声色が空間を支配する。

「そんなヤツらをマトモに殺そうとするなんてゴメンだわ。あんなオカルトを相手にしたくないし、聖書だの十字架だの銀だのニンニクだのを用意しろっていうの?
 コストはかかるし、一人や二人どころじゃない犠牲を払う事になるでしょ。現に、郊外の盗賊団はたった一匹の『吸血鬼』に殲滅されたのは確か。

 だから、二匹が同士討ちするように仕向ける。
『賢者』には『吸血鬼』の残滓を、『吸血鬼』には『賢者』の残影を臭わせる。
 そうして、『自分を殺そうとしているのはあいつだ』と思わせればいいのよ」

「しかし、それだけでそう思うものでしょうか?」

木の(まと)でも狙っているかのように、首領は投げナイフの切っ先の照準を頸動脈に定める。

「だから『終わってない』のよ」

風を断つ音と共に、悲鳴が絶える。

「今度はアンタたちがやるの。
 最初こそ、疑惑だけで終わるでしょ。でもね、『あいつが殺そうとしている』暗喩が続けば、その疑惑は積もりに積もって誤解になる。
 真正面から斬り合って勝つのは英雄さんお得意のものでしょうけど、わたしたちはこっそりこそこそとやるのがお得意どころか生業なの。それなら殺れるでしょう?」

ささめきを納得に変えさせ、首領がそれと共に話題を変える。

「いったわね」

「は。左様で」

組織員全員が、首と腕とにナイフが生えた屍に意識を向けた。
だが、首領は地下墓地の入口に注視し、組織員に問いかける。

「一人、どこかに行ってるみたいだけど、どこに行ったかご存知かしら?
 それとも今夜、仕事なんて入ってたと思う?」

沈黙。
いや、轟音。

静寂を突き破り、地下墓地を反響するが故に、それはより大きな音に聞こえた。
しかし、実際の所はそれほど大きくない。

木の扉を蹴破る、局所的な音なだけだ。

全ての頭がそちらへ向く。
見えたのは、まず縛り上げられ、宙に掲げられた組織員が一人。
その後ろには、それを吊り上げている茶髪の男と、横に佇む白髪の男。

「貴様ら、どうやってここまで!?」

色めき立つ組織員の異口同音に、二人が喉を揺する。

「オレを殺そうとしている奴がいた」

「ああ、それは私もだ。だがそのような手を使うのは、我々の内のどちらでもない」

「だから、別の何者かだ。周りの人間に訊き回って、『あいつが知っているかもしれない』と、この吊られた男に行き着いた」

「行き着いたのは私と同時だったがね。会った瞬間に逃げたものだから、つい追いかけてしまったよ」

「そして、口を割った。だからここにいる」

暗殺組織は隠匿され、同時に畏怖される存在である。
並大抵であればその痕跡すら掴む事ができない。

それでも、彼らには積み上げてきた善行による人望があった。
その人望でもって人々の口を開き、組織の尻尾を掴んだのだ。

動揺する組織員たちの中で、唯一身動ぎすらしない首領が発破をかける。

「所詮、飛んで火に入る夏の虫よ! アンタたちがやりなさい!」

一瞬だけ二の足を踏む組織員であったが、前門の虎、後門の狼とあれば、結局は前進するだけマシだと判断したようだった。

「うわああぁぁぁぁ!」

先頭の組織員数人が、悲鳴のような掛け声を上げ、ナイフを手に攻めかかる。
茶髪は吊り上げていた男を放り投げ、白髪と共に迎撃の構えを取った。

茶髪は寸打を放ち、組織員を地面に転がす。
白髪は頭部を殴り、組織員を気絶に招いた。

「――ッ!」

その数秒後、彼等の肢に、肩に、ナイフが刺さる。
首領が投擲した鈍色に赤が加わり、彼女は朗々と優勢を宣言した。

「迎撃しても、防御姿勢くらいは取れる時間だったと思うけど?」

それにも関わらず、ナイフを避けも打ち払いもできなかった。
その上、双方共に流血が止まらない。

「すぐに再生もできないんじゃ、結局は人間の集団が対処可能な範疇のオカルトってワケね」

首領の分析は、独り言の体をした焚きつけであった。
組織員に理解が浸透し、目の前にいる怪物が単なる異物であるという事実が恐怖を拭い去る。

果敢になった組織員の足取りに、二人がじり、と足を退げる。

二人が平常ならば、そんな事はなかった。

ナイフの傷跡程度、すぐにでも再生が始まってもおかしくはない。
しかし双方共、己の知名度を上げる「善行」の為に身を削っていた。

体力が低下している。
白髪は睡眠も取らずに夜にも活動を続け、茶髪は血を何日も吸っていない。

息が上がる。その間にも、機を伺う組織員はじりじりと近づいていく。

二人は互いの死角を補完すべく、自然と背を合わせる。
背越しに一方の心臓の鼓動が伝わり、脈の弱弱しさがどちらも同じ窮地にある事をも分からせた。

首領の白い肌に喉を鳴らし、茶髪が嘆く。

「美女がいるのに血は遠い。実に歯痒い事だな」

嘆息が血の浅い耳に届いて、白髪が問う。

「好き嫌いを言っている場合か?」

白髪の問いと共に、彼の思考が伝わる。
茶髪が口端から牙を覗かせ、勝機に笑った。

「ああ、確かに」

二人の纏う空気が、劣勢から変わりつつある事を察した首領が、慌てて号令をかけた。

「早くしろ! さっさとかかりな!」

未だ優勢を味わっていた組織員が、ようやく動き出す。
が、遅い。

組織員が飛びかかろうとする寸前、白髪は服の袖をまくり上げ、露わになった腕を茶髪の眼前に差し出した。

その意味を瞬時に理解し得たのは、組織員の中で誰一人としていなかった。
何かの罠か、とたたらを踏んだ組織員に、焦る首領が声を上げる。

「バカが――!」

罵倒に次ぐ命令の前に、茶髪の口が大きく開いた。

言語を紡ぐ為の挙動ではない。

捕食の為の挙動だ

茶髪の牙は、刃を振り下ろす速度と等速。
白髪の肌に深く穿たれ、一気に肌が白から青へと変色する。

「――ッ!」

顔色すらも、急速に悪化していく。
白髪の痩身はなお細り、木の枝のようになっていく。

対して。

茶髪の身に纏ったオーラは直ちに生気を取り戻し、全身の筋肉すら膨張する。
首領のナイフから零れていた血は、今や「噴き出す」と言っていい程に血流が活性化していた。

「早く仕留めな!」

余裕のない首領の声に、組織員が一斉に襲いかかる。

茶髪の背に、腹に、ナイフが刺しこまれていく。

「――ひぃっ!?」

組織員の一人が、悲鳴を上げた。
自分の手の感覚がおかしかった。ナイフを突き立てたというのに、それが独りでに茶髪の肉から逃げようと反発している。

いや、違う。
茶髪の膨張する筋肉、激流となった血流に刃が押されているのだ。

茶髪の足元に、萎れた白髪が倒れこむ。

「ああ、不味い」

不敵に、笑う。

「病気の葡萄を混ぜこんだ、年だけ重ねたワインのようだ」

足元に転がっていた白髪も、同じ顔で笑っていた。

ついに首領は立ち上がり、己もナイフを握って咆哮する。

「やれ!」

周囲の組織員が茶髪に取りつく。
だが、最早茶髪の敵ではなかった。

「ふんっ!」

腕を払う。それだけだ。
己に取りついた全ての組織員は、放物線というよりも直線に近い弧を描き、地下墓地の壁へと衝突した。

「ひぃぃっ! うわぁっ!」

膂力を目の当たりにした組織員は、首領の(めい)より(いのち)そのものを優先した。
蜘蛛の子となって散り逃げて、しかし鎖されているが故に、その逃走先は石壁の冷たさでしかない。

意識の有る者も無い者も、壁の醜い花となっている中、ただ一人首領だけが立ち尽くしていた。

「わたしの……わたしの組織が……」

「いやぁ、残念だったね、レディ」

懐から煙管を取り出し、一切(ひときり)の一服を一口。

「暗殺組織、という発想は中々私も参考にはしたいものだが、しかし練度は足りなかったようだ」

革靴が踏みこみ、差を縮め、首領は地面にへたりこんで泣き始めた。

「お願い! お金なら出すから……命だけは、命だけは!」

そう言ってすがりつく首領に、茶髪が頬を掻いて苦笑する。

「いやぁ、泣いている美女を殴る趣味は私にはない」

告げた言葉に、首領が泣き顔の裏で嗤いを作る。

――吸血鬼は銀が弱点だ。
自分の手には、銀貨がある。隙を見てナイフで切りつけ、銀貨をねじ込んでやれば、あるいは……。

企てる首領に、茶髪が続ける。

「だが、そこの紳士が同じ趣味ではないようだ」

「え?」

ようやく血液を再生した白髪が首領の背後に立ち、その首に手刀を振り下ろす。
音もなく首領が気絶し、白髪が嘆息を放った。

「殴る趣味はオレもないが、殴られて黙る趣味もない」


地下墓地から這い出ると、警邏の掲げる灯りが、遠方からこちらへと近づいてくる様子だった。

「君が呼んだのかね?」

茶髪が煙管の葉を詰め替えつつ、白髪に視線を向ける。

「いや。ただ、オレたちの様子を察して来たんだろう」

白髪は新しい血液を巡らすべく、体を猫のように伸ばす。

「どちらにせよ、後片付けには丁度いい」

「それで、これからどうする?」

二人。期せずして黙し、白髪が口を破る。

「争いはこりごりだな」

「同じく」

茶髪が紳士的に笑声を上げ、つられて白髪がぎこちなく口端を上げた。

「いやぁ、私は勝ち負けよりも喧嘩が好きなタチでね。もう充分だ」

紫煙が夜風に乗る。
その紫煙をはたき落として、白髪が警邏とは反対方向に歩き出した。

「どこに行くのかね?」

白髪が足を止め、背を向けたまま答える。

「街から出る」

「おお、そうか。では、さよならという訳だな」

「ああ。また会わない事を願う」

歩みを再開する。
古城の庭園。手入れのされていない草を踏む音が久々にすら感じた。

街で過ごす事で慣れてしまった、他人が舗装した石畳ではない。
緑に青く、天を突く雑草が奏でる、未踏の感触。

その感触を数百メートルほど味わったところで、白髪は振り返った。

「…………早い再会だな」

目を窄め、思いっきり不快を表す。

「やぁ」

背後に感じていた気配は、ほんの数メートルの距離で手を挙げた。

「『さよならという訳』じゃぁなかったのか?」

「『君とさよならする』とは言っていなかったのでね。
『私もこの街とさよならする』という訳だ」

「……青二才どころか餓鬼臭い屁理屈を」

「嘘は言っておらんよ」

後ろから湧き立つ煙草の臭いに、大げさに肩を下げて落胆をひけらかす。

「どういう訳でついてくる」

「この街から離れて、どちらが吟遊詩人に先に謳われるかと思ってな」

「オレがいなくても、お前がどこかに行って待てば分かる事だ」

「それだと観測地点に差異が出てしまうではないか」

「勝ち負けはどうでも良い、という口ぶりだったが」

「喧嘩ほど好きではないというだけだ」

朔の夜。
一際深い闇のカーテンの中、街から外れて道なき草原を往く男が二人。

永遠の二人は、短い道だけ共にする。
彼らの名は永く謳われる事となったが、彼らの生ほど永く謳われる事はなかった。
  1. 贋銀と黄金
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