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  1. Innocence and Immortal
  2. 外套と短剣
  3. 墓場より、ゆりかごへ
  4. 生きている芋虫

Innocence and Immortal

XrdRのエピソードモード後、ストーリーモード前くらいのレイヴンとシンの話
豪奢にして堅牢なるイリュリア城。
いくら連王と関わりの深い知人であろうと、その正門をくぐれる者はわずかである。

例え、己の子息を預けたソル・バッドガイその人であろうとも。

「こちらレイヴン。11時23分、『背徳の炎』の入城を確認」

イリュリア城の城壁にぽつりと設けられた門。
いくら小さな門であろうとも、見張り番となる兵士は存在している。
兵士はソルの姿を確認すると、慣れた様子で彼を入城させた。

その様子を、鴉が見ていた。

「行け、行くんだ」

ORGANの命令のままに、シュヴァルツヴォルケンは羽ばたいた。
不審者を拒むイリュリア城のセキュリティを、不審鴉(シュヴァルツヴォルケン)が容易くクラックする。
ミニオンとしての存在を偽装し、ただの鴉に見せかけて、ヴォルケンは城門の上を通り過ぎる。

感覚を共有している今、レイヴンの視界は、ヴォルケンのそれと同じくしていた。
彼の翡翠に輝く右の眼も、金貨が埋めこまれた左眼も、今はヴォルケンの赤眼と同化している。
両眼を赤く染めて、紅い人影の挙動を監視する。

ソルの位置を確認しながら、城内に設けられた庭園に着陸した。
彼に追いすがりながらも、不審がられないようにしなければならない。
芝の中をつつき、虫を探す鴉の振る舞いをし、周囲の兵士の日常に溶けこむ。

城に入ったソルは、案内する兵士についていき、庭園続きの回廊を歩く。
耳羽をそばだて、ソルと兵士の会話を盗聴した。

「――では、シン様については後程?」

「宿に置いてきた。
 久々にカイやディズィーと会えるのに興奮して寝付けなかったらしい」

「それで、寝るのが遅くなり寝坊した、と」

兵士が苦笑し、ソルが苛立たしげに舌打ちした。

成程。
道理でシンを連れていない訳だ。

レイヴンは状況の辻褄を把握し、ソルはヴォルケンに追いすがった。
しかし、単にソルを追うのであれば、本能に基づく獣畜としては不自然な行動である。
歩む間に地面のあちこちに嘴を突っこみ、普通の鴉を装った。

「よろしければ昼食はいかがでしょうか?」

「……ああ?」

「カイ様のご提案です。とはいえ、ご提案なされたカイ様はまだ公務中の為、ご一緒できませんが……。
 ただ、ディズィー様でしたらご出席は可能です」

「なら、シンが来るまで待てるか?」

「14時まででしたら、恐らくは。
シェフが料理を温めてはいますが、皆の昼食が終われば皿洗いに駆り出されてしまうでしょうから」

平和的に紡がれる会話を聞き、レイヴンは口を「へ」の字に曲げた。
彼は人並の善意こそあるが、疎ましく思う人物の平和を祝えるほどの聖人ではないのだ。

ささくれ立つ感情を放置して、レイヴンはヴォルケンを更に追わせる。
だが、ソルが歩みを止めたその瞬間、レイヴンは危機感を覚えてヴォルケンを飛ばした。

大きく羽ばたき、ヴォルケンがその場を離れる。
その去り際に、危機感の正体が耳羽を揺らした。

「ソル様?」

「……気にすんな。
単に、死にぞこないがいるかと思っただけだ」


ソルはイリュリア城の一室に案内され、それから数分の動きはなかった。
それだけを確認して、レイヴンはヴォルケンをイリュリア城から引き揚げさせた。

気づかれずとも感づかれた以上、深追いは禁物だ。
ヴォルケンとの感覚の共有を断ち切り、レイヴンは大木の枝の上、その根本の幹に身を預けた。

彼がいるのは、郊外の雑木林である。
遠く離れたこの場から、監視の目を配せていたのだ。

「こちらレイヴン。11時40分、しばらく監視を打ち切る」

虚空に報告し、法術による音声記録を閉じる。

レイヴンは「背徳の炎」の動向を探る任を担っている。
この音声記録は、後程「あの御方」にかしづき報告する為のメモである。

彼は強く目蓋を閉じ、眉間に皺を寄せた。

「『背徳の炎』が……」

己が敬愛し忠誠を捧げる「あの御方」は、己を動かす程にあの化け物へ強い関心を抱いている。
事実、

『レイヴン、フレデリックの体調はどうだった? ――いや、ドラゴンインストールの侵蝕が無いかと思ってね』
『レイヴン、フレデリックはどこに行っていた? ――ああ、あそこか。あそこは昔、プロジェクトが終わったら三人で行こうかと思ってた場所で――』
『レイヴン、フレデリックは何を食べてた? ――ラムレザルに連れられてパンケーキ? ふふっ、今日のお菓子はそうしようかな……』
『レイヴン! その傷は一体……! ――そうか、それ程深くなかったか。良かった、後で手当てしよう。
 ――それで、今日のフレデリックは?』

過去のそのやり取りを思い出す毎に、憎らしいだの妬ましいだのといった感情が吹き荒れる。
感情を失いたくはないが、こんな不愉快な感情を覚えたくはない。

しかし、任務である。
自分の感情の為に、どのようであれ「あの御方」の思惑を阻んではならない。
頭部にかかった負の靄を払うべく、頭を振って思考を切り替えた。

「……昼時か」

そうつぶやき、腹部をさすった。

早朝に口にしたものは早くも消化されてしまっている。
顔が溶けれど再生し、首を切られど生え揃う不死であろうと、飢えはある。

その飢えに快感を覚えない事もないが、その快感に溺れれば法術に集中できなくなってしまう。
そんな事で任務に支障を来しては、「あの御方」に顔向けできない。

レイヴンは仕方なしに手を横にかざし、風の法術を呼び起こす。
わずかに膨らんだ地面を始点とし、その上高く、樹上のレイヴンの手を終点に。
局地的な竜巻が引き起こされ、地面は風の螺旋に穿たれて、そこにいた「もの」が吹き上がる。
レイヴンの手にその「もの」が収まると、それはキュウキュウと悲鳴を上げた。

土まみれのそれは、モグラであった。
どうやらそのモグラも昼食にありつこうとしていたようで、その口にミミズを咥えて離さない。

レイヴンにとって食事というものは、正常な活動を送る上で避けられぬ、億劫な行為に過ぎない。
そんな行為に美味や美学を見出す感性はとうにない。
サンドイッチを仕込む手間も、モグラを焼くような時間も、かけるに値しない。

ないない尽くしのそんな中、レイヴンは躊躇する事もなく口を大きく開く。
己の運命を察したモグラは、一際暴れて抵抗した。
だが、成人男性以上の膂力を持ったレイヴンから逃れられる事はなく、モグラはミミズと一蓮托生。
喉に押しこまれ、二者はついに口の中に収まった。

「ンン゛ッ……!」

喉を掻くモグラの手は、土を掻くなりに鋭い爪が生えている。
その爪が、喉の筋肉に立てられた。
立てられた爪が喉に食いこみ、飲みこもうと蠢動する筋肉自ら爪に引き裂かれていく。

また、外気に触れぬ喉の柔い粘膜にとって、モグラの毛皮は剣山のように鋭く刺す。

生命の有様がレイヴンに予想外の快楽をもたらす。
その上、自分が土まみれの(けだもの)を、ぬめり蠢くミミズごと食べているという事実が、精神に揺さぶりをかけた。

喉を圧迫しながら胃に下ったモグラとミミズに満足し、レイヴンは食後の舌なめずりをして歪に笑んだ。

「常人の舌に合わせたつまらない料理よりも、ずっと満ち足りたものだったな……」

昼食の準備に追われているであろう、遠く離れたイリュリア城に向けて、自嘲気味にそう囁く。

徐々に静かになっていく胃をよそに、彼の耳に突如として声が響いた。

ガアーッ!(マスターッ!)

馬車に轢かれる間際の鴉のような。そんな悲鳴がつんざいた。
いや、ただの鴉じゃぁない。ヴォルケンの声である。

レイヴンは食後の余韻を壊されて、やや不機嫌な様子で応答のチャネルを開いた。

「何だ」

『マスターッ! お昼ご飯に! お昼ご飯になりますーッ!』

「昼餉なら済ませた。そんなアラームをセットした覚えはない」

耳ではガアガアと鴉の鳴き声がするだけだが、それでもヴォルケンの意思を感じ取れるのはマスターの特権である。
でなければ、チェリーだのエクレアだのの騒音から、敵マスター発見の報告を知れる事はない。

ぞんざいに返答するレイヴンに、焦りを含んだ思考が続く。

『ああっ違います! 私はご飯時を告げに報告したのではないんですー!』

「では何だ? 無駄は省きたい、端的に言え」

『敵マスターです!』

「マスターだと?」

疑問符を浮かべ、レイヴンは黙る。
自分以外のマスターといえば、六人しか考えられない。

連王としての職務を果たしている最中の者か、
今頃高いびきをかいているであろう阿呆か、
行方が杳として知れない飄々たる狐か、
人目のつかない場所で頭を回す竜なるGEARか、
そして既に壊れた人形であるか――。

思考をよぎるのは、それらの可能性を焦がす程に濃い紅蓮の炎。

レイヴンは舌打ちし、大木の枝から跳び下りる。
すぐさまヴォルケンの座標をORGANにて確認した。

イリュリア市中。
幸いにして、大通りから外れた位置である。
レイヴンは瞬時に空間に迷彩をかけ、付近に転移した。

閑静な雑木林から、白亜の石造街へと空気が切り替わる。
人通りのまばらな中、レイヴンは通行人を避けながらヴォルケンの座標へと駆け寄った。

――仮に、その「敵マスター」が「背徳の炎」だとすれば。
ヴォルケンを事細かに検分し、その裏にいる自分の存在を知られてしまう――!

危機感のまま、レイヴンはついに辿り着いた。
人目のない裏路地に身を躍らせると、そこには――。

『イヤーッ! お昼ご飯になっちゃいますーっ!』

「おっ? 活きのいいカラスだな! きっとこいつはデラックスに旨いぜ!」

木の棒に縛りつけられ、焚き火に焼かれているヴォルケン。
涎を垂らしながら、木の棒を手にヴォルケンを焼いているシン。
想定も予想もしていなかった間抜けな光景に、脱力して膝をつくレイヴン。

未だに空間迷彩は解いていない為、シンからすればレイヴンを見る事はできないが――、

「ん……?」

鼻をひくひくとさせて、シンは露骨に嫌そうな顔をした。

「くっせぇ……まるで一か月洗ってない靴下みたいな臭いがするぜ……」

「誰がだっ!」

心外である。その上尊厳の侵害である。
脊髄反射的に抗議の声を上げたレイヴンだが、はっと気づき、後悔する。
しかし、それは遅い後悔だった。

「うおっ!? 何だ!?」

何もない空間からツッコミが飛んできたのだ。
当然シンは驚き、声の上がった空間に目を向けた。

気づかれた。

自分の失態に歯噛みし、レイヴンはこれから取るべき行動を模索する。
ほんの数秒の逡巡だ。
それなのにシンはそれを待たず、ヴォルケンから旗に持ち替え、好奇心のままに動いた。

「おりゃっ。」

ドスッ。
シンの虚空への突きは、レイヴンの鳩尾にクリーンヒットし、

「もっと深くゥ!」

口が自然に嬌声を上げた。
何かを突いたという手応えとその嬌声に、シンが驚きを口にする。

「マジジェットサイケデリック……風が語りかけやがった……」

「そんな訳が……あるか……」

息も絶え絶えにレイヴンが返し、気づかれた以上は不要であると、空間迷彩を解いた。
立ち上がり、苦々しくレイヴンがつぶやく。

「渡る風の虚実を見破る……よもや、養父譲りの技を持っているとはな……」

「いや、だって、砂浜に落ちてる海藻みたいな臭いしてるし」

無慈悲にシンがレイヴンの心を抉りにくる。
嘘偽りのない罵倒に頭がぐらりと揺れるものの、寸での所で耐え忍ぶ。
そこにシンが追い打ちをかけた。

「おっさん、なんて名前だったっけ? ……えーっと確か、ジャック・オー? いや、フォックスアイ?」

「ガアアアァァッ!」

怒りのあまり、頭を抱え大鴉の鳴き声を猛る。

「貴様は! 二度も相対した私の名前も覚えられぬ程の阿呆なのか!?」

「な、何だよアホとか言いやがって! アホって言うヤツがアホなんだからな!」

「その子供のような言い訳をする者が阿呆なのだ!」

「ガキ扱いすんじゃねぇ! しかもアホって二度も言ったな! オヤジにも言われたコトねぇのに!」

「それは私の名も忘れるような貴様が、阿呆と言われた事すらも忘れたからじゃぁないのか!?」

「ンなわきゃねぇだろ! ……多分!
 とにかく、最近のオレは九九の六の段だって言えるようになったからな! アホじゃねぇぞ! このアホ!」

「己の無知にすら無知なのか、手の付けようもない阿呆が!」

「違ぇよアホ! アホアホ! アホアホアホアホアホアホアホアホー!」

「青二才が、よくもそう減らず口を――」

と、そこで口を閉じる。

「……アポ?」

罵倒が飛び出すかと思っていたシンが、首を傾げた。

別に、シンの知能指数に対して閉口した訳ではない。
むしろこの状況では、自分の名を忘れていた方が都合が良いのだ。

もしこの場で逃走したとしても、シンを撒いてから空間転移を為せるだろう。
それにもし自分に会った事を「背徳の炎」に報告しようとしても、この様子では「レイヴン」という名が出る可能性は低いだろう。

ならばこの場はそのままに、逃げる方が得策だ。三十六計。戦略的撤退である。
そうわるだくみをしたレイヴンは、感情を殺してシンに向き直った。

「フン、阿呆という言葉は撤回する。この場は収めろ」

「うぉっ? いきなりなんだ?」

「私とて、別に貴様と無駄な喧嘩をする為にここに来たのではない。
 私は、そのお前が持っている鴉を回収する為に来たのだ」

『マ、マスター……!』

赤眼を輝かせ、縛られたまま地面に落ちているヴォルケンがガァガァと鳴く。
レイヴンはシンに向かって手を伸ばした。

「さあ、その渡鴉を私に渡せ。邪魔立てはしてくれるな」

「この……カラスをか?」

シンはレイヴンの手をしばらくじっと見ていた。
だが、キッと左眼を窄めると、強く首を振る。

「オレが先に見つけた昼メシだぞ! 奪うのかよ!」

鼻息を荒くすると同時に、彼の腹が抗議に鳴く。
シンは地面のヴォルケンを拾い上げると、バチバチと苛立たしげな雷鳴が迸った。

「あーもー我慢できねぇ! こうなりゃ雷で三秒クッキングだ!」

『マスターッ!』

「くっ……待て!」

ミニオンの一匹が無くなったとしても、「バックヤード」から再召喚すれば良い。
だが、目の前で眷属が悲鳴を上げ、焼き鳥になるのを黙って受け入られる悪人ではない。

レイヴンは制止の声を上げ、シンの行為と食欲を留めようとした。

「今日はイリュリア城に行くつもりだろう! そこに行けば食事も出る!」

「待ちきれねぇ! それにお前の言うコトがホントなのかも分かんねぇだろ!」

「ならば――腹を満たせばいいのか?」

「ああ、別にカラスがどうしても食いたいってワケじゃねぇし、交換できるモンがあるなら考えてやるぜ!」

レイヴンはびしっと指を一本立て、シンに突きつける。

「一分だけ待て。肉と交換してやろう」

「一分……?」

「そうだ。一分だ。それくらいは待てるだろう?
 いや、子供であれば、目の前の食物に手を出してしまっても道理では――」

「一分だろ! ガキじゃねぇんだし、それぐらい待てるからな!」

あからさまな挑発に、シンがかかった。
「単純だ」と内心呆れるものの、それを顔に出さずにレイヴンは首肯する。

「これで契約としよう。ではしばし待て」

そう言うと、レイヴンは路地裏の更に狭い横道に引っこんだ。
それを見たシンは、不思議そうな顔をしてその横道に視線を送る。

「……なにすんだ?」

ガア(さあ……?』

当人のミニオンですら推し量れないレイヴンの考えに、各々首を捻っていると――。

ザシュッ!

『――ンギモヂィィッ――!』

狭い壁の間で反響したのであろう、やけにくぐもった声が横道から響いてきた。

「なっ、なんだっ!?」『カア(なにッ!?』

その叫び声に思わず飛び上がる一人と一匹。
しかし、横道から尋常ならざる気配が漏れ出し、そこを覗こうという勇気はなかった。

謎の寒気に震える中、なおも続く嬌声と音。

ブチィッ!

『――もっと――!』

ギチチチチ……!

『――イイッ――!』

バチャッ! バタタッ!

『――もっと深くゥッ――!』

聴覚だけでその恐ろしさを伝えた一分間――。

横道から出てきたレイヴンの手には、出所不明の肉が握られていた。
どことなく顔が紅潮し、その目は熱を帯びている。

後ずさるシンに構わず、レイヴンはその肉を差し出した。

「食え」

「食えるかよ!」

もっともな反論である。
シンは恐怖に震える指で、その肉を指した。

「どう考えたってヤバい肉じゃねーか!
 アレだろ! コレ食っちまったら、何かのフィートが付くようなヤツだろ!? 『本当に食べてしまったのか?』とか訊かれるようなヤツだろ!?」

「肉には相違ないだろう」

「やだ! オレやだ!」

抵抗するシンに舌打ちし、レイヴンは不要となった肉を空間の狭間へ投げ捨てた。

「ならば、何の肉なら納得する?」

「普通の、ウサギとかノウサギとかアナウサギとか、とにかく動物の肉だ!」

真っ当なシンの要望に、しばらくレイヴンは考えこむ。
そして再び首肯した。

「分かった」

「……本当かよ」

疑うシンの視線を躱し、レイヴンはやはり再び横道に引っこんだ。

「…………」『…………』

今度は嬌声はなく、やけに静かな様子である。

「……逆に怖ぇ」

カァ(同じく……』

知覚情報を絞られると、人は恐怖を覚える。
シンが覚えたくない知識を覚えた所で、ぬっとレイヴンが姿を表した。

その手にあるのは――、

「…………」『…………』

モグラだった。
シンはそのモグラを指さし、恐る恐る問いかける。

「なぁおっさん……なんでそのモグラぐったりしてんだ?」

「夜行性だからだ」

息をするように嘘を吐く。

「どうして……なんか濡れてんだ?」

「湿った場所から出たばかりだからだ」

シンの不安は漸次に濃くなっていく。

「なんで……こんな街中の、土の地面もねぇトコで、モグラなんかを捕れたんだ?」

「下水道に潜って探していた。そこで見つけた」

まるで赤ずきん問答である。

シンの指摘した疑問点が示す所は、レイヴンの行動の前後を知る者にしか理解できないだろう。
しかし傍目からしても不穏な空気を醸し出すモグラは、みなぎる食欲を持つシンをもってしても食指を動かされないおぞましさを持っていた。

「うあああああああっ!」

その暗澹たる空気に耐えきれず、シンは石畳に向かって旗を振り下ろす。
石畳はひび割れ、その亀裂から土を覗かせた。

シンはレイヴンの手からモグラを奪い、その露出した土にモグラを放した。
レイヴンはその様子を渋い顔で見て、苦言を呈する。

「折角やろうとした動物の肉だぞ?」

「オレはあそこまでデンジャラスな肉を食おうとは思わねぇ!」

全くである。

「食物の選り好みをするなど、『背徳の炎』の教育不足が過ぎるぞ……どうすればいいというのだ」

「もうテメェがやる肉は信じられねぇ! こうなりゃ店でちゃんとしたヤツを買う!」

シンがそう宣言すると、即座にレイヴンの左手が動いた。
左手はそのまま彼の顔に迫り、目蓋と指を開いて――左眼から金貨を剥ぎ取る。

眼窩の分泌物で濡れたその金貨をシンに差し出し、

「受け取れ」

「受け取れるかよ!」

そんなやり取りに既視感を覚える。
三度も拒んだシンに対して、レイヴンは苛立ちを押しつけた。

(Scheiße)っ。そんなに私のミニオンを食いたいのか?」

その言葉に、シンは眉根を弾いた。

「えっ……このカラス、アンタのミニオンなのか?」

「そうだ。それがどうした?」

シンがそれに気づくと、ばつが悪そうな顔をして頭を掻いた。

「っつーコトは、このカラスって、俺だったらハミングソードみたいなモンなのか……」

うんうんと一人で納得する。
するとシンはヴォルケンの縄を解くと、レイヴンに向けてヴォルケンを投げてよこした。

「っ?」『(?』

あっさりと解放された事に、マスター・ミニオン共々戸惑うも、シンは首を下げてこう述べる。

「ゴメンな、大事なダチを食おうとしちまって」

「『だち』じゃぁないが……まあ、いい」

受け取ったヴォルケンを肩に留め、レイヴンは踵を返す。

「用は済んだ。さらばだ、雷公子」

「あっ、ちょっと待ってくれ!」

そう言ってシンはレイヴンのマントを左手で握り、彼の歩みを止めさせた。
レイヴンは振り返り、睨みを利かせて問いを投げる。

「……何だ」

「……ここ、どこだ?」


一体、何を間違ったというのだろう。

この阿呆を「背徳の炎」だと思いこみ、救出に向かった事だろうか。
いや、シュヴァルツヴォルケンを見殺しにした方が良かったのか。
そもそも、何故私が「背徳の炎」なぞの監視にあたってしまっているのだろう。

どうしようもない後悔の波が、乾いた感情に寄せては引いていく。

「なー、まだかよ」

マントを左手で握って離れぬまま、シンが不満をぶう垂れる。

目指すはイリュリア城である。
道を教えようとも右と左を間違い、
あの目立つ城に向かえと言っても城は時計台やホテルとすり替わり、
ヴォルケンを代わりに行かせようとすれば涎を垂らして危うい視線を彼女に向けた。

シンをわざわざイリュリア城まで向かわせる義理はない。
空間転移で逃げる事も、あるいははり倒して去っていく事も試みた。

だが、この阿呆はまがりなりにもGEARのクォーターである。
錬成したディスペルが空間転移を打ち消し、針を構えれば街に響くような黒雷が迸る。

騒ぎを起こす事なくこの厄介事を終えるには、腹立たしいがこれが得策であった。

シンを連れ、レイヴンはイリュリア市中を歩く。
何も知らない人間からは、己をただの人間だと認識するよう法術で偽装して、レイヴンは注意を払って進んでいく。

「いいか、私が案内するのはイリュリア城付近までだ。見張り番に顔を見せるような距離にまでは行かんぞ」

「えー? なんだよ、なんか不服か?」

「不服だ。現時点でも充分に不服だ」

「そんなに顔見られるのイヤなのか?
 あー、そういや最初に会った時も、仮面かぶってて顔見せてなかったような――」

「…………」

シンが怪訝そうな顔を見せると、すぐさまレイヴンは懐から飴を取り出し、彼に押しつける。

「おっ! またアメくれんのか!? 案外いいヤツだな!」

先程までの怪訝顔が喜色に払拭され、渡された飴を疑いなく口に含んだ。

本来ならば、ジャック・オーの飴である。
シンが自分の正体を突き止めようとした時、気を逸らすにはうってつけの食料だった。

レイヴンの思惑も知らず、シンは無邪気に飴を頬張る。

残る飴は2つ。
残距離は徒歩20分。飴の消費は1つ当たり10分のペース。ギリギリだ。
その上相手は飴消費マシンなどではない。いつ自分の正体を探り出すか分かったものではないのだ。

彼の不安を露も知らず、シンが話しかけた。

「にゃーおっしゃん」

「物を口に入れて喋るな」

「ぷはっ――アメ以外に、腹にたまるモンねぇか?」

「肉ならあるぞ」

「……いや、俺は遠慮しとく」

レイヴンが己の肉をちょんと針で突くと、シンはそれで察したようだった。
飴の持ち手を振りながら、シンはレイヴンとの会話を反芻する。

「さっきアンタが言ってたけどよ、なんでイリュリア城に着いたら食いモンが出るーって知ってんだ?」

「それは秘密だ」

「その上、俺が今日、イリュリア城に行くコトまで知ってたし」

「禁則事項だ」

「んだよ、気のねぇ返事だな……」

少しばかり気分を損ね、シンは飴を口に入れた。
自分はあくまで道案内役だ。相手の気分を(おもんぱか)る太鼓持ちではない。

しばし互いに無言で大通りを歩く中、

――ぐぎゅるるるる……。

と、シンから大きな腹の音が響く。

「やっべ」

マントを握る左手ではなく、右腕で腹を押さえて音が収まるのを待つ。
そして腹が鳴き終わると、シンはちらりとレイヴンの表情を探った。
腹の鳴る前後で全く変わっていない彼の鉄の顔を見て、シンは右手でガッツポーズを作る。

「よしっ、バレてねぇ」

「ばれてるぞ阿呆が」

全く表情を変えずレイヴンが返す。

「うぉっ!? なんで分かったんだ!?」

「あれだけの音を立てて誰の耳にも入らない訳がない」

「くっそー、俺だって恥ずかしいとか、そういう気分になったりするんだからな!
 それにアンタだって腹減ったりするんだろ! そんなに笑うなよな!」

「当たり前の生理現象などで私が笑うものか。
 私が笑ったとしても、それは単なるお前の見間違いだ」

と――。

……ぐ、ぐぐうぅるる……。

弱弱しい腹の音が、レイヴンから発せられた。

餓死をしない不死者であろうとも、腹も減るし鳴りもする。
昼餉のモグラがまだ腹にいればこんな事にはらななかっただろう。

レイヴンは口を曲げ、シンは可笑しそうに彼を指した。

「ぷーっ! なんてジャストタイミングなんだ、アンタ!」

「ええい五月蠅い! 指さすな!」

流石に居心地が悪くなったレイヴンは、早足で進路を消費する。
シンは笑いながらその足についていった。

早く着かないものか、歩速に比例して感情が逸る。
しかし、落としたトーストが絨毯をバターで汚すように、早くと願う心は乱入した声で阻害された。

「――いよー、久々! 確かアンタ、レイヴンだっけ?」

「――ッ!」

名前を呼ばれた。
呑気そうなその声は、横手から発せられた。

法術で、一般人にはただの人間として偽装をしている。
だが、彼が何者かを知る者に対しては、この法術は無防備なのだ。

声の主にすぐさま目を向けると、ジャパニーズの衣装に身を包み……切れてはいないが、和服の切れ端で何とか半裸で留まっている不審な男がそこにいた。

レイヴンの記憶を照会し、その名前を忌々しげに返す。

「……御津闇慈」

「また会っちまったなぁ。
 にしても、アンタの後ろにいるのは誰だ? もしかしてアンタの兄さん?」

「違う!」

強くレイヴンが否定するが、シンは何故か瞳をきらりと輝かせた。

「兄さん? それってつまり、オレの方が大人に見えたってコトだよな!」

「おっ? すると違うのかい? こりゃ失敬!
 お二人さん同じくらいの背丈だし、もしかしたら……――っと思ったが、まあ、冗談だ」

殺意の波動に目覚めつつあるレイヴンの様子を察し、闇慈は後半で自分の発言を誤魔化した。
手持無沙汰に絶扇で己の顔を扇ぎ、闇慈が続ける。

「んで、わざわざその兄ちゃんを連れてどこに行くつもりだい?
 まさか、『あの男』の側近であるお前さんが、道案内って訳でもないだろう?」

事情も知らぬ闇慈に図星を刺され、レイヴンは感情を暗くする。
そんなレイヴンをよそに、シンがアメで闇慈を指して質問した。

「なあ、アンジ……だっけか?」

「おう。姓は御津、名は闇慈、雅号を『赫赫(かくきゃく)』! ま、気軽に呼んでくれよ」

「んじゃアンジ、このおっさんの名前ってさっき言ってたけど、それって確かレイぶぎゃぼっ!?」

発言と意識を遮断する為、レイヴンはシンの頭に手刀を叩きつけた。
下手をすれば人体をも切断する手刀である。だがシンのGEAR由来の頑丈さから、単に気絶するだけで済む。

アメから手を離し、倒れこむシンを見て、闇慈が憐れむ視線を彼に注いだ。

「もしかしてアンタ、この兄ちゃんに名前も明かしてねぇのか?」

「名なら過去に明かした。だがこの阿呆は私の名を忘れたらしい」

「そりゃ難儀なこって」

飄々とした態度を崩さない闇慈に、レイヴンは鋭く言葉を刺す。

「それで、わざわざ私を呼び止めたからには相応の理由があるのだろうな」

「ま、それについては色々と、よ。
 ちょいと気になる事があってね。コロニーで病人が続出してるってぇ風の噂で聞いちまってさ」

「……それがどうした」

「だから、それを『あの男』か、あるいはその部下のアンタが知ってないかって事さ」

「それに今、この場で答えられると思っているのか?」

その質問が、回答だ。

闇慈はレイヴンの言葉を受け止めて、互いの視線を交錯させる。
硬直した鍔迫り合いのような、緊迫した雰囲気が間に漂う。

そんな雰囲気を切り裂くように、その咆哮が空気を震わせた。

――ぐぎゅうううぅぅぅぅぅぅ……。

腹の音であった。
それは先程も呻いたレイヴンの腹ではなく、闇慈の腹から鳴り響く。

「はうっ」

闇慈は腹を抱え、声を震わせレイヴンに縋った。

「ほ、本題だ……」

「……先程の質問は本題じゃぁなかったのか?」

「……あんな質問にこの場で答えられるほど甘くはないだろうさ。まあ……駄目元だ……。
 それで……さっきの腹の虫で分かる通り、ここんとこほとんど食べてねぇ……」

「通りの人間に向けて、貴様お得意の舞の一つでもしてみろ。小銭の一つでも恵まれるだろう」

「それがな……最近警察機構がピリピリしてんのか、ちぃと芸を見せてやると追い払われるんだ。
 んじゃガラじゃねぇがそこらのバイトでもと思ったが、これまた厳しくて身元の確認を迫られちまう!
 姐さんだってコロニーにこもりっぱなしだし、こうなりゃモグラでも食おうかとしてる所に、アンタだ!
 こりゃ幸いと思って、声をかけたってぇワケよ」

「よりにもよって私か」

頭痛がする。この頭痛は頭に刺さった針のせいではない。
レイヴンは苦い顔をして闇慈を見ていたが、ここでまた一悶着を起こすより、穏便に事を収めた方が良い。

レイヴンはジャック・オーの飴を一つ取り出し、それを闇慈に押し付けた。
闇慈はそれを受け取ると、呆けた顔でレイヴンと飴を交互に凝視する。

「アンタ……随分と可愛らしいモンを持ってるじゃねぇか」

「それについては私の趣味ではない。
 それぐらいしか腹を満たせるものはないし、それ以上の慈悲を与える義理もない。
 さっさと私の前から消え失せろ」

闇慈は凝視の対象を飴からレイヴンにすり替えて、うんと頷いてから微笑を浮かべた。
「気持ちの悪い男だ」と内心毒づく彼に向け、闇慈は発言する。

「ありがとよ! アンタ、けっこー優しいな!」

「誰がだ!」

レイヴンはそれを皮肉と受け取り、怒声で闇慈に応える。
だが闇慈は扇を振って「否定」を表し、レイヴンの怒りにさらりと返した。

「さっきはああ言ったが、やっぱりこの兄ちゃんを道案内してんだろ?
 さっき言った途端、アンタの表情が固くなったのが分かったのさ。

 それにアンタにとって、俺は『「あの御方」に背いた裏切者』だ。
 いくらこの場を収めたいからって、こんなアメをくれてやれるとは俺も思ってはなかった。
 願いも足も蹴られるかと思ったが……ま、こっちにとっちゃ嬉しい誤算ってトコだな!」

闇慈は早速飴を口に頬張り、レイヴンに背を向けた。

「ひゃあな!」

恐らく「じゃあな」なのだろう、その言葉を受けて、レイヴンは何度も舌打ちした。

「物を口に入れて喋るな……」

苛立ちの正体は、その愚痴ではない。

優しくなどない。
これまで何度も人間を手にかけてきたのだ。

レイヴンはぞんざいにシンの襟首をつかむと、シンを引きずってイリュリア城へと向かう。

そんな彼に、胸中で声が響いた。

――ならば何故、この阿呆をそうしてまで案内する?

「起きて癇癪でも起こされたら、敵わん」

自問に自答を返し、レイヴンは全く優しさの欠片もない手つきで、シンを物のように牽引していった。


「オレの肉ーッ!」

シンが何かを欲して腕を伸ばすが、それは空を掻いた。
そこで彼は意識を取り戻し、何故か痛む頭頂部をさすって上体を起こした。

「いてて……オヤジに殴られて肉をブン奪られるドメスティックバイオレンスを見たぜ……」

そんな夢はともかく、状況確認の為にシンは辺りをきょろりと見回す。
視界に外套の人物が立っているのを認めると、立ち上がって距離を詰めた。

「おっさん! イリュリア城はどこだ?」

レイヴンはまだ何も分かっていないシンの様子を見て、はぁと溜息をこぼした。

「ここまで来れば、お前だろうと分かるだろう」

そう言って彼が指さした先には――、

「――おおっ! マジに着いたのか!」

堂々かつ爛々とした佇まいで、その城は構えていた。
一般人にとっては畏れ多いイリュリア城だが、彼にとっては幼い頃に住んでいた我が家である。

その城をきらきらとした目で眺めていたシンは、振り返ってレイヴンに礼を送った。

「いやー助かったぜ! そうだ、なんかやるコトあるか? 『ぎぶ・あんど・てーく』ってヤツだ!」

「礼? そんなもの――いや、」

断ろうとした矢先、胸中に小さな悪意が横切った。

「『背徳の炎』に知らせてみろ。『いつも貴様を見張っている。この世は月夜の晩だけではない』と」

「……それをオヤジに伝えるだけでいいのか?」

「ああ。それだけだ」

「なんか知らねえけど、分かった!」

シンがはきはきと答えると、レイヴンが確認の為に問いかけた。

「おい、私の名を言ってみろ」

「え? おっさんの名前?」

「覚えているか?」

覚えていれば、記憶を失くすまで殴るしかない。
しかしレイヴンの望み通り、シンは首を傾げてうんと唸った。

「おっさん、なんて名前だったっけ? ……えーっと確か、ジャック・オー? いや、フォックスアイ?」

「……もういい。それでいい」

別人に間違われる事は不愉快ではあるが、訂正したところで不利になるだけだ。
レイヴンは釈然としないながらもシンの記憶力を受け入れる。

「もう私に用はないだろう。さっさと行け、行くんだ」

「おう!」

シンが元気にそう返し、彼に背を向けてイリュリア城へと駆けた。
それを見送り、踵を返そうとするレイヴンだったが、シンは声を上げるべく振り返る。

「あ! なぁおっさん!」

「何だ」

「道案内もアメも、ありがとよ!」

シンが屈託のない笑顔で手を振り、体一杯に喜びを表した。
レイヴンはその喜色に怪訝な顔をする。

「ん? なんだよ辛気くせぇ顔しやがって」

「よくもそう感情を表す事ができるな」

綻びもしない口元を動かし、レイヴンが言う。
その声色は、幾度も反芻しなければ分からないほどわずかな感情があった。

羨ましいものだ。

この飴は「あの御方」の手によって作られた。
ジャック・オーの為に作られた飴ではあるが、他の人間にとってはただの飴に過ぎない。

だからこそ、レイヴンの口に入ったとしても、それは飽き飽きとした砂糖の塊だ。
例え「あの御方」の作られたものだとしても、これは陳腐な味覚をもたらす餌だ。

そんな飴を甘受する存在を前に、レイヴンは最後の飴を指でなぞった。

「この場においては、これは私よりもお前の手にあった方が良いだろう」

レイヴンは気まぐれに手を動かすと、飴がシンに放られる。
放物線を描く飴は、シンの掌に収まった。

シンはしばらくしげしげと掌の飴を眺めていたが、それを強く握ってレイヴンに目を向けた。

「優しいな、アンタ!」

闇慈に続き、再度指摘されたその言葉に、レイヴンは口を開いた。

「……どうしてそう思う」

二度も「優しい」と、自分から遠い形容詞を与えられた。その理由が知りたい。
シンはその疑問に、あっけらかんと返答する。

「オレがそう思ったからじゃ、ダメなのか? 不安なのか?」

そう答えられても、レイヴンは素直にその返答を飲みこめなかった。
そんな自分と相手を対比して、彼は独りごちる。

「お前のように単純ならば、その答えで充分なのだろうな」

自嘲と皮肉のそれは、シンに届かない。
彼は純粋な笑みを湛えると、手を振りレイヴンに最後の言葉を送る。

「じゃあ、またな!」

再会を勝手に契り、彼はそのまま城の門の向こうに消えた。

立ったまま彼の背を見送ったレイヴンの肩に、ヴォルケンが留まる。
何の表情も表そうとしない彼に、ヴォルケンはガァと一鳴きした。

『マスター』

「何だ」

『私から、マスターの事を語るのは僭越です』

「それがどうした」

ヴォルケンは赤目を嬉しそうに窄める。

『ただ、私からはお救いいただいた感謝を述べる事しかできません』

「……そうか」

レイヴンはただそれだけを返し、人の目から逃れマントを広げた。
そのマントがヴォルケンと彼を包みこむと、その姿は黒羽と化し、黒羽が散ると、とうにそこには何もなかった。


賞金首をいくら並べれば買えるのだろうというソファの上で、気兼ねも躊躇もなくソルが横になっている。
頭部後ろで組んだ腕を枕にし、目を閉じて眠りについていた。

そして彼が目を開けると、緩慢に柱時計を視界に収めた。
二つの針が13時30分の角度になっている。
昼食のタイムリミットである14時まで30分前。この分では、もうシンは間に合わないだろうか。

ソファ向かいの椅子に座っていた人物は、ソルの覚醒に気づいた。
ソファと椅子の間にあるテーブルに、手にしていたティーカップを置く。

「――久々にシンと顔を合わせられると思ったが、仕方ないな」

「……公務はどうした」

「先ほど終わったところだ」

「いつからいた」

「十分ほど前だな。お前は寝ている間でも眉根を寄せるのか」

「黙れ」

ソルはソファから起き上がり、カイと向かい合う。

「随分と時間がかかったな」

「何分、調べる事が多いんだ」

カイは苦無を取り出すと、それをテーブル上に置いた。

「エルフェルトの座標、『慈悲なき啓示』の特定、それにジャパニーズコロニーの異常……普段の仕事にそれらが重なってしまった」

「……結構な負担だな。成果は?」

「上げたいところだが、生憎」

「まぁ、ご苦労だな」

「いや、お前にも苦労をかける。シンも相変わらずだろう?」

「ああ。お陰でこのザマだ」

柱時計を指した瞬間、長針が時間を更新する。
カイが苦笑し、ティーカップに湛えた琥珀を飲み干した。

「シンがいないのは残念だが、ここで昼食にしないか?」

「分かった。行くか」

「私としては、お前と話しこみたい事もある。
 シンの事も、ラムレザルの事も、……三人目の『あの男』の側近だという、ジャック・オーについてもだ」

「……ああ」

ソルは最後の人名を耳にして、顔に影を落とした。
カイはその変化に気づくも、深く訊く事はなく椅子から立ち上がる。

「――オヤジー! めしー!」

二人の静寂を破り、扉を開いて開口一番。
空腹を訴えるシンに、ソルが口を閉じ、カイは苦笑した。

そんな二人に構わず、シンは近寄って明るく声をかける。

「よお、久しぶりだな、カイ!」

「いつぶりだろうな、シン。また会えて嬉しく思う」

「それで、母さんは?」

「昼食の席についている。これから四人で食事にしよう」

「お! やっぱりメシがあるんだな!」

シンのその発言に、ソルが眉を動かした。

「『やっぱり』? 昼飯がある事でも分かってたような口ぶりだな」

ソルのその疑問に、シンがさらりと答える。

「ここに来るまでにさ、あの……あー、確かジャック・オーだかってヤツと会ってさ。それで教えてもらった」

「――ジャック・オーと!?」

ソルとカイが、その名前をオウム返しに声に出す。
シンは二人の驚愕にぽかんと呆けるも、まるで日常を語るような気楽さで続けた。

「え? オヤジ覚えてないのか? あの針のおっさんの――」

「分かってる! 本当に、ジャック・オーと会ったのか!?」

「ああ。アメだってもらったぜ!」

そう言いつつ、シンはまだ口に入れていない飴を二人に見せびらかした。
本物のジャック・オーと会った事のあるソルは、見覚えのあるそれでシンの発言をそのまま信じる。

「……それで、ジャック・オーが何をした?」

「えーっと……何したっていうと……」

シンの記憶のテープが巻き戻される。
ギュルギュルと回転する脳味噌が、最初からここまでの時間軸を割り出した。

「オレがカラス食おうとしたら来てよ、そしたらジャック・オーが友達(ダチ)だから食うなって言ったんだ。
 んで、ココまで連れてきてくれたんだよ!
 ……あ、でも途中、何か半裸のおっさんと会って……何かあった気がするんだが、思い出そうとすると頭がざらつくんだ」

割り出した割りには、ざっくばらんとした供述である。
ソルはシンの発言にどうやら納得したようで、昼前の疑念が確信(誤解)に変わった。

「あのカラス……ジャック・オーのヤツか!」

本人(ジャック・オー)の知らぬ間に着々と誤情報が溜まっていく。
そして、シンは取り零した情報を拾い集めると、ぽんっと手を打ち思い出した。

「あ! あとそういや、オヤジに伝言頼まれてたんだった!」

「何だ?」

「えーっと……確か、『いつも見守ってる。世界は夜ばっかりじゃない』……だったか」

発生源から毒気を抜かれたその言葉に、ソルはふっと苦笑した。

世界は夜ばっかりじゃない――明けない夜はない。
例えエルフェルトが攫われ、「慈悲なき啓示」の脅威が迫る中であっても――必ず、夜明けは来る。

その解釈はジャック・オーに秘められたアリアを想起した。

「あいつらしい言葉だ」

「ん? オヤジ、なんでそんなヘンな笑い顔してんだ?」

「黙ってろ。今は仮面被ってようが――俺の……昔の――恋人だ」

最後こそ消え入りそうな声であったが、その声はシンとカイの耳に入っていた。
シンはその言葉を聞いた瞬間、雷に撃たれたように硬直する。

「……恋人?」

シンはその時、脳にかつてない程の電流が流れた。
彼の限られた知識と経験から、ソルの言葉の意味の解釈をしようとする。
困難な暗号に幾度も試みた解読は、ただ闇雲にブドウ糖を消費するに留まった。

理解はしても認識ができないその現象に、ただ恐怖に震え始めた。
顔色を青ざめた月とし、変える。

「カイ……」

「何だ、シン?」

「オレ……オヤジの事が、分からなくなってきた……」

「?」


「こちらレイヴン。9時44分、『背徳の炎』とシンの外出を確認」

翌日。

朝と昼の境目で、レイヴンは報告する。
しかし、今回の報告は音声記録を取っていない。

記録を取っているのは、傍らの女性である。

「はいはーい! 合点承知の助!」

飴を舐めつつ、紙の片隅にメモを取るジャック・オー。
そのメモの中央には、デフォルメされたカボチャや鴉が描かれている。

先程まで、退屈しのぎにジャック・オーが描いていたものだ。
流石に記録として残すものにそれはどうかと思うものの、落書きを止めれば暇潰しの種が無くなる。
現在は子供の人格を表としている彼女にとって、それは辺りを放浪するのに充分な理由になる。

大きく、大きく溜息を吐いた。

「昨日に引き続き、何故私は大きな子供の世話をしなければならない……」

そんな嘆きを跳ね飛ばし、ジャック・オーもまた遠方のソルとシンを見やった。

「あれ? なんか二人とも、みょーに距離を開いてるよ?」

「それがどうした? 別に記録するまでも無い事だろう」

「だって、いっしょに旅する仲間なのに、フツーだったら3メートルも離れて歩かないよ!」

「……まあ、それもそうだが」

二人の視界には、挙動だけでも粗暴を醸し出すいつも通りのソルと、
鉄拳とも怒声とも違う、謎の恐れからソルと距離を取るシンがいた。

「なんでだろ?」

そんなジャック・オーの素朴な疑問に、

「私が知る訳がない」

元凶が、つっけんどんにそう答えた。

外套と短剣

ヴェノムとレイヴンの話
彼はキューケースを足元に置き、露天のコーヒー・ハウスで一杯をウェイトレスに注文した。
椅子に深く座り、彼は浅く息を吐く。

今、目の前に展開されている日常が薄氷であるなど、一体どれだけの人間が知っているだろうか。
自明の疑問を浮かべた後、彼はゆっくりと日常を装った。

全く、昼の最中に人を殺すなど、どうかしている。

彼は先程、仕事を終えたばかりである。
目撃者はいないはずだ。
完璧な仕事であった。

人間一人がいなくなった日常の中で、彼は深呼吸して動悸を元に戻す。

彼にとっての日常が暗殺稼業であっても、人殺しに慣れる事は決してできない。
血と涙が幾度流れようとも、彼の心は罪悪を無視する術に長ける事はなかった。

そんな中、ウェイトレスがコーヒーのカップを彼の目の前に置く。
カップの中には、彼の胸中よりもずっと明るい暗闇が覗いていた。

気分を落ち着かせる為に、ほんの少しだけ口をつける。
熱い液体がさらりと喉を通り、冷えた彼の臓腑を温めた。
身体と精神、形而下と形而上の密接な絡まりから、物質的な温もりが感情に伝播する。

そこで、ようやく嘆息をつけた。
己を省みる余裕ができ、そこで彼は背に重みを感じる。

実体がないくせに、やけにある重量をもって責め立てるもの。
組織の長としての責任である。

彼に預けられたその玉座(ポスト)は、願わくば主のものであって欲しかった。
そうであれば自分は、かしずく事で至上の充足を得られた。

だが、今は自分の感情を優先すべきではない。
組織の者たちからもそう望まれ、主からもこの席と責を譲られたのだ。

全うせねばなるまい。
例えこの心身がかつて犬だったのだとしても、下を率いる獅子とならねば。

固められた意志を確認し、現実に意識を戻す。
自ずと必要以上の力を持ってにぎった右手に気づいた。
手に持ったままであったカップをソーサーに戻す。

カップから目を離し、時計台の時針と分針の具合を見やる。
昼時だった。

食欲はないが、体の調子を保つ為にランチ・ティーにするか。

そう決めて、彼はウェイトレスに顔を向け、ほんの少し手を挙げる。
駆け寄ってきたウェイトレスに、サンドイッチと紅茶を注文し、再び彼は一人の時間にふけようとした。

しかし。

コーヒーで少しずつ喉を潤していると、入店客の一人に警戒が向いた。

男である。
新月の天蓋を剥いだような外套の、長身痩躯の白髪だ。

当然の事ではあるが、生理学的観点からすれば、通常の人間と同じである。
一目見ただけで分かるような目立った外傷も、何もない。

身体的に矛盾も不都合もないからこそ、こうして白昼堂々街中を歩けるのだ。
全ての全てに問題がない。

そんな人物に見覚えなど無いというのに、「何かが足りない」とその人物の頭部をまじまじと見る。

額にも後頭部にも、何もない。
常人にとってそれが平常であるが、その人物にとってそれが異常である、と第六感が囁いた。

と――。
その男は異常を探る視線に気づいたのか、こちらに目を合わせている。

針のような、鋭い目。

無思慮に眺めていた己の失態に気づき、視線を逸らす。
だが、とうに遅いようだった。

男は空席を勧めるウェイトレスをあしらい、注文の一言を与えて自分の元へと近づいていく。

逃げるか、と怯弱な声が胸中で漏れるが、逃げれば目立つ、と別の怯懦の声が上がる。
あくまでも日常に溶けこもうとした彼は、男から視線を外さぬままコーヒーを飲み干した。
カップとソーサーの音が、警戒にそばだてた耳に障る。

足元のキューケースが邪魔だからどかした、といった動作に偽装して、彼は刹那もあれば武器を取れるように準備する。

男は対面の椅子に座ると、彼の様子を見透かしたように瞳を揺らした。
底意地悪くオッド・アイが笑い、その口の端がわずかに吊り上がる。

「安心しろ。日の光を浴びられない同胞(はらから)だ」

それを聞いて、何を安心しろというのか。
同じ住民であるとの告白を受け、それに親近感を覚えるのは全うな人間だけだ。

日光が、露天に晒された夜の手を苛む。
彼は不機嫌を隠す事なく相対した。

「何用だ」

「ひとまずは、礼を言おう。『あれ』には少々手を焼いていた」

「……10時42分。その時の事か」

「私がお前の仕事ぶりを見たのは、その10分後だったが」

キューケースが揺れた気がしたが、実際には自分が揺れただけだった。

予想はした。
それで心構えはできても、不快が和らぐ事はない。

目撃者がいて、かつ自分を特定した。
完璧と思っていた仕事は、この男が目の前に存在しているという事実に否定された。

空気を鋭く変質させ、彼は男を警戒する。
だが男はふてぶてしく弛緩し、なおも続けた。

「何、以前の私に与えられた(めい)で取り逃がした魚の事だ。
その魚は青く、口にした者の病を一時的に追い払う。
多大な副作用はあるが、老い先短い富豪がその噂を耳に入れたらしいな。
生憎、病を癒やす前にその行いが祟ったようだが」

「私はただ単に、依頼を受けてそれを遂行したまでだ。そこまで関知はしていない」

「ああ、そうだろう。偶然の一致だ」

そこで会話が途切れたのは、男の注文の品が届いたからだ。
男の前に置かれたのは、自分が頼んだものと同じ、ホット・コーヒー。

少しずつ口にしなければ火傷しそうなほど熱いコーヒーを、男は一気に喉に通す。
それは味を楽しむというより、むしろ熱傷を望んでいるかのような、常識上不可解な行為であった。

その熱の痛みに笑みを浮かべ、男は未だ湯気立つ空のカップをソーサーに置いた。

「レイヴンだ」

「何?」

「私の名だ。
まずは名乗らなければ、名を問う事はできまい」

渡鴉(Raven)……偽名か?
仮にも私と同族ならば、そう易々と名を明かすものか」

「いや、私はその名で通っている。
名を明かしたのは、お前がこの私の名を広めたりはしないという確信だ」

「早すぎる信頼だな。警戒すべきだ」

「別にお前を信頼しての事じゃぁない」

「ならば、何故だ?」

「私の名を言いふらせば、背徳の炎――ソル・バッドガイが締め上げに来るだろうな」

成程。
名を口にした理由に納得はする。
口は災いの元であるとは言うが、その災いは具体的な形を伴い、抑止力となっている。

しかし、その納得と共に、彼はより一層の警戒を払った。

ソル・バッドガイ。
その男の事の全てを知っている訳ではないが、何度かの接触で知り得た情報はある。
そしてその男は、「あの男」への復讐を望み――「あの男」の情報を嗅ぎまわっている。

そして。
眼前を占拠するこの男の名を撒けば、ソル・バッドガイが来るという。

となれば。あるいは。
目の前の男は、「あの男(GEAR MAKER)」の配下である可能性を有している。
かつて全世界を恐怖に陥れたGEAR、ジャスティスの創造主の関係者である確率。

改めて、自分は日常という薄氷に立っているのだと思い知らされる。
そんな危険人物が目の前で嗤っているとして、安穏とする人間は豪胆というより愚鈍であろう。

現況の主導権を握られている事に歯噛む。
彼は諦めて、己の名をレイヴンに渡した。

「ヴェノムだ。家名は無い」

(Venom)。私のようにけったいな名前じゃぁないか」

「だが、所詮は名だ。そのような名を持てど、この身が非情の毒に染まり切った事はない」

非情となれれば、どれほど楽か。
己の手に未だ残る殺人の感触をなだめかせ、ヴェノムが吐き捨てる。

この不快な会話は終わりにしたかったが、しかしレイヴンは続きを紡いだ。

「しかしその毒は、人間に永遠の眠りをもたらしてはいるようだな」

「……それが、私の仕事だ」

「さて、そんな仕事をするような人間など、およそ合法的な者では処刑人しか頭にないが。
お前は一体どのような人間なのだろうな……?」

「悪いが、その話をこんなところでするというのか?」

露天のごく一般的なコーヒー・ハウスで、ヴェノムがブレーキをかける。
今のところ聞き耳を立てている者はいないようだが、露天である以上外部からの目がある。

それに、この店には当然、ウェイトレスがいる。

「失礼いたします」

現に、ウェイトレスが一礼し、割りこんでくる。
ヴェノムが注文したサンドイッチと紅茶を盆に載せ、そのウェイトレスはテーブルの横に着いた。

だというのに。
レイヴンは面白そうに、周囲に聞こえる自然な声量で発言した。

暗殺者(アサシン)じゃぁないか?」

己の正体。
それを暴かれ、ヴェノムの背に殺気が走る。

即座に立ち上がる。
同時に足元のキューケースの留め金を蹴り上げた。
蹴り上げたその衝撃で留め金を強引に外され、開かれたケースは宙を舞う。
空中で運動するケースに狙いを定め、純白のキューを手にした。

ボールは生成しない。既に間合いの中だ。

ヴェノムは研ぎ澄まされた最低限のモーションを描き、殺人の意志を宿したマッセをレイヴンの喉に放った。
手と目に伝わる血染めの感触に、怖気が溢れる。

白昼堂々、それもウェイトレスを目の前にしての殺人だ。
ヴェノムとしても不本意ではある。
しかし、周囲を顧みない危険分子とこれ以上接触するのは、組織自身が表舞台に出てしまう危機に瀕する。
この場は血に染まるが、やむなしだ。

完全に気管と大動脈を貫通せしめたキューを抜き、ヴェノムはこの場から踵を返そうとする。
だが、それを制止するように、ウェイトレスの声が上がった。

「こちら、サンドイッチとダージリンでございます」

それは、恐らく何十回と口にした言葉だろう。
立て板に水を流したようなその言葉に、ヴェノムが驚愕する。

目の前で殺人が起こった。
だが、それに悲鳴も上げず、卒倒もせず、ウェイトレスは常と同じであるかのようにテーブルに注文の品を置く。
そして「ごゆっくり」と一礼し、ごく普通に去っていった。

呆然と、テーブルに置かれたチーズとトマトのサンドイッチと、ティーバッグの沈んだ薄血色のカップを見つめる。

しかし、経時的に驚愕は理解にすり替わってゆく。
今死体となった男は、この場の認識を法術によってハッキングしたのだろう。

ここで何が起ころうとも、「日常である」と錯覚させる。

気の抜けたヴェノムは重力に任せて椅子に座り、きしむ音を大きく立てた。
キューの血をクロスで拭い、キューケースに再び納め、レイヴンに向き直る。

「――この場を動くつもりはないようだな」

わざわざ、あんな法術までこしらえたのだ。
そして、その法術が今も継続している。

喉を貫かれ、健常な人間であれば死体になって当然な状態であるというのに。
ヴェノムの確信的な予感で、死んだはずのレイヴンに呼びかける。

自然法則を無視して、答えが返ってくる。

「誰も我々を認識できない状態にすれば、場所を変える必要もない」

再生した声帯を震わせ、レイヴンが生き返った。

人間として有り得べからざる出来事。
その驚異的というよりも執念的な再生能力に、ある夫妻がヴェノムの脳裏を横切った。

「吸血鬼――いや、牙はない。不死(Immortal)か?」

その言葉に、レイヴンがわずかに震えた。
反論もせず、開きかけた口を閉じる。

その様に、彼自身が彼を明かすに先んじて、ヴェノムが正体を捉えた事を知る。

ヴェノムは己の言説を補強する為、捉えるに至った理由を述べた。

「私の知り合いに、不死の婦人がいる。
幾ら牙を立てられようと、幾ら血を失おうとも、無から有を生むように再生する。
仔細には知らないが、その不死性はまさにそれだろう」

的確なヴェノムの指摘に口の出しようもなく、レイヴンは首肯する。

ヴェノムはやっとこの怪人を捉えてみせた事に安堵を覚えた。
鵺じみたこの男を、ようやく自分の知っている世界に引きずりこめたのだ。

しばし満ちる沈黙に、ヴェノムは虚勢のように笑みを浮かべる。
前髪で隠されたその笑みを、恐らく相手は見れないだろうが。

ともかく自分の立場をつかんだヴェノムは、前髪の一部を耳にかけてカップに手を伸ばした。
沈んだティーバッグをスプーンですくい、晒された唇にカップの口と合わせる。

茶の温もりが移ったカップを傾け、慣れた味が口内に注がれる。
廉価なりの味だが、これが口にした事もない高級な茶であれば、日常を感ぜられずにこうも落ち着ける事はなかっただろう。

心臓は、収まった。
首を振って前髪を戻し、カップもまたソーサーに帰す。

「すまないな。冷めては味が落ちる」

遅い断りを入れて、「さて」とヴェノムが余裕を手にする。

「君のその不死の由来は何か。
差し支えなければ、訊かせてもらおうか」

人間の命に携わるものとして、そして単なる好奇心として、それを訊いてみる。
だが、その言葉を吐いた途端、レイヴンの顔から一切の色が失せた事に気づいた。

しばらく待っていると、レイヴンの顔に段々と色が戻ってくる。
これまで何千何万と口にしてきたというのに、この目の前の無知にまたも口にせねばならない。
「億劫」という灰色の倦怠感だ。

レイヴンはのろのろと口蓋を上げると、その奥が言葉を紡ぐために蠢いた。

「この身の不死の呪いなど、求めて得たものじゃぁない」

ヴェノムはその言葉を受け止め、生じた疑問をそのまま返す。

「呪い? 君は不死というものを、そう感じているのか?」

「そうだ。死のなき生など、生きていない事と同値だ」

死ななければ、生きられない。
生死の境目に常に立つヴェノムだったが、その哲学への理解は及ばなかった。

「ならば、私は今死んでいないが、これは生きていないという事か?」

挑発ではない。純粋な疑問だ。

レイヴンは前回の同類の質問から回答を流用したかのように、すぐさま答えた。

「お前が死ぬのは約束されている。生きる事ができる。
だが、私の死はどこにもない。私はまだ生きていない」

それでも、ヴェノムの眉は曲がったまま頭を振る。

「……悪いが、君の感覚には同意しかねる。まるで別の世界の論理だ」

「別の世界――ああ、そうだ。そうだろうな。貴様とは別の世界からの言霊だ」

レイヴンは嘲笑を上げる。
だが、ヴェノムがそれを不快だと思わなかった。
その嘲笑の対象が自分ではなく、彼自身に向けていた嘲りだったからだろう。

レイヴンは腕を広げ、大げさな身振りと口振りでヴェノムへと伝える。

「ならば、私の世界を知ってもらうとしよう。
死のない世界。千年を超えた世界だ。
千年の内に何もかもに飽き、何もかもに諦めを抱いたその世界に、快楽はない。
お前の紅茶とサンドイッチを、仮に私が口に運んだとしても、それは有機物が私の胃袋に移動したまでだ。
そんな、味気ない世界にただ存在する事を、生きる事だとお前は思うか?」

その反語表現で、ヴェノムはようやく朧げに理解した。

何もかもに飽きた世界。
その世界が終わる事なく存続していくとすれば、そこで生きようとする事はあまりにも過酷だろう。

ヴェノムはサンドイッチを噛み、チーズの脂とトマトの酸を紅茶で流しこむ。
この僅かな日常の感覚にすら何も感じないと考えると、ヴェノムは漠然と憐憫を覚えた。

「君の哲学は分かった。不死がそういうものとはな」

「貴様の知人の不死者にも是非伝えてやれ」

「生憎、あの夫婦仲に水を差す機会も気概もない」

レイヴンの悪意ある提案を躱し、ヴェノムは時計をちらりと見た。
時間としては良い頃合いだ。
そろそろ切り上げるかと、ヴェノムは眼差しを研いでレイヴンに向ける。

「別に、礼をするのも名を訊ねるのも、そして君の不幸をひけらかすのも本筋ではないだろう。
一体、君は何故私の目の前にいる」

障害となる為に消すつもりなのか。
組織を動かす為に脅迫するのか。

様々な想定が浮かんでは消えていく。

告げられた内容は想定外であったが、驚くべき内容ではなかった。

「私を殺せ」

その言葉に、躊躇はない。

「私のこの世界に、最早快はない。
生きるという牢獄で、ただ人間らしい心を消耗させていくだけだ。
このまま()けば、行き着く先はただの生きる肉塊だ。
そのような物体に成り果てる前に、私は私のまま死にたいのだ」

ヴェノムは紅茶と共に、彼の事情を嚥下する。

先程までここにいた怪物は、この世にふてぶてしく居座って嘲笑する傍観者のようだった。
だが、今目の前で言葉を吐く男は、存在すら曖昧な弱弱しい人間として目に映る。

それほど、呪われた日々は彼の精神を虐げてきたのだろう。
憔悴したその様子が何より、レイヴンという人間の脆さを語っていた。

ヴェノムは彼に一定の理解を抱いた。
だが、理解したからこそ、困難もまた理解する。

「……悪いが、到底その依頼を達成できるとは思えんな」

喉を貫かれてもなお生きる、先程の再生能力。

あの再生能力を超えるほどのダメージを一瞬で与えたとしても、恐らくは世界の理を超越して蘇るであろう。
でなければ、この男が今日まで死ねなかったはずがない。

レイヴンは肺を絞るように囁いた。

「私が考えつく限りの手段を、ありとあらゆる手で試してきた。
それでも私はここにいる。
その足元のキューのように、単なる遊具を武器に転じるような発想が、あるいは必要なのかもしれない」

「それで、私か」

ヴェノムは足先でキューケースをなぞり、顔を伏せた。
この男の呪われた命を絶てるものなのか。

そう思案した時、それはそびえ立つ壁のようなものに思えた。

苦い顔をするヴェノムを察し、彼の背を少しでも押してやろうとレイヴンが革袋を手にする。
レイヴンはもう片方の手でその革袋に突っこむと、ぞんざいにその中身を取り出した。

「金なら積める」

束ねられた札束に、陽光を照り返す金貨。
溢れんばかりの価値がテーブルに広げられる。
その金額は一目しただけで大金だと分かる量であり、これで三人は殺せるだろうというようなものだった。

だが。
この依頼は到底受け入れられそうになかった。

果たす事のできない依頼という事もある。
しかし、脳裏によぎる影が、それだけの事ではないのだとヴェノムに考えさせられた。
その影は、何よりも尊い方の手繰る影の色をしていた。

「……だがそれで、君は満足するのか?」

ヴェノムの諭す声に、レイヴンは不愉快そうに返す。

「生の充足は死がなければ不完全だ。
先に言うが、私を止めるつもりならば、もう遅い。
今の私にとって、全ては遅過ぎる。もう終わっていて出来る事は無い。
説得も説教も説法も、何もか不要だ。
今や死こそが私の唯一の救いだというのに、それを貴様もまた否定するというのか?」

自分の事情を、明かしたというのに。
自分の絶望を鳥渡(ちっと)も理解していない第三者のように引き留めるのか。

レイヴンが目を窄ませ、ヴェノムに対して威嚇を示す。
しかしヴェノムは、その威嚇に怯む事なく続けた。

「ならば君の中の犬に問おう。
君がいなくなったとして、君の(あるじ)に支障はないというのか?」

レイヴンが大きく身を震わせた。

「……何故、それを?」

己に主がいるとは告げていないはずだ。
レイヴンが疑問を呈すると、ヴェノムはすんなりとその答えを明かす。

「先程言っていただろう。『私に与えられた(めい)』と。
つまり君には務めを与えるような主がいる。
それが、そう――『あの男(GEAR MAKER)』であろうと、その人物は君の(あるじ)に相違ないはずだ」

「…………」

その沈黙を肯定と受け取り、ヴェノムは続ける。
同じ「主に仕える犬」として、同じはずの思考を渡した。

「主の為ならば、命は惜しくない。
しかし、己の為に命を絶つ事は、主の為に生きる事と、天秤をかけた事があるか?」

レイヴンは、それにしばし沈黙した。

己の為に死ぬ事。
主の為に生きる事。

「……私は、」

その言葉の先を、未だ得る事は叶わなかった。
ただそれだけを口にするしかできないレイヴンの惑いを心に写し、ヴェノムはただ己の考えを吐き出す。

「私はその結果を考えようとしなかった。
私もまた、考えられなかった

『あの方』を失った時。私は初めて考えた。
果たして、あの方の為に死ぬべきなのか、あるいは生きるべきなのか」

ヴェノムに、レイヴンのような自殺願望はない。
しかし、「あの方」が死んだその時、考えた事がある。

主の死に殉じるべきか。
主の座を引き継ぐべきか。

その葛藤は、恐らく彼に預けた葛藤と同質ではないだろうが、同類のものなのであろう。

生きるべきか、死ぬべきか(To be, or not to be)
どちらが正しいのか、あるいはどちらも間違っているのか、その正否など知り得ない事だ。
しかし選び取ったのはどちらなのか、それは今の自分が証明している。

「私は今ここにいる。
『あの方』の為に、生きる事を選んだ」

「あの方」の生きた証である、組織の存続。
指針となる「あの方」の不在の中、組織を纏め上げる事の艱難辛苦に、過去も今も苛まれている。
しかし、今もその重荷を背負い生きてきたからこそ、黄泉帰った「あの方」に顔を向けられたのだ。

己の道程を振り返り、ふっと我に返る。
自分と同じ種類の人間は目の前にいるが、だからといって同じ考えを抱く事はない。

ヴェノムは頭を横に振り、取り繕うように補足する。

「……いや、君にそう強いるつもりはない。
単に、君とはそれなりに同胞――いや同種であった。その感傷に浸っただけだ」

それに、レイヴンは首をゆっくりと震わせた。

「……ああ」

縦にも横にも振っていない。肯定も否定も表していない相槌だった。

ヴェノムの結論を、そのまま自分の結論にしようとは思っていない。

生きるか、死ぬか。
己を揺るがすその結論は、日常の昼のひとときに出せるものだろうか。
その結論は、退屈な一手一手を幾千幾万と重ねた先にようやく描き出される棋譜のようなものだろう。

レイヴンは初めて悪意なく微笑を浮かべた。

「――ならば、今はその答えを留めておくとしよう。
考える時間ならば、それこそ腐るほどあるからな」

時計台を一瞥し、これまでに過ぎた時間に思いを馳せる。
時間を超えた遥か遠くを見る彼の瞳は、どれほどの時を重ねて研磨されたのだろうか。
パンドラの箱のように、闇深くもわずかに光るその瞳は、時計台からヴェノムに移る。

戻ってきた視線を受け止め、ヴェノムは口を動かした。

「忠告をするならば、君の(あるじ)と君の時間が、同じ長さではないとだけ言っておく」

例え百年同じ時を過ごしたとしても。
自分と「あの御方」の年月を比べるまでもなく、レイヴンはその差を受け入れる。

「熟知している」

「しかし、同じ犬として願っておくとしよう。
何らかの事情で立ち寄った墓地にでも、君の名が刻まれている事を」

死を願うその言辞にはなむけの意をこめ、ヴェノムはその祈りを彼に贈る。
それを聞いたレイヴンは笑い声を漏らした後、何度もうなずき受容した。

「私の墓に何を供えられるのか。楽しみにしてやろう」

レイヴンは立ち上がると、テーブルの上に広げたままの依頼金を革袋に戻し始めた。
その内から、自分の頼んだホット・コーヒーの代金を選り分け、テーブルに置く。

「今日の所は、これで暇をいただこう」

「それでいいのか?」

「ああ。これでいい。少しばかり、楽しめそうな事を見つけられた」

そう、愉快そうにレイヴンが笑う。

「生死に関わる苦悩がか」

「その苦しみの果てにどうなるか、この私でさえも見当がつかない」

未だ知り得ない己の底を省みて、そう答えた。
呆れたような、あるいは羨ましそうな溜息を吐き、ヴェノムが彼を見やる。

レイヴンは立ち去る間際、ふと思い出したように向き直ると、再度革袋に手を入れた。

「今日の礼だ」

手にした金貨は、指で弾かれ宙を舞う。

ヴェノムは自然、その軌跡を目で追った。
その金貨に注意を向け、放物線は目の前のテーブルの上で終着を迎えた。

そのわずかな一瞬の後、すぐに顔を上げる。

そこでは、鴉の羽根が散るだけで、誰も何もいなくなっていた。

「……全く、今日はとんだ日となってしまった」

苦笑しながら、ヴェノムは金貨を拾い上げ、それを太陽の光にかざしてみる。

それは、現在流通している通貨ではなかった。
近世の量産主義に毒されない、純金でできた金貨である。
金メッキという訳でもない。重さと、無数につけられた傷からして、中身まで紛いなく金でできている。

その古びた金貨は、レイヴンの左目のように輝いていた。

墓場より、ゆりかごへ

レイヴンとラムレザルの、生死に関する話の話
「破壊」と「死」は違う。

例えば、そこにある機構(からくり)が壊されて動かなくなった。
それは「破壊」だ。

例えば、ここにいる藪犬(やぶいぬ)が殺されて動かなくなった。
これは「死」だ。

その違い。
命の違い。
それは、まだ感情としての理解は行き届いてはいないかもしれないが、
ただ「違う」という確信が、彼女の中で息づいていた。

しかし。

「『生』と『死』の違いなんて、考えるまでもないよ」

押しつけられた設問に、ラムレザルが解答した。

「心臓が動ける状態が『生』、動けない状態が『死』だ」

そう聞いたレイヴンは、挑発的に首を傾げて彼女を見据えた。

「どうかなぁ?」


ソル一行は、先を明かさぬレイヴンの誘導により、行き先の不明な旅路を辿っていた。
その道中。
この原野。
空腹を訴えるシンの提案で、一行は食事を兼ねた休憩に入った。

ソルとシンは食料調達に出掛け、
ラムレザルは炊事の為に焚いた火と、そして不審人物であるレイヴンの番をしていた。

ラムレザルはただ口を「へ」の字に閉じ、二人の帰りを待っていたが、
退屈を嫌ったレイヴンは、彼自身を嫌うラムレザルに問答をしかけたのだ。


自分の答えを暗に否定されたラムレザルは、表情を険しくしてレイヴンを睨んだ。
だがその敵意を気に留めず、レイヴンは平然と続ける。

「前のヴァレンタインは、『生』も『死』も平等に意味はない、と言っていたが」

「私はラムレザル=ヴァレンタイン。
きっと、多分、見た事のない『初代ヴァレンタイン(姉さん)』とは違う」

「ではお前は、『生』と『死』の違いが、何故心臓の動きの違いになると考えた?」

「人間にとって、それが『生』と『死』の判断材料だと聞いた。
実際、心臓は生命活動にとって重要な臓器だよ。
その活動が停止すれば、生きる事ができなくなる」

「確かに。多くの国の法律では心臓が止まれば死んだ事になる。
そして、お前の考えもそれに同意すると?」

「肯定するよ」

「ではそれを踏まえて、踏みこんで問おう。
もし、心臓を抉れば?」

「死ぬ」

即答。
その単純明快な答えを聞いたレイヴンは、口角を不吉に吊り上げた。

横たわる三日月の模り。
ラムレザルはその怪笑に怖気が走り、思わず目を逸らす。

刹那。

レイヴンは手を鳥趾のように構えると、
胸に指を突き立て、
己の胸骨と肉を掻き分け、

心臓を体内から引きずり出した。

噴出する血は、地面を鮮やかな紅に染め立てる。

横目にその光景を見たラムレザルは嫌悪感を露わにし、
快楽に息を荒げるレイヴンに、制止の声を上げた。

「止めろ」

レイヴンはその声を受け、手にある心臓を握り潰した。

「――ィィッ――!」

己の血が纏わりつく腕を下ろす。
胸の虚穴を風に晒しながら、肉体の再生を待つ。

常人ならば確実に死に至る状態の中、
レイヴンは、不敵な笑みで問いかける。

「私は死んでいるか?」

「……私の答えを否定する為に、そんな事をしたの?」

やれやれと、頭を振って「呆れ」をわざと見せつける。
しかし、未だ横目でいるラムレザルには、その光景は届かない。

声色に嫌らしさを載せて返す。

「平凡な答えだ。とてもつまらないじゃぁないか」

「私はお前の退屈しのぎの玩具じゃない」

「そう返すか。ならば今のお前は『不快』を感じるのか」

――前のお前は感情がないはずだったろうに?

厭らしく笑うレイヴンに、ラムレザルが歯を剥いて敵意を表した。

「前にお前の事を『嫌い』と言ったけど、訂正する。
お前、『すごく嫌い』だ」

その言葉を受けて、よりレイヴンは笑みを濃くした。

「だろうな」

レイヴンの空いた胸は、会話の間に肉が寄り集まって再生する。
肉の蠢く音が聞こえなくなり、ラムレザルはようやく彼に向き合った。

「この話は終わり?」

「終わりにしてもいい、そして続けてもいい」

「じゃあ、終わりだ。お前と話したくない」

そして互いに口をつぐみ、ラムレザルは焚き火に視線を注いだ。
監視しなければならないレイヴンは、視界のほんの隅に置いておくだけにする。


だが、彼から預けられた問いは、自然彼女の中に残っている。


「生」と「死」。その違い。
とまれ、「心拍の有無」こそが「生死」という考えは、苦々しいが撤回する。

生命という事の詳細は分からないが、それは温かく、柔らかく、尊いもののはず。
確かに、生命は心臓だけの存在じゃない。
きっとそれ以外に、答えがあるはずだ。

生命。生物。例えば、「人」。
そこで彼女が思い浮かべたのは、シンだった。

シンは今、生きている。
間違いなく、生きている。
死んでなど、いない。

では、それから考えれば、
シンが死ぬ、とは?

――――ッ。

胸が絞められたような、不愉快な感覚が走る。

これ以上を考えてしまえば、より不愉快な気分になるだろう。
その推測から、「死」について考える事をやめようとする。
だが、疑問を貪る好奇心は、構わず思考に鞭を打った。

……例えば。
この旅の果てで、化け物が待ち構えていたとして。
シンが戦って、負けてしまったら。
そこから、死んでしまうかもしれない。

どこからが、生きていて、
どこからが、死んでいる?

――ッ。

戦っている時は生きている。
だって、シンはこれまでも戦ってきた。
その中で、生きてこられた。

負けたら、死ぬ?

いや。シンがこれまでソルに挑んで、負けた場面は見かけてきた。
生きてる。負けても、生きる事がある。

傷ついたら、死ぬ?

……いや。シンは何回も傷を負ってきた。それでも生きている。

じゃあ――シンが、どんな風に傷ついたら――?

――ッ!

ラムレザルは頭を抱えた。
彼女は決して、断じて、シンの死を望まない。
だが、「生」と「死」の違いを追求する題材に、シンを選んでしまった。
そこから先に考えを進める事に、触れてはいけない禁忌を感じた。

ラムレザルは「生」と「死」を捨て、無理矢理別の事を考え出す。


ソルとシンはどうしている?
死んでは――いない。いるものか。
きっと、いつも通り兎を追っているだけだ。
絶対、日が沈むまでには戻ってくる。
食料を持って帰ってくるだろう。
空腹のシンは早く早くと騒ぎ立て、それをソルが小突いたりして。
そして、ご飯の支度をする。
きっとソルが兎を肉に仕立て、シンと彼女で串を用意して、バーベキューだ。
きっと、皆で、
目の前の焚き火に当たりながら、
焚き火に――、


ラムレザルの意識が、想像から現実に移った。

焚き火。
その近く。
レイヴンの足元。
血染めの地面があった。

血。
外に流れ出た血。
「生」が失われる暗喩。
「死」を連想した。

日常の想像は瞬時に、悪夢の「死」に逆行した。

シンが傷ついて、死ぬとしたら。

切られる。
殴られる。
潰される。

その悪夢の想像がシンのイメージを伴って現れては、それでは死なないと考えては、
より詳細に、より克明に、より深刻に傷が具体化する。

彼女は自らの想像に苦しめられ、ついには想像上で「死」をシミュレートすると、
そこでようやく彼女の悪夢は勢いを失った。

……では改めて、「生」と「死」の違い、とは?
ここで彼女は、シンの悪夢を振り返って気づく。

「生」と「死」の、はっきりとした境界が分からない。

現実のシンはどこまでも「死」を感じない。
だが、シミュレートの悪夢の中にいた、辛うじて生きているシンは、深い「死」を覚えさせた。

境目は、何だ?

より深い疑問に足を踏み入れたラムレザルは、胸にざらつきを感じた。
そのざらつきを無くすには、「生死」の答えがなければならない。

彼女は、苦々しくレイヴンの空気に触れた。

「……お前」

「何だ」

「『生』と『死』は――その境目は、何?」

「その話は終わったんじゃぁないか?」

「うるさい」

ラムレザルが犬歯を剥き、レイヴンは一呼吸置く。

「まあしかし、その問いに返すとすれば、」

彼が足下を指で示す。

「お前はこの血を『私』だと思うか?」

「思わない」

即座に切り返した。

「元々は、私の中にあったものだぞ?」

「それが外に出た。お前の中ではなくなった」

「では、私の腕を切るとしよう。
切り落とした腕は『私』か?」

「違う」

所有するものは外部に出ればそうではなくなる。
当たり前だと言うように、溜め息がちにラムレザルがそう二度目を答えた。

しかし、三度目。

「ならば、首を切ったら、その首は『私』か?」

そう訊かれ、そこでようやく困惑する。

「…………分からない」

「何故だ?
血と、腕と、首は、どう違う?
どれも同じ、私のものだ」

そしてどれも、人間の体の一部分に相違ない。
首は何故、彼のものではないと言い切れないのか?

それが新たな混乱を巻き起こす。
しかし、

「……それは、『生』と『死』の違いに必要なものなの?」

「お前の考え方次第だな」

切り口を得たレイヴンは、次の段階に話を進める。

「さて、ここに切り離された私の首があるとしよう。
肺と繋がっていないから話す事はない。

しかし腐る事はなく、瞬きをし、体温を保つ。
胴と繋がっている時と同等の機能を有している。

その私の首は、生きていると言えるか?」

ラムレザルは、恐る恐る答えた。

「……私は、生きていると思う」

「その首だけ――私のほんの一部だけが生きていたとして、
お前はそれを指して、『私』が生きていると思うか?」

首だけの存在。
だがそれでも、それに体温が――温もりがある。

それを死んでいると否定できなかった。だから、

「…………肯定、するよ」

その言葉に、レイヴンがずいと近寄った。

「聞かせておきたい話がある。昔の話だ。

1951年。ある女が病により、永遠の眠りに就いた。
それは、細胞にエラーが起こり、際限なく増殖を繰り返す病――癌だ」

「そんなの、よくある話だよ」

「ああ。そうだ。確かにそうだ。
しかし、その女は――お前の考えを適用するならば、1951年よりずっと後まで生きている」

「……その理由は?」

「女の治療にあたって、医者は腫瘍から癌細胞を抜き取った。
だが、その女が二度と目を開けなくなって以後も、その癌細胞は増殖する事ができた。
これに気づいた医者は、癌細胞を培養し、培養された癌細胞は以後、様々な研究に使われていった。

つまり、女の癌細胞は、その先もずっと生かされた。
ひょっとすれば、聖戦以後も、研究者の手によって生かされて――今まで、生き延びてきたかもしれない。

私のように不死の身を持たずとも、その身が朽ちてもなお『生きて』きた人間を、どう思う?」

返事に窮し、ラムレザルはレイヴンと視線を合わせる。

彼女は初めて、彼の目を真っ直ぐに眺める事ができた。
冥銭がはめこまれたような金色の左目と、生命の樹であるオリーブと同色の右目。
生死の揺らぎを有するその輝きから、彼の全て(千年)を汲む事などできはしない。

ただ、

自分の一部が掬い上げられ生き続ける女性。
千年を超えて今、目の前にいる男性。

その二つの運命の妙に、彼女は同じ感想を抱いた。

「不思議だ」

その一言だけが、今渦巻く数多の感覚の中で唯一、言語化できる概念だった。

「……それだけか?」

「それだけしか、私は言えない」

「では、『生』と『死』の違いは何だ?」

「私はその正しい答えを知らない」

ラムレザルは、素直に返した。

「ただ――少し、分かった。

『生』と『死』に、確かな境目はない。
死んでなお、生き続ける人が、この世界にいるのなら。
きっと、『生』と『死』はそんなに違わない。

だから『生』と『死』の違いに、今の私は答えを出せない」

レイヴンは口を閉じた。
ラムレザルの答えに肯定も否定も示さず、ただ彼女が創り上げた結末を飲みこんだ。

沈黙が、二人を包む。

ラムレザルは、答えならざる答えに満足し、その余韻を咀嚼した。

レイヴンは自ら近づけた距離を再び離し、虚空へ目を移す。

これまで立て続けに質問を受けてきたラムレザルは、逆にレイヴンに疑問を抱いた。
その疑問が沸々と出てくると、彼女はその疑問を彼に渡していく。

「何故、こんな事を訊いたの?」

「暇潰しだ」

「それなら、何で生死の違いを訊いたの?」

「傀儡に生死の概念を考えさせるのも一興かと考えた」

「……なら、お前は生死の違いを何だと思ってる?」

「『死』は『生の充足』を得るための必要条件。
『生の充足』は「死を享受する」為の十分条件。
端的に言えば、それだ」

ラムレザルの問いを躱すように、淡々と答えていくレイヴン。
だが、彼女の疑問はついに、彼を捕らえた。

「もう答えを知っているなら訊く必要がないのに、何で訊いたの?」

その疑問に、レイヴンは口を閉じ、口角を下げた。
黙りこむ彼に、ラムレザルが追撃する。

「私には理解できないけど、お前は痛い事が好きだと聞いた。
暇潰しなら一人で勝手に痛い事をすればいいし、私を戦いに誘う事もありえたはず。

なのに、お前は私に色々な事を訊いたし、聞かせたりもした。
それは何故?」

彼は億劫に口を開くと、吐き捨てるようにつぶやく。

「…………お前の考えが知りたかった。それだけだ」

彼女は、無意識に、ほんの少しだけ息を飲む。

己に関心を寄せていたのだという、その事実。
ラムレザルはレイヴンを見つめ直した。

決して、全く、好意など微塵なりとも抱けない人物。
だが、完全な人非人だとは言えない人間。

ほんの一匙の興味を向け、彼女は彼の声を聞く。

「私は意図せずとも、多くの人間と顔を合わせてきた。
千年の時を経ても、人間という種はほとんど変わらない、退屈な存在だ。

だが、お前はヴァレンタインだ。人間じゃぁない。
種からして外れた存在が、一体どれほど人間から外れ――どれだけの狂気を抱いているのか。
それを推し測ろうかと、単にそう思っただけだ」

ひとしきり沈黙の一服を経た後、レイヴンがラムレザルに目を向ける。

「――お前は何のために生きているのか?」

己が常に自問自答してきたその命題(テーマ)を、他者に託す。

ラムレザルは、すぐに言葉を紡いだ。

「前は『お母さん』のためだった。
けど今は違う。
未来の――『明日』のために生きている。
それだけじゃないけど、とにかく今は――」

言葉を切り、続きを探る。
生きるため、何をするか。

しかし、その答えはそれほど高尚なものではないかもしれないと、彼女は思った。
だから、言う。

「ダブルバーガーが食べたい」

「……は?」

日常の延長線のような願望が、「生死」の答えとして滑りこんだ。
思わず間の抜けた声を上げると、くすりとラムレザルが笑う。

「私は、まだ食べた事がない。

生きる事は、一日を繰り返す事じゃなく『明日』を生き続ける事だと思う。
だから、まだやった事がない事をやりたい。そう、思う」

彼女の思い、それは、

「……そうか」

彼に、笑みと伴って伝わった。
レイヴンはゆっくりと首肯する。

死を思え(Memento mori)今を愉しめ(Carpe diem)
その願望こそありふれているが、しかしお前の真実だ。
貴様は『生の充足』を知れる――約束された死があるからな」

二人は、静寂を迎え入れた。

言葉は最早不要であり、また無粋である事を無言の内に悟っていた。

そのまま、軟風のように流れる時間を享受する。
それで、もう充分だった。


「おうラム! いいウサギ取ってきたぜー!」

「ラムレザル、無事だったか?」

シンとソルが、各々手に獲物を持って戻ってきた。

ラムレザルは二人の姿を認めると、顔を上げて二人に駆け寄る。

「シン、ソル、待ってた」

「おう!」「ああ」

「んじゃ、早速メシにしようぜ!
もう腹が減りすぎて腹の虫が黙っちまうくらいだ!」

「私も、お腹がすいた」

「おっ、ラムも同じか?
じゃあこのノウサギと穴ウサギはラムにやるよ、ホラ!」

手渡されたウサギを受け取り、彼女は少し考えて穴ウサギをレイヴンに渡そうとする。
レイヴンは少しばかり驚きの素振りを見せてから、ついとそっぽを向いて拒否した。

「……私に、食欲は必要ない」

「必要がなくても、食べる事は悪くないよ」

その様子を見たソルは、怪訝な顔をしてラムに訊ねる。

「おい、何かされたか?」

「いや。ただ単に話をしただけ」

「話?」

「よくわからない話。
危害は加えられてはいない。度々嫌な思いをさせられたけど」

「なら、どうして食い物をよこしてやる?」

ソルのもっともな疑問に、彼女が返す。

「私たち三人が食べる中、一人だけ食べていないのは、落ち着かない気がする」

「……好きにしろ」

ソルは無造作にあぐらを掻き、シンは不思議そうな顔をしてその隣にしゃがみ、四人は焚き火を囲った。
ラムレザルはなおも穴ウサギを無言で勧めたが、強情なレイヴンを見てふとつぶやく。

「じゃあ、これは私のものにする。
私はお腹がとても空いた。お前の腹が空いていないのなら、私が食べた方がいい」

するとレイヴンは、手をにゅるりと伸ばして彼女から穴ウサギを奪い取った。
ラムレザルはその様を睨んで言い放つ。

「お前、『嫌い』だ」

レイヴンはその発言に嗤った。

「『すごく嫌い』じゃぁなくなったな」

すると、ラムレザルは口角を上げてその笑みを真似した。

「どうかなぁ?」

生きている芋虫

レイヴンの痛覚が消える話
過去捏造描写あり
レイヴンはその日も変わらず、自虐によって喘いでいた。

痛み。
肉を断ち切る痛み。
骨が潰れる痛み。
喉が塞がれる痛み。
致命的な、痛み。

おびただしい血と狂喜的な嬌声が流れる中、レイヴンは更なる痛みを求めて手を伸ばす。

刃物から鈍器、果ては断頭台(リヒトブロック)まで。

その全てを、己の欲望を満たす為に使い、只只管に高まり続ける。

他者から見れば、己で己を傷つける滑稽な姿に、目と口を覆う事だろう。

だが、その事に気を回せない程に、レイヴンは必死に快楽を享受し続けた。


「狂っている」と、言われるだろう。
しかし、何百と時を踏み潰した「人間」が、狂わずにいられるだろうか。


人間の精神構造はどこまで行っても人間である。

例えば人間の精神を鼠に移し替えたとして、果たして数年の命を充分に満喫できるだろうか。

鼠そのものであれば、数年で終えられる運命を、本能で知っている。
しかし、人間は数十年と生きられる。
どれだけ忙しなく動こうとも、短命の運命を受け入れ難いだろう。

変わって、精神を壊れ得ぬ機械人形(アンドロイド)に移し替えたとしたら。
不老不死のその身に、多くの人間は仮初の歓喜を得る事となる。

そこで、ここに一握の小説があるとしよう。
それは多くの人間により絶賛されたものであり、事実、初めて見た時は雷に撃たれたようだった。

これが、千冊あったとしよう。
通常の人間ならば、一生の中で読める本としては充分過ぎる量であろう。

それが、千年の時を経ても存在する機械人形(アンドロイド)が読むとしよう。
その享楽は、機械人形(アンドロイド)の一生を満たすに充分なものだろうか?

……己の感覚を満たす事ができない既存物に対する感情を、人間は「飽きる」と称した。
では、何かに飽きたその先に、人間は何を求めるだろうか?

それで満たされなければ、他の何かで満たすしかない。
それが、人間の正常な心理作用である。


ならば、五感全てに飽きたその先に――痛覚に救いを求めたと理解すれば、
彼を差して、ただ単に「狂っている」という感覚を抱くだろうか。
全てに絶望した先の、脆い糸に縋りついて、何がおかしいと言うのだろうか。


享楽の果て。
凄惨な血と肉の部屋の中。

ある朝、レイヴンがなにか気がかりな夢から目を醒ますと、自分が痛みを感じずにいるのを発見した。

恐る恐る、常に針が刺さっている頭に触れた。
生物には不適な、金属の感触。

それが明らかに頭部を貫通しているというのに、レイヴンの頭はずきりとも痛まなかった。

最初に、それを現実であるか疑った。
これはまだ夢ではないかと、そうであって欲しいと願った。

次に、誰にも向けられない憤怒を抱いた。
何故、突然に痛覚は絶たれたのか。唯一の救いすら奪われた事に対して呪詛を叫んだ。

最後に、ゆるやかに絶望へと堕ちていった。
心臓の底が奈落へ抜けたように、全身の血の気が引くのを感じた。

レイヴンの心が黒い霧に染まりつつある中、
彼は、閉じられたカーテンから光が漏れ出ているのを見た。

その隙間から覗く空は、彼の不幸を祝福していた。

レイヴンは呆、とした様子で、しばらくそのままそこに居た。
だが、何の刺激もない己の身が何より歯痒く、彼は渋々歩き出す。

己の身を隠していた建造物から、外へ。
幽鬼と化した彼は、自分の立場すらも忘我してひたすら歩く。

ざし、ざしと。
足が落ち葉を踏む感覚。
さん、さんと。
日が身を温もらす感覚。
だが、こんな感覚は何百年と経験している。

彼がひたすら歩き続けていく中で、新鮮味のない外に一切の気を払わず、思考は過去へと逆行した。



この不死の牢獄に囚われたのは、いつだっただろうか。

それは、人類史で言う所の中世だったはずだ。

かつて若い頃は、己の不老不死を受け入れていた。
何しろ、誰しもが抱く死への畏怖を拭い去ってくれたからだ。

最大の恐怖をものともしない若人が、そこにあった。

彼は意気揚々と様々な事に手を染めた。
今のレイヴンから見れば、首輪なき獣のようで愚かしい行為であった。

暴食にかまける。
賭博に興じる。
酒と共に夜を明かす。
女を抱く。
財産を肥やす。
眠り果てる。

その時に求めた事をそのままに、青二才はただこの世を謳歌していた。
しかし、その行為への喜びは、重ねる毎に摩耗していき、ついには何も感じられないようになった。

そうなると、彼はまだ見ぬ感覚を求め、かつて何の興味も抱いてなかった分野にすら手を伸ばす。
善行も悪行も芸術も音楽も景観も運動も創作も稼業も学問も哲学も、矢継ぎ早に彼を満たしては、十年もすれば飽きを抱いた。

何も自分を永遠に満たしてはくれない。
自分は永遠の存在であるというのに。

レイヴンが感じ得る愉悦がこの世から無くなっていくと、彼の不死への優越は次第に憂慮へと変貌していった。

そうなると、彼は新しい「何か」を求めるようになった。
だがいつだろうか。長命の彼に提供されるものは、どれも過去の類似品だと気づいてしまった。

歴史は繰り返される。
人間はたかが数十年の命であり、そして人間はそれほど逸脱しない。
今目の前にいる若者が流行りのチェスに興じる光景に、数十年前の既視感を覚えるようになっていた。

退屈が精神を蝕む中、彼は、死を考える。

どことも知れない森の中。
初めて自ら首に縄を巻いた時は、全身が怯えていた。
それでもなお、生き続けるという拷問から逃れる為に地を離れた時、息のできない苦しみと強烈な後悔が彼を襲った。

嫌だ。
死ねないのは嫌だ。
しかし、こんなにも苦しいのは、嫌だ。
誰か、助けてくれ。

喉は子鴉の鳴き声しか出さない。
全身は生命の危機を訴え、彼の不本意な生存本能に鞭を打った。

吊られた男はばたばたと足掻くと、狩りをしていた老人により、縄を切られて救われた。
不死者(イモータル)の自分よりずっと年下の老人に、まだ若いのに、人生は短いのだからと、無自覚な皮肉を叱咤された。
つまり、初めての試みは失敗に終わった。

自殺に懲りたレイヴンは、またこの世界にある残り少ない楽しみを、一つ一つ消費していった。
それでもやはり、死ななければと考えては、不死の身故に失敗し、その度に道楽へと逃げ帰っていった。

しかし、何度目かの事だった。

この世の全てに絶望を抱いていたレイヴンは、川の中へと沈んだ。
そして、数多く顔を合わせた苦痛に対し、真正面から考えた。

痛みとは何か?
それは、嫌悪するものか?

生物が生存本能を抱く以上、死の暗喩である痛みは忌避するものである。
それが常人の共通見解であり、まだ正常であったレイヴンの考えだった。

そして死ぬならば、痛いのは当然である。
死を求めていながら、何故痛みは求めない?
――嫌だからに決まっている。

苦痛が彼を責める中、やがて彼は狂い始めた。

果たして、苦痛という感覚は、求めるに値しないものなのだろうか?

ひたすら体を責める苦痛が、彼の既存の考えを次第に洗い流し奪い去っていく。

苦痛。それを受けた時、常人は逃れようとしか思えない。
しかし、何度も死ぬような苦痛を経験したレイヴンは、初めて逃れようとしなかった。

40億年前から生命が抱いていた偏見を捨てて、彼は苦痛を純粋な感覚で受け止める。

苦痛。
昔から存在していたはずのその感覚は、しかし今の彼にとっては新鮮な感覚だった。

旨い物も香る花も艶な絵も弾く琴も純な女も、かつての彼は夥しく摂取していた。

だが、痛みを自ら求めた事はなかった。
この感覚に、レイヴンは初めて気づいた。

苦痛――。

この痛みを、真っ白な心象に写した時、彼の世界観はぐるりと一変した。

痛みが、怖くなくなった。
こんなにも痛いというのに、自分は死なない。生きている。

いや、むしろ、自分の体が痛む毎に、その訴える脈動が、痙攣し蠢く肉体が、自分が生きているという事を鮮明に浮き彫りにした。

痛みが全身を何度も駆ける内、彼の頭で感覚がはじけた。

これは何だ?
これは今までにない感覚だ。言葉にできない。
いや、言葉にするのもおこがましいかもしれない。
全身を貫くような、この感覚は何だ?
苦痛だ。いや、それもそうだ。しかし、この感覚を、もし、語彙で表すとしたら、それは――、



気持ち良い。



それに感づいた瞬間、彼は水を掻いて川から上がると、肺から水を吐き戻し、一心不乱に苦痛を取り除いた。

違う。俺は違う。俺は変態(マゾヒスト)じゃない!

まだ常識を備えていたレイヴンは、己が確かに感じたその感覚を、ただ必死に否定した。
狂っていないという矜持を保つ為、彼はそれから自殺を絶とうとした。

それからしばらくは、正常を振る舞い、日常を耐え抜いた。

だが、不意に落としたナイフが腿を撫でた時、不覚から脚がもつれ腕を掠った時、破落戸(ごろつき)に絡まれ胸を刺された時、
その度にレイヴンを襲う苦痛は、快楽と共に彼を貫いた。

自分は違うと何度も抵抗し、劣等感を抱き、逃避し、それでも無縁になれない苦痛が彼を追い回した。

やがて、この世の全ての享楽を舐めたレイヴンは、
何の快楽ももたらさない矜持に気づき、それを奈落に投げ捨てて、
ある朝に首を吊り、ようやく己の変態性(マゾヒズム)を認める事になったのだ。



そして、五感も世界も道楽も矜持も全てを捨てて、痛みに縋った結果が、
痛みを無くし、自分自身の在り方を喪失した今へと繋がる。

過去への遡りを止め、意識を今へ移してみる。
考えている間に、かなりの距離を歩いたようだ。

人がまばらに歩く街道へ、足を踏み入れていた。

茫然自失として、頭の針で風を切り、生気を感じられないレイヴンを見て、道行く人々は自然と彼を避けて歩いていく。
揶揄する声も、ぼやきの声も、疑惑の声も、彼の歩みを止める事はなかった。

一人行軍はしばらくすると、ようやく呼び止める声によって、その歩みを止めた。

「――薬漬けの街(ドラッグド・タウン)の――!」

記憶に薄っすらと刻まれていた、その声色と単語に振り向いた。
紙袋を被った白衣の長身が、レイヴンを指さしていた。

体が反射的に臨戦態勢を取る。
しかし内心では、何の殺意も浮かばなかった。

自分の手刀は白衣を狙っているが、相手は武器を構えなかった。

白衣はレイヴンの胸中を察したように、敵意のない口振りで彼に話しかける。

「……ああ、貴方も患者(クランケ)なのですね」

白衣は、空間を歪ませて扉を開いた。
そこへレイヴンの手を強引に引いた。

レイヴンは何の抵抗もなく扉をくぐり、診察室のような部屋で椅子に腰かけられ、白衣が対面して座る。

「貴方とは会った事がある。しかし、こう名乗る事は初めてでしょう。
私はファウスト。お察しの通り、医者です」

何の反応も示さないレイヴンを見て、ふむ、と呼吸を詰まらせる。
ファウストはカルテと羽ペンを取り、紙に容態を滑らせる。

「貴方の名前は?」

羽ペンと紙の接触の音だけが響いた。

「以前、ある方から聞きましたが……レイヴンさん、でよろしいでしょうかね?」

まるで、人形を相手にしているようだった。

「以前の事については、今回は流しておきましょう」

何も反応を示さない。

問診不能と判断し、ファウストはカルテを置くとレイヴンに寄った。

彼の手を取る。
体温こそ死体のように冷たいものの、その奥底にある脈は確かにある。

別に、精巧に造られた木偶という訳ではない。
しかし、この生気のなさは異常だ。
そこいらの玩具の方が、まだ情緒がある。

生きているだけの空洞を前に、ファウストは深く考えこんだ。

身体的には、頭部の針こそあれ健常である。
初見の通り、これは心因性のものであろう。

「体の病気であれば、口が利けずとも解明の方法はいくらでもあるんですがね……」

いかんせん、心を病んだ場合であれば、その原因は中々に探れない。
ましてや、相手は口を開く気力すらない。
これは非常に骨が折れる。

ファウストはやむを得ず注射器を取り出すと、レイヴンの手首に針を刺した。

「向精神薬です。……良い針を切らしてまして、痛いと思いますが、それでは失礼」

太い針がレイヴンの手首の皮膚にあてがわれ、ゆっくりと力をこめて、針は皮膚を突き破った。
大人であっても、顔をしかめる程度の痛みであるはずだ。
だが、痛みを感じないレイヴンは、何の身じろぎもせず、ただそこにいた。

それに、ファウストが気づいた。

「――痛く、ないのですか?」

この痛みに対する反射運動も、我慢から生じる筋肉の緊張すらない。

ファウストの光る眼は彼の現状を的確に捉え、彼の脳裏に病名が浮かぶ。


無痛症。


治療例のないその病名に、ファウストは紙袋の下で歯を噛んだ。

だが不幸な事に、レイヴンが内に抱える狂気とその経緯を、ファウストは把握していない。
その病気こそが現在のレイヴンを形成している原因である事を知れず、現状解決後の課題として胸に留めた。

注射を終え、ファウストは脱脂綿を当てながら針を抜いた。
それからレイヴンを立たせ、院内の個室に案内する。

彼をベッドに寝かせ、部屋の灯りを消した後、ファウストは空間の扉を生み出した。

「すみませんが、そろそろ他の方の訪問診療の時間です。
その様子では、しばらくは無気力状態が続くでしょうが……また改めてお会いできれば、お話しできればと思います。
それでは、失敬」

ファウストが扉の奥へ消えると、扉は元の虚空へと還った。

残ったのは、残骸の如きレイヴンである。

何も痛まない手首をだらりと垂らし、彼の意識はやはり内へと潜っていく。

向精神薬を打たれた。しかし、彼の精神はちっとも快方には向かわない。
それどころか、彼はこの部屋の暗闇の中、より深い深層の暗闇へと沈んでいった。



病院の個室。
この感覚の暗闇の中。

彼は、旧時代の遺物(ブラック・テック)が蔓延っていたかつての世界を思い出していた。
それは「あの御方」が、二人の友人と共に観たという映画を譲られた時の話である。

曰く、「とても暗い映画で、アリアは終盤で見るに耐えず退席したくらいだ」と。

確かに、それは暗かった。
そして、それは今日のレイヴンの胸に残っていた。

それは病院を舞台とした話だった。
だから、思い出した。

……かつて人間だった男の話。
戦いの中で、伝達の手段であった手足と口が吹き飛ばされ、感覚がもがれた男の話。
男はそれでも生きていた。周囲の人間の都合によって生かされ、死んだように生きて、そして最後に死を求めた。
「助けてくれ」と、周囲に誰一人としていない中でも、男は救いを――死を求め続けた。


そして、今。
レイヴンの精神は、遥か昔のその男の体に押しこまれた。


彼はついに頭を抱え、目蓋が裂けるほどに目を見開き、頬をかきむしり、顎関節を外して口を大きく開くと、発狂した声を叫び上げた。
聞いた人間の正気にすら揺さぶりをかける、破滅的な絶叫。

それは狂乱の意識から漏出した莫大な法力と手を組み、全てを虚無へと還す法術の引き金となった。
空間が丸ごと削除され、その歪みから鳴る轟音は、正気を無くした彼の耳には最早届かないものであった。


虚無へ還る体と共に意識が喪失してから数時間。
レイヴンが億劫に目を醒ますと、頭部に新鮮な感覚を覚えた。

痛み。
頭が貫かれたかのようで、実際にそうである痛み。

これまで当たり前のように存在して、しかし先程までは得られなかった、何にも替え難い貴い感覚。
ほんの数時間ぶりの感覚に、レイヴンは歓喜してそれを迎え入れた。

しかし、と。
底抜けに喜色を示す感情の奥底で、くすぶるものは確かにあった。

これは一過性のものだろうか。
それとも、いずれはこうなるのだという、宣告が如き前兆だろうか。

しかし、と。
精神を潰しそうなその不安を、彼は痛覚で塗り潰す。
必死に己を傷つけて、今はただ快楽に溺れる事に頭を満たす。

「狂っている」と、言われるだろう。
そして、それは正しいだろう。
そうでもしなければ、彼はいけないのだから。
  1. Innocence and Immortal
  2. 外套と短剣
  3. 墓場より、ゆりかごへ
  4. 生きている芋虫